お詫びとお断り

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2007年5月17日木曜日

妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡にある「作品」に関するマーラーの言葉

妻のアルマ宛1909年6月27日の書簡にある「作品」に関するマーラーの言葉(アルマの「回想と手紙」原書1971年版p.356, 白水社版酒田健一訳p.398)
... was wir hinterlassen, was es auch sei, ist nur Haut, Schale etc. Die Meistersinger, die Neunte, der Faust, alles sind nur abgstreifte Hüllen! Nicht mehr als was im Grunde genommen unsere Leiber! Nun freilich sage ich nicht, daß das Schaffen überflüssig sei. Es ist dem Menschen nötig zum Wachsen und zur Freude, die auch ein Symptom der Gesundheit und Schaffenskraft ist. ...

…われわれが後世に残すものは、それがなんであれ、外皮、形骸にすぎない。『マイスタージンガー』、『第九交響曲』、『ファウスト』、これらはすべて脱ぎ捨てられた殻なのだ!根本的にはわれわれの肉体以上のものではない!もちろんそうした芸術的創造が不用な行為だというわけではない。それは人間に成長と歓喜をもたらすために欠かすことのできないものだ。とくにこの歓喜こそは、健康と創造力の証(あかし)なのだ。…

 この言葉のみをこの手紙から抜き出すのは危険なことかも知れない。手紙というのは、極めて局所的で限定的な、だがその限りでは大変に明確な 目的を持って書かれることがあって(いや、正確には、「普通は」そういうものか、、、)、従って、こういう言葉を取り出してきて、そうした手紙の意図を 抜きにして云々することは、原理的に言って、全く見当違いの結論にすら結びつきかねない。

だが、かつてこの本を繰り返し繰り返し読んでいた頃の私にとって、この言葉は衝撃的な力を持つものであった。そして、実際にはその力は今の 私にとってもやはり大きなものであり続けている。歳をとって、多少は受け止め方も変わってきてはいるけれど。

それにしても、この言葉は、本気で―つまり「方便」としてでなく―言われているのだろうか? 

実は、この手紙の前の方で、こうした「作品」についての考え方をアルマはすでに良く知っていると 思う、というくだりがあって、だとしたら、やはりこれは、少なくともその当時のマーラーの考え方だったのだ、とするのが適当なのかも知れない。 別に私のような、自分では何も生み出せない人間が言うのであれば、別にどうということもない―負け惜しみくらいに取られるのが落ちだろう―が、 言っているのがマーラーであれば、話は別ではないだろうか。あるいは寧ろ、天才であればこそ、こうしたことが言えるのだろうか。

もう一つの可能性がある。つまりマーラーは第2交響曲や第8交響曲を支えている「不滅性」についての考え方を、比喩としてではなく、「文字通り」 信じている、という可能性が。それならば、それに比べれば「作品」が取るに足らないというのも、きっと筋が通っているのであろう。 だが、現実にはこの時期のマーラーは、大地の歌から第9交響曲へと歩みを進めていた筈なのである。

あるいはまた、ここで言っている「作品」は、それを出発点として、作者の「精神」へと辿ることができる媒体といったほどの意味合いで使われている のかも知れない。作品を産み出す精神の働きの方が尊いのだ、というのであれば、これは納得がいく。だが、よく読むとそれは少し都合の良すぎる 読み方ではなかろうか。マーラーは「われわれの肉体」と「作品」とを対比しているのだ。するとやはり、最初に書いた通り、結局この手紙が書かれた ごくローカルな「意図」に立ち返るべきなのか、、、

いずれにしても、この言葉は私にとって「躓きの石」であり、今後も、この言葉を巡ってあれこれ考え続けることになりそうである。(2007.5.17)

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