その点で留意するに値するのは、世阿弥が『風姿花伝』において能役者の生涯における三回の「初心」について述べる中で「老年の初心」について述べていることだろう。そもそも能楽には「老体」の能と称される演目があり、「老女物」の能を演じるのは能役者にとっての生涯の目標であり、かつては奥伝として特に許された者以外は生涯演ずることが叶わなかった程である。そしてそうした最終目標の演目において能役者が演じるのは、小野小町の老残の姿と心持ちを扱った作品(『卒塔婆小町』を始めとする所謂「小町物」)であったり、棄老伝説を踏まえた、今日的には残酷ともとれる状況を扱った作品(『伯母捨』)なのであって、役者として「老年の初心」を経て初めて到達できる境地と、そうした「老い」を主題とした演目との間に深い関りが存在することは、そうした作品の最高の上演に幾度か接すれば自ずと得心されるものであろう。
私はこのことを単なる一般論として述べているのではなく、香川靖嗣師が演じた『伯母捨』(2013年4月6日)、『檜垣』(2019年9月14日)の老女物二曲に加え、老人の物狂いの能である『木賊』(2015年4月4日)、或いは老体の修羅能『実盛』(2010年4月3日)、更には「卑賎物」と呼ばれる罪業により地獄に落ちた老人の苦患を扱った「阿漕」(2000年6月10日)、「綾鼓」(2008年11月23日)、そして、それらとは全く異質であり、能にして能にあらずと言われるように、実際には「舞台芸術」ではなく「祭祀」そのものである『翁』(2003年1月5日)といった圧倒的な名演の数々を幸運にも拝見できたという具体的な経験に基づいて記していることを特に強調しておきたい。そうした観能の経験もまた、私がそうとは気づかずに断続的に行ってきた「老い」についての思考の枢要な導き手であったことを今、改めて認識し、そうした上演に立ち会うことができた僥倖に感謝せずにはいられない。ここでは「死」とは異なる「老い」の固有性が、そのマイナス面も含めて決して否定的に扱われることなく、だがそこから目を背けることもなく、真っ向から取り上げられているのである。
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であるとするならば、要するに求められているのは、藤原辰史先生が『分解の哲学』において遂行したように「分解」「腐敗」を正面から取り上げること、そしてその顰に倣いつつ、だが、こと「老い」を扱うのであれば、『分解の哲学』が謂わば「死の向こう側」における「分解」に目を背けることなく取り上げたのに呼応して、「死の手間」における「分解」を取り上げることなのだと考える。
『分解の哲学』第5章でも指摘されていることだが、分解者という捉え方は、そういう捉え方をすることで色々なものが見えてくる点で極めて生産的ではあるが、厳密に定義しようとすると、どこかで輪郭がぼやけてしまって、必ずしも安定的な概念ではない。それでも敢えて私なりの立ち位置から定位しようとすると、第一義的にはそれは(ジャンケレヴィッチではないですが)「死の向こう側」ということになるように思う。「死」自体も、近年、研究と医療とかの現場の問題の両方の水準で、その定義が問題になっているように決して自明なものではないのだろうが、その点は一先ず措いて、それでも「死」は誰にとっても明らかな障壁であり、それがゆえにその向こう側、「死」の後で起きることについてはなかなか思いが及ばないところを「分解」の視点は探り当てているのだと思う。
同じく第5章には生態学に経済学的な概念が密輸されているという指摘があり、これは首肯できる。私が結局生態学ではなく哲学に向かった理由とも関わるのだが、「生産」と「消費」という切り口では見えないものに拘りたくて、「分解」という視点がそれを開示していることを心強く感じる一方で、分解が生態系のシステムの中で新たな「生産」に繋がっていく循環の重要な側面であるという捉え方は(そこにある違いを無視すべきではないとはいえ)、ヨハネ伝の「一粒の麦」がそうであるような、「死」が新たな「生」に繋がるという考え方、或いは個体の死は種としての存続のいわば「応酬」であるという捉え方と同じく、それ自体は全く妥当でありながら、結局のところ、そこで「きえさる」もの、「死の手前」にあった「個」を別の水準に回収するということに通じているように感じるのである。
勿論それは目を背けたくなったとてなくなるわけではない厳然たる事実であり、だからこそ「メメント・モリ」であり、『分解の哲学』でも「九相図」への言及が為されているのだろう。その一方で「分解」は「生」のプロセスの最中にも埋め込まれているという捉え方も可能で、例えば『分解の哲学』でも参照されている昆虫の変態はそのモデルの一つ(まさにスクラップ・アンド・ビルド)なのだと思うが、他方でこれは(そこの記述がそうなっているように)「死」もまた「生」の中に埋まっていう見方に通じ、プロセス時間論などでの「自己超越=死」と「生成」がリズムを刻むという不連続的・エポック的な時間把握にも通じるように思うし、生物学的な水準では、個々の細胞は死んで新しいものに置き換わることで個体レベルの生が成り立っているという見方(岩崎秀雄先生の指摘される、種/個体のレベルでの生/死の対立の一つ下の階層で、個体/細胞のレベルで生/死が対立しているという、生と死を巡っての階層的・再帰的な構造を思い浮かべるべきだろう)に通じると思う。
そうしたことを考えながら、ふと感じたことは、「分解」を「生」の最中ではなく、文字通り「死の手前」に置いてみることができないのか、ということであった。これは物凄く卑近なレベルに単純化してしまえば「老い」「老化」を「分解の哲学」の中で扱うことができないだろうかということである。
『分解の哲学』でも取り上げられているチャペックは若くして逝去したからか、「老い」を扱っていないように思われる。例えば『マクロプーロスの処方箋』では、現在なら特異点論者のトピックである「不死」を扱っているが、そこでは「永遠の生」への懐疑はあっても「老い」は正面から扱われていないように感じる。寧ろ「不死」は「不老」でもあって、これは特異点論者の論点でもあるし、それが依拠している今日の「不死化」の研究のアプローチでもあって「老いを防ぐこと=死なないこと」となっているように見える。他方、上述の「個」というものにフォーカスするならば、「死」の手前には、事実上「生」の一部として、「自伝的自己」の崩壊・分解としての認知症があり、これは喫緊の社会問題でもあり、個人にとっても多くの場合、他人事ではなく最初は二人称的・三人称的に、最後には、もしかしたら一人称的にも直面せざるを得ない身近な問題でもあろう。それ故に「老い」には直結しない「分解」として、外傷的な損傷や精神疾患もあるが、それらよりも「死の手前」に存在する「分解」として「老い」を取り上げる方が一層興味深く思われるのであろうか。
(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿)
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