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2025年9月21日日曜日

備忘:時間性 (2025.9.21 更新)

マーラーの音楽は、何も未聞の宗教的経験の音楽化などではない。確かに音楽の持つ時間の構造は独特だが、 それはマーラーの場合について言えば、寧ろ現象学的な時間に近い。ただし日常生きられる時間性という意味合いで。 (例えば死の受容といったイベントも、ここではあえて「日常」の側に含める。それだけを特権化する理由がないので。)
音楽の研究者が「日常の時間」というとき、あまりに物象化されすぎた時間表象にとらわれすぎている。 ―これは現象学が見出した領域をまるまる無視してしまっている。日常の時間「表象」と日常生きられる時間性との 区別は必要で、後者は自明でない。少なくともSein und Zeitが持つインパクトはそれを明らかにしたことに あるのだから。例えば椎名の分析もそうだ。還元を持ち出す必要などない。音楽的経験の時間は日常的なそれと 異なるには違いない。だが、まずはそれは経験の素材の特殊性によるので、それ以外については―Greeneの transfigured同様―慎重であるべきだ。
勿論音楽が非日常的な経験への通路たりうることを否定するのではないが、それがどう可能かを説明するのに― こちらでは真木悠介、木村敏、九鬼そして道元だ―様々な説をその相互関係に留意せずに並べることが実質的に 貢献するとは思えない。
Greeneにせよ、椎名にせよ、「日常性」という言葉を自分の立場のオリジナリティを強調するために 利用しているのでは、という疑いを否定することは困難だ。
日常という言葉で一体どういう時間性を含意しているのか、例えばHeideggerが分析した豊かな領域は 一体どういった扱いを受けるのか、日常性の豊かさこそが音楽的経験を可能にする前提のはずなのに、ただちに 特異な、特殊な経験を持ち出し、それを可能にすることがあたかも「価値」であるかの様な主張はどこか転倒している。 もっとも、こうした「日常的時間」の用法は、それなりに一般的ではある。 そして計測可能な、量化された時間というのがある事自体は否定しがたい。 ポイントは、それらがいわゆる本当の意味での日常的な時間意識とはまた異なった、それなりにelaborateされた 表象であることだ。
だから、日常性を批判するなら相手が違うし、そうした表象の批判は日常性の批判にならない。 もう一つは時間性に「限定」してしまうことで、体験の質を逃してしまう危険。これは「時間性」を扱うといったときに 用意される道具立ての貧しさに由来する。例えばGreeneの分析を見よ。
一方で椎名の方は、―彼が顕揚したい実験音楽の時間性についてはおくとして―これほど複雑な構造を持っている ロマン主義の音楽、例えばマーラーの音楽の複雑さを目的論的という言葉で片付けてしまうのは、些か不当に 感じられる。意地悪な見方をすれば、実験音楽の時間性の方が、(時として、それ自体が作者の問題意識でもあるゆえ) より単純で分析しやすい、それについて語ることが容易であるに過ぎないのでは、という疑いを払いのけるのは難しい。 実際のところどうなのかはわからない。なぜなら椎名の議論は両者を具体的に分析してみせた結論ではないから。 Greeneの分析の結果の貧しさは、マーラーの音楽の時間性の貧しさではない。それは分析の手段の貧しさに過ぎない。 椎名の近代音楽の時間性についての議論がそうでないといいのだが、私はあまり納得できていない。 音楽記号学が(少なくとも、私が関心を持っているタイプの音楽に限って言えば)どうやら不毛らしいことについては あまり異論はないのだが、では音楽的時間論の方はどうなのかといえば、こちらもまた、私が関心を持っているタイプの音楽 についてどうなのだろうか。些か腑に落ちないものがある。
あるいは、近代音楽の時間性を日常的時間と切り離された閉じたものとして捉え、一方でその裏返しとして日常的時間の 貧困と無意味を指摘し、それらの両方に対峙するものとして実験音楽的な時間性を置くという図式は、今ここで マーラーという近代音楽の典型のことを思い浮かべている私には、全く現実離れしたものに感じられる。 実験音楽が切り開く時間性が、日常の豊かさを回復させるとは、日常生活の如何なる瞬間においてなのか? 一方で、マーラーの音楽の時間性が、ある時には「世の成り行き」の時間性であるとしたら、それは控えめに言っても、 「日常的時間と切り離された閉じたもの」ではない。寧ろ、日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされる実験音楽の 方が日常的な時間性に対して閉じていると言えないのはどうしてなのか、、、
否、ひとがみなCageのように生きることができるのであれば、話は違うだろう。だが、一瞬だけ実験音楽を聴いて、 その場限り体験できる日常の豊かさとは何なのか?所詮は、コンサートホールで演奏され、CDに収められて 流通している点で何ら変わるところはないというのに。著者はCageのような生き方を実践されているかも知れないが、 残念ながら、日常的時間の貧困と無意味から逃れられない私には実験音楽のありがたみはわかることはなさそうだ。 まあ、今頃マーラーみたいな音楽を聴いている人間のことなど、どうでもいいのかも知れないが、だったら、 「実験音楽における」という制限をつけて欲しい気もする。そうすればはじめから期待せずに済むわけなのだから。
日常性を本当に問題にして、それに対する音楽の機能を考えるなら、作品の内部構造のみを問題にするのは 不十分だろう。演奏の次元は、作品に最もよりかかった部分であり、それよりはせめて創作の次元や受容の次元の 議論をしなければ片手落ちだと思うし、音楽を聴いている瞬間だけを問題にするのは、この議論の枠組みを 考えれば不十分なはずだ。(風呂敷を広げたのは論者の方であって、読み手の私ではないので、読み手の 私はすっかり戸惑うことになる。)否、そもそも、こうした話をしだしたら、最後までそれは音楽の時間論で あり続けることができるだろうか。

*

音楽的時間論というのは一見したところ魅力的な領域に見えるが、そこでの議論のいい加減さにはうんざりする。 フッサールを、ベルクソンを持ち出して、音楽の時間はそれとは違います、というのが一体何の説明になっているのか? 音楽的時間論を具体的な音楽に適用して成功した例というのがあるのだろうか?(Greeneのような、その実何の時間論 にもなっていないような空疎なものは除外する。)いい加減な2項対立をでっち上げて、一方を非本来的だ、と批判して、 果ては、色々な哲学者の時間についての議論の摘み食い、というのがお定まりのコースのようだ。
これでは時間を直接扱わない心理学的な議論の方がまだしもだ。恐らくそうなのだろう。時間そのものを扱うのが 恐ろしく難しいのは、専門的な哲学的な訓練を受けた人間なら、身に沁みてわかっていることだろう。 結局、具体的な何かを手がかりにせずに時間を論じることはできない。にも関わらず、音楽学者というのは、自分だけは 特権的にそれができると思っているらしい。だったら、哲学者の分析を摘み食いせずに、自前でやればいいのに。 個別の音楽という具体的な検証対象を持っているのに、そのくせ具体的な分析はやらない。(いわゆる楽曲分析ではなく、 時間論的な音楽の個別分析というのが問題なのだ。もし普通の楽曲分析で済むなら、わざわざ哲学者を連れ出す 必要も、ことさら音楽の時間論をぶつ必要もないだろう。―Greeneの場合がまさにそうなってしまっているように見受けられるが) だからたいていの場合には気の利いた比喩程度にしかなっていない。
そもそも哲学的な時間論は、私が多少はそれに関わった経験からすれば、具体的な適用において検証されない限り、 信用してはならない、とさえ考えるべきだと思われる。それを思えば、哲学的な時間論を、その時間論が論じられた 本来の狙いや意図もお構いなしに音楽という対象に引き込んで、しかも自分でも哲学者に劣らないほど抽象的なレベルでの 時間論を展開してしまう音楽学者の態度には全くもって感心してしまう。
(一部の哲学者がその思想との連関が全く明らかでない数学(もどき)を濫用した廉で、「知の欺瞞」という著作で 批難されたことは記憶に新しいが、音楽学者が時間論を展開する上で哲学に対してとっている態度の方は、批難されることは無いようだ。 連関は全く明らかではないし、哲学もどきである可能性だってあるような気がするのだが、、、まあ外部から見れば、 どちらも怪しげな学問(もどき)に過ぎず、とりわけ哲学者は自業自得だということにされてしまうのだろうが、とりわけ いわば「踏み台」にされた一部の個別の哲学者にとってみれば、気の毒な話ではある。)
しかも、音楽的時間論においては作品の価値というのがどのように考えられているのかもわからない。時間論的に興味深い 構造を持つ音楽が「優れた」音楽なのか(だとしたらこれは美学と共犯関係にある)、あるいは無関係なのか(こちらは心理学に 接近するだろうか)、あるタイプの音楽を取り出すとき、その音楽の価値と、そこで議論されている時間性との関係は 全く明らかではないはずだ(少なくともベルクソンやフッサールにおいては、それは音楽の価値とは無関係だったはずだし、 そもそも彼らは「音楽的」時間を解明するために音楽の時間的な分析をしたわけではないだろう)。 だが、私にとって自明でないこうした溝は音楽学者にとっては自明のことらしい。あるいは断りも無く、いつの間にか、 ある時間性を体現している音楽が顕揚されてみたりして、読み手はあっけにとられることになるのである。
勿論、こうしたことはすべて、具体的な楽曲についての時間論的分析(とやら)を提示してもらえば済むのである。 実験音楽でもロマン主義の音楽でも何でもいいが、それらにおける凡庸な作品と優れた作品の違いは何か。それが 時間論的な議論とどう関係する(あるいは無関係なの)か。そうしてみれば貴重な筈のGreeneの分析は、しかし、 この観点からはほとんど何も得るものがない。結局のところ、それは分析ではなく、自分の貧困な(自称)時間論的図式の マーラーの音楽への押し付けに過ぎないから。具体的な分析と、時間論的な議論は結局噛み合っていないようにしか見えない。

*

にも関わらず、具体的な場面についていえば音楽は時間論的な装置の適用可能性を試すための格好の材料になっているのは 確かなことのように思われる。(向きが逆になっていることに注意。寧ろ哲学的な概念装置の方が検証される仮説なのだ。)

例えばマーラーの作品における「決定的な瞬間」について考えてみること。
恐らくアドルノの聴取の類型論からすれば、こうした瞬間に拘泥する聴き方は軽蔑の対象になるのだろう。 だけれども、そうした瞬間があることは、アドルノですら否定できなかったに違いない。 勿論その瞬間の「質」を決定するのは、全体の脈絡であり、作品の構造的な全体の形態なのだ。 そもそもアドルノその人の「突破」もまた、そうした特異点を言い当てようとする類概念に違いない。 あるいはまた、第8交響曲の児童合唱の「ぞっとする」瞬間(練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)の入り)…

例えば第4交響曲第3楽章のあの中間部分。
第9交響曲第4楽章の弦による歌のフレーズの閉じる部分(その後はいわゆる「充足」にあたる後楽節だ。)
第3交響曲第6楽章の最後の変奏の回帰部分(コルネットで主題を弱音で吹かせる部分。)
「決定的な瞬間」を決定的たらしめている要因は何なのかを考えることは意味のないことではないだろう。
あるいは「時間の逆流」(ここではホワイトヘッドのエポック時間論のある解釈で見られるそれのこと。)
時間の逆流が見られるのはマーラーの際立った特徴である。他にはちょっと思いつかない。
第2交響曲第5楽章、第3交響曲第6楽章、大地の歌第6楽章、第9交響曲第1,4楽章、否、第8交響曲第2部すらそうした「恐るべき」瞬間を持つゆえにかけがえがない。

「構築する」「編む」というメタファー。
音楽的時間の流れ、経過は、その目的論的性格(とその否定)は、少なくとも、メタファーとして機能しうる。
第9交響曲第4楽章における死、解体、停止。
アドルノ的なDurchbruch / Suspension / Eefuellungは時間論的であると同時にほとんど心理学的な図式だ。
「心理的」音楽外事象とのアナロジー。

(2007以前のメモ, 2025.9.21 更新)

2019年12月7日土曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺

 以下は、既に公開済の文章「マーラー作品のありうべきデータ分析について:発展的調性を力学系として扱うことに向けて」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_10.html )の中で「素朴な疑問」として提示した問いを出発点に、若干の補足を行ったものです。なお、以下の「疑問」に対する指摘は私が創作した架空のものではなく、実際にある専門家から頂いた指摘です。ご指摘に感謝するとともに、その事実を付記させて頂くことにします。

 まず、そこで掲げた問いを再掲します。

 シェンカーのI→V→Iという原則は、上記の文章で提示した五度圏でのピッチの並びに基いた和音のビット列での表現およびその上での力学系においても確かにコスト的に小さく、経済的であるように見えます。
 ただ素朴な疑問として、以下の疑問がすぐに浮かびます。
(1)V→IというのはVが不安定でIが安定だという前提をおけば自然だが、ではVが不安定なのは何によるのか?ビット列としては同じバターンで右に1ビットシフトするのだが、そのことがアトラクタとなるのはなぜか?
(2)左1ビットシフトIV→Iもアトラクタの資格を持っているが、これはI→Vとビット操作上は区別がつかない。何が区別を可能にしているのか?
(3)V→Iが何かの理由でアトラクタであることを認めたとする。このときI→Vがそもそもなぜ起こるのか?これは、音楽は何故始まるのか?なぜ音楽があるのか?という問題に
帰着するようにも思えます。

上記の問に対しては、以下のような指摘が考えられるでしょう。まず(1)(2)について。
A1.(1)(2)とも、やはり中心音、つまり起点とそこからの距離、方向を捨象しているために生じる問いであり、中心音を導入すれば、そもそも問題にならないのではないか?
A2.そのためには、調性の情報を与えればいいのではないか?そもそもがここで対象となっている音楽は、調性システム(のあるバージョン)を前提として組み立てられているのは事実であるから、分析上もその前提に立つべきではないか?
A3.五度圏の隣り合う7つの音の重心の中心からの方向(θ)を中心音と定義すれば、それはドリア旋法ということになる。ところで、旋法のシステムにおいて長調・短調に相当するのはイオニア旋法、エオリア旋法であるが、これは教会旋法のシステムには存在せず、歴史的には新しいものである。この点をどう考えるか?なぜそうなったのか、どのような力が働いたのかを考えるべきではないか?
この指摘について考えたことを以下に記します。

A1.まず中心音についてですが、中心音を否定したいわけではないのです。それはきっとあります。あるから、かほど壮大な楽理の体系が出来て、何百年も続いて、異文化の極東の島国でも教えられているのだと思います。でも鳴っている音を聴いたとき、事前に教えてもらうわけでもなく、中心音に印がついているわけではありません。それは聴くと「自然とわかる」ものなのではないしょうか?そしてここでは、聴く立場に立って考えたいのです。できたら中心音を外から持ち込むのではなく、鳴っている音の構造から自ずと決まってくるものとしたいのです。そうじゃないと、聴経験と一致しません。

 だから、鳴っている音から中心音がこのようにして決まってくるというルールをデータから取り出したい。その時に、ピッチクラス=ビットの並びだけに限定し、バスの音が何であるか、転回を無視して音名の集まりだけにしてしまうのは抽象のし過ぎかも知れないということは既に述べた通りで、ピッチクラス=音名の組み合わせパターン+最低音を
ひろって、きっと長三和音・短三和音の基本形はアトラクタなんだろうということで、まず、アトラクタがどこに現われるかを抽出することが考えられると思い、データ抽出を試みています。(「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」 https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi.html 参照。)

 中心音については、アトラクタとなる長三和音・短三和音の基本形のベースの音名がそれである、という定義は考えられます。ただ、その後ビット列が変化して、色々な和音が出て来るとき、中心音がどう変わるかも、データの側から取り出したいと思います。これも結果として転調の移行、確定のパターンが所謂「カデンツ」として取り出せるということで構いません。でも向きはこの向きでないとならない。そうしないと、規則で書かれた時にどうなるかは説明できても、規則通りにならない時に、系の状態がどうなっているのかが説明できなくなってしまうし、中心音の候補が2つあって、どっちつかずの状態みたいなことも言えなくなるのではないでしょうか?

 そもそも中心音というのは、具体的にはどのように計算されるものでしょうか?それは、ビット列で表現される同時に鳴っている音名の集合(ピッチクラス)の「重心」(まさにこれまでやってきた重心計算の結果)ではない筈です。もしそうなら、ビット列とは別に中心音が必要になることはないのではないでしょうか?いや、これはおかしいかも知れません。別に五度圏上の重心であっても良くて、重要なのは、何らかの定義に基づき計算された中心音が、「次への遷移の演算」の入力となるという点であるとしても構わないかも知れません。実際に、アルゴリズミック・コンポジションにおいて、そのような力学系が用いられており(ただし正確には、重心は「次への遷移の計算」そのものには持ちられておらず、もっと大域的な軌道の制禦にのみ用いられています。また、それは和音の遷移ではなく、ある区間の単旋律に出現する音の集合を対象としています。そして単旋律か、和声を備えているかという差が中心音という概念にどう影響するかについては、過去の西洋の音楽における歴史的な背景なども併せて理論的な意味合いを正確に突きとめる必要があるでしょうが)、もともとそれをマーラーの作品の分析に謂わば「逆輸入」するというのがきっかけでこの検討が始まったのでした。ただ、西洋近代音楽に限って言えば、中心音は五度圏上の重心ではない。正確を期するなら「最早~ではない」と言うべきなのかも知れません。ここで「西洋近代音楽」と言って西洋音楽としないのはそれ以前の長い歴史においては別のシステムが用いられていたからで、重心計算というのは、その別のシステムにおいては適切であっても、所謂「機能和声」に適用するのは不適切なところを、私が無思慮に適用してしまった結果、「捩じれ」のようなものに悩まされているということは多いにあり得ることだと思います。更に言えば、機能和声に先行する時代の長さに比べれば機能和声の時代など、ごく最近のことなのかも知れませんし、「ありえたかも知れない音楽」の枠組みとして五度圏上の重心を中心音とするシステムを「仮構する」というのは、そうしたことを考えれば深い合理性を持っているようにも感じます。(因みにこうした歴史的なパースベクティブの感覚は、「ヒトが意識を持つようになったのは…」というのと何となくスケールの感覚が似ている気もします。音楽の背後にあるシステムが意識の構造と対応している、というのはあまりに突飛な仮説かも知れませんが…)

‪ いずれにせよ、西洋近代音楽も後期ロマン派のような「小説」がモデルとなるような作品を事例にとった時に、そこでの中心音の定義は、明らかとは言い難いのではないか?充分にありえることとして、西洋音楽の中でも、中心音の決め方自体変遷があり、かつまた作曲者の個人的な嗜好もあるというのは成り立つでしょうが、個別の作曲家に限っても
それは明らかになっているとは思えません。結局何を目的として分析するかが最後には問題になり、結局私がしようとしているのが、ある特定の音楽についての中心音の決まり方を探ることだとしたら、それこそ、それはデータからボトムアップに推定すべきなのではないでしょうか?

 とはいえ、それを最終的に機械に処理させるにしても、どのようなデータを与え、どのようなモデル上でやるかについて設計するために、或る程度の見当をつけるべく考えてみるならば、ビット列で表現される同時に鳴っている(音名ではなく、音高を捨象しない)音の集合を入力に計算されるものである筈です。但しある時点のビット列だけに入力を限定する必要はなく、一つ以上の複数の前の時点のビット列の状態の記憶の系列が入力となるのは自然な仮定だと思います。また、その計算規則は、物理法則のような普遍的妥当性を持つ必要はなく、物理法則に逆らわないある程度自然なものであり、尚且つそれを事前に知らなくても自然に習得可能なものと考えるべきと思えます。それは文化的によって異なりうる幅があって良く、かつまた「嗜好」を受け入れる幅を備え、加えてその嗜好の中で多様な作品を可能にするようなものの筈です。更には中心音は常に一意に決定されるものではなく、決まらないことがあってもいい。中心音についての空間における重心のようなものが、幾つかの候補からの距離によって決められるといったあり方で良いと思います。完全に等距離ならその時には中心音が存在しないとも言えますが、通常は距離で順序づけられた後補が複数あるが、場合によっては2つの候補がほぼ同じ確からしさを持っている場合も生じ得る、というのが自然な仮定のように思います。そうであることによって、発展的調性のような逸脱が可能になる。しかも発展的調性と呼ばれているものの内実は、必ずしも単一のプロセスであるとは思えません。私見では、それは様々なタイプの逸脱に仮にラベルづけをした便宜的なものに過ぎず、その内実は個々に異なる、それこそ「唯名論的」に異なるのではないかと思います。

 というわけで、入力として私が差し当たり採用したのは、ビット列で表現される同時に鳴っている音名の集合+どの音名が最も低い音かについての情報です。ただし遷移規則の方はまだわかりません。データ分析とAIが流行りの今時なら、つべこべ言わずに中心音の「正解」を与えることができれば、それを正解データとして機械学習によって中心音の定義を機能的に推定するのが普通かも知れませんが、今、私にとっては、中心音の定義(計算方法)自体が未知なので、この方法は取れない。まあ、色々な分析の共通見解とか自分の聴経験から正解を作ることも可能なのでしょうが、これはなかなか手間がかかります。とはいえ他に方法もないし、機械学習を適用しないまでも、データを眺めてそれらしい仮説を自分で作るのであれば、それを自分でやるか機械にやらせるかの違いしかなく、いずれ準備が出来れば機械学習を適用する可能性もあると思いますが…

A2.については、中心音に関する上記の議論に基本的には準じるのですが、それは措いても、ビット列の状態の系列からその系列の「調性」を判定する方法を考えられないかというのは、音楽情報処理的な問いとしてあるのだろうと思います。例えば、ある調の構成音の集合(7音)に基いて「調性」を推定するといったやり方が考えられるでしょう。楽理上の説明として一般に言われていることとして、転調が起きたことの確認は、その7ビットの外の音を使った時ということになっていることなどを判定の規則として用いるわけです。

 他方で、調性を前提としてしまえば、以下のような考え方もあるかと思います。ある時点で3つの音が鳴ったとします。その3つの音が含まれうる調性の候補の集合を持つ。ビット列が遷移するにつれて、その候補の集合も変わっていきます。そのうちに中心音が浮かび上がってくるのでは、という発想です。ただ候補の集合の要素はあまり絞り込めないことがすぐにわかる。五度圏だと両隣は常に候補に含まれます。逆に不協和であっても調性決定上は強い制限のある音程もあります。いずれにせよ、一つ前、二つ前、と記憶をたどって、最も確からしさの大きい調性を求めるというやり方が思いつきますが、これはうまくいくものでしょうか?

 一つ興味深く思われるのは、もしビット列の遷移上でそれが可能であれば、それはピッチクラスから更に対称性を除いたコードのパターンのレベルで解ける問題だということで、上で入力として別に求めたどれがバスかという情報は不要ということになる点です。まあつべこべ言っていないで、試してみるべきかも知れませんが。もう一つ言えば、このやり方は措定される調性の候補の集合というのを持たないとならない。長調・短調の2種類は仕方ないとして、教会旋法など、他のシステムが用いられている可能性はないのかとか考え出すと、やはり問題の立て方が逆立ちしているように感じられてしまいます。仮に作る側からすれば特定の調性システムありきであっても、聴く側にとっては、それは分析の最後に得られるものであって、調的には曖昧であっても中心音はこの辺にあるとか、この音とこの音が拮抗しているということが言えないものだろうかというように思ってしまいます。さしあたってマーラーを分析するのであれば、24の長調・短調の調性のそれぞれの間に距離が定義された空間を想定して、その空間の中で軌道を描くイメージでも構わないのかも知れませんが…

 なおもともとの(2)の疑問、IV→IとI→Vの違いそのものについて言えば、結果的には指摘の通り、その文脈での中心音の違いによる、というので全く構いませんが、上述の通り、こちらも同様に中心音を天下りに与えたくなく、和音の系列自体によって浮かび上がってくるものとしたいというのがここでの立場となります。その時に直ちに考えられるのは、過去の系列についての記憶を入力とすることですが、それだけではなく、五度圏上、ないしビット列上での操作としては軸対称となっている左シフトと右シフトが抽象する前の対象では異なっていること、それは結局のところ、どちらのピッチが相手に対して低い/高いという音高を捨象していることに由来するわけで、最低限バスがどのピッチかという情報を補うことによって過度の抽象による対称化を補正することが必要なのだろうと思います。そしてそのことは、振動比に基づくポテンシャルの大きさの系列を保存することにもつながります。
 
 一方で、音高ということで行けば、隣接音とか導音といった相対的な音高(=振動数の差)に依拠したメタファーに基づく水平方向の概念が楽理にはありますが、それらをどう考えるかというのが別の問題としてあるかと思います。シェンカーのウアザッツにおいても、上声の動きはウアリーニエとして重視され、それは第5音ないし第3音から主音に下降する図式が典型とされているわけですが、それと振動数の比に依拠した和声的な(つまり五度圏上でのピッチクラス間の)距離の概念とが、いわば共存しているように思われるのです。突飛な喩えになりますが、数論における加法と乗法の微妙な関係は様々な未解決問題、予想を産み出す源泉となっているようですが、ここでの振動数の差と振動数の比という2つの概念は、加法と乗法の関係のように強固なものではなく、寧ろ水と油のように異質に感じられつつも、機能和声においては緊密に結びついたものとして立ち現れます。また、一方は上昇/落下、他方は緊張/弛緩というようにいずれも物理的なポテンシャルに結び付いていることについては、別に考えてみる必要を感じます。

 最後に、この辺りの議論については、クラムハンスルによる和声認識についての認知心理学的な研究を思い浮かべる向きがあるかも知れません。しかしここでの立場から眺めると、それは西洋の伝統的な音楽を学習用データとして学習したネットワークに対して任意の和声を与えて、学習済みデータによって形成された重みに基づいて協和度を計算させているように見えます。クラムハンスルがプローブ音法によって求めた和音の「親近度」に基づく距離をベースにすることは、結局のところある文化的伝統に属する音楽の統計的な平均に対して、マーラーの作品の和声進行の持つ「逸脱」がどのように関わるのか、それで逸脱の度合いを測ることができるのか、或いは、どのように適用するかにも拠りますが、逆に逸脱の度合いを測ることにしかならず、固有の力学を取り出すことはできないのでは、といった点が気になります。もう一つには、それが必ずしも物理的な協和度の高さと一致しているわけではない点が挙げられるでしょう。つまりそれはある文化の「閉域」の内部でのみ有効であって、その外部に対しては有効でないとしたら、マーラーの音楽の周縁性というものがそれで捉えられるものなのかという疑念が湧いて来ます。
 
 物理的な協和度と聴感の乖離は、和声のみならず、音程の協和についても指摘されており(ヘルムホルツが倍音構成に基づき演繹した不協和度に対して、プロンプ、レヴェルトが実験結果に基づいて帰納した不協和度を比較検討したものが知られています)、これをどう考えるかはここでは扱いきれない問題ですが、上記の通り、それは音楽が単なる物理現象ではなく、社会的・文化的な構築物であるということを示しているとともに、音楽が何の為に存在するのかという点にも関わるように思えます。実際のところ、音楽が物理的な協和度に従うものであるならば、音楽は文化的・社会的な差異を持たない均質なものである筈ですが、現実には極めて多様なシステムに基づく音楽があるというだけはなく、その多様性は物理的な協和度という基準では到底測れないい複雑さを備えていることは明らかなことに思われます。

 他方で、ピッチクラスに相当するビット列上のパターンから更にシフト対称性(五度圏の回転対称性に相当)を取り除いていくという抽象化の方向については、ドミトリ・ティモチコの『音楽の幾何学』におけるオービフォルドを用いたマップ構成の試み、或いは「一般化された調性ネットワーク」の提唱について調べてみる必要があると考えています。その理論は極めて一般性の高いもののようですし、説明能力の高いもののようですから、既にそこで答えが示されている問題もあるのではないかという期待もあります。他方ではそれが抽象化への方向を持つ限りにおいて、理論的な知識のない聴き手にとってどう聴こえるかをシミュレートするというここでの目的とは相反する方向を持つようにも思います。

A3.について:これは西洋音楽の理論的な捉え直しのようなものですから、私のような音楽理論を専門に勉強したこともない人間の手には余る問題です。確かにダマスコの聖イオアンにアトリビュートされるビザンツのオクトエコスにはA,H,Cを終始音とする旋法はなかったようです。実作でどうだったかはともかく、イオニア旋法、エオリア旋法は一体どこから来たのか、それが後年機能和声の枠組みで特権的な旋法として選ばれ、発達したのはどういう理由なのかというのは興味深いテーマでしょうが、このことについての説明というのも寡聞にして知りません。どなたかご存知の方はいらっしゃれば、是非、教えて頂き炊く思います。

 一方で、dur-mollのビット列の並びや五度圏上での重心を確認した限りにおいて言えるのは、それが実は(マーラーもその中に含まれる伝統の中で産みだされた膨大な作品に基づく学習により形成された感覚とはずれていますが)それが相対的には不安定なものであり、緊張を孕んだものであるということでしょうか?いわばそれはポテンシャルの空間の中での最低点ではなく、相対的には安定しているものの、寧ろその周辺の地形が多様性に富んでいて複雑なシステムを構築することが可能になるような場所なのではないかと思えるのです。繰り返しになりますが、ドリアンモードなら安定しているわけで、これが教会旋法では第1旋法であったのは故なきことではないのでは、と思います。そのことと裏腹の関係だと思うのですが、その替わりそれは静的で、変化の可能性が限られた閉じたシステムとならざるを得ないのではないでしょうか?(勿論、形式的には旋法を定義し、旋法上に和声とカデンツを定義し、旋法間の変換(転調に相当)を定義し、というシステムの構築は幾らでもできますが、振動比のような物理的な基盤の側から見たときにコストが小さく「自然な」ものという観点からすると、安定したシステムは変化の余地が乏しいというようなことは言えるのではないかと思います。この点については(3)の問いと関わりが深いと思われるので、そちらで改めて論じることにします。

 いずれにしても、ここで問題にしたいのは、イオニア旋法、エオリア旋法が長調・短調として選ばれ、それを元に和音に機能を持たせて、というように展開していく中で、選ばれた旋法の中心音が重心からずれていることがどのようにシステムに影響しているのか、ということです。繰り返しになりますが、単音、二音、三和音で重心がずれていく、しかも長調と短調でずれ方が異なり、対称的でないことは、機能和声の三和音のシステムの力学は五度圏上の重心だけでは説明できないということなのだろうと思います。発想としては、主三和音の重心に「何かの変換」を施すと中心音が出てくる。しかもそれが長調と短調の両方を含む(但し完全に長調と短調が対称である必要はない。歴史的にもピカルディの三度のような偏りがあるし、ソナタ形式における第2主題も、長調ならVだけれど、短調なら並行調のIIIというように非対称になっていて、それらは構造的に関連している筈だと思います)ということになるのでしょうか?長調も短調も、本来の中心音からズレたり、対称性が崩れてたりしていることが、逆にシステムの複雑さを可能にしているようなことが起きていると考えることはできないでしょうか?(ここでの説明は、「中心音」を機能和声に支えられた長調・短調の2つの調性によるシステムにおける「主音」と同一視する前提に立てば、ナンセンスに思われるかも知れません。けれども理論が全くの数学的な構築物ではなく、実際の聴こえ方に根拠を持つものだとしたら、果たして理論で定義された「主音」と「中心音」が常に一致することは自明とは言えないのではないか、短調の主音と長調の主音は機能的にも異なるのはないか、ということが言いたいのです。)

 ちょっと飛躍しますが、こういうイメージが浮かびます。ウルフラムの一次元のセル・オートマトンの有名な実験があります。初期値を変えるとその後の振る舞いが変わるけど、おおまかに4つのクラスに分かれるというあれです。ここではビット列の初期配列を変えるのではなく、「中心音」の計算の「何かの変換」にあたるものを変えていく、するとある場合には複雑な挙動が起きる余地ができ、ある場合には美しくシンプルな挙動しか
起きない、といった感じです。勿論、あれかこれかの二択ではなく、程度問題ですが、機能和声はあえて前者をとったのではないかと思うのです。その時ポイントは第3音(しかも短三度・長三度の二種類があること)にあるように思います。オクターブ・四度・五度のような単純な振動比を持たない要素を入れ込んで中心音の定義を書き換えることで、音楽に動性を持たせることができるようになった。最初はそれでもオクターブ・四度・五度のドミナントのシステムにいわばはめ込んで使っていたのが、次第に一人歩きを始める。更に長調・短調間の変換が定義されると三度関係を軸とした変換の可能性が開拓され、そのうちに出発点に戻る力学的な理由が希薄になっていき、その果てに発展的調性のようなものが出てくる…あまりにラフなイメージですが上記のようなイメージが浮かびます。

ついで(3)について
B.(3)については、そもそもが些か禅問答的になりますが(もっともこの問いは、ギリシア以来の存在論的な疑問、しばしばライプニッツに帰せられる「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」をも連想させますが)、人間(生物)は常に変化を知覚するから、つまり、自分が定常的な状態でも、外部が変わればそれに適応して反応する必要があるから、外部からのきっかけで安定状態が崩れることで音楽は始まる
といった答えが考えられると思います。

 音楽においてもLeonard Meyerの緊張→弛緩という図式は良く言われますが、これは物理系だと振り子のような系、不安定な状態に(外的な要因で)なった系がだんだんと定常状態になる過程の説明でおしまいになってしまうように思います。一方、ここで問うているのは、いわば逆向きの動きで、最初に主和音から始まり中心音が定まっているのに、そこから不安定な状態になる、というのは、止まっている振り子が動き出すようなものです。

 なお、シェンカー理論のウアリーニエ、即ち上声部は典型的には第3音乃至第5音から下降して主音に帰結するという図式は、物理的な落下の法則に一致しているように見えます。けれどもそれはウアザッツの一部であって、和声的には、まさに問題にしたI-V-Iの図式がそれを支えているわけです。そしてここで問題にしているのはまさに後者です。、ソナタ形式を例にとれば、ソナタ原理のテンプレートでは、上声において、例えば第3音から第2音への下降が提示部の第2主題部で起きて、和声はVとなる。上声部の下降はそこで中断され、和声的にはVが延長されたまま展開部に入り、再現部の第2主題になって上声は主音、和声的にはIに帰着するというのが一つの典型とされるようですが、色々な出来事が起きて緊張が高い状態となるのは一般には展開部であって、冒頭に最も高かった緊張が単調に弛緩するというのは多くの場合当て嵌まらないし、仮にそれを認めたところで、マーラーのソナタ楽章のような長大な楽曲を支えているのは、寧ろその緊張を継続し、解決を延期するメカニズムにこそあるのではないかとも思えます。しかも発展的調性をとるマーラーの作品の場合、楽章単独にしても、全曲を通しても、冒頭主音と思われたものが実はそうではない、ということが起きている筈です。どうしてそのようなことが可能になるのか?マーラーのソナタではしばしば第2主題は長調の場合でも属調をとらず、短調の場合も並行調を取りませんが、そのことは図式をどう変えてしまうのか?長大な、しかもしばしば回帰さえする序奏がこうした脈絡において果たす役割は何か、必ずしもシェンカー図式を典型とし、それからの逸脱と捉えるのではなく、等しく存在する可能性の1つという資格で、その力学を考えてみたらいいのではないかというように思う訳です。

 言い替えると、緊張→弛緩は、音の構造に内在的に説明できるけど、逆は、外からエネルギーを加えてやらないと起きないことになる。音楽は、複雑系(生物もその一種)であって、外からエネルギーが加わって動きだし、エネルギーが供給されることで運動を続けるシステムとして捉えるのが自然なように思えます。つまり音響態の外部が音楽には必要で、それを辿っていくと、例えば由来に行きついたりしないだろうか、と思ったりもします。外部で何かが起きたことへの反応として、歌う衝動が湧いて、歌が始まる。歌のはじまりのきっかけは外からやってくるというように言える道筋が浮かんで来はしまいか、というように思っています。勿論一足とびにそこには行けないでしょうが、それでも三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」の定義は、中心音を定義してから始めることもそうだし、音響態の外部の「由来」を「音楽」の構成要件として必須のものとすることによって、今ここで現象論的にアプローチしているものを、まさに逆側から仮構し、シミュレートするものであると言えるように思うのです。

 そもそもの発端は、音楽的時間を考えるときに、小説や叙事詩に喩えられるような、人間的なドラマの時間が一方であり、他方では、自然法則に近いような時間の展開があって、コンピュータにとっては後者は扱いやすいが、前者は親和性が低いというような話があって、じゃあ、音楽を物理システムみたいに眺めたらどうだろう、というあたりが出発点でした。

 一方で、マーラーに関するモノグラフがあり、邦訳された文献としては『ベートーヴェンの美学』があるDavid B. GreeneがNelson Goodmanのメタファー的例示(examplify)を援用しつつ、西洋音楽の時代様式をモデルとなる時間性と対応付ける際の具体的な時間表象の不適切さのことも思い浮かびます。そこではバロックの音楽の時間性をニュートン的な時間、ないし時計をモデルとする機械的な時間と対比させているわけですが、勿論、メタファーといってしまえば何でもありとは言いながら、音楽を振り子や時計との類比することは、そもそも不適切なのではないかという気がしてならないのです。(もっともGreeneのメタファー的例示についての疑問は、バロック時代=ニュートン的時間に留まらず、その他の時代の音楽にも、マーラーについての分析にも当て嵌まります。個別の楽曲分析そのものは示唆に富んでいるにも関わらず、肝心の時間論的分析は惨憺たる有様といって良いと思いますが、前に別のところに備忘を記したことがあるので、ここでは繰り返しません。)力学系といっても、外部からのエネルギーの供給がない振り子の振動のような閉鎖系だと単純すぎて、放っておいても起こる緊張→弛緩の過程の説明にしかならず、これは音楽において起きていることの半分の説明にしかなっていないように思うのです。緊張と弛緩を繰り返すようなものは、最低でも散逸過程じゃないといけない。にも関わらず、普通される音楽の構造の説明って、その後半の部分の話が多い、というかそっちばかりな感じがします。もっとも、どのようにして音楽を前に進めるかは、それこそ規則で決まるようなものじゃないのでしょうが…

 一般に複雑系というのは散逸系で動的不均衡で準安定なわけですが、そもそも音楽は(比喩じゃなく、上記のビット列の力学系の挙動として)まさに複雑系的な挙動をするような系であるというように言えるのではないかと思うのです。外部からエネルギーを与えるというのを、いきなり音楽外の要因が音楽の局所的な振舞に影響を及ぼす、と考える必要なない。勿論、そういう場合があってもいいでしょうが、そうではなく、エネルギーの流入で系の変化に自由度が増した結果、局所的にゆらぎが起きたときに、系がどちらの方向に発展するかについて、必ずしも決定的ではなく、カオス力学系とかで観測される分岐のような現象が起きているようなケースもあるのではないか?

 発展的調性というのは、どこに辿り着くかが事前に決まっているのではなく、複数の調的な極の間で競合があって、そのどちらかが選ばれるような系が条件となります。言い換えれば、発展的だが決定的というのはなくて、寧ろ、不決定性があるから、ある時には
開始の調性に回帰し、ある時には関係調に、ある時には遠隔調に辿り着くということが起きると考えるべきなのではないだろうか、というようなことを思っています。準備なしに遠隔調に転調するのはコストからすれば大きいわけですが、それもあるベイスンから脱出して尾根を超えて隣のベイスンに移るには、尾根を越えるためのエネルギーが必要だというように記述できます。すると遠隔調に転調するような複雑な音楽の場合には、きっと常にコスト最小の原理で遷移プロセスが定まっているわけではないのだと思います。

 一方で上述の通り、セルオートマトンのような単純な力学系でも、規則の与え方によっては複雑なプロセスが起きたりもします。(こちらの場合は当然、計算して内部状態を書き換えて、系が動くには外部からのエネルギーの供給が前提です。)だとしたら、前半部分の緊張を起こす方の側だって、衝動とか霊感でおしまいというのは性急で、もう少し音楽が勝手に進んで、時として緊張が高まっていく論理というのがあるんじゃないか、というようにも思えます。勿論の西欧の音楽は、セルオートマトンとは異なって、決定的な書換え規則に従って動いているわけではありません。でも、全く出鱈目というわけでもなく、何かそこに傾向のようなものがあって、それをデータから抽出してみたい。それはどのような音楽でもある程度普遍的に通用する緊張→弛緩の過程の一般的な説明(これが楽理なのでしょう)とは別に、緊張がどのように作られていくか、その結果として解決が遅れたり、宙ぶらりんになったり、etc.ということが起きることを可能にするような、何らかの条件であるはずで、それをできたらデータから導きたい、というように考えているのです。

 またこのことは、だからこそ音楽は「時間の感受のシミュレータ」たりうるのではないかという点にも関係すると思います。それは具体的に何が起きたかについての「記号」にはなりませんが、(それを記号と見做してプログラム=標題を外から与えるのはまた別の問題です。)どのようなことが外部から到来したか(、そして、或る種の音楽はそれよりも一層どのような反応が起きたか)について、「時間の流れ方」という形で証言することはできるのではないでしょうか?それは或る種の抽象には違いないですが、通常の抽象とは逆に「記号」とか「意味」とかの認識の内容的な面を捨象して、感受の様態であったり、それに伴う情動とか身体的な反応といった側面のみを抽出し、他者にそれを(共感という形で)伝達するものなのではないでしょうか?
(2019.12.7公開、12.8, 12.17, 28加筆)


2013年3月3日日曜日

『狂気の西洋音楽史』におけるマーラーに関する言及について

椎名亮輔さんの『狂気の西洋音楽史』(岩波書店, 2010)の第4章「「シュレーバーの音楽」の 始まりと終り」の中ではマーラーはその「終わり」に位置づけられるものとして取り上げられている。 「ニ-1.伝達不全の狂気-マーラー」と題された節がそれにあたる。

椎名亮輔さんについてはフランスで書かれた博士論文の翻訳であるらしい 『音楽的時間の変容』(現代思潮新社, 2005)を過去に読んだことがあり、 音楽的時間に関する考え方のごく基本的な立場については共感できる ものの、具体的な内容については私にとっては疑問だらけで、特にそこにおけるマーラーのような 音楽の時間と、例えばケージに代表される音楽における時間の性格づけと対比について、 強い違和感を感じたことを思い出す。

『狂気の西洋音楽史』は中沢新一さんの慫慂で書かれたとのことであり、ナイマンの実験音楽に ついての著作の翻訳者でもあり、だとすれば私が持続的な関心を抱いていて、かつその関心の あり方を記録にとどめることにしているほぼ唯一の同時代の試みである三輪眞弘さんの 問題意識と決して無縁なわけでもない。

『狂気の西洋音楽史』という本は2010年11月に出ていたようだが、2012年の7月くらいまで それに気付かなかった。そしてその後未曾有の震災を経験し、それから1年余りが経過した、 すっかり風景が変わった世界の中でそれを紐解いたということが与っている可能性もあるが、 一通り読んで、前回同様の強い違和感を感じずにいられなかったのみならず、震災後の 風景の中でマーラーその人とその音楽が自分の周囲の風景の中に占める位置に照らしたときに、 その違和感の在り処をつきとめ、ささやかな異議申し立てをしたい気持ちを抑えることができなくなっている。 今度はマーラーが主題的に扱われていることもあり、その扱い方もさることながら、 その議論の組み立てについても、違和感の連続だったのである。

残念ながら専門の学者でもない人間が、学術的な研究に対してきちんとした 批判を企てるのは、能力的にも無理だし、また時間の余裕がないまま今日に至っている。 そもそも椎名さんの主張の妥当性や学術的な意義についての判断は私の如き市井の 音楽愛好家の能くするところではないので控えるべきなのであろうが、 それでもなお、ことマーラーに関する限り、私にとってはどうでもいいことではないのは確かなことで、 能力と時間の不足で、きちんとした反論が出来ないことを遺憾とする。そしてその上でなお、 それが異議申し立ての体をなさないとしても、違和感を感じたことをこのように証言せずには いられないのである。

*       *       *

まず、『音楽的時間の変容』における違和感について触れておきたい。というのも、そこでの 時間論的分析は椎名さん自身も後書きで述べているように、今回の著作におけるマーラーに 対するアプローチと無縁ではなく、前著ではマーラーが名指しされることはないとはいえ、 マーラーを含む音楽、つまり今回の著作では「シュレーバーの音楽」として括られている音楽の 持つ時間性が問題となっているからである。

実はマーラーの音楽の時間性を扱った分析に関する違和感は椎名さんのそれに対してだけではない。 David Greeneというアメリカの音楽学者(彼は宗教哲学の素養があるようだが)が書いたマーラーについてのモノグラフ (こちらは管見では邦訳は存在しないが、そのかわりベートーヴェンについて、同様のアプローチをしたモノグラフの 翻訳があるようだ)についてもそうなのだが、私には、それらがいわば「哲学」の濫用に感じられる。

私は実験音楽のラディカルさに共感する部分も多いし、 そこで得られたものを否定するつもりはないけれど、椎名さんの実験音楽の時間性の把握と それを賞揚する論理は、私には理解できない部分が多々ある。文献の参照も豊富であり、 大筋の論理は寧ろ明快というべきなのだろうが、論理の一貫性の問題というよりは、 具体的な音楽の、ここでは「時間性」を扱う手つきのデリカシーの無さのようなものが気になるの かも知れない。

色々な時間論が参照されるけれど、(一応、哲学の専門教育を受け、特にエマニュエル・レヴィナスを中心とした 現象学、およびホワイトヘッドのプロセス哲学における時間論については自分の研究領域としていた こともある私の認識では)それらについての理解もひどく図式的だし、何より「音楽的時間」を分析することが、 寧ろそれらの時間論の肌理の粗さを示すことにすらなりえる筈なのに、逆にそうした肌理の粗い図式的な理解で 「音楽的時間」を整理するのは対象となる音楽を分析のベッドの長さに合わせて切断する暴力を伴っているように 感じられる。勿論それは理論的分析にはついてまわるものであるから、所詮は程度の問題であり、 私がないものねだりをしているのかも知れないが、私にとっては決定的な何かが、この分析には 欠けているという焦燥感にも似た感覚に囚われるのは避けがたい。

*       *       *

Greeneの主張とは異なって、マーラーの音楽は、何も未聞の宗教的経験の音楽化などではない。確かに音楽の持つ時間の構造は独特だが、 それはマーラーの場合について言えば、寧ろ現象学的な時間に近い。ただし日常生きられる時間性という意味合いで。 (例えば死の受容といったイベントも、ここではあえて「日常」の側に含める。それだけを特権化する理由がないので。) 音楽の研究者が「日常の時間」というとき、物象化された時間表象にあまりにとらわれすぎていて、現象学が見出した 領域をまるまる無視してしまっている。日常の時間「表象」と日常生きられる時間性との区別は必要で、後者は自明でない。 少なくともGreeneが頻繁に参照するSein und Zeitが持つインパクトはそれを明らかにしたことにあるのだし、その不自明性はいわゆる存在論的な構造に起因するのだから。

椎名さんの分析も同様のものに私には見える。何も現象学的還元を持ち出す必要などなく、音楽的経験の時間は日常的なそれと 異なるには違いない。だが、まずはそれは経験の素材の特殊性によるので、それ以外については、Greeneの transfiguredという性格づけが疑わしく、 その妥当性に対して慎重であるべきであるのと同様に、慎重であるべきだ。

勿論音楽が非日常的な経験への通路たりうることを否定するのではないが、それがどう可能かを説明するのに(椎名さんは真木悠介、 木村敏、九鬼そして道元などを参照している)様々な説をその相互関係に留意せずに並べることが実質的に貢献するとは思えない。 Greeneにせよ、椎名さんにせよ、「日常性」という言葉を自分の立場のオリジナリティを強調するために利用しているのでは、 という疑いを否定することは困難だ。 日常という言葉で一体どういう時間性を含意しているのか、例えばHeideggerが分析した豊かな領域は一体どういった扱いを受けるのか、 日常性の豊かさこそが音楽的経験を可能にする前提のはずなのに、ただちに特異な、特殊な経験を持ち出し、それを可能にすることが あたかも「価値」であるかの様な主張はどこか転倒している。もっとも、こうした「日常的時間」の用法は、それなりに一般的ではある。 そして計測可能な、量化された時間というのがある事自体は否定しがたい。ポイントは、それらがいわゆる本当の意味での日常的な 時間意識とはまた異なった、それなりにelaborateされた表象であることだ。それは文化依存ですらありえて、ジュリアン・ジェインズの 二院制の心の説の背景をなす仮説によれば、意識そのものの構造の可塑性・文化依存性との相関物であるかも知れないのであって、 控えめにいっても、スティグレールのいう第3次過去把持の水準に結び付けられるものなのだ。 だから、日常性を批判するなら相手が違うし、そうした表象の批判は日常性の批判にならない。

もう一つは時間性に「限定」してしまうことで、体験の質を逃してしまう危険である。 これは「時間性」を扱うといったときに用意される道具立ての貧しさに由来する。例えばGreeneの分析をとりあげれば、 一次元しかなく、しかもメトリクスすら定義されない離散的な粗雑な対立、それも2つの極を持つのではなく、ある質の有無でしかないような 装置でマーラーのような複雑な時間性を持つ音楽を分析すれば、分析図式の貧困が対象を破壊するのは避け難い。

一方で椎名さんの方は、―彼が顕揚したい実験音楽の時間性についてはおくとして―これほど複雑な構造を持っているロマン主義の音楽、 例えばマーラーの音楽の複雑さを目的論的という言葉ひとつで片付けてしまうのは、些か不当で粗暴に感じられる。意地悪な見方をすれば、 実験音楽の時間性の方が、(時として、それ自体が作者の問題意識でもあるゆえ) より単純で分析しやすく、 それについて語ることが容易であるに過ぎないのでは、という疑いを払いのけるのは難しい。「実験」は現実の複雑さを捨象した モデルを作り、理論を構築したり、検証したりするために行うのである。一方で、実験室の外の現実の現象(例えば、スーパーコンピュータを 用いても一定の精度の解析・予測しかできない気象を例をして考えてみたらよい)の複雑さは、それを理論的に記述することが遥かに 困難なものなのだ。とりわけて、ベートーヴェンの後期も含め、マーラーのような後期ロマン派の音楽は、単純な目的論的図式に収まらないことこそ、 その音楽の特徴であろうというのに、ロマン主義=目的論的で片付けるのは、まるで天気の予測を下駄投げをもってするが如き、分析する側の 無力の顕れではないのか。

実際のところどうなのかはわからない。 なぜなら椎名さんの議論は両者を具体的に分析してみせた結論ではないから(これも、実験の精神に反する、酷くアンフェアな手続ではないだろうか)。 Greeneの分析の結果の貧しさもまた同様に、マーラーの音楽そのものの時間性の貧しさではない。それらは総じて分析の手段の貧しさに過ぎない。 椎名さんの近代音楽の時間性についての議論の方はそうでないといいのだが、私はあまり納得できていない。音楽記号学が(少なくとも、私が関心を 持っているタイプの音楽に限って言えば)どうやら不毛らしいことについてはあまり異論はないのだが、では音楽的時間論の方はどうなのかといえば、 こちらもまた、私が関心を持っているタイプの音楽についてどうなのだろうか、些か腑に落ちないものがある。

近代音楽の時間性を日常的時間と切り離された閉じたものとして捉え、一方でその裏返しとして日常的時間の 貧困と無意味を指摘し、それらの両方に対峙するものとして実験音楽的な時間性を置くという図式は、今ここでマーラーという 近代音楽の典型のことを思い浮かべている私には、全く現実離れしたものに感じられる。実験音楽が切り開く時間性が、 日常の豊かさを回復させるとは、日常生活の如何なる瞬間においてなのか? 一方で、マーラーの音楽の時間性が、 ある時には「世の成り行き」の時間性であるとしたら、それは控えめに言っても、「日常的時間と切り離された閉じたもの」 ではない。寧ろ、日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされる実験音楽の方が日常的な時間性に対して閉じていると 言えないのはどうしてなのか、、、

否、ひとがみなCageのように生きることができるのであれば、話は違うだろう。だが、一瞬だけ実験音楽を聴いて、 その場限り体験できる日常の豊かさとは何なのか?所詮は、コンサートホールで演奏され、CDに収められて 流通している点で何ら変わるところはないというのに。椎名さんご自身はCageのような生き方を実践されているかも知れないが、 残念ながら、日常的時間の貧困と無意味から逃れられない私には椎名さんが実践し、実感されているのかも知れない 実験音楽のありがたみをわかることはなさそうだ。Sein und Zeit風には、頽落したDas Mannであるところの私には無縁の話なのだろうと でも考えるほかない。まあ、今頃マーラーみたいな音楽を聴いている人間のことなど、どうでもいいのかも知れないが、だったら、その音楽論を 述べるにあたり、「実験音楽における」という制限をつけて欲しい気もする。そうすればはじめから期待せずに済むわけなのだから。 少なくとも本当の意味での「変容」の過程自体(それがあることすら自明ではないはずだが)は、例えば何らかの数理的なモデルを 示唆するようなメタファーのレベルですら説明されているようには見えない。「変容」ではない、単なる対比、「実験音楽」を賞揚するための、 反面教師としてロマン派音楽が引き合いに出されているに過ぎないようにしか見えない。

そもそも日常性を本当に問題にして、それに対する音楽の機能を考えるなら、作品の内部構造のみを問題にするのは不十分だろう。 演奏の次元は、作品に最もよりかかった部分であり、それよりはせめて創作の次元や受容の次元の議論をしなければ 片手落ちだと思うし、音楽を聴いている瞬間だけを問題にするのは、この議論の枠組みを考えれば不十分なはずだ。 (風呂敷を広げたのは椎名さんの方であって、読み手の私ではないので、読み手の私はすっかり戸惑うことになる。) 否、そもそも、こうした話をしだしたら、最後までそれは音楽の時間論であり続けることができるだろうか。率直に言って、 こうしたレベルの議論が博士論文で扱われている音楽学という分野のあり方が私には、自分の実感から乖離したものに感じられるのを 禁じることができない。

*       *       *

『狂気の西洋音楽史』についても基本的な歴史的展望は変わっていないようで、ただしここでは 「シュレーバーの音楽」というラベルを貼られ、意味の病を病んでいるというように言い換えが為されているようだ。 (そもそもそれ自体がかなり怪しい)フーコーの「狂気の歴史」の考古学の音楽版といったところが 狙いのようなのだが、ここで一番気になるのは「狂気」という「記号」のいわば「濫用」ではないかと思われる。 しかも、ここで論じられているのはほとんど専ら「音楽」の外側のエピソードばかりで、肝心な「音楽」そのものの 「意味」の分析がされているとは到底思えないことは、「音楽史」の実質を私が勘違いしていなければ致命的なことと思えてならない。

例えばマーラーの場合、椎名さんはマーラーの章のタイトルを「伝達不全の狂気」とし、特に第10交響曲を取り上げる。
「《第十交響曲》が表現しようとしていた「世界」とはどのようなものであったのか、 それに彼が失敗した(最終的にこの作品は未完で残されたのだから)はなぜなのか。 次にそれをマーラーとアルマ、そしてマーラーとフロイトの関係の中に探ってみよう。」(p.203)
という文章で問いがたてられるわけだが、それに対する答えは、好意的に読めば
「(…)もちろんマーラーの交響曲はすべてが彼の全世界を表現していて、 その中に「世界の本質」としての「狂気」も含まれているが、それ以前の作品では それが強固な意思と多大な労力によってようやく「合理化」されるに至っていた。それが 《第十》については、創作の起源にあるアルマとの悲劇があまりに衝撃的であったために、 「狂気」が合理化されずに生き延びてしまった、と。つまり「狂気」が作品創作の原動力でも あり、作品を未完に終わらせた原因でもある。」(p.233)
という部分なのだろうと推測される。しかし、まず末尾の一文は「つまり」で続けられるような論理なつながりが ないように感じられる。更に、作品が未完で終わったことは、単にマーラーが(当時不治の 病であった)連鎖球菌の感染によって死んでしまったからではないかといった別の原因は 予め問いを立てる時点で排除されているらしい。また、未完で終わることが何故「世界」の表現に 「失敗した」ことになるのかも私には理解できない。椎名さんの言う「狂気」(それは「世界の本質」 らしいのだが)が具体的に何なのかもわからないし、そもそも「世界」、「本質」ということで何を 指し示しているのかすら判然としない。でも椎名さんはお構いなしにこう続けるのだ。
「すでに見たように、マーラーはそれをはっきりと言葉で残していた。「狂気が私をつかむ。 呪われたる者!」と。(...)マーラーは、絶対音楽の精髄としての「交響曲」が、 その意味を伝えるぎりぎりのところまで来ており(《第七》の意味はアルマに伝わらなかった)、 これ以上どのような努力をしてもそれを完遂することはできない、あるいはそのような努力は 「狂気」となるしかない、ということに気づいていたのである。」(p.223)
マーラーが《第十交響曲》のスケッチに残されていた言葉が《第十交響曲》の音楽の実質と どう関わるかは自明なのだろうか?椎名さんのいう成功・失敗とそもそも関係があるのだろうか? 《第七》の意味がアルマに伝わらなかったというのもまた、リハーサルでのあるエピソードの 証言が根拠になっているらしいが、(アルマが《第七》を好きでなかったかも知れないという 事実はあるにせよ)それが一般的な議論の水準での彼の「音楽」の「伝達不全」とどう関係するのか? 一方で、そもそもマーラーのスケッチの文章は、椎名さんが敷衍したように解釈できるのだろうか?

勿論、ここでは椎名さんの途中の議論を割愛しているので、その部分の内容によって、 椎名さんの結論が自然に感じられるということもありえるだろうが、私には全くそのようには 感じられない。前著同様の、予め自分が用意した恣意的な図式に対象を押し込んで、 その妥当性は抜きにして、それをもって自分の図式の実証であるとしているようにしか思えないのである。 (もしかしたら、それは自明のことであって、論証するまでもないことなのに、私がそれを理解できていない だけなのかも知れないが。)

椎名さんご自身が立てた「《第十交響曲》が表現しようとしていた「世界」とはどのようなものであったのか」という 問いに対する答えは結局のところどうなるのか?「マーラーの交響曲はすべてが彼の全世界を表現して」いるからには、 《第十交響曲》もまた、「彼の全世界」を表現しているのだろうか?「世界の本質」であるらしい「狂気」をも 表現しているのだろうか?作品創作の原動力と作品が「表現」するものの関係はどうなっているのか? アルマに伝わらなかった《第七》の「意味」はそれでは何なのか?狂気は伝達不全の結果なのか? 原因なのか?作品創作の原動力なのか?作品の成功を妨げるものなのか?作品に表現されているもの、意味なのか?

仮にもし、マーラーの音楽そのものを、ではなく、マーラーが音楽の傍らに書き残した言葉の方を殊更に重視するという 選択をするのであったとしても、それならそれで例えば、
「すでに見たように、マーラーはそれをはっきりと言葉で残していた。「狂気が私をつかむ。 呪われたる者!」と。これは、ド・ラ・グランジュの翻訳によれば、「狂気よ、私をとらえよ、生きていることを 忘れさせるように」となっている。」(p.223)
という文章は一体何が言いたいのか?内容以前の問題として、まず、引用部分の明確な不一致がある。p.197で椎名さん自らその全体を 引用しているうち、少なくとも「私を滅ぼせ、生きていることを忘れさせてくれ!」までを含まなければ、ド・ラ・グランジュの翻訳の範囲と対応しないだろうに。 また、ここであえてド・ラ・グランジュの翻訳を参照する意味も全く不明であるし、この翻訳が忠実なものではなく、 断片的なものであることを考えれば、一体、ド・ラ・グランジュの文献を参照したというアリバイ以外に、この翻訳を 引用することの意味がどこにあるのか、私には全く理解できない。もし、この翻訳が椎名さんの立論にとって殊更に 意味があるなら、それがどこにあるのかを明記すべきだし、「翻訳」という行為自体が、椎名さんの立論にとって 意味があるのなら、それについての理論的な記述があってしかるべきではないか?そんなことも言外に読み取れない 私はもう一度、読者として失格なのだろうか?いや、そうなのかも知れないが、、、

上記のような指摘は些事拘泥であり、ここでは椎名さんの提示するマクロなスキームが問題にすべきで あって、一サンプルに過ぎない個別の例の取り上げ方に噛み付くのは近視眼的だという批判があるかも 知れない。だが、「狂気の西洋音楽史」の妥当性を判断しようとするならば、サンプルの扱いこそが問題だし、 論証の手続こそが問題なのではないか。実際には、椎名さんが言いたいことは漠然とは推量できるけれども、 そしてそれが全面的に間違いだということはないかも知れなくても、「狂気の西洋音楽史」の「論証」には違和感を 感じるばかりで全く納得も共感もできない。もし主張が正しいとしても、ことマーラーの部分に限っていえば、 その「論証」の手続にはミクロのレベルにおいても到底納得がいかないのである。

更に椎名さんは、アドルノのマーラー論を敷衍しつつ、更にそこに渡辺裕さんの「マーラーと世紀末ウィーン」の 文章を織り交ぜつつ(実際、それはそのように注記されることなく為されるので、それのどこが2つの著作の いずれから引用されているのか、読み手には一見したところはわからないようになっている)、以下のように アドルノのカテゴリーを換骨奪胎することを主張する。
「マーラーの音楽とは、古典的な形式言語によって支えられていた純粋に自律的な絶対音楽の理念が もはや機能しなくなった時代に現れた、いわば遅れてきた(本文は傍点)絶対音楽なのであって、 そのような存在が「合理化の精神に支えられた近代の危機と重ね合わせて考えられ」る中から、 その「批判的」なあり方も読み取れられるのであろう。しかし、むしろ我々は、そのようなマーラーの音楽を 合理主義「批判」ではなく、その「危機」的状況、すなわち「世の成り行き」を忠実に写し取っているものと 見たいのだ。つまり、アドルノにとって「批判」的な要素として解釈された「突破」、「一時止揚」、「充足」の ような、古典的形式概念では説明がつかない、いわば「不合理」な要素も実はこの「世の成り行き」の 中に含まれるものであり、言葉を換えて言えば、「この世」はまさにそのままで「不合理」で説明がつかない ものとして表現されているということだ。(p.221)
要するに、今度は「世の成り行き」にマーラーの音楽をそっくり回収し、例えばアドルノが救い出そうとした批判的な契機には 関心がない(いや、より強く、批判的な契機の存在を認めない)かのようだ。しかもその「世の成り行き」の音楽が、「シュレーバーの音楽」であり、意味の病を病んだ挙句に、 「伝達不全」を起こしているということのようなのである。だが、まずマーラーの音楽は、全面的に「世の成り行き」の音楽で あるわけではなく、寧ろ「突破」や「一時止揚」「充足」「崩壊」というのは、そうした「世の成り行き」に対する反応を 表す類概念であった筈ではなかったか。だとしたら、要するにここでは、「世の成り行き」というヘーゲルの精神現象学に由来する、だが アドルノ独自の概念の方こそ換骨奪胎されているのかも知れない。だがこの換骨奪胎は、マーラーに関して言えば、アドルノが このモノグラフのみならず、ウィーン講演においてもあれほど拘った、その音楽の持つ契機を決定的に毀損するものであると 私には思われる。しかもマーラーの音楽の具体的な様相に照らして、アドルノの主張を斯くの如く 換骨奪胎することが如何にして可能なのかの論証は見当たらず、作品そのものではない音楽の傍らに書き残した言葉やら ある作品に対する嗜好の回想などを根拠にして、ただそのように断定されるばかりである。ここには論証は存在していない。 要するに椎名さんのテーゼを述べるための材料として利用されているだけで、それはテーゼを裏づけ、傍証するものとして取り上げられている ようには見えないのである。

私見によれば、椎名さんの主張は、「世界」という言葉の意味、更には「世の成り行き」と「主観」の関係についての把握に関して アドルノに対して不当なまでに単純化している点に問題がある。それは音楽作品を(こちらは直接にはベンヤミンの用法に由来する らしいが)「モナド」として「社会」を無意識的に「表現する」非概念的な言語であるというアドルノの規定のニュアンスを捉え損なって いる点と関連しているように見える。それは「「世の成り行き」を忠実に写し取っている」という言い方が「そのままで「不合理」で 説明がつかないものとして表現されている」という言葉で言い換えられている点に如実に顕れている。音楽には模倣的な契機が あることはアドルノも認めているが、それは単なる「反映理論」ではない。また、アドルノのマーラーに関するモノグラフにおいても、 個別には例えば第8交響曲(そう、第8交響曲であって、第10ではないし、第7でもない。第7については、その第5楽章については確かに第8交響曲とともにあげられているが、そうだとしても、第7交響曲の全体ではないのだが)に関して「攻撃者との同一化」(アドルノ, 『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, VII 崩壊と肯定, p.181)を 示唆しているような場合もあるが、だからといって「世の成り行き」を世界の本質として物象化し、それを強化することにマーラーの音楽が終始しているとは言っていない。 マーラーの音楽は「世の成り行き」を模倣しつつ、それに対して異議申し立てをしているのだという点をアドルノは強調しており、 かつその異議申し立てが失敗に終わる点にこそ批判的な機能を見出しているのだ。マーラーの音楽は勿論、合理主義「批判」ではなく、 寧ろ「不合理」なものと化した「世の成り行き」に対する抵抗の叫びなのであって、椎名さんの批判も批判の前提となる主張も、 全く的外れなものにしか見えない。そしてそれは椎名さんが持ち込みたがっている「狂気」とは差し当たり関係はない水準での 議論の筈である。

ちなみにアルマの名誉のために言っておけば、アルマにとって第10交響曲は、自分自身が惹き起こし、 彼女自身それに対して罪の意識を恐らくは感じていたであろう出来事を思い起こさせるが故に、特別な感情を惹き起こす 作品であったろうが、デリック・クックの演奏会用バージョンの作成作業を最終的に認め、それを支援してさえいる。そのきっかけは クックが試演した演奏会用バージョンの初期の形態の録音を聴いてのことであったらしい。アルマは第10交響曲を「理解」しなかった のだろうか?否、そうは思わない。自身も作曲の心得があり、マーラーの音楽を最初は嫌っていた彼女は、マーラーの伴侶と なった後も、マーラーの音楽を全面的に受け容れることはできなかったかも知れないが、少なくともその作品の価値は、 彼女にとって疑問の余地のないものであったように私には思われる。しかもアルマは自分の音楽観によってマーラーの音楽を 断罪するのを留保し、その音楽そのものを聴くことによって、その音楽にも固有の価値を見出していたのである。そうしたアルマの 姿勢は言及されることなく、第7交響曲のエピソードだけで「伝達不全」を述べ立てるのは、アルマの場合という個別のケースに 関しても、言いがかりの類としか思えない。

ごく単純に、私生活上の出来事と音楽作品を短絡させる ことには慎重であるべきだし、特に初期の作品を中心に今なお懲りずに取り上げる人がいるかの「標題」についての問題が 示しているように、作品の脇に書かれた言葉は、無視されるべきものではなく、作品を理解する文脈を否応なく形成するもので あるにしても、それのみで作品について語りうると考えるのは本末転倒以外の何物でもない。それはマーラー研究の文脈では それこそさんざん議論され尽くしてきたことの筈であるのだが。

いずれにせよ、先に引用したものが現時点での、過去の西欧音楽に起きた現実の出来事についての椎名さんの 認識であるというならそれでもいい(私には、実のところ、そうした総括にはあまり関心がない)。そして、その認識が全く誤っていると いうようには私は考えていない。寧ろ、マーラーの音楽を取り囲む状況に関して、ある部分については認識を共有した上で、 だが、椎名さんのようにマーラーの音楽と捉えるということ自体、或る種の態度決定を、(それが無意識的なものであれ、)選択を含んでいて、 私のような立場で、過去の音楽であるということを意識した上で、それでもなお、今日それを必要不可欠なものとしてマーラーの音楽に接するものに とってはその選択の恣意性は到底無視しがたいことである。

要するに、マーラーの音楽は声なき者の代弁者などではなく、時代の病の症例に過ぎないし、 そうしたマーラーの聴取自体もまたそうなのだということなのだろう。かくして私もまた、21世紀にもなって、まだ「シュレーバーの音楽の終り」と 共にある存在という位置づけを得るのだろうか。ともあれ、私が東日本大震災を経て2012年の5月5日に記した文章に書きとめた、 マーラーに見出したと思った以下のような契機など、椎名さんにとっては(マーラーの音楽が「彼の世界」に過ぎないのだから、 当然といえば当然だが)私の「妄想」に過ぎないということなのだろう。
 だが掟の門前でうろつくばかりしか能のない門外漢にしてみれば、マーラーの音楽にはあれ程豊富に存在した筈の時間方向の構造、聴き手をもどこか別の場所に連れて行かんばかりの、それが作者の意図するところであるならばその限りにおいて「目的論的」という形容すら誤りとは言い難い、巨大な時間的持続を支える時間方向の方法論的図式に代替するものが、20世紀の音楽の中では結局発見されることはなかったのではという感覚は否み難い。否、一例をとればマーラーの作品の長大な時間的経過を支える音楽的構造と、それを利用する具体的な適用の卓越は非専門家の耳にも明らかで、そうであれば尚更、その後の音楽においてかくも生産的な原理が放棄されたのは何故なのか改めて不思議な思いに囚われても不思議はない。確かに、今この音楽をもう一度創ることの不可能性もまた疑いを容れない事実のように思われる。それにしても何故なのだ、という疑問が頭に取り憑いて離れない。それは時代の要請なのか。  逆に言えば100年前の音楽に確実にあって、更には今尚力を喪っていないと感じられる側面が未だにあるというのは、その音楽の指し示す未来を告げてはいないか。時代の制約の中、所与であった語法を換骨奪胎して提示する、今なお異様な力を喪わないその音楽の動性、超越への衝動に支配された外への運動、未知の地点に聴き手を運んでいってしまう、暴力的なまでの力。アドルノは全般としては己が批判的に考えていたマーラーの第8交響曲に対して「救い主の危険」という表現を用いた。私にはこの言い回しはアドルノの逡巡を、聴経験に忠実なアドルノの、論理でもって断定し去ることへの躊躇いを感じずにはいられない。「救い主の危険」。それは今やマーラーの音楽全体について言いうるように私には感じられる。マーラーの音楽の持つ時間性のアナクロニスムは、だが閉塞した現在の凍りついた時間(その認識の何と正しいことか)にあって、単なる夢想に過ぎないとさえ感じられるし、そのように断罪されるケースも、しばしば見受けられる。だが、そこには文字通り、未だ来たらざるものとしての未来への途があるのではないか。それは仮想されたものを恰も現実に実現するかのように見せかける詐術ではない。ポテンシャルとしての未来が、音楽の彼方にあるものとしてヴァーチャリティとして指し示されているのではないか。   だが、ここでこれ以上遠くに行くことはもうできない。私にとって確実なのはマーラーの音楽を手放してはならない、ということだ。異様な力に満ちたその音楽を聴くことが時折困難になるにせよ、自分に向かって手を差し伸べ、自分を幽霊の隊列に加わるよう誘う音楽に耳を閉ざしてはいけない。生き延びてどこか別の場所に辿り着くことを希求し続けるならば。  

あるいはまた、別のときに以下のように書き付けたとおり、マーラーの音楽世界はそれ自体、そうしたいわば「落伍者」の形象に満ちていて、私はそこでしか 安らぎを見出すことができないのだ。そう、私は恐らくは自ら進んで、その「世の成り行き」の「不合理」に、何なら「狂気」に留まることを選ぶほかないのだろう。 自分の同類であるあまたの名もなき「幽霊」たちと共に。

カフカの「審判」は、理由もわからず逮捕され、己の罪名もわからぬまま訴訟を起こされて裁判の被告となり、恥辱だけを残して犬のように「処刑」されていくヨーゼフ・Kの物語だが、アドルノはそれをマーラーの第9交響曲のロンド・ブルレスケのエピソードについて述べるところで引用している。それは丁度、更に後の、このマーラー論全体の末尾近くで、» Straßburg auf der Schanz' «に言及するのと呼応し、最後に「子供の魔法の角笛」に登場するヴァリアント達、見捨てられた歩哨、美しいトランペットの響くところに埋葬された男、哀れな少年鼓手といった面々に繋がっていく。  全てのものが、誰も聞いてくれないのに大声で語られる末期の言葉なのだ。ヨーゼフ・Kはその光景を目にして、友達が、自分を助けてくれる人間が居るのでは、自分を弁護する異議がまだあるのではと自問する。だが彼は、抵抗することが無価値なことを既に覚っているのだし、実際、その通りにしかならない。「極めて反抗的に」と指示された音楽もまた、真理が幻としてしか経験されえないものであることを身をもって示すのだ。この音楽は、ヨーゼフ・Kのような経験を自己のものとするような人間にとってまさに己を代弁するものとなる。
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勿論、違和感の根底には、根本的な 立場の違いがあるのだろうとは思うが、価値観の違いを問題にし、論争を挑もう というのではない。寧ろ違和感の由来するところは、それ以前の問題ではないか、マーラーのみならず、シューマンや シェーンベルクの、更にはシュレーバーに対し、作品を創る「現場」、各人の生の「現場」に 対する「想像力」が欠如している点にあるように感じられてならないのである。要するにマーラーに関する伝記資料や アドルノのモノグラフもそうだが、それ以前にマーラーの音楽を聴いても、スコアを、第10交響曲の スケッチを見ても、そこから椎名さんの主張するような内容がどのようにしたら抽出できるのか私には 率直に言ってわからないのだ。端的にこれは牽強付会のための曲解か、誤解に基づく 牽強付会にしか思えないのである。

自分がコミットしたいと思っている価値を持った対象がこのように(私から見れば)「権威」が 流布する共感なき評価によって惹き起こされる「誤解」に巻き込まれることに私はしばしば 耐えられなくなる。こうしたことを動機に書くことが果たして意味あることなのかは良く わからないが、考えてみれば、マーラーのページは、アドルノのマーラー論の(アドルノ研究者であり、 マーラーの音楽の実演に本場で接していることを後書きに記している人による)翻訳の不正確さ (としか私には思えないもの)から始まって、マーラーを研究し、紹介する「識者」と呼ばれている人達の言っていることに いい加減さ、不正確さに対する苛立ちを、あるいは(例えば椎名さんも言及している渡辺裕 さんの研究のような)よりきちんとした議論に対してなら、その内容に違和感を感じて、 それを最初は自分のために記録しはじめたのがきっかけの一つであったわけで、 今尚、こうして文章を書いている原動力であることは認めざるを得ない。

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だが、椎名さんの主張に関してのみ言えば、そもそもこうした時間を生きている私のような 人間のあり方こそ、椎名さんが問題としている様態そのものなのだろうから、 私のこうした反応は、椎名さんの議論のある水準での正当性を裏付けるものなのかも 知れないとも思う。椎名さんのような立場で音楽に接する人にとっては、 私のように音楽に接するのは、強迫的な消費の恰好のサンプルそのものであり、 そのように仕向けられていることの証拠だということになるのだろう。

恐らくは椎名さんのような方は、 「世の成り行き」の端的な外部に在ることができているに違いない。外から見れば、「世の成り行き」に 巻き込まれ、翻弄された挙句、流砂に呑まれるように跡形もなく消えてゆく声なき人間は 「世の成り行き」の一部にしか見えないに違いない。 結局のところ、構図は「音楽的時間の変容」の 時と変わることはない。そこでは実験音楽は日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされていた。

だが、皆がケージのように、あるいはラモンテ・ヤングのように、テリー・ライリーのように生きられる わけではない。それが選択の問題だと言われても、そもそも選択の余地などない人間だって数多く いるのだし、アドルノはマーラーの音楽をそういう声を奪われた人間のために手を差し伸べるものと して規定したはずなのだ。だが、立ち位置が異なれば、展望も自ずと異なってくる。 「世の成り行き」の中にいる人間は、「世の成り行き」に対して客観的たりえないのであれば、 外部からの客観的な視点に対して抗弁することは権利上許されていないのだろう。

しかし、もしそれが客観的に見て妥当であったとしても、それを認めざると得ないとしてもなおかつ、 ここで私が言いたいのは、もしそうであったとしたら、そうした水準は私のような人間には 関係がないので、その正当性は私にとってはどうでもいいことだし、西洋音楽史を椎名さんのように 捉えることの意義もまた、私のように批判される側に居るのであろう人間には杳として 知れないということである。そして、私が聴くマーラーは、私が見出すマーラーは、椎名さんの 「西洋音楽史」に位置づけられるらしいそれとは「別人」の音楽なのだということである。 そしてそのような異議申し立てがあるという事実だけでもせめて記録しておきたいのである。

私は、私のような声なきものの代弁者としてマーラーを見出していたのだが、 実はそれは私の思い込みであったかも知れない。であるとしたも、それを認め、 「私のマーラー」が虚像であったとしても、私は自分でそれを書きとめるしか術はない。 私は私の代弁者であり、私の中の奥の部屋に住んでいて、私の声を通して語ろうとする 存在としてのマーラーを擁護しなくてはならないのだ。それが「彼の世界」といういわば「妄想」の体系を 生涯に渉って築き続けたマーラーその人のありように丁度対応するように、こちらは「私の世界」の 「妄想」であったとしても。

この文章は実質において異議申立のための準備書面のごときものの更に冒頭陳述の部分に 過ぎないだろうが、永遠に本論が書かれることのないであろう準備作業をこのように公開するのは、 こうした企てが行われた事実を証言するためである。 何なら、そのような「狂気」を抱いたマーラーの聴き手が21世紀の日本に一人居たということで あっても構わない。私のような聴き手は、21世紀におけるマーラー受容のパースペクティブを 捉え損なっており、無知と視界狭窄そっちのけに、主観的な根拠なき確信のみに基づく虚像を 押し付けているのであるとするならば、私は沈黙すべきなのだろう。 そもそも未定稿を公開することなど、マーラーの創作姿勢に関する言葉を思い浮かべれば、 それ自体許されることではないではないか、何という不実さよ、というわけだ。 だとしたら、この文章そのものをマーラーに関する「症例」の一つとして、後年の分析の対象に資すべく、 斯くの如く「投壜」し、後はマーラーに関しては沈黙することにしよう。 (2013.3.3, 5.1,9.14, 2023.6.15 アドルノのマーラー・モノグラフにおける「攻撃者への同一化」に関して参照箇所を追記。)

2007年12月31日月曜日

備忘:標題について

もし本人の意図が音楽のプログラムを傍証するならば、大地の歌やショスタコーヴィチのXIVは誤解の余地はないことになる。でも多分、それは単純にすぎる。ショスタコーヴィチのXVやMahlerのIXがそれを物語る。

実証的な検証:1896、標題性の放棄という観点からの転回点?(桜井3 p.141-2)第3、第1のベルリンでの演奏~その他は?嘆きの歌の改訂?確認のこと。

文字通りに受け取る必要はないものの、標題性についても(何とマーラー自身は)それが素材なのではなく、 結論、出来上がったものが結果的にそう解釈できるという意味合いでの<説明>に過ぎないことを認めている。 従って、マーラーの場合はいわゆる素材としての標題の音による実現ではない限りにおいて、それを標題音楽と呼ぶのは 誤りである。(第2交響曲や第3交響曲、第4の生成史はそれを裏付けるだろう。) 実験ということであれば、何が表現されるかも、最後まで決まらない。表現されるべき内容があって、 その仕方の巧拙が問われるのではない。もし、成功/失敗があるとするならば、内容もひっくるめてである。 (Adornoが批判的にひいた「高貴なことを志したが、無慚にも失敗した」という評言は、Adornoの言うとおり やはり適当でないだろう。) つまりkennedy言うところの「実験」そのものについて成功/失敗が言いうるのだ。

IX-4:音楽図像学上の「昇天」?物理的、身体的死の象徴化?私には、どちらとも思えない。己の死は一度しか経験できない。そのときには正誤の判断を残すことはできないだろう。否、Mahlerはこの曲をいつもの夏に書いたのだ。死についての省察が含まれているとは思うが、 如何なる意味でも、死の描写(象徴的であれ)ではないだろう。「について」という標題の陳腐さにも関わらず、そうした距離は存在する。異なるのはその距離の「間」で生じていることだ。

記号論はたいていの場合(楽曲分析と同じで)既成の図式に経験を整序することしかしない。図式を作り上げる手助けをするよりは多く、単にそうした出来合いの図式を用意するに過ぎない。だからつまらないのだ。Xについて音楽が語る、というのはどういう事か?マーラーの音楽はプログラムを持っている。本人も認めているし、それは否定できない。だが、マーラーが与えた標題は「説明」に過ぎず、素材ですらないのだ。

何故ある曲がXについて語っている、と言えるか?マーラーがそういう標題をつけたから、というのは答としてはナンセンスだ。もし、そうだとしたら、それはマーラーの意図の説明で、音楽が語っていることではない。それで良ければ、どんな凡庸な音楽ですら、いくらでも高尚な事を語りうることになる。

結局、音楽の構造から、形式から、そうした内容が「効果」として生じる、というで なければならない。生産の極に偏した研究が逃すのは、そうした聴体験のクオリアだ。だが、マーラー自身が「直観」と呼ぶもの、クオリア以外に救い出すべきものはない。

マーラーのそれは「説明」に過ぎない、素材ですらないのだ。だから、やはりFlorosの立場は(Straussになら正当化できても)正当化できない。それは例えばScoreへの書き込みの類と同じように読まれるべきなのだ。例えばVI交響曲のカウベルについての注記は、標題を示して、その後で撤回するという手つきと同じだ。イメージを示して、でも標題音楽的に解釈するな、という。

IIIは意識の点でも(標題を密輸することで)意識の進化論、発展を論じる口実が与えられている。だが、標題と音楽は一致するとは限らない。「音楽が語ること」は何か?そもそも「意識のレヴェル」を表現することと、音楽が認知的にある意識の機能を使うこととは (とりあえずは)同一視できない。より低次の意識、前意識etc.を「表現する」と言われるとき、その「表現」は描写音楽や 標題音楽に帰せられる記号論的な機能とは異なるだろう。

Greeneの論は意識を時間性と読み替えることで、調的配置やフレーズのclosureの様態といった 楽曲の形態論を意識の様態と対応付けることに成功している様だ。勿論この手続きは間違っていない―否、寧ろこの手続きこそが正解なのだと思う。だが、Greeneの叙述も時折、予定調和的にマーラーが仄めかして消した(だが消したことがわかっている のだから、それを知ってしまえば何もなかったのとは同じではない)標題に合致するように 楽曲の構造を読んではいないか?という疑いを一度は持つべきだろう。果たして、その楽曲は標題が示すような階梯をなして(「表現して」ではない!)いるだろうか?

だが、例えばフレーズの開閉や連結、対位法の層の様相、音楽事象の密度、そしてマーラーの場合は 第10交響曲におけるまで一貫した調的配置の機能は、楽曲の認知的内容を形成するゆえに 信頼のおける根拠になりうる。プログラム的な連想は排除できない―歌詞がまずもって侵入している。マーラーの内部に限っても 歌曲と交響曲の相互引用がある―文化的背景、巨大な引用元たる西欧の音楽の伝統を意識せずとも 「抽象的に音を聴く」のはマーラーの場合は(作曲者の意図はべつにしたとしても尚)不可能だ。だが、印象批評を止めたければ、楽曲の構造に拠るしかないのは明らかだ。

標題といい、歌詞との関係といい、複雑な様相を示す現実を、 既成の概念と用語とで語ろうとすると、どうしても単純化がおきる。媒体の肌理の粗さのせいで、現実をうまく捉えきれないのだ。たいていの論争は、媒体となる用語の周囲を巡っていて、対象自体には届いていない。だから、作曲者は分析されることを嫌うのだろう。

備忘:Grenneへの批判(~2008年以前)

Greene, David B., Mahler, Consciousness and Temporality, Gordon and Breach Science Publishers, 1984

その音楽に関する分析の中で個人的に興味深く感じられる方向性をもったものとしては、現象学的な アプローチからマーラーの音楽に迫ろうとしたGreeneの著作「マーラー、意識と時間性」(1984)が挙げられる。 その内容の詳細について同意できると考えているわけではないが、マーラーの音楽を聴いて感じ取る ことのできる「質」を捉えようとする場合に、基本的に楽曲の構造に注目しながら、解釈のためのデヴァイスと して意識の分析の成果を用いるという発想は、妥当な姿勢だと思う。より厳密に認知心理学的な立場に たつことも勿論考えられるだろうが、ことマーラーの音楽についていえば、もう少しレヴェル的に上位の抽象も あって良いと思う。

だが、期待に反して、具体的なその内容には失望を禁じえない。哲学サイドの議論については摘み食いにしか見えないし、 具体的な音楽の「時間性」(と呼ばれているもの)を分析する道具立てがあまりに貧困なため、それは分析というよりは 単なる主張の羅列、しかもあまり意味があるとは思えない主張の羅列にしか見えない。

以下は読書メモで、あまりに目に余った部分を備忘のために書き留めたもの。

*

①positiveであれnegativeであれ、他人を傍証に出すとおかしくなる。
p.166 Part2の出だし、IとII~VIの間の休止について、Bekkerをひいているが、この休止をIの終結性と結びつけるのはおかしい。
II~VUだって同じように完結しているのなら、休止をおくべきことがIの完結性の傍証にはならない。
少なくともこれは不適切だ。
しばしば、その分析は楽曲に従っている限りで正しいと思われるのに、そこから離れて何かを論じると間違いに陥るのは、結局方法論的には破綻している証拠だ。

②p.163もひどい。折角の楽曲の構造の分析をbanalなマーラー自身の譬えの例証にしか使えないとすれば、興味は薄れてしまうだろう。 標題的なもの以上のものを析出できなければ、単に事前に誂えられたプログラムという答えに合わせて分析を構成するだけでは、このような方法論の価値はない。

Greeneは自らの方法を裏切っているのだ。
③時間論といいながら、その時間分析のスキーマは貧しくないか?因果性と自由意志を繰り返して 用いるだけだから「どちらでもない」「どちらでもある」のような記述として無意味なことが起こる。
それでいて突然、HeideggerのWiederholungを突然持ち出すのは不自然だ。
もしWiederholungを出してくるなら、予期/瞬視/忘却といったセット、 あるいは本来性、非本来性という点を踏まえなければ意味がない。
memory of memoryやfulfillnessから一息にWiederholungに飛躍するのは、 全くご都合主義的という他ない。(p.130)

認知に基づく例証理論
マクロな構造よりもミクロなアコーギグ?
また、音色、音量etc.のパラメータに言及せずに、時間性を語れるのか?
一面的―あるいは結局「内容の側」の説明―文学的なそれと権利上は同じもの―ではないのか?

p.232.
通常のループ、リニアの時間意識、というか、これは単なる時間の「表象」に過ぎない。
confusedかどうかはだから、表象のレヴェルだろう。時間意識はむしろ、整序をしようとする。流れを 反復を構成するのだ。
Greeneの説明はそんなに間違っていないのかも知れないが、ずれがある。
説明するものと、説明されるもの、例証するものとされるものの間の混乱、あるいは時間意識と 時間表象についての混乱。
例えばGreeneはHusserlの把持と記憶、想起、予期とのレヴェルの違いを理解しているだろうか?
認知理論風に言えば、LTM/STM、リハーサル、想起etc.といった機能レヴェルの違いを理解しているか?
聴取の意識から、Greeneの説明は離れすぎる。その距離は、examplifyの一言で乗り越えられる。
これはおかしい。

しかも構造の分析はしても、それはマクロに過ぎるのだ。ミクロな認知のレベルで起きていることを捉えずに マーラーの音楽の持つ「質」が捉えられるのか?

Adorno風のミクロロギーをやりたくなる。構造の分析も、あまりに一足跳びに心理的(心理学的とはいえない) なメタファーに依りすぎている。これではそのメタファーが楽曲の構造上のどのパラメータに対応するのかの 説明がもう1レベル必要になってしまう。


Greeneの議論においても、またもや因果性、自由意志の問題が生じている。
それが問題があるなら、因果性の定義を変えれば良いのだ。
因果性にこだわる必然性はどこにあるか?
更に言えば、因果性と自由意志との間の関係だって決着がついているわけではないのに、ここではそれは 素通りしてしまって、どちらでもない、confusedな状態と通常でないtransfiguredな状態が区別される。
groundnessが問題になるが、そもそも意識に受動性を認めない立場はありえないし、新しさを認めない立場もありえない。
だからGreeneのdeviceはあまりに杜撰なのだ。
Heideggerを引くのであれば、あるいはHusserlにしても、あまりに表面的に過ぎる様に思える。
方向性は多分正しいが、実現は全く不十分ではないか?
むしろ現象学的なアプローチを取るのであれば、そうした概念がどのように位置づけを得るのか、一般的な(folk psychologyでの) 了解との違いを明らかにした上で論じるべきだ。
また、狭義での認識の水準を超えたLevinasやHeideggerの方向性についても考慮すべきだ。
超越論的自我の問題をここで持ち出すのは適切だろうか?
一般にどのVersionの現象学を用いるのかを明らかにしないで単にHusserlやHeideggerの著作から都合良く利用できるところだけ 引用するのは安易にすぎる。これだから音楽学のレベルが低いと言われるのだ。
少なくとも―採用しなくても―現象学的還元に対する立場、自然的態度と現象学的記述が区別されるという点に触れずに、 Husserlをfolkpsychologyの変種のように捉えるのは不当だ。

自己言及性については、信念、信念の信念、、、というレベルを設ければ済む。多分一度やれば済むことだ。 またIIIでもVIIIでもいいが、Sartre的な即自存在を引き合いに出す意味はどこにあるのか?
体験の分析と、音楽で表現されている内容の「記述」のどちらなのか。examplify理論をIntroで援用した 割には、具体的な記述は怪しい。一見そうでないように見えても、結局Greeneの分析は、一方では 楽曲の形式の分析、他方では内容の(哲学的な概念を動員した)記述―しかもそれはGreeneが聴き取ったもので 一般性はないらしい―哲学者しかやりそうになり独我論に頗る近い―に過ぎず、両者を結びつける肝心の 部分はちっとも明確ではない。
部分的にフレーズの分析があってこれはこれで妥当かもしれないが、結論めいたことを述べる段になると 内容の記述が一人歩きを始める。記述に使った概念という、分析の道具や素材の側の論理で話が進んでしまい 音楽にはちっとも帰ってこない。
これがAdorno的であれ、非Adorno的であれ、社会批判、あるいは単なる文化史的なアプローチであれば、 そうした外部の論理を確かめることに意味がある―それが作品に何らかの形で投影されていると考えるのだから― が、Greeneは内在的な形式分析から出発しているのだから、それは反則、ルール違反ではないか?

Greeneの分析は時折、単に既成の哲学的意識経験の概念の適用に過ぎなかったり、ややもすると 単なるメタファーになってしまっている。都合良く色々な哲学者の装置を(それらの間の関係に ついての見解の表明無しに)アドホックに適用することは、事態を明らかにするよりも、混乱させている ことにしかならない。
Greeneの分析が、楽曲の聴取の体験に基づくというのであれば、その結果はオリジナルなものであるよりは、 工学的に広い妥当性を持つものであるべきだ。だから個別の分析でGreeneが様々な評者のコメントを 否定しているのは(内容の当否はともかく)スタンスとして矛盾していると言わざるを得ない。
ある評者が―自らの聴取の経験から―ある内容を読み取った結果が、―それを間違いといいたてるなら― 何故「間違っている」のかを説明すべきなのであって、単に否定するのは自分の分析の一般的妥当性を 自ら否定することにしかならない。
体験の分析を行う際の様々な学説の「つまみ食い」もまた、Greene自身の分析の寄与のありかを 見えにくくしている。
transfiguredという言葉はそれを繰り返すだけなら空虚だし、自己撞着的な記述 (groundness/ungroundness, directedness etc.)は説明になっていない。
むしろ、それではなく、別の用語を使うべきなのではないか?
「~でもなく、~でもない」は、神学や形而上学ならいざ知らず、具体的な経験の分析では単なる怠慢であり、 不毛だ。

本来的自己に対するGreeneの解釈は正しいのか?
非本来的自己と自然的態度―folk psychologyを信じるものとしてのを単純に同一視していいのか?
Husserlの超越論的自我とHeideggerのDaseinを区別することは正しいだろうが、Husserlの読み方としてはこれはおかしい。

「反復」についてのGreeneの理解はどうだろうか?(p.129 etc.)
日常の自己が連続性について持っている仮定からすれば、マーラーの音楽はナンセンスになるというのは「おかしい」。
日常性、自然的態度、還元、その他についてひどい混乱があるのではないか?

・p.24における図と地の反転についての論も、少なくとも表面上はナンセンスに近い。 何故これがニュートン的な古典物理学的描像と対立するのか、不明だ。 マーラーに図と地のambiguityや反転があるのは確かだが、そしてこれがマーラーの特徴であるというのも多分正しいが、 そこから先の議論はでたらめにしか見えない。

少なくとも日常的自我とfolk psychologyの主体とを混同することが現象学の(そしてHeideggerの)批判の対象に なっているのだが、Greeneはその点について全く理解できていないようだ。

・temporalityを問題にするなら、音楽の始まりと終わり、音楽の内部と外部を問題にすべきだ。
マーラーの場合ならersterbendの問題があるだろう。
あるいはKLやIの開始―主題の出現(Brucknerと異なって「生成」ではない?だがIXがある。)を音楽の経過に 持ち込むことも、同じように問題にされるべきだ。

一般にはベートーヴェン型の動機や主題の労作に対して、歌謡旋律の導入は異質のものだと言われる。 だが一方で、いわゆる楽段の4小節単位の構成というのがあって、それがさらに8小節の楽節に発展したのに対して それに対する逸脱という形で特殊性が言われることもある。(cf.シェーンベルクのVI-3の主題の分析) ところでそもそも、楽段はそれ自体、歌曲に由来する。 むしろ、歌曲の様な構成ではソナタは作曲できない、ということが無視されるべきではない (シューベルトへの批判を考えてもよい。) また変奏形式についても―こちらは主題は歌謡形式のものでも良い―そこで問題なのはマーラーにおける 形式をどう考えるか、どう特徴づけるか、ということだ。 楽節構成を韻律法的に読んでいくGreeneのやり方は、一つの方法ではあるが、あまりに一面的過ぎて それだけで何かが語れるとは思えない。 方法論があまりにも貧しいので、議論はその方法の結果のみからは出発できず果ては哲学者の概念装置のつまみ食いになる。

フレーズの非完結性はそれ自体興味深いが、韻律法的な楽節分析とどう関係するかは少しも明らかにされない。 普通に素朴に考えればフレーズが完結しないで次から次へと受け渡されてゆくことは、マーラーのような大きな形式を 構成するのには自然に見える。何が普通で何が普通でないのか? (動機による労作は、フレーズの完結性という観点からいけば、更に完結性が低くなる可能性があるのでは? だとすると、歌謡形式がここでは暗黙の前提になっている?結局、予断が含まれるのだ。)
例えば、GreeneのBekker批判は人を驚かすようなものだ(p.32)
そこではフレーズの構成という形式的・統語的レベルの議論が、いきなり常識的な意識の概念からの 逸脱に飛躍する。その間の関係付けについての正当化は全く行われない。Goodmanのexemplification theoryが あればOKなのだそうだ。
Adornoの弁証法と時間性の関係も、注で述べられているほど簡単なものではないだろう。 Adornoの弁証法とは、異なる時間性とは何か?そもそも、Adornoの弁証法の時間性とは何なのか? groundlessnessが「不可能でない」―Greeneが良く使う言い回しだ―というのがAdornoでは全く考慮されていない というのか?「新しい」「異なった」時間性、「変形された」時間性、という言い回しが頻出するわりには、 その実質はちっとも明らかにならない。 私の立場はAdornoとは違う、と叫んでいるだけにしか聞こえない。

ベートーヴェンをmodelとしてしまうことの危険。
実はAdornoはそうだし(中期ベートーヴェン)、Greeneについてもベートーヴェンを典型として マーラーをそれからの逸脱とするような見方がある。 だが、例えばソナタ形式の「標準」があったとして、それが中期ベートーヴェンなのかHaydnなのかは 問題だ。何故ベートーヴェンなのか?そもそもソナタの「標準」とは何か?
とりわけ時間論的分析においての規範の意味は? ベートーヴェンの時間性の方がマーラーより分析しやすい などということがあるだろうか?意識の流れに近い、小説のようなマーラーの音楽ならではの近寄りやすさ というのはないのか?
マーラーをいつも逸脱として例外として捉えるのはどうか(対比自体がいけないと言う訳ではないが、 評価上、バイアスがかかる)
もっと(実際には多くの日本人がしているように)端的にその作品に接したらどうなのか?

意識の音楽、無意識の音楽の定義
Greeneによれば、III-3は無意識、6は意識なのか?

*そもそも意味不明だ。無意識を「描写した」ということ?6が意識の描写である、というはもっと わからない。マーラーのつけた標題を密輸するから、こんな訳の分からないことになるのでは?
どういう点で、無意識の、意識の描写になりえているかの説明がせめて必要だろう。


Greeneの主張を救い出すこと
Heideggerはおくとして、反復を検討すること
Iの4における反復は有名だ(どちらの重点をおくかでAlmaが異議を唱えたエピソードがある。)
IIの5における合唱の入りも繰り返される(拍子が大きく変わっているが)
そしてVの5における反復。

より一般には「再現部」の問題が、各曲のソナタ楽章に存在する。勿論、文字通りの再現はないが、 だが、反復には違いない。反復はどういう意味合いを持つのか?
あるいは舞曲楽章のDa Capoも含めるべきかもしれない。


Greene p.14 音楽が現象学的還元をする、と考えて良い。意識の様相を自然的態度におけるドクサから引き離して 記述する―現象学とマーラーは並行している。
一方で、「ありうべき」―実際には体験できない意識を音楽が示しうる、というのは興味深い。
(cf. VIIIおよびIX)この主張については批判的に検討すべき。
ただ、私の経験していないものでマーラーが経験したものの表現と享受(伝達)は可能だし、音の流れの操作により 通常起こり得ない様態を「例証する」―シミュレーションに近い―ことは原理的には可能だろう。
一般論としては、充分に可能でナンセンスではない。

だからtransfiguredという言い方には注意が必要だ。
もっとも、もう一つの可能性がある。それは、感受の伝達(Whitehead的な意味で)しかも、不完全な伝達という考えに基づく。
だが、これはまだ作曲者の内部事象と音楽と聴取者の内部事象の3項図式に戻ることになる。
(これが間違っているとは思わないが。だが、感受の「結果」は音楽の「表現としての出来」だけでなく、聴取者の 内部状態にも依存するだろう。)

またGreeneは(実際にはよりマーラーに「近い」のかも知れないが)宗教的なものについての 自分の立場があるだろう。
多分妥当なのは、W.Jamesがとった様な立場なのだろう。
例えばハンス・マイヤーの様な読み取りは多分誤ってはいないのだろう。
だが、宗教性というのを心理的なカテゴリーとして捉えたら、マーラーの音楽がそうであることは 多分間違いない。だが、それが意識の様態としてどのようにであるのかを言わなければ 「~の気がする」というレベルに戻る。それこそマイヤーの言う装飾に目が眩んでついつい騙された、 ということになる。だからGreeneのいうtransfiguredというのの実質が問題なのだ。
それは「経験不可能」だが「可能である筈の」例外的な経験なのか?
ここにも「表現される対象」と「表現」の分裂があるようだ。
表現される対象としては「例外的な」ことがあろうが、表現は結局のところ可能なものの 範囲でしか可能ではない。それが「例外的」というのは日常ではそのような意識なり志向性なりが 生じることがない、という以上のものは無い筈なのだ。―それは他の音楽でも起きるだろう。
(また、アドルノの言う「ねえ、よくきいて」という叙事の姿勢も参照のこと)

備忘:交響曲の区分問題

Adornoが形式面からの分析によってその構造が小説(ロマン)に似ているという結論を引き出したのは 興味深い。
Greeneさらには恐らくHopkinsの様な認知的分析と小説形式はどう関係するのか?
←構築的なもの、ソナタ形式、 近藤のジェスチャーとしての音楽という指摘も考慮のこと。

散文であって、韻文にあらず。

LE 個人的/客観性→relativity(genre)
gm VIII⇔dsch XIV⇔gmLE⇔dsch X

sinfonie⇔lieder


Suspension/cesure
I-1?, III-1のsection間
IV-1の「夢のオカリナ」
V-2の対主題提示
VI-1のSuspension(Cow-bell)
VII-2の展開部2
IX-1の提示部末尾

temporality flowの停止、方向感の喪失?
--
見出されるものとしての因果性―通常の意識は充分主体的ではない。
後からその様に自己表象する。
→Greeneの主張する そうであると思っている/実際にそうなっている の対立
説明の原理としての←(この場合は)楽曲の構成原理、実装の原理としての

マーラーの「矛盾」とマーラーへの「距離」

マーラーの「遠さ」:引用、文化的文脈、民族性、社会的背景、地位(成功者)―引用も文化史もアドルノの観相学の本来の企図も、すべて遠い異邦の出来事には違いない。
作曲活動の不滅性(Blaukopf p.106)
進化論、汎神論と唯物論
ゲーテのファウストと唐詩の間の距離

作曲者でもなく、演奏家でもない、楽曲分析―伝統的な音楽学での―も遠い。
影響と再生産、単なる享受者、受容者にとどまって何が可能か?

内在主義、それどころか認知心理学的な水準まで戻っても良い。
(形式的な分析は「聴取」の論理からすれば―そして音楽は現象する音が全てだとすれば―逆立ちしている。伝統的な楽式論からの出発を保障するのは、せいぜい作曲主体の知識との共通性だ。―つまり、同じ教育を 受けたという。)

世界観の問題は残る。 マーラーの場合は、まずそれは「意図された」ものであった。 意図されたものはどうでもよくて、実現されたものが問題であったとして、だがそこで問題になるのはやはり世界観 ―というか認識のあり様、意識の様態といったものだ。 ところで、認知心理学的な水準に戻ることは、実験室の環境に聴取を還元することではない。マーラーの場合はそれは無謀な企てだ。 だから、結局はもう一度文脈というのは入って来ざるを得ない。 少なくとも歌詞は無しで済ますことは出来ない。 (標題は、それが撤回された、という事実を無視しなければ、やはりそれなりの手がかりにはなる。但し、標題音楽的な 解釈が是とされることには全くならない。標題は結局、歌詞そのものでもないのだ。) だからニーチェと第3交響曲は問題にして良い、すべきなのだ。

―マーラーの「矛盾」はだが、ずっと前から言い古されてきた事だ。 指揮者と作曲家、交響曲と歌曲、しかし世界観ともなれば別だ。意識の様態の多様性自体は問題ではない。 けれどもコヒーレンスはやはり想定されねばならない。 Kennedyは「実験的」「演技者」と呼んだ。 仮説とその検証がより近いのか? 否、そうでもないだろう。 作品を形成する作業と、そこに盛り込まれる実質の問題はだから分裂もするし、緊張関係にもある。

マーラーの音楽は、その世界観はもはや過去のものであって、疎遠なものだ。何と言っても前世紀の価値観の 産物なのだ。だが、マーラーの音楽は、同時代にあっても、アナクロニックなものであった。アナクロニズムには、だから注意を払う必要がある。

(もっとも、生活世界レベルでの世界観や思想、信仰については、彼が懐疑主義的でしばしば「実験的」で あったとはいえ、それなりに「誠実に」表明されていると思うが、、、)
それが「実験」であったことが戸惑いの原因ともなり、逆に時代の違いを乗り越える契機にも なりうるということなのだろう。それでも、違いは無心に音楽を聴いていたころには想像もしなかった程大きいように感じられる。それとも、これは私が変わったのか?かつての私はむしろマーラーの音楽の同時代人だったのか?

進化論と第3交響曲(Vignal):だがマーラーはショスタコーヴィチと違って、唯物論者ではなかったろう。主観的な闘争―勝利ではなく、漸次的な推移 banalな素材。

進化論的思潮との距離。唯物論への抵抗(手紙より)

例えば進化論に対する立場。あるいは唯物論に対する立場:19世紀の西欧の音楽では、この点で展望を共有することを期待するのは難しい。ただし日本にいれば、微妙に風景のピントの合い方はずれてみえる。マーラーの進化論に対する立場は微妙だ。彼は自然科学に対する豊富な意識を持っていた。ニーチェに対してはアンビヴァレントな感情を持っていた。ショーペンハウアーに対する共感を考えれば、実際には進化論を受け入れる素地はあったろう。だが、恐らく進化論に対しては留保をしたに違いない。彼の神がどのようなものであったかはわからないが、神がいたのは確かだろう。神秘主義があったに違いない。
彼は(処世のために改宗はしても)カトリックではなかった。とはいうものの、時代の空気を考えれば、現在の日本に生きる人間の意識と単純に同一視するのは 困難だろう。

こうした立場の違いを理由に、音楽そのものを拒絶することは一般には 「筋違い」と見做される。だが、そうだろうか?実際にはそうした態度はしばしば 密輸されているのではないか。教会で典礼に用いられる音楽を、そうした文脈を切り離して聴くのは 実際には困難だ。現実にはやってしまっている人は多いだろうが。

人と音楽の解離?かつての伝記主義的な解釈は、寧ろ音楽から人への投影に基づくもの?

出世主義者マーラー:Mahlerの音楽は、Adornoのいうほど、弱者の、引かれ者の歌なのか? 出世主義者であり、かつ成功者、今風にはセレブリティでもあったMahler

Mahlerの微妙さは、その多面性にある。あったのは自己への信頼ではなく、媒体としての宿命の認識だったかも知れない。醜い星座、調和しないモナドのイメージを定着させる?何のために?それに何の意義がある?

醜さや悪を観念的に考えることも、何か巨大な怪物としてイメージする必要もない。それは目前に、ごく日常的に存在する。エイハブのように鯨に向かうのは、ある種の投射の結果だ。

作曲者の意図と作品と、いずれに忠実であるかは明らかだ。だが、問題は主体の意図ではなく、作品がどうであるかということだ。もし、そうだとしたら「作曲者」はどうなる?天才の神話は?あるいは「個性」と言うものは?

マーラーへの疑念はむしろ第8交響曲を書いてかつ第9交響曲を、「大地の歌」を書くことができる点、あるいは第6交響曲のあとで第8交響曲を書ける点だ。両立しうるのか疑わしくなるほどの振幅。本当にどちらも信じられたのか?気分的なもの以上のものを読み取ろうとしたとき、そうした世界観や死生観のちょっと考え付かないほどの 相違はとまどわせるものになる。勿論、どちらかが本当で、どちらかが偽りでということはないのだろうが、だから、Greeneの第9交響曲についての最後のコメントは正しいだろう。第10交響曲があればまだ「一貫」するかも知れない。第9交響曲では問いへの答は出ていない。宙に吊られたままなのだ、と。

またKennedyの「演技者の要素があること、つまり確信からでなく、精神的な実験として態度を構えた」 というコメントは正しいのだろう。(ところで、かつての私は、一体ここに何を読み取っていたのだろう?こうした世界観の矛盾をどう思っていたのか?もう思い出せない。)

Mahlerの謎。なぜあのような音楽を、私は「内容」を問題にしているのだ。彼が疎外を感じていたとして、それを強調するのはおかしい。公的な成功と内面を混同することと同じくらい、両方を分離することも間違っている。平和な戦争の無い時代に、頂点にまで登りつめた人間の書いた音楽、私はそれを本当に理解しているのだろうか?100年前の異邦の音楽、しかも全く異なる生活。寧ろ作品そのものに向かい合う、自分なりに向かい合うことのみが可能か? 例えば、第3交響曲第6楽章、この音楽がどんなに並外れたものか、今ならわかる (かつては「当たり前」のように聴いていたのだ!何ということ!)

*かつての私のマーラー観が、恐らく、その当時まだ残っていたマーラー観の影響を受けて、ひどくエキセントリックで内面的なものであったのは 確かだ。何しろ、彼を成功者だとは思っていなかった。文字通り、殉教者だと思っていたのだ。第3交響曲第6楽章についての記述は、作品自体から受ける印象のことではない。そういう点では、かつての私も「当たり前」のように聴いていたわけではない。この作品の持つ時間性は、全く独特の、稀有のものだ。ここでいう並外れたもの、というのは、寧ろ、音楽史上をみても破格である、人間が創造したものとして、云々といった、比較対照をした上での 卓越性を言っている。確かに、かつてはもっと直接に音楽を聴いていたので、そうした他との比較の上での偉大さというのは「考えたことがなかった。」

しかしどちらが作品に端的に向き合っているか、判断は困難だ。言えるのは、かつての方が無媒介に接していたこと、今は距離感が存在すること、 その事実だけだ。(それでもその音楽は、その距離を乗り越えて、私の心を打つ。そういう意味でも、これは例外的で卓越した音楽だ。もっとも、 この感動には、しまいこまれた印象の想起、といった側面もあるのかも知れないが)。そして自分がかつて受け取ったもの、否、今でも受け取れると感じられるものと、そうして反省的に捉えられた人間が一致しない。だから自分にはきちんと聴けていないのではないかという懸念が生じる。もう少し一致してもいいはずだ。MozartやBrucknerの様な音楽では「ない」のだから、尚更だ。(従って、今一度、伝記的な像の確認もまた、必要だろう。La Grangeを入手する手配をしたのは、そうした理由による。欲しいのは、作品の解釈ではなく、 生涯の事実。人間像の方なのだ。この場合には。作品像は私の裡にあるのだから。)

偉人伝のシリーズに収まった大作曲家の生涯は子供を欺く。ラ・グランジュが、モルデンハウアーが、オールリジが、へーントヴァや ファーイが明らかにする作曲家の生は、ちかよればちかよるほど、子供が心に 描いた理想像から離れてゆく。伝記を読み事実を知ることでわかるのは、自分が音楽の向こうに見出していた主体は、 多少とも自分勝手な投影に過ぎないということだ。

社会的環境、選択された生き方、性格、思想を理解することは、自分が親しんでいる 音楽が産み出された環境が、実は自分とはどれだけかけ離れているのかという認識だ。(だからといって別に同時代性や、日本の作曲家であることが、距離感を塞ぐことは ありえない。)

コミットメントの重視。主体性。倫理。ここでは命題的とはいえないかも知れないが、 音楽を通じて表現された態度の帰属が問題になっているといえる。デイヴィドソンの根源的解釈だ。勿論こうした考え方は、作品を表現の媒体として捉える立場を前提としている。
そして作品には意味がある、という立場を。だが、マーラーの場合には、そうした立場をとることが問題になることはないだろう。

(2007以前)

2007年4月30日月曜日

はじめに:マーラーについて、私は一体何をしようというのか?(前半)

―マーラーについての情報なら、すでに巷に溢れている。そもそも、マーラーはお前が初めて出会ったときのように、説明を要するような 存在ではもはやない。四半世紀の間、お前が「世の成り行き」にかまけている間に、すっかり風景は変わってしまったのだ。 だから、今更マーラーについて、お前がやるべきことなんかない。ましてや、かつてと異なって、マーラーはお前のアイドルではないだろう。 あの盲目的で、近視眼的な、自分勝手な思い込みや共感は、けれども何かをマーラーに対してしようとするときに、必要な愚かさ だったかも知れないのだが、お前には既にそれは残っていない。マーラーが如何に例外的な才能と能力の持ち主であったか、 さらには自分とどんなに異なる気質の持ち主であるか、今のお前にはよくわかっているだろう。
お前はマーラーの音楽の演奏者・解釈者ではないし、マーラーを研究分野とする音楽学者でもない。今のお前と比較するのは 始めから無意味だが、かつてのお前程度の「フリーク」だって、マーラーの場合であれば、世の中にそれこそ数限りなく居るし、 これからも出てくるに違いない。もっと熱心なコンサート・ゴーアー、もっと熱心なレコード・CD蒐集家、アマチュアであっても 自分でマーラーの演奏に参加する能力と時間を持った人間、そうした多くの人間が居るというのに、一体お前は、マーラーに ついてこれから何をしようというのか?
話をWebに限定してもいいだろう。それにしても既に、何と多くのサイトでマーラーが語られていることか。お前如きが付け加えるべき 何かなど残っているのか?一体、何がしたいんだ?


―何か新しいもの、価値のあるものを付け加えることができるという確信があるわけじゃないさ。自分が何か特別に寄与しうるものを 持っている自信もない。でも、価値については考えないことにしたんだ。少し前のことになるけど、クラシック音楽について自分の書いた コンテンツを読み返して、そのうちあるものを破棄し、その後検索サイトのキャッシュを探して復元したり、ということを繰り返した時期があった。 キャッシュが残っているのも我慢できずに、自分の書いたページに対する削除依頼を出したこともあった。(効果はなかったようだけど。) 手元にあるバックアップは勿論、最初に消してしまったわけだ。実のところ、復元しようと思ったときにはもうキャッシュも残っていなくて、 記憶に基づいて改めて書き直した記事もあった。よく覚えていないものについては、それだけの価値がなかったのだ、 ということで諦めることにしたりもした。以前に書いたときほど うまく書けずに、再構を断念したものもある。でも僕は不徹底な人間なんで、そういうことにもじきに飽きてきて、ある時、 公開したものを撤回するのは止めよう、そのかわり、今残っているもの以外のことは考えないことにしよう、更に、残ったもののうち、 どれを凍結し、どれを拡張していくか、その場限りのものであってもいいから、方針を決めようと思ったんだ。
若干の手直しはすることはあっても、原則としてもうこれ以上関わらないために、言ってみれば「決着をつけるために」書いた文章 というのもあるんだ。それらは最早不要なものだけれど、不要なものとしてそこに残っている必要があるみたいなんだ。 それに気づかなかったのが、不毛ないたちごっこの原因の一つだったらしい。
一方で、まだ書くことが残っていることがはっきりしているものもあった。勿論、こんな判断は、いつ反故になるかわかったもんじゃない。 けれど、とにかく、「決着をつけるためには」まだ書かなくてはならなさそうだ、と思えるものがあった。その2つを区別したとき、 マーラーは後者の側に残ったんだ。要するにマーラーは、未解決の問題なんだよ。価値という点でいけば、専ら主観的な価値だけ しか考えていない。別に他の人にマーラーを紹介したいわけじゃないし、自分の嗜好を押し付けたいわけじゃないんだ。他の人が マーラーに接する際の参考にして欲しいと思っているわけでもなし、何か他の人の知らない恐らくは有益な情報を提供しようと 考えているわけではない。

―これまた随分な言い様だね。専ら主観的な価値のみが問題だというなら何で公開するんだい? そんなものは気が済むまで こっそり書いて、引き出しにしまいこむなり、燃やしてしまうなりしてしまえばいいだろう。お前の言い分は到底額面通りには 受け止められないよ。実際には、そんなに謙虚で控えめに考えているわけではないんだろう? 正直に言ったらどうなんだ?

―いや、主観的な価値が問題だとしても、書くことは孤立した営みでは困るんだ。迷惑千万かも知れないけど、それは 自分の手を離れる必要があるんだ。それもまたコナートゥス・エッセンディなのかも知れない。 それが利己的だというなら、それでも仕方ないよ。(贈与がコナートゥスの様態だとか言ったら、レヴィナスはどういう顔をするだろうね? この問題は、多分見かけほど―そしてここでこのように皮相なかたちで扱われているほど―には単純な問題ではないのかも知れないね。 レヴィナスだって、多産性のようなかたちで問題をきちんと言い当てているし。けれどもここはレヴィナス的な倫理を主題的に扱う場じゃない。) でも、寧ろマーラーが自分にとって他者であることがはっきりとわかった今なら、その分だけはっきりと、他者から受け取ったものは、他者に渡すべき なのではないかと、そう問うてみることができると感じている。もちろん、収支は大幅な入超だ、ということになるのかも知れない。 主観的な価値が問題だ、というのは、その収支で計量できる価値においては、自分が手渡すことができるものがどんなに貧しいもの、 限りなく無に近いものであっても、それでも、受け取ったからには、自分から手渡す何かがあるべきだと思う、ということなんだ。 その何かは、実際には僕の脳の中にしまいこまれて、生命活動が止んだ日にそのまま無に帰してしまっても別にどうということはないかも知れない。 どっちでも世の中にとっては違いはないのかも知れない。それは仕方のないことだよ。でも、僕が受け取ったものは、作った人間が「神の衣を織る」 つもりで作り上げたものなんだよ。たとえ自分は「神の衣を織る」ことそのものには与れなくとも、せめてその衣について語ることくらいは したいんだよ。自分の目にした貴重なものが、自分の脳の中だけに記憶され、自分の死とともになくなってしまうのが嫌なんだよ。

―それについてなら、心配はいらない。何もお前が残さなくてもマーラーの作品は残る。別にお前が何かしなくてはならないことなんかない。 繰り返しになるけど、もう今はお前がマーラーに出会った時代ではないんだ。こんなに「流行る」とは思わなかったけど、でもどっちみちお前が 何かしたからこうなったわけじゃないしな。いや、お前がマーラーに出会った時代には、マイケル・ケネディではないが、すでにポットの湯は 沸騰寸前だったんだよ。そもそも、その後のナチスの影も含め、反ユダヤ主義の問題があったとはいえ、マーラーは同時代においてすら 少なくとも「話題の中心」ではあったんだ。ほっとけば流砂に埋もれてしまうお前のような存在とは訳が違うんだよ。とにかく、いずれにしても 現時点ではこれ以上マーラーについて何を言っても後出しジャンケンみたいなもんだ。

―それはわかってるよ。だから主観的な価値の問題だと言ってるんだ。でも、マーラーの作品の価値が自分と全く無関係だとは 思わないよ。寄与度としてはどんなに取るに足らないものであっても、無関係ということはない。そもそもマーラーの価値というけれど、 それを認めない人だって、いつの時代にもきっといるんだし、そもそも、マーラーなんか知らない、という人だってたくさんいる。 それどころか、寧ろそっちの方が多いんじゃないかな。マーラーの価値を自明で磐石のものと考えるのは、ある価値観を共有する 環境の下でのみ有効に過ぎない。その範囲は時間的にも空間的にも限定されていると思うけど。勿論そんなこと言ったら、 マーラーに限らず何でもそうだということになるかも知れない。実際その通りなんだ。マーラーを擁護し、批判するというけれど、 それが問題にされる世界というのは、実際にはちっぽけなものだ。マーラーなんかなくたって全然困らない世界の方が遥かに 大きいんだよ。別に自分のことを棚にあげているわけではないよ。マーラーですらそうなのだ、と言ってもいい。いずれにしても その価値は全然自明じゃない。

―おいおい、一体何を言い出すんだ。お前は一体誰に向かって何をしようというんだ。謙虚さはどこへやらで、今後は 十字軍気取りかよ。だいたいそんなこと誰も頼んでないし、マーラーだってそんなこと期待しちゃいないだろう。 さっきは主観的な価値と言っておきながら、随分とこれはまた大風呂敷なことを言うものだ。 それでいて他の人にマーラーを紹介したいわけじゃないし、何か他の人の知らない情報を提供しようと考えているわけではないと 言うのだから、全く矛盾も甚だしい。いい加減にしたらどうだ?

―それを矛盾と言うなら、そうかも知れないな。けれど僕が言いたいのは、自分の価値観を他人に押し付けて、無理やり同意を 求めたりはしなくない、でも、自分が価値を認めるものについて、沈黙したまま墓の中に持って行くことはしたくない、ということだけなんだ。 つきつめればこの2つは矛盾するかも知れない。所詮はミームの生存競争なんだろうからね。謙虚なのは見かけだけで、それはミームの 纏う詭計ではないかと言われれば、そうかも知れないという他ない。少なくとも進化論的ゲーム理論のような枠組みではそういうことに なるんだろうね。
ところで、マーラーについては、例えばそうした(必ずしもダーウィン的なものに限定されない)進化論的な考え方(マーラー自身もその音楽も その中では1つの個体に過ぎない)と、マーラーの音楽の内容(つまり音楽自体が、そうした考え方についての或る種の反応なんだ) とが触れ合うんだ。もっと言えば、マーラーの音楽こそ、意識のパラドックスの最も端的な現れの一つなんじゃないかな。 僕にとってマーラーが未解決の問題だ、というのは、一つにはそういうことが含まれているんだ。マーラー自身、(人はただちに第3交響曲に まつわる議論を思い浮かべるだろうけど、)ダーウィンの時代の人間だし、ニーチェは勿論だけれど、単にドイツ・ロマン派的な自然哲学に 親しんでいたというのに留まらず、それ以上に自然科学への関心がとても強く、フェヒナーやロッツェを愛読していたくらいで 進化論的な発想は馴染みがないものではなかったようだし、一方で、不滅性の問題―それは普通には寧ろ、「魂の救済」とか「宗教」 の問題と見做されるのだろうし、実際、マーラーその人の文脈ではそう言ってしまってもいいんだろうけど、僕は出来ることなら一旦 そうした文脈を括弧入れして、自分の生きている時代の文脈、あるいは自分が育まれてきた環境の文脈に置き換えたいんだ―は 彼の中心的な問題であり続けた。人と音楽とは勿論区別しなくちゃいけないけど、マーラーの場合、結局、別々に論じることは できないし、マーラーの音楽は、それを安易に素材としての標題と結びつけるのは問題だけど、さりとて意味を無視して形式だけ 論じることを音楽自体が拒否しているのも確かなことだ。いや、それを一般的に論証するのは無理かもしれない。でも僕にとっては そうだ。僕がマーラーの音楽を聴いて受け取ったものは、入り口では生理的・感覚的・情緒的な反応に過ぎなくても、どこかでそうした 概念的なものと結びついている。個別事例でいいんだ。私の場合、であって、それが一般性を持たなくたっていい。所詮は一般性 なんて程度問題なんだし。でも、「私は確かにこうしたものを受け取った。それは決して無ではない。」ということを、示したいんだよ。 勝手な言い草かも知れないけど、マーラーの音楽がそのように誘っているんだ。

―相変わらずの飛躍ぶりだな。全く目が眩んでしまう。マイヤー言うところの「絶対的な表現主義者」の立場に共感を覚えていると 言う割には、お前の言うことはいつもいつも作品そのものとは懸け離れた話ばかりじゃないか。それでフローロスについて否定的に 考えているなどとよく言えたもんだ。所詮は音楽の享受者でしかないくせに、背伸びをするのも程ほどにしたらどうなんだ?

―確かにそれはその通りだよ。僕は音楽の創作の現場にいるわけじゃないから、そこでなら可能な、生産的な継承というのは 無い物ねだりだ。でも、だからといってマーラーの作品を完結した過去の遺物としてしか扱えないとは思わない。こんなことを 言ったら不遜の謗りは免れないだろうけどね。
フローロスのやり方でひっかかるのは、彼が「それは確かにマーラー自身が考えてメモ書きしたことだ」とか、「この手紙で 彼自身が言っている」「誰それに語ったという証言が残っている」という実証性を免罪符にして、結局は素材に過ぎなかったり、 あるいは極めて不正確な歪みをもった譬えに過ぎないものを、作品の内容そのものと同一視してしまう危険がある点なんだ。 前島さんのいう標題Aへの経路として標題B,Cがある、ということが常に意識されていればいいんだけど、フローロスの議論は 時々、前島さんほどはその点が峻別されていないように思えるしね。そもそも、前言語的な標題Aって、一体何なんだろう。 それをあえてまだ、―混同の危険を冒してまで―、標題と呼ぶ必要があるんだろうか。結局、言語で議論を行っていて、 標題B,Cが持っているバイアスを除去して、標題Aをいわば「還元」することなんか、できるんだろうか。それを可能にする には、標題B,C以外の別のものを持ち込むなりして遠回りをする必要はないんだろうか。何か、ちょっと人工知能における 「表象」の問題に似ている気もするなあ。
でも実は、本当の問題は、標題Aを認めたとして、それは依然として作者の意図の、作品にとっては素材の水準に留まって、 作品に実現されている内容には辿り着かないことに対して無頓着なことではないかな。勿論、作者の意図は重要だし、 それがある作品の魅力をかなりの部分規定してしまうことは否定し難い。でも、意図されたものだけでは十分じゃない。 だって僕が聴きとって惹きつけられたのは、その作品の内容なんだ。マーラー自身、意識的な意図を超えて「書きとらされている」 という証言を何度となくしているけど、作品の内容は、作者の意図と一致しない。勿論、不等号がどっちを向くかは場合による んだけど、マーラーのような天才の場合には、いつも作品が意図をはみ出しているんじゃないか、だからこそ、時代の制約を 超えた価値を持ちうるんじゃないだろうか。アドルノの観相学や精神分析的な読解がいつも妥当だとは思わないよ。恣意におちいってしまう 危険は大きいだろう。だけど、それらはそうした「言外」の部分を取り出そうとしているわけで、そうしたアプローチもまた、意義があると 思うけどね。要するに、作品そのものが問題なんだし、記号論的三分法でいう作品のレベルの中立性は理論的な仮構である ことを思えば、寧ろそうした恣意の危険は避けて通るべきではないと思う。少なくとも僕は、自分が受け止めたものに忠実でありたいと 思うしね。「客観的な」マーラー評価は、どこかの偉い音楽学者や評論家の先生の仕事で、僕には関係ない。
もちろん標題B,Cを実証的に跡付ける作業が全く無価値だとは思わないし、そうした実証性は、資料的な価値は十分にあるから、 それはそれで大事なことではあるんだろうけど、フローロスのようなアプローチだと、(まあ彼自身、実際にそう言っているんだけれども) 19世紀に書かれた交響曲は、マーラー「に限らず」、軒並みフローロスのような標題的な分析が可能であるということになってしまう。 もっとも、これをきちんと考えるには、翻訳されていない第2巻あたりで展開されているらしい、「性格」についての議論から辿ら なくちゃいけないだろうね。それが標題にどうつながっていくのか、フローロスが意味論をどのように根拠付けるのかがわからないと、 フローロスの「方法」については判断できない。その意味では―まあ、売れないだろうから仕方ないけど―第3巻だけが 翻訳されているのは、残念なことだと思う。上でも触れた前島さんの解説はとても立派なものだけど、それがフローロスのやっている こととどう関わるのかがわからないと、読者は戸惑うんじゃないかな。あるいは、安易な読者なら、前島さんの説明を読んで、 それがフローロスの主張(の代弁)であると見做して先に進んでしまうんじゃないかしら。どうせなら、ついでにフローロスの議論では 前提がどんなものであるかというのを、第1巻、第2巻の内容を要約する仕方で説明してもらえればよかったのに、と思うよ。 その要約があれば、安心して第3巻を読むことができるわけだしね。でも、これまた今ここで僕が言いたいこととは関係ない。 音楽学の方法論は、音楽学者とか音楽評論家が批判しあって改良していけばよくて、僕なんかが口出ししてもしょうがないしね。
とにかくフローロスの方法論が一般的な妥当性を持つとしたら、例えばブラームスとマーラーを隔てるものもないし、マーラーが あんなに苦労して差別化しようとした、シュトラウスとマーラーを隔てるものもなくなってしまうんじゃなかろうか。 もしそうだとしたら、別にそういうアプローチの仕方そのものを否定するつもりはないけど、それならそれで、寧ろマーラーなんかより、 「絶対音楽」であるはずのブラームスの交響曲とかを分析した方が面白かったんじゃないかな。そうでなきゃ、色々と道具は持ち出したけど、 結局景色は大して変わらない気がするしね。
でも、だとしたら少なくとも僕はそんなアプローチには全く興味はない。別にマーラーの意図を尊重してというわけではなく、 僕が救い出したいのはマーラーの独自性だからだ。「そんなものはないんだ。結局、マーラーだって時代の子であって、彼がやろうとしたことは、 その時代の人間は多かれ少なかれ思いついていたし、気づこうと気づくまいと、実際にやっていたことなんだ。」という声が 聞こえてきそうだけど、僕はそれには、たとえそれが身の程知らずだろうと、抗弁するつもりだよ。だって、僕は他ならぬ マーラーの音楽に惹きつけられたんだから。欲しいのは時代の一般的な傾向なんかじゃなくて、差異の説明なんだ。
同じことは、社会的・文化的な背景を強調する立場に対しても言える。19世紀末のウィーンの状況を知ることは、 マーラーを理解するのに大切なことだというのは否定しないし、そうした文献にあたることはとても興味深いことだと思う。 でも僕が惹かれたのはマーラーであって、19世紀末のウィーンの方じゃない。はっきり言って19世紀末のウィーンには寧ろ 反撥の方を覚えるくらいだ。それよりなにより、時代がこうだったから、という説明は、結局のところ、いつまでも僕のマーラー 経験には辿り着かない。
それよりかは例えばシェーンベルクのプラハ講演でのあの第6交響曲アンダンテの旋律の分析の方が、よほど僕の経験を 的確に説明してくれるように思えるんだ。もちろん楽曲分析なら何でもいいというわけじゃない。一例をあげれば、楽曲分析としてはマイヤー的な 手法を批判的に継承し、時間性の分析としてはフッサールやハイデガーの現象学を援用するという触れ込みのグリーンの分析は、その着想はとても魅力的なのに、 結局のところ不毛なものに思えてならないんだ。そこでは分析の手法はいわばアリバイに過ぎず、結局言われていることは、 分析の手法とはほとんど無関係にも言いうるようなこと、しかも更に悪いことには、ほぼ空虚な主張に過ぎないのではなかろうか。 どうやら彼は、ハーツホーンのプロセス神学の研究もしているらしいから、ホワイトヘッドのプロセス哲学の道具立てだって 知っている筈なんだけどフッサールやハイデッガーに言及しているところを読むと、随分と不可解なことが書かれていて 理解に苦しむ部分も多い。現象学的な時間論とグリーンがマーラーの交響曲について言いたいこととどう関係あるのかよくわからないし。 だいたい音楽学者が「音楽の現象学」とか「音楽の時間論」と言うときって、どうして現象学者の言葉の引用とか、 本来別の目的で為された旋律の分析のような断片的な議論の敷衍や、音楽作品の享受ではなくて音響知覚のレベルが 適当なような一般的な議論しかしないんだろう。音響学でも心理学でもなく、音楽の現象学を名乗り、あるいは 「音楽的時間」というのを殊更に主張しながら、~ではない、~でもない式の言い方ばっかりでちっとも固有の水準に ついての話は出てこないし、しかも個別の音楽作品という具体的な分析の素材が幾らでもあるというのに、個別の分析は ないか、あっても一見したところ奇妙に素朴な形而上学的な議論になったりして、ちっとも現象学的でなかったり、、、
(ちなみに、ホワイトヘッドの「過程と実在」における概念装置と、現象学的な記述との比較というのには随分昔に興味を 持ったことがあるよ。現象学的な記述にはその立場に由来する「影」がいつもつきまとっているし、ホワイトヘッドの道具立てはエラボレイト しなくてはいけないだろうけど、でもこうした事柄を記述する暫定的な出発点としては、そんなに見当外れだとも思わない。 今だったら、神経科学的な知見によってホワイトヘッドの記述にある肌理の粗さを補完することが考えられるし、現象学は それ自体を意識の自己記述(というか「虚像」の構成)の様相として、捉え返すことができそうに思える。そして、マーラーの ような音楽作品には、やはりそうした「影」が映りこんでいるように思える。だから、現象学と対比するのは、ことマーラーに 関しては決して見当はずれというわけではないんじゃないかな。別に構造主義的歴史学みたいに、あるいはアドルノの観相学の ように、現象学理論とマーラーの音楽が同じ社会的・文化的環境の反映で、或る種の同型性を持っている、というような ことを言おうとしているわけではなくて、もっと端的に、マーラーの音楽のありようが、「意識」の音楽だ、ということでいいんだけど。)
だいたい時間論といいながら、その時間分析のスキーマは随分と貧しくないだろうか? 因果性と自由意志の2つだけで、それを繰り返し用いるだけだから「どちらでもない」「どちらでもある」のような記述として 無意味なことが起こるんじゃないかな。特に第8交響曲や第9交響曲については宗教的なテーマが前面に出てくるから、 彼の独擅場なんだろうけど、首を捻ってしまうな。「変容した意識」というのを繰り返し言うけど、変容の内実が語られなければ それは空疎だ。単に違うといっているだけで何の説明にもなっていないんじゃなかろうか。もし「変容」という言葉の宗教的コノテーションに よりかかった含意をそこに読み取るべきなのだ、というなら、それは結局、現象学や楽曲分析の結果じゃない。その「変容」とは どんなものであるのか、第8交響曲や第9交響曲の時間性の特異性―それ自体は、僕も否定しないよ―を記述する言葉を 見つけるのが課題だったんじゃないのか。
他にも、因果性の話題のところで、意識の話をしていたかと思えば、物理学における未来の事象の予測が出てきたり、 それがサルトルの「自我の超越」に結び付けられたりと、目が眩むような議論の展開が結構ある。あるいはマーラーの音楽と シュニッツラー、クリムト、クラウス、ハイデッガー、サルトルとの間にアナロジーが成り立つとか言われても、この名前の並びを見れば、 その程度のアナロジー(僕には極めて粗雑で、危ういものに見える)が一体マーラーの音楽の時間構造の理解にどう寄与するのか、 どちらかといえば怪訝な気持ちになるんだけどね。
実のところ、マーラーの音楽そのものについてグリーンの言っていることをとれば個別には首肯できる部分も結構あるんだけれど、 それを敷衍して意味や解釈のようなレベルになると途端に言っていることが怪しくなって、おしまいに他の哲学者の概念や文学作品、 美術などを持ち出してきて、アナロジーをやりだすと、今度は解釈の方が一人歩きしだして、こちらは全くついていけなくなる、 というのの繰り返しだ。少なくともグリーンは個別の作品の具体的な分析をやっていて、それは大変に貴重なものだし、グリーンの注目する フレーズの不均衡の問題や不完全なクロージャの問題は確かに重要な観点だと思う。だけど、そのレベルでだって、マーラー独自の 時間構造の特徴とでもいうべきものがちっとも浮び上がってこないように思えるし、それでいて聴取によって構成される構造のレベルの 議論をいきなり表現内容の話と結びつけるのはそもそも無理があるんじゃないかな。どうやらグリーンにとってはそれはmetaphorical exemplification という概念で正当化されているらしいんだけど、実際のグリーンの議論に関しては、全然納得できないな。
もう一言言えば、グリーンは自分の説の独自性を主張するのに、様々な論者の意見の批判をするんだけど、もし彼が音楽を 現象学的に分析しているんだとしたら、その批判の仕方はおかしいように思うな。批判するより、どうしてそうした(グリーンの 立場からは)「誤った」説が出てきてしまうのかの説明をすべきなんじゃなかろうか。仮に誰もグリーンが分析したようにはマーラーの 音楽を受け止めていないんだとしたら、それはグリーンの分析の正しさよりは寧ろ誤りの可能性を示唆する証拠にならないだろうか。 結局、一体グリーンが何をやりたいのか、何を言いたいのか、判然としないんだよ。これはすごくがっかりした。結構期待していたんでね。 まあ僕の頭が悪くて、しかも彼の目も眩むばかりの博学にはついていけないので、彼の主張の素晴らしさや独創性が理解できないだけかも 知れないけれど。

―おやおや、今度は楽曲分析に対する批判か。よくそんな偉そうなことが言えるものだ。それじゃあ、一体お前は何を言えると いうんだ。実際には他人の言っていること、やったことに難癖をつけるだけで、自分では何もしていないじゃないか。どうせ 自分では大したことも言えない癖に、どうやって責任をとるつもりだ。

―いや、それはもっともな批判だと思うし、実際、的を射ているよ。本当のところ、だからといって自分が画期的な分析の 方法を思いついたわけでも、マーラー研究に貢献しうる何かを持っているわけでもないんだ。だから批判する資格なんか 自分にはないのは承知している。自分が言っているのが単なる愚痴だというのもわかっている。でも、立派な研究が自分の 体験を素通りすることに違和感を感じるのは事実で、それを偽っても仕方ないだろう。所詮僕は研究者じゃないから、 方法論の批判が最後には自分に降りかかることになるのは避け難い。でも、おかしいと思うのを言うのだって、まるきり無駄では ないだろう。やっていることの不毛さへの批判は甘受するよ。その上で、自分に出来る仕方で自分の体験に忠実であること、 自分の体験を或る種の記録として残すことくらいしかできそうにない。それの価値については弁解はしない。それを決めるのは どんなにつまらない、僕の書いた文章のようなものであれ、そのきっかけとなった、比較を絶する価値を持つことは疑いようの ないマーラーの音楽であれ、いずれにせよ作者ではないんだ。別にジャンケレヴィッチ式の事実性に立て籠もって、価値の差に 立ち向かうつもりもない。(だいたい、あんな論法は何の慰めにもならないんじゃないかな。いや、あの本を読んだときには、 それなりに感心もするかも知れない。でも実際に、どの人称のでもいい、「夜」が来るのを経験すれば、、、) そう、ナチスの足音に怯えることのない幸福な時代であっても、貴賎を問わず、アドルノが「夜」と呼んだものは、レヴィナスが 指摘している通り、結局のところ誰にでもやってくるんだ。勿論、当然、僕の上にもだ。 正直に言うよ。最後はそれに尽きる。
マーラーがこの上もない天才的な仕方で為しえたことは、つまるところ、儚い存在に過ぎない意識の、主体の擁護ではないだろうか。 有限なものを無限にすることはできない。けれどもそれぞれの可能な仕方で不滅性に(到達することは不可能でも)漸近することは できるのではなかろうか。けれどそのときそれは最早、私ではなく、意識ではありえないだろう。 いずれにせよ「私」とは異なったものに委ねるほかないんだ。もし魂とは、そうした「異なるもの」の呼び名であるというなら、 僕はそれをまで否定するつもりはないよ。
こんなことを言ったからといって、勿論これは結論ではないんだ。寧ろ、これこそマーラーの音楽が呼び起こした問いなのではないか と思うんだ。同じことの繰り返しになるけれど、結局のところ、それは僕にとって未解決の問題なんだよ。恐らくは 決着がつくような代物ではないかも知れないけど、そうとわかっていても、少なくとも今しばらくは関わらざるを得ない、、、
だってそうだろう、同じ人間が、あの第8交響曲と第9交響曲を書いたんだよ。こんな矛盾があるだろうか。マイケル・ケネディは、 「実験」と見做すことでそれを理解しようとしていたように記憶しているけど、本当にそうなんだろうか? それでいて、そうした 分裂、懐疑を否定することができないとも思えるんだ。寧ろ、それは誠実さの証ではないだろうかとすら思えるんだよ。 どちらもそのときには正しかったのかも知れないしね。もしそうなら、第10交響曲のフィナーレの姿を、クック版のおかげで 垣間見ることができたからといって、それが結論ということにはならないかもしれない。いつでも否定される可能性はあるのだから。 でも、彼にとってはあれが結論だった、ともまた言いうるんだ。そして更に、音楽の上での結論と、その人の生涯の軌跡の上での 結論の関係が被さってくる。確かに所詮は他人の人生で、関係ないといえばない。でも、音楽がつきつけるものを無視して しまうことはできない。少なくとも我が事として引き受ける仕方では考えてみざるを得ない、あくまで僕の個人的な受け止め方だけどね、、、(以下、後半に続く。)

(2007.4.30初稿, 5.1, 15加筆, 6.30, 7.1加筆修正, 8.14修正)

2006年9月30日土曜日

マーラーの音楽へのアプローチについての架空の問答

―歴史的なアプローチとは異なったアプローチ。音楽の構造を捉える別の仕方?

作曲者は歴史的に拘束されている。だから、創作にあってはアドルノが指摘するような力学が存在する。 だが音楽は残る。残って享受される音楽は必ずしも創作時の力学における作用の記憶をすべて保持しているとは限らないし、作曲の姿をそうした記憶に基づいてのみ解釈する必要も無い。出来上がった音楽は、静的な構造(生成論的に扱わないと言う意味で)を持っている。その構造の動態を記述したり解析したりすることも可能だ。その際、記述レベルの問題があるから、要素に還元するやり方は成功しないだろう。(物理的な音響のレベルetc.)ここでも適切な記述言語を見つける事が必要なのだ。その言語では、「個性」のようなものを区別できる必要がある。自然言語はかなり有効だが、多分、万全ではない。(Husserlにおける、3つのレベルの最後のレベルが自然言語のレベルだ。)「形式分析でも標題の記述でもない」はOKだが、アドルノの途が唯一では勿論ない。また観相学を全く別の目的で(創作極における基層の発掘の考古学ではなく)別の言語でやることは可能な筈だ。

―現象学は?そのつもりではなかったのか?

その通りだ。現象学的なアプローチが可能であると考えていた。GreeneのMahler : Cosciouness & Temporalityを読もうとしたのはそのためだ。だが、アナロジーやメタファーを超えるような記述言語としての実質を如何にして備えることが可能なのか、問題視することはできるだろう。現象学は狭義には、意識に現れたものについての構造や条件を探求するものだろう。とすると、音楽を対象とすると、創作の極で創作行為の最中に生起している事象についての記述か、あるいは演奏者や享受者が(勿論、創作者と同じ人格であっても良い)作品を聴くという行為の最中に生起している事象についての記述になるだろう。 前者について、内観を方法論としてやるというのは、(あなたが、件の大作曲家「である」というなら別だが)方法論的にはナンセンスだろう―もっとも「普遍的な方法論がある」とあくまで主張するなら論理上は別だが―。だとしたら、後者についてのみが私には可能だ。 志向的対象として(いわば理念的に)音楽を考えるというのはインガルデンの受容美学の基底に存在する立場だろう。だが、一般に聴取の(音楽であるかを問わない)現象学を目指しているのでも、はたまた音楽一般の現象学を目指しているのでもないのだ。(そうした一般を目指す試みはうまく行かない。定義で躓いて、先に進まないのだ。)

―理念的対象としての音楽?

私の内側に、享受のときに起きている事象。確かにある音楽がもたらす固有の「効果」というのは存在する。クオリアの問題にも通じる。音楽を対象とするときクオリアというのは、非常に複合的な事象で、あたかもそれを単独で扱える単位として捉えることが出来るかの様に扱うことが無理なことに気付く。もし、クオリアを単位としたければ、それはここで問題にしているものではない。区別すべきだ。

文化的に何重にも規定された対象ではあるが、例えば脳の活動と意識との距離に比べれば、そこから先は大したことはない、とも言える。そこから先は可塑性が個別性を可能にする、といえるからだ。享受は伝達である。(ただし単純な伝達ではない。Whiteheadの言う感受の意味では、享受は複合的な感受だ。)こちら側に(大まかには脳に)或る種の写像が行われるのだ。その過程で生じる変換の始端と終端には大きなぶれがある。(例えば、演奏の享受形態―コンサートホールで、CDで―の多様性、そして聴き手の脳の内部状態、私とあなたの違い、私もまた移ろってゆく、、、)だが、変換の過程で保存される構造があるだろう。構造の存在までは一般的だが、具体的な構造自体は個別的だ。勿論、切断の与え方は幾通りもある。ここでは暗黙的に「私」と明示的には作品を固定した切断を与える。作品と言ったが、作曲者を、とただちに言い直すべきだろう。そして、作品―これは相対的には扱いやすいかたちをしている、少なくとも現象学的な対象として扱えるだろう―とその作者との関係は必ずしも明らかではない。ここでは、作品間で保存される構造を見つける事がやりたい事だろう。(その保存される構造が、作者の個性と言うわけだ。)勿論、ここでは作者当てのコンテストをやる事が目的ではないから(クラスタ分析や、自己組織化マップにより、特徴ベクトルによる分類をし、それを作曲者の名前のラベルと対応付けられるようにしようと試みているわけではない。)、その構造が他の作曲家の作品にも出現することは考えうる―作者の名前はあらかじめ明かされた上で、その構造を探索するものとする。だが、無論のこと、発見された構造は作曲家の独自性を証するものであればある程良い。つまり「個性」を、自然言語とは別の記述言語で記述したいのだ。更にその「個性」は、動的に、享受の際に感じられるクオリアの記述でもあって欲しい、という訳だ。印象批評は前者により、記号論的アプローチや音楽の形式分析は―道具として用いることは出来るだろうが―後者により、充分な手段ではない。
アドルノ的な批判理論は、創作の極の構造の記述に、実際のところ限定されていて、ここで目指している特性には―少なくとも直接には―貢献しえない。また「音楽の現象学」式の一般的なスキーマは、具体的な事象についての具体的なモデルを提示しようとする試みには、やはり直接には貢献し得ない。せいぜい議論の枠組みを作り、探求に見通しを与えるくらいのものだろう。

音楽は多様で、音に対する姿勢と言うのも多様だ。だが結局自分にとって関心のある領域は「自我の音楽」のいわば周縁部分ということになるだろう。これは価値論的な優劣の問題にはあらず、ただ単にそうした創作と、そうした創作の享受に、私が意義を感ずるということだ。音楽家は音「について」思索することも可能だろう。「自我の音楽」とて、素材に対して全く無頓着という訳にはいかないから、音についての思考も含まれるだろう。だが、自我の音楽の無自覚な前提―「内容」についての確信―を私は否定したくない。自我の音楽を論じるにあたって、その「内容」を否定してしまったら、それは、その音楽の持つ特性の有意味なモデルではないだろう。「個性」はそれ自体「内容の否定」という形も取りうるが、そういったレベルよりも一つ下のレベルで「内容」にあらわれた個性、で良いのだ。-というより、そちらの方が探求は困難だろう。勿論、今のところ「内容」の定義は曖昧で充分だ。それはいわゆる「標題」ではない。その内容こそが、件のモデルに表現されていれば良いのだ。内容を通り過ぎてしまえば、価値論的な領野は閉ざされてしまうだろう。音楽の認識論、時間論というのがあっても良いが、私は時間一般の構造には興味が無い。時間を主題的に扱ってしまうと、具体的な話ができなくなる。時間を議論するのに好適な音楽というのもあるだろう。抽象的な音の構造や、音の知覚を主題的に扱った音楽もまた、あるが。
ただ、そうした音楽では充分なレベルは「自我の音楽」では不十分になる。多分、記述の水準が異なるのだ。勿論音と音との関係でしかないのはわかっている。問題はそれが、何故、「自我の音楽」たりうるかではないか。しかもここでは「自我の音楽」の成立の一般的条件を問題にしている訳でもなく、その個別のモデルが作りたいだけなのだ。だから時間一般の理論というのは、ここではやはり答えそのものではない。

―どのレベルをモデル化の対象とするのか?

勿論、脳内事象をモデル化することはできない。創作と聴取(勿論演奏も)の極での事象を直接扱うことは、少なくとも現時点での私には出来ない。論理的には、いずれは可能になるかも知れないが。とすれば、いわゆる中立レベル、一見ただの楽曲分析をすることになるようにも思われる。実際、個性があるとしたら、とりあえずマーラーのような時代の作曲家ならまずは楽譜に記載されたうちにあると言って差し支えない。
アドルノの分析は明らかに創作の極に重点があるが、しかし、結局のところ楽譜を手がかりにして考えていくしかない。寧ろ楽譜の手前の素材(伝記的事実を含む)の分析なしでそれを行おうとしている様に思える。マーラーの場合には、素材の次元での情報も多く、また言うべきことも多いから、一般にはそうなる。しばしば見られるように、分析、記述とはいいながら、実際には聴取の印象を書いていることがほとんどであるしかないなら、楽譜のこちら側については更に当てに出来ない。マーラーの場合、ショスタコーヴィチの場合ほど暗号解読ゲームの傾向は強くないが、そのかわり一見して明示的なプログラムの紹介―何しろ、分析が必要な程の豊かな構造がある訳ではないから―になるか、ショスタコーヴィチよろしく、アイロニーの有無、パロディー性の有無についての論争になるか(作者の意図という正解を探すクイズ)であって、これらのいずれをもアドルノがとりあえず拒否したのはもっともな事だ。
だが、アドルノの分析の道筋も、決して自明のものとは言われえないだろう。アドルノ自身がマーラーの弟子筋の―マーラー(―シェーンベルク)―ベルク―アドルノという―系譜に連なって、作曲の心得のある人物であるからと言って、マーラーの作品の創作の極で起きたことが透明に認識できることが保証されている訳ではない。アドルノの評価の恣意性は、楽譜を手がかりにして言いうるモデルと、アドルノがしばしば結論づける価値論的な位置づけとの間の連絡が透明でない限りは、決して免罪になることはないだろう。その作品が歴史的文脈で「どのように機能するか」という事になれば、享受の極へと問題が送り返されかねないのである。(受容の問題そのものではないか。)
勿論ここでも受容の問題は消滅したということはない。(そもそもアドルノ自身が、マーラー論のまさに冒頭から始まって、何度も受容について、「世間の」評価について言及しているではないか。)マーラーの音楽をnegativeに評価する人はいるだろうし、ここで問題にしたいのは、そうした評価が誤っている、ということの論証ではない。だが、だからいって、価値論的中立を装ったり、主張することもしない。そもそも、楽曲の分析自体、「客観的」ということはありえない。それは必ずしも自明ではない構造や規則性を明らかにすることにより、結局その分析対象を弁論するapologieなのだ。
では、楽曲分析とは何が違うか、といえば、言語が違う、記述のレベルが違う、ということになる。楽曲分析のdeviceは多く、特にマーラーの場合なら、(調性分析を含む)和声学であり、楽式論であろう。これは言ってみれば、脳の生理学的な水準での記述に相当する訳だ。勿論、生理学がそうであるように、和声学も、それの機能や意味をも捉えようと試みていない訳ではなかろうが、それにしても、マーラーの音楽のように、公理論的であったり分析的な方法論で特定のパラメータに集中して作曲を行っている(この場合にはパラメータの張る空間は簡略化されうるだろう)わけではない場合、パラメータ空間の次元の高さにより、各次元の要素の和が全体の適切な記述になり得ない、という問題は起きそうである。
またしても、音楽一般について語るのではないので、では次元の数の閾値は?とか、他のどの作曲家が同じ分類に入るのか?とか、歴史的な位置づけ、流派との関係は?といった問いには答えようとはしない(それをやるのは、少なくとも、今、手に負えるようなレベルの難しさではないと考える。無理だし、やるつもりもないのだ。)あくまでマーラーの場合に、そうである、という前提で議論をしよう。無論、これは作業仮説に過ぎない。うまく行かなければ不適切として撤回されるべきであり、その前提の当否は作られたモデルの適切さ、有効性によって判断されるべきなのである。ア・プリオリに論理的に正しい、などということはない。これは一般理論ではなく、個別の現象のモデルだからである。むしろ自然科学的なアプローチが適切なのだ。

―形式分析は無効?

形式分析は全く無効だという訳ではない。少なくとも、個別の「この」マーラーのケースについて言えば、それは寧ろ必要なことでさえある。言ってみれば、脳内をモデル化するにあたって、生理学的な知見が最低限必要であるようなものだ。だが、何故IXの1やVIの4の様な楽章の形式分析が分析者によって異なった結果になるのだろう?それは多分、分析手段が対象(つまりマーラーの音楽)にぴったりとしていないからなのではないだろうか?形式分析の手段は、或る種の図式であって、それと逸脱を起こしている現象との距離を(ただし定量的、というわけには行かない様だ)記述することしかできない。(勿論、それを目的にやるのであれば構わないし、そうした距離を測る作業は必要ですらある。)
楽譜は?楽譜は、理念的対象としての音楽を想定すれば、不完全な記録手段に過ぎない。記録手段という点では、ある奏者(それが作者自身であるようなケースを考えよ)の演奏の記録と変わるところはない。-「本人」が書いたということを除けば。楽譜が読めず、LPレコードが一枚しかない様なケースを考えよ。それでも、音楽の経験は可能だ。否、寧ろその方が、―特に、演奏者を除けば―多いのではないか?楽譜が読めない聴き手を排除する理由は全く見当たらない。多様な演奏は、だが、別の誰かの作品と誤認してしまうような決定的な幅を持つことはない。ここでは音楽一般の話をしている訳ではないので、とりあえず、その不変性を支えているのは、楽譜であるといって良いだろう。不完全だろうが、それを単なる伝達の手段とするのは、実は転倒を含んでいると言わなくてはならないだろう。事実上、それが(この場合は)音楽なのだ。ただし、それはdecodeされる必要があって、なおかつ、それは、人間が百人と集まった管弦楽という媒介によるdecodeが要求されているのだ。(勿論、シンセサイザの様な手段による再現も、考えられない訳ではないが。また、他者による、あるいは作曲家自身による、管弦楽版/ピアノ版の並存にも注意。あるパラメータのみ置き換える。それ以外は不変性が保たれる。)

―或る種の価値論的転倒?

これは~についての作品であるとか、特徴を2つか3つの形容詞で要約して事足れりとする評言よりも、作品の経過によりそって、ここは何の表現云々と「翻訳」をする類の標題音楽的解釈の方が作品の変換としては意味がある場合もあるだろう。~について語っている、という文脈無しで、つまり語られる対象を知らない聴き手にとって、前二者のような要約(?)はほとんど内容を持たない。
歌詞の問題、歌つき交響曲というのは、少なくとも作者の意図の次元では、種が半ば明かされているようなものだ。ただし、歌詞はあくまで素材に過ぎないには違いないが。それにしても、ある歌詞に音楽をつけた途端、音楽にまとわりついてしまうものというはあるだろう。例えば、それがあからさまな皮肉やパロディであったとしても。少なくとも「~について」のレベルでは間違いなく語ることができる。

だが、歌詞により文脈が与えられているからといって、例えば大地の歌、VIの中間部分の経過を言語に翻訳することができるだろうか? 物理的な数分間の持続を文章の長さに対応させる、といった類のやり方はナンセンスだ(ナレーションではないのだし、、、)しばしば葬送の歩みと語られる。 だが、それは、歌詞からすれば不適切な近似だ。別れはあっても(まだ)死は無い。しかもその歩みの後、「友を待つ」場面がやってくる。 「模様」ということを言いうるなら、これは道行なのだ。だが、どういったところで、曲の細部を言語に翻訳することは難しい。
あるときは月が小川に映る描写であるにも関わらず、描写に近づき、また遠ざかる、ということだろうか。少なくとも三味線の手のように「記号化」されている訳ではない。(バロック時代や古典期ではないのだ。)
感情の表現、xの表現ということで19世紀の音楽が手にした拡大は実に驚異的だ。いずれにしても歌詞は解釈の流れを作ってしまう。伝記的事実なしに作品を聴いたら?マーラーのある意味では素直なところは、年齢相応だ、ということだ。だが、そうした時間軸を作品自体から定量的に抽出することができるだろうか?
(2006.9未定稿, 2025.1.16 改題)