2006年9月30日土曜日

マーラーに近づくために(未定稿)

―歴史的なアプローチとは異なったアプローチ。音楽の構造を捉える別の仕方?

作曲者は歴史的に拘束されている。だから、創作にあってはアドルノが指摘するような力学が存在する。 だが音楽は残る。残って享受される音楽は必ずしも創作時の力学における作用の記憶をすべて保持しているとは限らないし、作曲の姿をそうした記憶に基づいてのみ解釈する必要も無い。出来上がった音楽は、静的な構造(生成論的に扱わないと言う意味で)を持っている。その構造の動態を記述したり解析したりすることも可能だ。その際、記述レベルの問題があるから、要素に還元するやり方は成功しないだろう。(物理的な音響のレベルetc.)ここでも適切な記述言語を見つける事が必要なのだ。その言語では、「個性」のようなものを区別できる必要がある。自然言語はかなり有効だが、多分、万全ではない。(Husserlにおける、3つのレベルの最後のレベルが自然言語のレベルだ。)「形式分析でも標題の記述でもない」はOKだが、アドルノの途が唯一では勿論ない。また観相学を全く別の目的で(創作極における基層の発掘の考古学ではなく)別の言語でやることは可能な筈だ。

―現象学は?そのつもりではなかったのか?

その通りだ。現象学的なアプローチが可能であると考えていた。GreeneのMahler : Cosciouness & Temporalityを読もうとしたのはそのためだ。だが、アナロジーやメタファーを超えるような記述言語としての実質を如何にして備えることが可能なのか、問題視することはできるだろう。現象学は狭義には、意識に現れたものについての構造や条件を探求するものだろう。とすると、音楽を対象とすると、創作の極で創作行為の最中に生起している事象についての記述か、あるいは演奏者や享受者が(勿論、創作者と同じ人格であっても良い)作品を聴くという行為の最中に生起している事象についての記述になるだろう。 前者について、内観を方法論としてやるというのは、(あなたが、件の大作曲家「である」というなら別だが)方法論的にはナンセンスだろう―もっとも「普遍的な方法論がある」とあくまで主張するなら論理上は別だが―。だとしたら、後者についてのみが私には可能だ。 志向的対象として(いわば理念的に)音楽を考えるというのはインガルデンの受容美学の基底に存在する立場だろう。だが、一般に聴取の(音楽であるかを問わない)現象学を目指しているのでも、はたまた音楽一般の現象学を目指しているのでもないのだ。(そうした一般を目指す試みはうまく行かない。定義で躓いて、先に進まないのだ。)

―理念的対象としての音楽?

私の内側に、享受のときに起きている事象。確かにある音楽がもたらす固有の「効果」というのは存在する。クオリアの問題にも通じる。音楽を対象とするときクオリアというのは、非常に複合的な事象で、あたかもそれを単独で扱える単位として捉えることが出来るかの様に扱うことが無理なことに気付く。もし、クオリアを単位としたければ、それはここで問題にしているものではない。区別すべきだ。

文化的に何重にも規定された対象ではあるが、例えば脳の活動と意識との距離に比べれば、そこから先は大したことはない、とも言える。そこから先は可塑性が個別性を可能にする、といえるからだ。享受は伝達である。(ただし単純な伝達ではない。Whiteheadの言う感受の意味では、享受は複合的な感受だ。)こちら側に(大まかには脳に)或る種の写像が行われるのだ。その過程で生じる変換の始端と終端には大きなぶれがある。(例えば、演奏の享受形態―コンサートホールで、CDで―の多様性、そして聴き手の脳の内部状態、私とあなたの違い、私もまた移ろってゆく、、、)だが、変換の過程で保存される構造があるだろう。構造の存在までは一般的だが、具体的な構造自体は個別的だ。勿論、切断の与え方は幾通りもある。ここでは暗黙的に「私」と明示的には作品を固定した切断を与える。作品と言ったが、作曲者を、とただちに言い直すべきだろう。そして、作品―これは相対的には扱いやすいかたちをしている、少なくとも現象学的な対象として扱えるだろう―とその作者との関係は必ずしも明らかではない。ここでは、作品間で保存される構造を見つける事がやりたい事だろう。(その保存される構造が、作者の個性と言うわけだ。)勿論、ここでは作者当てのコンテストをやる事が目的ではないから(クラスタ分析や、自己組織化マップにより、特徴ベクトルによる分類をし、それを作曲者の名前のラベルと対応付けられるようにしようと試みているわけではない。)、その構造が他の作曲家の作品にも出現することは考えうる―作者の名前はあらかじめ明かされた上で、その構造を探索するものとする。だが、無論のこと、発見された構造は作曲家の独自性を証するものであればある程良い。つまり「個性」を、自然言語とは別の記述言語で記述したいのだ。更にその「個性」は、動的に、享受の際に感じられるクオリアの記述でもあって欲しい、という訳だ。印象批評は前者により、記号論的アプローチや音楽の形式分析は―道具として用いることは出来るだろうが―後者により、充分な手段ではない。
アドルノ的な批判理論は、創作の極の構造の記述に、実際のところ限定されていて、ここで目指している特性には―少なくとも直接には―貢献しえない。また「音楽の現象学」式の一般的なスキーマは、具体的な事象についての具体的なモデルを提示しようとする試みには、やはり直接には貢献し得ない。せいぜい議論の枠組みを作り、探求に見通しを与えるくらいのものだろう。

音楽は多様で、音に対する姿勢と言うのも多様だ。だが結局自分にとって関心のある領域は「自我の音楽」のいわば周縁部分ということになるだろう。これは価値論的な優劣の問題にはあらず、ただ単にそうした創作と、そうした創作の享受に、私が意義を感ずるということだ。音楽家は音「について」思索することも可能だろう。「自我の音楽」とて、素材に対して全く無頓着という訳にはいかないから、音についての思考も含まれるだろう。だが、自我の音楽の無自覚な前提―「内容」についての確信―を私は否定したくない。自我の音楽を論じるにあたって、その「内容」を否定してしまったら、それは、その音楽の持つ特性の有意味なモデルではないだろう。「個性」はそれ自体「内容の否定」という形も取りうるが、そういったレベルよりも一つ下のレベルで「内容」にあらわれた個性、で良いのだ。-というより、そちらの方が探求は困難だろう。勿論、今のところ「内容」の定義は曖昧で充分だ。それはいわゆる「標題」ではない。その内容こそが、件のモデルに表現されていれば良いのだ。内容を通り過ぎてしまえば、価値論的な領野は閉ざされてしまうだろう。音楽の認識論、時間論というのがあっても良いが、私は時間一般の構造には興味が無い。時間を主題的に扱ってしまうと、具体的な話ができなくなる。時間を議論するのに好適な音楽というのもあるだろう。抽象的な音の構造や、音の知覚を主題的に扱った音楽もまた、あるが。
ただ、そうした音楽では充分なレベルは「自我の音楽」では不十分になる。多分、記述の水準が異なるのだ。勿論音と音との関係でしかないのはわかっている。問題はそれが、何故、「自我の音楽」たりうるかではないか。しかもここでは「自我の音楽」の成立の一般的条件を問題にしている訳でもなく、その個別のモデルが作りたいだけなのだ。だから時間一般の理論というのは、ここではやはり答えそのものではない。

―どのレベルをモデル化の対象とするのか?

勿論、脳内事象をモデル化することはできない。創作と聴取(勿論演奏も)の極での事象を直接扱うことは、少なくとも現時点での私には出来ない。論理的には、いずれは可能になるかも知れないが。とすれば、いわゆる中立レベル、一見ただの楽曲分析をすることになるようにも思われる。実際、個性があるとしたら、とりあえずマーラーのような時代の作曲家ならまずは楽譜に記載されたうちにあると言って差し支えない。
アドルノの分析は明らかに創作の極に重点があるが、しかし、結局のところ楽譜を手がかりにして考えていくしかない。寧ろ楽譜の手前の素材(伝記的事実を含む)の分析なしでそれを行おうとしている様に思える。マーラーの場合には、素材の次元での情報も多く、また言うべきことも多いから、一般にはそうなる。しばしば見られるように、分析、記述とはいいながら、実際には聴取の印象を書いていることがほとんどであるしかないなら、楽譜のこちら側については更に当てに出来ない。マーラーの場合、ショスタコーヴィチの場合ほど暗号解読ゲームの傾向は強くないが、そのかわり一見して明示的なプログラムの紹介―何しろ、分析が必要な程の豊かな構造がある訳ではないから―になるか、ショスタコーヴィチよろしく、アイロニーの有無、パロディー性の有無についての論争になるか(作者の意図という正解を探すクイズ)であって、これらのいずれをもアドルノがとりあえず拒否したのはもっともな事だ。
だが、アドルノの分析の道筋も、決して自明のものとは言われえないだろう。アドルノ自身がマーラーの弟子筋の―マーラー(―シェーンベルク)―ベルク―アドルノという―系譜に連なって、作曲の心得のある人物であるからと言って、マーラーの作品の創作の極で起きたことが透明に認識できることが保証されている訳ではない。アドルノの評価の恣意性は、楽譜を手がかりにして言いうるモデルと、アドルノがしばしば結論づける価値論的な位置づけとの間の連絡が透明でない限りは、決して免罪になることはないだろう。その作品が歴史的文脈で「どのように機能するか」という事になれば、享受の極へと問題が送り返されかねないのである。(受容の問題そのものではないか。)
勿論ここでも受容の問題は消滅したということはない。(そもそもアドルノ自身が、マーラー論のまさに冒頭から始まって、何度も受容について、「世間の」評価について言及しているではないか。)マーラーの音楽をnegativeに評価する人はいるだろうし、ここで問題にしたいのは、そうした評価が誤っている、ということの論証ではない。だが、だからいって、価値論的中立を装ったり、主張することもしない。そもそも、楽曲の分析自体、「客観的」ということはありえない。それは必ずしも自明ではない構造や規則性を明らかにすることにより、結局その分析対象を弁論するapologieなのだ。
では、楽曲分析とは何が違うか、といえば、言語が違う、記述のレベルが違う、ということになる。楽曲分析のdeviceは多く、特にマーラーの場合なら、(調性分析を含む)和声学であり、楽式論であろう。これは言ってみれば、脳の生理学的な水準での記述に相当する訳だ。勿論、生理学がそうであるように、和声学も、それの機能や意味をも捉えようと試みていない訳ではなかろうが、それにしても、マーラーの音楽のように、公理論的であったり分析的な方法論で特定のパラメータに集中して作曲を行っている(この場合にはパラメータの張る空間は簡略化されうるだろう)わけではない場合、パラメータ空間の次元の高さにより、各次元の要素の和が全体の適切な記述になり得ない、という問題は起きそうである。
またしても、音楽一般について語るのではないので、では次元の数の閾値は?とか、他のどの作曲家が同じ分類に入るのか?とか、歴史的な位置づけ、流派との関係は?といった問いには答えようとはしない(それをやるのは、少なくとも、今、手に負えるようなレベルの難しさではないと考える。無理だし、やるつもりもないのだ。)あくまでマーラーの場合に、そうである、という前提で議論をしよう。無論、これは作業仮説に過ぎない。うまく行かなければ不適切として撤回されるべきであり、その前提の当否は作られたモデルの適切さ、有効性によって判断されるべきなのである。ア・プリオリに論理的に正しい、などということはない。これは一般理論ではなく、個別の現象のモデルだからである。むしろ自然科学的なアプローチが適切なのだ。

―形式分析は無効?

形式分析は全く無効だという訳ではない。少なくとも、個別の「この」マーラーのケースについて言えば、それは寧ろ必要なことでさえある。言ってみれば、脳内をモデル化するにあたって、生理学的な知見が最低限必要であるようなものだ。だが、何故IXの1やVIの4の様な楽章の形式分析が分析者によって異なった結果になるのだろう?それは多分、分析手段が対象(つまりマーラーの音楽)にぴったりとしていないからなのではないだろうか?形式分析の手段は、或る種の図式であって、それと逸脱を起こしている現象との距離を(ただし定量的、というわけには行かない様だ)記述することしかできない。(勿論、それを目的にやるのであれば構わないし、そうした距離を測る作業は必要ですらある。)
楽譜は?楽譜は、理念的対象としての音楽を想定すれば、不完全な記録手段に過ぎない。記録手段という点では、ある奏者(それが作者自身であるようなケースを考えよ)の演奏の記録と変わるところはない。-「本人」が書いたということを除けば。楽譜が読めず、LPレコードが一枚しかない様なケースを考えよ。それでも、音楽の経験は可能だ。否、寧ろその方が、―特に、演奏者を除けば―多いのではないか?楽譜が読めない聴き手を排除する理由は全く見当たらない。多様な演奏は、だが、別の誰かの作品と誤認してしまうような決定的な幅を持つことはない。ここでは音楽一般の話をしている訳ではないので、とりあえず、その不変性を支えているのは、楽譜であるといって良いだろう。不完全だろうが、それを単なる伝達の手段とするのは、実は転倒を含んでいると言わなくてはならないだろう。事実上、それが(この場合は)音楽なのだ。ただし、それはdecodeされる必要があって、なおかつ、それは、人間が百人と集まった管弦楽という媒介によるdecodeが要求されているのだ。(勿論、シンセサイザの様な手段による再現も、考えられない訳ではないが。また、他者による、あるいは作曲家自身による、管弦楽版/ピアノ版の並存にも注意。あるパラメータのみ置き換える。それ以外は不変性が保たれる。)

―或る種の価値論的転倒?

これは~についての作品であるとか、特徴を2つか3つの形容詞で要約して事足れりとする評言よりも、作品の経過によりそって、ここは何の表現云々と「翻訳」をする類の標題音楽的解釈の方が作品の変換としては意味がある場合もあるだろう。~について語っている、という文脈無しで、つまり語られる対象を知らない聴き手にとって、前二者のような要約(?)はほとんど内容を持たない。
歌詞の問題、歌つき交響曲というのは、少なくとも作者の意図の次元では、種が半ば明かされているようなものだ。ただし、歌詞はあくまで素材に過ぎないには違いないが。それにしても、ある歌詞に音楽をつけた途端、音楽にまとわりついてしまうものというはあるだろう。例えば、それがあからさまな皮肉やパロディであったとしても。少なくとも「~について」のレベルでは間違いなく語ることができる。

だが、歌詞により文脈が与えられているからといって、例えば大地の歌、VIの中間部分の経過を言語に翻訳することができるだろうか? 物理的な数分間の持続を文章の長さに対応させる、といった類のやり方はナンセンスだ(ナレーションではないのだし、、、)しばしば葬送の歩みと語られる。 だが、それは、歌詞からすれば不適切な近似だ。別れはあっても(まだ)死は無い。しかもその歩みの後、「友を待つ」場面がやってくる。 「模様」ということを言いうるなら、これは道行なのだ。だが、どういったところで、曲の細部を言語に翻訳することは難しい。
あるときは月が小川に映る描写であるにも関わらず、描写に近づき、また遠ざかる、ということだろうか。少なくとも三味線の手のように「記号化」されている訳ではない。(バロック時代や古典期ではないのだ。)
感情の表現、xの表現ということで19世紀の音楽が手にした拡大は実に驚異的だ。いずれにしても歌詞は解釈の流れを作ってしまう。伝記的事実なしに作品を聴いたら?マーラーのある意味では素直なところは、年齢相応だ、ということだ。だが、そうした時間軸を作品自体から定量的に抽出することができるだろうか?
(2006.9未定稿)

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