お前はマーラーの音楽の演奏者・解釈者ではないし、マーラーを研究分野とする音楽学者でもない。今のお前と比較するのは 始めから無意味だが、かつてのお前程度の「フリーク」だって、マーラーの場合であれば、世の中にそれこそ数限りなく居るし、 これからも出てくるに違いない。もっと熱心なコンサート・ゴーアー、もっと熱心なレコード・CD蒐集家、アマチュアであっても 自分でマーラーの演奏に参加する能力と時間を持った人間、そうした多くの人間が居るというのに、一体お前は、マーラーに ついてこれから何をしようというのか?
話をWebに限定してもいいだろう。それにしても既に、何と多くのサイトでマーラーが語られていることか。お前如きが付け加えるべき 何かなど残っているのか?一体、何がしたいんだ?
―何か新しいもの、価値のあるものを付け加えることができるという確信があるわけじゃないさ。自分が何か特別に寄与しうるものを 持っている自信もない。でも、価値については考えないことにしたんだ。少し前のことになるけど、クラシック音楽について自分の書いた コンテンツを読み返して、そのうちあるものを破棄し、その後検索サイトのキャッシュを探して復元したり、ということを繰り返した時期があった。 キャッシュが残っているのも我慢できずに、自分の書いたページに対する削除依頼を出したこともあった。(効果はなかったようだけど。) 手元にあるバックアップは勿論、最初に消してしまったわけだ。実のところ、復元しようと思ったときにはもうキャッシュも残っていなくて、 記憶に基づいて改めて書き直した記事もあった。よく覚えていないものについては、それだけの価値がなかったのだ、 ということで諦めることにしたりもした。以前に書いたときほど うまく書けずに、再構を断念したものもある。でも僕は不徹底な人間なんで、そういうことにもじきに飽きてきて、ある時、 公開したものを撤回するのは止めよう、そのかわり、今残っているもの以外のことは考えないことにしよう、更に、残ったもののうち、 どれを凍結し、どれを拡張していくか、その場限りのものであってもいいから、方針を決めようと思ったんだ。
若干の手直しはすることはあっても、原則としてもうこれ以上関わらないために、言ってみれば「決着をつけるために」書いた文章 というのもあるんだ。それらは最早不要なものだけれど、不要なものとしてそこに残っている必要があるみたいなんだ。 それに気づかなかったのが、不毛ないたちごっこの原因の一つだったらしい。
一方で、まだ書くことが残っていることがはっきりしているものもあった。勿論、こんな判断は、いつ反故になるかわかったもんじゃない。 けれど、とにかく、「決着をつけるためには」まだ書かなくてはならなさそうだ、と思えるものがあった。その2つを区別したとき、 マーラーは後者の側に残ったんだ。要するにマーラーは、未解決の問題なんだよ。価値という点でいけば、専ら主観的な価値だけ しか考えていない。別に他の人にマーラーを紹介したいわけじゃないし、自分の嗜好を押し付けたいわけじゃないんだ。他の人が マーラーに接する際の参考にして欲しいと思っているわけでもなし、何か他の人の知らない恐らくは有益な情報を提供しようと 考えているわけではない。
―これまた随分な言い様だね。専ら主観的な価値のみが問題だというなら何で公開するんだい? そんなものは気が済むまで こっそり書いて、引き出しにしまいこむなり、燃やしてしまうなりしてしまえばいいだろう。お前の言い分は到底額面通りには 受け止められないよ。実際には、そんなに謙虚で控えめに考えているわけではないんだろう? 正直に言ったらどうなんだ?
―いや、主観的な価値が問題だとしても、書くことは孤立した営みでは困るんだ。迷惑千万かも知れないけど、それは 自分の手を離れる必要があるんだ。それもまたコナートゥス・エッセンディなのかも知れない。 それが利己的だというなら、それでも仕方ないよ。(贈与がコナートゥスの様態だとか言ったら、レヴィナスはどういう顔をするだろうね? この問題は、多分見かけほど―そしてここでこのように皮相なかたちで扱われているほど―には単純な問題ではないのかも知れないね。 レヴィナスだって、多産性のようなかたちで問題をきちんと言い当てているし。けれどもここはレヴィナス的な倫理を主題的に扱う場じゃない。) でも、寧ろマーラーが自分にとって他者であることがはっきりとわかった今なら、その分だけはっきりと、他者から受け取ったものは、他者に渡すべき なのではないかと、そう問うてみることができると感じている。もちろん、収支は大幅な入超だ、ということになるのかも知れない。 主観的な価値が問題だ、というのは、その収支で計量できる価値においては、自分が手渡すことができるものがどんなに貧しいもの、 限りなく無に近いものであっても、それでも、受け取ったからには、自分から手渡す何かがあるべきだと思う、ということなんだ。 その何かは、実際には僕の脳の中にしまいこまれて、生命活動が止んだ日にそのまま無に帰してしまっても別にどうということはないかも知れない。 どっちでも世の中にとっては違いはないのかも知れない。それは仕方のないことだよ。でも、僕が受け取ったものは、作った人間が「神の衣を織る」 つもりで作り上げたものなんだよ。たとえ自分は「神の衣を織る」ことそのものには与れなくとも、せめてその衣について語ることくらいは したいんだよ。自分の目にした貴重なものが、自分の脳の中だけに記憶され、自分の死とともになくなってしまうのが嫌なんだよ。
―それについてなら、心配はいらない。何もお前が残さなくてもマーラーの作品は残る。別にお前が何かしなくてはならないことなんかない。 繰り返しになるけど、もう今はお前がマーラーに出会った時代ではないんだ。こんなに「流行る」とは思わなかったけど、でもどっちみちお前が 何かしたからこうなったわけじゃないしな。いや、お前がマーラーに出会った時代には、マイケル・ケネディではないが、すでにポットの湯は 沸騰寸前だったんだよ。そもそも、その後のナチスの影も含め、反ユダヤ主義の問題があったとはいえ、マーラーは同時代においてすら 少なくとも「話題の中心」ではあったんだ。ほっとけば流砂に埋もれてしまうお前のような存在とは訳が違うんだよ。とにかく、いずれにしても 現時点ではこれ以上マーラーについて何を言っても後出しジャンケンみたいなもんだ。
―それはわかってるよ。だから主観的な価値の問題だと言ってるんだ。でも、マーラーの作品の価値が自分と全く無関係だとは 思わないよ。寄与度としてはどんなに取るに足らないものであっても、無関係ということはない。そもそもマーラーの価値というけれど、 それを認めない人だって、いつの時代にもきっといるんだし、そもそも、マーラーなんか知らない、という人だってたくさんいる。 それどころか、寧ろそっちの方が多いんじゃないかな。マーラーの価値を自明で磐石のものと考えるのは、ある価値観を共有する 環境の下でのみ有効に過ぎない。その範囲は時間的にも空間的にも限定されていると思うけど。勿論そんなこと言ったら、 マーラーに限らず何でもそうだということになるかも知れない。実際その通りなんだ。マーラーを擁護し、批判するというけれど、 それが問題にされる世界というのは、実際にはちっぽけなものだ。マーラーなんかなくたって全然困らない世界の方が遥かに 大きいんだよ。別に自分のことを棚にあげているわけではないよ。マーラーですらそうなのだ、と言ってもいい。いずれにしても その価値は全然自明じゃない。
―おいおい、一体何を言い出すんだ。お前は一体誰に向かって何をしようというんだ。謙虚さはどこへやらで、今後は 十字軍気取りかよ。だいたいそんなこと誰も頼んでないし、マーラーだってそんなこと期待しちゃいないだろう。 さっきは主観的な価値と言っておきながら、随分とこれはまた大風呂敷なことを言うものだ。 それでいて他の人にマーラーを紹介したいわけじゃないし、何か他の人の知らない情報を提供しようと考えているわけではないと 言うのだから、全く矛盾も甚だしい。いい加減にしたらどうだ?
―それを矛盾と言うなら、そうかも知れないな。けれど僕が言いたいのは、自分の価値観を他人に押し付けて、無理やり同意を 求めたりはしなくない、でも、自分が価値を認めるものについて、沈黙したまま墓の中に持って行くことはしたくない、ということだけなんだ。 つきつめればこの2つは矛盾するかも知れない。所詮はミームの生存競争なんだろうからね。謙虚なのは見かけだけで、それはミームの 纏う詭計ではないかと言われれば、そうかも知れないという他ない。少なくとも進化論的ゲーム理論のような枠組みではそういうことに なるんだろうね。
ところで、マーラーについては、例えばそうした(必ずしもダーウィン的なものに限定されない)進化論的な考え方(マーラー自身もその音楽も その中では1つの個体に過ぎない)と、マーラーの音楽の内容(つまり音楽自体が、そうした考え方についての或る種の反応なんだ) とが触れ合うんだ。もっと言えば、マーラーの音楽こそ、意識のパラドックスの最も端的な現れの一つなんじゃないかな。 僕にとってマーラーが未解決の問題だ、というのは、一つにはそういうことが含まれているんだ。マーラー自身、(人はただちに第3交響曲に まつわる議論を思い浮かべるだろうけど、)ダーウィンの時代の人間だし、ニーチェは勿論だけれど、単にドイツ・ロマン派的な自然哲学に 親しんでいたというのに留まらず、それ以上に自然科学への関心がとても強く、フェヒナーやロッツェを愛読していたくらいで 進化論的な発想は馴染みがないものではなかったようだし、一方で、不滅性の問題―それは普通には寧ろ、「魂の救済」とか「宗教」 の問題と見做されるのだろうし、実際、マーラーその人の文脈ではそう言ってしまってもいいんだろうけど、僕は出来ることなら一旦 そうした文脈を括弧入れして、自分の生きている時代の文脈、あるいは自分が育まれてきた環境の文脈に置き換えたいんだ―は 彼の中心的な問題であり続けた。人と音楽とは勿論区別しなくちゃいけないけど、マーラーの場合、結局、別々に論じることは できないし、マーラーの音楽は、それを安易に素材としての標題と結びつけるのは問題だけど、さりとて意味を無視して形式だけ 論じることを音楽自体が拒否しているのも確かなことだ。いや、それを一般的に論証するのは無理かもしれない。でも僕にとっては そうだ。僕がマーラーの音楽を聴いて受け取ったものは、入り口では生理的・感覚的・情緒的な反応に過ぎなくても、どこかでそうした 概念的なものと結びついている。個別事例でいいんだ。私の場合、であって、それが一般性を持たなくたっていい。所詮は一般性 なんて程度問題なんだし。でも、「私は確かにこうしたものを受け取った。それは決して無ではない。」ということを、示したいんだよ。 勝手な言い草かも知れないけど、マーラーの音楽がそのように誘っているんだ。
―相変わらずの飛躍ぶりだな。全く目が眩んでしまう。マイヤー言うところの「絶対的な表現主義者」の立場に共感を覚えていると 言う割には、お前の言うことはいつもいつも作品そのものとは懸け離れた話ばかりじゃないか。それでフローロスについて否定的に 考えているなどとよく言えたもんだ。所詮は音楽の享受者でしかないくせに、背伸びをするのも程ほどにしたらどうなんだ?
―確かにそれはその通りだよ。僕は音楽の創作の現場にいるわけじゃないから、そこでなら可能な、生産的な継承というのは 無い物ねだりだ。でも、だからといってマーラーの作品を完結した過去の遺物としてしか扱えないとは思わない。こんなことを 言ったら不遜の謗りは免れないだろうけどね。
フローロスのやり方でひっかかるのは、彼が「それは確かにマーラー自身が考えてメモ書きしたことだ」とか、「この手紙で 彼自身が言っている」「誰それに語ったという証言が残っている」という実証性を免罪符にして、結局は素材に過ぎなかったり、 あるいは極めて不正確な歪みをもった譬えに過ぎないものを、作品の内容そのものと同一視してしまう危険がある点なんだ。 前島さんのいう標題Aへの経路として標題B,Cがある、ということが常に意識されていればいいんだけど、フローロスの議論は 時々、前島さんほどはその点が峻別されていないように思えるしね。そもそも、前言語的な標題Aって、一体何なんだろう。 それをあえてまだ、―混同の危険を冒してまで―、標題と呼ぶ必要があるんだろうか。結局、言語で議論を行っていて、 標題B,Cが持っているバイアスを除去して、標題Aをいわば「還元」することなんか、できるんだろうか。それを可能にする には、標題B,C以外の別のものを持ち込むなりして遠回りをする必要はないんだろうか。何か、ちょっと人工知能における 「表象」の問題に似ている気もするなあ。
でも実は、本当の問題は、標題Aを認めたとして、それは依然として作者の意図の、作品にとっては素材の水準に留まって、 作品に実現されている内容には辿り着かないことに対して無頓着なことではないかな。勿論、作者の意図は重要だし、 それがある作品の魅力をかなりの部分規定してしまうことは否定し難い。でも、意図されたものだけでは十分じゃない。 だって僕が聴きとって惹きつけられたのは、その作品の内容なんだ。マーラー自身、意識的な意図を超えて「書きとらされている」 という証言を何度となくしているけど、作品の内容は、作者の意図と一致しない。勿論、不等号がどっちを向くかは場合による んだけど、マーラーのような天才の場合には、いつも作品が意図をはみ出しているんじゃないか、だからこそ、時代の制約を 超えた価値を持ちうるんじゃないだろうか。アドルノの観相学や精神分析的な読解がいつも妥当だとは思わないよ。恣意におちいってしまう 危険は大きいだろう。だけど、それらはそうした「言外」の部分を取り出そうとしているわけで、そうしたアプローチもまた、意義があると 思うけどね。要するに、作品そのものが問題なんだし、記号論的三分法でいう作品のレベルの中立性は理論的な仮構である ことを思えば、寧ろそうした恣意の危険は避けて通るべきではないと思う。少なくとも僕は、自分が受け止めたものに忠実でありたいと 思うしね。「客観的な」マーラー評価は、どこかの偉い音楽学者や評論家の先生の仕事で、僕には関係ない。
もちろん標題B,Cを実証的に跡付ける作業が全く無価値だとは思わないし、そうした実証性は、資料的な価値は十分にあるから、 それはそれで大事なことではあるんだろうけど、フローロスのようなアプローチだと、(まあ彼自身、実際にそう言っているんだけれども) 19世紀に書かれた交響曲は、マーラー「に限らず」、軒並みフローロスのような標題的な分析が可能であるということになってしまう。 もっとも、これをきちんと考えるには、翻訳されていない第2巻あたりで展開されているらしい、「性格」についての議論から辿ら なくちゃいけないだろうね。それが標題にどうつながっていくのか、フローロスが意味論をどのように根拠付けるのかがわからないと、 フローロスの「方法」については判断できない。その意味では―まあ、売れないだろうから仕方ないけど―第3巻だけが 翻訳されているのは、残念なことだと思う。上でも触れた前島さんの解説はとても立派なものだけど、それがフローロスのやっている こととどう関わるのかがわからないと、読者は戸惑うんじゃないかな。あるいは、安易な読者なら、前島さんの説明を読んで、 それがフローロスの主張(の代弁)であると見做して先に進んでしまうんじゃないかしら。どうせなら、ついでにフローロスの議論では 前提がどんなものであるかというのを、第1巻、第2巻の内容を要約する仕方で説明してもらえればよかったのに、と思うよ。 その要約があれば、安心して第3巻を読むことができるわけだしね。でも、これまた今ここで僕が言いたいこととは関係ない。 音楽学の方法論は、音楽学者とか音楽評論家が批判しあって改良していけばよくて、僕なんかが口出ししてもしょうがないしね。
とにかくフローロスの方法論が一般的な妥当性を持つとしたら、例えばブラームスとマーラーを隔てるものもないし、マーラーが あんなに苦労して差別化しようとした、シュトラウスとマーラーを隔てるものもなくなってしまうんじゃなかろうか。 もしそうだとしたら、別にそういうアプローチの仕方そのものを否定するつもりはないけど、それならそれで、寧ろマーラーなんかより、 「絶対音楽」であるはずのブラームスの交響曲とかを分析した方が面白かったんじゃないかな。そうでなきゃ、色々と道具は持ち出したけど、 結局景色は大して変わらない気がするしね。
でも、だとしたら少なくとも僕はそんなアプローチには全く興味はない。別にマーラーの意図を尊重してというわけではなく、 僕が救い出したいのはマーラーの独自性だからだ。「そんなものはないんだ。結局、マーラーだって時代の子であって、彼がやろうとしたことは、 その時代の人間は多かれ少なかれ思いついていたし、気づこうと気づくまいと、実際にやっていたことなんだ。」という声が 聞こえてきそうだけど、僕はそれには、たとえそれが身の程知らずだろうと、抗弁するつもりだよ。だって、僕は他ならぬ マーラーの音楽に惹きつけられたんだから。欲しいのは時代の一般的な傾向なんかじゃなくて、差異の説明なんだ。
同じことは、社会的・文化的な背景を強調する立場に対しても言える。19世紀末のウィーンの状況を知ることは、 マーラーを理解するのに大切なことだというのは否定しないし、そうした文献にあたることはとても興味深いことだと思う。 でも僕が惹かれたのはマーラーであって、19世紀末のウィーンの方じゃない。はっきり言って19世紀末のウィーンには寧ろ 反撥の方を覚えるくらいだ。それよりなにより、時代がこうだったから、という説明は、結局のところ、いつまでも僕のマーラー 経験には辿り着かない。
それよりかは例えばシェーンベルクのプラハ講演でのあの第6交響曲アンダンテの旋律の分析の方が、よほど僕の経験を 的確に説明してくれるように思えるんだ。もちろん楽曲分析なら何でもいいというわけじゃない。一例をあげれば、楽曲分析としてはマイヤー的な 手法を批判的に継承し、時間性の分析としてはフッサールやハイデガーの現象学を援用するという触れ込みのグリーンの分析は、その着想はとても魅力的なのに、 結局のところ不毛なものに思えてならないんだ。そこでは分析の手法はいわばアリバイに過ぎず、結局言われていることは、 分析の手法とはほとんど無関係にも言いうるようなこと、しかも更に悪いことには、ほぼ空虚な主張に過ぎないのではなかろうか。 どうやら彼は、ハーツホーンのプロセス神学の研究もしているらしいから、ホワイトヘッドのプロセス哲学の道具立てだって 知っている筈なんだけどフッサールやハイデッガーに言及しているところを読むと、随分と不可解なことが書かれていて 理解に苦しむ部分も多い。現象学的な時間論とグリーンがマーラーの交響曲について言いたいこととどう関係あるのかよくわからないし。 だいたい音楽学者が「音楽の現象学」とか「音楽の時間論」と言うときって、どうして現象学者の言葉の引用とか、 本来別の目的で為された旋律の分析のような断片的な議論の敷衍や、音楽作品の享受ではなくて音響知覚のレベルが 適当なような一般的な議論しかしないんだろう。音響学でも心理学でもなく、音楽の現象学を名乗り、あるいは 「音楽的時間」というのを殊更に主張しながら、~ではない、~でもない式の言い方ばっかりでちっとも固有の水準に ついての話は出てこないし、しかも個別の音楽作品という具体的な分析の素材が幾らでもあるというのに、個別の分析は ないか、あっても一見したところ奇妙に素朴な形而上学的な議論になったりして、ちっとも現象学的でなかったり、、、
(ちなみに、ホワイトヘッドの「過程と実在」における概念装置と、現象学的な記述との比較というのには随分昔に興味を 持ったことがあるよ。現象学的な記述にはその立場に由来する「影」がいつもつきまとっているし、ホワイトヘッドの道具立てはエラボレイト しなくてはいけないだろうけど、でもこうした事柄を記述する暫定的な出発点としては、そんなに見当外れだとも思わない。 今だったら、神経科学的な知見によってホワイトヘッドの記述にある肌理の粗さを補完することが考えられるし、現象学は それ自体を意識の自己記述(というか「虚像」の構成)の様相として、捉え返すことができそうに思える。そして、マーラーの ような音楽作品には、やはりそうした「影」が映りこんでいるように思える。だから、現象学と対比するのは、ことマーラーに 関しては決して見当はずれというわけではないんじゃないかな。別に構造主義的歴史学みたいに、あるいはアドルノの観相学の ように、現象学理論とマーラーの音楽が同じ社会的・文化的環境の反映で、或る種の同型性を持っている、というような ことを言おうとしているわけではなくて、もっと端的に、マーラーの音楽のありようが、「意識」の音楽だ、ということでいいんだけど。)
だいたい時間論といいながら、その時間分析のスキーマは随分と貧しくないだろうか? 因果性と自由意志の2つだけで、それを繰り返し用いるだけだから「どちらでもない」「どちらでもある」のような記述として 無意味なことが起こるんじゃないかな。特に第8交響曲や第9交響曲については宗教的なテーマが前面に出てくるから、 彼の独擅場なんだろうけど、首を捻ってしまうな。「変容した意識」というのを繰り返し言うけど、変容の内実が語られなければ それは空疎だ。単に違うといっているだけで何の説明にもなっていないんじゃなかろうか。もし「変容」という言葉の宗教的コノテーションに よりかかった含意をそこに読み取るべきなのだ、というなら、それは結局、現象学や楽曲分析の結果じゃない。その「変容」とは どんなものであるのか、第8交響曲や第9交響曲の時間性の特異性―それ自体は、僕も否定しないよ―を記述する言葉を 見つけるのが課題だったんじゃないのか。
他にも、因果性の話題のところで、意識の話をしていたかと思えば、物理学における未来の事象の予測が出てきたり、 それがサルトルの「自我の超越」に結び付けられたりと、目が眩むような議論の展開が結構ある。あるいはマーラーの音楽と シュニッツラー、クリムト、クラウス、ハイデッガー、サルトルとの間にアナロジーが成り立つとか言われても、この名前の並びを見れば、 その程度のアナロジー(僕には極めて粗雑で、危ういものに見える)が一体マーラーの音楽の時間構造の理解にどう寄与するのか、 どちらかといえば怪訝な気持ちになるんだけどね。
実のところ、マーラーの音楽そのものについてグリーンの言っていることをとれば個別には首肯できる部分も結構あるんだけれど、 それを敷衍して意味や解釈のようなレベルになると途端に言っていることが怪しくなって、おしまいに他の哲学者の概念や文学作品、 美術などを持ち出してきて、アナロジーをやりだすと、今度は解釈の方が一人歩きしだして、こちらは全くついていけなくなる、 というのの繰り返しだ。少なくともグリーンは個別の作品の具体的な分析をやっていて、それは大変に貴重なものだし、グリーンの注目する フレーズの不均衡の問題や不完全なクロージャの問題は確かに重要な観点だと思う。だけど、そのレベルでだって、マーラー独自の 時間構造の特徴とでもいうべきものがちっとも浮び上がってこないように思えるし、それでいて聴取によって構成される構造のレベルの 議論をいきなり表現内容の話と結びつけるのはそもそも無理があるんじゃないかな。どうやらグリーンにとってはそれはmetaphorical exemplification という概念で正当化されているらしいんだけど、実際のグリーンの議論に関しては、全然納得できないな。
もう一言言えば、グリーンは自分の説の独自性を主張するのに、様々な論者の意見の批判をするんだけど、もし彼が音楽を 現象学的に分析しているんだとしたら、その批判の仕方はおかしいように思うな。批判するより、どうしてそうした(グリーンの 立場からは)「誤った」説が出てきてしまうのかの説明をすべきなんじゃなかろうか。仮に誰もグリーンが分析したようにはマーラーの 音楽を受け止めていないんだとしたら、それはグリーンの分析の正しさよりは寧ろ誤りの可能性を示唆する証拠にならないだろうか。 結局、一体グリーンが何をやりたいのか、何を言いたいのか、判然としないんだよ。これはすごくがっかりした。結構期待していたんでね。 まあ僕の頭が悪くて、しかも彼の目も眩むばかりの博学にはついていけないので、彼の主張の素晴らしさや独創性が理解できないだけかも 知れないけれど。
―おやおや、今度は楽曲分析に対する批判か。よくそんな偉そうなことが言えるものだ。それじゃあ、一体お前は何を言えると いうんだ。実際には他人の言っていること、やったことに難癖をつけるだけで、自分では何もしていないじゃないか。どうせ 自分では大したことも言えない癖に、どうやって責任をとるつもりだ。
―いや、それはもっともな批判だと思うし、実際、的を射ているよ。本当のところ、だからといって自分が画期的な分析の 方法を思いついたわけでも、マーラー研究に貢献しうる何かを持っているわけでもないんだ。だから批判する資格なんか 自分にはないのは承知している。自分が言っているのが単なる愚痴だというのもわかっている。でも、立派な研究が自分の 体験を素通りすることに違和感を感じるのは事実で、それを偽っても仕方ないだろう。所詮僕は研究者じゃないから、 方法論の批判が最後には自分に降りかかることになるのは避け難い。でも、おかしいと思うのを言うのだって、まるきり無駄では ないだろう。やっていることの不毛さへの批判は甘受するよ。その上で、自分に出来る仕方で自分の体験に忠実であること、 自分の体験を或る種の記録として残すことくらいしかできそうにない。それの価値については弁解はしない。それを決めるのは どんなにつまらない、僕の書いた文章のようなものであれ、そのきっかけとなった、比較を絶する価値を持つことは疑いようの ないマーラーの音楽であれ、いずれにせよ作者ではないんだ。別にジャンケレヴィッチ式の事実性に立て籠もって、価値の差に 立ち向かうつもりもない。(だいたい、あんな論法は何の慰めにもならないんじゃないかな。いや、あの本を読んだときには、 それなりに感心もするかも知れない。でも実際に、どの人称のでもいい、「夜」が来るのを経験すれば、、、) そう、ナチスの足音に怯えることのない幸福な時代であっても、貴賎を問わず、アドルノが「夜」と呼んだものは、レヴィナスが 指摘している通り、結局のところ誰にでもやってくるんだ。勿論、当然、僕の上にもだ。 正直に言うよ。最後はそれに尽きる。
マーラーがこの上もない天才的な仕方で為しえたことは、つまるところ、儚い存在に過ぎない意識の、主体の擁護ではないだろうか。 有限なものを無限にすることはできない。けれどもそれぞれの可能な仕方で不滅性に(到達することは不可能でも)漸近することは できるのではなかろうか。けれどそのときそれは最早、私ではなく、意識ではありえないだろう。 いずれにせよ「私」とは異なったものに委ねるほかないんだ。もし魂とは、そうした「異なるもの」の呼び名であるというなら、 僕はそれをまで否定するつもりはないよ。
こんなことを言ったからといって、勿論これは結論ではないんだ。寧ろ、これこそマーラーの音楽が呼び起こした問いなのではないか と思うんだ。同じことの繰り返しになるけれど、結局のところ、それは僕にとって未解決の問題なんだよ。恐らくは 決着がつくような代物ではないかも知れないけど、そうとわかっていても、少なくとも今しばらくは関わらざるを得ない、、、
だってそうだろう、同じ人間が、あの第8交響曲と第9交響曲を書いたんだよ。こんな矛盾があるだろうか。マイケル・ケネディは、 「実験」と見做すことでそれを理解しようとしていたように記憶しているけど、本当にそうなんだろうか? それでいて、そうした 分裂、懐疑を否定することができないとも思えるんだ。寧ろ、それは誠実さの証ではないだろうかとすら思えるんだよ。 どちらもそのときには正しかったのかも知れないしね。もしそうなら、第10交響曲のフィナーレの姿を、クック版のおかげで 垣間見ることができたからといって、それが結論ということにはならないかもしれない。いつでも否定される可能性はあるのだから。 でも、彼にとってはあれが結論だった、ともまた言いうるんだ。そして更に、音楽の上での結論と、その人の生涯の軌跡の上での 結論の関係が被さってくる。確かに所詮は他人の人生で、関係ないといえばない。でも、音楽がつきつけるものを無視して しまうことはできない。少なくとも我が事として引き受ける仕方では考えてみざるを得ない、あくまで僕の個人的な受け止め方だけどね、、、(以下、後半に続く。)
(2007.4.30初稿, 5.1, 15加筆, 6.30, 7.1加筆修正, 8.14修正)
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