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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2025年2月17日月曜日

カフカの「審判」について:アドルノを介して、マーラーからの視点(2025.2.17更新)

カフカの「審判」について、アドルノのマーラー論における第9交響曲ロンド・ブルレスケのくだりでの参照を 起点に、ここでの議論のいわば対旋律として発展させるための準備として。

注意しなくてはならない。ある日突然理由も無く逮捕され、処刑される。これはだが、現存在の被投性そのものかも知れない。

その一方で、彼は有罪なのか?という問いに対して、ローマ人の手紙のパウロの言葉によって答えてみるとどういうことになるか? あるいはここで「カラマーゾフの兄弟」のマルケル=ゾシマ=アリョーシャ(=ミーチャ)のテーゼを思い起こすと、どういうことになるか? デリダの「掟の門前」論における「白い小石」と重ね合わせてみたら?

»Ich bin aber nicht schuldig«, sagte K., »es ist ein Irrtum. Wie kann denn ein Mensch überhaupt schuldig sein. Wir sind hier doch alle Menschen, einer wie der andere.« »Das ist richtig«, sagte der Geistliche, »aber so pflegen die Schuldigen zu reden.«

K.の誤りは、自分が無罪だと思っているということに存するのか?この問いは幾つもの水準で発しうるし、その水準によって答えは異なるように 思えるが、それでいいのか?全体主義国家の秘密警察による突然の連行と秘密処刑。デリダ自身、チェコでそういう目にあって、それを 想起しつつこれを書いているのだ。それに対して神学的な解釈は一体どのように応じるのか?イヴァンの論文に対するミウーソフの反応に対して。 或いは、ある仕方で国家が教会に包摂されたのかも知れない、或る種のイスラム国家におけるイスラム法学者による支配はどうなのか? オウム真理教をはじめとする新興宗教の論理は?キェルケゴール的な倫理的なものの目的論的停止は全体主義への屈服でないとどうして言えるのか?

だが、パウロはローマ人への書簡で何と言っているのか?この書簡を(デリダが言うように、そして、ジッドの自由主義的聖書解釈に逆らって)、 旧約と新約の間のずれや揺れの中で読んでみたら、どういうことになるのか?そして、カフカの「審判」はそれに対してどのように位置づけられるのか?

もう一方で、世俗的な法による調停と、内面化された法の間のずれや揺れの方はどうなのか?これは「カラマーゾフの兄弟」の「誤審」の問題そのものである。 では「審判」ではその点はどうなのか?K.はマルケル=ゾシマ=アリョーシャ(=ミーチャ)の水準では思考も行動もしていないように見える。 寧ろ、彼にとって法は端的に自分の外部にあって、自分に暴力的に襲いかかるものであって、それに対しては自己弁護しかないかのようだ。 この物語が、全体主義国家の秘密警察による突然の連行と秘密処刑と似るのは、そうしたK.の態度にあるのだろうか?

だとしたら、「審判」において、「掟の門前」の寓話が語られるのが、大聖堂の中でであり、しかもここでは裁判官でも廷吏でも弁護士でもなく、 僧侶との対話が行われることはどういう意味を持つのか。カール・バルトが「ローマ書講解」において「宗教の意味は、罪がこの世のこの人間を支配する力を示すことにある。」と 言っていることを思い起こして見たら、どうなるのか?

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ドゥルーズ=ガタリは「審判」の「終り」の章がKのみた夢との推測をしている。 だが、これは一見したところでは馬鹿げている。それを許容したとたん、そもそもの発端から 全て夢では何故いけないのかということになるだろう。否、実際にはタイトルすらない草稿の各分冊は、 そもそももう一人のKが見た夢そのものではないのかと問うてみてはいけないのか? またドゥルーズ=ガタリは基本的には無限の系列(セリー)であると見做しており、終りに重きを置いていないが、これは城と審判の差異を蔑ろにするものだろう。 カフカは始めと終りを最初に鏡像のように、互いが互いの分身であるかのように書いた。勿論、始点と終点があるからといって、無限がそこに含まれていないわけではない。 寧ろ、有限な長さの線分に含まれている無理数に対するデデキントの切断のような操作の無限性の方が、終りのない空間的な無限性よりも興味深いし、 一層ユダヤ=ヘブライ的とさえ言えるのではないか?ドゥルーズが別のところ(例えば『差異と反復』)で示す無限概念に関する数学的センスの欠如、更には超越を単純に否定し、 内在に優位を置くナイーブさと共通のものを感じずにはいられない。

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最後が夢であるということは、実際のカフカの創作活動という、物語の外側のレベルにおいて起きたことであるという見方も可能だろう。ザムザも次の小説で甦り、ここでのKもまた、 今度は「城」を舞台に甦る。カフカは結核に冒されて早逝したが、ナイフが結核に置き換わる例というのは、例えばドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン ないしナスターシャとイッポリートを思い浮かべることができるだろう。もしカフカが生き永らえたら、Kの復活が繰り返されるのだろう。その作業には恐らくは終りがない。

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デリダの「掟の門前」、ドゥルーズ=ガタリのカフカ論、ジッドがカフカの「審判」を戯曲にしていること。アドルノのマーラー論における「審判」の参照。 ユダヤ思想、ヘブライ的時間意識・存在論の反映(坂内正の指摘による)。

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三瓶の「審判」論。自己認識の投影であるという見方は説得力があるかに見えるが、「他者」の力を、主体に対する「暴力」を消去してしまうように見える。 逮捕の衝撃、審判の過程、その終結は、決して自己認識の投影ではない。三瓶の見方は全体を主体のみる「夢」に還元する議論と結局は変わることがない。 そうした主観的観念論は既に使い古されている。自己認識がないというのではないし、自己認識という契機の重要性は疑うべくもない。 だが、触発が「外部」から到来すること、それに対して主体は基礎存在論的な水準において「受動的」(つまりレヴィナスの「受動的よりも受動的な受動性」) でしかないという存在論的構造を看過してはならない。

三瓶がKaufmann Block - Kündigung des Advokatenの章における「美しさ」に注目するのは卓見である。

 »Wenn man den richtigen Blick dafür hat, findet man die Angeklagten wirklich oft schön.« / »Die Angeklagten sind eben die Schönsten. Es kann nicht die Schuld sein, die sie schön macht, denn - so muß wenigstens ich als Advokat sprechen - es sind doch nicht alle schuldig, es kann auch nicht die richtige Strafe sein, die sie jetzt schon schön macht, denn es werden doch nicht alle bestraft, es kann also nur an dem gegen sie erhobenen Verfahren liegen, das ihnen irgendwie anhaftet. Allerdings gibt es unter den Schönen auch besonders schöne. Schön sind aber alle, selbst Block, dieser elende Wurm.« 

またカフカが「作品空間内で<美>の文学的形象化をほとんど行わなかった、もしくはできなかった」 (p.248)という指摘も全く妥当である。だが、だとしたら「審判」では「宣言」されただけの「美」が「城」において形象力を獲得したというのは本当か? 前段の文章の「作品空間」のスコープはどうなっているのか?概して三瓶の主張は、その個別の指摘において妥当だし、ゾーケル他の先行研究に対する批判も概ね 当たっていると思われるが、肝心の自己の主張の一貫性の見通しは決して良くない。それはある種の弁証法的構造を持っている(カフカの側がそうであるのに 恐らくは対応しているのだろう)が故のわかりにくさというのもあるだろうが。

三瓶はカフカに(恐らく世俗化し、形骸化した)キリスト教への批判を読み取ろうとする。だが、そうするたびに直ちにそれが目的ではないとも述べる。 これは奇妙に見える。カフカにとってキリスト教批判がそんなに問題であったとは思えないし、表面的であれ、それがキリスト教の現状に対する批判で あると考える必要すらなく、直ちに、より原理的な水準に移って都合が悪いことはなさそうだ。そうした迂回は寧ろ三瓶自身の何らかの心理的な 障壁の存在すら感じさせる。

「美」(Schön)の問題は、直ちにドストエフスキーの「白痴」のテーマ系との対比を呼び覚ますだろう。一方で「審判」の作品の内部の世界を、 「狭き門」のヴァリアントとして読むことが可能かも知れない。その時、寧ろ問われるべきは、アリサのいう「聖らかさ」とそこで対比される「幸福」 という、「審判」の世界では、否定的なかたちですら出現しない契機であることがわかる。

– Que peut préférer l’âme au bonheur ? m’écriai-je impétueusement. Elle murmura : – La sainteté… si bas que, ce mot, je le devinai plutôt que je ne pus l’entendre.

有責性に関する自己認識の契機が必要であることは言うまでもないことだが、それでもなお、そうした認識は決して自己認識の閉じた回路の 中からは出てこないし、ここでいう心の構造、つまり意識のみならず前意識・無意識といったものも含めてフロイト的な心のモデルを 前提としたところで、そうした構造の生成を問うならば、そこには他者との遭遇、外部への被曝、外傷的経験といった契機がある。 「審判」における「逮捕」は、三瓶の主張では寧ろ肯定的な契機、頽落した「人」(Das Mann)としての存在様態からの覚醒のための 必須の契機であるのようだ。それは非日常的な地平への経路ともなると見做されている。だが三瓶の主張における非日常は、人間がそれに対して 無力でしかないような天変地異がもたらすそれ、あるいはある種の事故のように、道具的な連関の破綻に似ていて、いわば超越的な契機を欠いている。超越的な契機の不在、ないし拒否というのが、カフカの特質の一つであるのは確かであり、三瓶の主張も結局そのようなことになるのだろうが。

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アガンベンのカフカ論における古代ローマ法からの「審判」読解。Kはkalumniator(誣告者)の頭文字であり、中傷しているのはヨーゼフ・K自身である という解釈も類似の構造を持つ。そこに「カフカという作家の強烈無比な「喜劇性」が存在する」かどうかなどどうでも良いことだ。 それを「喜劇性」と呼んだから、一体どうしたというのだ?そもそも、悲劇は義人の罪深さとして現われ、喜劇は罪深い者の義認として現われることになる (イタリア的カテゴリー)として、本当にカフカは後者を主題としているのか?罪は存在していない、あるいはむしろ、唯一の罪とは自己誣告であり、 存在しない罪をみずから告白することによって、この罪は成立しているのであるとして、「存在しない罪を自白するとはすなわち、 みずからの無実を告白することであ」るのは本当か?これは誤謬推理に導かれた論理的同値に過ぎないだろう(これがわからないのは、自然言語処理 研究と並行して発展してきた20世紀の論理学・形式意味論の成果をそっくり否定することに他ならない)。だから 「それゆえこれはまぎれもなく喜劇的な身振りである」などとはいえない。なぜなら、義人の罪深さと罪深い者の義認の差異は、まさにその推理が乗り越える差異そのものだからだ。だからこの議論にとらわれることなく、自己誣告の構造から何が導き出されるかの帰趨は別途見極める必要があるだろう。

「カフカの名状し難い罪責感は彼の作品を一貫しているテマティスムであるが、もしかすると彼は何かに責められ、罪人であるという自覚を持つことによって、 「生の息吹の奪還」を図っていたのかもしれない。」というのは、三瓶の「有責性」の自己認識と変わるところがない。 法への懐疑、罪なくして刑罰はないという原理を疑うというのはその通りであるとして、一体、それを促す力はどこに由来するのか? 自己誣告の「審判」という作品の文脈における帰結が、「訴訟を(自ら)開始することに罪が存する」のであるとしたならば、「審判」とは一体如何なる物語であるのか?一見したところ、冒頭のJemandが誰なのかは問われることがなく、それは修辞的な ものであるかに見えるが、実際にはJemandが誰であるのかを探す物語なのではないか?それがK自身であることは如何にしてわかるのか? 読者にとって?作者にとって?作中の人物達にとって?誰よりKにとって?そしてそのとき「掟の門前」の物語の持つ意味は?

「原罪」とは「自己誣告」であるというのがアガンベンの主張の核心に存在する。そしてこれはカフカ自身の発言とされる 「原罪、すなわち人類が犯した太古の過ちは、人類が引き起こした告訴、取り下げることをしなかった告訴によって成り立っている。 というのも、迷惑をこうむったのは人類であり、原罪とは人類にたいしてなされた過ちなのだから」によって支持されると解釈されている。 上で問いを立てた小説の構造はおくとして、ここで扱われている基本的な事態(出来事)はどうなっているのか? Kの自己誣告で逮捕が生じる。逮捕を引き起こしたのがK.自身なのだ。K.は罰を受けなくてはならないが、それはなぜか? 誣告自体が罪なのか?誣告の帰結として、罪が生じたのか?(この両者は同じではない。)アガンベンの立場は明白に前者であろう。 ところで、K.の自己誣告が問題であるとしたら、(これはまさにカフカが言っていることなのだが)なぜ彼は告訴を 取り下げることをしなかったのかが問われなくてはならない。

そしてこの「自己誣告」は、やはりフロイト的な心的システムにおける超自我、イドとの葛藤の物語に回収される可能性を 含み持つ。「自己誣告」は「有責性の自己認識」とどれだけ異なるのかの距離の見極めが必要なのだ。罪が外在的なものではなく、 内的なメカニズムによって生じるとしたら、後は「有責性」が、いわば後付けの理屈的な合理化、「誣告があったからには 罪があったのだろう」という、これまた誤謬推理によるものではないかという問いが成り立つわけだ。

であるとしたら結局、「自己誣告」という主張は、何らここで問おうとしている構造を変えるものではない。 問いは、「誰」が「自己誣告」をしたかには存していない(実際「審判」という物語自体もそれは問わない)。 なぜ「自己誣告」が行われたか、「自己誣告」を可能にするような構造はどのようにして生成したのかが問われなくてはならない。 するともう一度、「外部」を問わなくてはならなくなる。排除したはずの超越性は、単にそれを語ることを拒絶しただけであり、 超越性の認識を否定することは、それ自体、問題の理解を拒む振舞いでしかない。もう一度「誣告」のメカニズムを作動させる「外部」が問題になるのだ。であるとしたら、本当にアガンベンの言うように、この審級において、 法それ自体の攪乱が起きているのだろうか? カフカはその点において、「これまでの文学の中でも最もラディカルな抵抗者である」とか「カフカの今日、 未来において最も先鋭的で独創的な点がある」などと言えるのだろうか?

そしてそれとは差し当たり独立になお、「なぜ彼は告訴を取り下げることをしなかったのか」を問うこともまた可能であることに注意しよう。そしてこれもまた、法それ自体の攪乱という観点を経由して、カフカのラディカルな 抵抗者であるという評価の是非にも繋がるだろう。

勿論、(同じことなのだが)カフカが自白を支持するユダヤ=キリスト教的な文化に反するもので、 むしろ自白を「不愉快で危険に満ちている」と定義したキケロに通じるという発想は検討には値しよう。 これは一体「自己誣告」とはどう関わるのか?自己認識と自己欺瞞の、いわゆる「意識=良心」の構造とはどう関わるのか? これはドゥルーズの「カントは、法についてのギリシア的な考え方からユダヤ=キリスト教的な考え方 への転倒に関する合理的な理論を作った。つまり、法はそれに対してひとつの材料を与えるような、 あらかじめ存在する善にはもはや依存せず、善が善として依存する純粋なフォルムである。 法がそれ自体を言表する形式上の諸条件の中で、法が言表するものが善である。 カフカは、このような転倒のなかにあると言えよう。」という見方とどう関係づけられるのか?カフカはまさにそうした転倒の 「最もラディカルな抵抗者」だと言うのだろうか?

K.という固有名の付与、それがダヴィデ・スティミッリの解釈であるKalumnia(中傷、誣告)を意味するものであるとして、 本当に最初にあったのは自己誣告なのか?そもそもカフカのいう「原罪」にあたる告訴は、本当はどういうものだったのか? 告訴自体が罪であることは認めたとして、一体その告訴が、自分自身のものであると決め付けることができるのは如何なる理由によってなのか?古代ローマの裁判において、中傷=誣告[虚偽の事実を言い立てて、他人を罪に陥れる犯罪]が司法機関にとってきわめて重大な脅威であり、偽証をした告発者は額にKの文字の焼印を捺され罰せられたという背景を素直に受け取れば、K.は自分ではない「他者」を誣告したと考えるのが自然なのではないか?そしてその誣告を取り下げなかったことが罪となったのではないか?引用のカフカの文章のアガンベンの読みは妥当なのだろうか?

恐らくはマーラーの音楽に即して「審判」を読む限り、自己誣告が正当化されることはないだろう。ドゥルーズ=ガタリの 「夢」解釈も成り立たないだろう。そうしたことが言えるあなた方は、幸いにして全体主義国家の恐ろしさを知らないのだ。更に幸いなことに、全体主義でない国家においてさえ、誣告されることの恐ろしさを知らないのだ。まさに「審判」という作品自体が告げていることだが、 自己弁護は無償ではないし、アドルノが引用した結末の叫びは、法治国家においてさえ、他者による誣告が生じれば避け難いものになる。中立的な状態があって、裁きの結果として二値の価値付けが行われるのではない。 誣告が生じれば、まず彼は被告であり、暫定的であれ有罪なのだ。そして彼はそれを自ら否定しなくてはならない。 誣告の暴力は、それ自体によってまず相手をマイナスの状態に陥れることにある。この点では反訴は虚しい。 誣告者をもマイナスの状態に陥れることはできても、自分のマイナスの状態は些かも変わらない。そしてマイナスを 解消するために、彼は、そうでなければする必要のない自己弁護をし、証言をし、それらが彼を、そうでなかった 場合の彼から遠ざけていく。「カラマーゾフの兄弟」におけるミーチャの尋問に対する反応を思い浮かべるが良い。 だれが誣告者であるか、誰が共犯者であるかが、文学研究者の自説の奇抜さを競うための具になってしまっているという事情は、「カラマーゾフの兄弟」でも「白痴」でも起きているが、あろうことか「審判」では自己誣告というかたちで起きているというわけだ。そもそもそうした新規な説自体が、作品に対する誣告であるいうような 状況が起きている。法もまた暴力であることは確かだ。だけれども、誣告は法の存在を前提としつつ、それでもなお、 それに先立つ暴力ではないか?その暴力は法を利用するが、法自体に由来するわけではない。法自体に由来する暴力は 別に被告を苛むことになるだろう。法が言表するものが善であるとして、だが無実の被告を有罪とするのは法自体ではない。 法を利用した暴力は、法の暴力ではない。(2014.9.14 公開, 2025.2.17更新)

2024年8月12日月曜日

アドルノのマーラー論(1960)でのカフカ『審判』の引用

アドルノのマーラー論(1960)でのカフカ『審判』の引用(Taschenbuch版全集第13巻p.306,邦訳『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.210)
(...)- Die Episode des Durchbruch ist in der Burleske so vergeblich geworden, wie die Hoffnung des sich öffnenden Fensters beim Tod Joseph K.'s im Prozeß, nur noch ein Flattern des richtigen Lebens, das möglich wäre und nicht ist: » Wie ein Licht aufzuckt, so fuhren die Fensterflügel dort auseinander, ein Mensch, schwach und dünn in der Ferne und Höhe, beugte sich mit einem Ruck weit vor und streckte die Arme noch weiter aus. « (...)

 (…)――突破のエピソードはブルレスケにおいてはむなしいものとなってしまった。それはちょうど『審判』の中でヨーゼフ・Kが死ぬときに開けられる窓の希望と似ており、可能ではあるがそこにはないような、正しい生の翻る様なのである。――「光がさっとひらめくと、窓の両側が開き、遠く高いところにかすかにぼんやりと、一人の人間がぐっと身を乗り出して腕をさらに先へとのばしていた。」

カフカの『審判』は、理由もわからず逮捕され、己の罪名もわからぬまま訴訟を起こされて裁判の被告となり、恥辱だけを残して犬のように「処刑」されていく ヨーゼフ・Kの物語だが、アドルノはそれをマーラーの第9交響曲のロンド・ブルレスケのエピソードについて述べるところで引用している。 それは丁度、更に後の、このマーラー論全体の末尾近くで、» Straßburg auf der Schanz' «に言及するのと呼応し、 最後に「子供の魔法の角笛」に登場するヴァリアント達、見捨てられた歩哨、美しいトランペットの響くところに埋葬された男、哀れな少年鼓手といった面々に繋がっていく。

全てのものが、誰も聞いてくれないのに大声で語られる末期の言葉なのだ。ヨーゼフ・Kはその光景を目にして、友達が、自分を助けてくれる人間が居るのでは、自分を 弁護する異議がまだあるのではと自問する。だが彼は、抵抗することが無価値なことを既に覚っているのだし、実際、その通りにしかならない。「極めて反抗的に」と 指示された音楽もまた、真理が幻としてしか経験されえないものであることを身をもって示すのだ。この音楽は、ヨーゼフ・Kのような経験を自己のものとするような 人間にとってまさに己を代弁するものとなる。

かつてパウル・ツェランはブレーメン講演において、マンデリシュタムが「対話者について」で述べた「投壜通信」を引用して、 詩を、必ずしも希望に満ちてはいなくても、いつかどこか、心の岸辺に打ち寄せると信じ、流される投壜通信であるとした。航海者が遭難の危機に臨み壜に封じて 海原に投じた、己れ名と運命を記した手紙。誰も聞いてくれないのに大声で語られる末期の言葉は、だが、彼が去ったのちに、どこかの砂浜に打ち上げられ、 砂に埋もれた壜に偶然気づいた人に拾い上げられて読まれることはないのだろうか。マンデリシュタムはやはり「対話者について」において、そうした手紙を読むことが 自分の権利であると言っている。壜を見つけたものこそが手紙の名宛人なのだと。

マーラーもまた、死を前にして、» Die mich suchen, wissen, wer ich war, und die andern brauchen es nicht zu wissen. « と述べたという。私はその音楽が (自分がどんなにつまらない、価値のない人間であったとしてもなお、あるいは、マーラーの音楽が対象であれば寧ろ、それだけになお一層)私に宛てられたものであると 感じる。終わるのをためらって漂う第9交響曲の終曲に、マーラーの長いまなざしを感じ取ることができるように思える。音楽は、これもまたツェランが詩について 言ったのと同様、永遠を望みはしても、時を超越したものではありえず、時間の流れをかいくぐり、通り抜けて他人のもとに届くものなのだろう。その価値は 天空のどこかで定まったものではない。壜を見つけ、手紙を読み、それが自らへの呼びかけであることに気づいた者は、己が行使した「権利」に見合った 「義務」を果たすべきなのではなかろうか。どんなに頼りなく、不完全な、取るに足らない試みであったとしても、己の受け取ったものに比べれば無にも 等しいものであったとしても、それを為すのが私のつとめなのではなかろうか。 こうしてこのような言葉を連ねることにより、願わくばそのつとめの幾ばくかが果たされんことを。(2009.3.14 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)

2013年3月3日日曜日

『狂気の西洋音楽史』におけるマーラーに関する言及について

椎名亮輔さんの『狂気の西洋音楽史』(岩波書店, 2010)の第4章「「シュレーバーの音楽」の 始まりと終り」の中ではマーラーはその「終わり」に位置づけられるものとして取り上げられている。 「ニ-1.伝達不全の狂気-マーラー」と題された節がそれにあたる。

椎名亮輔さんについてはフランスで書かれた博士論文の翻訳であるらしい 『音楽的時間の変容』(現代思潮新社, 2005)を過去に読んだことがあり、 音楽的時間に関する考え方のごく基本的な立場については共感できる ものの、具体的な内容については私にとっては疑問だらけで、特にそこにおけるマーラーのような 音楽の時間と、例えばケージに代表される音楽における時間の性格づけと対比について、 強い違和感を感じたことを思い出す。

『狂気の西洋音楽史』は中沢新一さんの慫慂で書かれたとのことであり、ナイマンの実験音楽に ついての著作の翻訳者でもあり、だとすれば私が持続的な関心を抱いていて、かつその関心の あり方を記録にとどめることにしているほぼ唯一の同時代の試みである三輪眞弘さんの 問題意識と決して無縁なわけでもない。

『狂気の西洋音楽史』という本は2010年11月に出ていたようだが、2012年の7月くらいまで それに気付かなかった。そしてその後未曾有の震災を経験し、それから1年余りが経過した、 すっかり風景が変わった世界の中でそれを紐解いたということが与っている可能性もあるが、 一通り読んで、前回同様の強い違和感を感じずにいられなかったのみならず、震災後の 風景の中でマーラーその人とその音楽が自分の周囲の風景の中に占める位置に照らしたときに、 その違和感の在り処をつきとめ、ささやかな異議申し立てをしたい気持ちを抑えることができなくなっている。 今度はマーラーが主題的に扱われていることもあり、その扱い方もさることながら、 その議論の組み立てについても、違和感の連続だったのである。

残念ながら専門の学者でもない人間が、学術的な研究に対してきちんとした 批判を企てるのは、能力的にも無理だし、また時間の余裕がないまま今日に至っている。 そもそも椎名さんの主張の妥当性や学術的な意義についての判断は私の如き市井の 音楽愛好家の能くするところではないので控えるべきなのであろうが、 それでもなお、ことマーラーに関する限り、私にとってはどうでもいいことではないのは確かなことで、 能力と時間の不足で、きちんとした反論が出来ないことを遺憾とする。そしてその上でなお、 それが異議申し立ての体をなさないとしても、違和感を感じたことをこのように証言せずには いられないのである。

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まず、『音楽的時間の変容』における違和感について触れておきたい。というのも、そこでの 時間論的分析は椎名さん自身も後書きで述べているように、今回の著作におけるマーラーに 対するアプローチと無縁ではなく、前著ではマーラーが名指しされることはないとはいえ、 マーラーを含む音楽、つまり今回の著作では「シュレーバーの音楽」として括られている音楽の 持つ時間性が問題となっているからである。

実はマーラーの音楽の時間性を扱った分析に関する違和感は椎名さんのそれに対してだけではない。 David Greeneというアメリカの音楽学者(彼は宗教哲学の素養があるようだが)が書いたマーラーについてのモノグラフ (こちらは管見では邦訳は存在しないが、そのかわりベートーヴェンについて、同様のアプローチをしたモノグラフの 翻訳があるようだ)についてもそうなのだが、私には、それらがいわば「哲学」の濫用に感じられる。

私は実験音楽のラディカルさに共感する部分も多いし、 そこで得られたものを否定するつもりはないけれど、椎名さんの実験音楽の時間性の把握と それを賞揚する論理は、私には理解できない部分が多々ある。文献の参照も豊富であり、 大筋の論理は寧ろ明快というべきなのだろうが、論理の一貫性の問題というよりは、 具体的な音楽の、ここでは「時間性」を扱う手つきのデリカシーの無さのようなものが気になるの かも知れない。

色々な時間論が参照されるけれど、(一応、哲学の専門教育を受け、特にエマニュエル・レヴィナスを中心とした 現象学、およびホワイトヘッドのプロセス哲学における時間論については自分の研究領域としていた こともある私の認識では)それらについての理解もひどく図式的だし、何より「音楽的時間」を分析することが、 寧ろそれらの時間論の肌理の粗さを示すことにすらなりえる筈なのに、逆にそうした肌理の粗い図式的な理解で 「音楽的時間」を整理するのは対象となる音楽を分析のベッドの長さに合わせて切断する暴力を伴っているように 感じられる。勿論それは理論的分析にはついてまわるものであるから、所詮は程度の問題であり、 私がないものねだりをしているのかも知れないが、私にとっては決定的な何かが、この分析には 欠けているという焦燥感にも似た感覚に囚われるのは避けがたい。

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Greeneの主張とは異なって、マーラーの音楽は、何も未聞の宗教的経験の音楽化などではない。確かに音楽の持つ時間の構造は独特だが、 それはマーラーの場合について言えば、寧ろ現象学的な時間に近い。ただし日常生きられる時間性という意味合いで。 (例えば死の受容といったイベントも、ここではあえて「日常」の側に含める。それだけを特権化する理由がないので。) 音楽の研究者が「日常の時間」というとき、物象化された時間表象にあまりにとらわれすぎていて、現象学が見出した 領域をまるまる無視してしまっている。日常の時間「表象」と日常生きられる時間性との区別は必要で、後者は自明でない。 少なくともGreeneが頻繁に参照するSein und Zeitが持つインパクトはそれを明らかにしたことにあるのだし、その不自明性はいわゆる存在論的な構造に起因するのだから。

椎名さんの分析も同様のものに私には見える。何も現象学的還元を持ち出す必要などなく、音楽的経験の時間は日常的なそれと 異なるには違いない。だが、まずはそれは経験の素材の特殊性によるので、それ以外については、Greeneの transfiguredという性格づけが疑わしく、 その妥当性に対して慎重であるべきであるのと同様に、慎重であるべきだ。

勿論音楽が非日常的な経験への通路たりうることを否定するのではないが、それがどう可能かを説明するのに(椎名さんは真木悠介、 木村敏、九鬼そして道元などを参照している)様々な説をその相互関係に留意せずに並べることが実質的に貢献するとは思えない。 Greeneにせよ、椎名さんにせよ、「日常性」という言葉を自分の立場のオリジナリティを強調するために利用しているのでは、 という疑いを否定することは困難だ。 日常という言葉で一体どういう時間性を含意しているのか、例えばHeideggerが分析した豊かな領域は一体どういった扱いを受けるのか、 日常性の豊かさこそが音楽的経験を可能にする前提のはずなのに、ただちに特異な、特殊な経験を持ち出し、それを可能にすることが あたかも「価値」であるかの様な主張はどこか転倒している。もっとも、こうした「日常的時間」の用法は、それなりに一般的ではある。 そして計測可能な、量化された時間というのがある事自体は否定しがたい。ポイントは、それらがいわゆる本当の意味での日常的な 時間意識とはまた異なった、それなりにelaborateされた表象であることだ。それは文化依存ですらありえて、ジュリアン・ジェインズの 二院制の心の説の背景をなす仮説によれば、意識そのものの構造の可塑性・文化依存性との相関物であるかも知れないのであって、 控えめにいっても、スティグレールのいう第3次過去把持の水準に結び付けられるものなのだ。 だから、日常性を批判するなら相手が違うし、そうした表象の批判は日常性の批判にならない。

もう一つは時間性に「限定」してしまうことで、体験の質を逃してしまう危険である。 これは「時間性」を扱うといったときに用意される道具立ての貧しさに由来する。例えばGreeneの分析をとりあげれば、 一次元しかなく、しかもメトリクスすら定義されない離散的な粗雑な対立、それも2つの極を持つのではなく、ある質の有無でしかないような 装置でマーラーのような複雑な時間性を持つ音楽を分析すれば、分析図式の貧困が対象を破壊するのは避け難い。

一方で椎名さんの方は、―彼が顕揚したい実験音楽の時間性についてはおくとして―これほど複雑な構造を持っているロマン主義の音楽、 例えばマーラーの音楽の複雑さを目的論的という言葉ひとつで片付けてしまうのは、些か不当で粗暴に感じられる。意地悪な見方をすれば、 実験音楽の時間性の方が、(時として、それ自体が作者の問題意識でもあるゆえ) より単純で分析しやすく、 それについて語ることが容易であるに過ぎないのでは、という疑いを払いのけるのは難しい。「実験」は現実の複雑さを捨象した モデルを作り、理論を構築したり、検証したりするために行うのである。一方で、実験室の外の現実の現象(例えば、スーパーコンピュータを 用いても一定の精度の解析・予測しかできない気象を例をして考えてみたらよい)の複雑さは、それを理論的に記述することが遥かに 困難なものなのだ。とりわけて、ベートーヴェンの後期も含め、マーラーのような後期ロマン派の音楽は、単純な目的論的図式に収まらないことこそ、 その音楽の特徴であろうというのに、ロマン主義=目的論的で片付けるのは、まるで天気の予測を下駄投げをもってするが如き、分析する側の 無力の顕れではないのか。

実際のところどうなのかはわからない。 なぜなら椎名さんの議論は両者を具体的に分析してみせた結論ではないから(これも、実験の精神に反する、酷くアンフェアな手続ではないだろうか)。 Greeneの分析の結果の貧しさもまた同様に、マーラーの音楽そのものの時間性の貧しさではない。それらは総じて分析の手段の貧しさに過ぎない。 椎名さんの近代音楽の時間性についての議論の方はそうでないといいのだが、私はあまり納得できていない。音楽記号学が(少なくとも、私が関心を 持っているタイプの音楽に限って言えば)どうやら不毛らしいことについてはあまり異論はないのだが、では音楽的時間論の方はどうなのかといえば、 こちらもまた、私が関心を持っているタイプの音楽についてどうなのだろうか、些か腑に落ちないものがある。

近代音楽の時間性を日常的時間と切り離された閉じたものとして捉え、一方でその裏返しとして日常的時間の 貧困と無意味を指摘し、それらの両方に対峙するものとして実験音楽的な時間性を置くという図式は、今ここでマーラーという 近代音楽の典型のことを思い浮かべている私には、全く現実離れしたものに感じられる。実験音楽が切り開く時間性が、 日常の豊かさを回復させるとは、日常生活の如何なる瞬間においてなのか? 一方で、マーラーの音楽の時間性が、 ある時には「世の成り行き」の時間性であるとしたら、それは控えめに言っても、「日常的時間と切り離された閉じたもの」 ではない。寧ろ、日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされる実験音楽の方が日常的な時間性に対して閉じていると 言えないのはどうしてなのか、、、

否、ひとがみなCageのように生きることができるのであれば、話は違うだろう。だが、一瞬だけ実験音楽を聴いて、 その場限り体験できる日常の豊かさとは何なのか?所詮は、コンサートホールで演奏され、CDに収められて 流通している点で何ら変わるところはないというのに。椎名さんご自身はCageのような生き方を実践されているかも知れないが、 残念ながら、日常的時間の貧困と無意味から逃れられない私には椎名さんが実践し、実感されているのかも知れない 実験音楽のありがたみをわかることはなさそうだ。Sein und Zeit風には、頽落したDas Mannであるところの私には無縁の話なのだろうと でも考えるほかない。まあ、今頃マーラーみたいな音楽を聴いている人間のことなど、どうでもいいのかも知れないが、だったら、その音楽論を 述べるにあたり、「実験音楽における」という制限をつけて欲しい気もする。そうすればはじめから期待せずに済むわけなのだから。 少なくとも本当の意味での「変容」の過程自体(それがあることすら自明ではないはずだが)は、例えば何らかの数理的なモデルを 示唆するようなメタファーのレベルですら説明されているようには見えない。「変容」ではない、単なる対比、「実験音楽」を賞揚するための、 反面教師としてロマン派音楽が引き合いに出されているに過ぎないようにしか見えない。

そもそも日常性を本当に問題にして、それに対する音楽の機能を考えるなら、作品の内部構造のみを問題にするのは不十分だろう。 演奏の次元は、作品に最もよりかかった部分であり、それよりはせめて創作の次元や受容の次元の議論をしなければ 片手落ちだと思うし、音楽を聴いている瞬間だけを問題にするのは、この議論の枠組みを考えれば不十分なはずだ。 (風呂敷を広げたのは椎名さんの方であって、読み手の私ではないので、読み手の私はすっかり戸惑うことになる。) 否、そもそも、こうした話をしだしたら、最後までそれは音楽の時間論であり続けることができるだろうか。率直に言って、 こうしたレベルの議論が博士論文で扱われている音楽学という分野のあり方が私には、自分の実感から乖離したものに感じられるのを 禁じることができない。

*       *       *

『狂気の西洋音楽史』についても基本的な歴史的展望は変わっていないようで、ただしここでは 「シュレーバーの音楽」というラベルを貼られ、意味の病を病んでいるというように言い換えが為されているようだ。 (そもそもそれ自体がかなり怪しい)フーコーの「狂気の歴史」の考古学の音楽版といったところが 狙いのようなのだが、ここで一番気になるのは「狂気」という「記号」のいわば「濫用」ではないかと思われる。 しかも、ここで論じられているのはほとんど専ら「音楽」の外側のエピソードばかりで、肝心な「音楽」そのものの 「意味」の分析がされているとは到底思えないことは、「音楽史」の実質を私が勘違いしていなければ致命的なことと思えてならない。

例えばマーラーの場合、椎名さんはマーラーの章のタイトルを「伝達不全の狂気」とし、特に第10交響曲を取り上げる。
「《第十交響曲》が表現しようとしていた「世界」とはどのようなものであったのか、 それに彼が失敗した(最終的にこの作品は未完で残されたのだから)はなぜなのか。 次にそれをマーラーとアルマ、そしてマーラーとフロイトの関係の中に探ってみよう。」(p.203)
という文章で問いがたてられるわけだが、それに対する答えは、好意的に読めば
「(…)もちろんマーラーの交響曲はすべてが彼の全世界を表現していて、 その中に「世界の本質」としての「狂気」も含まれているが、それ以前の作品では それが強固な意思と多大な労力によってようやく「合理化」されるに至っていた。それが 《第十》については、創作の起源にあるアルマとの悲劇があまりに衝撃的であったために、 「狂気」が合理化されずに生き延びてしまった、と。つまり「狂気」が作品創作の原動力でも あり、作品を未完に終わらせた原因でもある。」(p.233)
という部分なのだろうと推測される。しかし、まず末尾の一文は「つまり」で続けられるような論理なつながりが ないように感じられる。更に、作品が未完で終わったことは、単にマーラーが(当時不治の 病であった)連鎖球菌の感染によって死んでしまったからではないかといった別の原因は 予め問いを立てる時点で排除されているらしい。また、未完で終わることが何故「世界」の表現に 「失敗した」ことになるのかも私には理解できない。椎名さんの言う「狂気」(それは「世界の本質」 らしいのだが)が具体的に何なのかもわからないし、そもそも「世界」、「本質」ということで何を 指し示しているのかすら判然としない。でも椎名さんはお構いなしにこう続けるのだ。
「すでに見たように、マーラーはそれをはっきりと言葉で残していた。「狂気が私をつかむ。 呪われたる者!」と。(...)マーラーは、絶対音楽の精髄としての「交響曲」が、 その意味を伝えるぎりぎりのところまで来ており(《第七》の意味はアルマに伝わらなかった)、 これ以上どのような努力をしてもそれを完遂することはできない、あるいはそのような努力は 「狂気」となるしかない、ということに気づいていたのである。」(p.223)
マーラーが《第十交響曲》のスケッチに残されていた言葉が《第十交響曲》の音楽の実質と どう関わるかは自明なのだろうか?椎名さんのいう成功・失敗とそもそも関係があるのだろうか? 《第七》の意味がアルマに伝わらなかったというのもまた、リハーサルでのあるエピソードの 証言が根拠になっているらしいが、(アルマが《第七》を好きでなかったかも知れないという 事実はあるにせよ)それが一般的な議論の水準での彼の「音楽」の「伝達不全」とどう関係するのか? 一方で、そもそもマーラーのスケッチの文章は、椎名さんが敷衍したように解釈できるのだろうか?

勿論、ここでは椎名さんの途中の議論を割愛しているので、その部分の内容によって、 椎名さんの結論が自然に感じられるということもありえるだろうが、私には全くそのようには 感じられない。前著同様の、予め自分が用意した恣意的な図式に対象を押し込んで、 その妥当性は抜きにして、それをもって自分の図式の実証であるとしているようにしか思えないのである。 (もしかしたら、それは自明のことであって、論証するまでもないことなのに、私がそれを理解できていない だけなのかも知れないが。)

椎名さんご自身が立てた「《第十交響曲》が表現しようとしていた「世界」とはどのようなものであったのか」という 問いに対する答えは結局のところどうなるのか?「マーラーの交響曲はすべてが彼の全世界を表現して」いるからには、 《第十交響曲》もまた、「彼の全世界」を表現しているのだろうか?「世界の本質」であるらしい「狂気」をも 表現しているのだろうか?作品創作の原動力と作品が「表現」するものの関係はどうなっているのか? アルマに伝わらなかった《第七》の「意味」はそれでは何なのか?狂気は伝達不全の結果なのか? 原因なのか?作品創作の原動力なのか?作品の成功を妨げるものなのか?作品に表現されているもの、意味なのか?

仮にもし、マーラーの音楽そのものを、ではなく、マーラーが音楽の傍らに書き残した言葉の方を殊更に重視するという 選択をするのであったとしても、それならそれで例えば、
「すでに見たように、マーラーはそれをはっきりと言葉で残していた。「狂気が私をつかむ。 呪われたる者!」と。これは、ド・ラ・グランジュの翻訳によれば、「狂気よ、私をとらえよ、生きていることを 忘れさせるように」となっている。」(p.223)
という文章は一体何が言いたいのか?内容以前の問題として、まず、引用部分の明確な不一致がある。p.197で椎名さん自らその全体を 引用しているうち、少なくとも「私を滅ぼせ、生きていることを忘れさせてくれ!」までを含まなければ、ド・ラ・グランジュの翻訳の範囲と対応しないだろうに。 また、ここであえてド・ラ・グランジュの翻訳を参照する意味も全く不明であるし、この翻訳が忠実なものではなく、 断片的なものであることを考えれば、一体、ド・ラ・グランジュの文献を参照したというアリバイ以外に、この翻訳を 引用することの意味がどこにあるのか、私には全く理解できない。もし、この翻訳が椎名さんの立論にとって殊更に 意味があるなら、それがどこにあるのかを明記すべきだし、「翻訳」という行為自体が、椎名さんの立論にとって 意味があるのなら、それについての理論的な記述があってしかるべきではないか?そんなことも言外に読み取れない 私はもう一度、読者として失格なのだろうか?いや、そうなのかも知れないが、、、

上記のような指摘は些事拘泥であり、ここでは椎名さんの提示するマクロなスキームが問題にすべきで あって、一サンプルに過ぎない個別の例の取り上げ方に噛み付くのは近視眼的だという批判があるかも 知れない。だが、「狂気の西洋音楽史」の妥当性を判断しようとするならば、サンプルの扱いこそが問題だし、 論証の手続こそが問題なのではないか。実際には、椎名さんが言いたいことは漠然とは推量できるけれども、 そしてそれが全面的に間違いだということはないかも知れなくても、「狂気の西洋音楽史」の「論証」には違和感を 感じるばかりで全く納得も共感もできない。もし主張が正しいとしても、ことマーラーの部分に限っていえば、 その「論証」の手続にはミクロのレベルにおいても到底納得がいかないのである。

更に椎名さんは、アドルノのマーラー論を敷衍しつつ、更にそこに渡辺裕さんの「マーラーと世紀末ウィーン」の 文章を織り交ぜつつ(実際、それはそのように注記されることなく為されるので、それのどこが2つの著作の いずれから引用されているのか、読み手には一見したところはわからないようになっている)、以下のように アドルノのカテゴリーを換骨奪胎することを主張する。
「マーラーの音楽とは、古典的な形式言語によって支えられていた純粋に自律的な絶対音楽の理念が もはや機能しなくなった時代に現れた、いわば遅れてきた(本文は傍点)絶対音楽なのであって、 そのような存在が「合理化の精神に支えられた近代の危機と重ね合わせて考えられ」る中から、 その「批判的」なあり方も読み取れられるのであろう。しかし、むしろ我々は、そのようなマーラーの音楽を 合理主義「批判」ではなく、その「危機」的状況、すなわち「世の成り行き」を忠実に写し取っているものと 見たいのだ。つまり、アドルノにとって「批判」的な要素として解釈された「突破」、「一時止揚」、「充足」の ような、古典的形式概念では説明がつかない、いわば「不合理」な要素も実はこの「世の成り行き」の 中に含まれるものであり、言葉を換えて言えば、「この世」はまさにそのままで「不合理」で説明がつかない ものとして表現されているということだ。(p.221)
要するに、今度は「世の成り行き」にマーラーの音楽をそっくり回収し、例えばアドルノが救い出そうとした批判的な契機には 関心がない(いや、より強く、批判的な契機の存在を認めない)かのようだ。しかもその「世の成り行き」の音楽が、「シュレーバーの音楽」であり、意味の病を病んだ挙句に、 「伝達不全」を起こしているということのようなのである。だが、まずマーラーの音楽は、全面的に「世の成り行き」の音楽で あるわけではなく、寧ろ「突破」や「一時止揚」「充足」「崩壊」というのは、そうした「世の成り行き」に対する反応を 表す類概念であった筈ではなかったか。だとしたら、要するにここでは、「世の成り行き」というヘーゲルの精神現象学に由来する、だが アドルノ独自の概念の方こそ換骨奪胎されているのかも知れない。だがこの換骨奪胎は、マーラーに関して言えば、アドルノが このモノグラフのみならず、ウィーン講演においてもあれほど拘った、その音楽の持つ契機を決定的に毀損するものであると 私には思われる。しかもマーラーの音楽の具体的な様相に照らして、アドルノの主張を斯くの如く 換骨奪胎することが如何にして可能なのかの論証は見当たらず、作品そのものではない音楽の傍らに書き残した言葉やら ある作品に対する嗜好の回想などを根拠にして、ただそのように断定されるばかりである。ここには論証は存在していない。 要するに椎名さんのテーゼを述べるための材料として利用されているだけで、それはテーゼを裏づけ、傍証するものとして取り上げられている ようには見えないのである。

私見によれば、椎名さんの主張は、「世界」という言葉の意味、更には「世の成り行き」と「主観」の関係についての把握に関して アドルノに対して不当なまでに単純化している点に問題がある。それは音楽作品を(こちらは直接にはベンヤミンの用法に由来する らしいが)「モナド」として「社会」を無意識的に「表現する」非概念的な言語であるというアドルノの規定のニュアンスを捉え損なって いる点と関連しているように見える。それは「「世の成り行き」を忠実に写し取っている」という言い方が「そのままで「不合理」で 説明がつかないものとして表現されている」という言葉で言い換えられている点に如実に顕れている。音楽には模倣的な契機が あることはアドルノも認めているが、それは単なる「反映理論」ではない。また、アドルノのマーラーに関するモノグラフにおいても、 個別には例えば第8交響曲(そう、第8交響曲であって、第10ではないし、第7でもない。第7については、その第5楽章については確かに第8交響曲とともにあげられているが、そうだとしても、第7交響曲の全体ではないのだが)に関して「攻撃者との同一化」(アドルノ, 『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, VII 崩壊と肯定, p.181)を 示唆しているような場合もあるが、だからといって「世の成り行き」を世界の本質として物象化し、それを強化することにマーラーの音楽が終始しているとは言っていない。 マーラーの音楽は「世の成り行き」を模倣しつつ、それに対して異議申し立てをしているのだという点をアドルノは強調しており、 かつその異議申し立てが失敗に終わる点にこそ批判的な機能を見出しているのだ。マーラーの音楽は勿論、合理主義「批判」ではなく、 寧ろ「不合理」なものと化した「世の成り行き」に対する抵抗の叫びなのであって、椎名さんの批判も批判の前提となる主張も、 全く的外れなものにしか見えない。そしてそれは椎名さんが持ち込みたがっている「狂気」とは差し当たり関係はない水準での 議論の筈である。

ちなみにアルマの名誉のために言っておけば、アルマにとって第10交響曲は、自分自身が惹き起こし、 彼女自身それに対して罪の意識を恐らくは感じていたであろう出来事を思い起こさせるが故に、特別な感情を惹き起こす 作品であったろうが、デリック・クックの演奏会用バージョンの作成作業を最終的に認め、それを支援してさえいる。そのきっかけは クックが試演した演奏会用バージョンの初期の形態の録音を聴いてのことであったらしい。アルマは第10交響曲を「理解」しなかった のだろうか?否、そうは思わない。自身も作曲の心得があり、マーラーの音楽を最初は嫌っていた彼女は、マーラーの伴侶と なった後も、マーラーの音楽を全面的に受け容れることはできなかったかも知れないが、少なくともその作品の価値は、 彼女にとって疑問の余地のないものであったように私には思われる。しかもアルマは自分の音楽観によってマーラーの音楽を 断罪するのを留保し、その音楽そのものを聴くことによって、その音楽にも固有の価値を見出していたのである。そうしたアルマの 姿勢は言及されることなく、第7交響曲のエピソードだけで「伝達不全」を述べ立てるのは、アルマの場合という個別のケースに 関しても、言いがかりの類としか思えない。

ごく単純に、私生活上の出来事と音楽作品を短絡させる ことには慎重であるべきだし、特に初期の作品を中心に今なお懲りずに取り上げる人がいるかの「標題」についての問題が 示しているように、作品の脇に書かれた言葉は、無視されるべきものではなく、作品を理解する文脈を否応なく形成するもので あるにしても、それのみで作品について語りうると考えるのは本末転倒以外の何物でもない。それはマーラー研究の文脈では それこそさんざん議論され尽くしてきたことの筈であるのだが。

いずれにせよ、先に引用したものが現時点での、過去の西欧音楽に起きた現実の出来事についての椎名さんの 認識であるというならそれでもいい(私には、実のところ、そうした総括にはあまり関心がない)。そして、その認識が全く誤っていると いうようには私は考えていない。寧ろ、マーラーの音楽を取り囲む状況に関して、ある部分については認識を共有した上で、 だが、椎名さんのようにマーラーの音楽と捉えるということ自体、或る種の態度決定を、(それが無意識的なものであれ、)選択を含んでいて、 私のような立場で、過去の音楽であるということを意識した上で、それでもなお、今日それを必要不可欠なものとしてマーラーの音楽に接するものに とってはその選択の恣意性は到底無視しがたいことである。

要するに、マーラーの音楽は声なき者の代弁者などではなく、時代の病の症例に過ぎないし、 そうしたマーラーの聴取自体もまたそうなのだということなのだろう。かくして私もまた、21世紀にもなって、まだ「シュレーバーの音楽の終り」と 共にある存在という位置づけを得るのだろうか。ともあれ、私が東日本大震災を経て2012年の5月5日に記した文章に書きとめた、 マーラーに見出したと思った以下のような契機など、椎名さんにとっては(マーラーの音楽が「彼の世界」に過ぎないのだから、 当然といえば当然だが)私の「妄想」に過ぎないということなのだろう。
 だが掟の門前でうろつくばかりしか能のない門外漢にしてみれば、マーラーの音楽にはあれ程豊富に存在した筈の時間方向の構造、聴き手をもどこか別の場所に連れて行かんばかりの、それが作者の意図するところであるならばその限りにおいて「目的論的」という形容すら誤りとは言い難い、巨大な時間的持続を支える時間方向の方法論的図式に代替するものが、20世紀の音楽の中では結局発見されることはなかったのではという感覚は否み難い。否、一例をとればマーラーの作品の長大な時間的経過を支える音楽的構造と、それを利用する具体的な適用の卓越は非専門家の耳にも明らかで、そうであれば尚更、その後の音楽においてかくも生産的な原理が放棄されたのは何故なのか改めて不思議な思いに囚われても不思議はない。確かに、今この音楽をもう一度創ることの不可能性もまた疑いを容れない事実のように思われる。それにしても何故なのだ、という疑問が頭に取り憑いて離れない。それは時代の要請なのか。  逆に言えば100年前の音楽に確実にあって、更には今尚力を喪っていないと感じられる側面が未だにあるというのは、その音楽の指し示す未来を告げてはいないか。時代の制約の中、所与であった語法を換骨奪胎して提示する、今なお異様な力を喪わないその音楽の動性、超越への衝動に支配された外への運動、未知の地点に聴き手を運んでいってしまう、暴力的なまでの力。アドルノは全般としては己が批判的に考えていたマーラーの第8交響曲に対して「救い主の危険」という表現を用いた。私にはこの言い回しはアドルノの逡巡を、聴経験に忠実なアドルノの、論理でもって断定し去ることへの躊躇いを感じずにはいられない。「救い主の危険」。それは今やマーラーの音楽全体について言いうるように私には感じられる。マーラーの音楽の持つ時間性のアナクロニスムは、だが閉塞した現在の凍りついた時間(その認識の何と正しいことか)にあって、単なる夢想に過ぎないとさえ感じられるし、そのように断罪されるケースも、しばしば見受けられる。だが、そこには文字通り、未だ来たらざるものとしての未来への途があるのではないか。それは仮想されたものを恰も現実に実現するかのように見せかける詐術ではない。ポテンシャルとしての未来が、音楽の彼方にあるものとしてヴァーチャリティとして指し示されているのではないか。   だが、ここでこれ以上遠くに行くことはもうできない。私にとって確実なのはマーラーの音楽を手放してはならない、ということだ。異様な力に満ちたその音楽を聴くことが時折困難になるにせよ、自分に向かって手を差し伸べ、自分を幽霊の隊列に加わるよう誘う音楽に耳を閉ざしてはいけない。生き延びてどこか別の場所に辿り着くことを希求し続けるならば。  

あるいはまた、別のときに以下のように書き付けたとおり、マーラーの音楽世界はそれ自体、そうしたいわば「落伍者」の形象に満ちていて、私はそこでしか 安らぎを見出すことができないのだ。そう、私は恐らくは自ら進んで、その「世の成り行き」の「不合理」に、何なら「狂気」に留まることを選ぶほかないのだろう。 自分の同類であるあまたの名もなき「幽霊」たちと共に。

カフカの「審判」は、理由もわからず逮捕され、己の罪名もわからぬまま訴訟を起こされて裁判の被告となり、恥辱だけを残して犬のように「処刑」されていくヨーゼフ・Kの物語だが、アドルノはそれをマーラーの第9交響曲のロンド・ブルレスケのエピソードについて述べるところで引用している。それは丁度、更に後の、このマーラー論全体の末尾近くで、» Straßburg auf der Schanz' «に言及するのと呼応し、最後に「子供の魔法の角笛」に登場するヴァリアント達、見捨てられた歩哨、美しいトランペットの響くところに埋葬された男、哀れな少年鼓手といった面々に繋がっていく。  全てのものが、誰も聞いてくれないのに大声で語られる末期の言葉なのだ。ヨーゼフ・Kはその光景を目にして、友達が、自分を助けてくれる人間が居るのでは、自分を弁護する異議がまだあるのではと自問する。だが彼は、抵抗することが無価値なことを既に覚っているのだし、実際、その通りにしかならない。「極めて反抗的に」と指示された音楽もまた、真理が幻としてしか経験されえないものであることを身をもって示すのだ。この音楽は、ヨーゼフ・Kのような経験を自己のものとするような人間にとってまさに己を代弁するものとなる。
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勿論、違和感の根底には、根本的な 立場の違いがあるのだろうとは思うが、価値観の違いを問題にし、論争を挑もう というのではない。寧ろ違和感の由来するところは、それ以前の問題ではないか、マーラーのみならず、シューマンや シェーンベルクの、更にはシュレーバーに対し、作品を創る「現場」、各人の生の「現場」に 対する「想像力」が欠如している点にあるように感じられてならないのである。要するにマーラーに関する伝記資料や アドルノのモノグラフもそうだが、それ以前にマーラーの音楽を聴いても、スコアを、第10交響曲の スケッチを見ても、そこから椎名さんの主張するような内容がどのようにしたら抽出できるのか私には 率直に言ってわからないのだ。端的にこれは牽強付会のための曲解か、誤解に基づく 牽強付会にしか思えないのである。

自分がコミットしたいと思っている価値を持った対象がこのように(私から見れば)「権威」が 流布する共感なき評価によって惹き起こされる「誤解」に巻き込まれることに私はしばしば 耐えられなくなる。こうしたことを動機に書くことが果たして意味あることなのかは良く わからないが、考えてみれば、マーラーのページは、アドルノのマーラー論の(アドルノ研究者であり、 マーラーの音楽の実演に本場で接していることを後書きに記している人による)翻訳の不正確さ (としか私には思えないもの)から始まって、マーラーを研究し、紹介する「識者」と呼ばれている人達の言っていることに いい加減さ、不正確さに対する苛立ちを、あるいは(例えば椎名さんも言及している渡辺裕 さんの研究のような)よりきちんとした議論に対してなら、その内容に違和感を感じて、 それを最初は自分のために記録しはじめたのがきっかけの一つであったわけで、 今尚、こうして文章を書いている原動力であることは認めざるを得ない。

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だが、椎名さんの主張に関してのみ言えば、そもそもこうした時間を生きている私のような 人間のあり方こそ、椎名さんが問題としている様態そのものなのだろうから、 私のこうした反応は、椎名さんの議論のある水準での正当性を裏付けるものなのかも 知れないとも思う。椎名さんのような立場で音楽に接する人にとっては、 私のように音楽に接するのは、強迫的な消費の恰好のサンプルそのものであり、 そのように仕向けられていることの証拠だということになるのだろう。

恐らくは椎名さんのような方は、 「世の成り行き」の端的な外部に在ることができているに違いない。外から見れば、「世の成り行き」に 巻き込まれ、翻弄された挙句、流砂に呑まれるように跡形もなく消えてゆく声なき人間は 「世の成り行き」の一部にしか見えないに違いない。 結局のところ、構図は「音楽的時間の変容」の 時と変わることはない。そこでは実験音楽は日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされていた。

だが、皆がケージのように、あるいはラモンテ・ヤングのように、テリー・ライリーのように生きられる わけではない。それが選択の問題だと言われても、そもそも選択の余地などない人間だって数多く いるのだし、アドルノはマーラーの音楽をそういう声を奪われた人間のために手を差し伸べるものと して規定したはずなのだ。だが、立ち位置が異なれば、展望も自ずと異なってくる。 「世の成り行き」の中にいる人間は、「世の成り行き」に対して客観的たりえないのであれば、 外部からの客観的な視点に対して抗弁することは権利上許されていないのだろう。

しかし、もしそれが客観的に見て妥当であったとしても、それを認めざると得ないとしてもなおかつ、 ここで私が言いたいのは、もしそうであったとしたら、そうした水準は私のような人間には 関係がないので、その正当性は私にとってはどうでもいいことだし、西洋音楽史を椎名さんのように 捉えることの意義もまた、私のように批判される側に居るのであろう人間には杳として 知れないということである。そして、私が聴くマーラーは、私が見出すマーラーは、椎名さんの 「西洋音楽史」に位置づけられるらしいそれとは「別人」の音楽なのだということである。 そしてそのような異議申し立てがあるという事実だけでもせめて記録しておきたいのである。

私は、私のような声なきものの代弁者としてマーラーを見出していたのだが、 実はそれは私の思い込みであったかも知れない。であるとしたも、それを認め、 「私のマーラー」が虚像であったとしても、私は自分でそれを書きとめるしか術はない。 私は私の代弁者であり、私の中の奥の部屋に住んでいて、私の声を通して語ろうとする 存在としてのマーラーを擁護しなくてはならないのだ。それが「彼の世界」といういわば「妄想」の体系を 生涯に渉って築き続けたマーラーその人のありように丁度対応するように、こちらは「私の世界」の 「妄想」であったとしても。

この文章は実質において異議申立のための準備書面のごときものの更に冒頭陳述の部分に 過ぎないだろうが、永遠に本論が書かれることのないであろう準備作業をこのように公開するのは、 こうした企てが行われた事実を証言するためである。 何なら、そのような「狂気」を抱いたマーラーの聴き手が21世紀の日本に一人居たということで あっても構わない。私のような聴き手は、21世紀におけるマーラー受容のパースペクティブを 捉え損なっており、無知と視界狭窄そっちのけに、主観的な根拠なき確信のみに基づく虚像を 押し付けているのであるとするならば、私は沈黙すべきなのだろう。 そもそも未定稿を公開することなど、マーラーの創作姿勢に関する言葉を思い浮かべれば、 それ自体許されることではないではないか、何という不実さよ、というわけだ。 だとしたら、この文章そのものをマーラーに関する「症例」の一つとして、後年の分析の対象に資すべく、 斯くの如く「投壜」し、後はマーラーに関しては沈黙することにしよう。 (2013.3.3, 5.1,9.14, 2023.6.15 アドルノのマーラー・モノグラフにおける「攻撃者への同一化」に関して参照箇所を追記。)