2008年5月27日火曜日

身辺雑記(4)

III.

解決すべき問題、オブセッションとして纏わりついている問題が何であるかは分かっている。 回り道の余裕は もうない。

身体は死すとも、、、 しかし、精神も、心も同じだ。 それは身体に付随している事象に過ぎない。 だからそうした考え方、不滅性は或る種の転倒だ。 もし不滅性を考えるなら、別の形態を考える必要がある。 心、意識は、現象に過ぎないのだ。

私は結局、意識の問題にしか興味がない。 音楽もAIも時間論も他者論も、意識の問題の変形に過ぎない。 作曲家の生でもなく、音そのものでもない。 作曲の跡に見られる意識についての、認識というか、ある立場、ある存在の様態こそが気になるのだ。 音の向こう、あるいはこちらに、音をつむぐ手が、その手を制御する意識(あるいは無意識)がある。 機能的現象のみを説明すれば、意識の説明は終わったとする立場は誤っている。 少なくとも意識はそうした機能を果たすこと「のみ」をしている訳ではなかろう。何故か―しかじかの「ために」という説明は、誤用 (なぜなら現実に「本来の目的」から逸脱してる」)の説明にはなっていない。 つまりは意識を十全には説明しきれていない。 それが誤用であったとしても、あまりに多くの蓄積がありすぎる。

不滅性に頼ることなく、けれども意識を「まともに」扱うようなそうした思考が必要なのだ。後半生を生きるために。 私の意識が自分の為に、自己を正当化するために、自己の存在を正当化するために、それは虚しいと分かった上で。 いつか自分自身も崩壊してゆく。

生は死に取り囲まれている。死は決して例外的な現象ではない。このような認識は例えば時が経てばまた変わるのか? そうでもない様に思えてならないのだが、、、

(かつてそのように勘違いしたのとは違って)時間ではなく、意識の問題。 意識の問題である限りでの時間性の問題。 例えば宇宙論的な時間への関心は、結局副次的なものに過ぎない。 勿論、それが不滅性の問題を介して、実存の次元と関われば別だが。 (ホワイトヘッドの体系の中でなら、それは連続している。) 不滅性の問題。 価値ないし意味の問題。 人工知能に関与したのは無駄ではない。 そして、最初の動機を忘れてはならない。 結局、それ以外は自分にとっては副次的な問題なのだ。 ゴーレムXIVとデネットの解明された意識。 そして、その中心に時代錯誤を伴ってマーラーの音楽がある。 そのアナクロニーそのものもまた解かれるべき問題の一部を為しているのだろう。

しかし、本当にそれがお前の問題なのか? それについてお前が考えることに何の意味がある? お前にはどうせ解けやしない問題なのに。

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イヴァンとアリョーシャの会話。 神はいるか? 不死はあるか? それは未だ、多分自分の問題でもある。

進化論的な陰鬱な展望を受け入れながら、私の心のどこかには、神に呼びかける部分が残っている。 他人はそれを心理的仮構物と分析し、自問自答や自己暗示の一種と見做すだろう。 否、多分そうに違いない。でも、だからといって、神と不滅性の問題が消えてなくなることはない。

意識を持ってしまったことの厄介さ。 自分の死を待たなくてはならない。 二人称の死もまた。何と過酷なことか。

生の領域にあって己の欲しているのはモラルだ。モラルなのか倫理なのか、恐らくその何れもだ。 いくら醜く、不完全であるといっても、それだけではない。それで終わりとは考えたくない。 私はドーキンス程楽観的になれないが、でも、どんなに頼りなくとも取るに足らぬものでも、人間の築いた「良いもの」を否定したくない。 絶望的なプロテストや声に出して訴えることも知らぬ、謙虚な心のために。

何かを残すというよりは、そうした気持ちを何かに振り向けるべきかも知れない。 倫理もモラルも必要なのだ。 根拠などの問題ではない。根拠が無くて、必然性がなくても、ある「べき」なのだ。 おや、これはVoltaire? Il faut l'inventerという訳か?

Symphonie heißt mir eben : mit allen Mitteln der vorhandenen Technik eine Welt aufbauen. と語り、 あるいは交響曲は全てを包括しなくてはならない、と述べたマーラーの気持ち。 私のみた風景。みること、書くことによって形作られる風景。私ではなく、私のなかの何者かが 私に見せ、私に書き取らせる風景。誰のためでもなく、だが誰かに向かって書かれ、構築される風景。 私はそれらを書き留めることができるだろうか?そうすることによって神の衣を織ることができるだろうか?

自分の考えていることを自分が納得のいく仕方で誰かに伝えること、それ自体が大変な難事だ。 不可能事と言っても良い。ある時以来、それをはっきりと認めざるを得なくなった。 だから最近は、現実には妥協をする。 自分が納得いかずとも、相手が行いにおいて自分の望まないことをしなければ良い、という様に。 モナドには窓がない、私の思いは私の闇の裡にとどまる。 だから他人への通路を、媒体を作り出す作業は消してtrivialではない。けれどもそれと私の痕跡とは?

恐らく皮肉なことに、チャーマーズ風の二元論の、実用上の有効性に思い至った。(チャーマーズの意図とは異なる。) ようするに、意識があるが故に、その意識の「ために」クオリアにこだわる必要があるのだ。 生物学的、物理的な「事実」以外に何も無い、というのは意識に「対しては」誤っている。 それは確かにあまりにもろくはかない。意識は、そして生命は、生物学的(医学的)、物理・化学的にはちょっとしたトラブルで壊れてしまう。 だが、意識「にとって」は、意識「のために」は、そうした説明は何にもなりはしない。物理的には取るに足りない違いであっても、意識の有無は、決定的な違いだ。 だからといって唯心論には決してならないが、少なくともショスタコーヴィチの見方は、意識の立場からすれば、一つの(かなり悲観的な)アイデアに過ぎない。

勿論、私の意識がなくなれば(いずれそうなるのは確かだ)それは、私にとって消えてしまうが、だからといってそれは無意味ではない。 全く交わらない別の次元が存在する。 そして意識にとって「死」は単なる無以上のものだろう。あくまで意識にとって、単なる己の消滅以上のものだろう。 ただしそれはHeidegger風のSein zum Todeでは全く無い。 決意や投企とも全く無関係だ。 (それらは、あらゆる宗教的な言い訳と同じく、錯誤を錯誤と思っていない点で受け入れられない。) 二元論は残り、そのうちの圧倒的にもろい一方だ、ということを忘れてはならない。もう一方を消去したり否定したり、従属的、副次的なものと 見做してはならない。

意識にとって、意識が有限の基盤のものであるなら、その死はその有限性そのものであると同時に、その有限性に対する解釈でもある??? 意識の有限性を、その物質的な基盤を認めること、意識の消滅、そして死について認めること。その上で、意識にとっての、意味なり価値なりの領野を認めること。 それは独立していて、物質的な基盤を持たない。抽象的であろうと、そうした信念なり価値なりの空間は存在するし、別の仕方で(Dawkins風/Denett風には) 継承されもする。そうした価値の空間はチャーマーズ風の二元論の一方の領域、つまりクオリアの領域と関係を持つに違いない。

物質的な基盤を認めない信仰同様、この領域を認めない唯物論も同じくらい誤っている。唯物論とて、意識の自分自身に関する解釈に過ぎない。 還元不可能だが随伴的、意識「にとって」そうなのだろう。 だが、それ以外ではありえない、こうした分析じたい、意識の産物なのだ。

現象から身を引き離すこと。 アドルノの批判にも関わらず、(けれどもそれは多分に正鵠を射ている)フッサールのあの徹底ゆえの不徹底(意識にとらわれすぎたのだ。本当は意識からも身を引き離すべきだったのに)。

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~のように見える。~のように感じられる。という「私」の身の丈に合った記述、世界の描像。 二元論の「私」向けの是認。場の量子論的な描像に対する「私」の反抗。 それは井の中の蛙、裸の王様の反抗だ。だが、その蛙は、王様は、己が井の中に裸でいることを知っている。

カントの「慎ましい」理性批判の度し難い傲慢さ。自分の限界を自分で知ることができるという前提に立てるお目出度さ。 フッサールの「厳密さ」の自己中心性。だがそうした企ての「気持ち」はわかる。あるいは進化論を、場の量子論を否定したがる人間の気持ちも。 勿論彼等のルサンチマンの行き場は誤っている。だが、クオリアに、クオリアの齎す効果に、ミームに逃避して何が悪い? 勿論、それは倫理―逆説的にAutreではなく、Autruiでなくてはならない。 でも良いのかもしれない。「私」の不完全さ、醜さの代償として。そして、それは「必要」だ。「私」が生きていくのには。 だがクオリアに、美的なものに拘るのは、そうした醜さとは別の可能性がある界面には存在するということだ。 それが「私」の夢、幻想の如きものであっても。(そもそも「私」自体が、同じレベルでfictionなのだから。)fictionの側に専ら実感があるという皮肉。 それはつまり、人間(私)にとっては、fictionこそが現実たるべく条件付けされ設計されてしまっているということに過ぎない。

意識と時間―予期記憶、過去―未来という認知様式の発生。記憶を持つこと、先読みをすることと意識の関係。 (考えてみれば、当然のことだ。)

一方でカントの設定した理性の限界は、カントが想像していた程手前にはない。 人間は自ら自分の「生活世界」における実感と異なる世界認識の道具を開発し、 そのことによって、(カントの思弁とは異なって、経験的な反証という仕方で)自分の素朴な信念の限界と相対性を明らかにしてきた。

要するに、私がうんざりしているそうした理論も、私―ただしこの私ではなくて、人間一般―の営みに過ぎない。 ただしそれは他者から、社会から与えられるものなので、私にとっては「自分のもの」になり切れていない? いずれにせよ、倫理や美学以外は哲学の役割は限定される。 哲学が、神の衣を織ることになるようには私には思えない。(だがWhiteheadの様な場合もあることはある。 それにしてもそういった哲学的思弁は、今や寧ろ物理学者にのみ許されるのではないか、、、 Whiteheadが数学者でも理論物理学者でもあった点を考えれば良い。)

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二院制の心によって、内なる神との対話もまた、説明されてしまった。 あるいはフロイトの超自我でも良かったかも知れないが。 今や意識の問題は、第一に脳(と身体)の問題、つまり神経科学の問題である。 私は神経科学者ではないから、それに寄与することはできない。

偉大な作曲家たちの跡を辿ることに一体何の意味があるのか? 自分の脳の中に情報を溜め込むことになど意味はない。 (私的な意味など価値はない。) 死んでしまえば、それは喪われてしまう。 それがいやなら、何らかのかたちで表現することだ。 だが、それに何の価値があるのか?

そうした問い自体が滑稽なことだろうか。 それは普遍的な価値の序列があって、その中での位置づけを気にしているかのようだ。 だが、現実には、そんな普遍的な価値の序列はない。 であれば、気に病むことはないのだ。

多分、どんなに偉大な人間であっても、自分の生が無意味であるかもしれない、という疑念から逃れることはできないだろう。 そうした疑念から逃れることができるかどうかは、何を為したか、ではなく、どう見做すか、という志向的姿勢、信念による部分が多いのだ。 だから成し遂げたことがミームとして引き継がれることのないような存在であっても、それ自身としては充足して、 上記の疑念に囚われずに生を全うすることも可能だろう。

どんな存在でも多様な価値(遺伝子の観点での、あるいはミームの観点での)のプールの一角を占めるに過ぎない、という制約を逃れることはできない。 あなたの信念は相対的で、ある人にとっては無に等しいのだ、という可能性を否定することはできない。

意識が儚い存在であること、その認識能力には限界があることは明らかだ。 一方で、いかに意識の成り立ちを説明しようと、意識からの視点を解消することはできない。 意識の成り立ちの説明ということでいけば、まだ端緒についたばかりとはいいながら、例えば100年前と比べれば状況は全くといっていいほど変わっている。 そうした状況の変化を考慮せずに100年前の思想を追うのは、哲学史家の課題であって、それを自分の生活の糧にしている人間以外には意味がないことだ。 (一般に哲学史研究については、そうしたことが言えるだろう。 結局「本当はどうだったのか」という、生成のコンテクストを辿る作業は、不完全さを予め運命付けられているし、 大抵の場合、そうした作業はどこかでこっそりと二股をかけている。 誤読の批判を受ければ、「今日的意義」とやらを持ち出して逃げを打つのだ。) だが、実はそちらの側は問題の半分に過ぎない。 還元できない、解消できない意識からの視点、幾らその限界を認識しても、 結局そこから逃れ出ることはできない(クセナキスの「言い方」はとても的確だと思う)視点をどうすれば良いのか。

そうしたものは余計なものとして、滅却すべし、というのが1つの立場であることは明らかだ。 そしてそれが強力な解決方法であることも理解できる。 だが、それは結局、意識にとっては解決にならない。 生命についての議論との並行性があるが、ないものねだりではあるけれど、存在することを強いられている意識が、 何とかその存在の居心地の悪さをやり過ごすことができるような、ある倫理が欲しいのかも知れない。

せっせと音楽を、書物を溜め込む人間。だが、死んでしまえば脳の中に溜め込まれた知識は失われてしまう。 脳の中の知識は「私」しかアクセスできない。 一体、そんな蓄積に何の価値があるのか? 他人にアクセス可能なように、変換をすること。出力をすること。 そうしなければ意味はない。意味とは、そのようにして生まれていくのだ。 勘違いしてはならないのは、ある作品が作者の経験のある消息を伝えていたとして、 価値はその消息の側にではなく、結局作品の側にあるのだ。寧ろ、取るに足らない消息を作品の方が価値付ける。

だが生産しなくてはならない、という強迫は、結局、経済の原理に支配されているのではないか? 確かにそうだ。結局は一種のプラグマティスムが潜んでいるのだ。publish or perishと、本質は あまり変わるところがない。 だが、ここではそれでもいいのではないか? 勿論、意識を否定する、という解決の仕方があるように、不毛を選択すること、経済性の原理の向こうにある、かの共通の原則に対して、 そのように反抗することも選択肢ではありうる。 けれども、ここでも私は、そうした立場はとりたくない。 意識を抱え込んだまま、どうにかやっていこうと思うのと同様、ここでは、そうした作品の価値を否定したくないのだ。 ただし単純な多産性が(多作)が価値の基準ではないし、同時代的な評価もまたそうではない。

ごく素直に言えば、自分が出会った、価値あると感じられるものを擁護し、自分もまた、そうしたものを生み出すことで作品によって記憶されたい、ということなのだろう。

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