2008年5月15日木曜日

作品覚書:概観

今日、マーラーは交響曲の作曲家であるというのが一般的な了解だろう。実際彼は、 未完成の第10交響曲と「大地の歌」を含めると11曲を数える交響曲を除けば、 あとはカンタータ「嘆きの歌」と歌曲以外の作品を、少なくとも自ら意図しては遺さなかった。 作品数の少なさは、彼が職業的な作曲家ではなく、時代を代表する名指揮者としての 多忙な生活の合間、主としてオフ・シーズンである夏のバカンスに集中して作曲が行われたことと 関係がある。それは同時に、作曲活動が生活の糧を得る手段ではなく、それゆえそれは注文に 応じた楽器編成に拘束されることもなく、ジャンルの選択、演奏時間の長さや歌詞の選択など、 様々な面において全く自由に作曲が行われたことを意味している。つまり彼は決して濫作する ことはなかったけれども、遅筆であった訳ではない。作品の成立年を確かめればわかることだが、 彼の創作活動はその初期においては間歇的なところがあり、特に第2交響曲の作曲が 非常に長い期間に渉っているのに対して、それ以降の、とりわけ第5交響曲以降の創作のテンポには 驚異的なものがある。

その一方で、若き日の作品の多くを破棄してしまったらしいところは、同時代にしばしば見られた 自己批判の厳しい寡作な作曲家像に近接する。そして公表の意図の有無についていえば、 第10交響曲の補筆にまつわる紆余曲折を無視することはできないだろう。第10交響曲が 如何なる意味においても未完成の作品であることは疑うべくもないが、一方で、国際マーラー協会の 批判版全集が採用した、第1楽章のアダージョのみを特別扱いする判断が妥当であるかについては 議論があってしかるべきだろう。その一方で、「嘆きの歌」や第1交響曲の改訂、第2交響曲第1楽章が 辿った紆余曲折など、特に初期の長期間に渉る複雑な成立史を持つ作品に存在する初期稿態に ついての考慮も必要だろう。

交響曲と並んでマーラーの創作ジャンルのもう一つの中心である歌曲については、既にその受容史の 早い時期から指摘されているように、交響曲と歌曲という、一見したところでは相反するジャンル間の マーラーならではの独特の関連に注目する必要があるだろう。「嘆きの歌」と同時期の3つの歌曲に 見られる素材の共有から始まって、第2,3,4交響曲では交響曲の楽章構成に歌曲が組み込まれるほか、 第1交響曲と「さすらう若者の歌」の旋律の共有を始めとして、交響曲と歌曲の素材の共有、あるいは 引用は晩年の第9交響曲、第10交響曲まで様々な形態で行われている。その一方で、「さすらう若者の歌」 「子供の死の歌」のような連作歌曲が交響曲的な構想と融合した「大地の歌」のようなユニークな 作品もある。その一方で単独の歌曲であっても管弦楽伴奏によるものがかなりの割合を占めているが、 これは同時代の他の作曲家にもしばしば見られる。

声楽の使用を歌曲に限定せずに広く捉えれば、初期のカンタータ「嘆きの歌」とともに、幾つかの 交響曲で合唱が用いられているのが指摘できる。そしてその形態はまたしても多様で、ベートーヴェン的な 構想に近い第2交響曲のようなケースもあれば、第3交響曲第5楽章のように管弦楽伴奏の歌曲に更に合唱が 加わるような場合もあり、更には第8交響曲のように、楽曲の構造上は交響曲的な構想を備えた カンタータないしオラトリオのような作品も存在する。

要するに、これは盛んに言われてきたことではあるが、交響曲とは言ってもマーラーの作品の場合には、 色々な面で古典派における交響曲のモデルからの逸脱が大きく、その特徴の一つがこれまで述べてきた 声楽的な要素の介入や歌曲との密接な関係に見られるのだが、それ以外にもマーラーの交響曲を 特徴づける要素は幾つか指摘されてきた。即ち、演奏時間の長さ、巨大な管弦楽編成の使用、 楽章構成の自由度の高さ、楽章間の長さの極端なアンバランスなどである。これらの特徴は マーラー以降の交響曲ではとりたてて珍しいものではなくなるし、個別的に見れば先駆的な例や 同時代に並行的な例が見られたりもするのだが、それでも尚、マーラーの作品の特徴として挙げることが できるだろう。(2008.5.15:続く)

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