2008年5月24日土曜日

私のマーラー受容:第10交響曲 (2024.6.2更新)

非常に早くから親しんだ。いわゆるマーラー協会全集では第1楽章のアダージョが出版されているが、 これはクーベリック・バイエルン放送交響楽団の演奏が6番のフィルアップに入っていて、繰り返し聴いた。 クック版はレヴァイン・フィラデルフィア管弦楽団のレコード(1978, 80年録音で第1楽章は協会全集版のアダージョであり、第2楽章以降が第3稿第1版による。) をFMで諸井誠さんの解説で聴いた。

一時期はマーラーのすべての作品で最もよく聴く曲だったし、1曲選べといわれたらこの曲を選んだほど。 その後ザンデルリンク・ベルリン交響楽団、インバル・フランクフルト放送交響楽団と、CDでクック版を ずっと聴いていて、私にとってはこの曲は未完成だけど5楽章の交響曲である。 例えば第9交響曲に比べてもこの曲の構成は私にとっては自然で、5楽章版で聴くのが 極めて自然に思える。スコアについても、クック版は早くから入手して持っていたのに、全集版の アダージョは未だに未入手の状態。(手元にあるクック版は正確には1989年の第3稿第2版である。) もし完成したら、マーラーの作品の頂点の1つとなったことを私は疑っていない。 例えば中間楽章については第9交響曲よりこの曲の方が私には遙かに面白く聴ける。 クック版でも、その素晴らしさは充分に感じ取れる。昔も今も最も好きな曲の1つ。 残念ながら実演は聴いたことがないが、これも機会があれば一度は聴いてみたい曲の一つである。

ちなみにこの曲ではシャイーの演奏の評判が高く、私も、ツェムリンスキーなどの演奏で注目して いたこともあり大きな期待を持って聴いたのだが、何故か感動できなかった。 たっぷりとしてよく歌う、美しく演奏なのだが、波長が合わないのだろう。(第10交響曲に限らず全般に、 私はシャイーの演奏するマーラーには違和感を覚えることが多かった。)

ザンデルリンクの演奏はクック版をベースにしてはいるが、かなり管弦楽法に手を入れて、 響きの上で厚みのあるものになっている。これはクック版があくまでも補筆ではなく、演奏可能な 形態にすることを目的としたものであることを考えれば、寧ろ妥当な姿勢と言うべきで、しかも ザンデルリンクの追加は、バルシャイ版などがマーラーの音楽ではなくなっていると感じられるのに比べれば 私にとっては遙かに違和感が少ない。

一方で、クック版以外の補筆版については、 一度スラットキンが録音したマゼッティの第1版(これはのちにロペス=コボスが録音した第2版とは別の 版である)を聴いたのみ。これは単なる私の嗜好なのだが、マゼッティ第1版は私には違和感が大きく、 繰り返し聴く気が起きなかった。ザンデルリンク版はそんなことはないのだし、私は別にクック版原典至上主義では ないのだが、それもあってより饒舌で編曲者の恣意が強く反映されているという噂の他の版を聴く気は 起きないでいる。金子さんが言うようにマゼッティが「マーラー的な語法を逸脱しない範囲で、より雄弁な スコア化を目指した」と言いうるか、私には判断しかねるが、素直な気持ちを言えば、それは否であると いう他なかった。もし金子さんの言うとおりならば、自身半ば認めているように、第2版でマゼッティの作業は 実質的にそうしたアプローチの自己否定に近いものがあるに違いなく、だが私はそのマゼッティの逡巡が わかるような気がするのである。

[追記]その後、以下の公演で実演に接している。

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第11回定期演奏会:マーラー第10交響曲(デリック・クックによる演奏用補筆版)、指揮:井上喜惟、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ、2014年6月15日、ミューザ川崎シンフォニーホール (演奏会記録はこちら。)

マーラー祝祭オーケストラ 第23回定期演奏会:プフィッツナー 音楽的伝説『パレストリーナ』第1幕への前奏曲、マーラー リュッケルト歌曲集(私の歌をのぞき見しないで, 私はやわらかな香りをかいだ, 真夜中に, 美しさゆえに愛するなら, 私はこの世に忘れられ)、マーラー 第10交響曲 指揮:井上喜惟、アルト: 蔵野蘭子、マーラー祝祭オーケストラ、2024年5月26日、ミューザ川崎シンフォニーホール 

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