2008年5月24日土曜日

私のマーラー受容:第6交響曲 (2021.9.19更新)

私にとってマーラーがかけがえのない存在になったのは、この曲を聴いたことによるのだと今でも思っている。 最初に聴いたのは比較的早く、インバル・フランクフルト放送交響楽団の1979年の演奏のFM放送。 その後もギーレン・ベルリン放送交響楽団の1982年の演奏やコンドラシン・南西ドイツ放送交響楽団の 1981年1月18日の演奏など、素晴らしい演奏にFMで接することが出来たし、LPレコードもクーベリック・ バイエルン放送交響楽団、アバド・シカゴ交響楽団の演奏を聴き比べることができた。 アバド・シカゴ交響楽団の演奏は優れたもので、CDの時代になってあまり評判が良くないのが腑に落ちない。 一方で、それゆえインバルの全集が出て、その後あっという間に代表的なマーラー指揮者と見做される ようになったのには感慨深いものがあった。 音楽之友社からポケットスコアが出たときに真っ先に買った曲の1つでもあり、楽譜に馴染んでいるという 点でもマーラーの作品中でトップクラスの作品となっている。

実演も複数回聴いている。最初はサントリー・ホールで行われた若杉・東京都交響楽団のツィクルス の1回(1989年1月26日)(*1)で、2回目はマーラーを聴くのを止めたあと、友人に譲ってもらったチケットで、 メータ・イスラエルフィルの演奏を東京芸術劇場で聴いたことがある(1991年11月23日)(*2)。 実は実演で複数回聴いている唯一の曲である。(2番も2回という見方もできるが、 うち1回は交響詩「葬礼」のみ聴いてコンサートホールを出たので、私自身としては「別の曲」 と見做しているので。)

(*1)若杉弘指揮:東京都交響楽団特別演奏会2:シェーンベルク、管弦楽のための5章、マーラー第6交響曲、指揮:若杉弘、東京都交響楽団、1989年1月26日、サントリーホール

(*2)マーラー第6交響曲、指揮:ズビン・メータ、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、 1991年11月23日、東京芸術劇場

ということで最も親しんでいる曲ということはできると思う。そればかりでなく若杉・都響の演奏は、 実演のマーラーで最も感動した演奏だった。(もっともこのときは、一緒に演奏されたシェーンベルクの 5つの管弦楽曲の方も素晴らしい演奏だったが。)メータの解釈は個人的にはあまり共感しない タイプのもので、従ってイスラエル・フィルとの演奏も最初はあまりにゴージャスなサウンドに白けていたのだが、 さすがにフィナーレなどは自分にとっては疎遠な解釈であっても感動的なものだった。

この曲に関しては、現時点では3種類あるバルビローリの演奏があれば充分である。いずれも素晴らしい演奏だが、 フィルハーモニア管弦楽団との演奏では、スタジオ録音よりもプロムス・ライヴの方がバルビローリの演奏の特徴である、 見通しの良さが感じられる。ベルリンフィルとのライブも印象的。明らかにオーケストラが曲に馴染んでいないのがわかるし、 傷も多い演奏で、おまけにモノラル録音だが、第2楽章にアンダンテが置かれた演奏として圧倒的な説得力を持つ。

バルビローリ以外ではコンドラーシンがレニングラード・フィルを指揮した録音が素晴らしい。既述のとおり、 私はコンドラーシンが南西ドイツ放送交響楽団を指揮した演奏をかつてFM放送で聴いたが、ここでは レニングラード・フィルの信じがたいほどの演奏技術の高さ、合奏能力の高さもあって、その非常に早いテンポが 無類の説得力を生み出している。インバルの録音もまた、かつて聴いたそれを思わせるこの曲の理想的な演奏の 一つだと思う。

マーラーの交響曲の中で最も求心的で緊密な作品。ある意味ではマーラーらしい破天荒さを自分で封印した 感じもあるが、その結果伝統的な形式の持っているポテンシャルを極限まで解き放った、例外的な傑作となったと 私は考えている。個人的な嗜好の観点から言っても、恐らくマーラーの作品中で最も馴染み深い作品で、 無茶な想定だが、1曲選べといわれたら多分この曲を選ぶのだろうと思う。実演で聴いた限りでも最も外れがなく、 色々な意味でマーラーの作品中、最も優れた作品であると思うし、かつまた最も好きな作品でもある。

従って現在でも聴く頻度からすれば第9交響曲や大地の歌、第10交響曲と並んで最も多い方に属する。 かつての実演での印象が例外的に良かったこともあって、機会があればまた聴いてみたいようにも思っている。 もっとも恐らく起きるであろう情緒的な反応をコンサート会場でコントロールすることを考えると、躊躇いを感じないでもない。 何しろ、ふとした折に楽譜を取り出して、音楽を追っているうちに涙がぼろぼろこぼれてしまうことすらあるのだ。 特に第4楽章の再現部は私が聴いた音楽の中で最も自分の心を強く揺すぶるもので、ジャンルを問わず、自分の 狭く貧しい経験の中で、幸運にも出会うことのできた最高の価値を持った存在のひとつにこのマーラーの第6交響曲を あげることに些かの躊躇いを感じることがない。楽譜を読み、音楽を聴くたびに、こんなにも素晴らしい作品を 創り上げることのできた人間がかつていたこと、そして様々な偶然によってその存在を100年後の異郷に居ながらに して知ることの出来たことそのものが、自分自身にはたいした価値がない私にとっては何か貴重なものに、僥倖とすら 呼びたいようなことに思えるほどなのだ。マーラーがアルマにこの曲をまずピアノで聴かせ、二人してその音楽に圧倒された というエピソード、あるいはマーラー自身が初演を指揮するにあたって自分の感情をコントロールできなくなることを 怖れたというエピソードすら、時間と空間の隔たりを超えて、気質や能力の絶望的なまでの隔たりをすら超えて、 自分の経験とどこかで響きあうものであると思えてならない。こうした感じ方は大袈裟で品のないものであるばかりか、 更に悪いことには度し難いお目出度さを伴った勘違いによる錯覚によるのだ、という批判があればそれは甘受せざるを 得ない。無価値な存在にとって価値ある経験というのはナンセンスだ、お前のような存在にとって貴重な経験である といってそれが一体何の意味があるのだという問いに対して返す言葉を私は持たない。だが、だからこそ私は、自分が 経験したことを自分の中に抱えたまま、自らとともに荼毘に付され、墓の中でともに朽ちるに任せるのに耐えられない。 こうした文章を書いているのは、私と私の経験自体は無価値でも、ここではジャンケレヴィッチの気休めを 甘受することさえ厭わずに、ただ事実性のみが頼りでもいいから、マーラーの作品の価値について自分の外部に 何かを残したいという止むに止まれぬ衝動にかられてのことなのだ。

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