この曲はさすがに実演の機会がそんなにあるわけではなく、従って海外でのコンサートを放送する FMでこの曲を耳にする機会はなかったということもあって、この曲との出会いはショルティ・シカゴ交響楽団の かの有名なレコードを通してである。これはいわゆる廉価盤ではなく、正規盤を奮発して買った初めてのLPレコード だったと思う。
一方でこの曲については、楽譜についても奮発してUniversal Editionの学習用のスコア(赤い表紙の、 ポケットスコアよりは大きな版型のもの)を買って持っていたので、楽譜にも早くから親しんでいた。 何より規模が大きく、しかも歌付きであるため、歌われている内容を確認するためにも、繊細な 管弦楽法に親しむためにも、総譜は非常に役に立った。
実演は一度だけ。サントリーホールのこけら落としの1986年10月18日(2回公演の2日目)の若杉弘指揮東京都交響楽団の演奏(*1)、独唱は ルチア・ポップ、豊田喜代美、佐藤しのぶ、白井光子、伊原直子、ベルンハルト・ヴァイクル、フランツ・マイヤー、 ペーター・ザイフェルト。一見したところ良く似た作品だと見做されることの多い2番とは正反対で、 この曲は実演の印象がすこぶる良く、これは圧倒的な経験だった。普段、マーラーを聴きなれない聴き手が 多かったゆえか、第1部のコーダが鳴り止んだ後、拍手が響いたが、それは全く場違いな感じがしなかった ばかりか、極めて自然な反応に思われたのを今なお鮮明に思い出す。この曲は編成の大きさと、器楽法の 繊細さの両方の理由で実際にコンサートホールで聴かないとわからない側面が特に大きいように感じられる。 私にとって、この音楽は決してこけおどしの空疎な音楽などではない。寧ろマーラーが恐らくそう願ったとおり、 情緒や感性といったレベルを超えて、人間の心の奥底に光を投げかけ、人間の存在の有限性と儚さを、 その営為の限界を強く感じさせる力を持った音楽だと思われる。勿論、己の経験が普遍的で、客観的に 正当であるとして、他人にそれを押し付ける気は全くない。第2交響曲の実演に関して私がそうであるように、 この曲の実演に接して「置いてきぼり」を食うことは如何にも起こりそうなことではあると思う。それもまた、 この曲の持つ或る種の危うさに対する正しい反応なのかも知れないのだ。
(*1)サントリーホール開館記念コンサート:マーラー第8交響曲、指揮:若杉弘、ルチア・ポップ、豊田喜代美、佐藤しのぶ、白井光子、伊原直子、ベルンハルト・ヴァイクル、フランツ・マイヤー、 ペーター・ザイフェルト、東京芸術大学合唱団、東京放送児童合唱団、1986年10月18日、サントリーホール
実はかつては非常に好きな曲だったのに、今では私にとっての最大の躓きの石となっていて、その程度たるや 第2交響曲の比ではない。だが私はこの曲全体がアドルノのいう「突破」の瞬間に等しいものだという認識を かなり前から抱いていて、この考えは今なお確かなものだと思うが、その一方で「突破」の契機が比較的素直に 具体的な音楽に具現していた初期の交響曲にはあった媒介をこの曲だけは欠いていて、それゆえ 受け入れるのは一層難しいように感じられる。他方において、かつての実演の経験からもこの曲が持っている 凄まじい力を否定することもできないでいる。この曲の批判者の代表格のように言われるアドルノも 実際にその論調を読めば、思いのほか微妙なためらいを見せていることがわかる。ベンヤミンならいざ知らず、 アドルノがカバラ的な用語を持ち出すといった異様な光景が見られるのも、この曲を論じた末尾の部分だし、 「救い主の危険」という言い回しさえ出てくるのである。そしてそうした両義的な姿勢に、私は共感を覚えずには 居られない。ぎりぎりのところで否定できない、勿論なかったことにするわけにはいかない、厄介な存在。 あるいはそこにマーラーが好み、そしてアドルノもまた「パラタクシス」によって結びつくヘルダリンの詩篇 「パトモス島」の一節、「危険のあるところ、救いの力もまた育つ」という詩句を突き合わせることもできるかも知れない。 ともあれ、この曲こそは私にとって決着をつけるべき最大の問題の一つであることは確かなことなのである。
この曲に関してはほとんど聴くことがないので、ミュンヘン初演を聴き、アメリカ初演を成し遂げたストコフスキーの演奏と インバルの全集に含まれる演奏の2種があれば私は充分である。前者の歴史的意義は疑問の余地はないが、 それ以上にこの曲がかつて持っていたアウラ、単に祝祭的なだけではない、そしてマイヤーの批判にも関わらず 決して装飾に縮退することのない、アナクロニックといっても良いような或る種の「姿勢」のようなものに支えられた 雰囲気を感じ取ることができるように思える点の方が私にとっては貴重に感じられる。インバルの演奏は あまり評価されることがないようだが、私が実演で聴いた印象に最も近いということ、歌詞を踏まえて考えたときに、 管弦楽と合唱のバランス、両者を併せた上での各声部間のバランスが卓越していると感じられること (特に混沌としやすい第1部のコーダ、Gloria Patriより後、末尾に至るまで)が私には大変好ましい。 第2部もこの曲の備えている独特の時間性を的確に実現している点で理想的な演奏だと思う。
[追記]その後、以下の公演で実演に接している。前者の演奏会記録はこちら。
マーラー祝祭オーケストラ特別演奏会(第13回定期演奏会):マーラー第8交響曲、指揮:井上喜惟、マーラー祝祭オーケストラ、ソプラノ:森朱美、三谷結子、日比野景、アルト:蔵野蘭子、小林由佳、テノール:又吉秀樹、バリトン:大井哲也、バス:長谷川顕、合唱:マーラー祝祭特別合唱団、中央区・プリエールジュニアコラール、成城学園初等学校合唱部、カントルム井の頭、2016年02月28日、ミューザ川崎シンフォニーホール
東京ユヴェントス・フィルハーモニー創立10周年記念演奏会:マーラー第8交響曲、指揮:坂入健司郎、東京ユヴェントス・フィルハーモニー、ソプラノ:森谷真理、中江早希、中山 美紀、アルト:谷地畝晶子、中島郁子、テノール:宮里直樹、バリトン:今井俊輔、バス:清水那由太、合唱:東京ユヴェントス・フィルハーモニー合唱団、NHK東京児童合唱団、2018年9月16日、ミューザ川崎シンフォニーホール
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