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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2025年1月20日月曜日

マーラーの音楽が喚起する「想像上の風景」(イマジナリー・ランドスケープ)(2025.1.20 再公開)

音楽を聴くとき、「想像上の風景」(イマジナリー・ランドスケープ)が頭の中に思い浮かぶことがある。それはその音楽が風景を描写した標題音楽であるか否かとは関係がないし、「想像上の」(イマジナリー)と書いたように、自分の知っている具体的な場所の記憶との連想でもない。もっと言えば、それは具体的な細部を欠いていて、実質を突き詰めていけば、音楽が惹き起こす幾つかのモーダルな質の複合に過ぎないのかも知れない場合もあるし、もう少し具体的な地形、季節、天候、時間帯といったものを備えていることもある。とりわけマーラーの交響曲のように叙事的な広がりを備えた音楽の場合、音楽の経過に応じて風景の上でも時間が流れ、変化が生じることになる。それは静的な絵画ではなく、風景の中を逍遥する経験の記録の如きものなのだ。

歌詞を備えた音楽であれば、その歌詞の内容がそうした風景の中に映り込むことはほとんど避け難く、だけれども歌詞自体が喚起する風景もまた、ほとんどの場合そうであるように、具体的な地名を欠いていれば、「想像上の」(イマジナリー)風景であるには違いない。

一方で音楽外的な知識によって、作品が特定の地名と結びつくようなこともある。私が現実には訪れたことのないザルツカンマーグートの山塊(もっとも今日なら写真や映像で仮想的に見ることは幾らでもできるのだが)は、マーラーが見たことのない極東の風景と鏡像的な関係にあって、だから私はマーラーがワルターに語った言葉を文字通りに受け止め、現実のザルツカンマーグートではなく、第3交響曲の作品が内包している世界のヴァーチャルな山をこそ見るべきだし、「大地の歌」に極東の風景(それが中国なら、訪れたことがないという点では私にとってはマーラーが作曲をした場所と変わるところはないのだが)を見るのではなく、まさに音楽が描き出す、現実の何処でもない仮想の風景を見るべきなのだろう。

とはいうものの、風景が具体的なものである場合、例えば川が流れている場合、自分が現実に見た川そのものではなくても、それが抽象され、変形されたものによって「想像上の」(イマジナリー)風景が形成されることもまた、避け難い。川面に映る月、空を仰ぐと銀色の小舟のように漂う月もまた、所詮は同じ月を見ているのではあっても、ある日ある刻にある場所で見た月の印象の重畳が、音楽と歌詞とか呼び起こす風景の素材となっているはずである。そしてその風景は、変形されてはいても、或る日現実に出会う可能性がないともいえない現実性を帯びたものである場合もあるだろうし、或る種の幻視に近い、現実との接点が希薄な、生々しくはあっても抽象的な心的空間における像であることもあるだろう。

では同じ音楽を繰り返し聴くことによって、いつも同じ風景に辿り着くものだろうか?同じ演奏の録音であれば、恐らくそれはYesだろう。最初は共感覚的な基盤によって生じたそれは、少しずつ連想に近いものになっていき、細部が明確になったり、別の視野がひらけたりはしても、その風景は矛盾なく一貫したものであるだろう。だが同じ作品の異なる演奏の場合はどうだろうか。この場合には、同じ風景の少し異なる時間、異なる年の、異なる日の表情の違いに似た場合もあるだろうし、異なる風景が浮かぶこともあるだろう。

音楽が呼び起こすこうした「想像上の」(イマジナリー)風景が明確であればあるほど、同じ音楽が或る具体的な映像との組合せで提示されるような場合に当惑を惹き起こすことになる。拒絶反応とまではいかなくても、何か居心地の悪い感覚に囚われることは避け難い。

こうした風景は、実演を通して作品に接する頻度が低く、録音媒体による反復聴取が聴体験のほとんどを形成しているが故のものかも知れない。音が産み出される現場に居合わせることなく、まるで異なる時空から届くかのように音を受け止める聴き方が、その音が響いている異なる時空の風景を浮かび上がらせているという側面は否定し難いだろう。コンサートホールで、奏者が音を産み出す現場を目の当たりにしつつ、それとは異なる時空を目前にあるかの如くに思い浮かべるのは決して容易ではない。勿論コンサートホールであっても、眼を閉じてしまえばそれは可能かも知れないし、録音を聴く場合でも(幾つかの記念碑的な実況録音ではしばしば起きることだが)、演奏が行われている場の雰囲気の濃密さに風景の方が後景に退くこともあるだろう。だが、ではそれが録音再生テクノロジーの産物であり、作品自体とは無縁のものであるかと言えば、決してそんなことはない。少なくとも或る種の音楽は、それ自体が確実に、そうした風景を呼び起こす力を、私に対しては備えているということができる。

久しぶりにある作品を聴く行為は、私的で内面的な「想像上の」(イマジナリー)風景の空間における「帰郷」に近いものになる。見慣れた風景、あるべきところあるべきものが存在する或る種の確からしさの感覚。それはだが、懐旧の故郷などではない。その風景は、もともと私がその中に埋め込まれていた風景ではなく、それはもともと私の風景ではなかったところのもの、自らが迎え入れ、そこに自らを埋め込むことを選択した風景、そこに己の希望を托した未来としての風景、北村透谷の意味での「幻境」なのだ。

その風景は儚いものであり、それ自体遺しておかなければ喪われてしまう性格を帯びたもの、しかもそれは音楽が鳴り響く瞬間の、しかも音響が響く空間にではなく、それを聴取する私の裡にしかないものではあるけれど、人が生きるための糧を得る場所、そこに希望を見出しうる場所というのは、常にそういう性質のもの、「想像的」(イマジナリー)でしかありえないものではなかっただろうか?「私」の住処という点において、リアリティとヴァーチャリティの位相は逆転する。もっとも「私」というのがそもそもヴァーチャルな存在であり、それは構造的にはごく当たり前のことなのだろうが。

その風景は向こう岸を垣間見たものであったろうか。確実なことはその風景が、ある署名を備えた音楽作品によって喚び起こされるものであって、決して孤立した主観の中での幻想などではないということだ。勿論、現実の風景であってもそうであるように、各人の展望に応じて、そこに見出すものには差異があるだろう。けれどもそれは一旦作品としていわばデジタル化、量子化され、アーカイブされることによって、一つの世界を閉じ込めたものになる。どこか別の時と場所においても、私のような子供が或る日、流れ着いた壜を拾い、それを開けて、同じ風景に眺め入ることだろう。その時、風景は同時的ではなく、通常の意味合いでのコミュニケーションは成立せず、幽霊的なものでしかなくとも、なお共同主観的なものであり、受け取り手はそのことを(私がそうであるように)知っている。

表面的には絶望と厭世に彩られ、この世からの告別である音楽は、だが、トラウマを抱えているが故に、それ自体を語ることができず、己の苦しみを他の界面に投影することでようやく自己を維持しえている人間、そのようなかたちで語る以外の言葉を奪われ、それでもなお己の住まう岸から、誰かに届くことを願って壜に言葉を詰めて投じる他に、生き延びる術もなき人間にとっては、それ自体が「希望」に他ならない。「私はこの世で幸運に恵まれなかった」という呟きを我がものとする人間は、どこにもない、音楽が鳴り響く瞬間にしか存続しないかも知れない「永遠の大地」(何たる矛盾か!)を己れの「希望」の故郷とするのだ。

それは現実には最早ない「希望」ではあるけれど、丁度、作品の提示する風景の中に自らを置く瞬間だけ、想像の上でであれ、己を其処に託すことができる「希望」なのであり、それは貧しい心の持ち主が、己の一生を全うすべく、己にとっては何らの「希望」なき現実を歩むための糧なのである。聴き始めてから35年以上の歳月を経て、再び聴く「大地の歌」という作品は、少なくとも私にとっては、かつての子供であった私にとってそうであったように、だが、その後の世の成り行きに抗いようもなく翻弄され、今なおしばらくの間はその中で生き続けなくてはならない私にとってはより一層切実に、そうした「希望」に他ならないのだ。その風景の中に立つことが、ささやかなものであっても 或る価値へのコミットメントであり、そうすることを通じて私もまた、世の成り行きの勝者達にとっては存在しない風景の住人、幽霊(レヴェルゲ)達の行進に加わるのである。そして私は小声で証言する。「確かに私はその音楽を聴き、その風景を見た」、と。仮令客観的にはデブリの如きものであったとしても、証言することによって私は辛うじて、私自身をも超えて生き延びる。現実の私は沈黙を保ったとしても、「想像上の」(イマジナリー)風景に住む私が語り、私を離れた言葉が、私をではなく、私が見たもの、体験した出来事を、「想像上の」(イマジナリー)風景の中を通って漂流を続ける。私にはそれを見届けることができないことが、ここでは最大の慰めとなる。

(2014.11.02,  2025.1.20 改題の上、再公開)

2024年9月6日金曜日

アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及

アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及(Taschenbuch版全集第17巻p.50,邦訳「楽興の時」白水社, p.73)

(...) Schon an einer klagenden Stelle des Glockenchors aus Mahlers Dritter Symphonie steht eine offene Reminiszenz an die Trauermusik für Titurel; und Mahlers Neunte ist ohne den dritten Akt, zumal das fahle Licht des Karfreitagszaubers nicht zu denken. (...)

(…)すでにマーラーの『第三交響曲』の鐘の合唱のうちの嘆きの部分では、ティートゥレルのための葬送音楽が明らかに想起されている。そしてマーラーの『第九交響曲』は、第三幕なしでは、とりわけ聖金曜日の魔法の青ざめた光なしでは考えられない。(…)  

別の目的で、疎遠な作曲家であるワグナーの、しかしその作品中ではやや例外的に多少の馴染みがなくはないわずかな作品のうちの1つである「パルジファル」について調べている折、 ふとマーラーについての言及に気づいたので備忘のために書きとめておくことにする。マーラーが主題として扱われているわけではない文章を読んでいて偶々マーラーに関する記述を見つけたとしても、 その文章の主題の側についての知識がなければ、そこでのマーラーの取り上げ方を云々することは難しいだろうが、ここでの主題である「パルジファル」は最初に述べたとおり、 多少なりとも馴染みのある作品であるが故に、その言及を出発点として想いをめぐらすこともできるわけで、思いつきのようなものでも書きとめておいて後日の検討の素材とする 意図で記しておくことにしたい。
1860年生まれのマーラーは1883年に没したワグナーと音楽家としてのキャリアに関して言えば、ほとんど入れ替わって後続するような関係にあるが、アルマの回想録 には、学生時代のマーラーがウィーンを訪れたワグナーを劇場で見かけたものの、 緊張のあまり声をかけることも、コートを着るのを手伝うこともできなかったという経験があるいう記述がある。 後年マーラーは時代を代表するワグナー指揮者の一人となり、かつウィーンの宮廷・王室歌劇場の監督としてワグナーの作品を取り上げることになるが、アルフレート・ ロラーとの共同作業による赫々たる成果を挙げたにも関わらず、ユダヤ人であった彼は、反ユダヤ主義的な傾向のあったコジマの意図もあって、ついぞバイロイトに指揮者として 招聘されることはなかった。宮廷・王室歌劇場監督としてコジマとの間で交わされた書簡が存在する(ヘルタ・ブラウコプフの編んだ『グスタフ・マーラー 隠されていた手紙』 中河原理訳・音楽之友社, 1988」で読むことができる)が、その内容は、例えばコジマの息子である歌劇作曲家ジークフリート・ワグナーの 作品を演目として採用するかどうかについての駆け引きであったり、あるいはまたバイロイトにアンナ・フォン・ミルデンブルクが出演できるように推薦する内容であったりと、 いわゆる監督としての業務上のやりとりが中心である。
話を「パルジファル」に限定すると、ワグナーの没後30年間はバイロイト以外での上演を禁止するというワグナー自身の指定による保護期間の規定に対して忠実であったマーラーは、 バイロイトへの出演を拒まれた結果として、「パルジファル」は手がけていない。現実にはいわゆる掟破りの例もあって、マーラーの存命中の1903年12月24日には後日マーラーが 訪れることになるニューヨークで、1905年6月20日には、これまたマーラーがコンサート指揮者として頻繁に訪れたアムステルダムでの上演が行われている。ちなみに上記のニューヨークでの 1903年の上演を強行したのは、後年マーラーをニューヨークに招聘したメトロポリタン歌劇場の支配人、コンリートだが、その上演を風刺するカリカチュアはロヴォールト社のオペラ解説 シリーズのパルジファルの巻に収められており、音楽之友社から出ている邦訳で確認することができる。ちなみにマーラーは、コンリートの下で「パルジファル」を指揮することはなかったが、 メトロポリタン歌劇場を辞任して後に、コンサート・ピースとしての演奏は許容されていた第一幕への前奏曲をニューヨーク・フィルハーモニックの演奏会で指揮している (1910年3月2日の第5回「音楽史演奏会」)。アルマの回想には、「マーラーはコンリードとのニューヨーク行きの契約に署名したとき、どんなことがあっても「パルジファル」は上演しない という一行を加えた。彼はヴァーグナーの遺志にそむきたくなかったのだ。」("Als Mahler seinen Kontrakt mit Conried nach New York unterzeichnete, schrieb er die Klausel hinein, daß er unter keiner Bedingung den »Parsifal« dirigieren wolle, denn er wollte nicht dem testamentarischen Willen Wagners zuwiderhandeln.", 「回想と手紙」, 秋1907年の章, 邦訳1973年版ではp.146)とあって、例によってアルマの回想を鵜呑みにするのは事実が問題の場合には危険が伴い、かつ、この件に関する他のソースによる 確認は今の私にはできないが、契約条項の存在の有無に関わらず、結果的にはその通りになったことは事実のようである。少なくともこの一節の背後には、上述のコンリートの 「掟破り」があって、もし実際に契約条項が存在したとしたら、その事実を念頭においてのことであるのは確かであろう。
だが、指揮者マーラーと「パルジファル」の関わりは上記に留まらない。マーラーは歌劇場の楽長のとしてのキャリアのごく初期に、旅回りでワーグナーを上演する劇団を主宰し、 ワーグナー家の信頼を得ていたユダヤ人アンゲロ・ノイマンの知己を得て、キャリアを積み上げていく足がかりを掴むのだが、既に「指輪」4部作をバイロイト以外で上演することに 成功していたノイマンは、自分が監督を勤めていた1885年~86年シーズンのプラハの王立ドイツ州立劇場において、「パルジファル」を例外的に演奏会形式で上演することを コジマから許可される。そしてそれを実現した1886年2月21日に第一幕の場面転換の音楽と合唱と伴う最終場面の演奏会形式での上演を指揮したのは他ならぬマーラーであった。 つまりマーラーは、部分的ではあるもののパルジファルを初めて演奏会場で指揮したことになるのである。その後1887年11月30日に、今度はライプチヒ市立劇場で、ニキシュと分担するかたちで、 第一幕・第三幕の最終場面の指揮もしている。その後もバイロイトでパルジファルを歌うことになった歌手の役作りの手伝いを買って出たり、上述のように自分がバイロイトへの出演を 後押ししたアンナ・フォン・ミルデンブルクがバイロイトでクンドリーを演じるにあたり、リハーサルをつけたりしており、「パルジファル」という作品を熟知していたことを窺わせる記録に事欠かない。 (このあたりの事情は、ヘルタ・ブラウコプフ編「グスタフ・マーラー 隠されていた手紙」の「マーラーとコジマ・ワーグナー」の章のエドゥアルト・レーゼルの解説に詳しい。邦訳では291頁以降。)
従って、ここで取り上げたアドルノの文章で言及されているマーラー自身の作品への影響も、そうした実践や楽譜を通しての研究の産物なのかも知れないが、その出発点として 聴き手としてバイロイトを訪れた経験があることにも触れておくべきだろう。特にワグナーが没する前、1882年の初演の翌年の1883年にバイロイトで「パルジファル」を聴いていることが、 これまた書簡を通じて窺え、マーラーにとって「パルジファル」の経験が圧倒的なものであったことが書簡の内容や文体から想像することができる(1883年7月のある日曜、イーグラウから フリードリヒ・レーアに宛てた書簡。1996年版書簡集20番、邦訳p.26)。前年の1882年のパルジファル初演が行われた第2回バイロイト音楽祭(第1回の1876年からは6年振りという ことになる)はワグナー自身が関与した最後の回であり、マーラーと交流のあったブルックナーは訪れているが、マーラーはその時期は駆け出しの歌劇場楽長としての契約の切れている時期、 つまり失業中の時期であり、一方の1883年はモラヴィアのオルミュッツ(現在のオロモウツ)の劇場の楽長を勤めたあと、ウィーンでカール劇場でのイタリアからの巡業の一座の合唱指導の 仕事が5月まであり、その間に秋に始まる次のシーズンからのカッセルの王立歌劇場の監督の契約が決まっていた。1883年のバイロイト音楽祭も前年に続き、「パルジファル」のみの 上演であるから、マーラーはまさに「パルジファル」を聴きに「バイロイト詣で」をしたことになる。ちなみにマーラーのバイロイト訪問はその後も何度か行われていて、ブダペスト時代の 1889年の第7回、ハンブルクに移った1891年、1894年にも「パルジファル」を聴いていることが確認できる。また、「パルジファル」の典拠である、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの 「パルチヴァール」については、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクの「トリスタン」と並んで、アルマの「回想と手紙」の中に、夕食後にアルマがマーラーに読んで聞かせる本の一つとして 挙げられているし、アルマの没後にその蔵書を調査した折、蔵書の中に含まれていたことが確認されており、他の、自分が手がけた作品の典拠と並んで、取り上げることのなかった 「パルジファル」についても典拠を読んでいたことが確認できる。
もっとも、マーラーのみならず、 マーラーに後続する新ウィーン楽派の3人、つまりシェーンベルクもベルクもヴェーベルンも「パルジファル」を非常に高く評価していて、ベルクには後に妻となるヘレーネに宛てた手紙で バイロイトで聴いた「パルジファル」に触れたものがあるし、ヴェーベルンはやはり学生時代にいわば卒業旅行のようなものとして「バイロイト詣で」をしていて、その旅行記のような 文章が残っているが、その文章の冒頭にはパルジファルの前奏曲の冒頭主題が銘のようなかたちで書き写されていたりいる。シェーンベルクには問題の保護期間の延長についての文章があるが、 それを読めば「パルジファル」の作品そのものについての彼の評価を窺い知ることができる。
ちなみにここで取り上げたアドルノの文章も、始まってすぐに保護期間の問題についての言及を 含んでおり、「パルジファル」という作品が自律主義的な音楽美学に収まらない受容のされ方(それは全く妥当なことだし、とりわけても「パルジファル」はそうであるべきだと思うが)をしている点は はなはだ興味深い。滅多にこの作品が取り上げられることのない日本で実演に接したところで(勿論、上演の意義、上演に接することの意義は認めた上で)、この作品の上演が 西欧において置かれている文脈からは懸け離れたものでしかないことに聴き手は留意すべきなのだ。例えば物議をかもした(だけで終わったということになっているらしい) シュリンゲンジーフのバイロイトでの演出を思い起こせばよい。それが21世紀初頭のバイロイトで上演されるときに、その文脈で生じたであろう意味を「感じ取る」ことは不可能であるにしても、 それまでに蓄積されてきた「パルジファル」の演出の歴史を可能な範囲であれ俯瞰し、一時期物議をかもしたツェリンスキーによる「告発」といった出来事も踏まえた上で、 あるいはレヴィ=ストロースの「パルジファル」についての言及を一読した上で(そうすれば評判の悪いらしい数々の「読み替え演出」の中にも神話論理的な変換の試みに相当するものを 見出すことができないことではないことが確認できるだろう)、更にはこの演出の折に指揮を担当したブーレーズが、かつて、もう四半世紀前にバイロイトで「パルジファル」を指揮した折に書いた「パルジファル」についての 文章を読んだ上で、自己の感覚的な反応は反応として、そこで起きた出来事を遠回りにであれ理解しようという試みをするならば、他方でそれ自体は優れた演出であろうクラウス・ グートの演出を日本で受容することについても、そこに予め存在しているギャップや間隙に意識的にならざるを得なくなる。
「普遍性」などという曖昧な言葉を隠れ蓑にして、自己の主観的な感覚的な印象を正当化することが行われることは許容されえないだろう。ワグネリアンでなくとも、 (ワグネリアンなら勿論のことだろうが)ワグナー自身が一般の劇場でこの作品を上演することに対して抱いた危惧の念については、一旦は受け止める必要はある。 それを鼻持ちならない態度として否定するのは、作品自体をどう評価し、それに今、ここで自分自身が多少なりともかかずらっていることについて自覚的になった上でやればいいのだ。 主題的・内容的な議論、つまり宗教性がどうしたとか、ナチスとの関わりがどうしたとかといった点に取りかかるのはその後の話の筈で、そうした点が抜け落ちて、あたかもそれが 当たり前の如くに批評が成立すると思い為すのであれば、結局のところそうした主題的・内容的な議論自体を全うすることはできない筈である。同じ状況は実際にはいわゆる (「パルジファル」をその一部とする西欧音楽の末裔としての)「現代音楽」の側の受容の側にもあるのだが、作品の現代的意義を主題的には問うている(少なくともそのように 主張される)議論ですら、その扱い方自体は、上演を取り巻く様々な社会的・制度的状況は無条件に括弧入れできると思っている、つまり自らの批評の場は確保されていると 思い込んでいるかの如くに見え、そうした暗黙の前提自体が結果的に、目指すところ作品の現代的意義とやらへの到達を予め不可能にしているように見えるのは奇妙な光景という他ない。 まるで魔法にかかっているかの如く、時間と空間は溶け合うどころか、あっさり超越されてしまっているというわけだ。
そうした事情は、舞台芸術という「雑種的」なジャンルにとりあえず属するという了解になっている「パルジファル」に比べれば一見して直接的な問題には見えなくとも、 マーラーの音楽、音楽外的な標題や伝記的な出来事との関わりがあれほど論じられ、そうでなくても声楽の導入により、テキストと音楽との関係は無視できないものに なっているマーラーの作品についても基本的には変わるところはない。マーラーそのものについてのそうした傾向については何度もこれまでそうした兆候についての指摘を繰り返してきたので ここでは「パルジファル」に関連する文脈に限定して一例を挙げるならば、例えばヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」でのマーラーの「引用」程度の文脈で マーラーの音楽への拒絶感を自己正当化するような態度は、「バイロイト詣で」を欠かさない一方で、そちらこちらで上演される「パルジファル」のあの演出を貶し、あの演出を ごく簡単なコメントだけで持ち上げることを繰り返しつつ、結局のところワグナーの作品を消費しているだけか、せいぜいがそうした消費への誘いをしているだけの態度と変わるところはない。 「ヴェニスに死す」での「引用」にかこつけて一気に葬ってみせたマーラーの音楽は、それではここで引いたアドルノの文章で「パルジファル」の音楽との関わりが指摘されるそれとは違った何か なのだといって頬被りをきめこんでみせるのだろうか。その拒絶感の在り処は実際にはどこなのかを、ワグナーの音楽を鏡として突き詰める作業こそが必要なのではないか。
ところで、マーラーがバイロイトを訪れた時期を考えると、アドルノの上記の言及はクロノロジカルにはギャップを含んでいることがわかる。つまりマーラーが「パルジファル」経験をしたのは、 作曲家としてのマーラーについて言えば、「嘆きの歌」よりは後だが、第1交響曲よりも先行する時期にあたるのである。勿論、そのことが直ちにアドルノの主張の当否について何かを 物語ることはないが、少なくとも言及のある第3交響曲、第9交響曲以外の作品についてはどうかを問うことが権利上可能であることにはなる。第3交響曲の第5楽章は「子供の 魔法の角笛」に基づいているが、アドルノの言及しているのは練習番号3から7にかけてのアルト・ソロがペテロの悔恨を歌う部分、特にその中でも独唱が終わった後、鐘の音を 模する合唱と管弦楽による移行部となる練習番号6番以降の部分であろう。鐘がなり、ゆっくりとした行進曲調で バスが付点音符を含むリズム(全く同一というわけではないが)を固執して刻み続けること、嘆き、悔恨の感情が扱われていることは共通しており、確かに指摘はもっともと思われるが、 民謡調で女声や子供の声で歌われるマーラーの音楽(ペテロの嘆きすら、アルトのソロが歌うのである)と、聖杯騎士と後続部分ではアムフォルタス自身が嘆きと悔恨を語る ワグナーの劇の音楽のトーンには違いがあるのも確かだろう。そもそもマーラーの音楽では合唱は「泣いてはいけない」というのに対し、聖杯騎士たちはアムフォルタスを責めるばかり であり、第4楽章の「夜」を経たマーラーの「朝」の音楽には、荒廃した聖杯守護の騎士達の城の陰惨さは感じられない。 ただしマーラーが後続する第6楽章について「神よ、私の傷を見てください」と語ったというエピソードとは符合するし、 第3交響曲の終楽章をパルジファル第3幕の終幕の部分と比較するのは色々な点で興味深いことではあろう(これは両者が類似しているという意味ではない。はっきりと その実質において両者は全く異質のものであると私は断言できる)。更に言えば、先行する第4楽章でニーチェの詩を歌うアルト・ソロは 誰なのか、どういう性格付けを持っているのか(勿論、クンドリーが思い起こされるわけだが)、あるいは第2楽章の花と「パルジファル」における花の乙女を突き合わせてみると いった作業も可能になろう。
邦語文献では、ブルックナー/マーラー事典(東京書籍)のマーラーの第3交響曲の第5楽章の解説において、執筆者の渡辺裕さんが「パルジファル」との関連を指摘している(p.321)。 そこでは「罪を自覚したペテロがキリストに憐れみを乞い、そこで神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される、という構図」が「「パルジファル」とのつながりを感じさせる」 と述べられているのだが、アドルノの指摘についての言及はない。上述の通り関連の指摘自体は妥当だと思うが、私見によれば、渡辺さんの指摘する「構図」は「パルジファル」 の構図そのものとは言い難いというのが率直な印象で、「パルジファル」の解釈として寧ろこれは異色であるという感じを覚えずにはいられない。そもそもペテロもキリストも「パルジファル」には 現れないし、「神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される」とは、具体的には「パルジファル」の中のどの部分を指してのことなのか、私には到底明白とは思われない。 勿論「パルジファル」の側において、ペテロとキリストとの関係という基本的には別の物語への暗示(これこそ暗示のレベルであろうと思う)を含まないとは思わないが、 「パルジファル」の主要な構図は、あくまでもMitleid「共苦」を通しての認識による救済であるし、「罪を自覚したペテロ」が「パルジファル」における誰で、キリストが誰なのか、奇蹟を もたらす神への祈りとは、パルジファルにおいては誰のそれか、救済とは誰のものであるのかを問うた時、「パルジファル」の側で既に為されている或る種の構造変換 (レヴィ=ストロース的な神話論理の水準のもの)に気づかざるを得ない。しかも、マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)の方も、第7楽章として予定され、 最終的に第4交響曲のフィナーレとなった歌曲のテキスト程異端的ではないにせよ、こちらはこちらでキリスト教的にはやはり或る種の読み替えなり構造変換なりが為されているのである。
ちなみに、他の第3交響曲に関する研究等においても、パルジファルへの参照はしばしば行われている。第5楽章に関する言及としては、フローロスの場合が挙げられるだろう。 ただしフローロスが注目しているのは、4つの鐘と少年合唱の利用が、空間的な指示つきで(「高いところに」配置するように指示があることについての言及であろう)用いられる点であって、 それ以外の側面についての言及はない。一方、ドナルド・ミッチェルの「角笛交響曲の時代」の第3交響曲と第4交響曲を扱った部分では、メヌエットである第2楽章に関して 「ワーグナーの《パルジファル》の花の乙女たちの場面で試みられている絶妙な装飾的表現を研究し、それをみごとな器楽法で 処理したかがやかしい例である。」(喜多尾道冬訳, p.210)といった言及が見られるし、ピーター・フランクリンの第3交響曲に関するモノグラフにおいては、第6楽章の自筆譜冒頭に 掲げられたエピグラフ(既に上でも言及している「父よ、私の傷を見てください、、、」)への言及に続けて、第6楽章に関して「パルジファル」が参照されているといった具合である。 それぞれ興味深い指摘ではあるが、あまりに断片的な参照であり、マーラーの第3交響曲の全体を俯瞰して、その系の一部に「パルジファル」が扱う問題に対するマーラーなりの 応答が含まれているといった視点には至っていない。逆に、その参照箇所の拡散ぶりの方が、そうした個々の論点の背後に、より構造的な連関が秘められていることを 裏書しているようにさえ見える。その点では、急所を押えているという点も含め、渡辺さんの指摘が最も本質的な次元を衝いていると私には感じられる。ただしそこで指摘 されていることを考えるためには、第3交響曲という作品の色々なレベルでの「多声的」な構造に応じた、多面的な検討が必要ではなかろうか。
というわけで、渡辺さんのここでの主張が、第3交響曲と「パルジファル」それぞれのある解釈を通じて妥当であるという論証が不可能だとは思わないが、 それを確認するのはかなりの事前の手続を通してのことであり、自明のこととは到底思えないというのが私の率直な感覚である。 あえて言えば、聖書の物語の関連を比較すれば、「パルジファル」と聖書の物語の関連よりも、マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)の方が寧ろ構図において直接的であり、 それをもって「パルジファル」との関連を云々するのは寧ろ遠回りであって、些か強引な感じが否めない。 「パルジファル」との関連があることそのものは全く正しいし、限られた解説の中であえてその点に触れる慧眼に対しては敬意を表するものの、「パルジファル」とマーラーのこの作品との関連づけとしては (解説書の一部であるという制約を考えれば無い物ねだりだとは思うが)戸惑いを感じずにはいられないのである。私の展望は既述の通りで、ペテロの物語を寧ろ真ん中において、 マーラー/「魔法の角笛」(「哀れな子供の物乞いの歌」)と「パルジファル」を対照させたときに浮かび上がるのは、扱っている主題の共通性もさることなら、そのニュアンスの差異のコントラストの方である。 また、この第5楽章が、構造的に、概ね「パルジファル」であれば第3幕の聖金曜日の奇蹟の位置にあることについても異論はないが、具体的な布置は異なるし、総体としてみれば、 そもそも「パルジファル」が「罪を自覚したペテロがキリストに憐れみを乞い、そこで神への祈りが奇蹟による救済をもたらすことが暗示される、という構図」と総括できるものというのは、「パルジファル」の 解釈として、かなり大胆なものに思われる。
罪の自覚、憐み、祈り、奇蹟、救済といったモチーフは確かに共通するけれど、それらの布置と連関がもたらす「構図」の方はかなり異なるのではないか。 寧ろマーラーは自分なりの「パルジファル」の読み替えを、第3交響曲の総体をもって提示したのだと考えることはできるだろうが、寧ろ私としては、「パルジファル」で扱われている問題についての マーラーなりの回答と見做すべきであって、同じ問題に対するマーラーの第3交響曲における認識と回答は、「パルジファル」のそれとは結果的には相当に隔たっているというのが 妥当な見方なのではなかろうか。
第9交響曲についての言及は更に曖昧で、しかも聖金曜日の音楽が参照されていることには率直に言えば些かの戸惑いを感じずにはいられない。勿論、主張が誤っていると いいたい訳ではないのだが、マーラーの第9交響曲と「パルジファル」の音楽の接点ということであれば、寧ろ他の部分の方により多く私は接点を見出せるように感じている。 色彩について言えば、第9交響曲第4楽章の色彩についてアドルノは、マーラーについてのモノグラフにおいて"künstlich roten Felsen"という言い方をしているが、他の箇所で詳述したとおり、これはドロミテの 地で"Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、菫色などの色彩に変化する現象を思い浮かべてのことと思われ、聖金曜日の 光とは異なる。先行する楽章、特に第1楽章などには"das fahle Licht"により相応しい箇所もあろうが、 私見ではそうした色彩に関する点も含め、第9交響曲については 聖金曜日の部分よりも寧ろ「パルジファル」の他の部分に類似の音調を感じ取ることができるように思われてならない。
ただし、「パルジファル」の音楽とマーラーとの関係では、寧ろ第10交響曲第1楽章の主題の一つがクリングゾールのライトモティーフと類似するという指摘の如きものの方が、少なくとも 日本では人口に膾炙しているように窺えるにも関わらず、「パルジファル」の音楽からの連想においてアドルノがマーラーの音楽の中で第9交響曲を取り出したこと自体は全く 妥当なことと思われる(第10交響曲こそ、ワグナーのみならず、シュトラウスのサロメの動機との関連などの指摘にも関わらず、そうした作品とは異なった音調を備え、異なった 場所で鳴り響く音楽である、というのが私の認識であるからだ)。私個人の印象では、寧ろ第1楽章の音楽にこそ「パルジファル」の音楽の遠いエコーが聴き取れるように思われる。 マーラーの音楽はワグナーとは異なって神話的な世界とは無縁であり、そもそも音楽が鳴り響く場が異なっているし、音楽の主観のあり方も全く異なるから、時代が接していて、 巨視的に見れば様式的な影響があるのは明らかであるにしても、そうした影響関係は音楽の備えている時代と場所を越えた価値に注目したときにはほとんど何の意味も持たないだろう。
だが、にも関わらず、例えば第9交響曲の冒頭でハープで提示され、(ソナタ形式としてみた場合の)展開部末尾の葬送行進曲の部分(練習番号15の後、Wie ein schwerer Kondukt 以降)においてまさに鐘で奏される動機は、アドルノがもう一つの参照点としている第3交響曲第5楽章の鐘の動機と、従って「パルジファル」の鐘の動機と連関しているのは明らかだろう。 (なお、「パルジファル」の鐘の動機と第9交響曲の冒頭の動機との連関の指摘に限れば、金子建志「こだわり派のための名曲徹底分析:マーラーの交響曲」の第9交響曲についての章に 言及があることを記しておく。)ここで葬送されるのは決してティトゥレルに比されるような主体ではないにせよ、まずもってここが構造的に場面転換に相当する点において、「パルジファル」第3幕の場面転換部分を 思い起こすことは困難ではない。そのように考えると、この部分に対応した提示部における箇所、即ち練習番号7の前、音楽が静まった後のTempo I subitoから始まって後、 練習番号7を過ぎてPlötzlich sehr mäßig und zurückhaltend以降の部分は、第1幕のあの有名な場面転換の、森から城への「道行」の音楽、”Du sieh'st , mein Sohn, zum Raum wird hier die Zeit.” というグルネマンツの言葉がいわば注釈するプロセスを実現する音楽の遠いこだまであるように私には感じられる。勿論、アナロジーには限界があって、ワグナーの作品においてはいずれもが、 能の前場と後場のような場の時間的・空間的な移行を惹き起こすのに対し、マーラーのそれは直前で生じた或る種のカタストロフの結果、意識の不可逆的な変化が生じつつも、 いわば意識の階層のレベルを一段降りて、だが同じ風景が回帰するプロセスを実現している。音楽は常に冒頭の風景に戻るが決して同一の風景の反復ではない。それでもなお Andanteという指示の元々の意味に忠実に、常に繰り返される歩みはどこかに向かう。だがそれは別の場所には辿り着かないで終わるのだ、少なくとも第1楽章においては。 変化が起きるのは歩く主体の意識の方であって、風景の「場所」、つまり空間的には「客観的」には冒頭と同じなのだ。「風景」が主観が捉えたものである限りにおいてのみ「風景」が、 寧ろ「展望」が変化したのであって、その歩みは全くの徒労というわけではなく、何か別の「場所」に到達したというように言いうるのであるが、それは寧ろ同じ風景の中を循環する 意識の内的な遍歴なのである。同じ場所を巡回しつつ、意識は現在の場を離れて過去に、フッサール現象学でいう第二次的な想起のプロセスを都度繰り返す。だが、その間にも経過する 容赦ない外的な時間流がもたらす推移(それの巨視的な累積の結果が「老い」と呼ばれる)が「風景」を、内的な空間の展望を変えてしまう。従ってここでもグルネマンツの ”Du sieh'st , mein Sohn, zum Raum wird hier die Zeit.”は、ある意味では事態の記述たりえているのである。
そしてマーラーの音楽の中でもとりわけて第9交響曲においては音楽的主体の受動性が顕わである点において「パルジファル」という音楽劇の持ついわゆる外的な筋書きの変化の 乏しさと対応した音楽の性格との或る種の類似が認められるだろう。いわばホワイトヘッドの抱握の理論における「推移」の時間の、しかも受動性が歪なまでに優位なのだ。 勿論それは「超越」に他ならないのだが、目的論的図式はここでは廃墟と化していて、寧ろレヴィナス時間論における「超越」、主体の可傷性、被曝性といった側面と 他者の他者性が相関して強調されるそれの音楽的実現であると考えることができるだろう。聖金曜日は単に到来するのであって、それは主体の働きとは基本的には無関係だ。 アドルノの第9交響曲についての言及は曖昧だが、こうした抽象的な時間論的図式のレベルで考えれば、その指摘は見かけほどは意外なものではないということになりそうだ。 ただし「パルジファル」の末尾の"、あの物議を醸し続けてきた言葉、"Erlösung dem Erlöser!"までその類比を拡張できるかどうかについては予断は許されないだろう。
"Erlösung dem Erlöser!"という言葉を導きの糸としつつ、第9交響曲以外のマーラーの音楽を改めて振り返ってみると、マーラーにおける「パルジファル」の対応物として、 表面的にはより直接的にさえ見える2つの作品に思い当たることになる。即ちそれは、宗教的であることが一見あからさまであり、その「正統性」とその価値について 絶えず懐疑の眼差しに曝され続けてきた作品、やはり「パルジファル」同様、既に色褪せた過去の遺物とする見方すらある作品である第2交響曲と第8交響曲である。 内容や主題ではなく、より抽象的な次元においてそれらが何を実現しているかを改めて検討する際に、「パルジファル」をいわば鏡として置くことは興味深い。 アドルノは既にマーラーに関するモノグラフで第8交響曲に関連して(些か異例なことに)カバラ的なものにさえ言及し、"Mahlers Gefahr ist die des Rettenden"とさえ 言っている。アドルノは「パルジファル」では虚偽から真実が生じる、ただしその真実は「消えうせた意味をたんなる精神から呼び起そうとすることの不可能性」のそれである といったことを、ここで取り上げた文章の末尾で述べているが、それは第8交響曲に対するアドルノの評価との突合せを迫るほどには並行的であろう。
一方の第2交響曲の第1楽章は一時期、交響詩「葬礼(Totenfeier)」として独立の作品と考えられていた時期があったことが知られているし、その音楽こそ"die Totenfeier meines lieben Herrn"のそれと突き合わせてみることが出来るように感じられる。(ただし、良く知られているようにTotenfeierという題名の由来は、マーラーの友人であったリーピナーが ドイツ語に翻訳をしているアダム・ミツキエヴィチの詩劇"Dziady"である。題名には言及がないが、晩年にニューヨークで自作の第1交響曲を指揮したときのことをワルターに報告する書簡で、 「葬礼」第3部の最も有名な箇所を自作のいわば「解説」に引用していることも良く知られているだろう。ただし"Dziady"がもともとはスラヴやリトワニアにおける 祖先を供養する祭礼であることを考えると、それを「葬礼」と訳すことが妥当かは疑問の余地があるかも知れない。例えばアルマの「回想と手紙」でアルマがリーピナーの翻訳に 言及している箇所では、白水社版の訳(p.37)では「慰霊祭」と訳されている例もある。これだと、言及されているものが第2交響曲第1楽章の題名の由来であるとは 訳書を読むものは気づかないかも知れないが、逆にマーラーの楽曲の側を「葬礼」ではなく「慰霊祭」であるとして聴いてみても良いのである。いずれにしてもマーラーがTotenfeierで どういった儀礼を思いうかべていたかは更に別の問題として考えなくてはならないだろう。
そうした錯綜を前にしてみると、そもそもが全体で4部からなり、その第1部は未完、最も有名な第3部はその他の部分の10年後に書かれていて、内容上も 連続性を欠いているこの詩劇において"Dziady"という題名に相応しいのは第2部であることを考えると、マーラーが第1交響曲、第2交響曲の2作を、リーピナーが翻訳した ミツキエヴィチの詩劇"Dziady"と関連づけている事実は確認しておくべきだろうが、結局のところTotenfeierという単語に基づいて連想を膨らませるのは恣意的な感じを否めず、実証的な 水準では検証に耐えないことははっきりとさせておくべきだろう。そしてここでの「パルジファル」でのティトゥレルの葬礼への連想も、もちろんそうした限界の範囲での連想に過ぎないのである。 最終的にはそれは実証不可能だし、実証そのものに決定的な意味が存するわけでもない。必要なのは音楽を取り巻く状況のこうした錯綜を踏まえ、その上で今、ここでそうした 錯綜の中から浮かび上がってくる音楽がこちら側にもたらすものを見極めることであろう。
だが、それを前提にしたとしてもなお、 ハンス・フォン・ビューローという「父」の死をきっかけに完成した第2交響曲、後日フロイトの弟子であるテオドール・ライクの精神分析的解釈を呼び起すような成立史を 持つこの作品について、まさに「父」ティトゥレルの「葬礼」の場面の音楽を連想することは、その背後に存在する構造を考えれば決して妥当性を欠くとは思えない。 ビューロウとの関係は1883年夏のバイロイトでの「パルジファル」の初体験の直後の1884年1月のカッセル時代から始まっている。ビューロウの死は1894年2月、マーラーが立ち会った ハンブルクでの葬儀は3月29日、第2交響曲の完成はシーズン後6月のシュタインバッハにて、その後にバイロイトを訪れて「パルジファル」を聴いているのだ。そして その間の1891年にももう一度「パルジファル」を聴いている。1889年夏のバイロイト訪問に先立つ1888年8月にスコア完成をみた、つまりプラハ時代に成立した第2交響曲第1楽章に "Totenfeier"というタイトルを付与することをマーラーが何時、何をきっかけに思いついたものか。更にマーラーは第2交響曲としての初演後の1896年3月16日のベルリンでの演奏会でなお、 第1楽章のみを「葬礼」として演奏していることにも気を留めておこう。有名なマルシャルクへの書簡にて、「葬礼」で葬られているのは第1交響曲第4楽章で死ぬ英雄であると述べるのは、 その直後の3月26日である。そしてこれまた有名な、ビューロウに「葬礼」を聴かせた時の拒絶反応の「思い出」(?)を述べたザイドル宛の手紙は1897年2月になってからのものなのだ。)
繰り返すがここで問題にしたいのは、文化史的、思想史的な実証の水準であったり、 ワグナーにおけるショーペンハウアー哲学の影響、Mitleidの思想、一方のマーラーの思想を音楽がつけられたテキストの内容のレベルで比較するといった水準の議論ではない。 また、音楽そのものを対象とするにしても、単なる引用や動機の類似の指摘レベルの議論に終始していては、作品の持つ射程の理解に資することは覚束無いだろう。 (その点で、アドルノがマーラーについてのモノグラフの冒頭で述べたマーラー理解の困難についてのコメントは、今日においても妥当すると私は考えている。そしてそれは ナチスによる介入についての点が、こちらは裏返しの形で妥当するという点も含め、「パルジファル」についても当て嵌まるのであろう。) そんな議論は、100年以上の時間と地球半分の空間の隔たり、それ以上に大きな文化的・思想的な隔たりのこちら側で、今、ここで「パルジファル」を、マーラーの音楽を 取り上げることの意義とはほとんど無関係なことである。寧ろ今、ここでの議論の起点は、三輪眞弘さんの「新しい時代」のような作品にこそ求めるべきである。逆にそれが 提起する問題を考える上で、「パルジファル」やマーラーの音楽のような過去の参照点なしで済ませることは私には困難で、「新しい時代」のような作品に、その作品の価値に 相応しい仕方で接しようとすれば、そこで取り上げられている問題を時事的に取り上げたり、そこで用いられているテクノロジー自体について論じるだけでは不充分であろう。 それぞれを、時代と文化の相違を超えた価値の次元において理解しようとしたときに、例えばレヴィ=ストロースが神話研究で行ったような仕方と類比的なやり方で、 それらを比較検討することが是非とも必要なのではないかと感じられてならないのである。(2012.10.07公開, 10.13/14加筆, 10.28指揮者マーラーの「パルジファル」との 関わりにつき大幅に修正, 11.23「ブルックナー/マーラー事典」での第3交響曲第5楽章の解説についてのコメントを加筆, 2013.1.19 アルマの「回想と手紙」における 言及に関して加筆。2024.9.6 邦訳を追加。)

2024年7月12日金曜日

1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉

1896年6月18日付アンナ・フォン・ミルデンブルク宛書簡に出てくる作品創作に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書153番, pp.162-3。1979年版のマルトナーによる英語版では174番, p.190, 1996年版書簡集に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では180番(1896年6月28日付と推定), pp.173-4。なお1996年版では、1924年版書簡集原書153番は180番を始めとする幾つかの書簡の「コラージュ」であるとしている。詳細は1996年版書簡集180番の出典情報を参照されたい。)
(...) Nun aber denke Dir ein so großes Werk, in welchem sich in der Tat dir ganze Welt spiegelt - man ist sozusagen selbst nur ein Instrument, auf dem das Universum spielt. (...) In solchen Momenten gehöre ich nicht mehr mir. (...) Die ganze Natur bekommt darin eint Stimme und erzählt so tief Geheimes, das man vielleicht im Traume ahnt! Ich sage Dir, mir ist manchmal selbst unheimlich zumute bei manchen Stellen, und es kommt mir vor, als ob ich das gar nicht gemacht hätte. Wenn ich nur alles so fertig bekomme, wie ich mir vornehme.

(…) さていま考えてもらいたいが、そのなかではじっさい全世界を映し出すような大作なのだよ、――人は、言ってみれば、宇宙を奏でる楽器なのだ、(…)このような瞬間には僕ももはや僕のものではないのだ。(…)森羅万象がその中で声を得て、深い秘密を語るが、これは夢の中でしか予感できないようなものなのだ!君だから言うが、自分自身が空恐ろしくなってくるようなところがいくつかあって、まるでそれはまったく自分で作ったものではないような想いがする。――すべては僕が目論んだままにもうすっかり出来上がっているのを僕は受け取るばかりだったのだから。

この書簡もまた、第3交響曲誕生の消息を告げる資料として、あるいはアンナ・フォン・ミルデンブルクについて、あるいはまた「天才」のエゴイズムについて 言及されるときに決まって引用される非常に有名なものである。ここでは、作品創作に関するマーラーの姿勢を告げるマーラー自身の言葉として、 その一部を引用した。ここで注目したいのは、マーラーが自分の世界観なり宇宙観なりを表現するとか、自分の印象や感情を表現するとか いったいわゆる一般に「ロマン主義的」とされる姿勢とは些か異なったニュアンスで、自身の創作過程について語っている点である。作曲者は最早 一楽器、媒体に過ぎず、語りの主体は宇宙・世界そのものなのだ。結果として書き留められた作品が自分が書いたものとは思えない、とすら 語っているのだ。あるいは精神分析学的な立場からは、ここで夢や不気味なものに言及されていること、無意識の活動にマーラーが耳を 澄ませている点が注目されるのかも知れない。第3交響曲の、マーラー自身による陳腐な標題が、それでも「~について私が語ること」ではなく 「~が私に語ること」であったことは、この手紙の文章と正確に対応する。要するに、それは一過性のレトリックではなく、もっと根本的な スタンスの事実(といって問題あるなら、少なくとも本人の「実感」)に忠実な記述であることはまず認めて良いのではなかろうか。先に語りたいことが あって、媒体として音楽が選択されているのではない。音楽が先にあって、こともあろうに、それを後づけで作曲者自身が「解釈」している有様なのだ。
 
無論それらを、結局は「霊感」に突き動かされる天才作曲家の肖像であるとして、あるいはこれこそロマン主義的誇大妄想の典型として 考えることも可能だろうし、一般にはそのように見做されることが多いのかも知れない。だが壮年期に差し掛かったマーラーのこうした言葉は、 晩年のマーラーが遺した第9交響曲について述べたあのシェーンベルクの言葉、作曲家はもはや個人としては語っていない、メガフォン=代弁者に過ぎず、 隠れた作者がいるに違いない、という言葉と突き合せて検討すべきなのだ。一体、何が変わって、何が変わっていないのか。シェーンベルクの 述べる非人称性、客観性は、「霊感」に突き動かされる天才作曲家像とどのように関係するのか。無意識の、夢の過程との関係は晩年にはどうなったのか。 マーラーに外から「標題音楽」のカテゴリを押し付け、断片的な証言という「事実」を担保に、「隠されたプログラム」とやらを作り上げ、それを知らずに マーラーの音楽は理解できないと言ってのける姿勢は、マーラー自身の創作のスタンスとどう関係するのか。私の様な一愛好家が出る幕はないのだろうが、 個人的な感慨として、マーラーが後に、一旦は自分でつけた標題を削除し、他人による後付けの標題や解説の類を酷く嫌ったというのは、ある時期に 作曲観の変化があったから、というより、時代の風潮に対して無意識であったマーラーが、徐々に自分の創作のありように自覚的になった結果ではないか、 と思えてならない。変わったのはマーラーの自覚の水準で、背後で動き続けている創作の姿勢は一貫していたのではなかろうか。
 
音楽史や楽曲解説の類は、後から理解のための分類を提案し、典型を設定する。年表の中に収まった作曲者は類型化され、あたかも差異はなかった かの如くになる。だがその音楽が、時代を超えて、文化的文脈を超えて聴き手に訴える力をもっているとき、その力の源泉は、そうした記述・解説に よって説明されるようなものなのだろうか。マーラーの音楽は私にとって文化財ではない。博物館に陳列された観賞の対象ではない。学問的には 取り扱い不能な、排除されるべきものなのだろうが、厄介なことに、私にはマーラーが上述の書簡で表明したようなスタンスが、その音楽を介して 理解できる「気がする」のだ。取るに足らない、錯覚、思い込みかも知れない、けれども一貫して、変わることのない強い印象。マーラーの音楽は、 私に対して、デイヴィッドソンの言う「根源的解釈」の音楽版を要求するかのようだ。寛容の原理に基づく、当座理論による合意の最大化。 勿論、言語と音楽を単純に置き換えることはできない。コミュニケーションのモデルを単純に音楽に持ちこむことはナンセンスだ。だが、現実に 既存の音楽の解説や説明において、何と多くの寄生が生じていることか。デイヴィッドソンの展望は言語によるコミュニケーションの説明としては 随分と挑発的な部分があるが、音楽においてはコミュニケーションのモデル自体が問い直されなければならない。だとしたら、一体どんな展望が 開けるのだろうか。いずれにせよ、マーラーの音楽の特質の説明は、そうした未聞の展望の裡にこそあるのでは、という印象は拭い難い。 (2008.10.4, 2024.7.10 1996年版書簡集の情報について付記するとともに、邦訳を追加。)

2024年6月27日木曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章に出てくる交響曲についてのマーラーの言葉

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:アッター湖畔シュタインバッハ1895年夏の章に出てくる交響曲についてのマーラーの言葉(原書p.19, 邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』, 高野茂訳, 音楽之友社, p.62)
... Aber Symphonie heißt mir eben : mit allen Mitteln der vorhandenen Technik eine Welt aufbauen. Der immer neue und wechselnde Inhalt bestimmt sich seine Form von selbst. In diesem Sinne muß ich stets erst wieder lernen, mir meine Ausdrucksmittel neu zu erschaffen, wenn ich auch die Technik noch so vollkommen beherrsche, wie ich, glaub'ich, jetzt von mir behaupten kann.

(…)僕にとって交響曲とは、まさしく、使える技術すべてを手段として、ひとつの世界を築き上げることを意味している。常に新しく、変転する内容は、その形式を自ら決定する。この意味から、僕は、自分の表現手段をいつでも絶えず新たに作り出すことができなくてはならない。僕は今、自分が技法を完全に使いこなしている、と主張できると思うのだけれども、それでも事情は変わらない。

引用した最初の文が、アドルノのマーラー論を始めとして、これまた至る所で引用されるマーラーの交響曲についての言葉である。 これはマーラーが第3交響曲について語っている文脈で出てきた言葉であるが、まさに第3交響曲こそ、この定義に相応しい作品であることは 衆目の一致するところだろう。ところで私は、それに続く言葉もまた、とても重要だと思う。まさに内容が形式を産み出す点にこそ、マーラーの音楽の 比類ない力が在るのだと感じているからであり、マーラーは終生、ここでの発言の最後の部分に忠実であり続けたように思われるからである。
なお、上記の原書のページは私の所蔵している1923年版におけるものであり、邦訳のベースとなっている新版(こちらは未見)のそれではない。(2007.5.12)

2024年6月24日月曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:第3交響曲についての言葉に含まれるヘルダーリンへの言及

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:第3交響曲についての言葉に含まれるヘルダーリンへの言及(1984年版原書p.56, 邦訳(高野茂訳)pp.113-4)
Auch die Einleitung zum ersten Satz der Dritten entwurf er und erzählte mir davon: "Das ist schon beinahe keine Musik mehr, das sind fast nur Naturlaute. Und schaurig ist, wie sich aus der unbeseelten, starren Materie heraus - ich hätte den Satz auch nennen können: 'Was mir das Felsbebirge erzählt' - allmählich das Leben losringt, bis es sich von Stufe zu Stufe in immer höhere Entwicklungsfromen differenziert: Blumen, Tiere, Mensche, bis ins Reich der Geister, zu den 'Engeln'. Über der Einleitung zu diesem Satz liegt wieder jene Stimmung der brütenden Sommermittagsglut, in der kein Hauch sich regt, alles Leben angehalten ist, die sonngetränkten Lüfte zittern und flimmern. Ich hör' es im geistigen Ohr tönen, aber wie die leiblichen Töne dafür finden? Dazwischen jammert, um Erlösung ringend, der Jüngling, das gefesselte Leben, aus dem Abgrund der noch leblos-starren Natur (wie in Hölderlins 'Rhein'), bis er zum Durchburch und Siege kommt - im ersten Satz, der attacca auf die Einleitung folgt."

 彼は《第三交響曲》の第一楽章への導入部の構想もまとめ、それを私に話してくれた。「それは、もはや音楽というものではなく、ただ自然音だけ、と言ってよい。生命のない硬直した物質から――僕はこの楽章を、「岩山が私に語ること」と名付けてもよかろう――生命がしだいに身を振り離し、一段階ごとに、花、動物、人間といったより高度な発展形態に分化していって、最後に精神の領域、つまり「天使たち」にまで達する過程には、人をぞっとさせるものがある。この楽章の導入部には、ふたたびあの夏の熱気、息をつくものもなく、すべての生き物が動きを止め、太陽に酔いしれた空気が震え微動する、じりじりとした夏の真昼の灼熱の気分がみなぎっている。僕には、それが心の耳で鳴っているのが聞こえるけれども、どうやってそれに相応する実際の音を見出したらよいのだろう?そこでは、若者の縛られた生が(ヘルダーリンの『ライン』におけるように)まだ生命のない硬直した自然の底しれぬ深みから、救済を求めて嘆きを声をあげる。そして、導入部にすぐに続く第一楽章になって若者は解放され、勝利を得るのだ。」

マーラーがヘルダーリンを好んでいたのはアドラーの言及(Guido Adler "Gustav Mahler", 1916のp.43)から始まって、ヴァルターの回想 (邦訳第2編「反省」第3章「個性」p.192参照)やアルマの回想と手紙に含まれる書簡(1901年12月16日)でも証言されているが、 彼自身の証言として具体的な作品に言及しているのは、上に掲げた1896年夏のアッター湖畔シュタインバッハでの第3交響曲についての言葉と、 同じくバウアー=レヒナーの回想にある1893年7,8月のアッター湖畔シュタインバッハでの 「ワグナーの偉大さ」についての言葉のようである。言及されている作品はいずれも讃歌「ライン」で、「ワグナーの偉大さ」の方は第4節の'Das meiste nämlich vermag die Geburt, und der Lichtstrahl, der dem Neugeborenen begegnet'「つまり、生まれと生まれたばかりのときに出会った光線が、大部分を決めてしまうのである」が実際に 引用されている(1984年版原書p.33, 邦訳p.57)。
実を言えば、上に掲げた箇所は1923年版においては(wie in Hölderlins 'Rhein')という括弧に括られた補足の部分が欠けていることがわかる(1923年版原書p.40)。 この欠落の理由は定かではない。一方Dike Newlinによる英訳版の注ではマルトナーがここの部分で参照されているのは第2節の「冷気みなぎる淵より、 /救いを請い求める声を聞く。/大声でわめき、母なる大地に訴えるは、/ひとりの若者、、、」'Im kältesten Abgrund hört / Ich um Erlösung jammern / Den Jüngling, ... ' であることを述べている。ヴァルターの証言によれば、「ライン」は「パトモス」と並んでマーラーが特に好んだとのことだから、バウアー=レヒナーの回想で2度までも「ライン」に 言及するのはヴァルターの証言を裏づけていることになろう。特に上掲の部分は自作の第3交響曲第1楽章にちなんでの言及であるだけに、非常に興味深い。 第3交響曲におけるニーチェの影響は、第4楽章においてツァラトゥストラに含まれる詩が用いられていることもあって頻繁に言及されるが、ヘルダーリンの圏の中に それを置くことは、一層興味深いように感じられる。第3交響曲の音調が全体としてヘルダーリン的であるかどうかはおくとして、アルニム・ブレンターノとニーチェを、 デュオニソスとキリストを結ぶ不可視の結び目としてヘルダーリンを考えるのはそれほど突飛なこととは思われない。なお、フローロスのマーラー論第1巻では マーラーの精神世界を体系的に提示することが目論まれていて、ヘルダーリンについても手際よくまとめられている(II.Bildung のpp.58-9)。
 
ちなみにマーラーのヘルダーリンへの傾倒、とりわけ後期讃歌に対する評価が、ディルタイの「体験と詩作」(1905)やいわゆるゲオルゲ派による「再発見」、 更にはヘリングラート版の刊行(1913~1923)に先立つことは注目されて良いだろう。勿論「子供の魔法の角笛」の編者でもあるブレンターノやアルニムをはじめとする ロマン派の作家によるヘルダーリンの評価は 既になされていたし、シュヴァープ等による詩集の刊行は1826年(第2版は1842年)であるから、そうした流れの中でマーラーがヘルダーリンを発見したとしても 不思議はないのだろうが。実際、ド・ラ・グランジュのマーラー伝の1894-1895年の項(フランス語版第1巻p.495, 英語版第1巻p.303)には、フリッツ・レーアに対して、 アルニムとブレンターノの全集とともにヘルダーリンの作品集を送るよう依頼したという記述があるし、アルマの遺品の蔵書には1895年9月30日付けの序文を持つ 2巻本のヘルダーリン全詩集(コッタ社刊)が含まれている。(Perspective on Gustav Mahler 所収のJeremy Barham, "Mahler the Thinker : The Book of the Alma Mahler-Werfel Collection", p.85参照。ただし後者は序文の年月日からみて、前者とは別にアルマ自身が持っていて、マーラーがアルマへの書簡で言及したものと 考えるのが妥当だろう。)マーラーのヘルダーリンとの出会いがどこまで遡るかは最早はっきりしないのであろうが、少なくとも第2交響曲を完成させ、第3交響曲を 手がける時期にはマーラーはヘルダーリンに親しんでいたようだ。ド・ラ・グランジュの記述によれば、上記のレーアへの依頼は丁度第2交響曲のフィナーレに取り組んで いた時期にあたる。なおアルマ宛の書簡ではもう1回、1907年7月18日付け書簡でヘルダーリンの名前が、 今度はモムゼン、ベートーヴェンの書簡、ゲーテやリュッケルトとともに現れる("Ein Glück ohne Ruh'", Nr.212, p.325)。
 
ところで第2交響曲のフィナーレの歌詞がクロップシュトックの詩にマーラーが大幅な追補をしたものであることは良く知られているし、マーラー自身、それを「自作」のものであると 作品を仕上げている最中のベルリナー宛書簡(1894年7月10日)で述べているほどだが、その中の有名な一節"sterben werd'ich um zu leben"に関してヘルダーリンに ちなんで些か気になることがあるので書きとめておくことにする。マーラーは第2交響曲について後に1897年2月17日付けのアルトゥール・ザイドル宛の書簡において、 聖書を含むあらゆる文学書を渉猟しつくした挙句、ビューロウの葬儀で歌われたクロップシュトックに霊感を受けて終楽章を書き上げたと語っている。これだけ 読めば、その渉猟はビューロウの葬儀でクロップシュトックの詩に触れる以前となりそうだが、「自作」の詩が、つまりクロップシュトックの詩への追補が行われたのは、 まさに上に触れたレーアへのヘルダーリン作品集の送付依頼があった時期と考えるのが妥当であろう。以下の指摘において、マーラーがヘルダーリンを無意識的に 引用したとまで主張するつもりはないのだが、それにしても時期的な一致もあり、ザイドルの書簡における「渉猟」、ただしここではクロップシュトックの詩にいわば 導かれて「自作」の詩を書き上げる過程における読書の対象のうちにヘルダーリンが含まれていた可能性を示唆するように思われるのである。
 
「ヒュペーリオン」第2巻第2部のあの「運命の歌」を含むベラルミンに宛てた長大な書簡にはディオティーマからヒュペーリオンに宛てられた最後の手紙の長大な 引用が含まれるが、その中に「わたしたちは生きるために死ぬのです」(Wir sterben, um zu leben.)という言葉がある。続けて神々の世界では「すべてが平等」で 「主人も奴隷もいない」と語られ、その少し後にはヨハネの黙示録への暗示もあるこのくだりは、第2交響曲のフィナーレとぴったりと重なるわけではないが、 マーラーが色々な人に対して語ったと伝えられるプログラムの内容と呼応するところが少なくないように思われる。この程度の類似は他にもあるかも知れないし、 いわゆる実証的な裏づけはないわけで、これらをもってヘルダーリンのマーラーに対する影響を云々しようとは思わないが、マーラーにおける「復活」「再生」に ついての考え方、のちにはゲーテの「ファウスト」第2部を用いて再び展開される考え方の、控えめに言っても地平を形成しているとは言えるだろう。否、ヒュペーリオンの 結末、更にはそれが遠くまだ幽かに予見する1806年以降の、スカルダネリの署名を持つものを含んだヘルダーリンの後期詩篇の風景は、こちらもまた 第8交響曲を超えたマーラーの後期を、とりわけシェーンベルクが(フローロスの指摘によれば、マーラーがヘルダーリンに対して用いた言い回し"Ganz-Großen"を シェーンベルクが今度はマーラーに対して用いている)プラハ講演で「われわれがまだ知ってはならないような、われわれがまだそれを受けとめるところまでには 熟していないようななにごとかがわれわれに語られているかにみえる」(酒田健一訳、「マーラー頌」p.124)と述べた第10交響曲の世界を寧ろ示唆しているとさえ 言えるかも知れないと私には感じられるのだ。(2010.11.23)

2022年7月7日木曜日

Google Magenta の Polyphony RNN モデルを用いたマーラーの作品の学習実験ノート・本文(2022.7.7 公開, 10.10更新)

元記事(2022年7月7日公開)の「はじめに」を2020年10月10日に独立させて「Google Magenta の Polyphony RNN モデルを用いたマーラーの作品の学習実験ノート・序文」とし、別記事として公開しましたので、併せてご一読頂ければ幸いです。


1.実験に至るまでの経緯と実験結果公開の目的について

 MagentaはGoogleが開発した音楽の機械学習ライブラリだが、その詳細についてはWeb等で情報が入手できる他、2021年7月に斎藤喜寛『Magentaで開発 AI作曲』(オーム社)が刊行され、環境構築や簡単な実験を行うための情報が入手可能になったことをきっかけに2021年の8月末くらいから予備調査に着手した。

 深層学習が注目されるようになって間もなくの頃は、深層学習の実験を自分で試行する手段としては、個人で購入するには決して閾が低いとは言い難いGPUマシンを自前で用意する他なかったが、Google ColaboratoryというクラウドサービスでGPU環境が利用できるようになった。早速試用してみると、無料での利用の範囲ではGPUが連続利用できる時間や利用できるメモリ等に制限がある他、高速なGPUが割り当てられるとは限らないといった制限があり、ちょっとした実験をするにも工夫が必要だが、月あたり1000円程度(為替相場による変動あり)のコストで最低限の実験環境を持つことができ、特に今回の実験に限れば実施可能であることが確認できた。そこでGoogle ColaboratoryのPro版で実験を行うこととした。

 一方、今回の実験の素材として第3交響曲第6楽章を取り上げた最大の理由は、本ブログで2ヵ月前くらい(2022年5月)に公開した記事(デイヴィッド・コープのEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣についての覚え書)に記載の通り、デイヴィッド・コープの著書Computer Models of Musical Creativity(音楽的創造性のコンピュータモデル)の邦訳(『人工知能が音楽を創る 創造性のコンピュータモデル』(音楽之友社, 2017)に遅ればせながらようやく接し、そこでコープがEMIを用いて作成したマーラーの作品の模倣の一つに、この曲をモデルにしていると考えられるもの(『弦楽のためのアダージョ』)があることを、その一部(Mahler Adagio Emmy David Cope (1:57):Mahler Adagio for Strings fragment by Experiments in Musical Intelligence (Emmy) programmed by David Cope.)をYotubeで確認したからである。

 理由のもう一つは、Google Magentaが用意している幾つかのモデルの中で今回実験にPolyphony RNNモデルを用いたことにある。Polyphony RNNモデルはMagentaで用意されているモデルの中で和音を扱うことができるほぼ唯一のモデルといって良い、厳密にはPianoroll RNN-NADEモデルも候補になりうるのだが、こちらは持続方向の扱いに制約があるために、結果を「聴いて」直観的に評価することが困難であること以上に、Pianoroll RNN-NADE custom dataset sample generation error #1878 で報告されている事象に予備実験中に遭遇してしまったことから、消去法的にPolyphony RNNを用いることにしたというのが実態である。 

 既述の予備実験においては、第3交響曲第6楽章以外のマーラーの色々な作品のMIDIファイルを色々なやり方で与えた他、シェーンベルクがプラハ講演で述べたマーラーの作品の旋律の特徴を念頭に、歌曲の歌唱パートのみを抽出し、旋律のみを扱うmelody RNNモデルに与える実験も行った。しかしながら後述の理由から、機械学習の実験テーマとしては成立しそうに思われたものの、実験の目的やそれに応じた実験条件の設定についての検討の必要を感じたことから、今後の実験課題の候補には含めるものの、優先的に実験を行う対象とはしなかった。例えば第10交響曲の補完を考えた場合に、必要なのは与えられた旋律線に対する和声付けや対位法的な声部の補完といった方向性の課題となる。またくだんのシェーンベルクの指摘も、和声法や対位法的な垂直の次元を捨象した水平的な線の問題として扱うことが妥当かどうかには疑問の余地があるだろう。何よりもこれまでMIDIファイルを入力としたマーラーの作品の分析において中心的な課題としていたのは、調的重心であったり和声の出現頻度であったこととの連続性を踏まえれば、最初の実験としては単旋律の発展ではなく、和音のシーケンスを対象とするのが自然に感じられたということである。

 そして和声のシーケンスにフォーカスする場合にMagentaで事前に用意されたモデル中で適切なのは、上記の通りPolyphony RNNということになるが、Polyphony RNNモデルにおける課題の範例はコラール旋律への和音づけであり、直接にはFeynman Liang, BachBot: Automatic composition in the style of Bach chorales Developing, analyzing, and evaluating a deep LSTM model for musical style (2016)に記載されたBachBotという自動音楽生成アルゴリズムに刺激を受けて作成されたもののようである(なお、上記論文では先行研究としてデイヴィッド・コープの研究を参照している)。後述のように、Pythonのコードの形態で提供されているPolyphony RNNモデルの公開されている実装はコラール固有の特徴を前提として各種パラメータの規定値が設定されているため、マーラーの作品を対象とするにあたっては後述するようにパラメータの調整が必要ではあったが、線的な書法の作曲家であるマーラーの作品の中でも、第3交響曲第6楽章(更にその中でも主要部の主題旋律とその和声づけ)は「コラール風」のものと言って良く、Polyphony RNNを用いた実験の素材として無理がなさそうに感じられたというのも、実験で最初に取り上げる題材として選択した理由の一つである。

 だがその一方で第3交響曲第6楽章をGoogle Magenta の Polyphony RNN モデルに訓練データとして与えるということの意味合いについては議論の余地があるだろう。そもそもコープのEMIによるマーラー風のアダージョがどのようなプロセスで生成されたのかは明らかではない(正確を期すれば、現時点の私にとっては、という制限を付けるべきだろう。もしかしたら、この個別のケースについての報告がなされているかも知れないが、上掲のコープの著作の文献リスト中にそれらしいものはないし、コープは自分のプログラムを公開していたことがあるようだが、寧ろ重要なのは何を入力として与え、どのような制御パラメータがあって、それぞれどう設定したら結果がどのように変わるのかといったディティールの筈である。ここでも問題設定は、例えば囲碁や将棋のような、well-definedでclosedな世界とは異なって、寧ろチューリング・テストのような設定に近そうであることは、例えばバッハ風のコラールの和声づけをやった結果を人間に聴かせて、コンピュータが生成したものか否かを判定させて、人間の創作物と区別がつかなければ成功といった評価の仕方に端的に表れている。だがこの場合ですら、バッハの手になる作品か否かというように問いをずらした途端、バッハが行ったコラールの和声づけを「全て」知っている人間にとっては、未知の真作が発見されたといったような文脈抜きではトリヴィアルな問いになってしまうだろう。結果として、既知の作品の「模倣」という目的での或るモデル上での学習の結果の評価は、それを「人間」の曖昧な感覚に委ねるというやり方を拒否してしまえば、自ら定義した「模倣」の成功の度合いを密輸して(何なら堂々と再利用して)生成されたものとオリジナルの既知の作品の距離を測っているに過ぎないことになってしまうことを避け難い。

 それが「学習」であるならば、訓練用データを用いた訓練の結果として汎化が行われ、訓練データ以外のデータを与えた場合にも「それらしい」出力が行われることが求められるのだが、それでは第3交響曲第6楽章と似て非なる作品が生成されるためには一体何を訓練データとして用意すればいいのだろうか?(なおこの問いは、まさにマーラーその人を作曲する機械と見た立てた時、第3交響曲の第6楽章を出力する際に、どのような情報を素材にして、どのようなプロセスで生成が行われたかを問うていることに他ならない。そしてそうした類比を行う先には、Recurrent Neural Networkというチューリングマシンとしての能力を備えた再帰的構造を持つネットワークを基本とし、それが持つ問題点を解消するための制御ノードとして機能するゲートを追加して部分構造を持つようにしたLSTM(Long Short Term Memory)上に実装されたPolyphony RNN モデルがやっていることを、人間の営みとしての「作曲」と呼んでしまうことが孕む深淵が控えていることが見てとれる。)いわゆる「過学習」が起きている場合には、汎化能力が犠牲になる替わりに訓練用データについては精度の高い近似ができるようになっているとされるが、もしそうであるとするならば、ここでの関心は「学習」をさせることではなく、寧ろGoogle Magenta の Polyphony RNN モデルに第3交響曲第6楽章を訓練データとして与えた結果、訓練済モデルが第3交響曲第6楽章そのものを(音楽サヴァンの一部で見られるように完全に間違いなく、最初から最後まで、ではなく、時として間違いを含みつつ、だが或る一部についてはかなりの高精度で)再生できるかどうかにあるのではなかろうか?

 一般的に機械学習の問題設定として見た場合には、演奏すれば20分以上の時間を要するから作品としては大規模なものであるとはいえ、400小節にも満たない第3交響曲第6楽章だけをLSTMの学習の素材として与えることは、サンプル数が少なすぎて適切なものではないという評価になるだろう。一方で第3交響曲第6楽章を出力として得るためには、どういう学習の問題を設定したらよいかというのは、上で見たように端的に言って不良設定問題に過ぎない。従ってここで以下に報告する実験は、形式的にはそのように見えるということもあって、Google Magenta の Polyphony RNN モデルを用いたマーラーの作品の学習実験と銘打っているけれども、実態としては、それが「学習」なのかどうかは一先ずおいて、とにかくGoogle Magenta の Polyphony RNN モデルにマーラーの作品のうちの特定の1楽章を与えてみた結果の報告に過ぎないということをお断りしておきたい。

 なお実験に使用したMagentaのバージョンは2.1.3である。このバージョンは2022年7月1日以降、関連するライブラリの更新の結果、Colaboratory環境にインストールすることができなくなり、本稿執筆時点では実験再開の見通しは立っていない。基本的にはフリーで提供される場合には、こうした状況はしばしば発生し、基本的に利用する側が自己解決すべき性質のものとされ、時間をかけて依存関係を調べて、トライアル&エラーを繰り返せば利用できる可能性もあるだろうが、遺憾ながらそのための時間的な余裕がないため、一旦Magenta を使った実験は中止せざるを得ない。まだ実験を開始してからの時間が短く、敬虔が浅いため、まだまだ改善や工夫の余地があるにも関わらず、一旦これまでの経過を報告することにしたのには、Magenta 2.1.3 が私の環境で使えなくったという事情も寄与している。

[2022.10.10 追記]その後程なくして、遅くとも2020年8月下旬くらいには、ライブラリの依存関係の問題が解消され、再びMagentaを私のColaboratory環境から利用できるようになり、9月中旬には、それまでに実施できていた実験が行えることを確認した。この追記を行うにあたり、念のため最新の状態を確認したが、利用可能な状態にあることを確認できた。そのため、今後更に、このノートの内容を踏まえた追加実験を行うことがあれば、稿を改めて報告することにしたい。

 最後にもう一言だけ述べてこの節を閉じることにするが、「学習」実験の設定としてはより自然なものに見えるであろう、例えばマーラーの複数の作品を入力として与えたらどうなるかという設定について検討しなかったわけではない。既に述べた通り、予備検証フェーズでは、マーラーの歌曲でMIDI化されているものすべてを対象とした検証は実施しているし、マーラーの交響曲全曲のMIDIファイルを対象とする検証も実施はしており、だがこちらはリソースの限界が確認できたために中止することにした。無論対象を絞って、リソースの制約上可能な条件を設定することは可能なのだが、それ以前の問題としてマーラーの複数の作品によってモデルを訓練させることの意味合い、結果として生成される音の系列をどう評価するかについて、上述のような疑問を感じて、実験することに意義を見出せなかったということの方が本質的であると考える。例えば思考実験として、マーラーの歌曲の中から2曲を取り上げて学習させることにしよう。この場合なら、何が学習されるのか?一方で、ごくありふれたこととして、或る歌曲なり交響曲楽章の内部構造として主要部と対比的な部分があるとして、主要部の複数のヴァリアントを与えるなり、主要部と対比部のコントラストを与えるなりすることとどう違うのか。もちろんそれは学習機械の構造にもよるし、具体的な学習時のパラメータと入力として用意したデータとの関係で決まる部分もあるだろうが、ここで私に言えることは、こうした問いは自明でトリヴィアルなものという訳ではないということであり、実のところ今回の実験は、もしかしたらトリヴィアルかも知れないこうした問いについて、それゆえ他の誰もやってみようと思わない実験をやってみた結果を報告することを目的としているというのが実態に即しているように思われる。

 

2.予備検証により判明した本番実験に向けての課題と本番実験方針の決定

2.1.MIDIファイルの事前編集

 Google Magentaは入力としてMIDIファイルを使うことができるので、これまでMIDIファイルを入力としたデータ分析に利用することを目的に、Web上で取得可能でかつフリーで使用可能なMIDIファイルを取得・蓄積してきたものが活用可能である。実際2021年8月末から約1ヵ月程度、断続的に実施した予備実験では、調的重心の移動の可視化や和音の出現頻度に関する統計的な分析の入力として使用してきたMIDIファイルを利用した検証を行うことができた。その一方でMagentaで用意されたモデルが入力として要求するMIDIファイルには制限があり、手元にあるMIDIファイルをそのまま使うことができないことが調査の結果判明した。

 手元にあるMIDIデータは、DTMの一環としてMIDIシーケンサソフトウェアを用いて手入力されたものであるか、MIDIキーボードでの演奏をMIDIデータとして保存したもののいずれかであることが多いが、マーラーの作品の場合にはピアノ伴奏版がある一部の歌曲を除けば管弦楽曲であるためマルチトラック・マルチチャネルで作成されているため、Polyphony RNNモデルへの入力となるMIDIデータはシングルトラック・シングルチャネルである必要がある。マーラーの作品は既存のMIDIファイルはマルチトラック・マルチチャネルで作成されており、Magentaで利用するためには事前にMIDIシーケンサソフトを使ってデータを加工・変換する前処理が必要であることがわかった。 トラックの統合はMIDIシーケンサソフトで比較的簡単に行うことができるが、統合されたトラックの開始部分にはもともと各トラック毎にチャネルを指定していたプログラムチェンジが残っていて、マルチチャネルの状態は解消されていない。そのためMagentaで利用するには更にプログラムチェンジを取り除く必要があることがわかった。


2.2.Onsets and Frames Transcriptionの出力の利用の検討

 ところでマーラー作品のMIDIデータの作成の方法としてもう一つ、ピアノ編曲の演奏をMIDIファイルに変換するというやり方がある。MIDIキーボードを用いた演奏であれば演奏をMIDIデータとして保存することでMIDIデータが生成されるが、アコースティックのピアノの演奏の音響を録音して保存した場合には、wavなどの様々なフォーマットで作成された音響ファイルをMIDIデータに変換しなくてはならない。

 この変換の実現手段として、それ自体Magentaを使ったアプリケーションであるPianoScribeがあり、かつColaboratory上では、Onsets and Frames TranscriptionというNotebookとして提供されているので、これを用いてwavファイルをMIDIファイルに変換することが可能である。Youtube等でマーラーの交響曲のピアノ編曲版の演奏が公開されており、第3交響曲第6楽章については以下のように2手用・4手用の演奏があるため、これらを入力としてまずOnsets and Frames Transcriptionの検証を実施した。

 結果としてOnsets and Frames Transcriptionの性能は申し分なく、音響データが精度よくMIDIコードに変換されることがわかったが、その一方で結果を確認してみると、当然のことではあるが、あくまでもこれは音響データのMIDIコード化であって楽曲の構造を意識したものではないから、例えば小節・拍に関しての処理はなされず、本来ならば記譜上、拍節構造を持つものとしてMIDIコード化された上で、実演において微妙なアゴーギクが施されたものがMIDIのテンポ変更コマンドとしてコード化されるべきものが、直接長さの微妙な差異がMIDIノートのステップ数として表現されてしまっていることがわかる。また現実の演奏にありがちな和音の打鍵のぶれや、長さのムラ、或いはミスタッチについても当然のことながらそのまま記録され、修正や規格化が行われることはない。

 Polyphony RNNモデルは拍節構造を意識したものではないから、以前に取り組んだ拍頭の和音の集計や分類におけるような致命的な問題にはならないし、更に言えば微妙な演奏上のクセのようなもの込みで学習するという別種の可能性もあるにせよ、ここでの関心からすると遠回りな感覚を否めず、その手間を埋め合わせるだけのコストメリットは見出し難い。更にいえば、分析目的ではなく、あくまでも演奏されることを目的に作成された編曲版は、ピアノという楽器の性質を踏まえて然るべき演奏効果を上げることを目的として、しばしば元の管弦楽版の楽譜に忠実であるとは限らない。

 具体的に第3交響曲第6楽章について言えば、上記の2手用編曲と4手用編曲の演奏記録が存在するわけでが、前者がピアノ独奏で大規模な管弦楽を用いたマーラーの交響曲を演奏することに由来する改変が目立つのに比べれば、ここでの目的に照らして後者に分があるのは明らかだとはいえ、後者もまた独自の演奏効果を求めて管弦楽版には存在しない要素が追加されていることには違いなく、管弦楽総譜に忠実にマルチトラック・マルチチャネルで作成されたMIDIファイルをシングルトラック・シングルチャネルにマージしたMIDIファイルの方が今回の目的には適っていると判断し、Onsets and Frames Transcriptionの出力は実験には採用しないことを決定した。


2.3.入力データの調整、訓練用データ生成のパラメータの調整について

 そこで管弦楽総譜に忠実にマルチトラック・マルチチャネルで作成されたMIDIファイルについて確認してみると、第3交響曲第6楽章については以下の2種類のMIDIファイルがWebで公開されており、利用可能であることがわかる。(本ブログのMIDIファイル(2019.9.21更新) を参照されたい。)

  • GustavMahler.Comで公開されているBen Boot作成の6th-movement-Langsam-Ruhevoll-Empfunden.midi (16-channel)
  • 加藤隆太郎さんの旧「Deracinated Flower」のコンテンツの一つであった「MIDIの間」中の「マーラー交響曲 MIDI 全集」に含まれる m3_6.mid。記載はないがこちらも16channelである。(2022.10.10 プロバイダの閉鎖によりアクセスできない旨記載していたが、2022年7月20日にご本人より移転のご連絡を頂いた。現時点では、http://kakuritsu.sitemix.jp/asobi/midi2/index.html に移転されており、再びアクセス可能な状態となっている。2024.6.21その後再びアクセスできなくなったことをか確認。)

 このうち後者のMIDIファイルの作者とはマーラーの作品のMIDIファイルの調査を実施した折にメールでやりとりをさせて頂いており、作成方針から第10交響曲こそないものの、その時より今日に至るまで、文字通り世界で唯一の「マーラー交響曲 MIDI 全集」である後者のデータを従来より和音の出現頻度や調的重心の遷移などのデータ分析で用いてきたこともあり、ここでも後者のMIDIファイルを素材とすることにした。(ちなみに前者は第1交響曲こそ2種類のデータが入手可能であり、更には第10交響曲のデリック・クックによる演奏会用補筆完成版のMIDIファイルが公開されていることが特筆されるものの、第6~8交響曲と「大地の歌」を欠いており全集とはなっていない。)

 既に述べたように、Google Magentaは入力としてMIDIファイルを受け付けるが、事前に用意されているモデル毎に制約事項が存在する。ここで利用を予定しているPolyphony RNNモデルについては、シングルトラック・シングルチャネルであることを条件としているとのことなので公開されているMIDIファイルをそのまま使うことができない。そこでMIDIシーケンサソフトを使って、Magentaに与えることができるかたちに加工する作業を実施することにした。

 使用したMIDIシーケンサソフトは、従来の和声の出現頻度や調的重心の遷移過程の分析にあたって利用してきた以下の2つのフリー・ソフトである。

 対象としたMIDIファイル m3_6.mid は16チャネル16トラックだが、ピッチを持たない打楽器用の第10チャネル/第10トラック以外について1トラックにマージする作業をまず実施した。その結果を用いて試しにMagenta(バージョン2.1.3)のPolyphony RNNモデルに与えて、NoteSequenceファイル(notesequences.tfrecord)の作成、NoteSequenceファイルから抽出した訓練データ(training_poly_tracks.tfrecord)の作成、訓練の実行、更には訓練結果のbundle_file (polyphony_rnn.mag)への出力、bundle_fileを使った楽曲生成と一通りの手順を試行してみた結果、一応最後まで実行できることが確認できたのだが、訓練データ(training_poly_tracks.tfrecord)作成にあたって、訓練データとして抽出する条件に多くの部分が合致せず、結果として訓練用データがわずかしか生成されないことを確認した。原因を探るべく、Pyrhonで実装されたPolyphony RNNモデルのソースコードの中の訓練データ・評価データの作成を行うpolyphony_rnn_create_dataset.py を読んでみると、Polyphony RNNモデルの公開されている実装については、前提としてバッハのコラールが学習の対象であることから、コラール固有の条件が各種パラメータの規定値とされていることが判明した。例えばシーケンスの長さの上下限の制限が厳し過ぎて、訓練用データが生成できないケースが多い。これに対処するために、ローカルにmagentaの環境のクローンを作成し、シーケンスの長さの下限の制限を緩和したコードでデータ生成を行うことにした。

 具体的な修正箇所はpolyphony_rnn_create_dataset.py の中でmin_steps, max_stepsの設定をしている箇所()で、それぞれの標準値は以下の通り。
  • min_steps=80(5小節相当
  • max_steps=512 (32小節相当) 
 標準値は明らかにコラールのフレーズの構造および各フレーズの長さ、コラール全体の長さを想定したものであることがわかる。そこで第3交響曲第6楽章という対象の性質を考慮して、以下のように値を設定することとした。 

(A)予備実験でのパラメータ設定
  • min_steps = 16(=16*1) 1 measures:より短いフレーズの抽出を行う。
  • max_steps = 768(=16*48) 48 measures :1.5倍の長さのフレーズまで抽出。
 上記の設定値での予備実験の結果は、lossやaccuracyといったメトリクスは良好であるにも関わらず、生成結果は期待外れだったことから、短すぎるトラックが副作用を起こしている可能性を考慮して、本番では以下の通り、minを若干長く設定することにした。
 
(B)実験本番でのパラメータ設定
  • min = 48(=16*3) 3 measures:より短いフレーズの抽出を行う。
  • max = 512(=16*32) 32 measures :デフォルト値のまま。
 上限について変更しないことにしたのは、後述のMIDIファイルの分割を実施したこともあり、実際に訓練データ・評価データの抽出を行ったときに、上限超過が原因で抽出対象から除外されたケースが生じなかったことから、変更の必要がなかったことによる。上下限とも値をデフォルトに戻したのは、訓練に用いるネットワークのサイズを変更せず、デフォルト値を使うことと関わる。このデフォルト値の範囲ならばデフォルトの規模のネットワークでの学習が可能でサイズ変更は不要だろうという判断に基づく。
 
 更に上記のパラメータ変更を前提とし、第3交響曲第6楽章という対象の性質を考慮して、シングルトラック化・シングルチャネル化したMIDIファイルをまず幾つかのブロックに分割することを検討した。分割のやり方としては機械的に行うことも考えられるが、訓練用データ・評価用データの作成の抽出の仕方を考えると、質の面でも量の面でも楽曲の構造を意識した分割をした方が望ましいことは明らかであるから、楽式上の区切りを考慮して、まずは全体を10ファイルに分割したデータを用意することにした(program_merged_36)。
  • ①最初から練習番号4 Noch mehr so breit.の手前まで
  • ②練習番号4 Noch mehr so breit.から練習番号9 Tempo I. Ruhevoll! の手前まで
  • ③練習番号9 Tempo I. Ruhevoll!から練習番号14 a tempo (Etwas bewegter.)の手前まで
  • ④練習番号14 a tempo (Etwas bewegter.)から練習番号16 a tempoの手前まで
  • ⑤練習番号16 a tempo から練習番号19 a tempo の手前まで
  • ⑥練習番号19 a tempo から練習番号20. 2/2 taktiren. Sehr bewegt.の手前まで
  • ⑦練習番号20.2/2 taktiren. Sehr bewegt.から練習番号23の5小節手前まで
  • ⑧練習番号23の4小節手前から練習番号25 Wieder Viertel schlagen! Langsamの手前まで
  • ⑨練習番号25 Wieder Viertel schlagen! Langsam から練習番号26の2小節前8/8 Sehr zurueckhaltend. の手前まで
  • ⑩練習番号26の2小節前8/8 Sehr zurueckhaltend.から最後まで
 次いで更に上記の分割結果をベースとして、更に以下のような加工を行った。
 
(1)コーダはフレーズの構造としては特殊であり、カデンツが拡大したものとみることができるため、ここでの目的の観点から削除した。コーダの前にある、アドルノ風には「充足」の機能を持つ後楽節についてはコーダとは機能的には異なるが、それを独立のフレーズとして訓練用データに含めると異質な感じがあるので、同様に削除することにした。
(2)トレモロの指定もなくして、同じ長さの単音符に置換。学習する上で、トレモロの有無が特徴として捉えられるのは、今回の実験の目的にはそぐなわないため、外してしまうことで余計な特徴次元のためにリソースが使われてしまうことを防ぎたい。(実際、全小節を10分割した入力データでの訓練結果を使って生成したケースでは、トレモロが特徴として捉えられていることを窺わせるものであった。)
 (3)対比群を削除して主要主題部に限定したデータを用意。既に述べた通り、楽式分析上は二重変奏と把握されることが多い第3交響曲第6楽章を対象としているので、2つの異なった系列の交替を、だが訓練用データとしてはブロック単位で分割して、それぞれ独立したサンプルとして、だが2系列を同時に一度に与えて(つまりバッチの中でも両方が混在するような前提で)訓練するというのはどういうことをしていることになるのだろうか、という疑問が生じる。勿論このことは、機械学習による作曲一般に言えることではないのだが、人間が介在することなしにコラールのような単純な形式を超えた楽式を機械が学習を通じて習得することに成功したという話は聞かないし、Google Magenta の各モデルで想定されているのは(出力のステップ数のデフォルトはpolyphony_rnn_generate.pyの62行目に定義されており128step=8小節であることからも窺えるように)、作品上では一部に過ぎないフレーズレベルの時系列シーケンスの学習であって、マクロな楽式はGoogle Magentaのモデルに限定すれば実質的にスコープの外であろう。(それに対して、コープが想定しているのが、その範囲に留まらないことは恐らく間違いないが、その代わりに、例えばマーラー風アダージョを生成するのに、具体的に何を入力し、どのようなプロセスを経たのかの具体的な説明はなく、最終的にYoutubeでその断片が公開されている「作品」の成り立ちのどこがEMIが自動的に生成した部分で、どこがコープが介入したのかは明らかではない。)従って、ここでの学習の枠組みを考えたとき、楽曲を加工をせずにまるまる一つ学習モデルに与えるのではなく、訓練データ・評価データが具体的にどのような条件で抽出されるのかを踏まえて、逆算するようなかたちでモデル与えるデータを準備してやり、生成された結果については、時系列のパターンの記憶・再現がどの程度できているかを確認するのが妥当に思われるのである。
 
 これまでの検討により、最終的に実験の対象として用意したデータは、第3交響曲第6楽章全曲を分割した10ファイルのうち以下の部分を抽出したものとした。
  • ①,40 measures.:最初から 練習番号4 Nicht mehr so breitの前まで。
  • ③,40 measures.:練習番号9 tempo I. Ruhevollから練習番号13 Nicht mehr so breitの前まで
  • ⑦b,16 measures.:練習番号21 tempo I.から22の8小節後, Unmerklich draengend.の前まで。
  • ⑩a,26 measures.:練習番号26の2小節前8/8 Sehr zurueckhaltend.から練習番号28 Immer breiter.Langsam anschwellen の前まで
  • ⑩c,26 measures.:練習番号28 Immer breiter. Langsam anschwellen から練習番号30 の4小節後まで 

total 148 measuresであり、楽章全体(328 measures)の45%程度だが、抽出された部分はコラール的な旋律の提示と変容であり、Polyphony RNN モデルがバッハのコラールの和声づけであることを考えると、マーラーの作品を素材とする前提においては相対的に親和性の高い部分ではないかと考えられる。 

 上記の前処理およびパラメータの設定により訓練用データ・評価用データの抽出結果がどうなったかを以下に示す。

(A)予備実験:全曲を10の区分に分割(328小節、10ファイル)

データ抽出のパラメータ

  • min_steps = 16(=16*1) 1 measures:より短いフレーズの抽出を行う。
  • max_steps = 768(=16*48) 48 measures :1.5倍の長さのフレーズまで抽出。
  • 10 inputs. / 216 outputs..(= train (198 =9+117+54+9+9) + eval(18 = 9+9))

    eval:#評価用データ

    • 小節数毎の頻度(計18)
    • [10,20): 9
    • [20,30): 9
    • polyphonic_tracks_discarded_more_than_1_program: 0
    • polyphonic_tracks_discarded_too_long: 0
    • polyphonic_tracks_discarded_too_short: 153
    • poly_tracks_count:1,
    • skipped_due_to_range_exceeded: 0,
    • transpositions_generated: 171, 

    train:#訓練用データ

    • 小節数毎の頻度(計198)
    • [0,1): 9
    • [1,10): 117
    • [10,20): 54
    • [20,30): 9
    • [30,40): 9
    • polyphonic_tracks_discarded_more_than_1_program: 36 #本番実験では修正して0に。
    • polyphonic_tracks_discarded_too_long: 0 
    • polyphonic_tracks_discarded_too_short: 1161
    • poly_tracks_count: 9,
    • skipped_due_to_range_exceeded: 0,
    • transpositions_generated: 1395


    (B)実験:主要部の提示と変容の部分のみ5つの区分に分割(148小節分、5ファイル)

    • データ抽出のパラメータ

  • min = 48(=16*3) 3 measures:デフォルト値に戻す。
  • max = 512(=16*32) 32 measures :デフォルト値に戻す。
  • 5 inputs. / 81 outputs.(= train (63 = 27+18+18) + eval(18 = 0+9+9))

    eval:#評価用データ

    • 小節数毎の頻度(計18データの内訳)
    • [10,20): 9
    • [20,30): 9
    • polyphonic_tracks_discarded_more_than_1_program: 0
    • polyphonic_tracks_discarded_too_long: 0
    • polyphonic_tracks_discarded_too_short: 27
    • poly_tracks_count:1
    • skipped_due_to_range_exceeded: 0
    • transpositions_generated: 45

    train:#訓練用データ

    • 小節数毎の頻度(計63データの内訳)
    • [10,20): 27
    • [20,30): 18
    • [30,40): 18
    • polyphonic_tracks_discarded_more_than_1_program: 0
    • polyphonic_tracks_discarded_too_long: 0 
    • polyphonic_tracks_discarded_too_short: 270
    • poly_tracks_count: 4
    • skipped_due_to_range_exceeded: 0
    • transpositions_generated: 33
     polyphonic_tracks_discarded_more_than_1_programが0であることは、マルチチャネルのMIDIコマンド(Program change)が正しく全て削除されていることを意味する。既述の通り、大抵のMIDIファイルがマルチトラック・マルチチャネルで作成されており、特に管弦楽のMIDIファイルをシングルトラック化した場合、Program changeの情報を削除しないとマルチチャネルの方は残ってしまう。削除漏れがないことを確認するためにはこの項目をチェックすれば良い。
     polyphonic_tracks_discarded_too_longが0であることはmax_stepsを上回るデータがないことを、polyphonic_tracks_discarded_too_shortが0でないことはmin_stepsに満たないデータがあることを意味する。


    2.4.訓練時のハイパーパラメータの設定について

     ここまで学習の入力とするデータの調整や訓練用データ生成のパラメータの調整について述べてきたが、ここでは訓練時のハイパーパラメータの設定について、検討したり予備実験を実施した内容を述べる。今回の実験にあたって設定値の検討を行ったハイパーパラメータは以下の2種類である。

    • rnn_layer_size:Polyphony RNNモデルの場合、入力層・中間層・出力層の三層のノードの数を指定する。デフォルト値は[256, 256, 256]。今回は予備実験時および実験本番の1度目はデフォルト値のままとし、実験本番の2回目に[192, 192, 192]に縮小した時にどのような差がでるかの実験を行った。
    • batch_size:これは訓練・評価で同じサイズを指定することを前提にすれば、データ数が少ない評価用データ数がバッチサイズよりも小さくてはならないという点が拘束条件となる。デフォルト値は64。ここでは予備実験時も実験本番でもeval=18なので、全ての実験において batch_size=18とした。

     今回の実験のようにサンプルデータが少ない場合、まず最初に調整を検討すべきハイパーパラメータはバッチサイズだが、これは訓練用データ、評価用データの出力データ数に応じて変更すべきであるとされる。ネットワークのノード数については回帰式における変数の数とのアナロジーで考えることができ、問題の規模と比べて数が多いとオーバーフィッティングに陥りやすく、ノード数が少ないと粗い近似しかできないため、accuracyやlossといった近似の精度を示す値が頭打ちになりやすい。今回の場合、実験本番の1回目において5000 stepでaccuracy=0.985, loss=0.047となったことを踏まえて、2回目にはノード数を減らし、そのかわりに6000 stepまで訓練を行って比較検証を行った。


    3.訓練結果の概要

    予備実験、実験本番1回目、2回目それぞれの訓練の結果を、Tensorboardの基本的なスカラー量についてのグラフで示す。オレンジ色のグラフは訓練の経過を、青色のグラフは評価の結果を示している。それぞれの指標の意味については上掲書やWeb上の解説を参照頂きたく、ここでの説明は割愛する。

    (A)予備実験(~4500 step ~7000 step)












    (B-1)実験本番第1回目(~6000 step)












    (B-2)実験本番第2回目(~3000 step ~5000 step ~6000 step)












    4.本学習予備実験の経過を収めたアーカイブファイルについて

    本学習予備実験の経過を収めたアーカイブファイルをGoogleドライブで公開中で、以下のURLから取得可能である。

    内容は以下の通りである。

    ①polyphony-m3_6_1-48-4500

    • m3_6-1-48-4500.txt:訓練用ファイル・評価用ファイル生成から訓練済モデルによる楽曲生成実験までの実行ログ(4500 stepまで)
    • test/ :学習用に前処理を行ったMIDIファイルのフォルダ
    • noteseq/:NoteSequenceファイル(notesequences.tfrecord)のフォルダ
    • sequence_examples/:訓練データ(training_poly_tracks.tfrecord)および評価用データ(eval_poly_tracks.tfrecord)のフォルダ
    • logdir/run1/train/:訓練の経過ログが格納されているフォルダ
    • primer/:楽曲生成のキューとなるprimerファイルのフォルダ
    • generated/:m3_6_0_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_1/:m3_6_1_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_2/:m3_6_2_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • polyphony_rnn.mag:訓練済モデルのdumpファイル
    • *.jpg:訓練経過の評価のための各種スカラー値をTensorboardでグラフ化したもの(4500 stepまで)。それぞれの意味については上掲書やWebでの説明を参照されたい。
      • accuracy-4500
      • batch-4500
      • event_accuracy-4500
      • global_step-4500
      • input_producer-4500
      • loss-4500
      • loss_per_step-4500
      • no_event_accuracy-4500
      • perplexity-4500
      • perplexity_per_step-4500
    ②polyphony-m3_6_1-48-7000
    • m3_6-1-48-4500.txt:訓練用ファイル・評価用ファイル生成から訓練済モデルによる楽曲生成実験までの実行ログ(4500 stepまで)
    • m3_6-1-48-7000.txt:訓練用ファイル・評価用ファイル生成から訓練済モデルによる楽曲生成実験までの実行ログ(7000 stepまで)
    • test/ :学習用に前処理を行ったMIDIファイルのフォルダ
    • noteseq/:NoteSequenceファイル(notesequences.tfrecord)のフォルダ
    • sequence_examples/:訓練データ(training_poly_tracks.tfrecord)および評価用データ(eval_poly_tracks.tfrecord)のフォルダ
    • logdir/run1/train/:訓練の経過ログが格納されているフォルダ
    • primer/:楽曲生成のキューとなるprimerファイルのフォルダ
    • generated/:m3_6_0_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ(7000 step時点の訓練結果による)
    • generated_1/:m3_6_1_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ(7000 step時点の訓練結果による)
    • generated_2/:m3_6_2_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ(7000 step時点の訓練結果による)
    • generated-4500/:m3_6_0_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ(4500 step時点の訓練結果による)
    • generated_1-4500/:m3_6_1_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ(4500 step時点の訓練結果による)
    • generated_2-4500/:m3_6_2_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ(4500 step時点の訓練結果による)
    • polyphony_rnn.mag:訓練済モデルのdumpファイル(7000 stepまで)
    • polyphony_rnn-4500.mag:訓練済モデルのdumpファイル(4500 stepまで)
    • *.jpg:訓練経過の評価のための各種スカラー値をTensorboardでグラフ化したもの(7000 stepまで)。それぞれの意味については上掲書やWebでの説明を参照されたい。
      • accuracy-7000
      • batch-7000
      • event_accuracy-7000
      • global_step-7000
      • input_producer-7000
      • loss-7000
      • loss_per_step-7000
      • no_event_accuracy-7000
      • perplexity-7000
      • perplexity_per_step-7000
    ③polyphony-m3_6_extracted-3-32-256
    • program_merged_36_extracted2.txt:訓練用ファイル・評価用ファイル生成から訓練済モデルによる楽曲生成実験までの実行ログ(5000 stepまで)
    • test/ :学習用に前処理を行ったMIDIファイルのフォルダ
    • noteseq/:NoteSequenceファイル(notesequences.tfrecord)のフォルダ
    • sequence_examples/:訓練データ(training_poly_tracks.tfrecord)および評価用データ(eval_poly_tracks.tfrecord)のフォルダ
    • logdir/run1/train/:訓練の経過ログが格納されているフォルダ
    • primer/:楽曲生成のキューとなるprimerファイルのフォルダ
    • generated/:m3_6_0_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_1/:m3_6_1_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_2/:m3_6_2_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • polyphony_rnn.mag:訓練済モデルのdumpファイル(5000 stepまで)
    • *.jpg:訓練経過の評価のための各種スカラー値をTensorboardでグラフ化したもの(5000 stepまで)。それぞれの意味については上掲書やWebでの説明を参照されたい。
      • accuracy
      • batch
      • event_accuracy
      • global_step
      • input_producer
      • loss
      • loss_per_step
      • no_event_accuracy
      • perplexity
      • perplexity_per_step
    ④polyphony-m3_6_extracted-3-32-192-3000
    • program_merged_36_extracted2-192-3000.txt:訓練用ファイル・評価用ファイル生成から訓練済モデルによる楽曲生成実験までの実行ログ(3000 stepまで)
    • test/ :学習用に前処理を行ったMIDIファイルのフォルダ
    • noteseq/:NoteSequenceファイル(notesequences.tfrecord)のフォルダ
    • sequence_examples/:訓練データ(training_poly_tracks.tfrecord)および評価用データ(eval_poly_tracks.tfrecord)のフォルダ
    • logdir/run1/train/:訓練の経過ログが格納されているフォルダ
    • primer/:楽曲生成のキューとなるprimerファイルのフォルダ
    • generated/:m3_6_0_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_1/:m3_6_1_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_2/:m3_6_2_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • polyphony_rnn.mag:訓練済モデルのdumpファイル(3000 stepまで)
    • *.jpg:訓練経過の評価のための各種スカラー値をTensorboardでグラフ化したもの(3000 stepまで)。それぞれの意味については上掲書やWebでの説明を参照されたい。
      • accuracy-3000
      • batch-3000
      • event_accuracy-3000
      • global_step-3000
      • input_producer-3000
      • loss-3000
      • loss_per_step-3000
      • no_event_accuracy-3000
      • perplexity-3000
      • perplexity_per_step-3000
    ⑤polyphony-m3_6_extracted-3-32-192-5000
    • program_merged_36_extracted2-192-5000.txt:訓練用ファイル・評価用ファイル生成から訓練済モデルによる楽曲生成実験までの実行ログ(5000 stepまで)
    • test/ :学習用に前処理を行ったMIDIファイルのフォルダ
    • noteseq/:NoteSequenceファイル(notesequences.tfrecord)のフォルダ
    • sequence_examples/:訓練データ(training_poly_tracks.tfrecord)および評価用データ(eval_poly_tracks.tfrecord)のフォルダ
    • logdir/run1/train/:訓練の経過ログが格納されているフォルダ
    • primer/:楽曲生成のキューとなるprimerファイルのフォルダ
    • generated/:m3_6_0_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_1/:m3_6_1_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_2/:m3_6_2_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • polyphony_rnn.mag:訓練済モデルのdumpファイル(5000 stepまで)
    • *.jpg:訓練経過の評価のための各種スカラー値をTensorboardでグラフ化したもの(5000 stepまで)。それぞれの意味については上掲書やWebでの説明を参照されたい。
      • accuracy-5000
      • batch-5000
      • event_accuracy-5000
      • global_step-5000
      • input_producer-5000
      • loss-5000
      • loss_per_step-5000
      • no_event_accuracy-5000
      • perplexity-5000
      • perplexity_per_step-5000
    ⑥polyphony-m3_6_extracted-3-32-192-6000
    • program_merged_36_extracted2-192-6000.txt:訓練用ファイル・評価用ファイル生成から訓練済モデルによる楽曲生成実験までの実行ログ(6000 stepまで)
    • test/ :学習用に前処理を行ったMIDIファイルのフォルダ
    • noteseq/:NoteSequenceファイル(notesequences.tfrecord)のフォルダ
    • sequence_examples/:訓練データ(training_poly_tracks.tfrecord)および評価用データ(eval_poly_tracks.tfrecord)のフォルダ
    • logdir/run1/train/:訓練の経過ログが格納されているフォルダ
    • primer/:楽曲生成のキューとなるprimerファイルのフォルダ
    • generated/:m3_6_0_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_1/:m3_6_1_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • generated_2/:m3_6_2_primer.MIDをprimerとした楽曲の生成結果(10ファイル)が格納されているフォルダ
    • polyphony_rnn.mag:訓練済モデルのdumpファイル(6000 stepまで)
    • *.jpg:訓練経過の評価のための各種スカラー値をTensorboardでグラフ化したもの(6000 stepまで)。それぞれの意味については上掲書やWebでの説明を参照されたい。
      • accuracy-6000
      • batch-6000
      • event_accuracy-6000
      • global_step-6000
      • input_producer-6000
      • loss-6000
      • loss_per_step-6000
      • no_event_accuracy-6000
      • perplexity-6000
      • perplexity_per_step-6000

    *    *    *

    [ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。作成者自身の無理解や実施時の不注意による間違いの可能性は勿論ですが、それ以外にも入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。

    (2022.7.7 公開, 2022.10.10 実験対象の一つとして利用させて頂いているMIDIファイルの提供元である加藤隆太郎さんの「マーラー交響曲 MIDI 全集」のURLに関する情報を最新のものに更新。 Google MagentaのColaboratory環境での利用可否についての記載も更新。2023.3.10「はじめに」を序文として独立の別記事に)

    Google Magenta の Polyphony RNN モデルを用いたマーラーの作品の学習実験ノート・序文(2022.7.7 公開, 7.10, 11.12更新, 2023.3.9-10追記)

     はじめに

     マーラーの作品を素材とした人工知能による模倣の実験を行った結果を以下で報告する。より具体的に言えば、以下で報告するのは第3交響曲第6楽章を入力とし、Google Magentaで用意されているモデルの一つであるPolyphony RNNモデルを用いた実験の結果である。まず実験に至るまでの経緯に触れながら、なぜGoogle MagentaのPolyphony RNNモデルを使ったのか、なぜ第3交響曲第6楽章が選択されたのかについて説明することを通じて、この実験を実施するにあたって考えたことや、実験結果を公開することにした目的について記載したい。なお本稿では、音楽の機械学習全般やMagentaに関する説明は次節で紹介する書籍やWebで入手できる情報に譲ることとして説明を割愛し、その書籍に記載されている内容程度の予備知識があることを前提とし、実験の背景や狙い、実験を行った環境および結果について記載することとさせて頂く。なお、序文の長さがかなりのものになったことから、本文から分離して別記事として公開することにしたので、背景や狙いはおいて、実験環境や結果のみに関心のある方は、直接本文を参照されたい。)

     まず記事タイトルで「学習実験」と言っておきながら、冒頭「模倣の実験」という言い方をした点についてお断りしておく。というからにはそれはうっかりミスでもなければ、言葉遣いの極端なルーズさに起因するものでもなく、意図的な選択の結果である。Google Magentaは、深層学習と呼ばれる一連の技術的なブレイクスルーによって近年脚光を浴びている人工知能技術の一つである機械学習を用いた自動作曲のための環境として知られている。コンピュータによる自動作曲は人工知能の黎明期からの典型的なタスクの一つであるが、そのために用いられる技術は多様で、個別の技術要素のみを取り出してしまえば今日の「人工知能」のイメージからは遠い手法が用いられる場合も少なくないが、ここでは環境としてGoogle Magentaを用いていること、素材としてマーラーの作品を用いていること、ある目的のためのツールを他の目的に転用するといったレベルでの転用をしているわけではなく、Google Magentaでのごく一般的な自動作曲の手順に従って、訓練のための前準備から訓練した結果を用いた楽曲生成までを行っていることから、一先ずはここでやったことを「学習」の実験と呼ぶのが自然であるのがタイトルで「学習実験」と形容した理由である。他方で本文冒頭で「学習」とは言わず「模倣」と言ったのは、実施した実験の諸条件が、ここで特に実験結果を公開するその最後の段階の幾つかに限らず、予備的で試行錯誤的な段階を含めた総体としてみた場合でも、通常Google Magentaを用いて行う自動作曲の典型からの逸脱を含んでおり、その点を配慮した場合にはこれを「学習」と呼ぶことは不適切であり、寧ろ「模倣」と呼ぶべきであるということが理由である。最も多様な素材を入力とした場合でもその範囲がマーラーの作品に限定されているということ、なおかつここで用いられる学習のメカニズム、つまりLSTM(Long Short Term Memory)という人工ニューラルネットワークの振る舞いを踏まえ、更には実際に実験の生成結果を確認した限り、ここでやっていることは寧ろ「模倣」と呼ぶのが適切であると考えた結果なのである。

     とはいえそうした区別は文脈に出来るだけ依存しない厳密な定義を追求した結果というわけでもない。例えば古典派なりロマン派の作品をかき集めて入力して、ありえたかもしれない古典派作品ないしロマン派作品を自動生成する試みは機械学習のタスクとしてはごくありふれた典型的な設定だろう。そしてその場合に訓練時に与えるサンプル数は少なめに見ても数百・数千程度であることが実は暗黙の前提となっている。更に言えば、そうしたサンプルの集合が理想的には或る特定の統計分布に従っていることが学習が成功するための理論上の前提とされており、サンプルがある仕方で分布する抽象的な空間の中で、サンプル点そのものではなく、その近傍にある点を生成するというのが学習に基づく自動作曲の実質だが、それを可能にするためには一定量のサンプルが欠かせないし、そのサンプルの集合の統計的な性質がどんなものあっても良いというわけではなく、学習メカニズムが前提としている分布に近いものであればあるほど良好な結果が得られる可能性が高い。一方で、現実にはよくあるケースだが、様々な理由から利用できるサンプル数が少ない場合に、サンプルに基づいて訓練データの「水増し」を行う手法も提案されているが、それが正当化できるのもサンプルの集団の持つ統計的な分布が一定の性質を持っていることが前提となる。そうしたことを踏まえた時に、「マーラーの作品の学習実験」という設定がそもそも「学習」のタスクとしてどういった位置づけになるのかを考えてみる必要が出てくることになる。

     ここで具体的に、或る特定の作曲家の作品を入力として、その作曲家が書いたかもしれない架空の作品を自動作曲する場合を考えると、例えばそれがバッハやモーツァルトのように数百から千を超える数の膨大な作品が遺され、かつその作品の様式が或る程度の多様性はあるにしても程々に安定している場合には、時代様式を対象とした学習の場合とほぼ同様に考えることができるだろう。だがマーラーの場合は良く知られているように、まず遺された作品数が少なく、多楽章形式の作品について楽章毎に1とカウントしてもその総数は3桁に満たないレベルである。更に言えば、特に交響曲楽章には長大なものが含まれ、その内部の構造も錯綜を極めるため、内部構造に従って分割をしたものをサンプルとして与えることで或る程度の「水増し」が出来たとしても、今度はその個々のサンプルのもつ性質の多様性が「学習」を困難にする。加えて現実的なニューラルネットのサイズや計算リソースの制限もあって、優れた結果を数多く出しているとされるGoogle Magentaにおいても、生成される「楽曲」のサイズとして標準的に想定されている規模は、マーラーの作品であれば「断片」レベルのものに過ぎないし、いわゆる楽式レベルの巨視的な構造をMagentaに事前に用意されたモデルに「学習」させることは、仮にそれが理論上は可能であったとしても、現実に私が利用可能なリソースを考えてしまえば実現不可能な企てに見える。

     予め人間が学習すべき特徴を分析し、それに基づいてネットワークの構造と規模を設定し、入力データを前処理して学習を行うという従来のやり方ではなく、特徴の空間の獲得そのものを機械にやらせるという点が深層学習のブレイクスルーの一つであるとされるが、実際にそれが実現されたのは画像のような静的なデータを対象とするCNN (Convolutional Neural Network)のようなケースであって、音楽作品のような時系列データは、そもそも学習のために用いられるネットワークのモデルが異なる。ここでの技術的な進展は、従来はネットワークのノード間を伝播する信号が急激に減衰したり増幅したりするために困難であった長い系列のデータの学習や、系列中の隔たった時点の間に存在する構造を捉えることを可能にするメカニズムの追加である。古典的な時系列データ用のネットワークはRNN (Recurrent Neural Network)と呼ばれるフィードバック機能を実現する回帰構造を備えたネットワークだが、そこに幾つか制御を行うユニットを付け加えたのが技術的な進展の実質である。更にいわゆる古典的な時系列分析の対象は一次元の時系列データであるのに対して、(特に西欧の)音楽作品ではある時点で複数の音が鳴ることが普通であり、水平的な次元だけでなく垂直的な次元の考慮も必要であるが故に、更に問題の難易度が上がって複雑なモデルと膨大なリソースが要求されるという点も指摘できるだろう。

     こうしたことを踏まえて、様々な試行錯誤の結果ここで最終的に選択された方向性は、「学習」が備えているべき「汎化」能力の獲得は一先ず目指さず、様式的に或る程度均質なサンプルを用意して、それを用いてモデルを訓練し、サンプルの一部をキューとして与えた時にサンプルとよく似たフラグメントが生成できるかどうかを確認するというものになった。そしてその結果として、ここで報告する実験の実質を「マーラーの作品を素材とした人工知能による模倣の実験」と規定するのが適切に思われたのである。こうした点をこのように長々と注記するのは、それ自体は参考になり、今回の実験を準備したり進めたりするにあたっても少なからぬ恩恵を被っている、Web上で読むことができるGoogle Magentaを実際に動かしてみた経緯を報告してくださっている記事の多くにおいて、こうした点についての考慮がなされておらず、「環境構築して、データを食わせて訓練させることができた。訓練したモデルで楽曲を生成したらこんな感じだった」といった内容の報告がなされることが多いように見受けられることへの反応といった側面がある。結局のところそれは、生成した出力を評価しているとはいえ、あくまでのその重点はツールとしての評価にあって、そのツールを使って行ったコンテンツの方はあくまでもサンプルといった捉え方をされていて、だからそれは機械学習ライブラリの評価であって、或るデータを或る目的で機械学習を行った実験そのものの評価ではないのだ。それこそがまさに「工学」であるからには仕方ないこととはいえ、結果として「人工知能」を使った「学習」の肝心の「内容」が論じられることが極めて稀であることへの違和感を感じることは避け難い。他方で「内容」の方にフォーカスがあたった場合、―別の記事で取り上げた、デイヴィッド・コープの一連の実験がそうであったように―今度は出力結果が「似ているか」どうかが専ら議論されることが専らのようだが、そうであればそれは、汎化能力を持っている場合でさえ具体的な特定作品の模倣ではないだけで様式の模倣には違いなく、それならば端的に「模倣」と言えば良いということになる。

     だがそれは単なる言い方の問題に留まらない。マーラーのような過去の作曲家の場合、未知の作品が新たに「発見」される可能性が全くないとは言えないものの、その作品リストは確定しており、既に閉じていると見做される(時代を遡って、例えばペルゴレージの場合のような大量の偽作の存在により、真正な作品のリストが確定しない場合もあるが、マーラーについては該当しない)。そうした有限の作品を入力とした「学習」を行ったモデルの汎化能力は、どのような尺度で測られるのだろうか?通常の「学習」の場合には、サンプルのうちの一部を訓練データとし、それ以外を評価データとして、訓練データには含まれないサンプルを精度良く推定できるかどうかによって測定することになっているし、そうした検証を経たモデルは、実際に新たなサンプルが追加された場合の予測にもちいられることになるのであって、閉じていない。勿論、マーラーの作品の場合でも、或いは今回のように、そのうちのある楽章のみをサンプルとした場合にも、実際に実験でそうしたように一部の作品、あるいは楽章内のある部分を訓練データとし、それ以外を評価データとして評価すれば良さそうに見える。だが形式的には成り立ちそうに見えるアナロジーは、具体的なマーラーの作品に即して考えた途端に危ういものに感じられてくるように思われるのだ。マーラーの作品のある部分を用いた訓練の結果で、それ以外の部分を生成できるというのは、偶々後者が前者の再現であったり変奏であったりする場合(実は、今回の実験はまさにこの場合に該当するようにデザインされたのだが)を除けば、そもそもナンセンスではなかろうか?繰り返しを厭わずに言えば、バロック期や古典期の多くの作曲家、ロマン派以降でも自分の過去の作品をそのまま転用したり、若干の焼き直しをした上で別の作品を作りだすような自己模倣的な作曲法をとるような場合であればそれも可能かも知れない。だが、ことマーラーの場合についてはうまく行かないのではないか。これは何も機械学習の実験の素材としての仮定の話ではなく、現実の問題でもある。マーラーの場合なら未完成の第10交響曲の補筆完成を考えてみればよい。その補筆がマーラーのそれ以外の作品を入力とした「学習」によって可能であるというようには誰も思わないだろう(カーペンターによる補作のように過去の作品の「引用」を散りばめるのはまた別の話だが、カーペンターのそうしたやり方がマーラー「らしい」かどうかについて疑念を持つ人は少なくないだろう)。第10交響曲については、それがマーラーの最後の作品であり、(ありうべき)未来を推定することの困難が原因だというのであれば、初期のピアノ四重奏曲の補作はどうだろうか?そこではシューベルトの「未完成」交響曲のように完成したソナタ楽章とともにスケルツォ楽章の断片が残っていて、24小節からなるその断片に基づきシュニトケがその楽章を「完成」させたことは、その断片を自作の交響曲第5番=合奏協奏曲第4番の第2楽章に「引用」していること同様、良く知られていることだろう。或いはマーラーの場合には他には思い当たらないが、一時期脚光を浴びた「交響的前奏曲」のような存疑作(私個人としては、これをマーラーの作品とは見做しておらず、作品リストにも含めていないが)を思い起こしてみれば良い。通常の問題設定では違和感を感じない「学習」という言葉が、マーラーの作品という個別の場合に限って言えば、さまざまな違和感を呼び起こすように私には感じられる。結局のところ、それにはマーラーの作品によって構成される抽象的な特徴空間の性質が関わっているのであろう。それは知る限り未だかつて定量的測度を備えた仕方で定義されたことはないが、定性的で極めてラフな仕方でならば、既にアドルノのマーラーモノグラフの中で、しかも興味深いことには1つならず2つまでも、しかもいずれもマーラーの同時代の証言の伝聞とともに書き留められていると私には思われる。即ちその一つ目は「III.音調」の章において、シェーンベルクの証言として、マーラーの存命中に「ある著名な批評家が彼の交響曲を「巨大な交響的寄せ集めメドレー(ポプリ)」にすぎない、と非難した」(龍村訳のp.48の最初のパラグラフ)との伝聞であり、もう一つは「IV.小説」の章においてグィド・アドラーの言葉として引用されている「いまだ誰も、たとえ敵対者でさえも、マーラーを聴いて退屈したことはない」(龍村訳のp.83の冒頭)という指摘である。後者の参照の直前でアドルノ自身は「小説と同様、彼の交響曲の一つ一つが、特殊なものという期待を贈り物として呼び覚ます」(同訳書p.82~3)と述べているが、そうした性質を持つマーラーの作品の集合が統計的な扱いに対して抵抗を示すであろうことは、ここで報告する実験をした経験の中で得られた感覚と一致する。のみならず、以前に実施して別の記事で報告した和音の出現頻度をはじめとしたマーラーの作品の幾つかの特徴量についての集計・分析での感覚とも一致する。であるとするならば、それを感覚などと言っていないで、それらの関連の具体的な様相を調べるべきだろうが、これは後日の課題としたい。

     更にこれは、全くの個人的な文脈での偶然に過ぎないが、テンプル・グランディンの『自閉症の脳を読み解く』(中尾ゆかり訳、NHK出版、2014)の中で、自閉症の人の視覚についての研究の結論を参照しつつ、自閉症スペクトラム障碍のデータのエラーバーの大きさについてコメントしている箇所(上掲書, p.153)のことを思い浮かべた。そこでグランディンは自閉症に関する調査についてまわる困難として、調査対象の中に大きな差異が含まれていること、だがそれは研究における問題設定の仕方の問題であること、その故に、サブグループを見つけて分ける必要性を述べているが、マーラーの作品についても同じことが言えるのではないかというように感じたのである。その意味でマーラーの作品は、人間が産み出したものよりも寧ろ、人間自身に近い性質を持っているのではないか、更にそれはアドルノの言う「特殊なもの」に通じ、そのことは「小説」や「物語」の主人公である自己意識を備えた自伝的自己に対応した構造をマーラーの作品が備えているということに帰着するという道筋が思い浮かぶ。そしてこのことはマーラーの音楽が、このブログにおいて永らく構想してきた「意識の音楽」であるという主張そのものに他ならない。だがこの点は本稿の目的である実験の報告とは最早別のテーマであり、この点を更に展開して構想の肉付けをすることは、後日の課題としてここでは一旦打ち切らざるを得ない。

     更に言えば「学習」を「模倣」に置き換えたところで、実はこの問題の或る側面については解決は望めそうにない。有限で列挙可能な「マーラーの作品」が存在していて、恐らくマーラーの場合に限れば、未知の真作が発掘される可能性はほとんどないというところに、既知の「マーラーの作品」には含まれない「マーラー風」を自称する作品が出てきたとき(これもまた仮定の話ではなく、デイヴィッド・コープの事例のように現実の問題なのだが)、一体その「模倣」の出来を評価する尺度はどのようにして構成できるだろうか?実際、世上「マーラー風」と形容される作品は少なからずあるようだが、そもそも「マーラー風」「マーラー的」という形容は、マーラーの作品の或る一面と共通性を持つという意味合いで用いられることが一般的であって、それはここで報告する実験の水準で当否を扱うことができるものではないだろう。他方で「…風に(à la manière de ...)」という、パロディであることを明示したジャンルが存在するが、そこでは特定の作曲家の様式は或る種の「記号」としてメタレベルで機能しているのであって、それもまたここで報告する機械学習における「模倣」とは異なった水準のものであろう(それが「パロディ」として成立するには、所謂「贋作」とは異なった何かがそこになくてはらないが、機械学習における「模倣」は寧ろ「贋作」に近く、例えば「アルビノーニのアダージョ」と称する模作に類似すると考えられる)。後述の実験についての具体的な記述において明らかになることだが、寧ろここで「模倣」と呼んだものの実質は、時系列データとしての音楽作品の一部を「記憶」しそれを与えられたキューに基づき「想起」することに近いのではなかろうか。それは記録媒体に「記録」したものを「再生」することは異なるメカニズムに基づいており、変形や欠落を生じる可能性の一方で、「学習」における「汎化」とは異なったレベル(但し、このレベルの近いは、それを実現するメカニズムの違いを意味しない。メカニズムは同一であっても構わない。)でエラーに対する補完を可能にする頑健性を有することで「模倣」を実現しているという言い方が可能だろう。

     ちなみに上記の「記録」の「再生」と「記憶」の「想起」の差異は、機械が「知的」であるための条件としてアラン・チューリングが示した可謬性に関わっていて、適応的な機械が「正しい」かどうかの判定基準は文脈依存で客観的には決まらず、必ずどういうサンプルを与え何に適応させたかを基準に測るしかないというところから、知的であることの判断基準は結局人間の側にしかないという認識に繋がっており、結果としてここでの「学習」の成功の度合いや「模倣」の出来を評価する尺度に対する答えの枠組みとなる。チューリングはここからチューリング・テストに至ったわけだが、そのことが「学習」の成功度合いや「模倣」の出来は生成された音を人間が聴いて主観的・感覚的に評価するしかないという結論に繋がるわけではないことに注意すべきだろう。そうではなくて、何のために「学習」なり「模倣」なりをするのかという目的、実験自体が置かれた文脈抜きに測度を構成できないということであって、「学習」なり「模倣」なりを自己目的化した実験は、実はおのれの抽象性故に評価の基盤を自ら破壊してしまっていることに気付くべきなのだ、ということに他ならない。

     自分が開発したソフトウェアが生成した音楽の評価に対するデイヴィッド・コープの不満は、それ故二重に不当なものに見えてしまう。まずそれは自分の実験の枠組みの、上述の意味合いでの救い難い抽象性を棚に上げて、自分で破壊した評価基準の不在を評価者に不当に押し付けているに過ぎないし、次に自分が開発したソフトウェアが生成した音楽のみを聴かせて、どういうサンプルを与え何に適応させたかを示すことなく評価を求めるという姿勢の不当さを棚に上げて評価者の反応を批判するのも責任転嫁であると言わざるを得ない。以下にも述べるように、この実験結果を公開することを決断した背景の一つは、まさにデイヴィッド・コープが自分が開発したソフトウェアが生成した「マーラー風」の作品を少なからず発表していることを知ったからなのだが、私の公開の目的は、コープの「マーラー風」作品との結果との「優劣」の比較ではなく(工学的な評価としては、コープの業績に異を唱える人はいないだろうし、情報工学者であると同時に作曲家でもあるコープの業績に対して私のようなアマチュアが付け焼刃の俄か実験をもって何かを言う事自体、こちらはこちらで不当で、身の程をわきまえない暴挙であろう)、寧ろコープがマーラーを素材にしてやったことの「全体」に対する疑問の表明にあり、謂わば「メタ批判」であることをここで明記しておきたい。

     最後に今度はマーラーの側からではなく、機械学習の側からの釈明をさせて頂くならば、端的に実験結果のみを知りたい方にとっては煩わしいだけかも知れず、その場合には本稿末尾の実験結果の紹介までスキップして頂いて構わないが、まずもって機械学習を専門とする研究者でもなく、マーラーの音楽を研究対象とする音楽学者でもない、単なるマーラー音楽のアマチュアが、ごく表面的にGoogle Magentaを試したという前提抜きで実験結果として生成された音響のみを評価されてしまうと、色々な意味でミスリーディングであるという懸念がある。最も端的には、ここで報告する実験の生成結果自体は「出来の良い」ものではなく、だがそれはGoogle Magentaに代表される人工知能の技術的限界を示すものではなく、多くは更に改善の余地があるに違いない。ではなぜそのような箸にも棒にもかからないレベルものを敢えて公表するのかについては、ここまでお読み頂いた方に対しては既に十分にお答えしたつもりでいる。釈明の必要性自体、結局のところ背景と目的の説明は欠かせないということでご了承頂く他ないと考えるが、一つだけ記しておきたいのは、MIDIファイルを解析するプログラムの自作(C言語を用いて行った)から始まって、一通りハンドメイドでMIDIファイルを用いた和音の出現頻度などの集計・分析の仕組み(主としてExcelとS言語を用いて行った)を作るきっかけは、着手時点では先行事例を知らなかったから、知りたいと思えば自分でやってみるしかなかったからであり、だがその後、作業を進めていくうちに、類似の研究があることは確認できたものの、ことマーラーの作品を対象にしたものとなると、現時点でも確認できていないのと同様、ここで報告するような実験の報告のようなものを目にしたことがないということである。勿論、マーラーの作品の人工知能による模倣は既に行われて結果も示されているし、この手の話には格好の題材であろう第10交響曲の補筆完成版の作成を人工知能で行った結果が披露されたという報せを知らないわけではないことは、既に本ブログの過去の記事「デイヴィッド・コープのEMI(Experiments in Musical Intelligence)によるマーラー作品の模倣についての覚え書」でも報告している通りだが、そこで私が個人的に不満なのは、既に述べた通り、人工知能が「創作」したとされる「結果」のみが示され、それがマーラーの音楽に「似ているかどうか」のみが論じられるという点である。そこでここでは、どのようなことを考え、どのような準備をして、どのような条件を設定して、どのようなプロセスで処理がなされた結果、どのような結果が得られたかの詳細についてここまで報告することもまた、実験結果自体と同様に意義があると考えていることをお断りして、背景についての説明を終えることにする。

     なお、上述の背景の説明から、マーラーの作品の「模倣」の実験は可能だが、「学習」の実験は意味がないと考えていると受け止められてしまうかも知れないが、実際にはそういうことではないことを最後にお断りしておきたい。機械学習の対象として捉えた場合にマーラー固有の問題として思いつくのは、作品数が少なく、しかも様式的に多様で、作品・楽章間での多様性が大きいということだろうか。例えばバロック期や古典期の作曲家や、近年ではポピュラー音楽におけるようにある程度決まったパターンに基づき、消費のニーズに応じるべく大量に作品を「生産」「製造」するようなケースと比べれば、「マーラーの場合」が機械学習に馴染まないのは直観的には明らかなことだろう。作品の完成度に拘るスタイリッシュな寡作家というわけではなく、単純にシーズン中は歌劇場監督としての職務の多忙から、パートタイムの「夏の作曲家」たることを余儀なくされたという事情(それゆえ彼の作曲活動は、楽長の道楽として揶揄されさえした)に由来する作品数の少なさのみならず、アドルノが「マーラーがいつもどのように作曲するかは、伝来の秩序の原則にではなく、その曲独自の音楽内容と全体構想とに従っている。」(アドルノ, 『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.56)と言う「唯名論的」(同書, p.83)な傾向を踏まえ、「作品のいずれもが以前に書かれた作品を批判しているということにより、マーラーはまさに発展する作曲家となっている。言うならば、彼の量的には決して多くない作品にこそ、進歩ということを語ることができる。」(同書, p.111)というアドルノの見解を受け入れるならば、「マーラーの場合」の特徴は、そもそも統計的な処理に馴染まない性質のものでさえありうる。

     だがそれでもなお、そうした傾向が結果としてミクロな系列が持つ特徴となり、その特徴を検出し、学習することでマーラーの独自性、「マーラーらしさ」を言い当てることが可能かも知れない。数は少ないとはいうものの、マーラーの作品全体の量を、例えば小節数や演奏時間という尺度で捉えたならば、統計的な学習を行うに十分な分量であるという見方も可能だろう。(単純な比較ができないことは断った上で、例えばGoogle MagentaのPolyphony RNNモデルのモデルケースであったバッハのコラールへの和声付けに基づく学習に用いられるサンプルの規模と比べて、量的に少ないということはないだろう。)既に別のところでは、いわゆる「スモールデータ」でも適用可能な分析ということで主成分分析等のような手法を用いて、和音の出現頻度という、ごく表層的なテクスチュアに関する特徴量だけからではあるが、マーラーと他の作曲家の作品の比較やマーラーの交響曲作品の間の比較を試みた結果を別の記事で公開している(その概要については、記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 これまでの作業の時系列に沿った概観」を、その結果の要約については記事「MIDIファイルを入力とした分析:データから見たマーラーの作品 和声出現頻度の分析のまとめ」を参照)が、そこから更に、そもそもアドルノの上記の主張の裏付けとなる結果をデータ分析から得られないかというアプローチも考えられるだろうし、そこから更に踏み込んで、特にその後期作品について、ベルクやベッカーの言葉を踏まえてアドルノが「(…)マーラーだけに、アルバン・ベルクの言葉によれば、作曲家の威厳の高さを決定するところのあの最高の品位の後期様式というものが与えられる。すでにベッカーは、五十歳を過ぎたばかりのこの作曲家の最後の諸作品がすぐれた意味での後期作品である、ということを見逃さなかった。そこでは非官能的な内面のものが外へと表出されているというのだ。」(p.112)と述べている点について、それに対応する何らかの特徴量を検出できないかという問題設定を行うことで、マーラーの音楽における「老い」について実証的な仕方で語ることさえ可能かも知れない。

     要するに特定の楽曲、例えばここで取り上げられている交響曲第3番第6楽章の主要部分「っぽい」作品を生成することを目的とした「学習」ということならば、こちらは統計的な「学習」の問題として設定しうるかどうか、そもそも問題の設定の水準において疑問の余地がないとは言えないということなのであって、一般に「学習」の問題が設定できないと言っているわけではない。実際、本稿執筆後、問題設定を変えて、1曲毎の規模が小さい歌曲については、全歌曲を一まとまりとして見て、交響曲については各交響曲毎に、Magentaで用意されたツールを用いて訓練用/評価用データを抽出したらどうなるのか、抽出されたデータを用いて訓練したらどうなるのかという実験は継続して実施しており、その結果については別途公開の予定である。(2022.7.7 公開, 7.16 語句の調整。22.11.12誤字修正および若干の補足を加筆, 2023.3.9-10追記, 独立の記事として本文から独立)

    2021年5月9日日曜日

    第3交響曲が私に語ること(2021.5.9 マーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会によせて:初期稿)

    第3交響曲はマーラーの音楽の特徴が様々な側面で最も顕著に表れた作品であるといって良いだろう。この作品に限れば後付けの説明ではなく、複雑な変遷を経て1902年のクレーフェルトでの初演のプログラムにその最終形が掲載された標題のみならず、マーラー自身の書簡、ナターリエ・バウアー=レヒナーやブルノ・ワルターの回想等に残された証言も豊富であるが故に、この作品は、マーラーの作品を巡ってしばしば生じる、音楽の実質から遊離した言説の最大の被害者であると同時に、音響外の要素を一切捨象して最終的な音響態のみを自律的、自足的なものとして取り出そうとする姿勢の抽象性を暴き立てるという点で最も雄弁な証言者でもあろう。更にマーラーの交響曲の形式的な面での伝統的な交響曲形式からの逸脱の具体的な様相として思い浮かぶ、作品の長大化、楽章数の拡大、「部」(Teil)という階層の導入、楽章間の長さのコントラストの拡大、管弦楽編成の拡大、特殊楽器の使用や声楽の導入、そして空間的な次元の導入(舞台裏や「高いところから」といった指示)といった特徴の悉くが当て嵌まるこの作品は、それが生まれた時代にほぼ今日の姿になった巨大なコンサートホールでの演奏会という制度の中で、その可能性を極限まで追求した試みという見方もできるだろう。2部6楽章からなる重層的な全体構想における楽章間の調的な配置、そして各楽章の構造、中でも巨大で複雑な第1楽章の構造については、規範からの逸脱という見方ではその独創性を汲み尽くし難く、安易な分析を受け付けない。

    調的な構想について見ると、「夏の朝の夢」という標題とともにヘ長調という調性を記された草稿が遺されているかと思えば、ニ短調としているオスカー・フリート宛書簡もあり、全体の調性がニ短調かヘ長調に関して諸家の意見は分かれるようだ。実際、第1楽章はニ短調で始まりヘ長調で終わり、イ長調の第2楽章の後、第3楽章はハ短調だがポストホルンの長大なエピソードはヘ長調、続く第4楽章はニ長調、第5楽章はニ短調のエピソードを持つヘ長調であり、第6楽章に至ってニ長調となるのであり、ヘ長調とニ長調の葛藤・対立があって、フィナーレではニ長調が主調として確証されるという構想が読み取れる。そこから逆算するように第1楽章は提示部末尾で一旦ニ長調に到達しながら、末尾のみならず楽章全体としてもヘ長調が優位であり、最初にトニックとして確立されたかに見える調性が実はドミナントであったというサブドミナント方向への三度関係の動力学が読み取れよう。

    作品の成立過程については、構想上の紆余曲折を経て、フィナーレとして、アドルノの言う「充足」カテゴリのアダージョを持ってくることにより、いわゆる「フィナーレ問題」に回答を与える見通しがついた地点に至って、それまでに書かれていた楽章すべてを第2部とし、第1部として、それと釣り合う破格の規模を持ち、当初は2つの別々の部分として構想された序奏とソナタ楽章本体を一つに融合した第1楽章を持ってくるという構想が定まったと考えることができるようだ。そして「フィナーレ問題」の解決とともに、当初の構想の要石であった歌曲「天上の生活」がはみだしてしまい、そちらは第4交響曲として別に作品化されることになる。マーラー自身が弄り回した挙句、昇ったら不要になった梯子のように 最後には放棄してしまったとはいえ、様々なバージョンが遺されている標題の変遷過程は、完成した狭義での第3交響曲についてのそれではなく、こうした動的で流動的な創作過程の軌道の痕跡であり、最終的な2部6楽章の形態を、結果として第4交響曲のフィナーレに収まった歌曲をフィナーレとする構想のような幾つかの疑似的なアトラクタを経て辿り着いた不動点と捉えることを要求しているようだ。

    第1楽章はその調的プロセスから、序奏が埋め込まれ、行進曲を主部とするソナタと捉えることができるが、それは、やはり第1部としてこちらは強い素材連関を持つ独立の2つの楽章を擁する第5交響曲、序奏が埋め込まれ、行進曲を主部とするソナタという構想をフィナーレに適用した第6交響曲を経て、序奏が回帰しつつ2つの対比的な主要主題が変形を繰り返す側面がソナタ形式を内側から圧倒してしまう第7交響曲の第1楽章を通って、第10交響曲のあの無比の構造を持つアダージョに至るマーラーの絶えざる試行の最初の一里塚ともいうべき成果であり、創作の巨大な過程の一部として捉えることができるであろう。

    更に書簡や回想等に遺された言葉から窺えるのは、マーラーが音楽によって「ひとつの世界を構築」しようとしたことと同時に、何物かに命じられて書きとらされるかのような姿勢をもっていたことである。ここで注意すべきはベクトルの向きで、 稚拙な標題にしてからが「~が私に語ること」であり、作曲する「私」が聴き手の立場になっていることである。 マーラーの音楽を単純に主観的な独白と見做すのは、それを世界観なり思想なりの表明と見做すのと同様、実質を損なう捉え方で、作曲する主体と作品との関係についてロマン主義的な単純化した見方をしている点では共犯関係にある。際立って意識的な人間だったマーラーは、そうした点に自覚的だったようだし、作品が常に 自分をはみ出していくことについても充分に意識的であったようだ。であってみれば、大言壮語の類として片付けられがちな「君はもう何も見る必要はないのだ。僕が音楽に皆、使い尽くし、又、描き尽くしてしまったのだから」というワルターに向けた言葉についても、そこに自然に対する芸術の優位を主張する芸術至上主義的な傲慢さよりも、音楽作品の在り方の不思議さこそを見るべきなのではないか。作曲はマーラーにとって「神の衣を織ること」であったが、だとしたら音楽作品は「神の衣」であり、「ひとつの世界」は閉じた自足的な全体ではなく多世界の中の「ひとつ」であり、複数の可能世界の中の一つのバージョンと考えるべきだろう。

    マーラーの作品群はしばしば連作として捉えられるが、第3交響曲は、それ自身には含まれない集積点の如きものとして、自らの外部に第4交響曲のフィナーレである歌曲「天上の生活」を持っている。独立した作品でありながら単純な作品の内側と外側という図式に収まらない内部構造を持ち、かつそれが作品の外部にも繋がっているというクラインの壺のようなトポロジーによって、「作品」を箱庭の如きものとして外部から眺めるのではなく、「世界」に対してそうであるように「作品」の中に棲み、内側から眺めることを求めているかのようだ。第3交響曲のような多元的・重層的な作品はそれ自体多重の時間の流れを含み持っているが、聴く「私」もまた別の時間の流れの一つであり、聴取によって複数の層の間の干渉・同調・引き込みが起きる。「作品」は仮想現実であり、「世界」のシミュレータなのである。聴取の行為は「世界」の経験のシミュレーションに他ならず、そうすることにより我々もまた、マーラーがそうしたように「世界=作品」の「語ること」に耳を傾けるのである。そしてそれは、マーラーがそう意図したように、世界の構築に、「神の衣を織る」ことに通じるのである。演奏者も聴き手も、交響曲という「世界」の多元性を、事後的な結果としてではなく、まさに今・ここで生じている「出来事」として経験すべきなのだ。作品は、それが生み出された時代の文脈から逃れられないけれど、時代を通じて継承されることにより存続する。そのためには新たな聴き方を可能にする新たな文脈を聴き手が用意する必要があるのではなかろうか?

    だとしたら、今、第3交響曲が我々に語ることは何だろうか?

    それを考える上で、マックス・テグマークが汎用人工知能について語るフレームとして提示したLife3.0を取り上げてみよう。するとマーラーの時代は、まずもってLife1.0に関する今日的な認識の基本が形成された時代であることに気づく。例えば伝染病の流行が珍しいことではなかったことはマーラーの伝記を紐解けばすぐにわかることだ。コッホによるコレラ菌の発見は1884年であり、今日当然のこととされる、細菌が伝染病の原因であるという認識すらまだその確立の途上にあった。その一方でLife2.0は生物学的な「ヒト」ではなく、ジュリアン・ジェインズのいう「二分心」の崩壊以降、レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」以前のエポックの存在様態を指していると解釈するならば、それは「ニーチェ」が「神の死」という形で言い当てた「隠れたる神」の時代に生きる存在ということになろう。

    勿論そのことがマーラーの創作に直接影を落としているわけではないが、第3交響曲のフィナーレが「私の傷を見てください」というモットーを持つことを思えば関連は明らかだし、のちに長女を亡くす原因やマーラー本人の死因にしても今日ならペニシリンで治療可能であることも含め、一世紀経って進歩はしたとはいえ、今まさに新型コロナウィルスの猛威に晒されていることを思えば、相変わらず状況には変わりなく、二分心以降・シンギュラリティ以前という同時代にマーラーも我々も生きていることを再認させられずにはいられない。

    してみれば第3交響曲はLife1.0の誕生からLife2.0の先までの展望―そこではLife3.0は、Life2.0の人間に続くものとして天使や神として形象化され、子供や超人もまた含まれている―を示したものであり、今ならLife2.0が産み出したシミュレーション・ソフトウェアの設計図と見做すことができるだろう。それを思えば、マーラーの作品の中でも優れて第3交響曲は、自分の生きる世界にどう向き合うか、どのように認識し、感じ、行動し、変わっていくのかについて示唆を与えてくれる存在ではなかろうか。

    新型コロナウィルス禍において、ウィルスというLife1.0の手前にある存在が、Life3.0への越境へと向かいつつあるLife2.0たる人間の持つ基本的な性向である社会性、模倣し共感し協力する性向に襲いかかり、集い、役割分担することで新たな「現実」を生み出し、今・ここで生じている「出来事」として共有することを妨げ、未来を目がけて構築したもう一つの現実としての「作品」の上演と継承を困難にしてしまった。とりわけてもこの第3交響曲の上演には、巨大なコンサートホールの舞台に溢れんばかりの大編成の管弦楽に加え、独唱と児童合唱、女声合唱が必要であり、更にまた客席を満たす聴き手が必要であることを思えば、公演の度重なる延期は、まさに我々が置かれた状況を最も雄弁に証言するものであり、無作為ではなく、存続に向けての抵抗の一つのかたちであろう。であればこそ、今、ここで第3交響曲が上演されることの意義は大きい。第3交響曲は、このような状況の下で聴き手の一人ひとりがそれぞれ「~が私に語ること」に耳を傾け、自分が受け止めたものを語り、行動することへと私たちを誘っているように私には思われるのである。(2021.3.17)

    [後記]上掲の文章は 2021年5月9日のマーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会のプログラムに寄稿させて頂いた文章の初期稿です。諸般の事情により公演に立ち会うことが叶わず大変に残念でしたが、そのことのお詫びとともに、初期稿の掲載を以て、書き記すことができなかった演奏会の記録のせめてもの替わりとし、今回の公演が目下の困難な状況の下で実施されたことに対する敬意の表明とさせて頂きたく思います。(2021.5.9)