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2024年6月24日月曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:第3交響曲についての言葉に含まれるヘルダーリンへの言及

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:第3交響曲についての言葉に含まれるヘルダーリンへの言及(1984年版原書p.56, 邦訳(高野茂訳)pp.113-4)
Auch die Einleitung zum ersten Satz der Dritten entwurf er und erzählte mir davon: "Das ist schon beinahe keine Musik mehr, das sind fast nur Naturlaute. Und schaurig ist, wie sich aus der unbeseelten, starren Materie heraus - ich hätte den Satz auch nennen können: 'Was mir das Felsbebirge erzählt' - allmählich das Leben losringt, bis es sich von Stufe zu Stufe in immer höhere Entwicklungsfromen differenziert: Blumen, Tiere, Mensche, bis ins Reich der Geister, zu den 'Engeln'. Über der Einleitung zu diesem Satz liegt wieder jene Stimmung der brütenden Sommermittagsglut, in der kein Hauch sich regt, alles Leben angehalten ist, die sonngetränkten Lüfte zittern und flimmern. Ich hör' es im geistigen Ohr tönen, aber wie die leiblichen Töne dafür finden? Dazwischen jammert, um Erlösung ringend, der Jüngling, das gefesselte Leben, aus dem Abgrund der noch leblos-starren Natur (wie in Hölderlins 'Rhein'), bis er zum Durchburch und Siege kommt - im ersten Satz, der attacca auf die Einleitung folgt."

 彼は《第三交響曲》の第一楽章への導入部の構想もまとめ、それを私に話してくれた。「それは、もはや音楽というものではなく、ただ自然音だけ、と言ってよい。生命のない硬直した物質から――僕はこの楽章を、「岩山が私に語ること」と名付けてもよかろう――生命がしだいに身を振り離し、一段階ごとに、花、動物、人間といったより高度な発展形態に分化していって、最後に精神の領域、つまり「天使たち」にまで達する過程には、人をぞっとさせるものがある。この楽章の導入部には、ふたたびあの夏の熱気、息をつくものもなく、すべての生き物が動きを止め、太陽に酔いしれた空気が震え微動する、じりじりとした夏の真昼の灼熱の気分がみなぎっている。僕には、それが心の耳で鳴っているのが聞こえるけれども、どうやってそれに相応する実際の音を見出したらよいのだろう?そこでは、若者の縛られた生が(ヘルダーリンの『ライン』におけるように)まだ生命のない硬直した自然の底しれぬ深みから、救済を求めて嘆きを声をあげる。そして、導入部にすぐに続く第一楽章になって若者は解放され、勝利を得るのだ。」

マーラーがヘルダーリンを好んでいたのはアドラーの言及(Guido Adler "Gustav Mahler", 1916のp.43)から始まって、ヴァルターの回想 (邦訳第2編「反省」第3章「個性」p.192参照)やアルマの回想と手紙に含まれる書簡(1901年12月16日)でも証言されているが、 彼自身の証言として具体的な作品に言及しているのは、上に掲げた1896年夏のアッター湖畔シュタインバッハでの第3交響曲についての言葉と、 同じくバウアー=レヒナーの回想にある1893年7,8月のアッター湖畔シュタインバッハでの 「ワグナーの偉大さ」についての言葉のようである。言及されている作品はいずれも讃歌「ライン」で、「ワグナーの偉大さ」の方は第4節の'Das meiste nämlich vermag die Geburt, und der Lichtstrahl, der dem Neugeborenen begegnet'「つまり、生まれと生まれたばかりのときに出会った光線が、大部分を決めてしまうのである」が実際に 引用されている(1984年版原書p.33, 邦訳p.57)。
実を言えば、上に掲げた箇所は1923年版においては(wie in Hölderlins 'Rhein')という括弧に括られた補足の部分が欠けていることがわかる(1923年版原書p.40)。 この欠落の理由は定かではない。一方Dike Newlinによる英訳版の注ではマルトナーがここの部分で参照されているのは第2節の「冷気みなぎる淵より、 /救いを請い求める声を聞く。/大声でわめき、母なる大地に訴えるは、/ひとりの若者、、、」'Im kältesten Abgrund hört / Ich um Erlösung jammern / Den Jüngling, ... ' であることを述べている。ヴァルターの証言によれば、「ライン」は「パトモス」と並んでマーラーが特に好んだとのことだから、バウアー=レヒナーの回想で2度までも「ライン」に 言及するのはヴァルターの証言を裏づけていることになろう。特に上掲の部分は自作の第3交響曲第1楽章にちなんでの言及であるだけに、非常に興味深い。 第3交響曲におけるニーチェの影響は、第4楽章においてツァラトゥストラに含まれる詩が用いられていることもあって頻繁に言及されるが、ヘルダーリンの圏の中に それを置くことは、一層興味深いように感じられる。第3交響曲の音調が全体としてヘルダーリン的であるかどうかはおくとして、アルニム・ブレンターノとニーチェを、 デュオニソスとキリストを結ぶ不可視の結び目としてヘルダーリンを考えるのはそれほど突飛なこととは思われない。なお、フローロスのマーラー論第1巻では マーラーの精神世界を体系的に提示することが目論まれていて、ヘルダーリンについても手際よくまとめられている(II.Bildung のpp.58-9)。
 
ちなみにマーラーのヘルダーリンへの傾倒、とりわけ後期讃歌に対する評価が、ディルタイの「体験と詩作」(1905)やいわゆるゲオルゲ派による「再発見」、 更にはヘリングラート版の刊行(1913~1923)に先立つことは注目されて良いだろう。勿論「子供の魔法の角笛」の編者でもあるブレンターノやアルニムをはじめとする ロマン派の作家によるヘルダーリンの評価は 既になされていたし、シュヴァープ等による詩集の刊行は1826年(第2版は1842年)であるから、そうした流れの中でマーラーがヘルダーリンを発見したとしても 不思議はないのだろうが。実際、ド・ラ・グランジュのマーラー伝の1894-1895年の項(フランス語版第1巻p.495, 英語版第1巻p.303)には、フリッツ・レーアに対して、 アルニムとブレンターノの全集とともにヘルダーリンの作品集を送るよう依頼したという記述があるし、アルマの遺品の蔵書には1895年9月30日付けの序文を持つ 2巻本のヘルダーリン全詩集(コッタ社刊)が含まれている。(Perspective on Gustav Mahler 所収のJeremy Barham, "Mahler the Thinker : The Book of the Alma Mahler-Werfel Collection", p.85参照。ただし後者は序文の年月日からみて、前者とは別にアルマ自身が持っていて、マーラーがアルマへの書簡で言及したものと 考えるのが妥当だろう。)マーラーのヘルダーリンとの出会いがどこまで遡るかは最早はっきりしないのであろうが、少なくとも第2交響曲を完成させ、第3交響曲を 手がける時期にはマーラーはヘルダーリンに親しんでいたようだ。ド・ラ・グランジュの記述によれば、上記のレーアへの依頼は丁度第2交響曲のフィナーレに取り組んで いた時期にあたる。なおアルマ宛の書簡ではもう1回、1907年7月18日付け書簡でヘルダーリンの名前が、 今度はモムゼン、ベートーヴェンの書簡、ゲーテやリュッケルトとともに現れる("Ein Glück ohne Ruh'", Nr.212, p.325)。
 
ところで第2交響曲のフィナーレの歌詞がクロップシュトックの詩にマーラーが大幅な追補をしたものであることは良く知られているし、マーラー自身、それを「自作」のものであると 作品を仕上げている最中のベルリナー宛書簡(1894年7月10日)で述べているほどだが、その中の有名な一節"sterben werd'ich um zu leben"に関してヘルダーリンに ちなんで些か気になることがあるので書きとめておくことにする。マーラーは第2交響曲について後に1897年2月17日付けのアルトゥール・ザイドル宛の書簡において、 聖書を含むあらゆる文学書を渉猟しつくした挙句、ビューロウの葬儀で歌われたクロップシュトックに霊感を受けて終楽章を書き上げたと語っている。これだけ 読めば、その渉猟はビューロウの葬儀でクロップシュトックの詩に触れる以前となりそうだが、「自作」の詩が、つまりクロップシュトックの詩への追補が行われたのは、 まさに上に触れたレーアへのヘルダーリン作品集の送付依頼があった時期と考えるのが妥当であろう。以下の指摘において、マーラーがヘルダーリンを無意識的に 引用したとまで主張するつもりはないのだが、それにしても時期的な一致もあり、ザイドルの書簡における「渉猟」、ただしここではクロップシュトックの詩にいわば 導かれて「自作」の詩を書き上げる過程における読書の対象のうちにヘルダーリンが含まれていた可能性を示唆するように思われるのである。
 
「ヒュペーリオン」第2巻第2部のあの「運命の歌」を含むベラルミンに宛てた長大な書簡にはディオティーマからヒュペーリオンに宛てられた最後の手紙の長大な 引用が含まれるが、その中に「わたしたちは生きるために死ぬのです」(Wir sterben, um zu leben.)という言葉がある。続けて神々の世界では「すべてが平等」で 「主人も奴隷もいない」と語られ、その少し後にはヨハネの黙示録への暗示もあるこのくだりは、第2交響曲のフィナーレとぴったりと重なるわけではないが、 マーラーが色々な人に対して語ったと伝えられるプログラムの内容と呼応するところが少なくないように思われる。この程度の類似は他にもあるかも知れないし、 いわゆる実証的な裏づけはないわけで、これらをもってヘルダーリンのマーラーに対する影響を云々しようとは思わないが、マーラーにおける「復活」「再生」に ついての考え方、のちにはゲーテの「ファウスト」第2部を用いて再び展開される考え方の、控えめに言っても地平を形成しているとは言えるだろう。否、ヒュペーリオンの 結末、更にはそれが遠くまだ幽かに予見する1806年以降の、スカルダネリの署名を持つものを含んだヘルダーリンの後期詩篇の風景は、こちらもまた 第8交響曲を超えたマーラーの後期を、とりわけシェーンベルクが(フローロスの指摘によれば、マーラーがヘルダーリンに対して用いた言い回し"Ganz-Großen"を シェーンベルクが今度はマーラーに対して用いている)プラハ講演で「われわれがまだ知ってはならないような、われわれがまだそれを受けとめるところまでには 熟していないようななにごとかがわれわれに語られているかにみえる」(酒田健一訳、「マーラー頌」p.124)と述べた第10交響曲の世界を寧ろ示唆しているとさえ 言えるかも知れないと私には感じられるのだ。(2010.11.23)

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