お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2010年6月27日日曜日

戦前の日本におけるマーラー受容との断絶

 戦前の日本におけるマーラー受容が広く知られるようになってきたのは、1980年代のマーラー・ブームの頃ではなかろうか。手元にある文献では、 サントリー美術館で1989年4月4日~5月14日に開催された展覧会のカタログ「サントリー音楽文化展 '89 マーラー」中に含まれる森泰彦「オーケストラ演奏記録が語るもの -日本のマーラー受容1924~1985」が挙げられるだろう。これは、まずカタログ自体がTBSブリタニカより市販された他、根岸一美/渡辺裕(編)「ブルックナー/マーラー事典」(東京書籍,1993)にも 追記がされた上で再録された。英語の文献なら、Donald Mitchell,とAndrew Nicholsonが編んだThe Mahler Companion(Oxford Unversity Press, 1999)に他の国での受容と並ぶ仕方で Kenji Aoyagi, "Mahler and Japan"が収められていて、その1章が戦前のマーラー受容に充てられている。
 
 だが記録や概観ではなく、より証言に近いものをということになれば、岩波新書に収められた柴田南雄『グスタフ・マーラー:現代音楽への道』(1984)を挙げなければなるまい。序論にあたる 「はじめに-われわれとマーラー」の第2節が「戦前の日本におけるマーラー」というタイトルを持っていて、10ページ強の中に手際よく受容史がまとめられているのだが、1916年生まれの著者の 回想が含まれていて、寧ろその点が強い印象に残る。この本の刊行当時、日本マーラー協会の事務局長であった桜井健二さんの『マーラー万華鏡』(芸術現代社, 1991)の中のV章を占める 山田一雄との対談 「マーラー演奏半世紀」やVI章のうちの最初の3つの文章「日本人とマーラー」、「現世と幻想の交錯する魔境/マーラーと小栗虫太郎」「マーラー時代のマスコミとマスコミ時代のマーラー」は、 戦前の受容に関わりのある記述を含んでいるし、同じ著者の『マーラーとヒトラー:生の歌 死の歌』(二見書房, 1988)でも近衛秀麿やプリングスハイムの記述など、日本国内での受容に関する記述が 含まれていた。
 
 けれども、もっと断片的なものを含めれば、それより以前にも上述のような文章でより包括的に記述される状況を窺わせるような文章がなかったわけではない。私がマーラーを 聴き始めた頃に刊行された青土社の『音楽の手帖 マーラー』(1980)には、戦前や戦後間もなくの時期の回想を含む文章が幾つか含まれていて、小栗虫太郎の「完全犯罪」、ワルターの 「大地の歌」(当然これは戦前にSPで出た1936年の演奏)、レーケンパーの「亡き児を偲ぶ歌」(1928年演奏でやはりSPで戦前の日本で入手できた)あたりへの言及が目立つ。 「大地の歌」の日本初演(昭和16年1月22日)への言及もあるが、何といっても既にこの中に柴田南雄「マーラー演奏のディスコロジー」が収められており、おしなべて戦前のマーラー受容の回想の 様子をある程度知ることはできたのである。
 
 もちろん、上記の文献で言及されている往時の状況を直接に、同時代の文献にあたって確認することも不可能ではない。現在のNHK交響楽団の前身にあたる新交響楽団の機関紙、 音楽雑誌『フィルハーモニー』第12巻第3号(1938)はグスタフ・マーラー特集号で、ローゼンシュトック指揮による第3交響曲の公演の折のもの、同じく『フィルハーモニー』第15巻第1号 (1941)は「大地の歌」の日本初演の公演の折のものである。プリングスハイムの文章があったかと思えば、ベッカーの『グスタフマーラーの交響曲』の部分訳が収められたり、橋本国彦の手になる、マーラー没後25年にあたる1936年にウィーンを訪れた際の体験やら、第10交響曲の1924年の出版への言及やら、既に刊行されていた書簡集(1925)、ロラーの回想(1922)、 ベッカーの著作への言及もあり、自分が撮ったものも含めた写真の説明もありといった非常に情報量の多い文章も収められていて、大変に興味深い記録である。
 
 上記以外にも、これはまだマーラーを聴き始めたばかりの頃であったろうか、戦争中のニュース映画のBGMにマーラーの第1交響曲の第4楽章の冒頭が用いられているのを耳にして驚いた記憶がある。 マーラーがユダヤ人であり、第2次世界大戦中に特にドイツにおいてその音楽が蒙った受難を知らないではなかったから、1941年時点ではまだユダヤ人であるローゼンシュトックがマーラーの「大地の歌」を 初演することができたといった、もう少し微妙な状況についてその時点では知らなかった私には、ドイツの同盟国であったはずの日本で戦争中のニュース映画のBGMにマーラーの 音楽が使われていたというのが腑に落ちなかったのである。
 
 戦後間もなくも含めれば、パウル・ベッカー『ベートーヴェンよりマーラーまでの交響曲』が武川寛海訳で日本音楽雑誌より 出版されたのは1947年、石倉小三郎の『グスターフ・マーラー』が音楽之友社より音楽文庫の1冊として出たのは1952年である。特に後者はシュペヒトの著作に依拠する部分が多いが、 第9交響曲における奇妙な記述など、音楽を耳にするか、せめてスコアを手にすればありえない誤りも含まれており、それはそれで状況を証言するものとして興味深い。
 
*   *   *

 だがしかし、それらを読んだ私が受け止めることを余儀なくされるのは、自分のマーラー受容が、実際にはそうした受容の末端に連なるものであるはずであり、現実に異なる展望の下、例えば私が聴いたマーラーの 実演を演奏した方々の側では確かにそれらと繋がっているものである筈であるにも関わらず、それらがまるで他人事のように疎遠に感じられるという事実である。私は別段音楽的な 環境に育ったわけではないが、それでも若い頃にはフルートを嗜んだらしい父親が祖父から継いだ家業をやめ、会社に就職して郊外の田園地帯で借家住まいを始めると同時に楽器は止めてしまい、 その代わりにポータブルのラジカセでFM放送をエアチェックしつつカセット・テープに録音したクラシック音楽を聴き返すのを耳にしながら育った。しかしそれにも関わらず、マーラーの音楽は、 文字通り一から自分で発見したものだった。父はマーラーの名前を知っていたにも関わらず、 マーラーを決して自分から聴こうとはしなかったからである。もっとも父のライブラリに含まれる音楽で今尚私が、特定の作曲者への拘りを持ちながら聴き続けているのはセザール・フランクくらいなものであって、だからこの事実は単に父と私のそれぞれの個人の嗜好の差異に還元してしまえるものかも知れない。だが例えば学校の音楽室に貼られていた作曲家の肖像画の複製にもマーラーは含まれなかったし、音楽の教科書の年表にも、 「国民楽派の作曲家」シベリウスはあっても、あるいはバルトーク、ストラヴィンスキーやショスタコーヴィチ(あるいは「教育的作品」の作曲者であるという理由でプロコフィエフやブリテンは載っていても)、更には武満の「ノヴェンバー・ステップス」は載っていても、マーラーの名前は なかったのである。
 
 そもそも父の音楽の嗜好は、それではどのようにして水路づけられたのであろうか。父亡き今はそれを確認する術もないし、生前とて寡黙で自分のことを語ることのほとんどなかった 父からそうした話を聞き出せたとも思えないが、例えば父のカセット・ライブラリには含まれない音楽でも、ドビュッシーであったりブルックナーであったりについて父が語った言葉は記憶に残っているし、 そもそもバルトークの音楽(弦楽四重奏曲第四番)やストラヴィンスキーの音楽(ペトルーシュカ)は父のライブラリにも含まれていた。否、中心はバッハから古典派、シューベルトやシューマンなどのロマン派のピアノ曲や室内楽だったとはいえ、 ワグナーやチャイコフスキー、グリーグやスメタナすら含まれていたわけで、マーラーだって名前は勿論知っていたのだから、そこには選択が働いていたに違いなく、その背景には父が生きた時代の 音楽観のなかの或る種のもの、父が共感したタイプのものの反映があるに違いないのだ。
 
 ちなみに私はその後マーラーやシベリウスから始まって、ラヴェルやらヴェーベルンやら武満、果てはスクリャービンといった作曲家のレコードを買い、アイヴズやらクセナキスやらショスタコーヴィチに興味を示すようになっていき、父の嗜好とは全く異なる方向に進んでいった。父は勿論批難こそしなかったけれども随分な趣味だと内心思っていたに違いない。その父が亡くなった後、 父の遺品から件のカセット・ライブラリを引き取った私は、その中に私が世帯を別にした後に父が追加したカセット・テープが含まれ、その追加されたテープにうちにマーラーの第6交響曲と 第4交響曲が含まれているのを見つけて大変に驚いたものである。それは父が「趣味の悪い」息子に対して示した唯一の歩み寄りであったのだろう。一時期の私にとってマーラーが どんな存在であるかを父は傍で見て知っていたに違いないのだから。そしてそうであるならば、父はあのマーラー・ブームを一体どのような気持ちで眺めていたのだろうか。
 
 勿論、個人的な状況を根拠にして言い得ることは権利上はほとんど何も無いには違いない。現実問題としても日本におけるマーラーの作品の演奏は戦後間もなくの時期から私が知らないところで 行われ続けていたわけで、その後のブームも、今日のおけるマーラー受容もそうした継続性の上に成り立っているのは間違いないことであり、それをあたかも無かったかの如くに言い募るのはどのみち不当なのである。 だけれども、それでもなお、同じ文化的・歴史的伝統の裡にいるはずの自分の先達のマーラーの受容のあり方に全くといっていいほど接点を見出せず、共感もできないことに私はやはり 戸惑ってしまう。フィルハーモニー誌の文章やら、青土社の音楽の手帖所収の文章やらに記録された「マーラー経験」は、私のそれとは凡そ共通点を見つけることが困難なものなのだ。 ろくに西欧のクラシック音楽の伝統に身を浸さぬ裡に、遠近感がない状態でマーラーの音楽を聴くことになったという点では、私の置かれていた状況はむしろ戦前に初めてマーラーが 日本で演奏された際に平均的な日本の聴衆が置かれていたであろう状況に近く、その一方でマーラーと地続きであった時代は遠く去ってしまった時点で突然マーラーの音楽に出会った私にとって、 自分が生まれる少し前のマーラー生誕100年の頃から生じていたはずのマーラー・ルネサンスの恩恵をそれと気付かずに蒙りつつも、少なくとも主観的にはそうしたパースペクティヴには全く気付かないままに、 子供ながら徐々に形作りつつあった奇妙な文化的な圏の中に、だがその文脈では違和感なくその中央に位置づけられる存在としてマーラーが突然出現したというのが事態の端的な記述なのだ。
 
 漢詩を読みあさり、カントに魅惑され、ショーペンハウアーを齧り、シェイクスピアを読み散らし、ヘルダーリンに惹かれ、『カラマーゾフの兄弟』にどっぷりはまった中学生にとってマーラーの音楽はあまりに直截に、 その圏の中に響きわたったのである。マーラーのよるべなさ、マージナリティは少し考えれば己のそれとは全く異なるものであるのは明らかだというのに、そんなことにはお構い無しに、そこに自分の周囲の地形と 同相なものを見つけ出し、勝手に自分の同伴者と決め付けてしまったのだ。マーラーより少し前に聴くようになっていたシベリウスや、マーラーと相前後して聴くようになったヴェーベルンの音楽が 自分の波長に合い、琴線に直接響くものをであると感じつつも、でもそれらは自分の外側の、風景の側の響きであると思われたのに対し、マーラーの音楽は自分の中で響くものとして 呑み込んでしまったのである。風景ではなく風景の認識の、感受の様態そのもの、外界の事象への反応の様式そのものとして、マーラーの音楽は比喩でも何でもなく、文字通り自分の一部となったといって良い。
 
*   *   *

 そしてそういう私にはマーラーを一緒に聴く同伴者は不在であった。実は戦前より日本ではマーラーが受容されてきたことを知り、それが世界的に見ても比較的早いものであって、 そこには日本の置かれた特殊な位置のようなものが関係しているということがわかった後でも、だからといって、そうした受容の中に自分を位置づけることはできなかったし、今でも そうすることが出来ずにいる。今や、こんな異郷の過去の音楽に何故関わらざるを得ないのかの方が寧ろ疑問視されて然るべきだと客観的には認識されても、だからといって主観的には済んだものとして 無かったことにするわけにはいかない。そちらの方がアナクロニスムであるとは思っても、現実問題として私にとって現在の「世の成り行き」をやり過すためには無くてはならないものなのである。 私はそこに過去の時代へのノスタルジーを感じることなどできない。それは骨董として賞玩するような「美」とは更に何の関係もない。勘違いや思い込みと嘲笑されようが、あるいはそれは単に 愚かなだけだと一蹴されようが、あいにく頭の悪い私にとっては、マーラーの問題は未だ自分の問題であり続けているし、それは決して解決済みな訳でもない。そしてそういう視界狭窄の 中から眺める日本におけるマーラーの受容史は、それ自体が異国のどこかの過去の出来事のようにしか感じられない。かくして私の前には深い断絶が聳えているのである。
 
 例えば、私がマーラーより前に、シベリウスより前に聴きはじめ、特定の作曲家に関心を持つ最初のケースであったセザール・フランクの場合には、上述の通り父親のコレクションの中に フランクの作品が数曲(交響曲二短調、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ五重奏曲の3曲に過ぎないが)含まれることもあり、事実問題として過去への辿る経路が存在した。また フランクの音楽が学校の音楽室に響くことはなくても、音楽史の中でフランクは確固たる存在だった。勿論フランクについての情報は今もそうだが、その当時も極めて乏しいもので、 辛うじてビュアンゾのフランク伝を田辺保が訳したものが読めたくらいだったのだが、それは過去への遡行を妨げるものでは決してない。実際に調べてみれば寧ろ最近よりも戦前の方が フランクの音楽は真摯に受容されていたらしい節も窺われるのだ。例えばダンディのフランク伝が(一部抄訳とはいえ)翻訳されたのは昭和7年のことだし、フランクの音楽のうちの何曲かはすでに昭和の初期に 来日した演奏家のリサイタルで、あるいはレコードによって日本で聞くことができたようだ。つい最近になって知ったことだが、例えば河上徹太郎のフランク論は、私が別のところに書いているような自己の経験とは 直接には違った文脈でではあるかもしれなくても、数十年後にそれと知らずにフランクの音楽を聴いた子供が確かに聴き取った音調と類似した何かを確かに聴きとっていたことを告げているように 感じられるが、それもまた昭和の初期に書かれているのである(「セザール・フランクの一問題-音楽家の自意識と旋律」の初出は昭和5年)。河上と親しかった堀辰雄の文章にもセザール・フランクの ヴァイオリン・ソナタに言及したものがあるのは随分前から知っていたが、河上徹太郎の文章を読んだのは最近、ふとした偶然によるもので、だから河上の文章を読んだときには非常に驚いた。 彼も言っているが、そのようなことを言っている人を私もまた他に知らなかったし、彼が聴き取ったあるものを、確かに私も聴き取っているのは確かだからだ。だが、この点については別に主題的に論じる価値があるので、 稿を改めて扱うことにしたい。河上徹太郎に関連して更に言えば小林秀雄はフランクを聞いて吐いた経験を河上の全集によせた跋文で披露しているそうだし、こちらは河上の回想によれば、 小林秀雄の有名なモーツァルト論の背後にもフランクの音楽の影があり、更にはそれが晩年に至るまで伸びているにも関わらず、小林秀雄はそれをある意味では抑圧し続けたらしいことをこれまた最近知ったが、 このことは、河上徹太郎のフランク受容のある側面と照らし合わせるに、小林秀雄の音楽論に私が非常に強い反発を覚える点と密接に関係しているようで腑に落ちてしまった。 だが、マーラーに関しては寡聞にしてこうした話は聞かない。小栗虫太郎の小説は私には疎遠で何の感興も呼び起さないし、戦後マーラーといえば決まって言及されるのが(マンの原作ならまだしも) ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」なのだから、私には取り付く島がないのである。是非はおいて、とにかく事実としてそうしたマーラー受容と私のそれとは全く相容れないのだ。 フランクの音楽もまた、戦時中のニュース映画のBGMになっていたことに気付いて、戸惑いを覚えた(フランクは正確にはベルギーの生まれではあるけれど、敵国であるフランスの音楽の筈だが、これまたヴィシー政権などとの関連で微妙な部分が あったのかも知れないが、そんなことはわからないから、不思議に思う訳である)という点で実はマーラーと共通しているのだが、マーラーの音楽が同じような状況で響いた事実は知りえても、どのようにそれが響き、 どのような反応を起こしたのかはマーラーの側については杳として知れないのである。
 
 それとも、私が未だ知らない日本のどこかに同伴者がいたのだろうか。その人の声が届く圏域に私がいないだけなのだろうか。アドルノが見事に指摘したとおり、カフカの「審判」のヨーゼフ・Kの 代弁者であるマーラーには投壜通信は如何にも相応しい。マーラーその人が投げた壜は確かに手元にあるけれど、それはあまりに重過ぎて、自分の手に余り、受け取っただけのものを 自分が誰かに伝達する自信などありはしない。その重みを受け止めるに相応しい人が過去の日本には必ずやいたに違いないのだが、その人からの壜は私の岸辺には未だ辿り着いていないだけなのだろうか。 いずれにしても、それゆえ私にとって「マーラーの時代」は既に去ったものであるか、未だに到来していないものに留まっているのである。ともあれ私はまだ、自分の壜を流す作業を止めることはしばらくできそうにない。 或る種の自己中毒、手段と目的の転倒と嘲笑されようと、このような文章を書かずには私は生きていないのだ。そしてこのような無価値で拙い文章であっても、ごく稀に拾い上げてくれる方がいらっしゃる。 そう、今、ここにおいてなら私には確かに同伴者がいるというのはこれまた紛れもない事実である。私は多分、戦前・戦後の日本のマーラー受容のメイン・ストリームからは遠く離れたところにいるのだろう。 だけれども、そんな私の声も、時折は微かに響くことがあるらしい。だからそうした響きを聞きつけて下さる方々に感謝の気持ちを篭めつつ、やはり書き続けていこうと思うのだ。(2010.6.27)

2010年6月20日日曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第8回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第8回定期演奏会
マーラー生誕150年記念/ガリ・ベルティーニ・メモリアル・コンサート(氏の没後5周年によせて)
2010年6月13日 ミューザ川崎シンフォニーホール 音楽ホール

マーラー 交響曲第7番ホ短調[最新校訂版(2007年:R.クビックによる)使用]

井上喜惟(指揮)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ

私にとって、コンサート・ホールでマーラーを聴くのは20年ぶりのことになる。20年前はいわゆるマーラー・ブームの渦中だったが、 当時の私はコンサート・ホールで聴くマーラーにほとんど入り込めず、挙句の果てに、コンサート・ホールでマーラーを聴くことのみならず、 コンサート・ホールを訪れることとマーラーを聴くことの両方を断念することになったのだった。理由は色々とあるが、ようやく到来したらしい 「マーラーの時代」の只中で、次々と提供される「今日のマーラー」とやらが、自分が聴き取りたいと願っている音調を備えておらず、 コンサート・ホールの熱狂の中で自分の外で、むしろ「世の成り行き」の側の一部として鳴り響くという現実に耐えられなくなったと言えば 端的な説明になるだろうか。
その後、自分の中に、自分の一部としてそれがどうしようもなく埋め込まれていることを思い知らされて、 マーラーの音楽を再び聴くようになりはしたし、一方で数は限られているとはいえ、コンサート・ホールに足を運ぶようにもなった。 それは主として三輪眞弘の音楽のように、同時代の、しかも実演で聴くことと録音媒体で聴くことの差異そのものが問題になるような音楽を 聴くためにであって、過去の異郷の音楽を聴くためではないようだ。例えばショスタコーヴィチの音楽は異郷のとはいえ、私が生まれた時には まだ生きていた作曲家のそれであって、時代的には少なくとも地続きの筈であり、またその音楽のもつ或る種の「公共性」(ここではそれに ついての価値論的な議論は行わない)ゆえにコンサート・ホールで少なくとも相対的には「聴きうる」ものと思っていたが、最近、そうとは 感じられない機会が連続し、更には生活の糧を得ることに追われ、コンサート・ホールという制度が要求する時間的・体力的・精神的な 余裕が自分になくなってしまったこともあり、再びコンサート・ホールから足が遠のきつつある。端的に言って、今ここで、自分が置かれている 物理的・身体的・精神的制約の元で、なぜわざわざその演奏を聴かなくてはならないのか、という気分になってしまう事態に至ってしまったということだ。 こう言えば身も蓋もないが、要するに、コンサート・ホールでの音楽の聴取が単なる娯楽なのだとしたら、それは私には全く割りの合わないものであって、 何某かのお金を払った上で、決められた時間に決められた場所に赴くことを強制され、一定時間椅子に座っていることを強制されるのであれば、 それは娯楽とは違った何かであって欲しいし、単なる消費で済ますなど真っ平御免なのだ。
まさにコンサート・ホールで演奏されるための音楽である筈のマーラーの作品をそのように聴けないというのは、 LPレコード、FM放送、CDといった媒体によってマーラーを聴いてきた世代ならではの「症例」と見做すべきかも知れない。 より根本的には自分の中で鳴り響く音が、他者が自分の目前でリアライズする音響と齟齬を来たすのに耐えられないという 全くもって傲岸不遜な理由があるに違いないのだが、それならCDを聴くのだって耐えられないはずで、だからコンサート・ホールという 公共の場で、他人が自分の目前で演奏するマーラーを、他の聴き手と共有するということが、マーラーの音楽の持つ「私性」に 背馳するように感じられるというのがあるのだろう。演奏会というのは所詮はエンターテイメント、娯楽の一種であって、 マーラーはいわば目玉商品の一つとして「消費」されているのだろうし、端的にそうした制度の外部に出ることなど出来る筈はないのだが、 マーラーの音楽そのものの中に、そうした「世の成り行き」の只中にあって、「世の成り行き」の外を志向する姿勢があって、 それに自分が惹きつけられているのであってみれば、マーラーを聴くことを単なる「消費」に還元してこと足れりという訳にはいかないのだ。
こうしたマーラーを聴くことの難しさについて考えた挙句の結論は、演奏者に対して聴き手たる自分がコミットメントすることであった。 勿論、これは私固有の問題であって、一般化しようとするつもりは全くないし、他人のマーラーに対する接し方を 判断するための基準とすることは思いもよらないことではある。その上でマーラーを再びコンサートホールで聴くための条件として、私がマーラーの人と音楽に対して コミットメントしているように、演奏者もまたマーラーに対してコミットメントしていること、つまりは演奏者がマーラーを弾くことを望み、 必要としていること、そして自分が、そうした演奏者の演奏に対して、何某かの対価を払って出来上がった「製品」を受け取るのではなく、 演奏を作り上げていくプロセス自体に何らかの仕方でコミットすることができれば、コンサートホールにわざわざ赴き、音楽を聴くという経験は 全く質の異なるものになるだろう、と思われたのである。勿論、チケットを買うこと、コンサート・ホールに赴くこと自体が、結局のところ 演奏を作り上げていくプロセスも含めた演奏に対するコミットの一つの仕方であるということだって出来るだろうが、それが錯覚であったとしても、 マーラーの音楽を骨董品のように、過去の、遠い異郷の文化的・社会的文脈に位置づけて理解することによって我有化するのではなく、 自分が作品を取り込むことによって、作品に埋め込まれたマーラーの認識の様式を、反応の様態を自分の中に移植すること、 マーラーに他者として対峙し、そうすることで逆に自分が少しだけマーラー「になる」ことが私にとって問題であるのであってみれば、 マーラーの音楽の演奏に対しても、完成品を対価を払って受け取る以上の何かが必要に感じられたのである。
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だが現実には、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの第8回定期演奏会について言えば、結果的には通常のコンサートを聴くのと ほとんど変わるところがなかったということになるだろう。違いがあるとすれば、演奏者のマーラーに対するコミットメントに関してであって、 このアマチュア主体のオーケストラについてはそれは明らかであり、それどころか寧ろ私など足元にも及ばないレヴェルであることは疑いえないことなのである。 仮に私が、マーラーの作品のあるパートを、一緒に演奏する方々に迷惑をかけない程度に弾ける技量を今尚保持していたとしても、 私にはプローベに継続的に参加するだけの時間的・体力的・精神的な余力が残されていないのははっきりしているのだ。 であって見れば、そうしたコミットメントに対する敬意と賛意を表するためにコンサートホールに足を運ぶことが私にとって可能な コミットメントの仕方であり、まさにそうしたことを考えながら、幸いなことに時間的な余裕にも体調の小康にも恵まれた日曜日の午後に、 これまた幸いなことに、その種の音楽ホールとしては比較的在所から近いミューザ川崎に向かったのである。
上記のような経緯からもはっきりしているように、私は普通の意味でコンサートを聴きにいった訳ではない。だからいわゆる演奏会評を 書くことなど思いもよらないし、それだけの素地が私にないのは明らかだから、演奏がどうであったかを客観的に書くこともしない。 多分、それらは他の、その資格のある方がされるだろうし、演奏「そのもの」はこれまでそうであったようにCD化されるだろうから、 「客観的」な記録としてはそれを聴けばいいということになるだろう。勿論、演奏者にとって恐らくはそうであるように、私にとっても そのCDの価値は、「客観的」な記録などではなく、その日にそこで起きたこと、私の中で起きたことを(不完全ではあっても)再生する きっかけのようなものといった位置づけになるのだと思うが。
言い方を変えれば、6月13日にミューザ川崎の音楽ホールで経験したことをもって、コンサート・ホールでのマーラー演奏「一般」について の私の考え方が変わった訳ではない。私はこの経験が些か特殊な条件に拘束されていて、その拘束が経験の質に影響したことを否定しない。 アマチュア主体のオーケストラを演奏を、プロの演奏と比較して精度を云々するのは筋違いだろうし、「客観的」にはこの演奏よりも 「良い」演奏は幾らでもあるということになるのかも知れない。だが、だとしたら私には、そういう価値論的な座標系における「良し悪し」など せいぜいが副次的な意味しか持たないということになるのだろう。ある意味では、かつて私がコンサートホールで聴いた(恐らくは 「客観的」にはもっと精度の高い)マーラー演奏に何故感動できなかったのかの一部を確認できたような気がしたし、その一方で コミットメントについての昨今の自分の考え方がそんなに間違ってはいなさそうだということの確認もできたように思える。つまるところ、 マーラーの音楽がコンサートホールで響くことの意義が、豊かな実質を伴って明らかにされる現場に立ち会うことができたのだ。

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いずれにしても20年ぶりにコンサート・ホールでマーラーの音楽がリアライズされる現場に立ち会った印象は、主観的にはこれまでのコンサートでの マーラー演奏のどの聴取にも優る、素晴らしい経験であったことはここに記録しておきたいと思うし、もう少し具体的に、自分には どのようにその演奏が響いたかを下記に書きとめておきたいと思う。この演奏は、マーラーの音楽のリアリゼーションが説得力を備えるために必要な 何かを確かに備えていると感じられたし、常にというわけではなくても、マーラーの音楽の持つ「音調」を捉えていたと思う。再び傲岸不遜な 言い方をすれば、私の中に埋め込まれている音楽と、当日コンサートホールに響いた音響とが確かに共鳴し、圧倒される瞬間に 事欠かなかったのである。
テンポの設定はこれまでのCDで確認できる同じ演奏者による他の曲の演奏におけるのと同様ゆっくり目であったが、緊張感は保たれ、音楽の流れが 停滞することはない。幾つかのテンポを交換させることによって音楽の重層的な構造を明らかにし、複数の時間の流れの質の 差異を際立たせ、そうすることによって遷移していき、交替しながら、再現するたびに少しずつ変容していく風景の変化を支える 巨視的な法則の存在を感じさせることに成功していたのは、指揮者の解釈の卓越を証するものだろう。
そういう側面がとりわけ鮮明に感じられたのは、第3楽章のスケルツォとトリオのテンポの設計、同じく第5楽章のロンドとエピソードの テンポの設計で、間に挟まれるNachtmusikの底流として、第1楽章から第5楽章へと流れていくブリッジの役割を第3楽章が 果たしていることがはっきりと感じ取れたし、急がない、だが眩いばかりの響きの色彩に富んだ第5楽章の設計は、全曲のコヒーレンスを 浮かび上がらせ、この曲を端的な失敗作と見做す立場や、とりわけ第5楽章に或る種の「確信犯」的失敗を見出そうとする立場に 対する極めて説得力のある反例たりえていたと思う。指揮者はパンフレットの文章でメンゲルベルクのテンポの記録と並んで クレンペラーの晩年の録音を参照していたが、私が思い浮かべたのは、この曲を失敗作と考えていたクックの認識を改めさせたらしい 1960年のバルビローリの演奏記録である。要するにコヒーレンスを実現するのは、単純な演奏時間の長短ではなく、全体と部分の 関係におけるテンポの推移、ないし交換(不連続にレイヤーが切り替わることがあるので)の把握の問題なのだと私には思われる。
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今回の演奏の特色の一つに、近年精力的に行われている国際マーラー協会のマーラー全集の再校訂作業の一環である 2007年のラインホルト・クビークの校訂版を用いていることが挙げられるだろう。私は残念ながら事前に楽譜にあたることができず、 いわばぶっつけ本番で演奏を聴いたのだが、パンフレットに指揮者の井上さんが書かれていた変更点のうちの 幾つか(具体的には19小節目のチェロとファゴットの3連符の最後の音の変更と第1楽章266小節Subito Allegro I以降の テンポ設定、336小節の第2ヴァイオリンの改変の3点)は、聴いていておやっと思って、後で確認して新校訂版に 依拠したゆえのものであることが確認でき、非常に興味深く感じられた。(正確を期せば3点目については明らかにおかしいと思った というよりは、対向配置であることもあり、何となく「あれ、こんなだったかな」と感じた程度だったが、こういうところも コンサートならではで、録音で聞き分ける自信は私には全くない。)
ちなみに上述の3点について、所蔵している自筆総譜のファクシミリはどうなっているかと思い確認してみた結果を以下に メモしておく。
  • 第1楽章19小節:手前のト音の真上よりは少し左上に臨時嬰記号が書かれている。高さとしてはト音につけられた とするよりはその後のイ音に付けられたとする読みの方が妥当に思われる。
  • 第1楽章266小節:明らかにZiemlich hastig。ruhigには読めない。前の校訂版が別の資料に依拠していたとしか 思えない。
  • 第1楽章336小節:ここは厄介な箇所で、どうやら訂正した形跡が見られる。第1音と第2音の間にタイはあるようだが、 それとは別に、第2音の前にはオクターブ下あたりからのポルタメントの指示のような線があり、第1音の周辺には訂正した 結果消去をしたらしい痕跡が認められる。2音目のアクセントは(第1ヴァイオンもそうだが)ファクシミリにはない。 更に、誰の筆跡かわからないがクエスチョンマークもついていて、ここの部分、特にポルタメントのような線をどう読むか、 判断に苦しむ部分のようだ。全くの臆測だが、私の読みでは、マーラーは、このファクシミリでは 第2ヴァイオリンも第1ヴァイオンに追いつくように、2音目で記譜よりオクターブ上の音を弾くように8vaの記入により指示しているから、 件のポルタメントは、1音目の音高、即ち記譜された通りの高さから、2音目のオクターブ高い音へのポルタメントを 要求したのではないかという気がする。すると1音目と2音目を結ぶのはタイではなく、スラーと考えるべきだということになるのではないか。
なお、いずれも初版の出版譜と前の全集版、更にはレートリヒの版との間には上記3点には違いは見られないが、 ファクシミリは寧ろ今回のクビークの校訂を裏付けるものであるように窺える。ただしこのファクシミリは、出版譜とは 異なる部分が大変に多く、かなり前の段階の資料と考えるべきもののようであることは留意されるべきだろう。一例を 挙げれば、終楽章の練習番号268番のあの「調律されていない金属の板」の部分のNBが初版譜にはないのは良く知られていると思うが、 所蔵のファクシミリにはそもそもパート自体が存在しない。練習番号269の大太鼓とシンバルは下に段を足すかたちで後から追加されている のが明らかなのだが、「調律されていない金属の板」はそうですらなく、全く存在していないのである。従って そもそもファクシミリの解釈が困難な最後の点については勿論、他の2箇所についても、ファクシミリだけ判断するのは危険で、 前の全集版の校訂の報告、今回のクビークの校訂報告を参照する必要があるのは勿論だが、恐らくはそれらが 参照しているに違いない他の資料との比較検討が必要だろう。
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第7交響曲は、マーラーの作品の中では比較的コンパクトな編成の管弦楽のために書かれているが、アマチュア主体の オーケストラということもあり、実質的に倍管に近い編成のパートもあったようだ。しかし特に中低音が充実している(特に コントラバスとヴィオラの存在感は目覚しいものがあった)弦楽器とのバランスは不自然ではなかったし、 ソロ・パートが多く「歌う」ことを求められるティンパニとグロッケンシュピール以外は 調律されておらず非楽音的な側面の強い打楽器群、これまたオーケストラの楽器としては特殊な第4楽章に用いられる マンドリンとギターの響きも埋没することなく、広大な色彩のパレットと繊細で透明な響きの両立という、とりわけこの作品に 顕著な特質も不足なくリアライズされていたと思う。
管弦楽のための協奏曲の先駆の一つとも見做されうるようなソロ・パートが頻出し、複数の楽器が重ねられていても、 それがそのまま音響的な色彩のパラメータに直結するような管弦楽法の結果、奏者への負担は極めて大きなものがあり、 パートによる出来不出来が結果として出てくるのは、一発勝負の実演であるゆえ仕方のないことだし、 既に述べたように、いくつかの層が交替しながら並行して動いていくような構造の作品故に起きる頻繁なテンポの変更、 詳細を極めるアゴーギグの指示に対して大管弦楽が敏捷に対応するのは極めて困難で、それゆえプロの演奏でも、 リハーサル不足による拍の取り方の読み違えによる混乱が起きたかと思えば、その一方で安全運転に徹するあまり テンポの交替を平板化したような演奏もあり、更にはアゴーギグに対するアンサンブルに神経質になりすぎた挙句、肝心の 楽曲の持っているベクトル性が損なわれ、緊張と弛緩のコントラストがなくなってしまうこともまた、まま起きるようだが、 アマチュアのオーケストラで実現できる精度の範囲で指揮者の意図が徹底され、音楽の実質が最大限にリアライズされる という点で、この日の演奏は目覚しい成果を挙げていたように私には感じられた。
細部の解釈とかテンポ設定の問題ではなく全体として受けた印象でこれまでの中で最も近いのは、 奇しくもベルティーニがベルリン・フィルを指揮したものをFM放送でかつて聴いた時の印象だろうか。今回の演奏でも 楽章間でチューニングを行っていたが、ベルティーニも楽章間でのチューニングを厭わなかったと記憶している。 にも関わらず次元の豊かさと全体のコヒーレンスの調和、とりわけ終楽章の説得力という点ではこれは際立った演奏だったが、 そうした点に通じるものを、この日の演奏に見出すことができたように思えるのだ。
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演奏精度を超えた部分に演奏の成功の成否があるというのは、やはりその作品に何かが欠けているということを 証しているのだという意見に対して抗弁するつもりはない。もしそうならば、おしなべてマーラーの作品すべてについて、100年後の 異郷で演奏し、聴き続ける場合にはそれが当て嵌まると思えるからであり、そういう意味では第7交響曲よりも そうした傾向が強いマーラーの作品は他にもある。だがそもそも、私個人としてはマーラー以外の過去の異郷の音楽は 更に疎遠であって、個人的な経緯もあって、唯一辛うじてマーラーのみがアクチュアルな問題をつきつける他者性を 喪っていないとも言えるのだ。それはこの曲がマーラーの生前にどのように受容されたかといった話題ともまた、別の 次元の話であって、寧ろ私には、シェーンベルクのあの擁護、アドルノをすら戸惑わせたあの第7交響曲の擁護こそ、 時代を超えて共感できる立場に思われるのである。
もともと私は個別の部分の演奏精度があまり気にならない(そうでなければ 歴史的録音の幾つかは聴くに耐えないものになるだろう)こともあって、寧ろこの曲の演奏に説得力を持たせるために 不可欠な何かが、この演奏には確実に備わっていることが感じられたことに圧倒された。もっとも個別の部分をとっても 思わず身震いするような魅惑的な瞬間には事欠かない。一例を挙げれば第1楽章の練習番号60番以降、 コーダに至るまでは、オーケストラ全体が、いわば「入った」状態になったことがありありと感じられて、今思い起こしても その感覚がまざまざと甦るような、圧倒的な経験ができたように思える。
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終演後は体調を慮ってすぐに帰途につきはしたが、私は帰宅して後、オーケストラの事務局に対して上記の印象の一部を 御祝いの言葉ともどもメールで送った。来年に予定されている定期演奏会では第9交響曲を取り上げるとのこと。 是非、演奏会に立ち会いたいと思うのは勿論だが、仮にそれが何かの偶然で叶わないことが生じた場合でも、 マーラーの音楽という「ミーム」を1世紀後の異郷で継承していく隣人として、このオーケストラに対するコミットメントは 続けていきたいという気持ちを再確認させる演奏会であった。そして最初にも述べたように、コンサートで音楽を聴くことを 消費に終わらせて、不確かであるばかりか、存続性については更に疑わしい「感動」とやらを対価として得ておしまいではなく、 それがつたない、ほとんど無価値なものであって、書かれて公開されたという事実性のみにしか拠り所がないものであっても、 自分が受け取ったものを無にしないために、こうして感想を公開する次第である。(2010.6.20)

2010年6月6日日曜日

マーラーの「詩と真実」

21世紀に日本に生きる人間がマーラーの幼年時代を思い浮かべるのは難しい。150年前の異国の風景をどのように 再構成したら良いのか。けれども、例えば第1交響曲のあの序奏を聴けば、そうした想像をしてみたい気持ちを抑えるのは難しい。
勿論それはマーラーが実際にかつて見た風景そのものではないだろうけれど、第1交響曲に限らず、おしなべてマーラーの音楽は (彼自らそう語ったように)作曲者自身の経験と密接な関連があるのは疑いない。同じ風景を見ても、そこになにを見出し、何を 受け止めるかは人それぞれだろう。それゆえ、多かれ少なかれ他の音楽についても言えることではあるとはいえ、とりわけマーラーの ような音楽の場合には、風景の感受の「如何にして」への共感を聴き手が持てるかどうかが、その音楽の受容にとって決定的な 意味を持つのだろう。そうして受容されたものは、今度は聴き手の体験のあり方に応じて様々な変容を経て聴き手の中に 埋め込まれていく。絶対音楽と標題音楽の論争の脇で、享受と享受の伝達としての音楽、享受の享受といったプロセスを 考えてみるわけだ。これはもちろん、その音楽がどのような「意図」をもって書かれたかという(例えばフローロスが拘りそうな)議論とは とりあえず関係ない。強いて言えばマーラーの音楽が持っている自伝的な側面が、こうした聴き方を相対的に容易にするというのは あるだろうが。
だがここではそうした享受に纏わる脈絡は一旦捨象して、マーラーが見た筈の風景に如何にして近づくことができるかを問題にしよう。つまり、 マーラーの隣にいた誰かが見たかも知れない風景、もし私がマーラーの隣にいたら見たかも知れない風景へのアプローチに問題を 変換してしまおう。そうしたとき、マーラーの時代には既にあった写真、伝記作者たちが蒐集した当時の状況を覗わせる資料と いったものが手がかりとして思い浮かぶ。
例えば手元にある資料の幾つかには、今日(といって撮影されたのはもう数十年前だが)のカリシュテやイフラヴァのカラー写真がある。 マーラーの生まれた家は、その一部が1937年に消失したため改築されたという事情もあり、全て元のまま、というわけではないにしても保存されているし、 イフラヴァでマーラーの家族が生活した建物も残っている。これが決して「当たり前」ではないのは、自分の幼少時の風景の多くが最早残っていない場合を 思い浮かべればわかる。私が幼少時に生活した家はもう残っていないし、周囲の風景もかなり変わってしまい、自分の記憶の中の風景は最早自分の中にしか 残っていない。その一方で、当時撮影した写真でもあれば、自分が見た視線の高さ、自分が近くした物体の大きさそのものではないにしても、 当時の様子を知ることはできるだろう。
そして同じことが幸いマーラーの場合には可能である。1912年頃に撮られたらしい写真が残っているのだ。もっとも、 実はマーラーの家族がカリシュトからイーグラウに引っ越したのはマーラーが物心つく前(生後わずか4ヶ月程)だから、カリシュトの風景についてマーラーが どのような記憶を持っていたかはわからないということになるだろう。あるいは物心ついてから改めてカリシュトを訪れ、自分の生まれた家の 周りを歩いたことがあっただろうか。
イーグラウの街についても同様に、マーラーが住んだ家、中庭〈明らかに時期の異なる2種類〉の写真、内部の階段の写真もあれば、市立劇場やシナゴーグ、 街の広場の写真もあれば、当時の市街の平面図(地図)もあり、マーラーの居宅が街のどこにあったのかを確認できたりもする。写真だけでなく、恐らく 写真の代替の役割をしたのであろう版画まで範囲を広げれば、街を郊外から眺望したもの、郊外の風景などもあり、そこをマーラーが訪れた証拠など ありはしないけれど、マーラーの幼年時代の周囲の風景を想像するよすがにはなる。
幼少時のマーラーの写真としては、1865年頃、すなわち5歳の頃のマーラーが椅子の脇に立ち、右手には帽子を持ち、左手で椅子に置かれた楽譜を 押えている写真が有名だろう。更には1871年に撮られた写真、その翌年、従兄弟のグスタフ・フランクと一緒に写っている写真があって、ここまでが イーグラウに住んでいた時期のマーラーを写したものである。(実は1878年と1881年のマーラーを写した写真も撮影場所はイーグラウのようで、帰省の折に 撮られたものらしいが。)
これらに加えて、バウアー=レヒナーやアルマの回想録中にマーラーの回想として記録されている幼少時のエピソードが加わり、例えばド・ラ・グランジュが あるいはフランクリンが筆の力で描き出す風景が加わる。私が心の中で構成するマーラーの幼少時の風景は、これらのものに基づくパッチワークである。 こうした作業が可能なのは、私の場合マーラーをおいて他にいない。理由は単純で、それをするための資料がないからである。だがマーラーの場合についていえば、 自分自身の記憶だって断片的な映像とエピソードの集積であることを思えば、そんなに条件は悪くはないとも考えられる。 勿論、一方にはあるクオリアが他方には全く欠落しているという決定的な違いはあるが、それをおいてもマーラーと自分との間にある距離の大きさを 確認することが出来る程度の厚みはあるといえるだろう。 そしてその厚みは、子供のころにマーラーの音楽を聴いて、音楽によってのみ自分が見出しえたと思いなし、錯覚した風景とは勿論一致しない。
だがだからといって、原理的には可能にも関わらず、ここで私が簡単にシミュレートしたような方向性から背を向け、オペラやら演劇の多くや一部のバレエの 演出と同じように、演出家なり監督なりが今日に相応しいとされる「読み替え」を行って自己顕示を行うための素材としてマーラーを利用したとしか 思えないケン・ラッセルのおぞましい映画や、それ自体には根拠が全くないわけではない連関を逆手にとってトーマス・マンの小説にマーラーの虚像を 重ね合わせることにより、結果的にマンの原作に対する読み替えの成否などそっちのけでマーラーについての誤解を蔓延させるについてはどうやら著しい 「成功」を収めたらしいヴィスコンティの「ヴェニスに死す」やらを、生産的な受容として顕揚することなど真っ平御免である。とりわけ一応は「伝記映画」という 触れ込みの前者には、そんなところだけには俊敏に反応するジャーナリスティックなセンスを誇示せんばかりに挿入されたわずか3年前のヴィスコンティの 「ヴェニスの死す」の映像のパロディとともに、こちらは「創作」と思しきマーラーの幼年時代のエピソードらしい映像が幾つかでっち上げられている。 それらも含めて総じてケン・ラッセルがマーラーの伝記を渉猟し、細々としたエピソードを調べ上げた上で「フィクション」としての味付けとやらをしている点を 好意的に評価する向きがあるのを知らないではないが、それでもなお私がそこに見出すのは、きちんとした考証を行う手間の方は割愛し、 その代わり本人は自信たっぷりに映画館のスクリーンで多くの人間にそれを晒す価値があるとどうやら思っているらしい、そしてこの映画を評価する向きには マーラー本人の強迫観念のもたらしたファンタスムの的確なリアリゼーションということになるらしい、勝手気儘な空想に過ぎない。 どうやらこの作品の独創性なり価値なりの根拠となるらしい「フィクション」化についてもまた、私には寧ろ想像力の貧困とマーラー本人が備えていたらしい 人格的な高潔さや精神性に対する底知れぬ悪意をしか感じ取ることができなかった。それ自体は決して悪い演奏ではないハイティンクが指揮する コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏するマーラーの音楽が、その音楽を生み出した本人を肴にした、共感すら疑わしい(もしそこに「共感」があると主張するなら、 それは「共感」ではなく、寧ろ自分勝手な思い込みの類に過ぎないといいたいように思う)恣意的な映像に重ね合わされるのは私にとって苦痛以外の 何物でもないおぞましい経験だった。こちらはケン・ラッセル本人には関係ないが、日本での映画の公開があのマーラー・ブームの時期であったことも忘れてはなるまい。
勿論、自分がマーラーに対して抱いているイメージだって偏っているだろうし、それが権利上正当なものだと主張するつもりはない。だが私は、それも一つの 偏った見方だとしても、マーラーを「聖人」として描き出したシェーンベルクの側に断固として与したいと思う。意地悪に冷静な人は、そのシェーンベルクが 存外ケン・ラッセルの映画を評価したかも知れないではないかと混ぜ返すかも知れないが、こればかりは、頼りになるのは自分の直観だけであっても、 決してそんなことはなく、もしシェーンベルクが存命であれば(カーチャ・マンとアンナ・マーラーの抗議の方は「事実」にまつわるものであるからやや 趣を別にするのだが)、かつて「ヴェニスに死す」に対して「マーラー派」の少なからぬ人間が示した強烈な(ヒステリックと他人が言うかも知れない)反発と抗議に 恐らくは与したであろうように、ここでも同じ反発が繰り返されたに違いないと私は確信を持って言いたい。かつても「マーラーといえば「ヴェニスに死す」」のような 反応やら、マーラーは嫌いだが「ヴェニスに死す」は例外であるといった論調があって、今よりもずっと党派的な偏狭さの中に無自覚に居た私は随分と憤慨した ものだが、今日ではそもそもそんな騒動があったことなどすっかり忘れられ、受容史の一齣として年表の中に納まってしまったかのようで、それはそれで 違和感を感じずにはいられない。
勿論、だからといってマーラーの故地を訪れる式のドキュメンタリーの類が望ましいと言いたい訳では決してない。返す刀で例えばレゾフスキーの映画を顕揚しようと いうわけではないのだ。私は単に、例えばマーラーの幼年時代というのがどんなものであったかを感じとってみたいだけなのだ。事実の集積は必要だ。だけれども、 それは状況証拠に過ぎない。マーラーの回想自体、マーラー自身が意識的・無意識的に加えた変形を経たものであって、「事実」とは異なる、というよりは、 マーラーがそのように語ったものの別の展望を示すことが可能であるような類のものであることに留意すべきだ。マーラーがそのように受け止めたという事実と、 だが状況は他人の目から見たらこのようであったという事実の両面を考慮すべきなのだ。
マーラーの人と音楽の関係の特異性についても、それをむやみに強調し、安易な伝記主義による関連づけをするような姿勢に対する懐疑は必要だろう。マーラーの音楽に 過剰な物語を押し付けるのは、音楽から作曲者に対する伝説を仮構する(マーラーの場合なら、子供の死の歌にまつわる錯誤が典型だろうか)のと同様の滑稽さを 帯びている。その一方で、マーラーの音楽にある自伝的側面、それが「体験」に基づいたものであるという側面を軽視することも別の極端であって、 表面的には伝記的事実と直接的に関連づかないとしても、それでもなお作曲者その人によって「生きられた」ものである点に私は拘りたいと思う。
マーラーは何かの信条を表明することを「目的として」、音楽をその「手段」と したのではない。そういう意味ではマーラーの音楽は狭義の標題音楽ではない。だがそれは、例えば「カラマーゾフの兄弟」が、ドストエフスキー自身の経験、彼が 書き留めた様々な現実の事件を素材とし、ドストエフスキー自身の信仰に対する考えに導かれながら、物語固有の世界を備え、固有の力学を持ち、 一つの世界を形作っているのと同じだ。幾ら素材を渉猟しても、いくらドストエフスキーの意図を実証的に跡付けたとしても、それは「カラマーゾフの兄弟」そのものの 読解とは別であるのと同様、マーラーの音楽を聴くために、素材の渉猟や意図の実証的な跡付けが必須なわけではなく、寧ろそれは端的に別のものと考えた 方が寧ろ正しいのだろう。あるいはこれまたマーラーの読書の中核を占めていたゲーテの創作と生における「詩と真実」を考えてもいいだろう。
だがしかし、私は音楽だけでは不充分なのだ。少なくともマーラーの場合だけは、音楽ではなく、音楽とは別に、そういう音楽を作り出した人を、その人の生を 探ることを止めることがどうしてもできない。極論すればマーラーの音楽の音調は半ば私自身であるといっても良い程度には、自分の中に埋め込まれてしまっている。 だがこれは私「の」音楽ではなく、ある他者の作り出したものなのだし、実際、埋め込まれつつもそれは時折、他者の声として私の中で響くことがある。私自身の 幼年時代と違った幼年時代の印象が、音調の中にこだましている。克明さにおいても、クオリアの強度においても自分がかつて見た風景とは決定的な違いを 持ちながら、マーラーが見た風景が、マーラーが風景を受容したときの情態が、私の中に甦るような気がするような一瞬が確かにあるのだ。それが「客観的に」 どういう価値を備えているのか、そんなものが世代を超えて伝達されることにどういう意味があるのかは杳として知れない。だが、そうしたことが起きることは 私を非常に強く魅惑する。マーラーの愛読書でもあった「意志と表象としての世界」の第3部(特に第52節)の中でショーペンハウアーは音楽を「意志全体の 直接の客観化」であるとし、音楽が表明しているものを「現象ではなく、内面的な本質であり、あらゆる現象の即自態であり、意志そのものである」としている。 レムが「ゴーレムXIV」の講義に仮託して述べているように、ショーペンハウアーは過度の一般化をしてしまったに違いないし、だから粗雑にも「意志」と ショーペンハウアーが呼んだものに、現代なら可能になった肌理の細かさを回復させる必要があるだろうから、それに応じて上述の音楽についての言及も 翻訳されなおす必要があるだろうが、にも関わらず、ショーペンハウアーは極めて優れた直観を備えて、音楽によって世代を超えて伝わるものを言い当てている ように思えてならない。ちなみにショーペンハウアーが範例的に思い浮かべていた音楽が、単に時代的な前後関係から無理だからというだけでは決してなく、 マーラーのような音楽ではないということは、この場合には問題にならないと考える。マーラーの音楽は、これはアドルノが別の文脈で的確に言い当てている ことだが、極めて「唯名論的」であって、例えばショーペンハウアーが上述の引用のすぐ後で述べていることと一見したところ一致しないように見えるかも知れないが、 実際にはそれは問題ではないはずなのである。だが、これらについては項を改めて述べるべきだろう。(2010.6.6)