2010年6月20日日曜日

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第8回定期演奏会を聴いて

ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第8回定期演奏会
マーラー生誕150年記念/ガリ・ベルティーニ・メモリアル・コンサート(氏の没後5周年によせて)
2010年6月13日 ミューザ川崎シンフォニーホール 音楽ホール

マーラー 交響曲第7番ホ短調[最新校訂版(2007年:R.クビックによる)使用]

井上喜惟(指揮)
ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ

私にとって、コンサート・ホールでマーラーを聴くのは20年ぶりのことになる。20年前はいわゆるマーラー・ブームの渦中だったが、 当時の私はコンサート・ホールで聴くマーラーにほとんど入り込めず、挙句の果てに、コンサート・ホールでマーラーを聴くことのみならず、 コンサート・ホールを訪れることとマーラーを聴くことの両方を断念することになったのだった。理由は色々とあるが、ようやく到来したらしい 「マーラーの時代」の只中で、次々と提供される「今日のマーラー」とやらが、自分が聴き取りたいと願っている音調を備えておらず、 コンサート・ホールの熱狂の中で自分の外で、むしろ「世の成り行き」の側の一部として鳴り響くという現実に耐えられなくなったと言えば 端的な説明になるだろうか。
その後、自分の中に、自分の一部としてそれがどうしようもなく埋め込まれていることを思い知らされて、 マーラーの音楽を再び聴くようになりはしたし、一方で数は限られているとはいえ、コンサート・ホールに足を運ぶようにもなった。 それは主として三輪眞弘の音楽のように、同時代の、しかも実演で聴くことと録音媒体で聴くことの差異そのものが問題になるような音楽を 聴くためにであって、過去の異郷の音楽を聴くためではないようだ。例えばショスタコーヴィチの音楽は異郷のとはいえ、私が生まれた時には まだ生きていた作曲家のそれであって、時代的には少なくとも地続きの筈であり、またその音楽のもつ或る種の「公共性」(ここではそれに ついての価値論的な議論は行わない)ゆえにコンサート・ホールで少なくとも相対的には「聴きうる」ものと思っていたが、最近、そうとは 感じられない機会が連続し、更には生活の糧を得ることに追われ、コンサート・ホールという制度が要求する時間的・体力的・精神的な 余裕が自分になくなってしまったこともあり、再びコンサート・ホールから足が遠のきつつある。端的に言って、今ここで、自分が置かれている 物理的・身体的・精神的制約の元で、なぜわざわざその演奏を聴かなくてはならないのか、という気分になってしまう事態に至ってしまったということだ。 こう言えば身も蓋もないが、要するに、コンサート・ホールでの音楽の聴取が単なる娯楽なのだとしたら、それは私には全く割りの合わないものであって、 何某かのお金を払った上で、決められた時間に決められた場所に赴くことを強制され、一定時間椅子に座っていることを強制されるのであれば、 それは娯楽とは違った何かであって欲しいし、単なる消費で済ますなど真っ平御免なのだ。
まさにコンサート・ホールで演奏されるための音楽である筈のマーラーの作品をそのように聴けないというのは、 LPレコード、FM放送、CDといった媒体によってマーラーを聴いてきた世代ならではの「症例」と見做すべきかも知れない。 より根本的には自分の中で鳴り響く音が、他者が自分の目前でリアライズする音響と齟齬を来たすのに耐えられないという 全くもって傲岸不遜な理由があるに違いないのだが、それならCDを聴くのだって耐えられないはずで、だからコンサート・ホールという 公共の場で、他人が自分の目前で演奏するマーラーを、他の聴き手と共有するということが、マーラーの音楽の持つ「私性」に 背馳するように感じられるというのがあるのだろう。演奏会というのは所詮はエンターテイメント、娯楽の一種であって、 マーラーはいわば目玉商品の一つとして「消費」されているのだろうし、端的にそうした制度の外部に出ることなど出来る筈はないのだが、 マーラーの音楽そのものの中に、そうした「世の成り行き」の只中にあって、「世の成り行き」の外を志向する姿勢があって、 それに自分が惹きつけられているのであってみれば、マーラーを聴くことを単なる「消費」に還元してこと足れりという訳にはいかないのだ。
こうしたマーラーを聴くことの難しさについて考えた挙句の結論は、演奏者に対して聴き手たる自分がコミットメントすることであった。 勿論、これは私固有の問題であって、一般化しようとするつもりは全くないし、他人のマーラーに対する接し方を 判断するための基準とすることは思いもよらないことではある。その上でマーラーを再びコンサートホールで聴くための条件として、私がマーラーの人と音楽に対して コミットメントしているように、演奏者もまたマーラーに対してコミットメントしていること、つまりは演奏者がマーラーを弾くことを望み、 必要としていること、そして自分が、そうした演奏者の演奏に対して、何某かの対価を払って出来上がった「製品」を受け取るのではなく、 演奏を作り上げていくプロセス自体に何らかの仕方でコミットすることができれば、コンサートホールにわざわざ赴き、音楽を聴くという経験は 全く質の異なるものになるだろう、と思われたのである。勿論、チケットを買うこと、コンサート・ホールに赴くこと自体が、結局のところ 演奏を作り上げていくプロセスも含めた演奏に対するコミットの一つの仕方であるということだって出来るだろうが、それが錯覚であったとしても、 マーラーの音楽を骨董品のように、過去の、遠い異郷の文化的・社会的文脈に位置づけて理解することによって我有化するのではなく、 自分が作品を取り込むことによって、作品に埋め込まれたマーラーの認識の様式を、反応の様態を自分の中に移植すること、 マーラーに他者として対峙し、そうすることで逆に自分が少しだけマーラー「になる」ことが私にとって問題であるのであってみれば、 マーラーの音楽の演奏に対しても、完成品を対価を払って受け取る以上の何かが必要に感じられたのである。
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だが現実には、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラの第8回定期演奏会について言えば、結果的には通常のコンサートを聴くのと ほとんど変わるところがなかったということになるだろう。違いがあるとすれば、演奏者のマーラーに対するコミットメントに関してであって、 このアマチュア主体のオーケストラについてはそれは明らかであり、それどころか寧ろ私など足元にも及ばないレヴェルであることは疑いえないことなのである。 仮に私が、マーラーの作品のあるパートを、一緒に演奏する方々に迷惑をかけない程度に弾ける技量を今尚保持していたとしても、 私にはプローベに継続的に参加するだけの時間的・体力的・精神的な余力が残されていないのははっきりしているのだ。 であって見れば、そうしたコミットメントに対する敬意と賛意を表するためにコンサートホールに足を運ぶことが私にとって可能な コミットメントの仕方であり、まさにそうしたことを考えながら、幸いなことに時間的な余裕にも体調の小康にも恵まれた日曜日の午後に、 これまた幸いなことに、その種の音楽ホールとしては比較的在所から近いミューザ川崎に向かったのである。
上記のような経緯からもはっきりしているように、私は普通の意味でコンサートを聴きにいった訳ではない。だからいわゆる演奏会評を 書くことなど思いもよらないし、それだけの素地が私にないのは明らかだから、演奏がどうであったかを客観的に書くこともしない。 多分、それらは他の、その資格のある方がされるだろうし、演奏「そのもの」はこれまでそうであったようにCD化されるだろうから、 「客観的」な記録としてはそれを聴けばいいということになるだろう。勿論、演奏者にとって恐らくはそうであるように、私にとっても そのCDの価値は、「客観的」な記録などではなく、その日にそこで起きたこと、私の中で起きたことを(不完全ではあっても)再生する きっかけのようなものといった位置づけになるのだと思うが。
言い方を変えれば、6月13日にミューザ川崎の音楽ホールで経験したことをもって、コンサート・ホールでのマーラー演奏「一般」について の私の考え方が変わった訳ではない。私はこの経験が些か特殊な条件に拘束されていて、その拘束が経験の質に影響したことを否定しない。 アマチュア主体のオーケストラを演奏を、プロの演奏と比較して精度を云々するのは筋違いだろうし、「客観的」にはこの演奏よりも 「良い」演奏は幾らでもあるということになるのかも知れない。だが、だとしたら私には、そういう価値論的な座標系における「良し悪し」など せいぜいが副次的な意味しか持たないということになるのだろう。ある意味では、かつて私がコンサートホールで聴いた(恐らくは 「客観的」にはもっと精度の高い)マーラー演奏に何故感動できなかったのかの一部を確認できたような気がしたし、その一方で コミットメントについての昨今の自分の考え方がそんなに間違ってはいなさそうだということの確認もできたように思える。つまるところ、 マーラーの音楽がコンサートホールで響くことの意義が、豊かな実質を伴って明らかにされる現場に立ち会うことができたのだ。

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いずれにしても20年ぶりにコンサート・ホールでマーラーの音楽がリアライズされる現場に立ち会った印象は、主観的にはこれまでのコンサートでの マーラー演奏のどの聴取にも優る、素晴らしい経験であったことはここに記録しておきたいと思うし、もう少し具体的に、自分には どのようにその演奏が響いたかを下記に書きとめておきたいと思う。この演奏は、マーラーの音楽のリアリゼーションが説得力を備えるために必要な 何かを確かに備えていると感じられたし、常にというわけではなくても、マーラーの音楽の持つ「音調」を捉えていたと思う。再び傲岸不遜な 言い方をすれば、私の中に埋め込まれている音楽と、当日コンサートホールに響いた音響とが確かに共鳴し、圧倒される瞬間に 事欠かなかったのである。
テンポの設定はこれまでのCDで確認できる同じ演奏者による他の曲の演奏におけるのと同様ゆっくり目であったが、緊張感は保たれ、音楽の流れが 停滞することはない。幾つかのテンポを交換させることによって音楽の重層的な構造を明らかにし、複数の時間の流れの質の 差異を際立たせ、そうすることによって遷移していき、交替しながら、再現するたびに少しずつ変容していく風景の変化を支える 巨視的な法則の存在を感じさせることに成功していたのは、指揮者の解釈の卓越を証するものだろう。
そういう側面がとりわけ鮮明に感じられたのは、第3楽章のスケルツォとトリオのテンポの設計、同じく第5楽章のロンドとエピソードの テンポの設計で、間に挟まれるNachtmusikの底流として、第1楽章から第5楽章へと流れていくブリッジの役割を第3楽章が 果たしていることがはっきりと感じ取れたし、急がない、だが眩いばかりの響きの色彩に富んだ第5楽章の設計は、全曲のコヒーレンスを 浮かび上がらせ、この曲を端的な失敗作と見做す立場や、とりわけ第5楽章に或る種の「確信犯」的失敗を見出そうとする立場に 対する極めて説得力のある反例たりえていたと思う。指揮者はパンフレットの文章でメンゲルベルクのテンポの記録と並んで クレンペラーの晩年の録音を参照していたが、私が思い浮かべたのは、この曲を失敗作と考えていたクックの認識を改めさせたらしい 1960年のバルビローリの演奏記録である。要するにコヒーレンスを実現するのは、単純な演奏時間の長短ではなく、全体と部分の 関係におけるテンポの推移、ないし交換(不連続にレイヤーが切り替わることがあるので)の把握の問題なのだと私には思われる。
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今回の演奏の特色の一つに、近年精力的に行われている国際マーラー協会のマーラー全集の再校訂作業の一環である 2007年のラインホルト・クビークの校訂版を用いていることが挙げられるだろう。私は残念ながら事前に楽譜にあたることができず、 いわばぶっつけ本番で演奏を聴いたのだが、パンフレットに指揮者の井上さんが書かれていた変更点のうちの 幾つか(具体的には19小節目のチェロとファゴットの3連符の最後の音の変更と第1楽章266小節Subito Allegro I以降の テンポ設定、336小節の第2ヴァイオリンの改変の3点)は、聴いていておやっと思って、後で確認して新校訂版に 依拠したゆえのものであることが確認でき、非常に興味深く感じられた。(正確を期せば3点目については明らかにおかしいと思った というよりは、対向配置であることもあり、何となく「あれ、こんなだったかな」と感じた程度だったが、こういうところも コンサートならではで、録音で聞き分ける自信は私には全くない。)
ちなみに上述の3点について、所蔵している自筆総譜のファクシミリはどうなっているかと思い確認してみた結果を以下に メモしておく。
  • 第1楽章19小節:手前のト音の真上よりは少し左上に臨時嬰記号が書かれている。高さとしてはト音につけられた とするよりはその後のイ音に付けられたとする読みの方が妥当に思われる。
  • 第1楽章266小節:明らかにZiemlich hastig。ruhigには読めない。前の校訂版が別の資料に依拠していたとしか 思えない。
  • 第1楽章336小節:ここは厄介な箇所で、どうやら訂正した形跡が見られる。第1音と第2音の間にタイはあるようだが、 それとは別に、第2音の前にはオクターブ下あたりからのポルタメントの指示のような線があり、第1音の周辺には訂正した 結果消去をしたらしい痕跡が認められる。2音目のアクセントは(第1ヴァイオンもそうだが)ファクシミリにはない。 更に、誰の筆跡かわからないがクエスチョンマークもついていて、ここの部分、特にポルタメントのような線をどう読むか、 判断に苦しむ部分のようだ。全くの臆測だが、私の読みでは、マーラーは、このファクシミリでは 第2ヴァイオリンも第1ヴァイオンに追いつくように、2音目で記譜よりオクターブ上の音を弾くように8vaの記入により指示しているから、 件のポルタメントは、1音目の音高、即ち記譜された通りの高さから、2音目のオクターブ高い音へのポルタメントを 要求したのではないかという気がする。すると1音目と2音目を結ぶのはタイではなく、スラーと考えるべきだということになるのではないか。
なお、いずれも初版の出版譜と前の全集版、更にはレートリヒの版との間には上記3点には違いは見られないが、 ファクシミリは寧ろ今回のクビークの校訂を裏付けるものであるように窺える。ただしこのファクシミリは、出版譜とは 異なる部分が大変に多く、かなり前の段階の資料と考えるべきもののようであることは留意されるべきだろう。一例を 挙げれば、終楽章の練習番号268番のあの「調律されていない金属の板」の部分のNBが初版譜にはないのは良く知られていると思うが、 所蔵のファクシミリにはそもそもパート自体が存在しない。練習番号269の大太鼓とシンバルは下に段を足すかたちで後から追加されている のが明らかなのだが、「調律されていない金属の板」はそうですらなく、全く存在していないのである。従って そもそもファクシミリの解釈が困難な最後の点については勿論、他の2箇所についても、ファクシミリだけ判断するのは危険で、 前の全集版の校訂の報告、今回のクビークの校訂報告を参照する必要があるのは勿論だが、恐らくはそれらが 参照しているに違いない他の資料との比較検討が必要だろう。
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第7交響曲は、マーラーの作品の中では比較的コンパクトな編成の管弦楽のために書かれているが、アマチュア主体の オーケストラということもあり、実質的に倍管に近い編成のパートもあったようだ。しかし特に中低音が充実している(特に コントラバスとヴィオラの存在感は目覚しいものがあった)弦楽器とのバランスは不自然ではなかったし、 ソロ・パートが多く「歌う」ことを求められるティンパニとグロッケンシュピール以外は 調律されておらず非楽音的な側面の強い打楽器群、これまたオーケストラの楽器としては特殊な第4楽章に用いられる マンドリンとギターの響きも埋没することなく、広大な色彩のパレットと繊細で透明な響きの両立という、とりわけこの作品に 顕著な特質も不足なくリアライズされていたと思う。
管弦楽のための協奏曲の先駆の一つとも見做されうるようなソロ・パートが頻出し、複数の楽器が重ねられていても、 それがそのまま音響的な色彩のパラメータに直結するような管弦楽法の結果、奏者への負担は極めて大きなものがあり、 パートによる出来不出来が結果として出てくるのは、一発勝負の実演であるゆえ仕方のないことだし、 既に述べたように、いくつかの層が交替しながら並行して動いていくような構造の作品故に起きる頻繁なテンポの変更、 詳細を極めるアゴーギグの指示に対して大管弦楽が敏捷に対応するのは極めて困難で、それゆえプロの演奏でも、 リハーサル不足による拍の取り方の読み違えによる混乱が起きたかと思えば、その一方で安全運転に徹するあまり テンポの交替を平板化したような演奏もあり、更にはアゴーギグに対するアンサンブルに神経質になりすぎた挙句、肝心の 楽曲の持っているベクトル性が損なわれ、緊張と弛緩のコントラストがなくなってしまうこともまた、まま起きるようだが、 アマチュアのオーケストラで実現できる精度の範囲で指揮者の意図が徹底され、音楽の実質が最大限にリアライズされる という点で、この日の演奏は目覚しい成果を挙げていたように私には感じられた。
細部の解釈とかテンポ設定の問題ではなく全体として受けた印象でこれまでの中で最も近いのは、 奇しくもベルティーニがベルリン・フィルを指揮したものをFM放送でかつて聴いた時の印象だろうか。今回の演奏でも 楽章間でチューニングを行っていたが、ベルティーニも楽章間でのチューニングを厭わなかったと記憶している。 にも関わらず次元の豊かさと全体のコヒーレンスの調和、とりわけ終楽章の説得力という点ではこれは際立った演奏だったが、 そうした点に通じるものを、この日の演奏に見出すことができたように思えるのだ。
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演奏精度を超えた部分に演奏の成功の成否があるというのは、やはりその作品に何かが欠けているということを 証しているのだという意見に対して抗弁するつもりはない。もしそうならば、おしなべてマーラーの作品すべてについて、100年後の 異郷で演奏し、聴き続ける場合にはそれが当て嵌まると思えるからであり、そういう意味では第7交響曲よりも そうした傾向が強いマーラーの作品は他にもある。だがそもそも、私個人としてはマーラー以外の過去の異郷の音楽は 更に疎遠であって、個人的な経緯もあって、唯一辛うじてマーラーのみがアクチュアルな問題をつきつける他者性を 喪っていないとも言えるのだ。それはこの曲がマーラーの生前にどのように受容されたかといった話題ともまた、別の 次元の話であって、寧ろ私には、シェーンベルクのあの擁護、アドルノをすら戸惑わせたあの第7交響曲の擁護こそ、 時代を超えて共感できる立場に思われるのである。
もともと私は個別の部分の演奏精度があまり気にならない(そうでなければ 歴史的録音の幾つかは聴くに耐えないものになるだろう)こともあって、寧ろこの曲の演奏に説得力を持たせるために 不可欠な何かが、この演奏には確実に備わっていることが感じられたことに圧倒された。もっとも個別の部分をとっても 思わず身震いするような魅惑的な瞬間には事欠かない。一例を挙げれば第1楽章の練習番号60番以降、 コーダに至るまでは、オーケストラ全体が、いわば「入った」状態になったことがありありと感じられて、今思い起こしても その感覚がまざまざと甦るような、圧倒的な経験ができたように思える。
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終演後は体調を慮ってすぐに帰途につきはしたが、私は帰宅して後、オーケストラの事務局に対して上記の印象の一部を 御祝いの言葉ともどもメールで送った。来年に予定されている定期演奏会では第9交響曲を取り上げるとのこと。 是非、演奏会に立ち会いたいと思うのは勿論だが、仮にそれが何かの偶然で叶わないことが生じた場合でも、 マーラーの音楽という「ミーム」を1世紀後の異郷で継承していく隣人として、このオーケストラに対するコミットメントは 続けていきたいという気持ちを再確認させる演奏会であった。そして最初にも述べたように、コンサートで音楽を聴くことを 消費に終わらせて、不確かであるばかりか、存続性については更に疑わしい「感動」とやらを対価として得ておしまいではなく、 それがつたない、ほとんど無価値なものであって、書かれて公開されたという事実性のみにしか拠り所がないものであっても、 自分が受け取ったものを無にしないために、こうして感想を公開する次第である。(2010.6.20)

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