お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2009年9月27日日曜日

楽章順序について、および歌曲の調性についてのメモ―梅丘歌曲会館の藤井さんに―

別のところにも書いたが、私見ではマーラーの管弦楽作品、とりわけ 多楽章形式の作品において調性の持つ機能を無視することはできない。 多楽章形式の管弦楽作品という言い方をしたのは、(「大地の歌」を 含めて)交響曲に分類される作品の他に、「嘆きの歌」と連作歌曲集である 「さすらう若者の歌」「子供の死の歌」を含めたいからである。

歌劇場の指揮者として、後にはコンサート指揮者としてオーケストラと ともに仕事をし、しかも今日は当然のように受け止められているコンサート という制度が確立し、音楽史的なパースペクティブをもってプログラムを 構成するようになる時期に活動したマーラーは、バロック音楽以来の伝統を 自分で演奏することによって振り返ることができたこともあり、また 典型的な平均律楽器であるピアノを媒体としなかったこともあって、それぞれ の調性の持つ「性格」のようなものに対する意識があったことは疑いない。 どちらが原因でどちらが結果かはともかく、ワグナー的なクロマティズムが 流行した時代にあって、反動的に見えかねないほどに全音階的な音楽を 書いたこともあり、他の作曲家における事情はともかく、ことマーラーの 場合に限っていえば、調性にまつわる議論は避けて通ることができない テーマである。 それを象徴的な意味合いを調性に投影させるかどうかとは別に論じることも 可能だろうが、一般には悲劇の調性であるイ短調 (「嘆きの歌」、第6交響曲)や、天上の調性であるホ長調 (第4交響曲や第8交響曲における用法)といったように、ある種の 象徴的な意味合いを持たせて論じるのが一般的だろう。

一方で、単独の調性の象徴的な意味ではなく、多楽章形式における 楽章間の調的な関係が話題になることも多い。著名なのはダイカ・ニューリン 以来のいわゆる「発展的調性」で、決まって引き合いに出されるのは 第5交響曲の嬰ハ短調→ニ長調の例であろう。第9交響曲がニ長調で始まり、 今度は半音低い変ニ長調のアダージョで終わるのもよく引き合いに出される だろうか。一方で、第2交響曲のように開始と終了が平行調の関係にあるもの (ハ短調→変ホ長調)、第3交響曲のように同主調の関係にあるもの (ニ短調→ニ長調)もあるし、第6交響曲や第8交響曲、あるいは第1交響曲も 含めてもいいだろうが、開始の調性と終曲の調性が同じものもあり、 といったようにその関係は多様であるとともに内容との間に対応がある点が 注目される。

開始と終結だけを論じるのは認知的、心理学的な裏付けに乏しいという 批判もあるかも知れないが、調的な遍歴はどんどんミクロに見ていくことが 可能であって、私見ではそれをどう意味付けるか、どのような象徴づけを 想定するかについてを仮に捨象したとしても、音楽を聴取するときに そうした調的な遍歴を辿ることによって得られる効果については (もちろんこれとて西洋のある時期の音楽の規則の枠内限定であるとは いいながら)それなりの実質を備えていると言い得るだろうと思われる。

例えばマーラーの交響曲では楽章の上部構造として、部(Teil)が設定 されることがしばしばあるが、第3交響曲ではニ短調で開始した第1楽章は へ長調(!)に到達して第1部を終える。第2部冒頭は遠隔調のイ長調だが、 終わりはニ長調である。大地の歌は明確に部が示されているわけではないが、 前半の5楽章が1まとまりを構成して、それに第6楽章が対応するといった、 あたかも第3交響曲の構成を逆転したような構造を持つのは明らかだろうが、 そう思って調性を確認すれば、イ短調で始まる第1楽章に対して、第5楽章は 同主調のイ長調で終わり、第6楽章はハ短調で始まるがその終わりは 冒頭の平行調であるハ長調(ただし付加6の和音なのでいわば宙に吊られた まま終わる)であるといった具合である。

こうして見ると、調的は配置は多楽章形式の作品の構成と密接な関係に あることが伺えるが、それが別の現れ方をしたのが、楽章の順序にまつわる 揺れの問題であろう。 この点については何と言っても第6交響曲の中間楽章の順序の問題が 有名だし、近年、永らく「真正」と見なされて来たエルヴィン・ラッツの 見解を反映したマーラー協会版の順序(第2楽章スケルツォ、第3楽章 アンダンテ)に異論が投げかけられ、マーラー協会が今度は逆の順序が 正しいという声明を出すといったことも起き、その結果、最近では 逆の順序を採用した演奏が増えて来ているのは良く知られているだろう。 だが、「真正性」の基準はどこにおくのが妥当かといった議論を措いて しまって音楽自体の論理を追った時、アドルノが盟友でもあったラッツの 立場を擁護した際の主張にも正当性はあるように思えるし、マーラー自身、 迷ったという事実が残ってしまうという状況が告げているように、 もともとどちらの順序も可能だという、マーラーならではの事情が あること自体は否定しがたいだろう。

こうした例は別にもあって、その中でも未完成に終わった第10交響曲 の楽章順序の問題は、これまた有名だろう。第10交響曲の補筆にまつわる 歴史は色々なところで紹介されているし、ここでの本題ではないので 割愛するが、補筆版の第2楽章に位置するスケルツォの草稿には、 「スケルツォ-フィナーレ」と記載した跡があるし、第4楽章の スケルツォにも、「フィナーレ」「第2楽章」「第1スケルツォ(第1楽章)」 といった記載の跡があって、未完成であるが故に、マーラーが創作の 過程で楽章構成について幾つもの選択肢を検討した様子が窺える。 それだけではなく、第5楽章のフィナーレ終結部の草稿には、 デリック・クックが採用した嬰へ長調のバージョンとともに、 変ロ長調のバージョンが存在するらしい。クックの作業についての 批判はかつても存在したし、今でもあるのだろうが、例えばここでの クックの選択が音楽の論理に適っていることは認めざるを得ないのでは なかろうか。第10交響曲の冒頭のヴィオラのパート・ソロは限りなく 無調的であることで有名だが、それでもアダージョ主部の主題は嬰ヘ調で あり、フィナーレが嬰へ長調をとるのは、調的に見れば自然な選択なのだ。 (勿論、誰かが変ロ長調版を採用した説得力のある別解を提示する可能性 を否定するわけではないけれど。)

だが、ここで触れておきたいのは、マーラーの交響曲創作の出発点で あった第2交響曲(なぜなら第1交響曲は、まだその時点では2部5楽章 よりなる交響詩だったから)の楽章順序に関する経緯である。 第2交響曲が複雑で長期にわたる生成史を持つこと、途中の段階では 第1楽章を単独の交響詩「葬礼」とするプランがあったことなどは 今日良く知られるようになり、交響詩「葬礼」の録音も存在すれば、 実演でも取り上げられることがある(日本でもすでに初演されていて、 私はそれに立ち会うことができた)。そしてまた、最終的に辿り着いた 形態が必ずしもコヒーレンスが高いとは言えないものであること、 マーラー自身、自分で指揮した経験からそれに気付いていて、その結果 第1楽章と第2楽章の間に5分間の休憩を入れる指示を書き加えたことも 人口に膾炙しているだろう。(もっとも、もっと緩やかな多楽章形式の 交響曲が幾らでも存在するせいか、今日ではマーラーの指示が文字通り 忠実に守られているわけではないようだが。)

しかし、その長期にわたる生成過程において楽章の順序がどういった 検討を経たのかについての議論はあまり為されていないように思われる。 この点についてはドナルド・ミッチェルが既に1975年の時点で興味深い 検討をしていて邦訳もされているのだが、それに対する言及を見かけること はあまりないので、ここで簡単に紹介しておきたい。 (第3交響曲と第4交響曲の関係に纏わる議論はそれに比べれば遥かに 良く知られていて、あちらこちらで触れられているのは、今日聴くことが できる形態上その連関があからさまで、説明の必要を感じるためだろうか。)

まず確認しておくべきことは、今日第2交響曲と呼ばれる作品の第1楽章に 相当する音楽が最初に(既に良く知られているように最終形とは異なった 形態で)成立したのは1888年9月、つまり今日第1交響曲と呼ばれる作品の完成後 間もなくであった。対して第2交響曲の完成は1894年の年末であり、その完成には ハンス・フォン・ビューローの葬儀への参列の際に聴いたクロップシュトックの 復活の賛歌が決定的な役割を果たしたことの方は良く知られている。

第2楽章と第3楽章の完成は1893年の夏のこととされる。この頃マーラーは 子供の魔法の角笛歌曲集の管弦楽化をしていて、第3楽章のスケルツォは その副産物とでも言えるべきものであったようだ。スケルツォのスコア完成は7月16日、 歌曲の管弦楽版の完成は8月1日という日付を持つ。第2楽章となったアンダンテも同じ夏に 余勢を駆るようにして作曲されている(スコア完成7月30日、ただしスケッチは それに先立って6月21日頃完成)。第4楽章である歌曲「原光」の管弦楽版の完成も 1893年7月19日付けであり、第2楽章や第3楽章、「魚に説教するパドヴァの 聖アントニウス」の管弦楽版と同時期に完成していたらしい。フィナーレは恐らく 進捗していたとしてもまだ素材をスケッチしている段階だったが、 それ以外の楽章は一応、既にこの時点で揃っていた。だが、ここで注意すべきは、 スケルツォの器楽楽章は明確に交響曲の一部とする意図をもって書かれていた一方で、 「原光」の方はそれを交響曲の楽章として用いるという着想はこの時点ではなかったかも 知れないことだ。楽章間の順序もまだ未定であり、アンダンテをスケルツォの後に 置くことも検討されたらしい。結局、楽章構成が確定したのは、くだんの追悼式の 参列以降のことで、ミッチェルもそういっているが、それ以前には多楽章形式の交響曲を 書くという構想の下、いわば泥縄式に出来上がった楽章を組合せようとしたものの 思うような結果が得られなかったというのが実態らしい。

これに関連して思い浮かぶのは、第5交響曲ではアダージェットが後から追加された らしいことや第7交響曲では先に2曲の夜曲ができていて、残りの3つの楽章は後から 翌年になって追加されたことである。一方で、第1交響曲や「嘆きの歌」のように、 後から楽章を1つ削除してしまうということも行われている。その結果、第1交響曲は 終楽章に主題連関のリファレントが宙に浮いたエピソードが残ってしまったし、 「嘆きの歌」は、当初の調的な構想がすっかり姿を変えてしまうことになる。

要するに、マーラーの多楽章形式の作品における楽章間のコヒーレンスは 概してあまり高いものではない。しかしその具体的な様相は多様であって、 個別に記述していくしかなさそうである。であってみればコヒーレンスの不足をもって 非難するのはマーラーの場合にはあまり生産的なやり方ではない。マーラーの形式が 唯名論的なものである、とアドルノが言うとき、それは事前に用意された図式に 従って個別の楽曲の構造が決定されるのではなく、寧ろ各楽章が描き出す星座 (コンステラチオーン)こそを読み取るべきなのだ、ということを言っているに 違いない。そしてそうした多様性こそがマーラーの音楽の認知的・心理的な リアリティの源泉となっていることに留意すべきなのであろう。

ところで、そうしたことは交響曲の場合には例外なく該当するだろうが、 マーラーの作曲したジャンルのもう一方の極である歌曲の方はどうかと考えたとき、 ただちに気付くのは、歌曲については少なくとも連作歌曲集と出版上の都合で 組まれたアンソロジーとを区別する必要があることだろう。「さすらう若者の歌」 「子供の死の歌」は明らかに連作歌曲集として構想されており、少なくとも 交響曲の楽章と同程度のコヒーレンスが存在する。もちろん「さすらう若者の歌」が 4曲で終わっているのはある種の偶然の産物かも知れないし、「子供の死の歌」は 生成史的に見た場合には分裂が見られるから、ここでも交響曲で起きているような 泥縄式の辻褄合わせといった側面がないことはないだろうが、その結果はそうした ネガティブな言い方が不適切に感じられるほど見事なものである。

興味深いのは交響曲において言及される発展的調性は、寧ろ歌曲の方にその萌芽があるかも 知れないことで、実際、歌曲においては1曲のうちの最初と終わりで異なる 調性で終わることは初期作品から珍しくない。1880年の3つの歌曲(リート)の 「春に」や「冬の歌」、「リートと歌第1集」の「思い出」がそうだし、「さすらう 若者の歌」を構成する歌曲に到っては、すべての曲が該当するのだ。この点については ミッチェルが「リートと歌」について論じる際に詳論しているが、マーラーにおける 交響曲と歌曲というジャンルの関係を考える上で、調性の遍歴の問題は非常に重要な 視点であることは間違いない。

その一方で、連作歌曲集に含まれない歌曲における個別の曲の調性の問題は、歌曲の 楽譜が出版される際の実用上の問題、即ち、声の高さに合わせて移調した幾つかの バージョンが出版されるという事情があるゆえに複雑なものとなる。しかもマーラーの場合、 典型的な平均律楽器であるピアノによる伴奏によるものばかりか、管弦楽伴奏のものも あるため事態は一層錯綜としたものになる。つまり曲によっては同じ楽器での伴奏が 音域の問題やら移調楽器の性質から不可能になり、管弦楽法上の調整が行われる場合が あるのだ。リュッケルトによる歌曲のうち「美しさゆえに愛するなら」の管弦楽版が マーラー自身によるものではなく、マックス・プットマンの手になるものであることは 最近は良く知られるようになってきたが、他の曲においても移調された版では管弦楽伴奏に 細かい違いが見られ、それがすべてマーラーによるものなのかは定かでないのである。

そこで最後に歌曲における移調の状況を、分析は控えてまとめておきたい。例えば マーラーのオリジナルの調性と出版譜の調性が異なる場合に、それがどのような理由に よるものなのか、マーラー自身の意図がどの程度反映されているのかといった問題は 個別に検証されるべきだし、調性による象徴法の議論を連作歌曲集に含まれない 歌曲に対して適用することの可否もまたそうした検証の上でようやく可能になるだろう。 他の作曲家の場合には、もしかしたらこうした移調の問題は取るに足らないものかも 知れないが、マーラーの場合にはそうとは言えないだろうから、まずは事実を整理しておく ことにも何某かの意味があるものと思う。

  • 3つの歌(リート):手稿の調性と出版譜の調性は同一。
    • 春に:へ長調→ヘ短調(変イ長調)→ハ長調
    • 冬の歌:イ長調→ハ短調
    • 緑の野の五月の踊り:ニ長調
  • リートと歌第1集:高声版・低声版が存在。以下は手稿の調性。
    • 春の朝:へ長調(低声版が原調)
    • 思い出:ト短調→イ短調(高声版が原調)
    • ハンスとグレーテ:原調はニ長調(出版譜はへ長調)
    • ドン・ファンのセレナーデ:変ニ長調(出版譜はニ長調、ハ長調)
    • ドン・ファンのファンタジー:ロ短調(高声版が原調)
  • リートと歌第2,3集:高声版・低声版が存在。以下は手稿の調性。
    • いたずらな子をしつけるためには:ホ長調(高声版が原調)
    • 私は緑の森を楽しく歩いた:ニ長調(高声版が原調)
    • おしまい、おしまい:変ニ長調(出版譜は変ホ長調、ハ長調)
    • たくましい想像力:変ロ長調(出版譜はハ長調、イ長調)
    • シュトラスブルクの保塁で:嬰ヘ短調(出版譜はト短調、ヘ短調)
    • 夏の交替:変ロ短調(高声版が原調)
    • 別離と忌避:ヘ長調(低声版が原調)
    • もう会えない:ハ短調(高声版が原調)
    • うぬぼれ:ヘ長調(低声版が原調)
  • 子供の魔法の角笛:高声版・低声版が存在し前者を長二度低く移調したのが後者である。
    • 歩哨の夜の歌:変ロ長調(低声版が原調)
    • 無駄な骨折り:イ長調(高声版が原調)
    • 不幸なときの慰め:イ長調(高声版が原調)
    • この歌をひねりだしたのは誰:へ長調(高声版が原調)
    • 地上の生活:変ロ長調(フリギア旋法)(高声版が原調)
    • 魚に説教するパドヴァの聖アントニウス:ハ短調(低声版が原調)
    • ラインの小伝説:イ長調(高声版が原調)
    • 塔の中に囚われた者の歌:ニ短調(高声版が原調)
    • 美しいトランペットの鳴りひびく所:ニ短調(高声版が原調)
    • 高い知性への賛美:ニ長調(高声版が原調)
    • 3人の天使がやさしい歌を歌う:へ長調(高声版が原調)
    • 原光:変ニ長調(低声版が原調)
    • 起床合図:ニ短調またはハ短調
    • 少年鼓手:ニ短調(低声版が原調)
  • リュッケルトの詩による歌曲:中声用が原調。短三度または長二度異なる高声版・低声版が存在。
    • 私の歌を覗き見しないで:へ長調
    • 私は快い香りを吸いこんだ:ニ長調
    • 私はこの世に忘れられ:変ホ長調またはへ長調、初演時は変ホ長調。
    • 真夜中に:イ短調、ピアノ稿はロ短調、管弦楽稿は変ロ短調。
    • 美しさゆえに愛するなら:ハ長調、ピアノ版のみ。管弦楽版はマックス・プットマンによる

(2009.9.27,28)

2009年9月22日火曜日

作品覚書(11)大地の歌

マーラーを代表する作品として「大地の歌」が挙げられることは別段珍しいことではないだろう。 ただし、マーラー・ブームこのかたの演奏会レパートリーや受容の傾向からすれば、「大地の歌」が マーラーを代表する作品と見做されているとは最早言い難いというのが現実ではなかろうか。

それには幾つかの理由が考えられるが、それぞれがこの「大地の歌」という作品の持つ問題を 浮び上がらせるもののように感じられる。まずは、巨大な管弦楽だけではなく、歌手を2人必要と する特殊な編成が、興行する側にとってはレパートリーとしては不利に働くという点。歌手にとっても、 大規模な管弦楽の大音響の中で歌うこの曲は厄介な作品だろうし、それにはこの曲が マーラー自身によって初演することのなかったという事情も関わっているかも知れない。アルマの 主張とは食い違うことになるが、マーラーがもしこの曲を自分で一度でも演奏したら、果たして 管弦楽法に手を入れなかったと言い切れるものか。最近、シェーンベルク=リーン編曲版という 室内管弦楽伴奏版が注目を浴びているのは、耳が肥え、新しいもの、珍しいものにしか 感動しなくなった聴き手側のニーズに応えるというマーケティングの問題もさることながら、 演奏する側の事情も介在している可能性だってあるだろう。

だがそれならば、あのシェーンベルクの手になるものとは言いながら、所詮は他人の手になる 編曲よりも、これまた完成稿とは言い難いとはいいながら、マーラー自身の手による ピアノ伴奏版があるではないか。だが、交響曲よりは連作歌曲としての性格が強くでる ピアノ伴奏版の分は更に悪い。歌曲というジャンル自体の聴き手が限定される上に、 マーラーの歌曲は、ドイツ歌曲の流れからすれば明らかに傍流、異端であることもあり、 一方でマーラーの聴き手のほとんどは専ら交響曲にしか関心がないという事情もあり、 マーラーの歌曲が取り上げられる機会は限定される。仮に取り上げられたとしても、 交響曲としてのスケールを備えた「大地の歌」は、ピアノ伴奏版であっても、歌曲の リサイタルのプログラムには馴染まないだろう。

しかしその一方で、初期に例外はあるにせよ、基本的に交響曲と歌曲という ジャンルのみで創作を続けたマーラーの作品の中で、「大地の歌」が占める位置は やはり特別なものであるに違いない。交響曲にして連作歌曲、というどっちつかずは、 コンサートやCD販売といった興行や流通の制度からすれば厄介者扱いされかねないが、 マーラーの創作の文脈においては、こうした形態の作品がその創作の到達点の一つとして 産み出されたことこそが、その創作の特異性を浮び上がらせる。たかが管弦楽伴奏の ソロ・カンタータを「交響曲」と名づけただけの話ではないか、という醒めた見方もあろうし、 私にはそれに抗弁するだけの音楽史的な知識もないが、ツェムリンスキー、ブリテン、 ショスタコーヴィチの類似の作品は、マーラーの「大地の歌」の強い影響下にあるわけだし、 逆にマーラーがこの作品を産み出すにあたってモデルになった先行作というのも 杳として知らない。事実関係としてそうであるわけだし、そもそもマーラーの創作の論理に したがったとき、それはやはり交響曲にして連作歌曲と呼ぶほか無いもの、最初は 連作歌曲であったものが、交響曲の構造を具備するような発展がその創作過程で 生じた作品なのである。(2008.10.7 この項続く。)

*   *   *

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの)
第1楽章(ソナタ形式) 呈示部(第1節)オーケストラ導入部「アレグロ・ペザンテ」115a
主部(1~2行)(力いっぱいに)1632
経過部(3行)「テンポI」3352d-g
副次部(4~5行)「同じテンポで」5380
リフレイン(6行)「とても落ち着いて」8188
呈示部展開反復(第2節)オーケストラ導入「テンポI スビト」89111
主部(1~2行)112125
経過部(3~4行)125152a-B-Ces
副次部(5~7行)153182es
リフレイン(8行)「ア・テンポ とても落ち着いて」183202as/As
展開部(第3節)オーケストラ導入(主部・副次部展開)「ア・テンポ」203260f
第1部分(1~2行)261284
第2部分(3~5行)285325
再現部(第4節)主部(1~3行)326352a
経過部(3~5行)353368
リフレイン(5~7行)369392A/a
後奏393405
第2楽章 オーケストラ前奏 「いくらかひそかにけだるく」124d
A(第1節)「いくらか遅くして」2549-g
A'(第2節)5077d-g
B(第3節)78101d-D
A''(第4節)~「流れるように」~「高揚して」102137d-Es-d
オーケストラ後奏138154
第3楽章 オーケストラ前奏 「くつろいで快活に」112B
A(第1~2節)1334-G
B(第3~4節)3569
C(第5節)7096g
A'B'(第6~7節)「テンポI スビト」97118B
第4楽章 A導入(z)「コモド・ドルチッシモ」16G
x(第1節1~2行)「少し流れるように713
y(第1節3~5行)「より落ち着いて」1323
x'(第2節1~2行)2429
z(第2節3~8行)「ア・テンポ(より落ち着いて)」3042E-H
B導入4352G-C
行進曲「ピウ・モッソ・スビト(行進曲のように)」5361
(第3節)「さらに放縦に」6274
疾駆「アレグロ」7587c
(第4節)8895F
A'z-x(第2節1~2行)「テンポI 、スビト(アンダンテ)」96103B
z(第5節1~3行)104114G y(第5節4~6行)「とても落ち着いて」114124 後奏124144 第5楽章 第1節「アレグロ はしゃいで、しかし速すぎずに」115A-B-F シグナル(1)(3) 第2節「ア・テンポ」1529A-B-F シグナル(15)(17) 第3節「ア・テンポ」2945A-A/a シグナル(29)(32) 第4節「テンポI スビト」4564F-B-Des シグナル(45)(46) 第5節「テンポI スビト」6572C 第6節7287A-B-F シグナル(72)(74) シグナル「アレグロ」8789A 第6楽章 主部(第1節)オーケストラ導入「重く」118c 1~3行「流れるように、イン・テンポで」1926 オーケストラ間奏「テンポI」2731 4~6行3254 副次部1(第2節)オーケストラ導入「とても中庸に」5570a 1~2行7180 オーケストラ間奏「少し動きをもって」81100 3~9行101149 オーケストラ間奏「遅く」150157 レシタティーヴォ10~12行「一様に速まることなく」158165 副次部1(第2節)オーケストラ導入「流れるように」166198B 1~4行「とても落ち着いた拍節で」199246 5~6行「再びとても落ち着いて」247287 小結尾「中庸に」288302a 主部変奏(第4節)オーケストラ導入「重く」303375c 1~3行「速まることなく」375381 オーケストラ間奏「ア・テンポ」381389 4~6行389405 第5節1~2行405429 副次部第I変奏(第5節3~5行)430459a 副次部第II変奏(第6節)1~3行460489C 3~4行490508 コーダ509572

*   *   *

形式の概略:Henry Louis de la Grange, Mahler vol.3 (フランス語版) pp.1136,1142,1145,1150,1153,1165所収。(譜例は略。なお大地の歌についてはフランス語版と英語版の分析に相違が見られる)
1.地上の苦しみについての乾杯の歌第1節A115前奏Allegro pesante/A tempo sostenutoa, A/a
1652第1セクションSchon winkt der Wein
5388第2セクションとリフレインWenn der Kummer nahtSempre l'istesso tempo, とても静かにd, G/g
第2節A89111間奏Tempo I subitog, c, D, a
112152第1セクションHerr dieses Hauses!B, Ges, Es, es, Aes, aes
153192第2セクションとリフレインEin voller Becher- A tempo, とても静かに
第3節(展開)B203263間奏f, B, c
264325詩節Das Firmament/ Du aber Mensche情熱的に
第4節A1326329詩節とリフレインSeht dort hinab!抑えてa, c, B, aes, A, a, A, A, a
後奏393405
2.秋に孤独な人前奏124少しひきずって、疲れてd
第1節2532A1Herbstnebel wallen少し抑えてd(B), g
3338B1流れるように
第2節3959A2Man meintTempo I subito (少し引きずって)d/D, g, d
6062B2流れるように
第3節6369A3Bald werdenTempo I subitoB
7077B3優しく動いて、再び抑えて
第4節7891A4Mein Herz ist müdeTempo I:急がずにd, Es, B, D
92101B4Ich komm'zu dir引きずらずに
第5節102120A5Ich weine vielTempo Id, g
121135B5Der Herbst流れるように/大きく飛躍してEs
後奏136154Tempo I subitod
3.若さについて134A1-2Mitten in dem kleinen気楽に、活気を持ってB
3569B3-4In dem Häuschen同上G
7096C5Auf des kleinen Teichenより静かにg
97116A';B'6-7Alles auf der Köpfeゆっくりと/Tempo I subitoB
4.美について16導入Comodo. DolcissimoG
727A1-2Junge Mädchen幾らか流れるように
2832間奏より静かに
3242Sonne spiegeltA tempo(より静かに)E
4349間奏少しずつ活気付いてG,D
5061前奏Più mosso subito行進するように中庸にC
6271B3-4O sieh, was tummeln更にいっそう速く
7287間奏常により流れるように/Allegro-C
8895Das Ross des einen更に流れるように/更にいっそう急いでF/D
9697前奏Tempo I subitoB
98101A15Goldne Sonne(Andante)
102106間奏
106124Und die Schönste全く静かにG
124144コーダ
5.春に酔える者13導入(繰返し)AllegroA
48A+1Wenn nur ein TraumPesante... A tempoB
815BIch trinke, bisF
1517繰返しA
1821A+2Und wenn ich nichtPesante... A tempoB
2225導入F
2628BSo tauml'ich bis
2932繰返し
3237A+3was hör'ichA tempo... より静かに/更に静かにB
3744BIch frag'ihnRitenuto. ゆっくりとA
4546繰返しTempo I subitoF
4750A+4Der Vogel zwitschertB
5164BDer Lenz ist daためらって/全くゆっくりと/いくらか流れるようにDes/Aes
65715Ich fülle mirTempo IF, C/c
7274繰返しA
7579A+6Und wenn ich nichtB
8087BUnd wenn ich nichtF
8789繰返しAllegroA
6.別れA119導入4/4-5/4重くc
2026レシタティーヴォno.1Die Sonne scheidet自由流れるように。拍子をとって
2732間奏Tempo I
3239O sieh! wie eine SilberbarkeC/c
3954Ich spüref
B 第1リート5570前奏Alla breve非常に中庸にF
7180Der Bach singt少し活気付いてd,a
81101間奏Pesante
102110Die Erde atmetA TempoF
111118間奏流れるように
118128Die müde Menschen2/2-3/2急がずにcis/Des
128136間奏Alla breve
137147Die Vöegel hocken stilla
148149Die Welt schläft einゆっくりと
150157間奏6/4-4/4-5/4
158165レシタティーヴォno.2Es wehnt kühl自由非常に均等に、急がずに
C 第2リート166198前奏3/4流れるようにB
199229Ich sehne mich気付かれずに一つ振りに移行する
229236間奏非常に流れるように
237287Ich wandle再び非常に静かに、急がずに
288302間奏(鳥)Alla breve中庸にa
A'303375第2部の前奏4/4重くc
375381レシタティーヴォno.3Er stieg vom Pferd急がずに
381389間奏
390394Er sprach
第3リート394409Du mein FreundC
410419Wohin ich geh'?6/4(3/2)-4/4Rit. ゆっくりとc/C
B'420449Ich wandleAlla breveとても中庸にF
450459後奏
C'460527Die liebe Erde3/4ゆっくりとC
527572Ewig, ewigクレシェンドせずに!
(2009.9.22)

2009年9月21日月曜日

作品覚書(10)第10交響曲(2021.5.9更新)

よく知られているように、第10交響曲は未完成のまま遺された。しかもそれは第9交響曲のように、 フル・スコアの形態にまで至らなかったため、遺された草稿からその構想を窺うことは可能でも、 最終的な音響的な実現は望むべくも無い。アドルノが倣岸に言い放ったように、それはそうした ファクシミリにアクセスでき、それを読み取って未完の部分を補完する機会と能力に恵まれた人間に のみ許される特権と化するところであった。
だが、この第10交響曲は幾多の未完成作品と比べても、際立って恵まれた状況にあると言えるだろう。 イギリスの音楽学者デリック・クックを中心とした演奏用バージョンの補筆作業によって、私のような 市井の愛好家、しかも年端も行かぬ子供ですらその全体像に近づくことが可能になっているのだ。
ところで、この作品を聴いた人は、シェーンベルクがプラハ講演において第9交響曲について述べた言葉を 反芻しつつ、この音楽が一体「どこ」で鳴っているのか、不思議な思いに捉われるではなかろうか。 あるいはそんなことはなく、他のマーラーの作品と何ら違いなく聴ける人もいるかも知れないが、私個人の場合には 初めて聴いて以来、今日までそういった聴き方はずっとできないでいる。別に敬して遠ざけたり、あるいは忌避 したりしているということはなく、実際には例えば第8交響曲は勿論、第5交響曲のように自分にとって比較的 距離感のある作品に比して、第10交響曲を聴く頻度は遙かに高いというのに、それでもなお、その音楽を聴くたびに、 一体音楽が鳴っているこの「場所」がどこなのかを言い当てる適当な言葉を見つかられないでいるのだ。
そうした私にとっての最大の近似値は以下に示す、ヘルダーリン晩年の断片が語られている場所である。
 
Wenn aus der Ferne, da wir geschieden sind,
 Ich dir noch kennbar bin, dir Vergangenheit,
  O du Theilhaber meiner Leiden!
   Einiges Gute bezeichnen dir kann,

So sage, wie erwartet die Freundin dich,
 In jenen Gärten, da nach entawlicher
  Und dunker Zeit wir uns gefunden?
   Hier an den Strömen der heiligen Urwelt.

Da muß ich sagen, einiges Gutes war
 In deinen Bliken, als in den Fernen du
  Dich einmal fröhlich umgesehen
   Immer verschlossener Mensch mit finstrem

Aussehn. Wie flossen die Stunden dahin, wie still
 War meine Seele über der Wahrheit ...

In meinen Armen lebte der Jüngling auf,
 Der, noch verlassen, aus den Gefilden kam,
  Die er mir wies, mit einer Schwermuth,
   Aber dir Nahmen der seltnen Orte

Und alles Schöne hatt' er behalten, das
 An seeligen Gestaden, auch mir sehr werth
  In heimatlichen Lande blühet,
   Oder verborgen, aus hoher Aussicht,

Allwo das Meer auch einer beschauen kann,
 Doch keiner seyn will. Nehme vorlieb, und denk
  An die, die noch vergnügt ist, darum,
   Weil der entzükende Tag uns anschien ...

この詩断片の語りの場というのもまた異様で、まるで世の成り行きから超絶した、 異世界のほとりで、かつて自分がその只中を彷徨った世の成り行きを遙かに望みながら 語っているかのようだ。そして、ほとんど同じ印象を、私はマーラーの第10交響曲についても 抱かずにはいられないのである。単に過去を振り返っているのではない。その過去の出来事の 生起したのとは別の場所にいるような感じがしてならない。要するに、シェーンベルクの言っていた あの一線を、やはりこの曲は越えてしまっているのでは、という感覚を否定し難いのだ。 (2008.10.5 この項続く。)
*   *   *
形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。第1楽章全集版、第2~第5楽章クック版)
第1楽章(ソナタ形式)呈示部導入部「アンダンテ」115?
主部「アダージョ」1627Fis
副次部2839fis
呈示部変奏反復導入部「アンダンテ・コメ・プリマ」4048?
主部「テンポ・アダージョ」4980Fis
副次部「ア・テンポ(流れるように)」81104fis
展開部導入部105111?
副次部(導入部)展開112121a
主部・副次部展開122140Es-fis-A-fis-dis-F
展開再現部主部展開再現141152Fis(-G-H)
副次部展開再現153177fis
(展開部118~125)(172)(175)
主部反復展開再現178183Fis
導入部「いくらか躊躇うように」184193?
カタストロフ的絶頂発現194198as
主部・副次部挿入199202
コーダ213275Fis
第2楽章(スケルツォ)スケルツォ主部「速い4分音符で」122fis
主部展開2359
移行句6075
副次部「より荘重に」76130F
主部展開(「テンポI」)131164fis
トリオI第1部分「すぐに非常により遅く ゆったりとしたレントラーのテンポで」165185Es
第2部分186201g
第3部分(第1部分展開)202234Es-H-Es
第4部分(第2部分展開)「ひきずることなく」235245es
スケルツォ主部展開「テンポIスビト」246255fis
副次部展開256269Es
主部展開270278fis
副次部展開「再び留めるように」279299D
トリオIIトリオI第1部分展開「センプレ・アレグロ しかしいくらかより幅広く」300319D
同第2部分展開「いくらか落ち着いて」320330C
同第1部分展開331347D
同第2部分展開「ひきずることなく」348365
スケルツォ主部・副次部展開「ひきずることなく」366415F-C-F
スケルツォ・トリオ展開「すぐに控え目に、非常に表出的に」416477Fis-B-Fis-D
コーダ「いくらか荘重に~いくらか切迫して」478522
第3楽章(3部形式)A導入「アレグレット・モデラート」16b
第1部分「速すぎず」724
第2部分「少し流れるように」2534B
第3部分3541
第4部分4252b
第5部分5363
B第1部分「切迫して」6483d
第2部分(溜め息1)「いくらか控え目に」8491
第3部分(溜め息2)「再び控え目に」9295
第4部分「あわてずに」96106
第5部分(溜め息3,4)「控え目に」107114
第6部分「落ち着いて」115121
A(ダ・カーポ)導入「テンポI」122125b
第1部分「速すぎず」126142
第2部分144153
第3部分154160b/B
コーダ161170b
第4楽章(スケルツォ)スケルツォ導入「アレグロ・ペザンテ、速すぎず」14e
主部564
副次部65106E/e
主部展開107122e
トリオI「ゆったりと」123165C
スケルツォ主部展開「ペザンテ、冒頭のように」166247e
(トリオ挿入‐ダンス)(196)(225)c
(溜め息)(210)(217)
トリオII「ゆったりと」248379A
スケルツォ主部展開「アレグロ・ペザンテ」380409e
トリオIII「ゆったりと」410443H
(クライマックス(溜め息)「モルト・ペザンテ」)(432)(443)
スケルツォ副次部展開「ソステヌート」444520h
(トリオ挿入「急ぐことなく」)(478)(504)c
(溜め息)(486)(493)
コーダ「明らかにより遅くして、影のように」521578
第5楽章(3部形式)導入部葬送音楽「遅く、重く」129d
第1部分「いくらか流れるように、しかし常に遅く」3044d/D
第2部分4557h
第1部分展開5877D/d
葬送音楽「テンポI」7883d
主部第1部分(プルガトリオ・モティーフ)「アレグロ・モデラート」84144
第2部分(溜め息)「燃えるように」145190D/d
(クライマックス)(179)(190)
第3部分(導入部第1部分展開)「ソステヌート」191224F
第4部分(導入部第1部分展開)「非常に落ち着いて」225244H
第5部分(主部第1,2部分展開)「すぐにいきいきと~アレグロ」245266d
第1楽章回想I/188~193「すぐに非常に幅広く」267274fis
I/203~208「第1楽章の同じ箇所のように」275283
I/1~15「アンダンテ(交響曲の冒頭のテンポで)」284298
導入部回想第1部分展開「非常に落ち着いて」299314B
第2部分展開「アダージョ」315322Fis
第1,2部分展開323346-G
第2,1部分展開347372Fis
コーダ373400

*   *   *

形式の概略:Henry Louis de la Grange, Mahler vol.3 (フランス語版) pp.1242,1248,1251,1253,1256所収。(譜例は略。なお第10交響曲についてはフランス語版と英語版で異なる分析が示されている。)
第1楽章はTyll Rohland, Zum Adagio aus der X. Symphonie von Gustav Mahler, in Musik und Bildung, 1973/11に基づく。
第2楽章~第5楽章はDeryck Coockeによる。テンポ指定のうち括弧内のものはCoockeによる。
1. Adagio第1部分115導入(ヴィオラのレシタティーヴォ)AndanteGis? Eis?
1627A(Aの転回:第24小節)AdagioFis
2831I''(I'の予告)引きずらずに
3238I'/B流れるようにfis
3948I(第1の変形)Andante come primaGis? Eis?
4980A2(Aの第1の変形)Tempo AdagioFis
第2部分81104I'/B(変形)A Tempo(流れるように)fis, b
105111I(第2の変形、ここに挿入される)(Andante come prima)b?
112121I''(Iの要素とともに)(少し早めて)a, d/D, e?
122140A, I'', A, I'/B, I''(少し抑えて)H, fis, cis, fis, dis, F
141152A3(Aの変形)(Tempo Adagio. 冒頭ほど幅広くなく)Fis, G, H
153177I'/B(変奏された)(A Tempo. 流れるように)fis, b
第3部分178183A4(展開)(Tempo Adagio. 以前のように流れるように)Fis
184193I(2声での回想)少しためらってA/Eis
194199コラール(全奏)aes
199202A(断片)とI'/B(断片)(引きずらずに)
203212《カタストロフ》(再び幅広く)aes, C, H
コーダあるいはエピローグ213227I'A Tempo, etc.Fis/fis, D
227267A(I:247-252; I'/B:258/9)Fis, Eis?, Cis
267275終止和音Fis
2. Scherzo(no.1)スケルツォ14導入早い四分音符(3/4拍を保って-4/4 Alla breve)cis
522Afis
2342A(再現)
4360展開とクライマックス(急がずに)B, E, G
6075移行(気付かれないようにより中庸に)B
トリオ17696B(さらにより中庸に)F
97110B(変奏された再現)
111116A(短縮された再現)
117130移行
スケルツォ131141A(再現)(Tempo I subito)Aes, D
142151A(展開)D
152162A(再現とクライマックス)fis
トリオ2165186C1(突然ずっとゆっくりと)中庸のレントラーのテンポでEs
187202C2g
203234C1(変奏と展開)Es, H
235245C2(変奏された再現)Es/es
スケルツォ246254A3(Tempo I subito)fis
255269B(展開)(気付かれないように遅くして)Es, C
270278A(Tempo I 速く)fis
279295D
296299C(再現とクライマックス)
トリオ2300346C1(Sempre Allegro 拍を保って、しかしやや幅広く)D,C
347358C2(少し静かに)(引きずらずに)
359365移行Es, H
トリオ1(と2)366375BとC(展開)(A tempo:引きずらずに)F, C
376385C(より速く)C
386407CとAF
408415A(移行とクライマックス)
スケルツォとトリオ2416422A(突然抑えて)(非常に感情を込めて)Fis
423443C(拡大された)とクライマックス(全く静かに、4拍子で振る)
スケルツォとトリオ1,2444457AとC(Tempo I subito、速く)B
458468CFis
469477C(少し抑えて)D
478491AA tempo しかし幾らか急いで
コーダ(トリオ1と2)492502C(拡大された)(Tempo I)Fis
503510B(Pesante)-(急いで)
511522BとC(速く)
3. Purgatorio提示16導入Allegro Moderatob
614A急ぎ過ぎずに
1422A(再現)
2224Aの冒頭(リフレイン)
2532B1幾らか流れるようにB
3334リフレイン
3440B2+リフレイン
4152B3(バス)+リフレイン
展開6481A+B1(前進)d/D
8183リフレイン
8491新しい主題:C1(少し抑えて/a tempo)(F)
9195C2(Cの再現)(再び抑えて)d
96106A(展開)緩めて/(急いで)
106114C(展開とクライマックス)抑えて
115121A(デクレシェンド)(A tempo)(だんだん静かになる)d
再現122125導入(短縮された)(Tempo primo)b
125143A(とリフレイン)(急ぎ過ぎずに)
143151B(とリフレイン)(幾らか流れるように)
153167C(縮小された)とB2(Senza rit. al fine)B/b
167170バスにリフレインを伴った結尾(カタストロフ)
4. Scherzo(no.2)スケルツォ14導入(和音とRa)(Allegro Pesante 速くなく)e
525A1(クライマックスまで展開)
2441A1
4156A1(クライマックスまで)
5664移行e/E
6472A2E
7382A2'g
8398A(新たな終結)e
99114A3 リフレインとクライマックス+導入(A tempo, しかし急かずに)
115122移行(導入とR)
トリオ123137B1(シンコペーションを伴うワルツ)(A tempo. 中庸に)C
137144B1(変奏された再現)
145152B2
152166B3
スケルツォ166184A1(Pesante. 冒頭のように)e
184201B1(Rとともに)(非常に嘆いて)d
202210A3(リフレインとR)
210218クライマックス(A tempo)a
219225B1
226243A1(展開)C
243247移行(およびR)(抑えて)e
248260B1(A tempo. 中庸に)A
261268B2(Rとともに)
268277クライマックス(Pesante)
278286B2(A tempo. 抑えて)
287290移行1A,C
291311移行2(A tempo, しかしとても静かに)A
トリオ311380C(B3の展開)(A tempo. 躍動するように)
スケルツォ380387A1(A tempo. Allegro pesante)e
388409移行
トリオ410423B1(A tempo. 中庸に)H
424431B2
432443クライマックス(Molto pesante)
444451移行(Rとともに)(A tempo sostenuto)h
スケルツォ452461A2
462477A(新たな終結)
478485リフレイン
トリオ486494B1:クライマックス(A tempo)D
495504B2
コーダ505516クライマックス(Rとともに)(Pesante)d
517520B2(変奏された)とR
521548B2(ディミヌエンド)とR(はっきりとゆっくりとして。幽霊のように)
5. Finale導入第1セクション1293(Purgatorio)のモチーフ:3g, Rbと3C(ゆっくりと、重々しく)d
第2セクション3045フルートのソロ:I1(と3C)、和音のモチーフ s/Rc少し流れるように、しかし常にゆっくりとd/D
4458Raを伴ったI2(ヴァイオリン)とI3(和音のモチーフ)H,Es
5866フルートのソロ(ヴァイオリンでの再現)急ぎ過ぎずにD/H
6672クライマックス(Raとともに)
第3セクション7284省略された再提示(Rb, 3g-3b)(Tempo I)h/d
アレグロ第1セクション84/td>98A(Rb, 3gと3C)Allergo moderato(ひきずらずに)d
98104B(3C)の転調(引きずらずに)
104120A
120127B(Purgatorioの引用:第107~111小節)
127145Aの展開とクライマックス
145161変形されたB(火のように)D/d
161176AとBの展開およびクライマックス(急いで)
176186クライマックス:4のリフレイン。Ra(A tempo)d/F
第2セクション186190Rb, 2C, I2(フルート)
190225Rbで中断されるI2など(Sostenuto)F/H
226236I2(中断なし)(全く静かに)
236243I2(拡大、Rcとともに)H/Aes
243245移行(3C)g
245260A(再提示:Rb, 3g, etc.)(突然活気付いて)d
261267B(とRb)、クライマックスまで
267274I1の終わり、クライマックス(Rbとともに)(突然非常に幅広く)(ゆっくりとした2拍子)fis
275283不協和音(Rbとともに)Fis
284298I1(冒頭)の二声での回帰(Andante)(交響曲の最初のテンポで)
299315I2(3Cとともに)(とても静かに)B
315322I2AdagioFis
323340I1
340352I2Fis/G
353372I1(導入の再現)とI2まだAdagioで(急かずに)Fis
コーダ373/td>393I2とI3
394400I1の最初と3
(2009.9.21)

2009年9月19日土曜日

作品覚書(8)第8交響曲

第8交響曲は、第6交響曲とは逆の意味で、今日における評価の定まった作品なのだろうか。この曲に関しては例えば第7交響曲に おけるような議論というのもあまり見られない。日本でいけばバブル期以降、コンサートホールの杮落としを始めとする何かの記念のための プログラムとしてこの曲が取り上げられることは珍しくないが、だからといってこの作品が華々しい復権を遂げたようには見えない。 人はこの曲がそもそもミュンヘンの博覧会のコンサートで初演されたという経緯を思い浮かべるかも知れない。勿論、それは単なる 社交的なイベントではなかった。寧ろ、それは文化的にその時代(と、事後的に見ればその終焉)を象徴するイベントであった。 そして指揮者、歌劇場監督としての名声を誇ったマーラーが短いその生涯の晩年に、それに先立つ悲劇的な出来事の後、ようやく 手に入れた作曲家としての掛け値なしの成功は、この第8交響曲がもたらしたものだった。カトリックの賛歌とゲーテのファウストの終結部という 素材やら、興行主によってある意味では巧みに名づけられ、そして誇大広告でも何でもなかった「千人の交響曲」というコピーをいわば 裏付ける巨大な管弦楽と声楽パートやらも、作品の壮大さを醸し出す。それらは一世紀後の極東の地でバブルを演出するのに 一役買ったのかもしれないが、一体誰がカトリックの賛歌を、ゲーテの戯曲をまともに受け止めたのかを考えれば、今日の文脈では それが「箔をつける」ために利用されるだけの過去の遺物、文化財でしかないという評言の説得力を否定するのは難しいだろう。

一方で、もしかしたらマーラーが、少なくともある時期にはそう希望したかも知れないように、この交響曲をマーラーの創作活動の 頂点に置こうとする試みもないことはない。何しろ、実演の効果は抜群であり、実演に接したものが抱く印象には強烈なものがある。 こうした作品は、その是非は置くとして、一度実演に接した上で評価をすべきではないかという気はする。そうした実演での強烈な 印象に或る種の危険やまやかしの類を嗅ぎ付けて否定するのは結構だが、それは実演に接した上での拒絶であるべきではなかろうか。 ましてここでの文脈では、マーラーを全体として否定するという話ではなく、他の作品の価値を、そして総体としてのマーラーの創作の 価値を、まずは疑いの余地のないものとして捉えた上で、この作品についての留保を行おうという話なのだから。

だが、そうした実演の印象の強度を認めた上で、この作品をマーラーの作品の頂点に置くことに躊躇いを感じる人はやはり 少なくないだろうし、上述の擁護の論調は結局のところ説得力を持つものになり得ていないように感じられる。何よりも、 マーラーの作品を総体として捉えようとしたときの展望が、この作品の特異性を浮び上がらせるのだ。端的に言って 一体この曲をどのように位置づけたら良いものなのか、途方に暮れる人が居たとしても不思議は無い。第7交響曲までを この作品のための準備、前置きとして捉えよ、という(何しろ作曲者本人が言ったわけだから)オーセンティシティさえ認められる 主張に従ったところで、それでは後続する作品群との繋がりをどのように理解したらよいのか、杳として知れないということになりかねない。勿論、 すべての作品が矛盾ない展望の下に位置づけられなくてはならないなどという話は始めからありはしないのだが、 ことマーラーの場合については、得てしてそういった展望の下で語られる傾向が強いだけに、一層具合が悪いには 違いないのである。途方に暮れた挙句に、なかったことにしてしまい、作品としての価値よりも、マーラーの生涯に おけるイベント、文化史における事件としての価値のみ触れておしまいにしてしまおうと考えた人がいても 無理からぬところはあるし、現実にそうしたことは作品解説を標榜するような書籍においてすら起きていもするのだ。

その一方で、この作品自体の持っている構造を、これまでさんざん行われてきた歌詞に由来する表現内容の問題とはとりあえず別の レヴェルで検討したときに得られる展望がどのようなものであるかを考えようとしたとき、思いのほかそうしたレヴェルでの議論が為されていないのでは という思いに囚われるのは、私だけだろうか。肯定するにせよ否定するにせよ、歌詞に由来する表現内容を抜きにした議論というのは困難なのか、 あまり思い当たるものもないのだが、その中で私が真っ先に思いつくのは、シェーンベルクのあのプラハ講演の中で、よりによってこの第8交響曲に 言及するくだりである。

シェーンベルクのマーラーへの評価には、直接その人を知る人間にありがちな人間性に関する或る種の「聖化」の傾向をおくとしても、 純粋に作曲技法上の平面でのそれにおいてですら、孫弟子であったはずのアドルノを戸惑わせるような側面があって、例えば物議をかもす第7交響曲のフィナーレを よりによって高く評価したりといった点についてはアドルノが半ばあきれたように言及しているほどなのだが、これまた巷では評判の悪いこの第8交響曲についてもまた、 プラハ講演で、マーラーの旋律構成の芸術性の著しさの証として(あの有名な第6交響曲アンダンテの主題の分析に先立って)言及しているのである。 シェーンベルクによれば、マーラーの旋律の異様なほどの息の長さは和音の反復を招来することになるが、それは他の人の場合と異なって、消耗してしまう どころかますます燃えさかり、最高度の刺激にまで高まるという。その例としてシェーンベルクは第8交響曲第1部に頻出する変ホ長調のIの四六の和音に 注目する。

Wie oft kommt dieser Satz nach Es-Dur, zum Beispiel auf einen Quartsextakkord! Jedem Schüler würde ich das wegstreichen und ihm empfehlen, eine andere Tonart aufzusuchen. Und unglaublich : hier ist es richtig! Hier stimmt es! Hier dürfte es gar nichts anders sein. Was sagen die Gesetze dazu? Man muß eben die Gesetze ändern!

実際には私はシェーンベルクに命じられて別解を探すだけの訓練を受けてきていないから、実はこの文章がレトリックに過ぎないのかどうかを自ら判断する 資格はないということになるだろう。だが多分、他の人が見つけてくるかも知れない別解を実際に聴けば、きっとシェーンベルクの主張の正しさを都度確認 することになりそうだという感触を持つくらいにはマーラーの音楽を自分の中に埋め込んでいるとは主張できるだろうと思う。

第8交響曲への懐疑派が 頼りにしているらしいアドルノも、実際に彼の文章を読むと、確かに揶揄交じりの評言を見つけることはできるけれども、そこに奇妙な躊躇いがあるのを 感じずにはいられない。アドルノは少なくとも自分が聴いたヴェーベルンが指揮した第8交響曲の実演の経験には忠実であろうとしているように見える。 そこで私は、上記のシェーンベルクの発言とアドルノがヴェーベルンの演奏で聴いたAccende lumen sensibusに見出したものとを、アドルノ自身が マーラーの観相学のために用意したカテゴリーを使って橋渡ししてみようと思う。つまるところ私には、第8交響曲全曲が1つの「突破」Durchbruchなのでは ないかという気がしてならないのである。こうしたことはヴェーベルンのような時間の圧縮においては当然に考えうるだろうが、よりによって水平・垂直次元のみならず、 セカンダリー・パラメータに関しても、西欧音楽の極限とまで言われるほどに拡大したこの第8交響曲全体が1つの「突破」であるというのは、拡大解釈もいいところかも知れない。 だが、Durchbruchを脱心理学化して、例えばホワイトヘッドのプロセス哲学的な時間論に移殖したとしたら、それは「時の逆流」という解釈が問題になるような相と 比較することが可能なものではなかろうか。

要するに第8交響曲は「瞬間」の拡大、現在のある相を極限まで押し拡げる実験であるように思える。実際、この音楽はある意味ではどこへも向かわない。 この音楽が展開される時間というのは、日常的な時間の中に出来た裂け目のようなものであって、それゆえある意味では、この世の営みにおいてはほとんど「無益」な ものに違いない。マーラー自身はそう思わなかったかも知れないし、彼の時代には不可能であったのだが、例えば今日、自室のPCでこの音楽を聴くことが 如何に滑稽で場違いなことかを思えば、その「無益さ」は明らかであろう。その音楽が終わったあと、あなたは何をするだろう。その後の生活はこの音楽によって どう変化するだろうか。かつてマーラー自身が第2交響曲においては或る意味では先回りをして予見していたとおり「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」よろしく、 元の木阿弥ということはないだろうか。だが、長い成立史を持つ第2交響曲と異なって、第8交響曲は或る意味では一気に書きあげられたという成立史上の事情も あって(そしてそれは実際、決して無関係ではないと思われる)、ここではそうやって侵入してきた「何か」がいわば無媒介に晒されているかのようである。勿論その「何か」の 異様さ、力の例外的な激しさは作品に見事に定着されているから、聴く人がそれに気付かないということは恐らくありえないのだが、今度は音楽が自ら歌詞によってそう 注釈しているとおり、所詮は「移りろいゆくもの」、「仮象」に過ぎないのであれば、全くの無ではないとはいっても、日常の時間性の流れにその瞬間もまた押し流されて いってしまうのだろう。この場合、この曲が傑作であるかどうかといった審美的な評価などどうでもいいことで、この音楽はある基準に従って評価される何者か ではなく、寧ろそうした美的な判断の手前にある経験を捉えようとする試みなのである。アドルノが珍しくカバラの用語さえ引用し、更には「救い主の危険」といった 言い回しを用いるだけの力がこの作品には宿っているのだ。 (2009.6.29 この項続く)

*   *   *

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。)
第I部(ソナタ形式) 呈示部第1主題呈示(第1節前半)「アレグロ・インペトゥオーソ」120Es
第1主題後半(同上)2130
経過部(同上)3145
第2主題呈示(第1節後半)「ア・テンポ 少し(しかし分からぬくらい)抑えて、それでも流れるように」4679Des-As
第2主題後半(第2節)80107
経過部(第1主題、第1節)108123Es
オーケストラ間奏「テンポI」124140-d
小結尾(第3節前半)「少し抑えて」141168-Es
展開部オーケストラ間奏「テンポI(アレグロ、少し慌てて)」(第1主題展開1)169216(-as)
第1主題展開2(第3節)「再び非常にゆっくりとひきずることなく」217257cis-F-D
経過部「ただちに非常に幅広く、情熱的な表現で」258261
第1主題展開3(第3節後半)「ただちに躍動して」262289E
第1主題展開4(第4節前半)290311e
第1主題展開5(二重フーガ)(第4節後半、第5,6節)312365Es-A-Des
第1主題展開6(第3節後半)366412E-Es
再現部第1主題前半再現(第1節第1行)413431
第2主題後半再現(第2節後半)432440
第1、第2主題対置(第7節、第4節第2行)「もとのテンポで」441487
オーケストラ後奏488503As-E
コーダ(第8節)504580Es-Des-B-Es
第II部 オーケストラ前奏「ポコ・アダージョ」196es
「ピウ・モッソ(アレグロ・モデラート)」97146
『まだ天使になりきれていない天使たち』予示147162
小結尾163166
聖なる隠者たち『聖なる隠者たちの合唱と谺』「再びゆっくりと」167218
『法悦の教父』「モデラート」219260Es
accende動機「アレグロ」261265
『瞑想する教父』「ただちに以前より少しゆっくりと(アレグロ・アパッショナート)」266362es
小結尾363384
天使たち、少年たち『天使たちの合唱』「アレグロ・デチーゾ」(I/262~,366~)385440H
『早逝した童児たちの合唱』予示「アレグロ・モッソ」(II/613~,1187~)418435
経過部「モルト・レジェッロ」436442G
『まだ天使になりきれていない天使たち(バラの合唱)』「スケルツァンド」443519Es
オーケストラ間奏(accende動機)520539
オーケストラ間奏「少しゆっくりと、そして少し中庸に」(I/135~)540551d
『まだ天使になりきれていない天使たち』「最初は少し抑えて」581(612)
マリア崇拝の博士と女性たち『マリア崇拝の博士と昇天した童児たち』「アレグロ・デチーゾ」604638G-H
『マリア崇拝の博士』「同じテンポで」639757
(accende動機)(704)(723)Es
オーケストラ間奏(accende動機)「ポコ・ピウ・モッソ」758779Es/E
栄光の聖母飛来『マリア崇拝の合唱』「かなりゆっくりと、アダージッシモ」780844E
『贖罪の女性たちの合唱』「流れるように」844867H
『罪いとふかき女』「流れるように」868905-Es
『サマリアの女』「同じテンポで」906956es-Es
オーケストラ間奏956967
『エジプトのマリア』「流れるように」(II/474~82)9681016g-Es
『3人の重唱』「とても流れるように、ほとんど飛ぶように」(II/436~バラの合唱)10171093C-A-a-F
『懺悔する女性のひとり』(栄光の聖母動機10931141D
『昇天した童児たちの合唱』11411185
『昇天した童児たちの合唱』「アレグロ」11861212B
『懺悔する女性のひとり』(I/第1,2主題)「再びもとのテンポで(第1部の同所よりも新鮮に)」12071248
(accende動機)(1243)(1248)Es
『栄光の聖母』「とてもゆっくりと」12491276Es
『マリア崇拝の博士』と合唱「賛歌のように」12771383-E-Es
オーケストラ間奏「流れるように」13841420
神秘の合唱オーケストラ前奏(ゆっくりと)14211448
『神秘の合唱』「とてもゆっくりと始まり」14491528
第I部冒頭主題回帰「流れるように」15281572

*   *   *

形式の概略:Henri Louis de La Grange, Mahler vol.3(フランス語版), pp.1100--1, 1105--7所収のもの(英語版第3巻pp.914-5, pp.919-921と照合して一部修正)
ローマ数字や英字は譜例のIDを表す(譜例は略)
第I部提示145主題A1(2-5); A'(5-7); A1とA''(8); A2(22-25), 《Veni creator》Allegro impetuosoEs, B, Es
46107主題B1(A',A2とともに); B2(あるいはA'':第80小節); B', 《Imple superna gratia》いくらか中庸に、常に非常に流れるようにDes, Aes, B
107122主題A1(B1とともに), 《Veni creator》Sempre a tempo / PesanteEs
122134間奏/管弦楽(A',A1,A'',D)Tempo primo
135141前奏/管弦楽(A',A'',D)新たにもう一度遅くd
141168主題C(A',B, A', B1), 《Infirma nostri corporis》少し抑えて/とても静かにEs
展開第1セクション169216前奏/管弦楽(A1,A'の転回)Tempo I. Allegro, 少し急いでAes, cis, F, D, C, H
217261主題D(A'の変奏)(A1, B1), 《Infirma nostri corporis》以前のように再びまた遅くcis, F, D, C, E
第2セクション262311主題E(A'の変形)(A', A1, A2およびIV/3), 《Accende lumen》突然躍動してE, D, E, e
第3セクション312412二重フーガ(A', A2, E, ついでB1, 第385小節以降), 《Praevio te Ductore》Es, A, Aes, E
再現(省略された)413441主題A1(A', A'', A2, B2=A''), 《Veni creator》‐より抑えてEs, B
441474A', A'', B1, 《Da gaudiorum premia》再び元のテンポでAes
474493A', A2, 《Ductore praevio》
コーダ494518主題C(A', D, 拡大されたD), 《Gloris Patri》より幅広く/再び早く/PesanteE, Es, Des, b, B
519540主題A (B', C, A2), 《Gloria sit Domino》Tempo primoB, Es
541580(A, A', E, A2)流れるように/気付かれないように二拍子に移行する
第II部導入(管弦楽)136IV/2a(オスティナート), V/1A, V/1a(最初の合唱の予告)Poco Adagioes
5796V/1a, V/1b, V/1A(法悦の教父の独唱の予告)いくらか動きをもって
97146V/3, V/1aとIV/2A, V/3とV/1b, V/1aとV/1b (瞑想する教父の独唱と天使の行進主題《Nebelnd um Felsenhöh》)Più mosso
147166コーダ:V/1C(IV/3の変奏), V/1b
提示第1部分167218V/1Aと1a, IV/2a, 合唱:《Waldung, sie schwankt》再びゆっくりとes/Es
219265V/1aと1b, バリトン:法悦の教父 《Ewige Wonnnebrand》Moderato
266362V/3とIV/2a, バス:瞑想する教父 《Wie Felsenabgrund》Allegro appassionatoes(Ces)
362384後奏(管弦楽) V/3, V/1A
第2部分385436EまたはIV/2A, IV/2, IV/3b, 女声合唱:《Geretet ist》 児童合唱《Hände verschlinget》Allegro decisoH, G, Es
436520VI/1, VI/2, VI/3, VI/1a, VI/4, 女声合唱 《Jene Rosen》Scherzando, Molto leggieroEs
520539後奏(管弦楽) E(IV/2), VI/1, VI/2aAllegro appassionato
第3部分540552前奏(管弦楽)=I/1aとI/2, III/2A (I/1a, 2a)既に少しゆっくりとd, Es
552579主題C(I/1a), ついでI/2a, 合唱 《Uns bleibt》とアルト独唱第1部の同じ場所のように
展開第1セクション580604V/3, V/1c, IV/3b 合唱:《Ich spür'soeben》最初はまた少し抑えてEs
604638IV/3b, 女声合唱、ついで児童合唱とテノール独唱 《Hier ist die Aussicht》再び少し速めてG, H
639723IV/2a, IV/1, f, テノール独唱 《Höchste Herrin》Sempre l'istesso tempoE, Es
724757V/2, IV/2a, E, f, テノールおよび合唱 《Jungfrau rein》とてもゆっくりとEs
758779間奏 IV/2a, V/2Poco più mossoEs-E
第2セクション780803前奏(管弦楽) V/2(A''と類似)極度にゆっくりと AdagissimoE
804824V/2, 男声合唱 《Dir, der Unberührbaren》
825844V/4, 混声合唱 《Wer zerreist》ゆっくりと、ただようように
844867V/2, ソプラノ/合唱IIとソプラノ独唱II 《Du schwebst zu Höhen》流れるようにH
868905V/2a, VI/1, ソプラノI:罪深き女《Bei der Liebe》h, gis, Es
906956VI/1, アルトI:サマリアの女《Bei der Bronn》常に同じテンポでb, Es
957967後奏(管弦楽) VI/1
9681016VI/3とVI/1, V/2a, アルトII:エジプトのマリア 《Bei der Hochgeweihten》常に流れるようにg
10171093VI/1, VI/2, V/2a, 上記3人の重唱 《Die du grossen》とても流れるように、ほとんど急くようにC, A, F
10931103VI/1a, VI/4, V/2とともに、前奏(管弦楽)やや中庸にしてD
11041129V/2, E(IV/2) ソプラノII:懺悔する女 《Neige, neige》
11301137後奏(管弦楽) V/2, VI/1a
11381185V/2, V/2a, b, 児童合唱 《Er überwächst uns》気付かれないように早くして
11851212VI/1, S, f, 児童合唱:同上、ソプラノII:懺悔する女 《Von edlen Geisterchor》AllegroB
12131248B, III/1, III/2, I/1, I/2 ソプラノII:懺悔する女 《Er ahnet kaum》 《Imple》の引用第1部の対応する部分のように
第3セクション12491276V/2, IV/2a, E ソプラノIIIと合唱:栄光の聖母 《Komm》とてもゆっくりと DolcissimoEs
12771383V/AとV/2A, V/1a, V/A, V/2, V/4, V/2 テノールと合唱、マリア崇拝の博士:《Blicket auf》賛歌のようにC, E
13841420後奏(管弦楽) V/A, IV/2a, IV/1流れるようにEs
エピローグ14211448前奏(管弦楽)IV/2, IV/1ゆっくりと
14481528V/1a, V/2(拡大された), V/Ia 合唱と独唱群 《Alles Vergängliche》とてもゆっくりと始めて/すでに動きをもってetc.
15281572後奏(管弦楽) A'(I/2), I/2a流れるように
(2009.9.19/2012.5.4)