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2009年9月19日土曜日

作品覚書(8)第8交響曲

第8交響曲は、第6交響曲とは逆の意味で、今日における評価の定まった作品なのだろうか。この曲に関しては例えば第7交響曲に おけるような議論というのもあまり見られない。日本でいけばバブル期以降、コンサートホールの杮落としを始めとする何かの記念のための プログラムとしてこの曲が取り上げられることは珍しくないが、だからといってこの作品が華々しい復権を遂げたようには見えない。 人はこの曲がそもそもミュンヘンの博覧会のコンサートで初演されたという経緯を思い浮かべるかも知れない。勿論、それは単なる 社交的なイベントではなかった。寧ろ、それは文化的にその時代(と、事後的に見ればその終焉)を象徴するイベントであった。 そして指揮者、歌劇場監督としての名声を誇ったマーラーが短いその生涯の晩年に、それに先立つ悲劇的な出来事の後、ようやく 手に入れた作曲家としての掛け値なしの成功は、この第8交響曲がもたらしたものだった。カトリックの賛歌とゲーテのファウストの終結部という 素材やら、興行主によってある意味では巧みに名づけられ、そして誇大広告でも何でもなかった「千人の交響曲」というコピーをいわば 裏付ける巨大な管弦楽と声楽パートやらも、作品の壮大さを醸し出す。それらは一世紀後の極東の地でバブルを演出するのに 一役買ったのかもしれないが、一体誰がカトリックの賛歌を、ゲーテの戯曲をまともに受け止めたのかを考えれば、今日の文脈では それが「箔をつける」ために利用されるだけの過去の遺物、文化財でしかないという評言の説得力を否定するのは難しいだろう。

一方で、もしかしたらマーラーが、少なくともある時期にはそう希望したかも知れないように、この交響曲をマーラーの創作活動の 頂点に置こうとする試みもないことはない。何しろ、実演の効果は抜群であり、実演に接したものが抱く印象には強烈なものがある。 こうした作品は、その是非は置くとして、一度実演に接した上で評価をすべきではないかという気はする。そうした実演での強烈な 印象に或る種の危険やまやかしの類を嗅ぎ付けて否定するのは結構だが、それは実演に接した上での拒絶であるべきではなかろうか。 ましてここでの文脈では、マーラーを全体として否定するという話ではなく、他の作品の価値を、そして総体としてのマーラーの創作の 価値を、まずは疑いの余地のないものとして捉えた上で、この作品についての留保を行おうという話なのだから。

だが、そうした実演の印象の強度を認めた上で、この作品をマーラーの作品の頂点に置くことに躊躇いを感じる人はやはり 少なくないだろうし、上述の擁護の論調は結局のところ説得力を持つものになり得ていないように感じられる。何よりも、 マーラーの作品を総体として捉えようとしたときの展望が、この作品の特異性を浮び上がらせるのだ。端的に言って 一体この曲をどのように位置づけたら良いものなのか、途方に暮れる人が居たとしても不思議は無い。第7交響曲までを この作品のための準備、前置きとして捉えよ、という(何しろ作曲者本人が言ったわけだから)オーセンティシティさえ認められる 主張に従ったところで、それでは後続する作品群との繋がりをどのように理解したらよいのか、杳として知れないということになりかねない。勿論、 すべての作品が矛盾ない展望の下に位置づけられなくてはならないなどという話は始めからありはしないのだが、 ことマーラーの場合については、得てしてそういった展望の下で語られる傾向が強いだけに、一層具合が悪いには 違いないのである。途方に暮れた挙句に、なかったことにしてしまい、作品としての価値よりも、マーラーの生涯に おけるイベント、文化史における事件としての価値のみ触れておしまいにしてしまおうと考えた人がいても 無理からぬところはあるし、現実にそうしたことは作品解説を標榜するような書籍においてすら起きていもするのだ。

その一方で、この作品自体の持っている構造を、これまでさんざん行われてきた歌詞に由来する表現内容の問題とはとりあえず別の レヴェルで検討したときに得られる展望がどのようなものであるかを考えようとしたとき、思いのほかそうしたレヴェルでの議論が為されていないのでは という思いに囚われるのは、私だけだろうか。肯定するにせよ否定するにせよ、歌詞に由来する表現内容を抜きにした議論というのは困難なのか、 あまり思い当たるものもないのだが、その中で私が真っ先に思いつくのは、シェーンベルクのあのプラハ講演の中で、よりによってこの第8交響曲に 言及するくだりである。

シェーンベルクのマーラーへの評価には、直接その人を知る人間にありがちな人間性に関する或る種の「聖化」の傾向をおくとしても、 純粋に作曲技法上の平面でのそれにおいてですら、孫弟子であったはずのアドルノを戸惑わせるような側面があって、例えば物議をかもす第7交響曲のフィナーレを よりによって高く評価したりといった点についてはアドルノが半ばあきれたように言及しているほどなのだが、これまた巷では評判の悪いこの第8交響曲についてもまた、 プラハ講演で、マーラーの旋律構成の芸術性の著しさの証として(あの有名な第6交響曲アンダンテの主題の分析に先立って)言及しているのである。 シェーンベルクによれば、マーラーの旋律の異様なほどの息の長さは和音の反復を招来することになるが、それは他の人の場合と異なって、消耗してしまう どころかますます燃えさかり、最高度の刺激にまで高まるという。その例としてシェーンベルクは第8交響曲第1部に頻出する変ホ長調のIの四六の和音に 注目する。

Wie oft kommt dieser Satz nach Es-Dur, zum Beispiel auf einen Quartsextakkord! Jedem Schüler würde ich das wegstreichen und ihm empfehlen, eine andere Tonart aufzusuchen. Und unglaublich : hier ist es richtig! Hier stimmt es! Hier dürfte es gar nichts anders sein. Was sagen die Gesetze dazu? Man muß eben die Gesetze ändern!

実際には私はシェーンベルクに命じられて別解を探すだけの訓練を受けてきていないから、実はこの文章がレトリックに過ぎないのかどうかを自ら判断する 資格はないということになるだろう。だが多分、他の人が見つけてくるかも知れない別解を実際に聴けば、きっとシェーンベルクの主張の正しさを都度確認 することになりそうだという感触を持つくらいにはマーラーの音楽を自分の中に埋め込んでいるとは主張できるだろうと思う。

第8交響曲への懐疑派が 頼りにしているらしいアドルノも、実際に彼の文章を読むと、確かに揶揄交じりの評言を見つけることはできるけれども、そこに奇妙な躊躇いがあるのを 感じずにはいられない。アドルノは少なくとも自分が聴いたヴェーベルンが指揮した第8交響曲の実演の経験には忠実であろうとしているように見える。 そこで私は、上記のシェーンベルクの発言とアドルノがヴェーベルンの演奏で聴いたAccende lumen sensibusに見出したものとを、アドルノ自身が マーラーの観相学のために用意したカテゴリーを使って橋渡ししてみようと思う。つまるところ私には、第8交響曲全曲が1つの「突破」Durchbruchなのでは ないかという気がしてならないのである。こうしたことはヴェーベルンのような時間の圧縮においては当然に考えうるだろうが、よりによって水平・垂直次元のみならず、 セカンダリー・パラメータに関しても、西欧音楽の極限とまで言われるほどに拡大したこの第8交響曲全体が1つの「突破」であるというのは、拡大解釈もいいところかも知れない。 だが、Durchbruchを脱心理学化して、例えばホワイトヘッドのプロセス哲学的な時間論に移殖したとしたら、それは「時の逆流」という解釈が問題になるような相と 比較することが可能なものではなかろうか。

要するに第8交響曲は「瞬間」の拡大、現在のある相を極限まで押し拡げる実験であるように思える。実際、この音楽はある意味ではどこへも向かわない。 この音楽が展開される時間というのは、日常的な時間の中に出来た裂け目のようなものであって、それゆえある意味では、この世の営みにおいてはほとんど「無益」な ものに違いない。マーラー自身はそう思わなかったかも知れないし、彼の時代には不可能であったのだが、例えば今日、自室のPCでこの音楽を聴くことが 如何に滑稽で場違いなことかを思えば、その「無益さ」は明らかであろう。その音楽が終わったあと、あなたは何をするだろう。その後の生活はこの音楽によって どう変化するだろうか。かつてマーラー自身が第2交響曲においては或る意味では先回りをして予見していたとおり「魚に説教するパドヴァの聖アントニウス」よろしく、 元の木阿弥ということはないだろうか。だが、長い成立史を持つ第2交響曲と異なって、第8交響曲は或る意味では一気に書きあげられたという成立史上の事情も あって(そしてそれは実際、決して無関係ではないと思われる)、ここではそうやって侵入してきた「何か」がいわば無媒介に晒されているかのようである。勿論その「何か」の 異様さ、力の例外的な激しさは作品に見事に定着されているから、聴く人がそれに気付かないということは恐らくありえないのだが、今度は音楽が自ら歌詞によってそう 注釈しているとおり、所詮は「移りろいゆくもの」、「仮象」に過ぎないのであれば、全くの無ではないとはいっても、日常の時間性の流れにその瞬間もまた押し流されて いってしまうのだろう。この場合、この曲が傑作であるかどうかといった審美的な評価などどうでもいいことで、この音楽はある基準に従って評価される何者か ではなく、寧ろそうした美的な判断の手前にある経験を捉えようとする試みなのである。アドルノが珍しくカバラの用語さえ引用し、更には「救い主の危険」といった 言い回しを用いるだけの力がこの作品には宿っているのだ。 (2009.6.29 この項続く)

*   *   *

形式の概略(長木「グスタフ・マーラー全作品解説事典」所収のもの。)
第I部(ソナタ形式) 呈示部第1主題呈示(第1節前半)「アレグロ・インペトゥオーソ」120Es
第1主題後半(同上)2130
経過部(同上)3145
第2主題呈示(第1節後半)「ア・テンポ 少し(しかし分からぬくらい)抑えて、それでも流れるように」4679Des-As
第2主題後半(第2節)80107
経過部(第1主題、第1節)108123Es
オーケストラ間奏「テンポI」124140-d
小結尾(第3節前半)「少し抑えて」141168-Es
展開部オーケストラ間奏「テンポI(アレグロ、少し慌てて)」(第1主題展開1)169216(-as)
第1主題展開2(第3節)「再び非常にゆっくりとひきずることなく」217257cis-F-D
経過部「ただちに非常に幅広く、情熱的な表現で」258261
第1主題展開3(第3節後半)「ただちに躍動して」262289E
第1主題展開4(第4節前半)290311e
第1主題展開5(二重フーガ)(第4節後半、第5,6節)312365Es-A-Des
第1主題展開6(第3節後半)366412E-Es
再現部第1主題前半再現(第1節第1行)413431
第2主題後半再現(第2節後半)432440
第1、第2主題対置(第7節、第4節第2行)「もとのテンポで」441487
オーケストラ後奏488503As-E
コーダ(第8節)504580Es-Des-B-Es
第II部 オーケストラ前奏「ポコ・アダージョ」196es
「ピウ・モッソ(アレグロ・モデラート)」97146
『まだ天使になりきれていない天使たち』予示147162
小結尾163166
聖なる隠者たち『聖なる隠者たちの合唱と谺』「再びゆっくりと」167218
『法悦の教父』「モデラート」219260Es
accende動機「アレグロ」261265
『瞑想する教父』「ただちに以前より少しゆっくりと(アレグロ・アパッショナート)」266362es
小結尾363384
天使たち、少年たち『天使たちの合唱』「アレグロ・デチーゾ」(I/262~,366~)385440H
『早逝した童児たちの合唱』予示「アレグロ・モッソ」(II/613~,1187~)418435
経過部「モルト・レジェッロ」436442G
『まだ天使になりきれていない天使たち(バラの合唱)』「スケルツァンド」443519Es
オーケストラ間奏(accende動機)520539
オーケストラ間奏「少しゆっくりと、そして少し中庸に」(I/135~)540551d
『まだ天使になりきれていない天使たち』「最初は少し抑えて」581(612)
マリア崇拝の博士と女性たち『マリア崇拝の博士と昇天した童児たち』「アレグロ・デチーゾ」604638G-H
『マリア崇拝の博士』「同じテンポで」639757
(accende動機)(704)(723)Es
オーケストラ間奏(accende動機)「ポコ・ピウ・モッソ」758779Es/E
栄光の聖母飛来『マリア崇拝の合唱』「かなりゆっくりと、アダージッシモ」780844E
『贖罪の女性たちの合唱』「流れるように」844867H
『罪いとふかき女』「流れるように」868905-Es
『サマリアの女』「同じテンポで」906956es-Es
オーケストラ間奏956967
『エジプトのマリア』「流れるように」(II/474~82)9681016g-Es
『3人の重唱』「とても流れるように、ほとんど飛ぶように」(II/436~バラの合唱)10171093C-A-a-F
『懺悔する女性のひとり』(栄光の聖母動機10931141D
『昇天した童児たちの合唱』11411185
『昇天した童児たちの合唱』「アレグロ」11861212B
『懺悔する女性のひとり』(I/第1,2主題)「再びもとのテンポで(第1部の同所よりも新鮮に)」12071248
(accende動機)(1243)(1248)Es
『栄光の聖母』「とてもゆっくりと」12491276Es
『マリア崇拝の博士』と合唱「賛歌のように」12771383-E-Es
オーケストラ間奏「流れるように」13841420
神秘の合唱オーケストラ前奏(ゆっくりと)14211448
『神秘の合唱』「とてもゆっくりと始まり」14491528
第I部冒頭主題回帰「流れるように」15281572

*   *   *

形式の概略:Henri Louis de La Grange, Mahler vol.3(フランス語版), pp.1100--1, 1105--7所収のもの(英語版第3巻pp.914-5, pp.919-921と照合して一部修正)
ローマ数字や英字は譜例のIDを表す(譜例は略)
第I部提示145主題A1(2-5); A'(5-7); A1とA''(8); A2(22-25), 《Veni creator》Allegro impetuosoEs, B, Es
46107主題B1(A',A2とともに); B2(あるいはA'':第80小節); B', 《Imple superna gratia》いくらか中庸に、常に非常に流れるようにDes, Aes, B
107122主題A1(B1とともに), 《Veni creator》Sempre a tempo / PesanteEs
122134間奏/管弦楽(A',A1,A'',D)Tempo primo
135141前奏/管弦楽(A',A'',D)新たにもう一度遅くd
141168主題C(A',B, A', B1), 《Infirma nostri corporis》少し抑えて/とても静かにEs
展開第1セクション169216前奏/管弦楽(A1,A'の転回)Tempo I. Allegro, 少し急いでAes, cis, F, D, C, H
217261主題D(A'の変奏)(A1, B1), 《Infirma nostri corporis》以前のように再びまた遅くcis, F, D, C, E
第2セクション262311主題E(A'の変形)(A', A1, A2およびIV/3), 《Accende lumen》突然躍動してE, D, E, e
第3セクション312412二重フーガ(A', A2, E, ついでB1, 第385小節以降), 《Praevio te Ductore》Es, A, Aes, E
再現(省略された)413441主題A1(A', A'', A2, B2=A''), 《Veni creator》‐より抑えてEs, B
441474A', A'', B1, 《Da gaudiorum premia》再び元のテンポでAes
474493A', A2, 《Ductore praevio》
コーダ494518主題C(A', D, 拡大されたD), 《Gloris Patri》より幅広く/再び早く/PesanteE, Es, Des, b, B
519540主題A (B', C, A2), 《Gloria sit Domino》Tempo primoB, Es
541580(A, A', E, A2)流れるように/気付かれないように二拍子に移行する
第II部導入(管弦楽)136IV/2a(オスティナート), V/1A, V/1a(最初の合唱の予告)Poco Adagioes
5796V/1a, V/1b, V/1A(法悦の教父の独唱の予告)いくらか動きをもって
97146V/3, V/1aとIV/2A, V/3とV/1b, V/1aとV/1b (瞑想する教父の独唱と天使の行進主題《Nebelnd um Felsenhöh》)Più mosso
147166コーダ:V/1C(IV/3の変奏), V/1b
提示第1部分167218V/1Aと1a, IV/2a, 合唱:《Waldung, sie schwankt》再びゆっくりとes/Es
219265V/1aと1b, バリトン:法悦の教父 《Ewige Wonnnebrand》Moderato
266362V/3とIV/2a, バス:瞑想する教父 《Wie Felsenabgrund》Allegro appassionatoes(Ces)
362384後奏(管弦楽) V/3, V/1A
第2部分385436EまたはIV/2A, IV/2, IV/3b, 女声合唱:《Geretet ist》 児童合唱《Hände verschlinget》Allegro decisoH, G, Es
436520VI/1, VI/2, VI/3, VI/1a, VI/4, 女声合唱 《Jene Rosen》Scherzando, Molto leggieroEs
520539後奏(管弦楽) E(IV/2), VI/1, VI/2aAllegro appassionato
第3部分540552前奏(管弦楽)=I/1aとI/2, III/2A (I/1a, 2a)既に少しゆっくりとd, Es
552579主題C(I/1a), ついでI/2a, 合唱 《Uns bleibt》とアルト独唱第1部の同じ場所のように
展開第1セクション580604V/3, V/1c, IV/3b 合唱:《Ich spür'soeben》最初はまた少し抑えてEs
604638IV/3b, 女声合唱、ついで児童合唱とテノール独唱 《Hier ist die Aussicht》再び少し速めてG, H
639723IV/2a, IV/1, f, テノール独唱 《Höchste Herrin》Sempre l'istesso tempoE, Es
724757V/2, IV/2a, E, f, テノールおよび合唱 《Jungfrau rein》とてもゆっくりとEs
758779間奏 IV/2a, V/2Poco più mossoEs-E
第2セクション780803前奏(管弦楽) V/2(A''と類似)極度にゆっくりと AdagissimoE
804824V/2, 男声合唱 《Dir, der Unberührbaren》
825844V/4, 混声合唱 《Wer zerreist》ゆっくりと、ただようように
844867V/2, ソプラノ/合唱IIとソプラノ独唱II 《Du schwebst zu Höhen》流れるようにH
868905V/2a, VI/1, ソプラノI:罪深き女《Bei der Liebe》h, gis, Es
906956VI/1, アルトI:サマリアの女《Bei der Bronn》常に同じテンポでb, Es
957967後奏(管弦楽) VI/1
9681016VI/3とVI/1, V/2a, アルトII:エジプトのマリア 《Bei der Hochgeweihten》常に流れるようにg
10171093VI/1, VI/2, V/2a, 上記3人の重唱 《Die du grossen》とても流れるように、ほとんど急くようにC, A, F
10931103VI/1a, VI/4, V/2とともに、前奏(管弦楽)やや中庸にしてD
11041129V/2, E(IV/2) ソプラノII:懺悔する女 《Neige, neige》
11301137後奏(管弦楽) V/2, VI/1a
11381185V/2, V/2a, b, 児童合唱 《Er überwächst uns》気付かれないように早くして
11851212VI/1, S, f, 児童合唱:同上、ソプラノII:懺悔する女 《Von edlen Geisterchor》AllegroB
12131248B, III/1, III/2, I/1, I/2 ソプラノII:懺悔する女 《Er ahnet kaum》 《Imple》の引用第1部の対応する部分のように
第3セクション12491276V/2, IV/2a, E ソプラノIIIと合唱:栄光の聖母 《Komm》とてもゆっくりと DolcissimoEs
12771383V/AとV/2A, V/1a, V/A, V/2, V/4, V/2 テノールと合唱、マリア崇拝の博士:《Blicket auf》賛歌のようにC, E
13841420後奏(管弦楽) V/A, IV/2a, IV/1流れるようにEs
エピローグ14211448前奏(管弦楽)IV/2, IV/1ゆっくりと
14481528V/1a, V/2(拡大された), V/Ia 合唱と独唱群 《Alles Vergängliche》とてもゆっくりと始めて/すでに動きをもってetc.
15281572後奏(管弦楽) A'(I/2), I/2a流れるように
(2009.9.19/2012.5.4)

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