2009年8月9日日曜日

マーラーの楽曲を考える場合の3つのトピックについて

マーラーの交響曲がいわゆる「古典的」な定型から逸脱していることは広く知られているし、例えば楽章構成のような レヴェルであれば、一瞥すればそれは明らかなことに見えるかもしれない。だがそれだけでは単なる規範からの逸脱の 指摘に過ぎず、何故そうしたことが生じたかの説明にもならなければ、その結果何が起きるかの説明にもならない。 否、マーラー以前、以後を問わず、そうした逸脱は別に例が無い訳ではなく、だからマーラーの場合を識別するためには そうしたレヴェルの特徴の指摘だけでは不十分なのである。
 
そうしたみた場合に、それではそうした複数の楽章がどのように繋がっているのかが問題になるだろう。この問題はそれ自体 独立して取り上げる意味のあるものだと思うがここではそこは通り過ぎることにして、もう一歩先にある楽章の中の構造に 焦点をあててみたいのだが、それを考える際に手ががりとなる調的配置については別にメモしたので、ここでは私が楽章内の 構造を考える上で興味深いと思っている3つのトピックについて簡単に一瞥してみたい。勿論それぞれについては個別に具体的に 議論する必要があり、こうした議論なしには「マーラーの場合」について語ることはできないと考える。自然の音やファンファーレ、 引用の問題など、マーラーならではのテマティスムには意義もあれば魅力もあることは認めた上で、だがそれらが音楽の脈絡の 中でどのように登場するのかの方がより一層重要なはずである。これは例えばRedlichが挙げている「特徴」characteristicsに 対して形式分析に基づく様式的な裏付けが必要であるとAgawuが述べているのと方向性としては並行しているだろう。そしてまたそれは アドルノが1960年のマーラーに関するモノグラフの冒頭で述べた方向性とも背馳しないだろう。

つまるところアドルノの長編小説形式のアナロジーはマーラーの音楽の総体を捉えている点でより多くを語っているし、私が考えている「意識の音楽」の要件ともそれは深く関係している。 外的な参照は実際の聴取の場面でも程度の差はあれ生じるには違いないから無視することはできないだろうが、 特に引用のような文化的な文脈への依存性の高いものについては、そうした文脈を持たずとも音楽が端的に持つ構造の力の 方にまずは注目したい。一例を挙げれば「ファンファーレ」「シグナル」は確かにマーラーの音楽を聴けばそこかしこで聴くことができ、 その音楽の特徴の一つであろうが、このファンファーレについての伝記主義的な詮索(当時のオーストリアの軍楽隊について、 あるいはマーラーが幼少期を過したイーグラウにあった兵営についてetc.)やその記号学的な意味の詮索に直ちに向かうよりは、 ファンファーレが楽曲の展開のさなかで担う機能について踏まえた上で、それが音楽の内容(あえて「意味」とは呼ばないでおこう)に どのように寄与しているのかを考える方がより一層興味深いことに思われるのである。アドルノがマーラーについてのモノグラフの 冒頭で第1交響曲第1楽章の序奏を思い浮かべつつ、最初の章のタイトルを「カーテンとファンファーレ」としたことや、 第4交響曲第1楽章の展開部末尾に出現するファンファーレについて述べるくだりで、ファンファーレというのが音楽の「展開」に 寄与しない静的な性質を持つことに触れたりするのは、そうした観点からすれば非常に興味深い。実際第1交響曲においても、 あるいは第4交響曲のかの部分で予告された第5交響曲の冒頭楽章においても、ファンファーレは導入部という静的な部分の 構成要素として出現している。レートリヒのように第5交響曲において伝統的な交響曲における第1楽章が2つに分割されて、 第1部を構成する2つの楽章となったとする立場を敷衍すれば、第1楽章である葬送行進曲は序奏が拡大された挙句、 楽章として独立してしまったという見方が可能で、第1交響曲第1楽章や第3交響曲第1楽章で既にそうであったように、 そして更に第6交響曲のフィナーレで徹底してその可能性を汲みつくされるように、本来はソナタ形式の外側にあった序奏が その主要部との動機的な連関によって内部に入り込んでしまう中で、ファンファーレのみは主要楽章である第2楽章で 扱われないことが注目される。それはファンファーレが静的で展開も(マーラー独特の)変形も拒む素材であることに由来するのだ。 そうした静的な性質は、それが出現する脈絡とは異質のものであるという性質をまた備えている。それゆえ第1交響曲第1楽章の あの「突破」を始めとして、音楽を進める動力が枯渇して楽曲が停滞するのを外側から賦活するような役割を果たすことにもなる。 ファンファーレはマーラーの音楽に層が複数あること、「外部」が存在し、その外部に対する系の反応過程であること、しかも その外部との境界面で起きている事象をいわば「その場」で捕まえようとする試みであることに対して際立って重要な働きをして おり、そうした機能を個別に見ていくことの方が一層興味深いのではなかろうか。それゆえ音楽外のものであることが明らかな 標題など、脇において置いてしまうべきなのだ。マーラー自身が後からとはいえ気付いて捨てたものを拾い上げることが、 マーラーの「音楽」を捉えることにどれだけ寄与するのか、私には判然としないのである。
 
その一方で歌詞がついたものについては、歌詞が理解できない状況はさすがに除外していいように思えるが、同じ歌詞に別の音楽を つけることが可能であることを思えば、結局のところ音楽自体の論理なりプロセスなりが問題なのは言うまでもない。 歌詞に対する音楽のあり方には事実上無限の選択肢があるから、音楽の水準でどのような選択が為されたかこそが第一義的な 問題なのは当然である。思考実験としてであれば、歌詞つきの楽曲であってさえ、意味の水準を一旦遮蔽してしまって何が 起きるか(マーラーがピアノロールに歌曲をピアノで弾いて記録したようなケースがわかりやすいだろうか)を問うてみてもいいだろう。 その場合、例えば別の言語を話す聴き手にとって歌詞が理解できないとしても演奏者の側は、ほとんどの場合(音声合成によるような場合を除いて)歌詞の意味を理解せずに歌うことはあり得ないという事実は残るのだが、そこも捨象してしまう立場すらあり得るだろうし、そうしてしまっても何も残らないわけではないのは明らかだから、そうした還元の後に残るものを対象とするやり方があってもいいように私には思われる。要するに原理原則などはどうでもよくて、そうしたことが現実に起きうるのであれば、 それを問題にしたらよいのだ。これもまた一つの立場であって、中立的な立場などないことは認めた上で、私が採用するのはこのような立場なのである。
 
まずは3つのトピックを列挙しよう。1つめはファンファーレに関連して既に少し触れた序奏の位置づけの問題であって、 特にソナタ形式の楽章におけるそれが問題になるのは明らかだが、それだけではなく、それ以外の形式や楽章間をまたいだ序奏の 再現といった点についても注目すべきかと思われる。 もう1つはいわゆる舞曲形式における発展・展開の問題であり、最後の1つは歌曲と交響曲との両方に関わる 有節的な歌曲形式や通作的な歌曲形式と交響曲形式との融合の問題である。序奏がつくのはいわゆるソナタ形式の楽章である 場合が多いのに対して、舞曲においてはいわゆる3部形式やロンド形式へのソナタ的な発展・展開の契機の侵入のありさまが 問題になる。マーラーの場合にはこの両者が独立の問題と言えるわけではないこと、にも関わらず、それらが区別できない 訳ではなく、出発点となっている形式のもともとの姿から遠ざかってはいても、いわば楽曲の持つ固有の時間性の水準で、質的な 違いが与えられているように思われるのだ。単純な一元化、形式の還元や均質化のかわりに、もともとの形式が潜勢的には 備えていた力を活用して、それらを様々な仕方で組み合わせて緊張を生じさせることによって、その都度固有の世界を形作る 試みがなされているのである。
 
文字通りの反復を嫌ったマーラーは、3部形式の舞曲においてもDa Capoを書かなかった。 唯一の例外は第10交響曲のプルガトリオ楽章で、このDa Capoがあることを根拠に草稿の水平方向における完成度に疑義が 提示されるといったことが起きるほどなのである。だがそれは、「すっかり元のままではない」というだけであって、やはり元のレヴェルへの 還帰はなされるのだ。一方でソナタ形式の再現部はそれとは異なり、別のレヴェルに到達する。そこはかつていた場所とは異なった 場所で、もう元には戻らないという非可逆性の認識が再現部なのであり、従って再現部においても展開のプロセスは続くのである。 その一方で序奏はソナタ形式に静的な要素を持ち込むように見える。しかもその機能は拡大され、その楽章のみならず全曲を 通じて機能する主要な素材を提供することもあるし、序奏自体がソナタの経過の途中で再現されもして、ソナタ形式の図式の 中に侵入してしまう。規模の点でも著しく拡張され、しばしば主部よりも長いことすらある。序奏というのは言ってみれば地平を 形成しているわけで、その性格は基本的には静的なものだから、序奏の再現はそれがソナタ形式の只中であったとしても あたかも元のレヴェルに戻ってしまったかのような時間性をもたらすことになる。かくしてマーラーにおいては静的なものと動的なものが 相互に嵌入しあい、複数の異なった時間性を備えた層が重なって、それらの間を運動していくのだ。複数の層の間の往還を 可能にするのが多楽章形式なのであってみれば、それはもともとは交響曲という楽曲の形式に由来するものであったとしても 最早古典派における図式から遠く離れて、別の機能を果たす素材となっているのである。attaccaや第2交響曲第1楽章後の 5分間の休み指定のような楽章間のつながり方、上位構造としてのTeil(部)構成の導入というのも、そうした層の間の関係の 複雑さを反映しているに違いない。要するに最早ここでは単純な持続の中でのリニアな楽曲の継起では扱いきれない何かが 問題になっているのだ。
 
歌詞の持つ節と楽曲の構造の対応の問題は、ハンス・マイヤーをして「簒奪者」と呼ばしめるような歌詞に対するスタンスを マーラーに採らせることになる。要するに、イダ・デーメルの証言にあるマーラーの言葉とおり、歌詞もまた楽曲の素材なのであって、 しかもそれは意味内容の水準においてのみそうなのではなく、テキストの持つ構造のレヴェルも含めてそうなのだ。そしてマーラーは これらの問題について、第8交響曲と大地の歌という、内容上は一見したところいかなる接点もなさそうな2つの作品によって、 一応の結論に到達したかに見える。
 
そしてここでは詳述できないものの、最後のこの問題もまた、前の2つと単独で分離して 扱うよりは、寧ろ前の2つのトピックとどのように複合し、相互に関係し合っているかの様相を具体的な作品について 見ていくべきなのだ。アドルノはマーラーの形式の扱いに唯名論的な側面を見出しているが、そうであればこそ尚更 幾つかの断面を定義してそこに現れてくるものを個別に見ていくようなアプローチが必要で、その断面の切断の与え方を 方向付けるものとして、これら3つのトピックは手がかりを与えてくれるものに私には思われる。アドルノが形式分析の限界を 見出すのは、既存の枠組みの中でしか動き回れないような類の形式分析には自らに予め課された枠を意識し、 その外側に出ることができないからなのだが、マーラーが創作を通じて行った作業はまさにそうした限界を乗り越える試み そのものであり、そうした試みは各々が一回性の徴をどうしても帯びることになる。
 
例えばここでのマーラーの手つきは例えば第8交響曲の中でもその第1部と第2部とでは やや異なっているようだ。というのも第1部では聖霊降臨祭の賛歌をマーラーはかなり自由に組み換え、更に再現部では 自作の節を挿入しさえして、賛歌のもともと持っていた有節的な構造を、7という数象徴と関連づけられた 節数もろともソナタ形式の論理に合せて変形させているかのようなのに対し、第2部ではマクロな構造に限ればゲーテの 詩句を概ねそのまま使っていて、それが故に交響曲的な多楽章形式ではなく、巨大な50分以上もかかる単一の楽章に よる通作形式を採っているように見えるからだ。それは楽章というよりは例えば「「嘆きの歌」におけるTeilに近い単位であって、 マーラー自身も他の曲でしばしばそうしたようなTeilの下に幾つかの楽章をまとめることをここではせずに、Teilのみを 単位として遺しているのである。第2部の中に、Bekkerやde la Grangeの報告している当初の構想の対応物を見出そうとする試みも Specht以来確かにあるものの、寧ろここではそうした対応付け自体よりも、この脈絡でマーラーが巨大な楽曲の内部にどのような 構造を与えたかを個別に問うべきだろう。実際、対応づけをしたところでattaccaで繋がれた3つの楽章の連続とは明らかに 異なっているわけで、寧ろ私見では、音楽の経過と歌詞との対応づけをミクロに見ながら、第2部の内容の経過が如何なる 音楽的プロセスに対応するのか、更にはこれまたマイヤー以来しばしば疑問視されてきた第1部と第2部との連関を、音楽とは 別の水準で聖霊降臨祭の賛歌とゲーテのファウスト自体を突き合せて論難するのではなく、第1部と第2部が音楽的に どのように関連付けられ、音楽によって第1部のどの節が第2部のどの語りに対応付けられているかを確認することによって 闡明するすることの方が有意義に思われてならない。
 
例えば、第1部では変イ長調をとる第2主題(Imple sperna gratia)が、 第2部でファウストのよみがえりをグレートヒェンが歌うところで再現するのは極めて印象的だが、そうした歌詞上の対応を 支えるものとして、この第2主題が実は第1部のあの圧縮された再現部では実は出現していないこと、そして第2部での再現に おいては変ロ長調をとること(主調が変ホ長調であることに注意し、また第1部の再現部の前にも長大な変ロのペダルが 出現していたことを思い起こそう)に気付けば、実はこの第2主題はようやく第2部も終わり近くになってようやく文字通り「再現」するのだ、 そしてそれは今度こそ決定的な変ホ長調(Mater gloriosaによる「来たれ」Komm!)を「より新鮮」な姿で準備するのだということが明らかになる。 だが驚くべきことは実際に、こうしたことに気付かずに聴いて受けた印象をそれは実に正確に説明しているように感じられることだ。 それは単純に同じ動機なり旋律なりにどの歌詞が割り当てられているかという単純な対応付けを超えて、マーラーが音楽によって実現しようと 試みたものに照明をあてることになるだろう。
 
同様に、主調の変ホ長調に対して半音高いホ長調が持っている機能にも注意しよう。 ただちに思い当たるのが、第1部のあのAccende lumen sensibusの箇所(練習番号55)がホ長調で出現することだが、 ヴェーベルンの指摘しているようにこのAccendeの動機は第1部と第2部を橋渡しする役割を担っており、第2部においても 何度も繰り返し出現する。そして第2部ではMater gloriosaが出現する部分(練習番号106)がホ長調なのである。 私はいわゆる音から色彩への共感覚を持っているが、変ホ長調とホ長調は金色から青白い光への強いコントラストの変化を 備えていて、だからホ長調は変ホ長調に対して単純にクロマティックな関係にあるだけに留まらない。トリスタン以来、ブルックナーの 第7交響曲や第9交響曲の例もあるようにホ長調というのは独特の価値を帯びた調性なのだろうが、マーラーの作品の中でも 例えば第7交響曲の第1楽章がここでは導入部のロ短調の和音への付加音が予告している同主短調との明暗法の帰結として ホ長調で終わっているし、何よりも第4交響曲のフィナーレが緩徐楽章が準備した主調であるト長調で出発しながら、 最後になってホ長調に転じてそのまま終わってしまうなど、固有の機能を持っていることは間違いないだろう。そしてこうした点を考慮に 入れずにこの作品の「内容」について議論することにさほどの意義があるとは私には思えないのだ。
 
一方の「大地の歌」でも、第1楽章では有節形式をソナタ形式と融合させるために原詩の第3節を変形していたり、 終楽章で2つの詩を接木するために真ん中に巨大な器楽のみによる間奏を置いてみたりと、その反応はやはり一様ではない。 興味深いのはいわゆる歌詞の内容の水準における大きな違いにも関わらず、そうした歌詞の構造の扱い方については第8交響曲と 「大地の歌」には共通する操作を見つけることができそうな点である。(もっとも別の所にすでに書いたとおり、私には内容の水準に おいてもこの2曲の間には接点があるように感じられるのだが。)ただし「大地の歌」は(今度はその歌詞の内容に相応しくというべき だろうか)複数の楽章を組み合わせるようにして、いわば「下から」2つのTeilを構成する。その様相は例えば第3交響曲の裏返しの ようにも見えるが、そうした特性は調的な配置からも窺うことが可能であり、第3交響曲では長大な序奏を持ち、単独で第1部を 構成する第1楽章が、いわば提示部と再現部を裏返すような調的配置を採ることで第2部へと繋がっていくのに対し、「大地の歌」 では冒頭のイ短調の同主長調で華々しく終わる第5楽章で一旦区切りがつけられ、一旦そこで句読点が入ったのちに ハ短調の短い序奏で開始される終楽章が続くのである。それは今度は第6交響曲の冒頭楽章がイ長調で終わることや フィナーレがハ短調で始まることとの対比を呼び起こさずにはいないだろう。ただし「大地の歌」の終楽章はイ短調に回帰する 第6交響曲とは異なった歩みを見せる。再び同主調のハ長調で終結するが、付加6度が追加され、イ短調とハ長調の 間で宙吊りになったまま終わってしまうのだ。(これを変ホ長調で始まり、第2部の開始では同主短調を取るものの最後は 変ホ長調で終わる第8交響曲と更に比較したらどうだろうか。)そして勿論、このような調的配置は、「大地の歌」においては 歌詞の内容や、楽章間の層的な関係と密接に関連している。(気付いた点については既に別にまとめているので、ここでは 繰り返さない。)では第8交響曲ではどうなのか、特に、一見したところテキストの論理が楽曲の論理に優越している 唯一の例であるかに見える第2部ではどうなのか、こうした問いのリストはまだまだ幾らでも続けることができようが、 いずれにしても、このようにして上述の3つのトピックとそれらの間の関連を個別の楽曲について見ていき、その都度の 様相を捉えるような「個別的なものの観相学」こそがマーラーの場合全般の「個別性」をもまた明らかにするに違いないのである。 (2009.8.9-12 この項続く。)

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