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2025年8月22日金曜日

MIDIファイルを入力とした分析の準備(2):クラムハンスルの「調的階層」を用いた調性推定と和音のラべリング(2025.8.22更新)

0.はじめに

 これまでのマーラー作品のありうべきデータ分析についての検討を踏まえ、MIDIファイルを入力とした分析の第一歩として、クラムハンスルの調的階層に基づく調性推定を行い、以前「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi2020128.htmlにて報告した和音のラべリングの結果と対比できるようにしましたので、その結果を公開します。以下では調的推定について背景およびここで採用したデータ分析の概要、および結果の見方についての説明を行います。和音のラべリングについては、上記の記事をご覧いただけますようお願いします。
 なお、この文章の末尾にも記載していますが、公開するデータは、あくまでも実験的な試みを公開するものであり結果の正しさは保証しません。実際に、検証を進めるにつれて、入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違いがファイルによってはかなり存在することがわかっています。また、他のデータを公開した時にも述べた通り、分析プログラムの仕様の制限で、MIDIファイルによっては期待される結果が得られない場合があることも判明しています。(調性推定と和音のラべリングを比較すると、その手法上の特性から、調性推定の方がデータの誤りに対して相対的にはロバストではないかと想定されます。従って特に和音のラべリングは、手法自体は単純なものでありながら、楽譜の通りの結果になっていない場合が多いことを申し上げざるを得ない状況です。)
 公開する結果が学術的な観点からは極めて信頼性の低いものと言わざるを得ないことは大変残念ですが、フリーで公開されているMIDIファイルを利用している以上、しかも、マーラーの作品が大規模で時間的にも長大で複雑であることを考慮すれば、已むを得ない部分が大きいと考えます。これも以前、マーラー作品のMIDI化状況を紹介する際に記載した通り(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2016/01/midi.html)、学術的な目的で信頼できるデータが必要とされる場合には、まず信頼のおけるデータを作成するところから始めなくてはならないと思われます。同一作品の異なるMIDIファイルのデータがどれくらい異なっているかを確認する目的で、現時点で私の保有している、Web経由で無償で入手できたマーラー作品の全MIDIファイル(231ファイル)の解析を実施済で、その結果が手元にはありますが、公開はしないことにしました。検証可能性・再現可能性という観点からは、本来は使用したMIDIファイルそのものを添付して公開することが望ましいのでしょうが、再配布についての規定が明らかでないこと、Webで無償で入手したものばかりであることから、入手元を示すことでその替りとさせて頂くことにしました。
 今のところ、そのための時間が取れないという現実的な理由からMIDIデータ自体の作成は考えていません。そのかわりにプログラム上の工夫によってカバーできる点は、プログラムの改良によって改善していきたいと考えていますが、自ずと限界もあろうかと思います。私がこのようなことをやっている間には、マーラー作品の信頼できるデジタル・ライブラリーが利用できるようなことにはならないかも知れませんが、いつの日かそういう日が来ることを願いつつ、今の時点では以上の点をご留意の上、ご覧いただけますようお願い致します。
 [2020.3.7付記] 実験結果の再現・検証を行えるようにするという目的から、分析の入力とするためにMIDIファイルを解析して、そのデータの一部を抽出してテキストファイルに出力したものを「MIDIファイルの分析:MIDIファイル解析結果(2020.2.29)」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/midimidi2020229.html)で公開することにしました。MIDIファイルに含まれるデータのうち、どの部分を分析に用いているかも明らかとなり、実験結果の再現・検証という目的からは十分であると考えます。公開しているファイルの詳細は、上記のページをご覧ください。


1.背景

 マーラーの作品の特徴の一つとして、調的設計のユニークさが挙げられると思います。一つには平均律と機能和声のシステムが確立したバロック時代や古典期に遡る「調性格論(Tonartencharakteristik)」的な視点であり、各調性に固有の性格があるとするものです。平均律化とは一見矛盾するように見えますが、典型的な平均律楽器であり、奏法上の合理性で調性が選択される傾向すらあるピアノは措くとして、マーラーが作品の媒体とした管弦楽で用いられる楽器は、弦楽器にせよ管楽器にせよ、その楽器の特性から、平均律ベースの転調に対応するように改良されてきたとはいえ、基本的には基準となる音の低次の倍音で音が出やすく、高次倍音は正しいピッチをとること自体困難になるといった特性から、調性によって響きが異なるのが現実ですから、マーラーが同時代の作曲家と比べても全音階的であると言われる側面と相俟って、調性格論が成立する基盤を欠いているわけではないと思われます。もう一つは、古典期の規範上は「逸脱」と位置付けられる(例えばシェンカーの分析は、拡張は可能でしょうが、基本的には開始と終了の調が同一であることを前提としていることを思い出してもいいでしょう)作品の開始の調性と異なった調性で作品が終わるという、いわゆる「発展的調性(progressive tonality)」的な視点です。こちらはマーラーのいわゆる「進歩的」な側面に繋がると思われます。勿論、両者は組み合わさって、アドルノによって「小説」にも喩えられた音楽的時間構造を実現しているわけですが、ここでは特に後者の側面、即ち、作品の時間的経過を通じて調性がどのように移ろっていくかにフォーカスを当てて、マーラー特有の時間性を分析するための準備をしたいと考えています。

 これまでもマーラーの個別の作品の調的プロセスの分析は行われてきましたし、特に「発展的調性」についてはDika Newlinの指摘以来、マーラーを語る際には欠かせないトピックとして議論されてきました。そしてそれらの多くは機能和声に基づく楽曲分析についての知識を備え、豊富な聴経験を持つ「規範的な聴き手」である「音楽学者」が楽譜を読み解いて、作品を特徴づける重要な要素を見抜き、抽象化する方法によって行われてきました。但し「発展的調性」に関する議論は、えてして非常にマクロな楽式レベルでの把握に基づく解説に留まりがちであり、それがミクロな調的遍歴とどう関わるのかについての実質的な分析は十分とは言えず、更には一般には機能和声の古典的な規範からの「逸脱」と看做される「発展的調性」が実際にはどのような動力学に基づくものなのかについて明らかであるとは言えないように思います。そしてこうした問題にアプローチをし、マーラーの作品の固有の力学を発見するためには、データに基づいた分析が適切なのではないかと思われます。

  ここでは上記の課題にアプローチする第一歩として、MIDIファイルを入力とし、プログラムによってマーラーの作品の調的な遷移の過程を抽出し、分析の材料を提供することを試みました。

 そもそも調性とは何か、調性を推定するというのはどういうことなのか、何を手掛かり調性の推定を行うことができるのかについては、それ自体様々な議論があり、音楽学・音楽についての認知心理学・音楽情報処理 といった分野での研究の蓄積があります。

 ここで採用したのは、クラムハンスルによる「調的階層」を用いた調性推定のアルゴリズムです。詳細は、Carol L. Krumhansl, Cognitive Foundations of Musical Pitch.  Oxford: Oxford University Press. 1990 の特に第2章 Quantifying tonal hierarchies and key distance および第4章 A key-finding algorithm based on tonal hierarchies をご覧頂くのが適当ですが、簡単に言えば、長調・短調それぞれについて12音の各音との相関を実験的に求めておき(これがクラムハンスルの「調的階層」と呼ばれるものです)、それをベースにして、個別の作品の或る区間に鳴っている音の分布と、24の調性を特徴づける分布との相関を求めるというやり方です。

 上に簡単に要約した動機やアプローチ手法の検討(クラムハンスルの調的階層を用いることが何を意味するか)などの背景の詳細については、以下をご覧頂くこととして、ここでは改めて議論は行わず、抽出結果を提供することにします。
・「マーラー作品のありうべきデータ分析についての予想:発展的調性を力学系として扱うことに向けて」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/blog-post_10.html
・「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post.html
・「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺への追記」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post_12.html

2.データ分析の概要

まず、ここでのデータ分析のやり方を説明します。

 対象となるMIDIデータは、これまで五度圏上の重心計算や和声の抽出や可視化を行ってきたマーラーの全交響曲と一部の歌曲(64ファイル)で、対象となる作品およびMIDIデータについての詳細は、重心計算の結果の紹介(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/p/httpsbox.html)に準じます。
 公開しているExcelファイルにはMidiFileNameというシートを含めて、解析対象のMIDIデータと作品との対応、および各ファイルの入手元がわかるようにしました。

 具体的な処理の手順は以下の通りです。

(1)マーラーの作品のMIDIファイルから、基本となる拍毎に、その拍の区間(拍の開始時刻から次の拍の開始時刻の間)で鳴っている音(ピッチクラス)およびその長さ(単位はMIDIデータで設定された基本単位)を取り出します。ピッチクラスなので音高が異なっても同じ音と看做し、同じ音が複数のパートで鳴っている場合には、音の重複は無視して、その中での最大の長さをそのピッチクラスの長さとします。その区間で鳴っている音の分布が、要素数12のベクトルで表現されることになります。

(2)(1)で求めたベクトルに対して、今度は小節毎に以下の処理を行います。
小節の頭拍では その拍のみのデータで、「調的階層」に基づく推定を行います。次の拍では、前の拍のデータとの和をとって「調的階層」に基づく推定を行います。小節の最後の拍では、その小節の区間内で鳴っている音の分布に基づいた推定が行われることになります。どの区間を対象に相関をとるのかは、調的変遷のプロセスを取り出す際の基本的な条件設定ですが、もともとは重心計算や和音の抽出同様、小節毎に行うことを考えていました。ただし重心や和音の抽出は、各小節の頭拍という断面において鳴っている音を対象としているのに対し、ここでは区間内の音の長さに基づく分布をとる点が異なります。(勿論、長さではない別の量で分布をみることも可能ですが、ここではクラムハンスルの手法に従います。また小節毎ではなく、より長い区間について分布をとることも考えられますが、ここでは一旦、他のデータに合わせて1小節を1区間としました。)従って、小節毎に計算しても良かったのですが、小節の途中での変化のプロセスを見れた方が、データとしては情報が豊富になるので、上記のようなやり方でデータを取りました。

 結果は以下にExcelのBook形式で公開しています。zip圧縮してあり、解凍するとxlsx形式のExcelファイルが3つ出てきます。experimental_E_corel.xlsx, experimental_B_corel.xlsx, experimental.xlsです。特にexperimental_E_corel.xlsxはファイルサイズが35Mbyte程度あり、3ファイル合計で56Mbyte程度と大きめですのでご注意下さい。experimental_E_corel.xlsxが拍毎の調性推定結果を全て収めたもの、experimental_B_corel.xlsxが小節毎の調性推定結果のみを収めたもの,で、調性推定結果のみに限定すれば、後者は前者のサブセットであり、小節の途中でそれまでに出てきた音を累積しつつ、調性推定をしていく過程を省いて、各小節末時点でその小節に出て来た音の持続を累計した結果に基づく調性推定結果のみを収めたものになります。また、experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxの結果に基づき、楽譜の小節との対応づけや、幾つかの文献に見られる楽章構成の情報を対比できるように追加したものです。

https://drive.google.com/file/d/18Bwr6tnFYOA3aHA3BBuNT-nNJGokXkE0/view?usp=sharing

 ところで小節毎の解析は、MIDIデータで入力された小節の区切りの情報の正確さに依存します。そしてしばしば小節の区切りの情報は正しく入れられているとは限りません。これはMIDIファイルをこのようなデータ分析の目的ではなく、「再生し」、「聴く」ことを目的とした作成する場合には、小節の区切りを楽譜に忠実に入力することが必ずしも必要でないことを思えば仕方のないことです。特にマーラーの作品の場合には、楽章の途中で拍子が変わるだけではなく、変拍子もあれば第2交響曲フィナーレのフルート・ソロや『大地の歌』の「告別」におけるそれのように、レシタティーヴォ的な箇所で小節線が自由に扱われることもありますので、そうしたことがない作品に比べると問題が発生しやすいことは予想できますし、現実に問題が発生していることを確認しています。
 
 なお拍毎のデータもまた、マーラーのように楽章の途中で拍子が切り替わり、拍の基本単位が変わる(四分音符、八分音符、更にはアラ・ブレーヴェでの二分音符)ことを考えれば、楽譜の通りの拍毎にMIDIデータが作成されることを期待すべきではないことがわかります。従って、個別のMIDIファイルにおいて、楽譜の特定の部分がどのように処理されているか、楽譜通りなのかそうではないのかは、個別にMIDIファイルの中を覗いて確認する他ありません。更には、MIDIファイルには、シーケンサーを使って手入力するやり方ではなく、MIDIキーボードでの演奏を元にしたものも存在しますが、後者の場合には、拍の位置と実際に音が鳴っている時点が一致するとは限りません。というより一般にはずれているもので、その程度のずれは人間の知覚上は問題にならないですし、それが極端なものであればテンポ・ルバートのような微妙なニュアンスとして捉えられるようなものでしょうが、機械で処理する上では致命的で、特に拍頭で鳴っている和音を抽出するようなタイプの処理の場合に、拍節の時間的な揺れを考慮した工夫が必要となります。これに簡単なプログラミングで対応するのには限界があり、本質的には寧ろAIに相応しい問題であるという見方もできるかと思います。
 以上長々とデータの信頼性(の欠如)についての釈明のようなことを書き連ねましたが、それはひとえに、公開しているデータの信頼性の制限について、正確な情報を提供することを目的としています。ご利用にあたっては予め上記のような制限にご留意頂けるよう、重ねてお願いします。

 以下、上記のファイルの収められた結果の見方を記しますが、結果を3Dグラフ表示したものを参考までに示します。重心の時と同様、RinearnGraph3Dを使用して描画しています。

最初が「私はやわらかな香りをかいだ」です。X方向が小節数、Y方向が調性で、0~11が長調(Gesからサブドミナント方向にDesまで)、13~24が短調。Z方向が相関です。色は相関の度合いを示し、青が高い正の相関を示し、黄色は負の相関を示します。概ね青い尾根をX方向に辿ると、調性の遷移の軌道の推定結果を表していることになります。

次は第8交響曲の第1部です。見方は上の例に準じます。小節数が多いためX方向はかなり圧縮されてしまっています。

 Y方向は本来は両端のGes-Desをくっつけて五度圏に対応する円周とし、X方向に伸びる円筒として表示するのがより自然でしょうが、俯瞰性という点では円を切り開いて直線として並べた上記のやり方にも一定のメリットがあると思います。

 他方、長調と短調を別々に併置するのは、同主調や並行調の近親関係を表現できていない点で問題ですが(こちらの方向ならば例えば、Krumhansl & Kessler (1982)で示された多次元尺度構成法によって求めた構造上に軌道をプロットすることなどが思いつきますが)、次元の数の制約もあり、ここでは推定された調性の軌道だけではなく、各調との相関を求めることで得られる地形を視覚化することに重きを置きました。例えば青色が濃い、高い尾根が続いているところは相関が高く、調性が明確な部分であるのに対し、濃い色がなく、薄い色の低い丘となっている箇所は調性が曖昧になっていると言えるでしょうし、時として丘が複数ある場合には、2つの調性の間で揺れ動いているような部分であるというように、調的プロセスが、単なる軌跡としてではなく、明瞭さや分裂・収斂といった様相といったものに対応した地形として表現されている点で、目的に適っていると考えています。


3.結果の見方

 結果を収めたファイルの見方について以下で説明します。結果はシート毎に分かれており、1シート1ファイル、交響曲の場合は1楽章、歌曲なら1曲が1シートです。シートのラベルは重心計算結果と同じで、入力となったMIDIファイルのファイル名本体部分です。

experimental_B_corel.xlsxのシートの一部を示すと、以下のようになっています。以下は「やわらかな香りをかいだ」です。experimental_E_corel.xlsxでは一部が異なりますが、基本的なフォーマットは概ね同じです。

縦方向が各曲の時間方向になります。1行が1拍です。1拍の定義は、入力されたMIDIファイルでの定義に従いますが、楽譜に忠実な入力の場合には、拍子記号の基本拍(4分の4拍子なら4分音符)です。マーラーの場合には変拍子や途中で拍子が変わることがごく普通ですが、ここで用いているサンプルは拍子の変更には忠実な入力となっています。ただし、基本拍に関してはその限りでなく、(おそらくは入力のしやすさなどの理由から)3拍子の小節を6分割する、或いはその逆といった場合もありますが、ここでは上述の通り、基本的には小節単位に相関を見るのが目的なので、大きな支障とはなりません。
 なお1行目は空行、2行目はヘッダなので3行目がMIDIファイルにおける曲の最初の拍ですが、ご注意頂きたいのは、3行目=楽譜上の最初の拍ではないことです。これはMIDIファイルの特性上、冒頭の空き部分に様々なパラメータ設定の情報を収めるコンベンションとなっているためで、ファイルの冒頭数拍は無音の区間になっていることが一般的です(勿論例外もありますが)。
 また小節の区切りは利用したMIDIデータのものに依拠しますので、概ね小節の区切りが楽譜通りとなっており、小節数がほぼ等しいデータを用いていますが、 完全に楽譜通りかどうかは保証の限りではありません。ここでの分析の意味合いから考えると、小節の頭拍というのは、区間の区切りに過ぎません。勿論区切り方によっては区間内で調的変化が起きていしまって変化が明瞭に表れない可能性はありますが、小節の途中での計算結果である程度のことは把握できるのと、マーラーのみならず、必ずしも頭拍が和声的な変化の切れ目と一致しない場合もあるので、あくまでも目安に過ぎないと考えるべきかと思います。それを踏まえれば、概ね楽譜の小節の区切りに従った計算ができていれば、所期の目的は概ね達成できると考えていいように思います。

以下、列方向の意味を記載します。

A~L列:長調の各調性との相関。変ト長調~変二長調まで、 五度圏をサブドミナント方向に読んだときの音名の並び順になっています。文字色と背景色の意味は以下の通りです。
  • 背景色がピンク色(ColorIndex = 38)で文字色が赤の箇所:相関が最大でかつ相関が0.5以上の調
  • 背景色がサンゴ色(ColorIndex = 40)の箇所:相関が最大以外で0.5以上の調
  • 背景色なしで文字色が赤の箇所:相関が0.5未満だが最大の調
 つまり文字色が赤の列を行方向に辿れば、最も相関が高いと推定された調性の時系列変化を辿ることができます。A~L列に文字色が赤の列がない場合には、最も相関の高い調は短調側(N列~Y列)に移動しています。なお、ここでは相関を取っているので、音の出現頻度が全て同じ値の場合は標準偏差が0となり、計算対象外となります。(ゲネラルパウゼ=音が全くなっていない場合は別にすると、12音で同じ頻度ということは該当区間では調性感が無いことになりますが、実際にはこの実験の範囲内では第2交響曲の第1楽章で複数回発生しただけでした。)なお、上の説明の通り、experimental_E_corel.xlsxでは小節内の頭拍以外は小節末尾まで 、それまでに小節内で鳴った音の長さの累計値での相関となっています。1拍目は1拍目のみ、2拍目は1拍目と2拍目の累計…といった具合です。各拍毎の音の出現頻度の値のみによる相関ではありませんのでご注意下さい。またexperimental_B_corel.xlsxは小節内で生起した音の持続の累計に基づく調的推定の結果を記録したもので、定義により、experimental_E_corel.xlsxでの小節内の最後の拍の結果に一致します。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。ただし楽譜の小節との対応付けをしていることから、曲の末尾の最後の小節より後の情報は取り除いてあります。

M列: experimental_E_corel.xlsxでは小節頭は小節数を表し、それ以外は0を埋めてあります。既述の通り、MIDIデータの最初には無音区間が含まれることが一般的なため、0オリジンで付番していますが、楽譜上の小節数とは必ずしも一致しませんのでご注意ください。experimental_B_corel.xlsxでは相関を出力した拍の位置を表します。即ち、その拍までのMIDIデータについての相関を出力したことを意味します。上記の「私はやわらかな香りをかいだ」の例では、1行目は8ですが、これはその行が先頭から8拍目までのデータに基づく相関であることを表します。2行目は14ですので、その行が9拍目から14拍目までのデータに基づく相関であることを表します。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。

N列~Y列:短調の各調性との相関。A~L列の長調における説明に準じます。文字色と背景色の意味は以下の通りです。
  • 背景色が山吹色(ColorIndex =  44)で文字色が赤の箇所:相関が最大でかつ相関が0.5以上の調
  • 背景色が薄黄色(ColorIndex = 36)の箇所:相関が最大以外で0.5以上の調
  • 背景色なしで文字色が赤の箇所:相関が0.5未満だが最大の調
つまり文字色が赤の列を行方向に辿れば、最も相関が高いと推定された調性の時系列変化を辿ることができます。N列~Y列に文字色が赤の列がない場合には、最も相関の高い調は長調側(A列~L列)に移動しています。

Z列:experimental_E_corel.xlsxの場合は拍の通し番号を、experimental_B_corel.xlsxの場合は小節番号を表します。ただし、いずれもMIDIファイル内における1オリジンの付番であり、MIDIファイルの最初にダミーの拍・小節がある場合、楽譜上のそれらとは一致しません。

AA列からAD列までは、調性推定の結果ではなく、調性推定の結果との比較の目的で、「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/11/midi.html)にて報告した、区間の先頭、即ち experimental_E_corel.xlsx の場合は各拍の頭、 experimental_B_corel.xlsx の場合は各小節の頭で鳴っている音についての情報を出力したものです。調性推定に用いた情報が拍ないし小節内で鳴っている全ての音の持続時間であるのに対し、こちらは拍ないし小節の頭で鳴っている単音ないし和音をラベルづけしたものであり、対象データが異なる点にご留意ください。experimental.xlsはexperimental_B_corel.xlsxと同一です。

AA列:区間先頭で鳴っている和音をビット列で表現したものを10進数化したものです。
AB列:区間先頭で鳴っている音のうちMIDIノートで最も小さい値=最も低い音の音名。
AC列:区間先頭で鳴っている音のうちMIDIノートで最も大きい値=最も高い音の音名。

AA列ではDesが最下位ビット、Fis=Gesが最上位ビットとしてビット列を定義しているので、数字と音名との対応は以下のようになります。鳴っている音が1、鳴っていない音が0です。例えば、Cを根音としてC-E-Gが区間先頭で鳴っているとすると、AA列は32(C)+512(E)+64(G)=608、AB列はc(=32)、AC列はg(=64)が表示されることになります。

Des  1
Aes 2
Es 4
B 8
F 16
C 32
G 64
D 128
A 256
E 512
H 1024
Fis 2048

AD列:AA列とAB列を用いて、その区間の先頭で鳴っている和音のうち、典型的なもののみ判定した結果を示しています。なお単音、2音の場合には、鳴っている音の音名を併せて表示しています。定義に基づき、1音の場合にはAB列・AC列・AD列は同じになります。一方2音の場合には必ずしもAB列・AC列とAD列は同じにはなりません(バスとソプラノでオクターブ異なる音が鳴っていて、内声でそれとは異なる音が鳴っている場合には、AB列・AC列の音名は同一ですが、AD列では、AB列・AC列の音名と内声の音名の2音が鳴っていると表示されます)。

背景色は以下を表します。

灰色  休符
ピンク 長三和音
山吹色 短三和音
なし  上記以外の単音・音程・和音

長三和音、単三和音については、AO列の最低音の音名から、各和音の基本形か第1転回形(6の和音)か第3転回形(4-6の和音)かを以下の文字色で表現しています。

黒=基本形
緑=第1転回形
赤=第2転回形

文字はその音名を主音とする長三和音、短三和音に相当する音の組み合わせがその小節の頭拍で選ばれていることを表す形式的なものであり、和声の機能を分析した結果得られた主音を意味している訳ではありません。つまり例えば、機能和声ではハ長調のドミナントと分析される和音について、ここではト長調の主三和音と表示されることになります。なお、長調は大文字、短調は小文字としています。

背景色が無い箇所の文字の意味は以下の通りです。以下は各行毎にラベルと意味のペアを表しています。

音名 単音
5:音名-音名 五度
2:音名-音名 長二度
-3:音名-音名 短三度
3:音名-音名 長三度
-2:音名-音名 短二度
aug4:音名-音名 増四度
dom7 属七和音
dom9 属九和音
add6 付加六
aug6it イタリアの増六
dim3 減三和音
aug3 増三和音
Maj7 長七和音
tristan トリスタン和音
aug6fr フランスの増六
dim7 減三和音+減七度
dm7 減三和音+短七度
aug+7 増三和音+長七度
min+7 短三和音+長七度

以下の情報は、experimental.xlsのみに固有の情報です。AG,AH列は現時点では予約しているだけで未使用ですが、今後、利便性を高めるために情報を追加していく予定です(この作業はデータ処理の結果とは独立で、ユーティリティ的なものであるため、予告なく更新することがあります)。また、AI列~AL列は交響曲のみの情報です。比較的網羅的なものは既に掲出済なので、今後は個別の曲毎の追加になると想定していますが、更に列を増やして他の分析結果を追加することも予定しています。

AF列:楽譜の小節番号
AG列(予約:未使用):楽譜の練習番号(リハーサルマーク)
AH列(予約:未使用):発想表示等の補助情報
AI列:Graeme Alexsander Downes, "An Axial System of Tonality Applied to Progressive Tonality in the Works of Gustav Mahler and Nineteenth-Century Antecedents", 1994 所収の分析表に基づく区切り
AJ列:Henri Louis de La Grange, Mahler I~III, Fayard 所収の分析表に基づく区切り
AK列:長木誠司『グスタフ・マーラー全作品解説事典』立風書房, 1994 所収の分析表に基づく区切り
AL列:現時点では音楽之友社版ポケットスコアの序文にある分析表に基づく区切り(第1交響曲と第4交響曲のみ)

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。(2019.12.15公開)

[2019.12.25]小節毎の調性推定結果のみを収めたexperimental_B_corel.xlsxを追加公開しました。
[2019.12.27]結果の3Dグラフ表示例を追加しました。
[2019.12.28]ファイルの画像を追加しました。
[2020.1.2]experimental_B_corel.xlsxのN列以降の相関の出力において、データによっては最初の行にゴミが出力されてしまうこと場合があるというプログラムの不具合を修正し、公開ファイルを差し替えるとともに、画像ファイルを差し替えました。またexperimental_B_corel.xlsxのZ列の説明が不正確であったため、訂正しました。
[2020.1.4]N~Y列およびAA列~AL列の色付けの定義を変更したバージョンに差し替えました。
[2020.1.6]experimental_B_corel.xlsxで、音の鳴っている最終区間の推定結果が出力されない場合がある不具合を修正しました。また併せて、区間内が無音(曲頭の余白か、曲中ではいわゆるゲネラルパウゼの箇所)の出力をスキップせずに、0を出力するようにして、基本的には小節単位の結果となるように仕様変更しました。更に、その一部を「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」で報告した、和音遷移を示す列を追加しました。
[2020.1.12]和音遷移を示す列でラべリングされる和声の種類を増やし、単音、2音の箇所については鳴っている音がわかるようにしました。また、従来表示していたバスの音に加えソプラノの音も表示するよう変更しました。更にexperimental_B_corel.xlsxで小節番号を表示するようにしました。
[2020.1.13]A~L列に表示していた相関計算の元となる音の出現頻度(長さ)および小節頭かどうかを表すM列を削除し、計算結果のみの表示としました。
[2020.1.16]experimental_B_corel.xlsxを元に、楽譜の小節との対応付けを行ったファイルを追加しました。
[2020.1.17]冒頭にデータの信頼性についての制限について追記。
[2020.1.18]現在保有している全ファイルの解析結果を公開。各ファイルに解析対象のMIDIファイル名と作品との対応、および各ファイルの入手元を記載したシートを追加。
[2020.1.28]全ファイルの解析結果の公開を中止。公開データを改訂版に差し替え。
[2020.2.1]冒頭の注記を改訂。
[2025.8.22]改題



2020年1月20日月曜日

MIDIファイルを入力とした調性推定についての注記:とりあえずの「まとめ」に替えて(2023.7.10更新)

[はじめに] 本ブログの記事「MIDIファイルを入力とした分析の準備:調性推定と和音のラべリング」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/midi.html)にてその結果を公開した調性推定について、それをマーラーに適用することに関して、複数の専門家(作曲家、音楽学者)の方から厳しい批判を頂戴しました。
 頂いた批判の骨子は、一つにはマーラーの音楽については、基本的にこのような分析手法を適用しても得ることが少なく、伝統的な分析による方が結局近道であること、もう一つにはこのような手法の適用結果を利用するにあたっては、前提として伝統的な和声学に基づく分析に基づいた批判的な見方ができなくてはならないということに存すると認識しています。
 既に報告した通り、MIDIファイルの内容の正確さついての検証を行う必要が生じ、そのための時間的な余裕がないことから、これ以上この試行を継続する意義は薄れてしまっていますが、いわば顛末書のようなものとして、頂いた批判に対する私の見解を、批判を頂けたことに対する感謝の気持ちとともに、以下に記録しておくことにします。
 応答を残すことは、このようなアマチュアの拙い試みに対してまともに向き合って頂けたことに対する或る種の義務のようなものであると考えるからであり、やったことを振り返った上で区切りとしたいからでもあります。更に言えば、公開したデータというものが専門的な観点からはどのように受け止められるか、どのような点に限界があるのか、どのような点に留意して制限して利用すべきかに関して、利用される方に知って頂くことが必要とも考えました。
 なお、以下の内容を踏まえた上で私の宿題(ただし私には最早それを解くことができないことが判明したわけですが)として残っているのは、以下でも触れている、アドルノのモノグラフにおける主張(つまり、その冒頭での楽曲分析の限界の主張や、カテゴリやキャラクターといった概念装置の導入、そしてマーラーの形式の「唯名論」的性格の指摘など)をどのように受け止めたら良いのかということです。クラムハンスルの手法に色々な制限があることについては異論はありませんが、数理的な手法のマーラーへの適用が不適切である理由が、単にクラムハンスルの手法の個別的な制限故であるのか、そうではなく伝統的な楽曲分析ではない、数理的な手法一般の問題なのかによって展望は大きく異なってくるように感じます。
 しかし最早この点についての議論を、それをする資格のない私が行う越権をこれ以上続けることは慎むこととして、(私にとってはまさにそうであるので)「未解決問題」として残し、それを論じ、解決する資格のある方々が解決してくれることに期待して筆を擱く他ありません。そして文字通りのアーカイブとなるこのブログの記事が、単なるきっかけ、しかもそれが不完全であるという否定的な様態でのきっかけとしてであれ、そうした解決に対して何某か寄与することを願わずにはいられません。(2020.1.20-22記)

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確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品を分析してみて、まず機械がおかしな答を出さないかどうかの確認をし、分析の精度や利点、弱点などを明らかにした上でやるべきで、マーラーの分析はそれらをやった後のずっと先にようやく見えてくるものなのに、何故いきなりマーラーのような複雑なものに飛びついたのかについて、まず述べることにします。

([2023.7.10補足]ところでここで、「確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品」というのを、マーラーの作品の内側に限定すれば、実は私は、まさに指摘されたような手順を踏んで分析を進めています。これは偶々最初がそうだったので、その後も踏襲しているのですが、新しい分析・集計方法を思いつくと、まずそれが期待した通りになりそうかを検討し、その検討にパスすれば、今度はプログラムを書いて実際に動かしてみるのですが、その際には、『リュッケルト歌曲集』の1曲、「私はやわらかな香りをかいだ」(Ich atmet' einen linden Duft))のMIDIファイルのあるバージョンを用いてテストをするというのが標準の手順になっています。(実際、ここで問題になっている分析に先立つ報告「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」において、この作品をサンプルとして提示したこともあります。)40小節に満たないこの小品についてなら、あるMIDIファイルが楽譜通りに入力されているかの確認もできますし、プログラムの出力が意図した仕様通りのものであるかどうかについての確認も、各小節毎・各拍毎に行えますし、やろうとしている分析の精度や利点、弱点などについてもある程度は見当をつけることができます。こうした点は、エンジニアリングの観点でごく当たり前のことであり、寧ろ指摘の通りに考えて実際にやっているからにはこの点については指摘に対して異論があろうはずがありません。従って以下の弁明は、ここで「確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品」というのが、実質として、例えば古典派のシンプルなピアノソナタの楽章のような、単に小さいだけではなく、用いられている和声の種類が限定され、拍節構造もシンプルなものを含意していて、マーラーに取り組む前にそうしたもので検証を行わないのか、という含意を持っているとしたら、という点についての弁明になります。エンジニアリング的な観点からのトリヴィアルな弁明ということなら、「確実である」ことは「小さい」ことで検証の被覆率(カバレッジ)をあげる―ーあわよくば100%にするーーことができれば良く、マーラーの中で実際にこれができる作品があるので、それを取り上げれば十分である一方で、「シンプル」という点について言えば、例えば和声的な多様性(転調のパターンのそれを含む)ということについて言えば、古典派の中でもシンプルな作品だとパターンが限定され過ぎて却って網羅性の点で問題が生じる懸念があるし、マーラーの場合には珍しくない拍子の変化についてはプログラムの検証上無視できないでしょう。勿論だからといって「私はやわらかな香りをかいだ」(Ich atmet' einen linden Duft))1曲で必要十分であるという訳ではないのですが、そうした条件を考慮した上での、或る種「現場」でのノウハウの如きものとして、この曲が選択されたというのが弁明になるでしょうか?とは言うものの、この点について明示的に言及することなしに以下だけを述べるのは明らかに説明不足であるため、その点をお詫びして補足するとともに、以下のコメントは、ここで述べた点を踏まえた上での更なる弁明ということでお読み頂けるようお願いする次第です。)

なぜ手順を踏まなかったかについて言えば、クラムハンスルの手法を、作品がどのように出来ているのか、楽曲分析したらどのように分析できるかとは基本的に関係なく、調性音楽に親しんできたけど専門的な訓練を受けた「エキスパート」(アドルノの聴取の類型論を思い浮かべて頂ければと思います)ではない人間が聞いたらどう聴こえるかについての非常に肌理の粗い、単純なモデルでしかないという了解に基づき、そのようなアプローチでの調性推定に関する限りにおいては、伝統的な楽曲分析においてそれが複雑であるかどうか、伝統的な楽曲分析において難しい対象であるかどうかはあまり関係ないと思っていたというのが正直なところです。

複雑で長大だから精度の高いデータを作るのは難しいというのは別の問題ですし、調性推定一般がそうだということもありません。例えば伝統的な楽曲分析でいう調性の推定は、私の知る限りでもそうではなさそうに見えますし、統計的なデータに基づかない推定であれば、プログラムによる推定でも、ここでの手法とは特性が全く異なります。そして、そうした手法を試行して後にこのような統計的な手法を用いるべきではないかということが主旨であるとするならば、その限りでは、マーラーの分析をやる前にやらないとならない手順があるというご指摘には異論はありません。

ただ、こういう発想は、それ自体、伝統的な楽曲分析の観点からは許容しがたいのかも知れませんが、ことによったら訓練されていない聴き手の耳は寧ろ、まさにそのような許容しがたいものであるということはないのだろうかとも思います。

というよりも素直に考えて、私は例えば、三輪眞弘さんの作品もパレストリーナも、ヴェーベルンもクセナキスも、或いは能楽の囃子のようなものも皆等しく「音楽」として聴いている、そういう水準が間違いなく存在すると感じているのだと思います。そして少なくとも私の中では、そのような中にマーラーが位置づけられている。恐らくはそれはマーラーを正しく聴くには不適切なのかも知れません。そういう聴き方ではマーラーを正しく聴くことはできないかも知れませんが、遺憾ながらそれが私の現実なのです。

勿論、言語におけるコードスイッチングのように狭義の調性音楽固有の聴き方というのがあって、対象に応じて聴き方を切り替えているといったことは実際に起きているだろうと思いますし、調性音楽固有の領域で繊細で微妙な問題がたくさんあって、それこそが本質的であるということに私も同意したく思いますが、前者はそれこそ程度の問題だし、後者は事実上は別としてそれが権利上、特権的なものだとは思わないのです。

一方、事実としてはそれは特権的かも知れません。例えば私は能楽の微妙な部分について聴けていないと思いますし、「ありえたかも知れない音楽」であり、伝統自体をいわばその都度仮構する三輪さんの音楽についてはとりわけそうだと思います。言語における母語とそれ以外のような質的な差になっているかどうかは措いても、総じて西洋の調性音楽を聴く頻度に応じた分だけは事実として特権的な扱いを受けるように脳内のネットワークが形成されているように思います。とはいえ、だからといって伝統的な西洋の調性音楽について専門的な訓練を受けているわけでもなく、結局どれについても私の「耳」(それには理論的な知識も含まれますが)は訓練が足りないが故の限界を持っているという自覚もまた、あります。そうでありながら、或る種の成り行きで、基本的には西洋の調性音楽をベースとした(但し精度には甚だ問題のある)「耳」を備えるようになり、それでもって狭義の調性音楽でないものをも聴いている。こうした条件にいるからこそ、クラムハンスルの統計を用いた相関のような仕方で調的推定をやる意味があると感じた、そして伝統的な調性音楽の分析においては、常に逸脱という仕方でその特性が測られているように見えるマーラーのような対象こそ、寧ろ対象としてふさわしいと感じたということなのだろうと思います。

しかし実際にやってみると、どうやらマーラーのMIDIデータの信頼性が思った以上に低いらしいことがわかってきた以上、確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品を分析すべきというのは、結果的にご指摘の通りなのだと思います。少なくとも個別の結果についての調査を行い、結果が想定されたものにならない理由を一つ一つ明らかにする必要があると認識しています。単なる入力ミスなのか、データの欠落なのか、作成方法に由来するずれのような問題(DTMの領域では「クオンタイズ」の対象とされるもの)なのか、はたまたMIDIデータ作成に許容されている大きな自由度故に、プログラムが想定していない設定がされているために正しくデータが読めていないためなのか、或いは単にプログラムの不具合なのかの切り分けをして、一つ一つ解決する必要があります。そもそもその全てのケースを想定した解析プログラムを書くことが事実上困難であるとすれば、データの信頼度を考慮しつつ、対象とするデータを限定して、その範囲では正しく解析できるプログラムにするという妥協点を見つける必要があるでしょう。そしてこれらの作業は、最終的にマーラーの作品が対象なのであれば、シンプルで信頼できるデータを対象にしていたらできません。例えて言えば、マーラーの作品の実演においても必ずしも楽譜通りになるとは限らない、特に長大で複雑で難しいが故に、ミスがつきものであるのと同じこと、現実のデータというのはこうしたものなのだと思います。

一世紀の校訂作業と実際の現場での利用を経て極めて信頼性が高くなっているであろう楽譜であっても現実にはミスプリントが皆無ではない可能性については今は措きます。それを言えば、そもそもMIDIデータの入力がどの版の楽譜を基に行われたのかも問題になりえますが、現在私が直面しているのは、そのような高水準の精度の問題ではなく、現実に起きているMIDIデータに固有の様々なタイプの問題だからです。それは寧ろ、データ分析において常に直面するデータクリーニングのような前段階に近い性質のものであるという認識を持っています。

その反面で、分析結果がどうなりそうなのかについて、私は予断を持ちすぎていたのだという点も感じます。つまり分析の前提から、精度や利点、弱点などは、やる前からある程度想像がつくと思ってしまっていて、それ故に、伝統的な楽曲分析の基本と応用の切り分けと、このようなタイプの分析の得意・不得意にずれがあることも当然のことだと思っていました。けれどもだからといって、伝統的な和声学に基づく分析に基づく批判的な検討を抜きにすることは正当化できないということは認めざるを得ません。

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まず、和音のラべリングの結果を後から追加して、調性推定の結果と並べてしまったことが誤解を与えてしまったかも知れません。

和音のラべリングと調性推定は手法上独立で、関係ありません。そもそも分析に使っている対象のデータが、前者は拍なり小節の先頭に鳴っている和音であり、後者は拍内、小節内に鳴っている全ての音の各音毎の持続時間のデータであって、全く異なりますから、単純な比較はできません。そして関係がない別々のやり方だからこそ、並べて眺める意味があると思って追加したのであって、和音のラべリング結果と突き合わせて調性推定が妥当かどうかを検証する目的ではありませんでした。勿論それもまた、或る種間接的な参考にはなりえるでしょうが、上記の理由から直接的には間違いですし、そのことには結果報告のブログの記事中でも言及していますが、結果データのみを手にしたときに、あたかもそれを意図しているかの如き構成になってしまった点は反省しています。

一方、古典的な作品の和声の分析結果と照合することで分析の精度や利点、弱点を確認するということの意義について言えば、機能和声に基づく分析と、クラムハンスルの調性推定の比較を行うという観点では意味のあることかと思います。しかしそれを除けば、和音毎に一つ一つ人間が分析しながら見ていくアプローチを取るのであれば、まさに正統的な楽曲分析をすれば済むことで、あえてここで試みたような別の方法で調性推定をする意味が私には判然としません。

繰り返しになりますが、ここでは小節を区間とした推定を行っています。拍毎の推定も出していますが、それもまた、小節内で鳴っている音がだんだんと累積されていくので、拍毎に和音を同定して、非和声音が含まれているかを分析して…というのと同一のことをやっているわけではありません。

勿論、純粋に拍毎に鳴っている音に限定して拍毎に独立に推定を行うことも、プログラムを少し修正すればできるので、古典派のシンプルな作品についてその結果をお送りすることは可能です。ですがクラムハンスルが実際にやった推定実験を見る限り、また理屈の上でも本筋は逆に見えます。寧ろもっと長い区間で推定すべきなのでは、と思います。なぜならここでやっているのは、個々の和声の機能分析ではなく、調性推定だからで、一般には調性が確立するためには単一の和音ではなく、和音の系列が必要と考えるのが自然だからです。

例えば或る小節の中がある調のドミナントと機能分析される和音のみで占められているとした時、その小節を1区間として独立に調性推定したら、転調先のトニカと見做して調性推定をしてしまうことが予想されます(結果を確認すれば、実際そのようになっている部分があるかと思います)。そしてそれが転調先の調性のトニカでなく主調のドミナントなのは周囲を見たらわかることです。だとしたら、この調性推定のやり方に限っては、推定対象の区間を拡げるべきなのです。

それでは区間どれくらい長ければいいのか?というのが難問です。人間には簡単でも、機械に自動判定させるのは難しく、逆に調性推定の結果をもとにして区切りを推定することになるかも知れないとも思います。私はといえば、次のステップとして(自動処理に拘ればズルをすることになりますが)フレーズの区切り、楽段の区切りの情報を与えて、その区間内で推定させるということを考えていました。

更に、それでは上記の例のような調性推定結果をどう受け止めるべきかと言えば、和声の機能分析の観点から見て間違いなので、こんなものは使えないと判断するよりは、そのことが和声の機能や調性の確立について告げているものを受け止めることの方が興味深いように思えました。そしてもしこのレベルの検討が必要であるというのであれば、それは現実の作品を分析するのではなく、ここでの例のような更に単純な例を構成すれば良く、かつそれはわざわざプログラムを書いてやってみるまでもなく、机上で分析可能なことのように思われたのです。

他方でマーラーの作品のように、和声の機能分析が困難で、エキスパートのみがそれを行うことができるような対象であれば、いわばトンネルを反対側から掘り進めるようにして、このような単純な手法による結果からでも浮かび上がってくる何かがあるというように思って試行してみたのです。

しかしことマーラーの作品に関しては、その作品の成り立ちからしてそのような発想は誤りで、逆にこちらこそ試してみるまでもなく、やることの意義はなく、和声の機能分析が一番の近道とのことで、見当外れのことをやっていたことになり、この点は不明を愧じる他ありません。

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これは分析というよりプログラムの作成のディティールの話になりますが、機械がおかしな答を出さないということについては別の話になります。具体的な個別のプログラムそれぞれについて言えば実は基準は明確です。

和音のラベリングでは、ラベリングの手順が決まっていて、ルールが決まっていて、その通りに動けばプログラムとしてはOKです。そしてこのレベルの確認、つまり普通のプログラムとしてのテストはそれなりに行っています。古典的な作品のMIDIデータも用意しましたし、マーラーでは重心計算以来、まず規模の小さな歌曲(記事でもよくサンプルとして出す「私はやわらかな香りをかいだ」)で確認するということをずっと行ってきました。ただ小さなデータでは出現しない条件もあります。なので一方では、マーラーの作品の全てのMIDIデータを通してみるということもやっています。そしてもともと最終目的がマーラーの作品についての結果を得ることであれば、極論すれば、他の作品のMIDIデータでうまく動かなくても支障はないという考え方もできます。実際、MIDIデータの作り方は様々で、恐らくは作成に用いたシーケンサ依存の部分があり、その全てのケースに対応したプログラムを作成を目指したわけではありません。実際、幸いマーラーのMIDIデータには一つもなかったのですが、他の作品のMIDIデータではMIDIファイルからデータを抽出する最初のプログラムが異常終了するケースもありましたが、上記の理由から、これには対応しませんでした。

ただご指摘はこのレベルでの検証に対するものではないと思います。そしてこのレベルで「正しく」動くことが確認できた上でも、調性推定にしても、和音のラベリングにしても、でも現実に動かせば、間違いなくエキスパートが見れば「変な答」を出すことがあるでしょう。

それは一つには、もともとのデータ(MIDIファイル自体)がおかしい場合で、これは事前にわからないし、どうしようもないです。一つ一つ確認して元のMIDIデータの方を直すしかない。そしてマーラーに適用した今回のケースでは、この点が現実的なネックとなって、先に進めることの意義が薄れてしまったと認識しています。

もう一つは手順そのものに不足がある場合です。こちらは或る意味で初めから想定済です。そしてその限りでは、できないものははじめからできないので、MIDIファイルの大きさや作品の複雑さは実は関係ないのです。意地の悪いひっかけ問題も意味がなく、やる前からできないことは仕様上明確で、できるようにするには、仕様を変更し、手順を追加しなくてはいけません。

和音のラベリングのパターンの種類については、別に報告している通り、百通り以上のパターンを分類できるように用意していますが、調性推定結果とともに表示することにした和音のラベリングは、そのうち頻度が高くで先行文献等でも扱われている十数種類に限定しています。出現頻度が稀になるとその和音に名前がないし、曲によっては百通り以上用意しても100%にはならなかったからです。そしてそれがMIDIデータの誤りに由来する可能性が出てきたため、パターン数を増やすのは一旦中断しています。そういうわけで対象となっているMIDIデータに限定しても網羅性には欠けるという中途半端な状況になっています。(なお、このレベルの網羅性については、データ自体の公開は目的から外れるため行っていませんが、報告の文章の中には、マーラー以外の作品の場合にどうであったかについて、ごく簡単にではありますが触れた箇所があると思います。)

ただしMIDIデータの誤りは別として、それは別にプログラムの問題ではなく、理論が興味を持たない和音というのがたくさんあるということの結果に過ぎないようにも思います。或る珍しい和音に意味があるのかないのかというのは結局のところプログラムにはわからない(これは機械学習のプログラムでも同様です)。基準は結局人間が与えているに過ぎません。プログラムとしてどこまで自動化されているかどうかは、プログラムを作っていて、その動作を理解している製作者でもある私の立場からすれば枝葉に過ぎないと思います。機械の分析対象外のケースについては、それが人間の扱える程度の量なら手作業でやってもいいわけですし…寧ろ難しいのは、特定の和音が重要であるかどうかを判定する能力です。それは単なる出現頻度だけでは測れない筈で、簡単なやり方では外れ値との区別がつかないでしょう。そしてそれが統計ベースの手法の限界であると思います。

調性推定の場合には少し事情は違いますが、プログラムとしてOKかどうかは、或る意味で和音のラベリングよりもっと手前の問題です。ここではMIDIデータの方の信頼性とは別に、推定の根拠となっているクラムハンスルの調性とピッチの出現頻度の統計データの側の持つ限界が一つと、統計的な手法が持つ限界というのがもう一つ出てくるからです。そしてこちらについては意地の悪いひっかけ問題は一定の意味を持ちます。工学の分野ではある手法の理論的限界を明らかにする「騙し問題」というのがありますが、それに相当する役割を期待するわけです。ただ、今回のプログラムは、機械学習のような「やってみないとわからない」部分は少ないので、理論的な興味は薄いかも知れません。

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次いで、敢えて通常の楽曲分析ではなくこうしたプログラムを使おうとしたのはなぜかについて言えば、私個人についてはそうしたくなる明確な動機が幾つかありました。

ことマーラーに限れば、程度は様々ですが楽曲分析というのにも幾つか接しています。でも複雑な大曲であるが故か、非常に大まかな楽式レベルの分析か、逆にミクロな、非常に範囲を限定した分析しかない。その一方で、マーラーの作品の一般的特徴のようなことが、具体的な裏付け抜きで言われたりして、それに説得力を感じたり感じなかったりするわけです。その根拠を確かめようと思っても確かめる術がない。更には楽曲分析の結果がしばしば一致しないのも困惑の種で、そうなると自分なりに判断根拠が欲しくなります。結局のところ、他の作曲家の作品ならいざ知らず、マーラーは(所詮程度の問題に過ぎないとはいえ)私が最も良く知っていて、あそこの部分がどうなっているのか?誰かがこういうことを言っているが、そこはどうだったか?といった具体的に確認したい事柄が山程あったからというのが理由なのでしょう。更に言えば、アドルノが通常の楽曲分析でマーラーを理解することの限界を述べていますし、繰り返しになりますが、多くの場合、音楽学の領域での分析のほとんどは規範的なものからの逸脱によってマーラーの独自性を測ろうとする。それではアドルノいうところの「唯名論的」な性格は捉えられないので、それならば寧ろ、データに即したボトムアップな見方、伝統的な見方ではない見方にも可能性があるのではないかと思った、というのもあります。

クラムハンスルのモデルがそうである訳ではないけれど、そこから出発して、例えば相転移や自己組織化のような現象や分岐現象がみられたり、(疑似)カオス的な挙動をする系とのアナロジーが抽象度を上げたあるレベルで成り立っているというような見方に展開していくことはできないか、それが優れて「人間的」な時間、またしてもアドルノを参照すれば「小説」的な時間性を備えたものであり、通常の数理モデルでは扱い辛いものであるとするならば、音楽を「時間の感受のシミュレータ」とする立場から、生命や意識に対する複雑系的なアプローチを援用することによって捉えることなら可能ではないだろうか、というような発想にも繋がっていきます。但しその時には、具体的な楽曲分析の対象としての狭義の「調性」の推移ではなく、より一般化された或る種の特徴の軌道が記述対象となるのものと考えるのが自然に思われます。もっとも最後の部分については、それが今実現できる見通しがあるわけでもなく、いずれそのようなことが行われることを夢想しているに過ぎないのではありますが…

いやそうしたことを持ち出すまでもなく、マーラーの音楽を聴いて受け取る「感じ」の根拠を、その一部でも一面でもいいので知りたい、或いは自分なりの納得のいく理由を探したいということが根っこにあります。更に言えば、色々な文献を読んだりして、知識のフィルターを通して眺めることもできる今の状態でなく、出会った時の「子供」が受け取ったものの根拠が知りたい。ある音楽が、他の音楽では見ることのできない風景を見せてくれるとしたら、その風景が忘れられないものだとしたら、その音楽のどこに秘密が隠されているのか、知りたくなるという、ごく単純な話です。そしてマーラーについては、これは謂われない話だとは思いません。マーラーについてのモノグラフの最後の章で、アドルノは「子供」について語っていますが、素朴なレベルでは、それと私のようなアマチュアの思いと通じる部分があるのではと思い、また、あって欲しいと思っています。

私の耳は専門的な訓練を受けているわけではない。そういう意味では分析の難しさからは上級編で、エキスパートでないと手が負えないようなマーラーの音楽を、私が論じる資格はないのだと思います。私の立場は単なる「聴き手」としての「子供」に過ぎません。「子供」は、アドルノがそう書いているように、大人だったらしないような思い込みをしてしまうかも知れない。でも、そうした思い込みをさせてしまうのがマーラーの音楽の力であるとしたら、そうした「勘違い」が起きる理由も併せて私は知りたいのです。

例えばですが(実際そういう主張を見かけたのですが)ある音楽学者が、他の説は間違っている、自分の説が正しいのだと主調しているところで、私は以下のようなことを思ってしまいます。「そうかも知れないけれど、それならそれで、なぜ間違っているかだけではなく、なぜそのような間違いが起きてしまうのかということも含めた説明であるべきなのではないか?」と。よく「意識」は迷妄だ、虚像であり実在しない、という消去主義の立場がありますが、これも全く同じで、そのような「錯覚」が起きること自体に問題を解く鍵があるのでは、と思うわけです。

そして「聴き手」としての「子供」という立場に立って、マーラーの作品の調的な推移を眺めようとしたとき、その文脈の「主音」「調性」を知る必要がある、というのが今回の調性推定やら和音のラベリング作業の出発点でした。誰かに(謂わば「天下り式に」)教えてもらうのではなく、作品をそのものから「主音」「調性」はどうやったらわかるのかを調べてみた結果としてわかったのは、それを判別する手法がアルゴリズム化できてプログラムにできるような一般に共有されている定義はなさそうだし、そもそもが調的感覚というのは、文化的・社会的に形成されたものであるらしいということでした。だとしたら「「主音」「調性」はどうやったらわかるのか」という問いを「聴き手は「主音」「調性」が何と認識しているのか」にずらすという発想の方が適切かも知れないと考えたわけです。そして辿り着いたのが、そうした「文化的・社会的形成物」を実験により求める音楽に関する認知心理学の成果だったということです。

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ここで試行した調性推定の手法は枠組みとしてはシンプルです。クラムハンスルの統計を用いた相関は、作品がどのように出来ているのか、楽曲分析したらどのように分析できるかとは基本的に関係なく、調性音楽に親しんできたけど専門的な訓練を受けたプロではない人間が聞いたらどう聴こえるかについての非常に肌理の粗い、単純なモデルでしかないのです。その限りで、調性推定に限ればここでやっていることはエキスパートがやっている高度な楽曲分析の自動化でもその代替手段でもありません。或る作品がどのような原理で出来ているかとは無関係に、指定区間が24のどの調性に聴こえるかを統計的に推定しているだけなのです。

それは伝統的な機能和声に基かない作品、例えばクセナキスのピアノ曲についても行えます。もっとも、集合論的に音群を操作する「ヘルマ」については、調的感覚がそもそも考慮されていないので無意味かも知れません。一方で調的構造の一般化とでもいうべき、いわれるところの「篩の理論」を背景に持つ「エヴリアリ」については必ずしも無意味ではないように思います。(所詮は西洋音楽のある時代固有のシステムである24の短調・長調に対する相関であるとしたら、結局、関係ないのはどちらの場合でも一緒ではないかという意見もあるかも知れませんが。)

全ての音の出現頻度が同じだと相関は計算できませんので、現実にある区間で完全に調性が無ければそもそも分析はできないのですが、調性感がなくなるすれすれで、しかも伝統的な機能和声に従って書かれていないので伝統的な分析が行えない作品がどの調性に聴こえるか?という問題設定なら選択肢として有力かも知れません。(そういう分析をやること自体の意味についてはまた別に議論があるでしょうが。)

拡張されているとはいえ、基本的には伝統的な調性音楽を基盤としているマーラーについては、このような手法で得られるものは限定的で、伝統的な楽曲分析の方が結局は近道であり、適用対象として不適切であるなら(ただもしそうならば、既述のアドルノの主張や提案はどのように受け止めたらいいのかという問題は残りますが、今は措きます)、他の何かでも構いません。例えば三輪眞弘さんの新調性主義の作品ではどうでしょうか?三輪さんが新調性主義に属する或る作品のノートに「変化を続ける音型パターンに対して、繊細にそして「機械のように」反応するしかない」と記している、聴き手の側で起きていることを、それは浮かび上がらせるでしょうか?その結果をどのように受け止めたらいいのでしょうか?或いはそれは「機械のように」反応する人間ならぬ、文字通り「機械」が聴いた反応と考えるべきなのでしょうか?そして、これはやってみる意義があることでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

三輪さんの新調性主義の作品を例に出しましたが、つまるところ対象はパレストリーナでもヴェーベルンでもクセナキスでもいい。完全に旋法でてきている音楽に適用することの意味は自明ではないでしょうが、マーラーのように基本的には調性音楽だが、旋法的な部分がそこかしこに出現する、或いは特に晩年に向けて、調性感が希薄になるようなケースについてなら、狭義の調性音楽に親しんだ人が聴いたらどう聴こえるかということの粗い近似にはなっていると言えないでしょうか。それをやることに意義を認めるかどうかは立場と目的によるでしょうが。

一方でミルトン・バビット式のトータルセリー的な方向性は、作品を構築する論理とどう聴こえるかが乖離しているといったような批判があると思いますが、そういう観点では、実際にどう聴こえうるかを推定する手掛かりになると思います。私は詳しくないですが、ベルクの音楽は同じ十二音でも、調的に聴こえる部分が多いというような話にしてもそうではないかと思います。

繰り返しになりますが、ある区間で本当に12音の分布が全て均一であるならば、相関は計算できないですから、逆にこの手法が成り立たないような作品は調性から自由になったということになるかと思います。そのことの価値はまた別の問題で、事実してそうであるということです。もっともこれも「自由」の定義に依存するのでしょうが…

それを考えれば、クラムハンスルが「正解当て」の問題のようにして調性推定を検証に用いたのは、検証としては勿論間違っていないでしょうが、手法そのものの持つ意味合いを考えれば、誤解を招くような使い方であったという見方ができるのかも知れません。本来、そうした「正解」を云々することがそもそも不適切な対象であるからこそ、相関をとることの意義が生じるのではないかと思われるからです。

繰り返しになりますが、伝統的な調性音楽の拡張した形態であるマーラーのような作品の場合、部分によっては調性感が希薄になったり、揺らいだりということが起きることがありますが、それに対して素人は何調と何調との間で揺らいでいるというのを自覚的には言えないかも知れません。そういう場合にもこの分析によってそれが浮かび上がってくることが期待できるように思えます。それは伝統的な楽曲分析と合致するかも知れないし、合致しないかも知れません。でも仮に合致していない場合、だから間違いなのでしょうか?いや伝統的な和声学の基準に照らしてそれが間違いだとして、でも、素人の耳にはそう聞こえてしまうという事実を示唆しているということはないでしょうか?勿論モデルとしての近似の精度が甘くて聞こえている通りに結果が出ないということはあるかも知れませんが、それは別の問題で、ここで確認したいのは、基本的な枠組みとしてこのような手法で調性推定を行うことが何をしていることになるのかという点です。

私はこれを或る種の事実として受け止めるべきではと考えました。調性音楽に親しんだ人の調性とピッチの出現頻度の統計データを使うと専門的な観点から見てうまく行く部分もうまく行かない部分もひっくるめて事実としてこうなるということです。理論的な分析の結果ではなく、寧ろ分析の対象となる事実の一部、楽曲そのものではなく、楽曲の聴取の水準でこのような地形が形成されているのだということを事実として眺める方がいいように感じました。逆に、それ以外には使い道はないかも知れません。それもあって、解釈とかはできるだけ加えずに結果を公開したのでした。

関連して、この手法が音響物理学的に有意味なのか、それとも調性音楽的に有意味なのかについては、調性音楽が音響物理学的にも一定の合理性を持つ限りで前者とも無関係とは言えないでしょうが、一般論として前者ということはなく、後者だろうと思います。なぜならこの推定のベースとなっているクラムハンスルの調性とピッチの出現頻度の相関の統計データは調性音楽に慣れ親しんだ人間を対象とした実験の結果だからです。

*    *    *

実は一番最初は紙に五度圏の丸を描いて調性の変化を手書きで書いていたのを見かねて、今ならMIDIデータを解析することもできると教えてくださった方がいたのがそもそもの始まりでした。そして優秀な学者が膨大な時間をかけて、マーラーの作品のうちの一つの、ことによれば更に一部を楽曲分析する、あるいは横断的に眺めるかわりに、個別の作品については「摘まみ食い」になるという現実を目の当たりにして、自分の能力と自分に遺された時間を考えた上で、マーラーの作品の全体を薄く広く眺めるというのを、自分にできる範囲で一旦はやっておきたいと考えたのでした。

ということで公開したデータは撤回せずにそのままにしたいと思っています。勿論、こんなことには価値はないかも知れません。知る限り、私が今公開しているような結果が別に公開されていることはないようですが、そもそも他の誰にとってもこんなデータは意味がないかも知れない。どの程度の価値があるかはわからないし、それを自分で独力で1つ1つ確認する時間はとれませんが、他の誰かがやってくれる可能性もあり、あるいはもっと精度の良い、価値のあるものが出てくるきっかけになるかも知れないという淡い期待にすがりたいからです。

私には価値のあるものを後に残すことはできないので、このレベルのものでさえ、主観的には大事なのです。それゆえ既にやってしまった「暴挙」については、いわば沈みかかった船から投じられた投壜通信の如きものとして、大目に見て頂きたくお願い致します。(2020.1.19執筆、20公開, 22, 27, 28, 2.1加筆. 2023.7.10補足追記)

2019年12月12日木曜日

マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺への追記

以下は、記事「マーラー作品のありうべきデータ分析について:補遺」の更に補足となります。背景については元記事(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/blog-post.html)をご覧ください。

(1)まずは気になっていたティモチコの『音楽の幾何学』。これはかなり手強い内容なので、きちんと読むには時間がかかりそうですが、基本的な前提のところで、今考えている方向とはずれがあるようです。例えば中心音と音階は独立だとする。これは原則としては勿論正しいのですが、結果的に個別の(例えば機能和声の、条件つきの、経験的なものでしかない)合理性の在り処を説明する方向には向かわなさそうです。寧ろ、抽象化をしていった上で、その過程で削り落とした要素をそれぞれパラメトリックに独立に扱えるように幾何学化するとどうなるか、という探求のようです。勿論、そうした抽象化の進んだ次元で見えてくる法則性のようなものはあるでしょうし、機能和声や伝統的な対位法では禁則であっても実は合理性があるのだ、というような説明が可能になることもあるでしょう。更に言えば、音楽を抽象化して行って出来るだけ一般的に秩序だてようとする点で、寧ろ三輪眞弘さんの「逆シミュレーション音楽」をはじめとする「ありえたかも知れない音楽」の仮構のような方向性と親和性が高いように思います。

(2)次にクラムハンスルの『音楽的音程の認知的基礎』および(こちらは邦訳のある)アイエロの『音楽の認知心理学』所収のバトラー、ブラウンの「音楽における調性の心的表現」について。これらは認知心理学の実験結果なので、基本的には理由づけを分析することは一先ず措いて、ある文化的・社会的文脈での習慣づけ=学習の結果を帰納的に(平均化して)求めて行く。結果として得られるものは発見的(ヒューリスティック)な規則になります。だから母集団を変えたら結果が変わるかも知れない一方で、母集団を変えても、「ヒト」であれば基本的には安定した規則性というのが見つけられる可能性はあり、帰納的な極限として(西洋的な)「人間」のみならず、「ヒト」普遍の法則を見出すことはある程度可能でしょうし、実験結果はそれの一定の誤差つきの近似と捉えればいいように思います。

 但しこの規則を正しいとして中心音決定することの意味は確認が必要と感じます。これ自体が目的なら問題ないですが、これを更に和声の機能を調べるために使うとすると、論理的に循環が生じうる、つまり中心音の発見的規則の中に和声の機能に由来するファクターが含まれている可能性が高く、もしそうなら、形式的には「中心音で機能が決まる。機能に基いて中心音が決まる。」という循環があるように見えるからです。

 もっともこの循環は、まずはそれぞれの「機能」という語で指示されている対象が同じでないかも知れませんし、その点を考慮してなお循環があるとしても、排除されるべきものではなく、対象の性質からいって、物理的法則のようなものを想定するのは妥当ではなく、寧ろ生物のような複雑系に近いと考えれば、ブートストラップ、自己組織化のようなものにつきものの再帰性の現われとして正当化されるものではないかと思います。

 ただし、これは対象が平均律と機能和声の枠組みに基本的に依拠しているマーラーの音楽だからであることには留意しておきたいと思います。仮に今、分析しようとしている作品が、12音平均律には基づいていても、機能和声に支えられた12音各音を主音とする長調・短調の調的システムには基づいていないとします。その時、クラムハンスルのアルゴリズムでの推定が意味がないことは明らかです(そもそも、適用しようとは思わないでしょう)。敢えてそれを行ったとしてわかることは、別の調的システムで作られた音楽を、西洋の伝統的な音楽を聴いてきた人間が聞いた時、敢えてそれを西洋の伝統的な音楽におけるシステムの内部で捉えようとしたら、どのように捉えられるか、ということになるでしょう。この場合には、最初に述べた循環が表面に出て、致命的なものとなってしまいます。

(3)ただ、ここで差し当たってやろうとしているのは、中心音の推定なのか、それとも調性の推定なのか、マーラーを対象とする限り、その両者は理論的に関連しているものの、厳密には一般には両者は独立ですから、その2つを区別する/しないについての確認を念のためにしておくことにします。

 クラムハンスルの調性推定のアルゴリズム(およびその変形)を用いて何ができるかと言えば、厳密に言えば、それはあくまで特定の時間枠の中で鳴っている音の集合からどの調性との相関が最も大きいかを推定することであって「中心音」そのものの推定ではありません。平均的にどの調性だと判断されるかの確からしさが求まるだけです。そしてその上で、調性が推定されたとして、調性の定義に従属するものとして中心音が定義されるならば、調性の推定結果(24の長調・短調の各調性との相関を表すベクトルの系列)に対してある変換を施せば中心音の軌道に変換できるということになります。変換に当っては、例えば、長調と短調における中心音の安定性の違いを加味したりすることになるでしょう。

 更に中心音の定義を重心の如きものとしようとすると、今度は重心を計算する空間の定義が必要となります。避けようと思えば12のピッチそれぞれの確からしさの分布そのものが中心音であるとしてしまえば余計な問題は回避できるわけですが、既にマーラーの作品のMIDIデータを入力として五度圏上の重心計算をやっているわけですから、改めて重心計算について考えてみます。
 
 結局、中心音の重心計算がそこで為される空間自体が、(経験的な)調的相関で定義されるものであるなら、筋道としては「調性の推定(クラムハンスルのアルゴリズム、音の出現分布の相関度に基づく)⇒調的相関(これ自体、各調性における音の出現分布同士の距離として計算された結果)の空間における重心としての中心音の計算」となって、これはこれで矛盾はなさそうです(勿論それは、西洋近代の調的システムという「閉域」にいるから矛盾が起きないということに過ぎないのですが)。わざわざ中心音の空間を定義する意味があるか(「閉域」の中にいる限りにおいては、結局分布のある幾何学的表現に過ぎない)を気にしなければ、これはこれでいいように思えます。

 一方、重心計算ではなく、マーラーの作品のMIDIデータを入力とした調性推定結果自体において、例えば調性の曖昧さの度合いやコントラストなどについて様々な特徴が検出できたとすれば(この特徴も、何らかの平均なり特定の別の対象との比較として取り出せるものでしかないですが)、それはマーラー固有のものとして構わないように思いますし、発展的調性を力学系的に捉えるという観点からは、寧ろ適当なような気もします。

 こうして考えると、マーラーの作品の分析なら、差し当たり出発点としてクラムハンスルの調的階層が前提とする調的システムに基づいて中心音を定義することが大きな問題になることはない、従って結局、まずはつべこべ言わずにクラムハンスルのアルゴリズムなり、その変形を使った分析をやればいいし、それをやる意味はありそうだ、というのが結論のようです。

(4)上記の点に関連して、私の前の記事での議論は、一見するとそれ自体、自己矛盾に陥っているように見えると思います。つまり一方で、倍音のような物理的法則に従うレベルの事実は、一定以上の根拠にはなりえないということで、文化的・社会的な多様性が生じる余地を要求しながら、クラムハンスルの実験結果のように帰納的に求められた規則に対し、それが文化的・社会的な条件に制約された一定の集団の平均値に過ぎないという点において留保をするというのは、無い物ねだりなのではないか、では一体何に根拠をおこうというのか、という問いが成り立つと思います。

 それに対しては、(まさにそのような書き方をしたと思いますが)クラムハンスルの実験結果のようなものを全面的に拒絶するつもりはなく、それを分析の手段として(消極的・暫定に)利用することは否定しません。(というか他に手段がない。)それは飽くまでも(機能和声の「規範」とか、「音階」「旋法」のような理論的概念を援用して分析することも同じだと思いますが)問題にアプローチをするための一手段に過ぎません。

 例えばクラムハンスルに対して、バトラー、ブラウンはより文脈依存性にフォーカスした実験を行っているわけですが、いずれの実験結果についても物理法則レベルの根拠はなくても、生理的・知覚的水準での準・法則的なものを想定するならば、それが一定のレベルで反映されたものであると考えることは可能だろうと思いますし、それを用いることに問題があると考えているわけではありません。

 問題が起きるのは、例えばそうした実験的・経験的な事実が、価値判断の尺度になる時です。平均値に近ければ近いほど「優れている」わけではないし、逆に遠ければ遠いほど「優れている」わけでもない。遠い方について言えば、遠ければ「オリジナル」とは限らないし、「オリジナル」であることと「興味深い」ことはまた別です。(この辺りの事情は、各学問領域における研究の価値とパラレルな側面があるような気がします。)物理的に「協和的」であることと、感覚的に「協和的」であることは既に一致せず、後者は文化依存であるとされています。一方で、いずれの尺度においても「協和的」であること(あるいはその逆)が、そのまま作品の価値を決める尺度となるわけではありません。

 同様に、例えばクラムハンスルは、実験で求めた調毎のピッチの出現頻度の分布に基づき、調性間の距離を計算してマップを作成していますが、このマップはあくまでも或る時代の文化的・社会的な平均的プロトタイプに過ぎません。それは規範のレベルでの機能和声理論に対応する、経験的・帰納的レベルでの等価物であると考えることができるでしょう。勿論これを基準とした個別の作曲家の作品の特徴づけを行うことは可能だし、問題はないですが、規範としての機能和声への忠実度が作品の「興味深さ」を直接決定する尺度にはならないように、それもまた、作品の「興味深さ」を直接決定する尺度にはならないと考えているということです。「興味深さ」を探るとなれば、そこを出発点としながらも、更にそこから離れて、アドルノ風の「ミクロロギー」に拠らなくてはならないのではないか、「唯名論的」にその作品固有の論理を明らかにすることによってしかできないのではないかと思うのです。そして繰り返し述べるように、そうした分析を行う際には(そうした分析だからこそ)、データに基づく裏付けが必要なのではないかと思う一方で、データ分析によって出て来るのは(少なくともここで論じているレベルのものは)あくまでも「素材」に相当するものに過ぎす、それ自体がそのまま「答え」になることはないように思います。

 もともとが、非西洋人である「私」がマーラーを聴くとき一体何を聴き取っているのか、というのが問の発端でしたが、その「私」とてマーラーを含めた西洋音楽を聴くことで脳内にマップを形成しているわけですし、結局のところ目的は「私が受け止めたもの」そのものではなく(それは私がトリヴィアルな存在であるのに応じて矮小化されたものになっていて、そんなものに価値はないので)、それを可能にしたマーラーの作品の背後にある論理を分析することにあるのですから、「私」とクラムハンスルの調的階層の背後に存在する平均的な聴き手との偏差に拘っても仕方ありません。

 その一方で、クラムハンスルの調的推定の結果はそのまま用いるべきではなく、中心音のような、より一般的な理論的概念を措く操作は必要なのではないかと思います。マーラーの音楽は、そもそも私が済む極東とは異なる文化的に属している筈ですし、それは既に1世紀も前のものなのです。一方では固有の伝統に属する能楽に接し、他方では、マーラー以降の西洋の音楽の更にその先にあって、まさに同時代の音楽である三輪眞弘さんのように、倍音列において最も基本的な完全五度に基かないガムランに基づく作品もあれば、はそもそも音律すら前提としない作品もあり、かと思えば、12音平均律に基づきつつも伝統的な機能和声に基づく調性音楽とは異なる調性へのアプローチを試みた作品もあるような「音楽」にも接している現実の状況を踏まえて、特定の文化的な文脈に依存しない、より一般的な仕方で、経験に即した「自然」でかつ「興味深い」中心音の定義をマーラーの作品に即して考えることが、マーラーの作品の背後にある論理を探る際のきっかけになるように思えるからです。そしてその出発点として用いるのであれば、クラムハンスルの調的推定は妥当であるといって良いように思われます。

(5)ここで元々の問題を改めて取り上げて確認してみます。元の問題はI⇒V,VI⇒Iはどう違うか、IとVはパターンとしては同じなのに機能が違うのはなぜ、という問いでした。これはマーラーの個別の作品の特徴がどうの、というのとは一先ず別の次元の問題です。

 答えは「あるパターンが別の機能を持つのは、そのパターンが出現する文脈による」というものでした。文脈を中心音が定義づける、中心音は調性推定の確からしさと等価であるならば、そのパターンの出現する調性が異なる=中心音が異なるからで構わない。では調性はどのようにして決まるのでしょうか?それは多分そのパターン自体を含めた、でもそのパターンだけではない、水平方向、垂直方向の両方向での周辺の音の分布で求まるということになるでしょう。

 ここで音の分布⇒調性の推定の手段は 統計的に求められた相関に基づくとします。それは経験的に学習されたものですが、何かそこには物理的ではなくても知覚的な法則性のようなものは認められるかも知れません。それが仮に経験的に求められたものに基づくものであったとしても、「中心音は、天下りに与えられてはならない」という要請に対しては、中心音を、或る区間で鳴っている音の集合(つまり入力データに含まれている情報)から求めているということで充足しているので、この方法で構わないことになります。

 鳴っている音の分布⇒調性⇒中心音、という論理が辿る筋道がクラムハンスル的な経験的な根拠によってしか可能でないとしたら、その経験を形成するのが分析対象となる作品を含めた聴取の経験による、という点に循環がみられるでしょうが、この点については(2)で検討した通りで、循環は問題にならず、寧ろ対象の性質上、必然的なものと考えます。調性音楽を支える論理というのは、倍音列のような物理法則の水準にあるものではなく、文化的な構築物であって、寧ろ「解釈学」の対象と考えるべきで、循環は元々備えている性質であると考えるべきです。

 では、この問いはトリヴィアルだったのだろうかと考えると、上記のような答えが直ちに思い浮かぶのであれば(ご覧の通り、残念ながら私にとっては自明には程遠かったわけですが、わかっている人にとっては)確かにトリヴィアルなのかも知れないと思いつつも、少なくとも以下のようなことを確認できたとすれば、それは無駄ではないのでは、とも思うのです。

 それは、抽象化されたピッチの集合だけを見ていたのでは、なぜそのように聴こえるのか?という問いへの答は見つからないということです。その観点から言えば、元の問題は厳密には2つのことを告げているように思えます。IとVがパターンとして同じなのに機能が違う、というのは、単独の和音だけではわからないということを告げているのに対し、I⇒V,IV⇒Iは2つの和音の系列のみを見ていたらわからない。IとVのどちらなのか、I⇒V,IV⇒Iのどちらのカデンツなのかというのは、ピッチセットとして抽象化してしまえば区別がつかなくなるのは当然で、抽象化のプロセスで捨ててしまった情報、即ちそれ以外の水平、垂直の両方の次元での周辺の音やピッチセットの構成要素が、音高方向にどういう順序で並んでいるか(つまりどれがバスで、どれがソプラノか)を見なければわからないのだ、ということです。通常の楽曲分析での説明は、そうした背後にあるプロセスを全て端折って、結論の部分だけで議論をしているということだと思います。それは結果としてこうだ、という説明ではあっても、ではなぜそうなのかについては語らない。目的が違うのだから、それは別に構わないのですが、ここでの分析のような目的にその知見を利用しようとする場合には注意が必要だということのように思います。

 それでは一体、どの範囲を見ればいいのでしょうか?どのような切り口で見ればいいのでしょうか?データに基づく分析をやろうとすると、優れた音楽家や音楽学者でない、平均的な聴き手が無意識に行っている情報処理ですら、その複雑さに圧倒されてしまいます。更に言えば、(それ自体が優れた研究者が苦心の上に編み出したものであって、そこでの捨象の操作の背後にある情報量の大きさに留意するのは勿論ではありますが、その一方で)認知心理学実験で用いられるような単純化されたものではないマーラーの作品のようなものを「聴く」時に背後で起きている情報処理のプロセスの複雑さは、途方もないものだし、そのプロセスを支えているシステムの複雑さ、生物としての、社会的存在としての、美的主体としてといった階層の深さには目眩さえ感じます。ましてや優れた音楽家や音楽学者が直観的に掴み取る、ある作品の特徴を機械に取りださせるというのは途方もない企てに感られます。(そういうことからも、AIと音楽との関係におけるチューリングテストは、人間が聴いてそれっぽい音響を自動生成することがでるかどうかといったレベルにはなく、音楽を聴いて、それに感動したり共感したりすること、その感動や共感について分析できることのレベルにあるのではと思えてならないのです。)その全てを踏破することなど思いも及ばぬことですが、それでもなお、そうした企てへの第一歩と呼べるようなものでなくても、そうした歩みへのせめて呼び水となることを願って、今後も少しずつ手を動かして、その結果を公開していきたいと考えているような次第です。(2019.12.12初稿、12.16,17加筆)