お詫びとお断り

2020年春以降、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2020年1月20日月曜日

MIDIファイルを入力とした調性推定についての注記:とりあえずの「まとめ」に替えて(2023.7.10更新)

[はじめに] 本ブログの記事「MIDIファイルを入力とした分析の準備:調性推定と和音のラべリング」(https://gustav-mahler-yojibee.blogspot.com/2019/12/midi.html)にてその結果を公開した調性推定について、それをマーラーに適用することに関して、複数の専門家(作曲家、音楽学者)の方から厳しい批判を頂戴しました。
 頂いた批判の骨子は、一つにはマーラーの音楽については、基本的にこのような分析手法を適用しても得ることが少なく、伝統的な分析による方が結局近道であること、もう一つにはこのような手法の適用結果を利用するにあたっては、前提として伝統的な和声学に基づく分析に基づいた批判的な見方ができなくてはならないということに存すると認識しています。
 既に報告した通り、MIDIファイルの内容の正確さついての検証を行う必要が生じ、そのための時間的な余裕がないことから、これ以上この試行を継続する意義は薄れてしまっていますが、いわば顛末書のようなものとして、頂いた批判に対する私の見解を、批判を頂けたことに対する感謝の気持ちとともに、以下に記録しておくことにします。
 応答を残すことは、このようなアマチュアの拙い試みに対してまともに向き合って頂けたことに対する或る種の義務のようなものであると考えるからであり、やったことを振り返った上で区切りとしたいからでもあります。更に言えば、公開したデータというものが専門的な観点からはどのように受け止められるか、どのような点に限界があるのか、どのような点に留意して制限して利用すべきかに関して、利用される方に知って頂くことが必要とも考えました。
 なお、以下の内容を踏まえた上で私の宿題(ただし私には最早それを解くことができないことが判明したわけですが)として残っているのは、以下でも触れている、アドルノのモノグラフにおける主張(つまり、その冒頭での楽曲分析の限界の主張や、カテゴリやキャラクターといった概念装置の導入、そしてマーラーの形式の「唯名論」的性格の指摘など)をどのように受け止めたら良いのかということです。クラムハンスルの手法に色々な制限があることについては異論はありませんが、数理的な手法のマーラーへの適用が不適切である理由が、単にクラムハンスルの手法の個別的な制限故であるのか、そうではなく伝統的な楽曲分析ではない、数理的な手法一般の問題なのかによって展望は大きく異なってくるように感じます。
 しかし最早この点についての議論を、それをする資格のない私が行う越権をこれ以上続けることは慎むこととして、(私にとってはまさにそうであるので)「未解決問題」として残し、それを論じ、解決する資格のある方々が解決してくれることに期待して筆を擱く他ありません。そして文字通りのアーカイブとなるこのブログの記事が、単なるきっかけ、しかもそれが不完全であるという否定的な様態でのきっかけとしてであれ、そうした解決に対して何某か寄与することを願わずにはいられません。(2020.1.20-22記)

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確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品を分析してみて、まず機械がおかしな答を出さないかどうかの確認をし、分析の精度や利点、弱点などを明らかにした上でやるべきで、マーラーの分析はそれらをやった後のずっと先にようやく見えてくるものなのに、何故いきなりマーラーのような複雑なものに飛びついたのかについて、まず述べることにします。

([2023.7.10補足]ところでここで、「確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品」というのを、マーラーの作品の内側に限定すれば、実は私は、まさに指摘されたような手順を踏んで分析を進めています。これは偶々最初がそうだったので、その後も踏襲しているのですが、新しい分析・集計方法を思いつくと、まずそれが期待した通りになりそうかを検討し、その検討にパスすれば、今度はプログラムを書いて実際に動かしてみるのですが、その際には、『リュッケルト歌曲集』の1曲、「私はやわらかな香りをかいだ」(Ich atmet' einen linden Duft))のMIDIファイルのあるバージョンを用いてテストをするというのが標準の手順になっています。(実際、ここで問題になっている分析に先立つ報告「MIDIファイルを入力とした分析の準備作業:和音の分類とパターンの可視化」において、この作品をサンプルとして提示したこともあります。)40小節に満たないこの小品についてなら、あるMIDIファイルが楽譜通りに入力されているかの確認もできますし、プログラムの出力が意図した仕様通りのものであるかどうかについての確認も、各小節毎・各拍毎に行えますし、やろうとしている分析の精度や利点、弱点などについてもある程度は見当をつけることができます。こうした点は、エンジニアリングの観点でごく当たり前のことであり、寧ろ指摘の通りに考えて実際にやっているからにはこの点については指摘に対して異論があろうはずがありません。従って以下の弁明は、ここで「確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品」というのが、実質として、例えば古典派のシンプルなピアノソナタの楽章のような、単に小さいだけではなく、用いられている和声の種類が限定され、拍節構造もシンプルなものを含意していて、マーラーに取り組む前にそうしたもので検証を行わないのか、という含意を持っているとしたら、という点についての弁明になります。エンジニアリング的な観点からのトリヴィアルな弁明ということなら、「確実である」ことは「小さい」ことで検証の被覆率(カバレッジ)をあげる―ーあわよくば100%にするーーことができれば良く、マーラーの中で実際にこれができる作品があるので、それを取り上げれば十分である一方で、「シンプル」という点について言えば、例えば和声的な多様性(転調のパターンのそれを含む)ということについて言えば、古典派の中でもシンプルな作品だとパターンが限定され過ぎて却って網羅性の点で問題が生じる懸念があるし、マーラーの場合には珍しくない拍子の変化についてはプログラムの検証上無視できないでしょう。勿論だからといって「私はやわらかな香りをかいだ」(Ich atmet' einen linden Duft))1曲で必要十分であるという訳ではないのですが、そうした条件を考慮した上での、或る種「現場」でのノウハウの如きものとして、この曲が選択されたというのが弁明になるでしょうか?とは言うものの、この点について明示的に言及することなしに以下だけを述べるのは明らかに説明不足であるため、その点をお詫びして補足するとともに、以下のコメントは、ここで述べた点を踏まえた上での更なる弁明ということでお読み頂けるようお願いする次第です。)

なぜ手順を踏まなかったかについて言えば、クラムハンスルの手法を、作品がどのように出来ているのか、楽曲分析したらどのように分析できるかとは基本的に関係なく、調性音楽に親しんできたけど専門的な訓練を受けた「エキスパート」(アドルノの聴取の類型論を思い浮かべて頂ければと思います)ではない人間が聞いたらどう聴こえるかについての非常に肌理の粗い、単純なモデルでしかないという了解に基づき、そのようなアプローチでの調性推定に関する限りにおいては、伝統的な楽曲分析においてそれが複雑であるかどうか、伝統的な楽曲分析において難しい対象であるかどうかはあまり関係ないと思っていたというのが正直なところです。

複雑で長大だから精度の高いデータを作るのは難しいというのは別の問題ですし、調性推定一般がそうだということもありません。例えば伝統的な楽曲分析でいう調性の推定は、私の知る限りでもそうではなさそうに見えますし、統計的なデータに基づかない推定であれば、プログラムによる推定でも、ここでの手法とは特性が全く異なります。そして、そうした手法を試行して後にこのような統計的な手法を用いるべきではないかということが主旨であるとするならば、その限りでは、マーラーの分析をやる前にやらないとならない手順があるというご指摘には異論はありません。

ただ、こういう発想は、それ自体、伝統的な楽曲分析の観点からは許容しがたいのかも知れませんが、ことによったら訓練されていない聴き手の耳は寧ろ、まさにそのような許容しがたいものであるということはないのだろうかとも思います。

というよりも素直に考えて、私は例えば、三輪眞弘さんの作品もパレストリーナも、ヴェーベルンもクセナキスも、或いは能楽の囃子のようなものも皆等しく「音楽」として聴いている、そういう水準が間違いなく存在すると感じているのだと思います。そして少なくとも私の中では、そのような中にマーラーが位置づけられている。恐らくはそれはマーラーを正しく聴くには不適切なのかも知れません。そういう聴き方ではマーラーを正しく聴くことはできないかも知れませんが、遺憾ながらそれが私の現実なのです。

勿論、言語におけるコードスイッチングのように狭義の調性音楽固有の聴き方というのがあって、対象に応じて聴き方を切り替えているといったことは実際に起きているだろうと思いますし、調性音楽固有の領域で繊細で微妙な問題がたくさんあって、それこそが本質的であるということに私も同意したく思いますが、前者はそれこそ程度の問題だし、後者は事実上は別としてそれが権利上、特権的なものだとは思わないのです。

一方、事実としてはそれは特権的かも知れません。例えば私は能楽の微妙な部分について聴けていないと思いますし、「ありえたかも知れない音楽」であり、伝統自体をいわばその都度仮構する三輪さんの音楽についてはとりわけそうだと思います。言語における母語とそれ以外のような質的な差になっているかどうかは措いても、総じて西洋の調性音楽を聴く頻度に応じた分だけは事実として特権的な扱いを受けるように脳内のネットワークが形成されているように思います。とはいえ、だからといって伝統的な西洋の調性音楽について専門的な訓練を受けているわけでもなく、結局どれについても私の「耳」(それには理論的な知識も含まれますが)は訓練が足りないが故の限界を持っているという自覚もまた、あります。そうでありながら、或る種の成り行きで、基本的には西洋の調性音楽をベースとした(但し精度には甚だ問題のある)「耳」を備えるようになり、それでもって狭義の調性音楽でないものをも聴いている。こうした条件にいるからこそ、クラムハンスルの統計を用いた相関のような仕方で調的推定をやる意味があると感じた、そして伝統的な調性音楽の分析においては、常に逸脱という仕方でその特性が測られているように見えるマーラーのような対象こそ、寧ろ対象としてふさわしいと感じたということなのだろうと思います。

しかし実際にやってみると、どうやらマーラーのMIDIデータの信頼性が思った以上に低いらしいことがわかってきた以上、確実なデータがあるもっともシンプルかつ小さな作品を分析すべきというのは、結果的にご指摘の通りなのだと思います。少なくとも個別の結果についての調査を行い、結果が想定されたものにならない理由を一つ一つ明らかにする必要があると認識しています。単なる入力ミスなのか、データの欠落なのか、作成方法に由来するずれのような問題(DTMの領域では「クオンタイズ」の対象とされるもの)なのか、はたまたMIDIデータ作成に許容されている大きな自由度故に、プログラムが想定していない設定がされているために正しくデータが読めていないためなのか、或いは単にプログラムの不具合なのかの切り分けをして、一つ一つ解決する必要があります。そもそもその全てのケースを想定した解析プログラムを書くことが事実上困難であるとすれば、データの信頼度を考慮しつつ、対象とするデータを限定して、その範囲では正しく解析できるプログラムにするという妥協点を見つける必要があるでしょう。そしてこれらの作業は、最終的にマーラーの作品が対象なのであれば、シンプルで信頼できるデータを対象にしていたらできません。例えて言えば、マーラーの作品の実演においても必ずしも楽譜通りになるとは限らない、特に長大で複雑で難しいが故に、ミスがつきものであるのと同じこと、現実のデータというのはこうしたものなのだと思います。

一世紀の校訂作業と実際の現場での利用を経て極めて信頼性が高くなっているであろう楽譜であっても現実にはミスプリントが皆無ではない可能性については今は措きます。それを言えば、そもそもMIDIデータの入力がどの版の楽譜を基に行われたのかも問題になりえますが、現在私が直面しているのは、そのような高水準の精度の問題ではなく、現実に起きているMIDIデータに固有の様々なタイプの問題だからです。それは寧ろ、データ分析において常に直面するデータクリーニングのような前段階に近い性質のものであるという認識を持っています。

その反面で、分析結果がどうなりそうなのかについて、私は予断を持ちすぎていたのだという点も感じます。つまり分析の前提から、精度や利点、弱点などは、やる前からある程度想像がつくと思ってしまっていて、それ故に、伝統的な楽曲分析の基本と応用の切り分けと、このようなタイプの分析の得意・不得意にずれがあることも当然のことだと思っていました。けれどもだからといって、伝統的な和声学に基づく分析に基づく批判的な検討を抜きにすることは正当化できないということは認めざるを得ません。

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まず、和音のラべリングの結果を後から追加して、調性推定の結果と並べてしまったことが誤解を与えてしまったかも知れません。

和音のラべリングと調性推定は手法上独立で、関係ありません。そもそも分析に使っている対象のデータが、前者は拍なり小節の先頭に鳴っている和音であり、後者は拍内、小節内に鳴っている全ての音の各音毎の持続時間のデータであって、全く異なりますから、単純な比較はできません。そして関係がない別々のやり方だからこそ、並べて眺める意味があると思って追加したのであって、和音のラべリング結果と突き合わせて調性推定が妥当かどうかを検証する目的ではありませんでした。勿論それもまた、或る種間接的な参考にはなりえるでしょうが、上記の理由から直接的には間違いですし、そのことには結果報告のブログの記事中でも言及していますが、結果データのみを手にしたときに、あたかもそれを意図しているかの如き構成になってしまった点は反省しています。

一方、古典的な作品の和声の分析結果と照合することで分析の精度や利点、弱点を確認するということの意義について言えば、機能和声に基づく分析と、クラムハンスルの調性推定の比較を行うという観点では意味のあることかと思います。しかしそれを除けば、和音毎に一つ一つ人間が分析しながら見ていくアプローチを取るのであれば、まさに正統的な楽曲分析をすれば済むことで、あえてここで試みたような別の方法で調性推定をする意味が私には判然としません。

繰り返しになりますが、ここでは小節を区間とした推定を行っています。拍毎の推定も出していますが、それもまた、小節内で鳴っている音がだんだんと累積されていくので、拍毎に和音を同定して、非和声音が含まれているかを分析して…というのと同一のことをやっているわけではありません。

勿論、純粋に拍毎に鳴っている音に限定して拍毎に独立に推定を行うことも、プログラムを少し修正すればできるので、古典派のシンプルな作品についてその結果をお送りすることは可能です。ですがクラムハンスルが実際にやった推定実験を見る限り、また理屈の上でも本筋は逆に見えます。寧ろもっと長い区間で推定すべきなのでは、と思います。なぜならここでやっているのは、個々の和声の機能分析ではなく、調性推定だからで、一般には調性が確立するためには単一の和音ではなく、和音の系列が必要と考えるのが自然だからです。

例えば或る小節の中がある調のドミナントと機能分析される和音のみで占められているとした時、その小節を1区間として独立に調性推定したら、転調先のトニカと見做して調性推定をしてしまうことが予想されます(結果を確認すれば、実際そのようになっている部分があるかと思います)。そしてそれが転調先の調性のトニカでなく主調のドミナントなのは周囲を見たらわかることです。だとしたら、この調性推定のやり方に限っては、推定対象の区間を拡げるべきなのです。

それでは区間どれくらい長ければいいのか?というのが難問です。人間には簡単でも、機械に自動判定させるのは難しく、逆に調性推定の結果をもとにして区切りを推定することになるかも知れないとも思います。私はといえば、次のステップとして(自動処理に拘ればズルをすることになりますが)フレーズの区切り、楽段の区切りの情報を与えて、その区間内で推定させるということを考えていました。

更に、それでは上記の例のような調性推定結果をどう受け止めるべきかと言えば、和声の機能分析の観点から見て間違いなので、こんなものは使えないと判断するよりは、そのことが和声の機能や調性の確立について告げているものを受け止めることの方が興味深いように思えました。そしてもしこのレベルの検討が必要であるというのであれば、それは現実の作品を分析するのではなく、ここでの例のような更に単純な例を構成すれば良く、かつそれはわざわざプログラムを書いてやってみるまでもなく、机上で分析可能なことのように思われたのです。

他方でマーラーの作品のように、和声の機能分析が困難で、エキスパートのみがそれを行うことができるような対象であれば、いわばトンネルを反対側から掘り進めるようにして、このような単純な手法による結果からでも浮かび上がってくる何かがあるというように思って試行してみたのです。

しかしことマーラーの作品に関しては、その作品の成り立ちからしてそのような発想は誤りで、逆にこちらこそ試してみるまでもなく、やることの意義はなく、和声の機能分析が一番の近道とのことで、見当外れのことをやっていたことになり、この点は不明を愧じる他ありません。

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これは分析というよりプログラムの作成のディティールの話になりますが、機械がおかしな答を出さないということについては別の話になります。具体的な個別のプログラムそれぞれについて言えば実は基準は明確です。

和音のラベリングでは、ラベリングの手順が決まっていて、ルールが決まっていて、その通りに動けばプログラムとしてはOKです。そしてこのレベルの確認、つまり普通のプログラムとしてのテストはそれなりに行っています。古典的な作品のMIDIデータも用意しましたし、マーラーでは重心計算以来、まず規模の小さな歌曲(記事でもよくサンプルとして出す「私はやわらかな香りをかいだ」)で確認するということをずっと行ってきました。ただ小さなデータでは出現しない条件もあります。なので一方では、マーラーの作品の全てのMIDIデータを通してみるということもやっています。そしてもともと最終目的がマーラーの作品についての結果を得ることであれば、極論すれば、他の作品のMIDIデータでうまく動かなくても支障はないという考え方もできます。実際、MIDIデータの作り方は様々で、恐らくは作成に用いたシーケンサ依存の部分があり、その全てのケースに対応したプログラムを作成を目指したわけではありません。実際、幸いマーラーのMIDIデータには一つもなかったのですが、他の作品のMIDIデータではMIDIファイルからデータを抽出する最初のプログラムが異常終了するケースもありましたが、上記の理由から、これには対応しませんでした。

ただご指摘はこのレベルでの検証に対するものではないと思います。そしてこのレベルで「正しく」動くことが確認できた上でも、調性推定にしても、和音のラベリングにしても、でも現実に動かせば、間違いなくエキスパートが見れば「変な答」を出すことがあるでしょう。

それは一つには、もともとのデータ(MIDIファイル自体)がおかしい場合で、これは事前にわからないし、どうしようもないです。一つ一つ確認して元のMIDIデータの方を直すしかない。そしてマーラーに適用した今回のケースでは、この点が現実的なネックとなって、先に進めることの意義が薄れてしまったと認識しています。

もう一つは手順そのものに不足がある場合です。こちらは或る意味で初めから想定済です。そしてその限りでは、できないものははじめからできないので、MIDIファイルの大きさや作品の複雑さは実は関係ないのです。意地の悪いひっかけ問題も意味がなく、やる前からできないことは仕様上明確で、できるようにするには、仕様を変更し、手順を追加しなくてはいけません。

和音のラベリングのパターンの種類については、別に報告している通り、百通り以上のパターンを分類できるように用意していますが、調性推定結果とともに表示することにした和音のラベリングは、そのうち頻度が高くで先行文献等でも扱われている十数種類に限定しています。出現頻度が稀になるとその和音に名前がないし、曲によっては百通り以上用意しても100%にはならなかったからです。そしてそれがMIDIデータの誤りに由来する可能性が出てきたため、パターン数を増やすのは一旦中断しています。そういうわけで対象となっているMIDIデータに限定しても網羅性には欠けるという中途半端な状況になっています。(なお、このレベルの網羅性については、データ自体の公開は目的から外れるため行っていませんが、報告の文章の中には、マーラー以外の作品の場合にどうであったかについて、ごく簡単にではありますが触れた箇所があると思います。)

ただしMIDIデータの誤りは別として、それは別にプログラムの問題ではなく、理論が興味を持たない和音というのがたくさんあるということの結果に過ぎないようにも思います。或る珍しい和音に意味があるのかないのかというのは結局のところプログラムにはわからない(これは機械学習のプログラムでも同様です)。基準は結局人間が与えているに過ぎません。プログラムとしてどこまで自動化されているかどうかは、プログラムを作っていて、その動作を理解している製作者でもある私の立場からすれば枝葉に過ぎないと思います。機械の分析対象外のケースについては、それが人間の扱える程度の量なら手作業でやってもいいわけですし…寧ろ難しいのは、特定の和音が重要であるかどうかを判定する能力です。それは単なる出現頻度だけでは測れない筈で、簡単なやり方では外れ値との区別がつかないでしょう。そしてそれが統計ベースの手法の限界であると思います。

調性推定の場合には少し事情は違いますが、プログラムとしてOKかどうかは、或る意味で和音のラベリングよりもっと手前の問題です。ここではMIDIデータの方の信頼性とは別に、推定の根拠となっているクラムハンスルの調性とピッチの出現頻度の統計データの側の持つ限界が一つと、統計的な手法が持つ限界というのがもう一つ出てくるからです。そしてこちらについては意地の悪いひっかけ問題は一定の意味を持ちます。工学の分野ではある手法の理論的限界を明らかにする「騙し問題」というのがありますが、それに相当する役割を期待するわけです。ただ、今回のプログラムは、機械学習のような「やってみないとわからない」部分は少ないので、理論的な興味は薄いかも知れません。

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次いで、敢えて通常の楽曲分析ではなくこうしたプログラムを使おうとしたのはなぜかについて言えば、私個人についてはそうしたくなる明確な動機が幾つかありました。

ことマーラーに限れば、程度は様々ですが楽曲分析というのにも幾つか接しています。でも複雑な大曲であるが故か、非常に大まかな楽式レベルの分析か、逆にミクロな、非常に範囲を限定した分析しかない。その一方で、マーラーの作品の一般的特徴のようなことが、具体的な裏付け抜きで言われたりして、それに説得力を感じたり感じなかったりするわけです。その根拠を確かめようと思っても確かめる術がない。更には楽曲分析の結果がしばしば一致しないのも困惑の種で、そうなると自分なりに判断根拠が欲しくなります。結局のところ、他の作曲家の作品ならいざ知らず、マーラーは(所詮程度の問題に過ぎないとはいえ)私が最も良く知っていて、あそこの部分がどうなっているのか?誰かがこういうことを言っているが、そこはどうだったか?といった具体的に確認したい事柄が山程あったからというのが理由なのでしょう。更に言えば、アドルノが通常の楽曲分析でマーラーを理解することの限界を述べていますし、繰り返しになりますが、多くの場合、音楽学の領域での分析のほとんどは規範的なものからの逸脱によってマーラーの独自性を測ろうとする。それではアドルノいうところの「唯名論的」な性格は捉えられないので、それならば寧ろ、データに即したボトムアップな見方、伝統的な見方ではない見方にも可能性があるのではないかと思った、というのもあります。

クラムハンスルのモデルがそうである訳ではないけれど、そこから出発して、例えば相転移や自己組織化のような現象や分岐現象がみられたり、(疑似)カオス的な挙動をする系とのアナロジーが抽象度を上げたあるレベルで成り立っているというような見方に展開していくことはできないか、それが優れて「人間的」な時間、またしてもアドルノを参照すれば「小説」的な時間性を備えたものであり、通常の数理モデルでは扱い辛いものであるとするならば、音楽を「時間の感受のシミュレータ」とする立場から、生命や意識に対する複雑系的なアプローチを援用することによって捉えることなら可能ではないだろうか、というような発想にも繋がっていきます。但しその時には、具体的な楽曲分析の対象としての狭義の「調性」の推移ではなく、より一般化された或る種の特徴の軌道が記述対象となるのものと考えるのが自然に思われます。もっとも最後の部分については、それが今実現できる見通しがあるわけでもなく、いずれそのようなことが行われることを夢想しているに過ぎないのではありますが…

いやそうしたことを持ち出すまでもなく、マーラーの音楽を聴いて受け取る「感じ」の根拠を、その一部でも一面でもいいので知りたい、或いは自分なりの納得のいく理由を探したいということが根っこにあります。更に言えば、色々な文献を読んだりして、知識のフィルターを通して眺めることもできる今の状態でなく、出会った時の「子供」が受け取ったものの根拠が知りたい。ある音楽が、他の音楽では見ることのできない風景を見せてくれるとしたら、その風景が忘れられないものだとしたら、その音楽のどこに秘密が隠されているのか、知りたくなるという、ごく単純な話です。そしてマーラーについては、これは謂われない話だとは思いません。マーラーについてのモノグラフの最後の章で、アドルノは「子供」について語っていますが、素朴なレベルでは、それと私のようなアマチュアの思いと通じる部分があるのではと思い、また、あって欲しいと思っています。

私の耳は専門的な訓練を受けているわけではない。そういう意味では分析の難しさからは上級編で、エキスパートでないと手が負えないようなマーラーの音楽を、私が論じる資格はないのだと思います。私の立場は単なる「聴き手」としての「子供」に過ぎません。「子供」は、アドルノがそう書いているように、大人だったらしないような思い込みをしてしまうかも知れない。でも、そうした思い込みをさせてしまうのがマーラーの音楽の力であるとしたら、そうした「勘違い」が起きる理由も併せて私は知りたいのです。

例えばですが(実際そういう主張を見かけたのですが)ある音楽学者が、他の説は間違っている、自分の説が正しいのだと主調しているところで、私は以下のようなことを思ってしまいます。「そうかも知れないけれど、それならそれで、なぜ間違っているかだけではなく、なぜそのような間違いが起きてしまうのかということも含めた説明であるべきなのではないか?」と。よく「意識」は迷妄だ、虚像であり実在しない、という消去主義の立場がありますが、これも全く同じで、そのような「錯覚」が起きること自体に問題を解く鍵があるのでは、と思うわけです。

そして「聴き手」としての「子供」という立場に立って、マーラーの作品の調的な推移を眺めようとしたとき、その文脈の「主音」「調性」を知る必要がある、というのが今回の調性推定やら和音のラベリング作業の出発点でした。誰かに(謂わば「天下り式に」)教えてもらうのではなく、作品をそのものから「主音」「調性」はどうやったらわかるのかを調べてみた結果としてわかったのは、それを判別する手法がアルゴリズム化できてプログラムにできるような一般に共有されている定義はなさそうだし、そもそもが調的感覚というのは、文化的・社会的に形成されたものであるらしいということでした。だとしたら「「主音」「調性」はどうやったらわかるのか」という問いを「聴き手は「主音」「調性」が何と認識しているのか」にずらすという発想の方が適切かも知れないと考えたわけです。そして辿り着いたのが、そうした「文化的・社会的形成物」を実験により求める音楽に関する認知心理学の成果だったということです。

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ここで試行した調性推定の手法は枠組みとしてはシンプルです。クラムハンスルの統計を用いた相関は、作品がどのように出来ているのか、楽曲分析したらどのように分析できるかとは基本的に関係なく、調性音楽に親しんできたけど専門的な訓練を受けたプロではない人間が聞いたらどう聴こえるかについての非常に肌理の粗い、単純なモデルでしかないのです。その限りで、調性推定に限ればここでやっていることはエキスパートがやっている高度な楽曲分析の自動化でもその代替手段でもありません。或る作品がどのような原理で出来ているかとは無関係に、指定区間が24のどの調性に聴こえるかを統計的に推定しているだけなのです。

それは伝統的な機能和声に基かない作品、例えばクセナキスのピアノ曲についても行えます。もっとも、集合論的に音群を操作する「ヘルマ」については、調的感覚がそもそも考慮されていないので無意味かも知れません。一方で調的構造の一般化とでもいうべき、いわれるところの「篩の理論」を背景に持つ「エヴリアリ」については必ずしも無意味ではないように思います。(所詮は西洋音楽のある時代固有のシステムである24の短調・長調に対する相関であるとしたら、結局、関係ないのはどちらの場合でも一緒ではないかという意見もあるかも知れませんが。)

全ての音の出現頻度が同じだと相関は計算できませんので、現実にある区間で完全に調性が無ければそもそも分析はできないのですが、調性感がなくなるすれすれで、しかも伝統的な機能和声に従って書かれていないので伝統的な分析が行えない作品がどの調性に聴こえるか?という問題設定なら選択肢として有力かも知れません。(そういう分析をやること自体の意味についてはまた別に議論があるでしょうが。)

拡張されているとはいえ、基本的には伝統的な調性音楽を基盤としているマーラーについては、このような手法で得られるものは限定的で、伝統的な楽曲分析の方が結局は近道であり、適用対象として不適切であるなら(ただもしそうならば、既述のアドルノの主張や提案はどのように受け止めたらいいのかという問題は残りますが、今は措きます)、他の何かでも構いません。例えば三輪眞弘さんの新調性主義の作品ではどうでしょうか?三輪さんが新調性主義に属する或る作品のノートに「変化を続ける音型パターンに対して、繊細にそして「機械のように」反応するしかない」と記している、聴き手の側で起きていることを、それは浮かび上がらせるでしょうか?その結果をどのように受け止めたらいいのでしょうか?或いはそれは「機械のように」反応する人間ならぬ、文字通り「機械」が聴いた反応と考えるべきなのでしょうか?そして、これはやってみる意義があることでしょうか、それともそうではないのでしょうか?

三輪さんの新調性主義の作品を例に出しましたが、つまるところ対象はパレストリーナでもヴェーベルンでもクセナキスでもいい。完全に旋法でてきている音楽に適用することの意味は自明ではないでしょうが、マーラーのように基本的には調性音楽だが、旋法的な部分がそこかしこに出現する、或いは特に晩年に向けて、調性感が希薄になるようなケースについてなら、狭義の調性音楽に親しんだ人が聴いたらどう聴こえるかということの粗い近似にはなっていると言えないでしょうか。それをやることに意義を認めるかどうかは立場と目的によるでしょうが。

一方でミルトン・バビット式のトータルセリー的な方向性は、作品を構築する論理とどう聴こえるかが乖離しているといったような批判があると思いますが、そういう観点では、実際にどう聴こえうるかを推定する手掛かりになると思います。私は詳しくないですが、ベルクの音楽は同じ十二音でも、調的に聴こえる部分が多いというような話にしてもそうではないかと思います。

繰り返しになりますが、ある区間で本当に12音の分布が全て均一であるならば、相関は計算できないですから、逆にこの手法が成り立たないような作品は調性から自由になったということになるかと思います。そのことの価値はまた別の問題で、事実してそうであるということです。もっともこれも「自由」の定義に依存するのでしょうが…

それを考えれば、クラムハンスルが「正解当て」の問題のようにして調性推定を検証に用いたのは、検証としては勿論間違っていないでしょうが、手法そのものの持つ意味合いを考えれば、誤解を招くような使い方であったという見方ができるのかも知れません。本来、そうした「正解」を云々することがそもそも不適切な対象であるからこそ、相関をとることの意義が生じるのではないかと思われるからです。

繰り返しになりますが、伝統的な調性音楽の拡張した形態であるマーラーのような作品の場合、部分によっては調性感が希薄になったり、揺らいだりということが起きることがありますが、それに対して素人は何調と何調との間で揺らいでいるというのを自覚的には言えないかも知れません。そういう場合にもこの分析によってそれが浮かび上がってくることが期待できるように思えます。それは伝統的な楽曲分析と合致するかも知れないし、合致しないかも知れません。でも仮に合致していない場合、だから間違いなのでしょうか?いや伝統的な和声学の基準に照らしてそれが間違いだとして、でも、素人の耳にはそう聞こえてしまうという事実を示唆しているということはないでしょうか?勿論モデルとしての近似の精度が甘くて聞こえている通りに結果が出ないということはあるかも知れませんが、それは別の問題で、ここで確認したいのは、基本的な枠組みとしてこのような手法で調性推定を行うことが何をしていることになるのかという点です。

私はこれを或る種の事実として受け止めるべきではと考えました。調性音楽に親しんだ人の調性とピッチの出現頻度の統計データを使うと専門的な観点から見てうまく行く部分もうまく行かない部分もひっくるめて事実としてこうなるということです。理論的な分析の結果ではなく、寧ろ分析の対象となる事実の一部、楽曲そのものではなく、楽曲の聴取の水準でこのような地形が形成されているのだということを事実として眺める方がいいように感じました。逆に、それ以外には使い道はないかも知れません。それもあって、解釈とかはできるだけ加えずに結果を公開したのでした。

関連して、この手法が音響物理学的に有意味なのか、それとも調性音楽的に有意味なのかについては、調性音楽が音響物理学的にも一定の合理性を持つ限りで前者とも無関係とは言えないでしょうが、一般論として前者ということはなく、後者だろうと思います。なぜならこの推定のベースとなっているクラムハンスルの調性とピッチの出現頻度の相関の統計データは調性音楽に慣れ親しんだ人間を対象とした実験の結果だからです。

*    *    *

実は一番最初は紙に五度圏の丸を描いて調性の変化を手書きで書いていたのを見かねて、今ならMIDIデータを解析することもできると教えてくださった方がいたのがそもそもの始まりでした。そして優秀な学者が膨大な時間をかけて、マーラーの作品のうちの一つの、ことによれば更に一部を楽曲分析する、あるいは横断的に眺めるかわりに、個別の作品については「摘まみ食い」になるという現実を目の当たりにして、自分の能力と自分に遺された時間を考えた上で、マーラーの作品の全体を薄く広く眺めるというのを、自分にできる範囲で一旦はやっておきたいと考えたのでした。

ということで公開したデータは撤回せずにそのままにしたいと思っています。勿論、こんなことには価値はないかも知れません。知る限り、私が今公開しているような結果が別に公開されていることはないようですが、そもそも他の誰にとってもこんなデータは意味がないかも知れない。どの程度の価値があるかはわからないし、それを自分で独力で1つ1つ確認する時間はとれませんが、他の誰かがやってくれる可能性もあり、あるいはもっと精度の良い、価値のあるものが出てくるきっかけになるかも知れないという淡い期待にすがりたいからです。

私には価値のあるものを後に残すことはできないので、このレベルのものでさえ、主観的には大事なのです。それゆえ既にやってしまった「暴挙」については、いわば沈みかかった船から投じられた投壜通信の如きものとして、大目に見て頂きたくお願い致します。(2020.1.19執筆、20公開, 22, 27, 28, 2.1加筆. 2023.7.10補足追記)

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