お詫びとお断り

2020年春以降、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2020年1月4日土曜日

物語論的分析をする音楽学者と音楽を聴く「子供」とAIを巡る断想(2020.1.4改訂)

 マーラーを対象とした分析の中には、特に物語論的分析と称するものがあって、以前より手元にあったVera Micznikの論文 Music and Narrativity Revisited: Degrees of Narrativity in Beethoven and Mahler (2000) の再読を出発点に、Micznikが参照されている論文を中心に幾つか入手できた(無料で入手できるものだけですが)ものを一通り読み終えて感じたことを備忘のために書き留めたものを公開しました。(マーラーの交響曲の物語論的分析に対する疑問についてのメモ

 人間が「物語る」存在であることと、人間が「うたう」存在であることとの間には深い関連があると考えますが、文学の一ジャンルである「小説」のアナロジーから、いわば逆立ちするようにして音楽にアプローチするにあたって、前者の媒体である言語の持つ性質を、強引に音楽にごり押ししようとする記号論ベースのアプローチでは うまくいかないように感じます。それと同時に、ある時代に確立した制作のユーティリティとしての規範やら、シェンカーの図式のような、これまたある時代の作品を分析して得られた規則性を基準に、そこからの逸脱の距離の大きさで「物語性」の程度を測るというのも、如何にして「音楽」が「物語る」ことができる(かのようにみえる)のかについての説明としては適切でないように感じます。

 その不自然さを言い当てようと考えていて、ふと「子供」がマーラーに接する、 (シュトックハウゼンがド・ラ・グランジュのマーラー伝の序文で登場させた「宇宙人」でも良かったのですが、当世風には)AIがマーラーに接するという状況を考えることを手掛かりにできるのではないかというように思いました。

 Webでは英米系のものが入手しやすいのでどうしてもそっちに偏ってしまいますが、マーラーの楽曲分析について言えば、知る限り、シェンカー分析を何等か適用したものと物語論的分析が多いように感じます。 前者はもともとはコンピュータを用いた分析を進める方向性が掴めたらという思惑があって読み始めたのですが、結局ところあくまで人間が分析をするためのツール(単なるツールであるかについては、シェンカー自身の思いはまた別にあったようですが)であり、コンピュータを用いた分析への適用は難しそうに見えるのと、分析結果がかなり恣意的に見えたり(シェンカー自身の元々の意図から考えれば、結論ありきであったり)、トリヴィアル(別に難しい分析を経なくてもわかること)に思えたりで、なかなかしっくりきません。後者は領域横断的なものになりがちなので種々雑多ですが、個人的にはやはり音楽自体の構造の分析に基づくものでないと意味がないと考えているため、そういうものを期待して読むと、結局のところ音楽において「物語性」を成立させているものが具体的に何なのかについては、明確とは言い難いような印象を持ちます。

 そもそもが言語を範例とする「記号」として音楽を扱うということ自体に理論的には無理があると思うのですが(音楽が「記号」としても機能しうる点を認めるに吝かでないですが、それはまた別の話)、そこを強引な(にしか見えない、もっと言うとナンセンスに近い気さえする)アナロジーで対応づけるか、それをあっさり放棄して、音楽の「実質」を抜きに、領域横断的な話題に終始するかのいずれかであるように感じてしまい、違和感が募ることが多いのです。そもそもが規範との差分であったり、過去の楽曲、更には他のジャンルの作品との関係に基づくアプローチというのは、そうしたアプローチを提唱し、実践する当事者たる音楽学者の厖大な学識と、高度な分析能力を前提したものであり、例えば私自身がマーラーの作品を聴くときに、彼らの要求するような水準の聴取が出来ているとは到底思えないですし、マーラーに初めて出会った時の「子供」であった私の経験を、彼らの分析は少しも説明してくれない。勿論、高度な分析が、自分が気付かなかったようなマーラーの作品の秘密を明らかにしてくれることを否定するわけではなく、私のような愛好家はそうした分析の恩恵を最も被っているに違いないのですが、それでもなお違和感が残ります。そしてその由来を端的に述べれば、マーラーの音楽を聴く時には、確かに高度な記号操作が行われているには違いないのでしょうが、その背後で起きていること、音楽が人を惹きつけ、感動させ、或いは世界の見方を変えさせさえするといった側面については、そうした分析が語ることが余りに乏しいことに存するように思えます。そして私が知りたいのは、寧ろ、背後で起きていることの側であり、それが起きるメカニズムの側なのです。

 背後で起きていることは、一般には心理とか情動という言葉で語られ、そうした側面についての研究も行われていますが、それらの多くは、あえてやや戯画化した言い方をすれば、何種類かの作品を与えて、何種類かの感情なり、情動なりのタイプを事前に決めておいて、その間の対応づけを行うといったレベルに終始する限り、余りに肌理が粗すぎて、ここで私が知りたいことに対する回答はおろかヒントさえ与えてくれるようには思えません。せめてよりミクロな音楽の脈絡に応じて、聴き手の「心」の内部で起きていることに対して、例えば今日ならば脳の働き方を測定することによって探りを入れるようなものであるべきだろうと思います。勿論、そうした実験結果から言いうることと、ここで私が知りたいと思うこと間の径庭は大きいと思います。例えばデリック・クックが『音楽の言語』で試みたようなアプローチを考えてみると、今や辛うじてながら、それでも異なる文化的伝統を身体化している極東に住む我々から見れば、そこで試みられている音型と情動の結び付けは、全く恣意的ではないとはいえ、非常に多く文化的・社会的な文脈で形成されるものであることは間違いなく、他方でそうした我々が、クックが解明しようとした伝統に属する音楽を「聴く」ことができるからには、文化的・社会的決定論というのも誤りで、その結び付けが学習によって後成的に形成可能であることもまた、明らかであるように思えます。であるとするならば、その結び付けの手間で、そこに辿り着く前に音楽の構造の側でやれることはたくさんある筈です。

 批判ばかりしていないで、では具体的にどうすればいいのかについて述べるべきとは思いながら、漠然とした予想めいたものを書き留めることしかできないでいることは上記のメモ書きの末尾に記した通りですが、それでもこれまでデータ分析の準備を進めてきた中で、具体的なあてが全く見つかっていないというわけでもありません。MIDIデータから抽出したある時点なり時区間毎に鳴っている五度圏上の音名(ピッチクラス)の集合を12音各音を1ビットとする12ビットのベクトルで表現すれば、このベクトルのビットの遷移パターンの力学系を考えることができるでしょう。遷移規則も伝統的な和声学や対位法、楽式論のような既成の規範に基いて天下りに与えるのではなく(そうしてしまうと規則からの逸脱を測るといった発想から逃れることは困難です)、実際の作品が描き出す軌道から法則性を抽出するといった方法をとることができるでしょう。この枠組みだと機械学習で規則を学習させるというのも可能でしょう。ただしこのアプローチで大規模で複雑な作品をどこまで分析できるかはわかりません。伝統的には和声の遷移パターンに帰着できる側面に限定すれば、モデルは単純化できるでしょうが、何よりも「うたう」ことを念頭に置いた場合、旋律と旋律の複合としての対位法がマーラーの場合には特に重要なのは明らかで、 調的な図式を抽象した分析ばかりをやっていては取りこぼしてしまうことがあまりに多く、さりとてそれを回避すべく、いわゆるセカンダリー・パラメータと呼ばれる特徴量をきめ細かに捉えようとすると、次元は瞬く間に大きくなり分析は困難になることが容易に予想できます。

 これを裏返してみると、「子供」が音楽を聴く時どんなに複雑で精妙な情報処理が行われているかということに他なりません。そこで起きていることをコンピュータ上の分析に置き換えることを考えようとした途端、まず直ちにその事実に圧倒されてしまいます。 他方、記号処理のレベルでは、個別の分析に限れば(アドルノのような) 博識で怜悧な音楽学者の分析に負けず劣らずのレベルにAIが達する可能性だってないとはいえないかも知れませんが、「うたう」ことの基層の「共感」の次元、歌うこと、 聴くこと、創ること、分析することの基層にある衝動の次元は、生物としてのヒトの進化の(最大限に譲歩して、ピンカーのいうようにパンケーキに過ぎないとしても)副産物であり、まずこのレベルでAIには無縁のものです。勿論、人工生命のようなアプローチで進化の過程をシミュレートするアプローチは可能ですし、その意義を否定する訳ではありませんが。

 更に「物語る」ことについては、まずは獲得された言語との共進化の産物であり、これまた社会的・文化的進化の産物であるという側面を持ちます。更に加えて 「物語る」ことは、反射的な衝動ならぬ精緻な目的論的図式の獲得と密接に関わります。この水準においては、何のために歌うのか、何のために聴くのか、何のために分析するのか、そして究極には何のために創るのかを問うようなフレームをAIが自らの中に持たなければ、AIがそれらを「する」とは言えないことになります。「芸術」の領域においては、この違いを素通りしようとする研究は、「芸術」というものに取り組もうとしていないという点で不毛であると私は考えます。適用分野は異なりますが、詩歌や小説をAIに生成させる試みは古典的なテーマであり、かつ簡単なプログラムであれば作成は難しくありません。仮にそこで、ボルヘスの『伝奇集』の中の一篇、「ドン・キホーテの作者、ピエール・メナール」のように、一字一句本物とと区別がつかない作品をAIが生成したとして、工学的な意味合いでは合格するでしょうが、こと「芸術」に関してはそうではない。ピエール・メナールの場合であれば、彼自身が再創作をする衝動を持って自らそれを行ったわけですが、AIの場合には、AIのプログラムとプログラムを作った作者に分裂していると考えるべきであり、その両者を包含する「システム」全体が「芸術」に関わっていると見做さなくてはなりません。AIを研究する工学者の中にはその点を意識してかせずか、敢て無視して「AIには創作する意志などありません」といったことを言う人もいますが、これは一見否定的な表現を使って逃げ道を確保しつつ、AIに主体性を密輸して仮託させることになっていて、控え目に言ってもミス・リーディングな言い方であり、強い抵抗感を私は感じます。一方では、そうした点を正確に踏まえて、人工生命系を用意して、その中のエージェントに嗜好を与えるところから始めてボトムアップに「芸術」の生成に至ろうとする研究の方向性もあり、こちらは大いに注目すべきであると考えます。しかし仮に人工生命的なアプローチで生物学的水準のシミュレーションができたとしても、「芸術」が成立するのは更に異なる階層の話であり、確かに生命的・生物的な基盤を持つとはいえ、その進化のプロセスの果て、もしかしたら或る種の行き止まり、袋小路であるかも知れない、マーラーのそれのようなロマン派の末端に位置付けられる音楽を「聴く」ことをシミュレーションするのは、目も眩むような企てに感じられます。「作曲することは世界の構築に他ならない」というマーラーやシュニトケの発言は、この文脈においてこそ、文字通りに受け止められるべきなのです。

 というわけで、音楽を「歌う」「聴く」「分析する」「創る」ことをAIにやらせるという構成論的アプローチは端から諦めて(それは他の若くて優秀な人々に相応しい課題でしょう)、せめて音楽が「物語る」ことを可能にするメカニズムを音響態としての楽曲の分析によって探るアプローチの方をわずかでも進めることができないだろうか、そしてあわよくば、そうした(人間が分析主体の)楽曲分析と、楽曲のデータを入力としたコンピュータを利用した分析との橋渡しができないか、というようなことを考えているような次第なのです。(2019.11.6初稿を別のブログに公開、11.10一部改訂, 12.24改訂の上、本ブログ上で再公開, 1.4加筆)

0 件のコメント:

コメントを投稿