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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2025年7月17日木曜日

ヴィーチェスラフ・ノヴァークから見たマーラー(2025.7.16-17, 8.5改訂)

 南ボヘミア出身の後期ロマン派の作曲家、ヴィーチェスラフ・ノヴァークの音楽に接したのは、音楽の録音の記録媒体がLPレコードからCDに替わってしばらくしてからの頃のことだったと記憶する。そもそも私がノヴァークの音楽を聴いてみようと思ったのが、中学生の子供の頃から私の偶像=アイドルであったマーラーの音楽のあまりの「流行」現象に嫌気がさして、マーラーの音楽を聴くのを一時期すっかり止めてしまったことに起因するので、1990年代に入って間もなくくらいの頃だったのではなかったか。頼まれもしないのにマーラー自身の、妻に宛てた書簡(1902年2月ゼメリング発)に記された、極めて限定された文脈で発せられた負け惜しみの類に過ぎない言葉を乗っ取った「私の時代が来た」などというコピーの下、コマーシャリズムに担ぎ出されるという状況に嫌気がさし、地方都市の中で生きていた時代から、地方都市から都心に通う大学生活、更にその後は通勤圏内の独身者寮から都心のオフィスに通うようになった環境の変化があって、ようやくコンサート会場でマーラーの音楽に接することができるようになったはものの、バブル期の世相もあって音響的にクオリティの高いコンサートホールが競うように出現した時期でもあり、マーラーは恰好の集客=動員の素材とされ、それまでは西欧音楽の主流からは奇異の目をもって見られた傍流の、今日風には「オタク」が聴くものであったのが、既にマーラーその人の時代に彼の地ではそうであったように、一世紀遅れてようやく極東の島国でも「社交場」に鳴り響くこととあいなって、マーラーの音楽がまさにそのために書かれたにも関わらずコンサートの雰囲気に堪え難さを感じたことが決定的だった。

 当時は日本マーラー協会という団体があって、時折送られてくる会報を読むだけの幽霊会員に過ぎなかったとはいえ、私も一応会員ではあったのだが、会長の山田一雄さんが亡くなられ、事務局長をやっておられた桜井健二さんが退かれるとともに活動があっという間に停滞し休止に至ったのもその時期だったのではなかったか。マーラー像も時代に応じて変わっていく訳で、当時のマーラーは19世紀末の退廃の中、悲劇的な生涯を送り、厭世観に満ち、己れの弱みをさらけ出す自伝的な音楽を書いた二流の作曲家というかつてのイメージから脱して、19世紀円熟期のウィーンの文化を代表し、その中心に位置する宮廷・王室歌劇場のスター指揮者であり、ウィーン分離派のサークルの中で育ち、作曲さえ試みた美貌の妻の存在もあって同時代の文化史におけるアイコンとして位置づけられ、新ウィーン楽派に精神的な指導者として仰がれて20世紀を予言するような音楽を書いた予言者で、時代がやっと追いついたといった持ち上げれ方をしたのだったが、そうした見方にも一理はあって、マーラーが自己の能力を恃んで信念を貫き通して達成した成果は凡人の能くするところではないし、芸術的な成果は措いて世間的に見てもセレブリティ、成功者であることは疑いない。子供の頃とは違って、自分の能力や気質について否応なく自覚的にならざるを得なくなった私にとってマーラーはあまりに偉大過ぎて、その「公的な」人物像と音楽の間に謎めいたギャップのある、距離感の測り難い存在となっていたのである。

 だがそれだけでは、辿り着いた先が他ならぬヴィーチェスラフ・ノヴァークの音楽であることに理由にはならないだろう。では何故ノヴァークだったのかという最大の理由が、スプラフォンの国内盤のCD(だからリーフレットも当然日本語である)で丁度その頃、どういう偶然によってか纏まってリリースされたノヴァークの音楽そのものから受けた印象であることは当然のことだが、特にその中でも『南ボヘミア組曲』Jihočeská svita, op.64 に定着された風景が、その頃の自分にはその中にいることで静けさに満ちた深い慰めを得ることのできるかけがえのないものであったことが決定的であった。

 私は作品を、その作品が生まれた社会的・文化的文脈に還元して事足れりとする立場には明確に反対である(そもそも一世紀近く後の異郷の人間である私がそれを聴くからにはそれは明らかなことで、一世紀分遅れて地球半周分隔たった位置に自分がいることもそっちのけで異郷の過去についての蘊蓄を垂れる等、笑止の沙汰ではなかろうか)一方で、作品だけが重要でその作品を書いた人間のことなどどうでもいいとも全く思わず、恐らくはゲーテの考え方に影響されたマーラーの、作品を生み出す人間の行為の方が大切であって作品は謂わば抜け殻のようなものに過ぎないという考え方(1909年6月27日付、トーブラッハ発の妻宛て書簡)に寧ろ共感するし、そのことは全てを作者の伝記的な出来事に還元してしまう伝記主義を意味するわけではない、そればかりか伝記的事実に勝って作品自体こそが、痕跡としてであれ、或いは痕跡であるからこそマンデリシュタム=ツェランの言う「投壜通信」の媒体として、時間を超えるのではなく時間の中を通り抜けて或る日、それが打ち寄せられた波辺で拾い上げた者こそが名宛人であるという主張に通じるものと考えてきたから、ノヴァークの場合も例外ではなく、その作品への興味は直ちにノヴァークその人への関心へと繋がったのだが、今でこそWeb上で様々な情報にアクセスできるとはいえ、当時は未だその発達の初期にあってノヴァークについての情報は乏しく、紙媒体のニューグローヴ世界音楽大事典のノヴァークについてのエントリがほぼ唯一の情報だったと記憶する。かなり長いことコピーとして持っていたが今は既に手元にはないその記述には、幼い日に父を喪ってからの経済的な苦労や、その後の精神的な危機、それに対する救いとなったチェコ各地を巡っての民謡採集についての言及があったと記憶するが、13歳の時からの偶像=アイドルであったマーラーを聴くことを止め、盲目的な熱中の最中では気付くことのなかったマーラーと自分の間の途轍もない距離、比類ない能力とそれを十分に発揮する気質を備え持ち、世俗的な意味合いでもセレブリティとなったマーラーと己の間に広がる深淵に今更ながらに気付くといった己の愚かさに絶望さえしていた私は、そうした伝記的記述から垣間見えるノヴァークが被った傷の痕跡をその作品に見出し、森や池や草原といった風景にノヴァークが感じ取った慰藉を作品を聴くことを通じて我が事ととして感じ取ったのだと思う。

 ノヴァークはドヴォルザークの弟子であり、ヨゼフ・スークとマスタークラスでの同門ということになる。初期の室内楽はドヴォルザーク・ブラームス的で和声的にも保守的である一方、自分が採集した民族音楽を素材として使用し、雰囲気には寧ろスメタナの室内楽を思わせる切迫感があるが、その後の作品となると、2曲のバレー・パントマイムのための音楽に代表されるようなフランス印象派の影響が感じられる作品があるかと思えば、交響詩等では寧ろシュトラウスを思わせるような響きの作品もあって多様性に富む。共通するのは形式の面で堅固で構築的であることで、素材の節約の下でも音楽が弛緩することはない。人口に膾炙しているのはもともとピアノ連弾のための作品として作曲されたものを作曲家自身が小管弦楽用に編曲した『スロヴァツコ組曲』であろうが、音画風でわかりやすく曲ごとの変化に富んだこの作品よりも、同じCDに併録された『南ボヘミア組曲』のユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)など、ノヴァーク独自の音調が聞き取れるのは明らかにこちらであろう。

 だがそれにしても何故、19世紀末から20世紀前半にかけてのチェコの作曲家なのかという問いに答えるのは今度は比較的容易い。既述の通り子供の頃の私の偶像=アイドルはマーラーだったが、マーラーは自らについて三重の意味で異邦人であると述べている。曰く、オーストリアの中のボヘミア人、ドイツの中のオーストリア人、世界の中のユダヤ人。一般にはマーラーがユダヤ人であり、生前既にウィーンで活発であった反ユダヤ主義に遭って本人が辛酸を舐めたのみならず、死後はその作品がナチスによって非アーリア音楽として演奏禁止となる時期もあった点に強調が置かれがちだが、その一方でマーラーを巡る議論の中では、マーラーの音楽とボヘミアの音楽の親近性についての指摘もしばしば為されている。LPレコードの時代の到来、ステレオ録音の普及と時を同じくして競うようにして始まったマーラー交響曲全集録音のプロジェクトの中には、チェコ出身で第二次世界大戦後のチェコの共産化に反対して亡命し、晩年になってビロード革命による共産党政権の崩壊により劇的な里帰りを果たし、一旦引退した後にも関わらずプラハの春音楽祭でカムバックしてスメタナの『我が祖国』を指揮したラファエル・クーベリックが西側にあって首席指揮者を勤めて以降、長きにわたって良好な関係にあったバイエルン放送交響楽団によるものがあるし、その後を追うようにして、当時は「東側」であったチェコスロヴァキアでもチェコ・フィルハーモニーがヴァーツラフ・ノイマンの指揮の下でマーラー交響曲全集を完成させている。これは良くある話でクラシックの聴き始めにドヴォルザークの『新世界』交響曲を聴いて魅了された子供であった私は、父親がFM放送をエアチェックしながら録音したカセットテープの中に同じドヴォルザークの『アメリカ』弦楽四重奏曲を発見し、こちらにもすっかり馴染んでいた一方で、その後しばらくしてフランクの晩年の数曲、更にシベリウスの特に後期交響曲や『タピオラ』を聴くようになった子供が、上記のクーベリック指揮バイエルン放送交響楽団の演奏による第6交響曲と第10交響曲のアダージョのLPを、次いで第3交響曲のLPを、更にFM放送で第7交響曲の録音を聴いてマーラーに親しむようになったが故に、マーラーの音楽の中にボヘミア的なものを聴きとるのは難しいことではなかった。

 ノヴァークは当時のいわゆる「国民楽派」の作曲家にしばしば見られたように、実際に現地に足を運んでボヘミア、モラヴィア、スロヴァツコ、スロヴァキアといった地域の民謡を採集してまわったとされる。学術性の高い取り組みとして有名なのは何といってもコダーイとバルトークの取り組みだろうが、ノヴァークの貢献はとりわけボヘミアとははっきりと音楽的様式を違えるモラヴィア地方の民俗音楽を世に知らしめたことにあり、その限りではこちらは自分自身がモラヴィアの生まれであるヤナーチェクの果たした役割と並んで評価されるもののようである。実はノヴァークはボヘミア人とは言いながら、ボヘミア南部のモラヴィアとの境界に程近いカメニツェ・ナト・リポウ Kamenice nad Lipou の生まれであることもあって、ボヘミアのそれとともにモラヴィアの民俗にも触れうる環境にあったのだが、実はこの点がマーラーの生まれ育った環境と共通するということに気づいたのはずっと後になってのことだった。地図を開いてイフラヴァ Jihlava(往時のドイツ語地名ではイーグラウ Iglau)とカメニツェ・ナト・リポウの位置を確かめるべく、今ならGoogle Mapsで両者を結ぶルートを検索してみるとわかることだが、その間の距離は道沿いに測っても50kmに満たないのである。さすがに今日その距離を徒歩で踏破する人がいるとも思えないが、最も直線に近いルートで道なりに44.5km(直線距離では38km)、所要時間9時間12分というから、朝起きて出発して夕方には辿り着ける距離には違いなく、途中緩やかな起伏はあるものの周囲の風景も大きく変わるわけではなさそうである。マーラーから距離を置くべく見出した筈の音楽が、その表面的な様式的な差異や作曲者の意識の様態の相関物であろう音楽の経過が纏う性格の違いにも関わらず、その客観的な極を構成する風景において相似することにある折にふとに気づいた時、我が事ながら苦笑せざるを得なかったのを思い出す。違いはと言えば、ユダヤ人であったマーラーがドイツ系の同化ユダヤ人の家に生まれたのに対してノヴァークはチェコ人の民族意識が高揚した時期にボヘミアに生まれたチェコ人であったから、両者の間には風景の中の自分の身の置き場所についての感覚の方には大きな違いがあって、マーラーが直面したような水準での疎外にノヴァークが苦しむことは恐らくなかったであろう。但しそれはノヴァークが疎外と無縁であったことを意味する訳ではなく、その気質も手伝って、別の理由による疎外感や絶望感に苛まれることになったようであり、その傷跡は彼の遺した音楽にはっきりと聴きとることができると私には感じられる。

 かくしてマーラーと同様、ノヴァークもオーストリア=ハンガリー帝国の辺境であるボヘミアの中でも更に地方都市の生まれということになろうが、西欧の音楽の伝統におけるボヘミアの位置づけはそれほど単純なものとは言えない。フス戦争後カトリックに支配される時代は、チェコの歴史においては文化的にも民族的なものが抑圧された暗黒時代として捉えられるが、こと音楽について言えば、例えば大バッハと同時代では、その時代のカトリックの宗教音楽の頂点の一つと目される多数のミサ曲で著名な(その作品には大バッハも注目し、高く評価していたことが知られている)作曲家ゼレンカがチェコ人だし、その後の前古典派の時期からマンハイム楽派、更にウィーン古典派の最盛期に至るまでの時期に活躍した作曲家達の中にボヘミア出身者を見つけることは、しばしばチェコ語の名前ではなくドイツ語の名前で知られていることからボヘミア出身であることに気づき難いという事情を踏まえたとして尚、容易いことであろう。直接古典期の音楽様式の確立に寄与した彼ら「旧ボヘミア楽派」と呼ばれる作曲者に対し、19世紀のボヘミア楽派は自分達の民族性・地域性の重視によって特徴づけられる。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国領に含まれる一地域の中心都市の扱いであったプラハでは、かつてモーツァルトが当地で大当たりをとった『フィガロの結婚』を自ら指揮するために訪れて、『プラハ』のニックネームを持つ第38番のニ長調交響曲(K.504)を初演した地であることから窺えるように、永らくドイツ系の作品が上演されていたのだが、19世紀も半ば近くになると自分たちのための劇場を造ろうという機運がチェコ人の間に生じて、まず仮劇場が1862年に設立されるとそこの首席指揮者となったのがスメタナ、そこのオーケストラでヴィオラを弾いていたのがドヴォルザークであり、1881年にようやく落成なった国民劇場の杮落しに上演されたのがスメタナのオペラ『リブシェ』Libuše (1872)である(なお、その直後に一旦火災に見舞われた劇場が1883年に再開された時にも『リブシェ』が上演された)といった具合で、永らく辺境と見なされ、抑圧されたマイノリティであったボヘミア人が、急速な工業化の進展もあって経済的に豊かになったことを背景としたナショナリズムの高調と分かち難い関りを持ち、ドイツ・オーストリア的なものとは対立的であるというのが一般的な認識であろう。(なお1992年以降日本語で「プラハ国立歌劇場」と呼ばれるのは、プラハにおいてドイツ・オーストリア的な作品の上演が行われた新ドイツ劇場のことで、現在は国民劇場の下部組織という位置づけにあるようだ。)

 だがより細かく見れば19世紀のボヘミア楽派との関係とて、決して単純なものではない。当時のボヘミア領の小さな村カリシュトに生まれたマーラーは生後程なくして、ボヘミアとモラヴィアの境に存在するドイツ人の街イーグラウに家族とともに移り住む(田代櫂『グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平』には「モラヴィアへの境界を越え」(p.11)とあり、またイグラウを「モラヴィア第二の町」(p.13)としているが、そうであるとして、モラヴィアから見てボヘミアとの境にあるには違いないし、寧ろ社会言語学でいうところの「言語島」(Sprachinsel)、ここではドイツ語のそれであった点の方が重要だろう)のだが、それは同化ユダヤ人が、シナゴーグには依然として通ったとしても、日常はドイツ語を話しドイツ人のコミュニティの中で身を立てることが普通であったことの一例であるようだ。成功した酒造業者であったマーラー家には近郊のボヘミア人、モラヴィア人が使用人として出入りしていたようだから、マーラーは母語として家庭でドイツ語を話し、ドイツ語で読み書きを学ぶ教育を受ける一方で、チェコ語もある程度は理解できただろうし、ボヘミアとモラヴィアの両方の民謡を聞く機会もあって、「神童」マーラーのエピソードとして、与えられたアコーディオンで、自分が耳にした音楽を片っ端から弾いてしまったというものがあるが、その中にはボヘミアとモラヴィアの民族音楽が含まれていたに違いないのである。後年のマーラーがピアノ連弾でチェコの民族舞踏であるポルカを上機嫌で弾いていたというエピソードもあって、チェコの音楽がマーラーにとって極めて身近なものであったことを感じさせる。勿論、マーラーの作品とチェコの民俗音楽の直接的な関わりについての研究もあって、特にVladimir Karbusicky, Gustav Mahler und seine Umwelt は重要な成果とされている。日本語で読める文献としては、ヘンリー・A・リー『異邦人マーラー』(渡辺裕訳, 音楽之友社)の第2章「プラハとウィーンの間に」特にその中の「2. チェコとの結び付き」を挙げることができよう(勿論、カルブシツキの上記研究も頻繁に参照されている)。より直接的な音楽作品間の影響関係としては、例えばドナルド・ミッチェルがスメタナとの関係について論じたものが、Mahler Studiesに含まれるのが比較的アクセスしやすいだろうか。(Donald Mitchell, Mahler and Smetana:significant influences or accidental parallels? , in Stephan E. Hefling, Mahler Studeis, Cambridge University Press, 1997)

 更に後年のマーラーは、ウィーンの宮廷・王室歌劇場監督に至るキャリア・パスの途中で、短期間ではあるけれどプラハの劇場の指揮者を務めることになるが、ワーグナーの楽劇とモーツァルトの歌劇の解釈者として既に名声を確立しつつあった彼の職場は当然ながら落成して間もない国民劇場ではなくて、ドイツ・オペラを主要なレパートリーとする、アンゲロ・ノイマンが初代の監督を勤める新ドイツ劇場であった。その彼がハンブルクに移って親交を結んだのは、くだんのボヘミア楽派の一人である作曲家・批評家のフェルステル(ちなみに妻のベルタはフェルスター=ラウテラーの名で知られたオペラ歌手であり、マーラーの下で歌ったこともあった)であり、彼には自分がボヘミア生まれであって、チェコ語を話せることをアピールしたようだ。何より興味を惹かれるのは、マーラーがウィーンの宮廷=王室歌劇場の監督を勤めていた時代1892年に、スメタナのオペラ『ダリボル』Dalibor (1868) を取り上げたことで、15世紀末のプロスコヴィツェでの反乱に参加した騎士ダリボルの物語が、マーラーが得意とする『フィデリオ』と筋書きにおいて類似していることや、ワグナーの影響が顕著な音楽を持つことから、チェコで物議を醸したのと逆にウィーンでは取り上げやすかったという事情も寄与したのではあろうけれども、当時の状況を考えるに、チェコの伝説に基づく歌劇を帝国の首都で取り上げることは何某かの政治的な意味合いを帯びてしまうことが避けられたなったであろうことを思えば、マーラーのこの作品への愛着がひとしおであったことが窺える。だがオペラ指揮者マーラーのお気に入り、十八番ということであれば『売られた花嫁』Prodaná nevěstaを挙げない訳にはいかないだろう。ローカル色豊かなこの作品は、オーストリア=ハンガリー帝国内では人気があり、それは今日に至るまでドイツ語によるこのオペラの上演が引きも切らない点にも窺える一方で、例えばアメリカでは受け入れられなかったらしいのだが、晩年のマーラーがニューヨークで上演した演目の一つとして『売られた花嫁』が含まれていて、マーラーの熱の入れようはアルマが回想でわざわざ記している程であって、こちらもまたこのチェコの国民的オペラへのマーラーの愛着を窺い知ることができるように思う。一方コンサート指揮者としてのマーラーはドヴォルザークの交響曲をあまり評価していなかったらしいが、交響詩については別であり、『野鳩』Holoubek,op.110を取り上げている他、『英雄の歌』Píseň bohatýrská, op.111については初演者として名を残している。初演ということであれば、既述のフェルステルの第3交響曲の初演もまたマーラーがタクトをとっている。

 彼が指揮者としても高く評価していたツェムリンスキーはマーラーの没後1911年から1927年まで、前任者でマーラーとも関係のあったアンゲロ・ノイマンの後を継いでプラハの新ドイツ劇場の音楽監督として活動したが、そのツェムリンスキーと協力関係にあって、1920年以降は同じ劇場の首席指揮者を勤めたのは、これまたボヘミア楽派の主要メンバーの一人であり、ノヴァークにとってはライヴァルであった作曲家オタカル・オストルチルであった。指揮者としてのオストルチルはベルクの『ヴォツェック』のプラハ初演を実現したことを始めとして、シュトラウスやドビュッシー、ストラヴィンスキーやミヨーを取り上げたことでも知られるモダニズムの擁護者として知られるが、作曲家としてのオストルチルは、スメタナの流れを継ぐフィビフの弟子であった。その芸術的姿勢の支持者の一人に微分音音楽のパイオニアの一人として著名なアロイス・ハーバがいるが、オストルチルとのライヴァル関係もさることながら、ノヴァークの作風からすると意外に思えるかも知れないことに、ハーバは最初はノヴァークの弟子であった。モラヴィアの出身で幼い時から民謡に親しんだハーバは民俗音楽への興味からノヴァークに師事したようだし、そうした来歴から窺えるように、その微分音の使用は、例えば同じく微分音楽の提唱者・理論家として著名なヴィシネグラツキーとは異なって、特にモラヴィアの民謡に見られるオクターブを十二に分割する音階には含まれない音程や、半音以下の微妙な音程の変化から抽象されたものであり、それ故に単なる理論に基づく実験以上の作品を数多く作曲したことや、微分音音楽を演奏するための楽器制作や教育にも意欲的であり、実践的な側面での数多くの成果を挙げたことが知られているが、そうした彼の微分音音楽の実践を支持したのは、こちらは理論上で微分音音楽の可能性を示唆するに留まったとはいえ、その影響力には絶大なものがあったフェルリッチオ・ブゾーニであるが、そのブゾーニもまた熱烈なマーラーの信奉者として(アルマの回想録での印象的な描写も相俟って)有名であろう。

 そうした潮流の中でノヴァークは、既述の通り、一時期は印象派やシュトラウスのような時代のトレンドの影響を受けはしたものの、寧ろその後は時代の流れから身を退いてしまったかのように見える。とはいえ勿論それは出発点への単純な回帰、逆行という訳ではない。一見それは反動に見えるかも知れないが、寧ろ私がそこに見出すのは、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さである。その表情は寧ろ若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づいているようで、確かに自己の基本的な性格に立ち戻ったという点ではその通りであるとしても、ここでは最早現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言うところの「現象から身を退く」(Zurücktreten aus der Erscheinung) ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きを感じずにはいられない。

 さて、それではヴィーチェスラフ・ノヴァークとマーラーとの間の直接的な関わりについてはどうだったのだろう。年代的には確認できた限りでは1860年生まれのマーラーに対してノヴァークは10年遅れの1870年の生まれ、マーラーはようやく50歳に達した1911年には没しているのに対して、後述するようにノヴァークは第2次世界大戦後まで生き延びて第一次世界大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国の終焉とともに誕生したチェコスロヴァキア第一共和国がナチスドイツにより蹂躙されたのが第二次世界大戦後に「解放」される迄を目にすることになるが、おおまかに言ってマーラーの生涯はその前半生と重複するに過ぎない。マーラーがドヴォルザークの交響詩を評価していたのは既に記した通りだが、確認できた限りでは、その弟子筋にあたるノヴァークと直接やりとりをしたという記録はないようである。しかしながら間接的なものならば、日本語訳でも読むことができる1996年版の書簡集の末尾に収められた、1911年2月21日にニューヨークにて書かれたと推測される、ウニフェルザール出版社主のエミール・ヘルツカ宛のマーラーの書簡(464番、邦訳ではpp.464~5)において、マーラーがスークとともにノヴァークに言及していることが確認できるのである。その背景としては、ある時期以降マーラーの作品の出版を集中して引き受けることになったウニフェルザール出版社は或る時期以降(正確には契約の調印は1910年4月20日ないし24日で、期間はその後10年間)のノヴァークの作品の出版にもまた携わっていたという事情がある。実際には書簡の内容のうちノヴァークに関わるのはその冒頭の部分だけなのだが、そこでは恐らくマーラーがヘルツカから借りていたノヴァークとスークの作品のスコアが、手違いによって誤って返却されてしまったことを、事情の説明とともに詫びている。そしてその事情の説明から、スコアを借りていた理由が、ニューヨークでのコンサートのプログラムで取り上げる作品の検討であったことが窺えるのである。マーラーは次のコンサートのプログラムに「ボヘミアの夕べ」という企画を入れ、そこでノヴァークとスークの作品を取り上げる予定であった。書簡集の注釈によれば、返却されたスコアはノヴァークの交響詩「タトラ山にて」とスークの「夏の御伽噺」であり、いずれも前年の1910年に出版されたばかりの新作であった。良く知られているようにこの書簡を書いて間もなくマーラーは、2月21日のカーネギー・ホールのコンサートに熱を押して臨んだのが生涯最後の舞台となり、当時は不治の病であった連鎖球菌による感染性心内膜炎に罹患してしまうので、「次のコンサート」は開かれることなく、この企画は幻のものとなってしまったのである。マーラーがもし存命であれば取り上げられる予定だった作品としては、シベリウスのヴァイオリン協奏曲やアイヴズの第3交響曲「キャンプ・ミーティング」が著名だが、かくしてノヴァークの代表作の一つである交響詩「タトラ山にて」もまたそうした作品の一つだったことが確認できるのである。

 それではノヴァークの側からのマーラーに関する記録の方はどうであろうか?こちらについては、そもそもノヴァークについての邦語資料がほとんどないこともあり、情報は非常に限定されているのだが、私が調べ得た範囲でも、ノヴァークがその晩年に記した回想『自身と他者について(O sobě a o jiných)』の中にマーラーについてのノヴァークの以下のようなコメントが含まれていることが、Lubomír Spurný, "Vítězslav Novák in the Context of Czech Music as a Whole: Thoughts about the Composer’s Fate( Vítězslav Novák v kontekstu češke glasbe kot celote: Nekaj misli o skladateljevi usodi)", 2013という論文を通して知ることができるようだ。

「ドヴォルザークの言葉を使えば、私はマーラーが好きだが、我慢できない。その音楽のどこが好きなのか?それは彼の誠実さだ。彼がどんな感情を表現する場合でも、すべてが強烈に感じとれる。マーラーの二つ目の長所は、旋律の才能だ。彼の提示部は途切れ途切れの動機に依存することは決してない。彼の主題のいくつかは無言歌と呼べるだろう。[…] もう一つ、私が彼について好きな点は、人間としてのマーラーだ。ハンブルク、そして後にウィーンのオペラハウスの監督だったから、それを作曲する能力もあれば宣伝だって出来た筈なのに、彼はオペラを1曲も作曲しなかった。彼はそれを非標題的ないくつかの交響曲で補った。[…] 私が彼の嫌いなところは?それは自己批判の欠如だ。彼は適切なタイミングで曲を終えることは滅多にない。悲しんでいようが、歓喜していようが、彼は止まることを知らない。この過剰さの結果、聴き手は疲れてしまう。これらの作品は長大な上にリズムへの関心と転調が不十分なため疲労感を増大させてしまう。マーラーはしばしば楽章全体を通して同じリズム、時には同じテンポに固執するが、これはリヒャルト・シュトラウスとは対照的だ。[…] マーラーの楽譜を一瞥しただけで、セクション全体が同じ調で統一され、逸脱することがないことがわかる。調号のせいで楽譜は読みやすい。」(引用者による試訳)

 ちなみに上記論文は、ノヴァークの音楽の受容と今後の可能性について考察した Jiří  Fukač の論文「ノヴァークの時代は来るだろう(V.ノヴァーク―様式と受容の問題)(Novákova doba musí ještě přijít (V. Novák – problémy stylu a recepce)」を踏まえ、その問いに対する答を検討するといった枠組みの論文だが、そのきっかけとしてマーラーに関する優れた伝記『グスタフ・マーラー 未来の同時代者』の著者である音楽社会学者クルト・ブラウコップフによる、マーラーに関するシンポジウムの場での発言があったことに言及されている。ブラウコップフは若い頃にノヴァークの弦楽四重奏曲を弾いた経験もあり、 そうした経験を踏まえてマーラーに対するのと同じコメントをノヴァークについてもしたということのようなのだが、上記の引用はそれを踏まえて、だがノヴァークの音楽はマーラーとは異なって、世界的な注目を集めることなく、チェコの音楽の歴史の周縁に位置づけられるに留まっていることの理由として、ノヴァークの音楽がマーラーの音楽と異なって「時代を超越した」ものではないことを指摘した後で、ノヴァーク自身のマーラーとの関係を確認する目的で為されているのである。そして上記引用に続いて、ノヴァークとマーラーにおける引用技法の違いについての比較検討が為される。ノヴァークは引用を行う場合でも徹底した動機的・主題的発展と対位法によって構造の奥深くに織り込むというやり方を採るが、それが彼の音楽の知的な性格をもたらすとともに、その音楽に明確な伝記的な色合い与えるのに対し、引用によって現代的な実存的疎外感を喚起するようなマーラーの音楽におけるあり方とは異質である点が指摘されている。私見によれば、その内容についてはかなり行間を補って敷衍を行う必要があるとは思うが、確かに両者の引用技法の「効果」の違いは明らかだし、分析の方向性には首肯できるものがあり、非常に興味深い内容を含んでいる。

 一般にはチェコのモダニズムの世代におけるマーラー擁護者としては、寧ろノヴァークのライヴァルであったオタカル・オストルチル(既述の通り、プラハの新ドイツ劇場においてツェムリンスキ―の同僚であった)が有名だが、オストルチル自身の音楽は寧ろ新ウィーン楽派に近接し、マーラーの音調とは異質なものであるのに対し、ノヴァークの音楽にはマーラーの音楽との比較対照を誘うものがあるのは確かだと思うし、演奏家の立場からとはいえ、マーラーの側からもノヴァークの作品に関心を示していた証拠が残っているのは、両者の間の関係を考える上で非常に興味深く感じられる。

 いずれにしても、かくしてマーラーの側からも作曲家ノヴァークを評価していたことが確認でき、ノヴァークの側も幾つかの留保を付けつつも、マーラーの作品の或る側面を好んでいたことが窺えるのである。

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 今、こうして遅ればながらノヴァークについて書き留めておこうとする私の記述内容は、だがしかし私という個人限定の私的な「感受」の内容を書き留めたに過ぎないのではなかろうか?またその内容は、それは曾ての私がノヴァークの音楽に聴きとったものと同じだろうか?マーラーから距離を置くための拠点のようなものとしてノヴァークの音楽に接した私は、だがしばらくして後、再びマーラーの音楽への立ち戻った。そしてそうしたことの全てが起きてから最早四半世紀の時が経とうとしていることに気付いて、私はその間に広がる時間の隔たりを前に言葉を喪ってしまう。既述のようにボヘミアの音楽はかつての私にとってごく当たり前のものだったし、ボヘミアの音楽との接触は一度切りのものではなくて断続的なものであった。例えば中学生の私は合唱部に属していたが、(まさか当時私のマーラーへの熱中がその原因とも思えないので)どういう経緯でかコンクールの舞台で合唱指揮をすることになり、その時に選ばれたのが(というからには私が主体的に選曲する自由は与えられておらず、私に合唱指揮をするよう指示した音楽教師による選曲だったのだが)スメタナの『モルダウ』を合唱用に短くアレンジしたものだった。後の私は、既述の「ビロード革命」後の「プラハの春」音楽祭での『我が祖国』に接したことが直接的なきっかけで、それまで腑に落ちなかった「国民楽派」の音楽に漸く自分なりの実感をもって接することができるようになるのだが、中学生の私はそうした思いを抱くこともなく、情けないことには『我が祖国』全曲を聴くことすらない儘、辛うじて原曲の交響詩『モルダウ』のみに接した限りで自分なりの解釈をもってコンクール本番に臨んだのであった。中学生の合唱部で中学生自身に指揮をさせることが珍しかったためか、偶々そのコンクールに審査員として立ち会っていたらしい作曲家の中田喜直さんが、中学生ながらそれなりの解釈を施しての指揮であったことを評価して下さり、指揮の勉強を続けるようにとの言葉を下さったというのを後日、くだんの音楽教師の伝言経由で聞いたのだったが、特段音楽的な環境にいるわけでもない地方都市に住む平凡な中学生にとって、間接的にであれ受け取った高名な(中学の音楽の教科書に必ず載っている合唱曲の作曲家だったから勿論、名前を知らない筈はない)作曲家の言葉は、自分の生きているちっぽけな生活世界の中でリアリティを持つことはなく、後に苦々しい思いとともに思い起こすエピソードの一齣となる他なかった。とまれ偶然の産物とはいえ、ここでもチェコの音楽との例外的な接触があって、私がマーラーへの熱中の背後で後年ノヴァークに出会うことになる背景を形成したことは間違いない。

 更に言えば、こちらはノヴァークの音楽を聴くようになったのと相前後するような時期のことだが、当時石川達夫さんが精力的に翻訳・紹介をしていたカレル・チャペックの作品をかなり纏めて読んだことや、ビロード革命の立役者である劇作家、ヴァーツラフ・ハヴェルが獄中から妻宛てに書いた膨大な書簡(『プラハ獄中記―妻オルガへの手紙』)を読んだり、現象学の研究者としてフッサール、ハイデガーに師事しながら、晩年になってハヴェルとともに「憲章77」Chartě 77 の代表として活動をした結果、官憲に拉致されて長時間の尋問を受けた後に心臓発作を起こして逝去した哲学者、ヤン・パトチカの『歴史哲学についての異端的論考』Kacířské eseje o filosofii dějin (邦訳:みずず書房, 2007)をやはりこれも石川達夫さんの翻訳を通じて接したこと、こちらは美術になるが、偶々チェコの画家フランチシェク・クプカFrantišek Kupka (1871~1957)だけにフォーカスした展覧会(1994年、愛知県美術館・宮城県美術館・世田谷美術館を巡回。私は世田谷美術館で作品に接した)があり、その作品にある程度網羅的な仕方で接する機会があったこともまた、チェコについての関心を広げる役割をしたと記憶する。音楽についても同様で、フィビフ、フェルステル、スーク、マルティヌー、ヤナーチェク、オストルチルやハーバといったチェコ人の作曲家の作品に接するなど、チェコの音楽に接する機会が何故か相対的に多かったことを考えれば、ノヴァークの音楽との出会いもまた、チェコの文化との遭遇の一齣に過ぎなかったという見方も可能だろう。

 既述のようにノヴァークは、本人の誕生からの前半生を、ドイツ人のための神聖ローマ帝国の後継国家であるオーストリア=ハンガリー帝国内においてチェコのナショナリズムが高まっていく中で過ごした。一時取り沙汰されたこともあったらしいチェコ人の自治権を認めた三重帝国こそ実現しなかったが、第一次世界大戦にオーストリア=ハンガリー帝国が敗れて解体することの結果として、チェコ人はひととき独立を獲得する。マサリクに率いられた所謂チェコスロヴァキア第一共和国の成立である。だが第一共和国は、東方からの脅威を防くことを目論むヒトラーのオーストリア併合の次の餌食となってしまい、まずドイツ人が多く居住するズデーテンが割譲され、次いで全体が併合されてしまって第一共和国は消滅する。(この時のヒトラーのやり方は、今まさに起きているプーチンのロシアによるクリミア半島の割譲とドンバス地方への傀儡政権の樹立というプロセスの仕上げとしてのウクライナ侵攻を彷彿とさせる。そのことを考えればプーチンの侵攻の口実がネオナチからの解放を目的とした自称「特別軍事作戦」であることは悪い冗談としか感じられない。)

 第一共和国はミュンヘン協定により戦争回避の生贄として見殺しにされ、おしまいにはチェコ地域(ボヘミアとモラヴィアの主要部分)はベーメン・メーレン保護領として併合されてしまうのだが、『南ボヘミア組曲』はそうした一連の出来事に先立つ1936年から1937年にかけて作曲された。1930年、日本風には還暦を迎えたノヴァークは生誕の地であるカメニツェ・ナト・リポウを訪れる。そのことをきっかけにして、彼は自分が南ボヘミアの田園風景、とりわけ森や池から自分が受け取ったものを改めて認識し、それらに対する応答として『南ボヘミア組曲』を作曲したというのが経緯となる。既に述べたこの作品の特質、即ちユニークな時間の流れ方、単なる雰囲気の変化や対比ではない、組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い(組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性)に関連した、抒情的・印象的な前半2曲と3曲目に置かれたフス教徒の聖歌(『イステブニツェ聖歌集』Jistebnický kancionál 所収で、スメタナの『我が祖国』Má vlast やドヴォルザークの劇的序曲『フス教徒』Hustiská dramatická ouvertura, op.67 で用いられたことで余りに有名な「汝ら、神の戦士よ」Ktož jsú boží bojovníci)との対比もさることながら、この作品が或る種未来を先取りした作品である点に留意すべきであろう。勿論、作品創作の時期には既に後のカタストロフの予兆はあちらこちらに伺えたに違いないが、それにしても、かの白山の戦いでフス派が壊滅してからというものの、或る種黙示録的な予言の如きものとして伝えられ、スメタナの『我が祖国』Má vlast の末尾の連続して奏される2曲「ターボル」Tábor と「ブラニーク」Blaník によって余りにも有名になったあの伝説がここで暗示されているのは、その後のチェコの運命を思えば、予言的とでもいうべきか。

 だが白山の騎士達が現実に出現することはなく、その後のズデーテン割譲から保護領化に至るまでの期間ひととき沈黙するものの、『深淵から』De profundis (1941) と題された交響詩とオルガンと管弦楽のための『聖ヴェンツェラス三部作』Svatováclavský triptych (1941)で作曲を再開したノヴァークは、ナチスの支配下では音楽によるレジスタンスを展開したのであった。よもや待ち望んだ白山の騎士と勘違いしたわけではなかろうが、そうしたノヴァークにとってスターリンが解放者として映ったのは間違いないことなのだろう。1943年に作曲された『五月の交響曲』Májová symfonie と題された独唱、合唱つきの長大な管弦楽曲はスターリンに献呈されており、ナチスの壊滅から7か月後の1945年12月に初演された。戦後まもなく1949年には没するノヴァークが共産党政権に対して親和的であり、「人民芸術家」の称号を得たことについて今日の視点から後知恵で批判することは容易いことだが、ここではその事実を述べるに留めて当否を論じることは控えたい。 

 それとともに、マーラーがチェコ人ではなく、チェコ生まれのユダヤ人であり、ナチスによって「退廃音楽」として演奏を禁止されたという点を踏まえるならば、一頃日本でも話題になった姪アルマ・ロゼの名の傍らに、ホロコーストの犠牲となり、強制収容所でその生を断たれた一連のチェコ生まれのユダヤ系の作曲家の名前を挙げないでいるのはバランスを欠くことになるだろう。シェーンベルクの門下でプラハのドイツ劇場でツェムリンスキーの計らいで指揮者を務める一方で、ハーバにも師事したヴィクトル・ウルマン、やはりハーバの門下であるギデオン・クライン、更にはヤナーチェクの門下であったパヴェル・ハース、ハンス・クラーサといった、テレージエンシュタット強制収容所に送られた後、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で殺害されるという運命を辿った作曲家達、同じくナチスにより「退廃音楽」として迫害され、ホロコーストの犠牲となったエルヴィン・シュルホフといった作曲家の存在を忘れてはなるまい。一方で、ノヴァークの弟子であり、微分音音楽の開拓者として当時の前衛であったハーバもまた、ナチス支配下では作品演奏を禁じられ、プラハ音楽院に自ら設けた微分音学科での教育も禁じられることになる。戦後一旦は復帰するものの、今度はスターリニズムの影響下にあった共産党政権によって「形式主義者」として迫害を受け、微分音学科は廃止され、強制的な引退に追い込まれることになる。尤も引退後の彼は作曲の自由を回復することになって逆に本来の前衛的な作風を取り戻し(彼の最後の弦楽四重奏曲である第16番は五分音による)、半ば忘れ去られつつ1973年に世を去る迄実験的な探求を続けたのであったが。

 勿論、だからといって私にとってチェコはまずもってマサリクとチャペックのそれであり、パトチカとハヴェルのそれであることには些かも変わりはない。ハヴェルには「力なき者たちの力」Moc bezmocných (1978)と題された論考があるけれど、まさに「力なき者たちの力」こそが拠って立つべき根拠であるという思いも変わることはない。またチャペックの作品の持つ、後年のSFを遥かに凌ぐ透視力への感歎の思いは、原子力(『絶対子製造工場』や『クラカチット』)、感染症の蔓延と戦争(『白い病』)、ロボットや遺伝子工学、人工知能、人工臓器(『ロボット』、『山椒魚戦争』)や老化(『マクロプーロスの処方箋』)といったシンギュラリティ(「技術的特異点」)を目前にした今日の問題をチャペックが全て予感しているのであれば、寧ろ強まるばかりである。不覚にもごく最近気づいたのだが、「分解」「腐敗」を切り口とするという卓抜な着想と歴史学者としての実証によって今日の問題に対して最も鋭く批判的な応答をしている藤原辰史先生の『分解の哲学』は一章をチャペックに割いており、一読してチャペックと藤原先生双方の着眼の卓抜さに圧倒される思いがしたことを鮮明に記憶している。

 だがもしそうだとして、ビロード革命後にプラハで鳴り響いた『我が祖国』のもたらす感動、チェコ人でもないし、チェコに暮らしたこともない人間の、恐らくは少なくない誤解を孕んだ身勝手な共感は、一体何に対するものなのだろうか?それは幾らでも暴力的に成り得て、「浄化」という名の他者に対する排除、他者の絶滅を正当化する論理が依拠する類の排外的で独善的なナショナリズムとどのように区別されうるというのだろうか?

 勿論そうした問いに対して簡単に答えられる筈もなく、だがだからといってそうした問いを回避して済むわけでもないのだけれども、私にとってのノヴァークの音楽は、出会ってから四半世紀が過ぎた今もかつてと同じ風景を私に見せてくれる。そして四半世紀も遅れてノヴァークの音楽との遭遇についての証言を書き留めておきたいという思いをようやくこのように果たそうと試みた時、自分にとってノヴァークの音楽は或るタイプの「生」のモードに結びついていることを認識せざるを得ない。そしてそのモードはボヘミア楽派のメンバーの一人としてのノヴァークのそれではなく、更にまたその生涯を通じて幾多の変遷を遂げたノヴァークその人のそれですらなく、端的に『南ボヘミア組曲』を作曲した折のノヴァークのそれであることに気付くのである。最初に述べたことの繰り返しになるけれど、ノヴァークに出会った頃の私は、その音楽に彼の蒙った傷と絶望と、森や池や草原の風景から受け取ることのできる深い慰藉とを感じ取り、内向的でぶっきらぼうで非社交的な彼の性格を受け止め、共感したのだったと記憶するが、今そうであるのと同様、当時の私にとっても最も深く心の中に染み透る作品である『南ボヘミア組曲』にかつて見たものは、今にして思えば稍々位相のずれたものであったかも知れないと思う。

 既に記した通り、ノヴァークは60歳に到達した折の「帰郷」をきっかけにこの作品を創り出した。組曲を構成する楽曲の間にある意識の位相の違い、即ち組曲前半の直接経験される現在と回想される過去に対して、組曲後半の社会的・理念的なものの侵入、即ち歴史的過去と未来への眼差しという重層性そのものが物語る通り、瞑想的で流れ込む外の風景の「感じ」と外に沁み出していく「私」という意識の構造とその移ろいの過程の様態が克明に定着された前半の2曲もまた、若き日の作品群とは異なって、直接的な体験の印象主義的な音楽化ではなく、それ自体がフッサール現象学でいうところの第二次的な把持のレベルにある。(それに対し後半2曲についてスティグレールを援用するならば、更にテクノロジーに補綴された第三次的な把持の水準、アンディ・クラークの言う「生まれながらのサイボーグ」としての「人間」の水準にあると言えるだろう。)それは既に「回想」の相をも含んでおり、「回想」の意識内容と、今、改めて己れをその中に浸す風景の直接的「感受」(ここでの感受は、ホワイトヘッドのプロセス哲学的な意味合いで用いている)の二重性を帯びたものなのである。今の私が『南ボヘミア組曲』に見出すのは、これもノヴァークの後期作品の特徴と私が感じていることとして既に記したことの繰り返しとなるが、若き日の室内楽に見られた些か不器用なまでの率直さに再び近づき、気どりや飾り気の無さ、敢えて洗練とか流麗さとかを拒むようなたどたどしくさえある朴訥さが感じられるとはいえ、現象そのものに無自覚に対峙するのではなく、ゲーテの箴言に言う「現象から身を退く」ことに近接するような、自己の主観の働きを客観化するような働きである。ゲーテはそれを「老年」に結びつけて語ったのだっだが、アドルノはジンメルのゲーテ理解を受け継ぐような形で「現象から身を退く」点を重視して「後期様式」を、マーラー、シェーンベルク、ベートーヴェンといった具体的な作曲家を対象として論じている。それを単純にノヴァークに敷衍することが正当化できるかどうかについての判断は専門の研究者でもない私の能くするところではないが、そうであったとしても、ノヴァークに対して遅ればせの応答をかくして試みることで確認したのは、それが実は最初から「老い」に、アルフレッド・シュッツの指摘をうけてより正確に言うならば、「老い」ていくという事実よりもより多く「老いの意識」に関わっていたし、今よりのち、ますますそうなっていくのだということであった。

 関わっていたというのが言い訳でないというのは、ノヴァークを良く聴いた同じ時期に、ノヴァークに対してではなかったし当時の私の年齢相応の仕方ではあったが、自分が既に「老い」について幾つかの対象を媒介にして考えていたことに思い当たったからである。それは生物学的・生理的な老いそのものではなく、アドルノとは別の仕方によって「後期様式」とは別の選択肢に辿り着くというような認識の様態を巡ってであった。ここでそれらを繰り返すことはしないが、そのきっかけは、或る日自分がダンテの『神曲』冒頭に記されたような人生の折り返し点を気づかずに既に通り過ぎて了ったという認識を抱いたことだったように記憶する。その辺りの消息は、このブログの記事の中で、一見したところマーラーとの関連が稀薄そうに見える身辺雑記(1) 序に記録している通りである。人生の折り返し点を過ぎたということは、ダンテの定義によれば老年に差し掛かったということであって、そうした自己認識の下、アルヴォ・ペルトの言う「偉大な芸術家にとって、もう芸術を創造しようとしたり、創造したりする必要のないとき」という言葉を導きの糸としたシベリウスの晩年の沈黙やデュパルクの断筆についての思考、ジッドの「狭き門」におけるアリサの「私は年をとってしまった」というジェロームへの言葉を巡っての思考、ヴァルザーがブレンターノを主人公にして書いた散文にあらわれるあの薄暗い大きな門、その向こう側には沈黙が広がる相転移の地点についての思考は、その時期の私なりの「老い」についての思考であった。その時は寧ろ、相転移の向こう側の沈黙の方にフォーカスしていたので、恐らくはその手間に位置づけられる「後期様式」についての思考との両方を「老い」を媒介とした一つのパースペクティブの下で捉えるという発想を持つことはなかったのだが、今やそれにこそ取り組むべきなのだと感じている。そのことはパスカルに関して数学者をやめたことを惜しむのか、「沈黙」の替わりに『パンセ』を遺したことすら問いに付すのかとの間の二者択一を意味しない。寧ろ相転移の向こう側でなお、何が可能なのかが問われているのかも知れない。更に言えば「老い」の意識は暦年に基づく年齢とも生理的な年齢とも関わりなく、寧ろ病とか身体的な衰えや、そうしたことに媒介された死への意識とともに主体に到来するものなのだろうが、さりとて暦年に基づく年齢や生理的な年齢に伴う老化自体を無視することなど出来はすまい。

 「老い」について語られることは、「死」について語られることの多いのに比べて余りに少なく、仮に語られても、それは「死」との関りにおいてのみ論じられることが常であるように感じられる。だが、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」崩壊以降、ダマシオの言う延長意識が立ち上がると「自伝的自己」が確立され、生涯に亘って維持されるようになったのだが、逆にそうなってみると生物学的な「死」の手前に、その前駆としてではない「自伝的自己」の消滅が、「老い」によってもたらされることになった。ダマシオの記述を参照するならば、認知症の代表的な原因であるアルツハイマー病では「初期では記憶喪失が支配的で、意識は完全だが、この破壊的な病が進むと、しばしば進行的な意識低下が見られる。(…)この意識低下はまず延長意識に影響し、事実上、自伝的自己の様相がすっかり消えてしまうまで延長意識の範囲を徐々に狭めていく。そして最終的には中核意識も低下し、もはや単純な自己感さえなくなる。」(ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』, 田中三郎訳, 2003, 講談社, p.138)

 ジャンケレヴィッチの『死』は死そのものと同様、その手前と向こう側についても延々と語っており、その中で勿論「老い」についても「死の手前」の中の一つとして論じている(ジャンケレヴィッチ『死』, 仲澤紀雄訳, みすず書房, 1978, 第1部 死のこちら側の死, 第4章 老化)が、無い物ねだりとは言い乍ら、やはり「老い」そのものについて論じているとは言い難い。勿論こうした次元での「老い」は直接には「現象から身を退く」ことをその定義とする「後期様式」とは無関係であるということになろうけれど、こうした次元の「老い」と切り離してそれらを論じることは、こちらはこちらでもともとのゲーテの言葉を軽んじていることになるのではなかろうか。

 「老い」についての大著というと、邦訳で上下巻、二段組で700ページにもなるボーヴォワールの『老い』(朝吹三吉訳, 人文書院, 1972)があって、膨大な資料を渉猟し、その記述は多面的で、生理的側面、心理的側面、社会的側面の全てに亘り、客観的・対象的な了解と主観的・体験的な了解の両方を扱っており、かつそれらそれぞれの面のいずれについても充実したものだが、余りに経験的な次元に限定されている感じもある。一方でその限りにおいて、作家や学者に比べて芸術家(画家と音楽化)の晩年についての評価は高いのだが、その理由が特殊な技能を習得することから習熟に時間を要するという稍々皮相な指摘(「(…)このように彼ら(=音楽家:引用者注)が上昇線をたどるのは、音楽家が服さなねばならない拘束の厳しさによる、と私は解釈している。音楽家は自分の独創性を発揮するには高度の熟達がなければならず、これを獲得するには長い時間が必要なのである。(…)」, 邦訳下巻, p.479)に留まっている。何よりも「老い」が単なる「長い時間」と同一視されていて、「老い」の固有性が顧慮されていない点が致命的に感じられ、これではゲーテの「現象から身を退く」に基づくジンメルやアドルノの議論との間尺がそもそも合いようがない。ボーヴォワールが「老い」というものが様々なレベルで複合的に決定されているものであるが故に明確に定義することが困難であることを認識した上で、「老い」というものの固有性について理解しているだけに、個別の例における上記のような評価は寧ろ腑に落ちない感もあるが、ここでこれ以上立ち入ることは控えることにして後日を期することにしたい。

 その点で留意するに値するのは、世阿弥が『風姿花伝』において能役者の生涯における三回の「初心」について述べる中で「老年の初心」について述べていることだろう。そもそも能楽には「老体」の能と称される演目があり、「老女物」の能を演じるのは能役者にとっての生涯の目標であり、かつては奥伝として特に許された者以外は生涯演ずることが叶わなかった程である。そしてそうした最終目標の演目において能役者が演じるのは、小野小町の老残の姿と心持ちを扱った作品(『卒塔婆小町』を始めとする所謂「小町物」)であったり、棄老伝説を踏まえた、今日的には残酷ともとれる状況を扱った作品(『伯母捨』)なのであって、役者として「老年の初心」を経て初めて到達できる境地と、そうした「老い」を主題とした演目との間に深い関りが存在することは、そうした作品の最高の上演に幾度か接すれば自ずと得心されるもので、そうした観能の経験もまた、私がそうとは気づかずに断続的に行ってきた「老い」についての思考の枢要な導き手であったことを今、改めて認識し、そうした上演に立ち会うことができた僥倖に感謝せずにはいられない。ここでは「死」とは異なる「老い」の固有性が、そのマイナス面も含めて決して否定的に扱われることなく、だがそこから目を背けることもなく、真っ向から取り上げられているのである。

 であるとするならば、要するに求められているのは、『分解の哲学』において遂行されているように「分解」「腐敗」を正面から取り上げること、そしてその顰に倣いつつ、だが、こと「老い」を扱うのであれば、『分解の哲学』が謂わば「死の向こう側」における「分解」に目を背けることなく取り上げたのに呼応して、「死の手間」における「分解」を取り上げることなのだと考える。

 だが「老い」について上記のような議論をすることはそれ自体、最早ノヴァークその人への「応答」としては過剰であり、逸脱であるというのが客観的な判断としては妥当だろう。既述の通りノヴァーク自身はその後しばらくの沈黙の時期はあったけれども断筆に至ったわけではないし、その後は、抵抗としての音楽の創作に向かったのだから、ノヴァークその人の総体を論じるのであれば、そこに上述した意味合いでの「老い」を見出すのは無理筋ということになるに違いない。けれども私にとってのノヴァークは何よりもまず『南ボヘミア組曲』に映り込んだ彼なのであり、(『シニョリーナ・ジョヴェントゥ』のように素材として若さ/老いを扱った作品があるとは言え)もしかしたらノヴァークにおいて一度切り、そこに限ってということであれば、ここで考えているような「老い」を論じることは許容されるのではなかろうか。だが寧ろ、今やそのことをこうして確認したからには、かつての自分がノヴァークから明確に離れたという訳ではないにせよ、その後再びマーラーに立ち戻ったように、今度はマーラーと「老い」について、マーラーにおける「老い」について、必ずしもアドルノのようではなく自分なりの認識を整理することに向かうべきなのだと感じている。そしてそれはかつて『南ボヘミア組曲』に出会った折の仕方と同じ仕方でなく、上でラフにその輪郭を辿ったことの延長線で「老い」について考えることに通じるのであろう。(2022.12.7オリジナル版, 2023.2.8マーラーに関連する部分を編集し、若干の加筆の上公開、2.16, 3.7更新, 3.8改題, 4.30,5.4加筆修正, 2025.7.16-17, 8.5改訂)

2024年12月30日月曜日

備忘:マーラーの音楽における「老い」についての論考に向けての準備作業 (4) (2024.12.30 更新)

 だが、そうした社会的構造に根差した生成と推移のリズムが刻む単純な生死の対立の平面とは更に別の軸が存在することが、主として細胞老化のメカニズムに関する研究により明らかにされてきた。そこから出発して、成長ではない、癌のような分裂の暴走というのを時間的なプロセスとして考えることができるだろうか?エントロピーの概念?ここでは成長との二項対立は問題にならない。寧ろ老化は癌化に対する防衛という一面を持つらしいのだ。

 あるいはまた、遺伝子においても、従来は意味をもたないとされた膨大な領域が単に冗長性を確保するといった観点にとどまらず、より積極的な「機能」を担っている可能性が示唆されるようになったし、細胞老化の研究により、老化というのが細胞の複製・増殖の暴走である癌化への防衛反応の一つであるという見方が出されたことを始めとして、生命を維持するメカニズムは当初考えられたような単純なものではなく、非常に複雑で込み入ったものであることが解明されつつある。

 だが、この視点の素朴なバージョンなら、既にボーヴォワールの『老い』にも登場している。ただしそれは「いかなる体感の印象も、老齢による老化現象をわれわれに明確に知らせはしない」(邦訳同書下巻, p.334)ことの理由としてではあるが。曰く

「老いは、当人自身よりも周囲の人びとに、より明瞭にあらわれる。それは一つの生物学的均衡であり、適応が円滑に行われる場合は、老いゆく人間はそれに気づかない。無意識的調整操作によって、精神運動中枢の衰えが長いあいだ糊塗される可能性があるのだ。」(邦訳同書下巻, p.334)

だが、これは文脈上仕方ないことではあるけれど、事態の反面をしか捉えていない。つまり糊塗されている裏側で起きていることに対する観点が抜けていて、実はそちらこそ「老い」にとっては本質的な筈なのである。それを今日のシステム論的な議論に置き直せば、以下のようになるだろうか。

「(…)以上のように、老化という現象には、「階層構造」と「時間」のファクターが組み合わさり、時間軸方向には決定論的にふるまうが、ある時間の断面では確率論的である、という複雑な性質があります。このような複雑な現象を示すシステムとして生物をみた場合に、老化の本質はいったいどのようなものと考えられるのでしょうか。(…)システムの特徴の一つに、「ロバストネス」(頑健性)」という工学用語で表されるものがあります。生物学的な用語でいえば「ホメオスタシス(恒常性)」となるでしょう。(…)システム全体に負荷がかかった場合でも、それを元の状態に戻そうとする能力、それが「ロバストネス」なのです。(…)こうした議論をとおして北野所長とたどり着いた考えは、「老化」は、ロバストネスが変移して、最終的に崩壊する」過程であるというものでした。つまり老化の定義は、「生物がもつロバストネスの変移と崩壊」だと。単なる崩壊ではなく、「変移と崩壊」というところに注目してください。歳を取っても人の体はロバストなのです。(…)ロバストであることに変わりはありませんが、定常の位置が推移していきます。だんだんずれていって、最後に全体としてシステムのロバストネスを保つことができなくなるとついにシステムが崩壊する、つまり「死」に至る、ということになります。」(今井眞一郎『開かれれたパンドラの箱 老化・寿命研究の最前線』, 朝日新聞出版, 2021, pp.229-30)

  「老い」について語られることは、「死」について語られることの多いのに比べて余りに少なく、仮に語られても、それは「死」との関りにおいてのみ論じられることが常であるように感じられる。だが、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」崩壊以降、ダマシオの言う延長意識が立ち上がると「自伝的自己」が確立され、生涯に亘って維持されるようになったのだが、逆にそうなってみると生物学的な「死」の手前に、その前駆としてではない「自伝的自己」の消滅が、「老い」によってもたらされることになった。ダマシオの記述を参照するならば、認知症の代表的な原因であるアルツハイマー病では、

「初期では記憶喪失が支配的で、意識は完全だが、この破壊的な病が進むと、しばしば進行的な意識低下が見られる。(…)この意識低下はまず延長意識に影響し、事実上、自伝的自己の様相がすっかり消えてしまうまで延長意識の範囲を徐々に狭めていく。そして最終的には中核意識も低下し、もはや単純な自己感さえなくなる。」(ダマシオ『無意識の脳 自己意識の脳』, 田中三郎訳, 2003, 講談社, p.138)

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 であるとするならば、要するに求められているのは、藤原辰史が『分解の哲学』において遂行したように「分解」「腐敗」を正面から取り上げること、そしてその顰に倣いつつ、だが、こと「老い」を扱うのであれば、『分解の哲学』が謂わば「死の向こう側」における「分解」に目を背けることなく取り上げたのに呼応して、「死の手間」における「分解」を取り上げることなのだと考える。

 『分解の哲学』第5章でも指摘されていることだが、分解者という捉え方は、そういう捉え方をすることで色々なものが見えてくる点で極めて生産的ではあるが、厳密に定義しようとすると、どこかで輪郭がぼやけてしまって、必ずしも安定的な概念ではない。それでも敢えて私なりの立ち位置から定位しようとすると、第一義的にはそれは(ジャンケレヴィッチではないが)「死の向こう側」ということになるように思う。「死」自体も、近年、研究と医療等の現場との両方の水準で、その定義が問題になっているように決して自明なものではないのだろうが、その点は一先ず措いて、それでも「死」は誰にとっても明らかな障壁であり、それがゆえにその向こう側、「死」の後で起きることについてはなかなか思いが及ばないところを「分解」の視点は探り当てているのだと思う。

 同じく第5章には生態学に経済学的な概念が密輸されているという指摘があり、これは首肯できる。私が子供の頃に「オダム生態学」を読み、生態学の研究者になることを思い描きつつも、結局生態学ではなく哲学に向かった理由とも関わるのだが、「生産」と「消費」という切り口では見えないものに拘りたく、「分解」という視点がそれを開示していることを心強く感じる一方で、分解が生態系のシステムの中で新たな「生産」に繋がっていく循環の重要な側面であるという捉え方は(そこにある違いを無視すべきではないとはいえ)、ヨハネ伝の「一粒の麦」がそうであるような、「死」が新たな「生」に繋がるという考え方、或いは個体の死は種としての存続のいわば「応酬」であるという捉え方と同じく、それ自体は全く妥当でありながら、結局のところ、そこで「きえさる」もの、「死の手前」にあった「個」を別の水準に回収するということに通じているように感じるのである。

 勿論それは目を背けたくなったとてなくなるわけではない厳然たる事実であり、だからこそ「メメント・モリ」であり、『分解の哲学』でも「九相図」への言及が為されているのだろう。その一方で「分解」は「生」のプロセスの最中にも埋め込まれているという捉え方も可能で、例えば『分解の哲学』でも参照されている昆虫の変態はそのモデルの一つ(まさにスクラップ・アンド・ビルド)なのだと思うが、他方でこれは(そこの記述がそうなっているように)「死」もまた「生」の中に埋まっていう見方に通じ、プロセス時間論などでの「自己超越=死」と「生成」がリズムを刻むという不連続的・エポック的な時間把握にも通じるように思うし、生物学的な水準では、個々の細胞は死んで新しいものに置き換わることで個体レベルの生が成り立っているという見方(岩崎秀雄先生の指摘される、種/個体のレベルでの生/死の対立の一つ下の階層で、個体/細胞のレベルで生/死が対立しているという、生と死を巡っての階層的・再帰的な構造を思い浮かべるべきだろう)に通じると思う。

 そうしたことを考えながら、ふと感じたことは、「分解」を「生」の最中ではなく、文字通り「死の手前」に置いてみることができないのか、ということであった。これは物凄く卑近なレベルに単純化してしまえば「老い」「老化」を「分解の哲学」の中で扱うことができないだろうかということである。

 『分解の哲学』でも取り上げられているチャペックは若くして逝去したからか、「老い」を扱っていないように思われる。例えば『マクロプーロスの処方箋』では、現在なら特異点論者のトピックである「不死」を扱っているが、そこでは「永遠の生」への懐疑はあっても「老い」は正面から扱われていないように感じる。寧ろ「不死」は「不老」でもあって、これは特異点論者の論点でもあるし、それが依拠している今日の「不死化」の研究のアプローチでもあって「老いを防ぐこと=死なないこと」となっているように見える。他方、上述の「個」というものにフォーカスするならば、「死」の手前には、事実上「生」の一部として、「自伝的自己」の崩壊・分解としての認知症があり、これは喫緊の社会問題でもあり、個人にとっても多くの場合、他人事ではなく最初は二人称的・三人称的に、最後には、もしかしたら一人称的にも直面せざるを得ない身近な問題でもあろう。それ故に「老い」には直結しない「分解」として、外傷的な損傷や精神疾患もあるが、それらよりも「死の手前」に存在する「分解」として「老い」を取り上げる方が一層興味深く思われるのであろうか。

 もう一つだけ付言するならば、「老い」としての「分解」には、再生とか復活に繋がる側面はなく、経済学的な循環からは零れ落ちてしまうもの、回収困難なものではないかというようにも思う。そしてだからこそ現実の社会の問題として解決し難い難問なのだろうか、というようにも思う。もう一度読み返してから言うべきだろうが、記憶する限り、『人新世の「資本論」』でも「老い」が主題的には扱われていた記憶はない。

 そもそも「持続可能性」にとって「老い」はどのように位置づけられるのか?アルタナティヴとして提示されているであろう『人新世の「資本論」』の「脱成長」において、「老い」という側面は(存在するであろう幾つかの水準のそれぞれにおいて)どのような意味を持つのだろうか?といったような疑問も湧いてきて、些か短絡的ながら、「老い」について論じない「脱成長」の議論は、何か本質的なところで底が抜けているということはないのか?というようなことさえ思う。

 一方、それを思えば、対立する資本主義の上に成り立っている特異点論者の「老い」に対する立場は明快であり、主張の是非を措けば、寧ろそれを正面から取り上げているとさえ言えるかも知れない。だからといって技術特異点論者の言うことに共感できるかどうかは、また別の問題であろう。例えばアンチエイジングを「ピンピンコロリ」の達成と言い換える如き風潮が見られるが、実際に介護に一人称的・二人称的に関わっている身にとって「ピンピンコロリ」そのものが本人にとっても周囲にとっても有難いということは認めたとて、それが一人の人間にとっての生きる意味などとは無縁の水準でしか発想されていないように感じられてしまうし、老化をコントロールすることが「ピンピンコロリ」を実現するために「も」有効であることを仮に認めたとしても、それがどうして健康寿命を限界まで引き延ばす話になるのか、若返りのテクノロジーの話になるのか、果ては(でもそれこそが本当の目標なのだろうが)寿命さえも乗り越えるという話に繋がるのがは杳として知れない。

 だが、アンチエイジングという言葉の濫用や、それに類する情況はボーヴォワールの時代にも既にあった、否、「二分心崩壊」以降、常にそういう志向を人間は持っているのかも知れなくとも、そして仮に医学的・工学的技術としての「アンチエイジング」が、現在既に巷間に流布し、まるで「老い」が「悪」であり、絶滅すべき対象であるというドクサとは独立のものであったとしても、そうしたドクサに乗っかろうとしているのであれば、それを許容することは私にはできない。

 結局のところ私は、マーラーの後期作品にはっきりと読み取ることができるとかつても思思ったし、今でもその点については同様に思っている、「現象から身を退く」ことで「老年」のみが達成できる認識、境地というものに子供の頃から憧れてきていて、たとえ自分にそうした境地が無縁のものであったとしても、その価値を信じ続けたいし、今更手放す気もないのだと思う。

(2022.12.7-8 公開, 2023.3.16改稿, 2024.12.18 全面改稿, 12.30更新)

2024年5月12日日曜日

備忘:変形(ヴァリアンテ)の技法とゲーテの「原植物」とを巡る語録と証言について

 マーラーの「再現」の恐ろしさは、それが聴き手にもたらす、時としてそれ自体がトラウマになりそうな程強い情緒的なバイアスに由来する。「決定的な瞬間」においては、相転移が生じ、最早、それは単なる繰り返しとしての再現ではないこと、寧ろ、もはや元のようではない、音楽がもう引き返せないところまで来てしまったということを告げているが故にそうした強烈な情緒的な負荷が生じるのではなかろうか。

 こうしたメカニズムを支えている技術的な要素として、アドルノが指摘する「ヴァリアンテ(変形)」の技法が挙げられる。変形の技法によって、モティーフ、素材の持つ意味、引用の意義は変わる。それはライトモティーフではないし、同じモティーフの単なる反復でもない。アドルノはヴァリアンテの技法と時間性との関わりについて、以下のように述べている。
「彼のヴァリアンテは、時間を静止させるのではなく、時間によって生成し、さらにまた二度と同じ流れに乗ることはできないということの結果として、時間を生産するのだ。マーラーの持続は力動的である。彼の時間の展開のまったく異質なところは、物まねの同一性に仮面をかぶせるのではなく、伝統的な主観的力動性の中になお一種の物的なもの、つまりは以前に措定されたものとそこから生じたものとの間にある硬化した対照性を感じ取ることによって、時間に内側から身を任せることにある。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.128)
 彼の「再現」が文字通りの「反復」ではなく、「ヴァリアンテ」がもたらす対照性の効果によって、それが二度と戻ることのない過去に「かつてあった」ことがあり、今やそこから遥かに時間が経過したという決定的な感じを与えることで聴き手を震撼させ、戦慄させ、軽い恐慌状態にすら至らしめるということは言えるのではないか。

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 子供の頃の私が生態学の中でも特に植物生態学に惹かれた(住んでいた地方都市の書店で入手することのできた『オダム生態学』(水野寿彦訳, 築地書館)とオダムの『生態学の基礎(上・下)』(三島次郎訳, 培風館)はその頃の私のバイブルだった)原因の一つは、当時の私にとってのアイドルであったマーラーやヴェーベルンに影響を与えたゲーテの植物論だった。特に彼の「原植物」という発想の影響は明瞭で、彼らの作曲技法にもその反映が見られる。

 そのことに関連して、藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス, 2022)に、ベンヤミンのVarianteへの言及が含まれることを書き留めておくべきだろう。登場するのはブロースフェルトの『芸術の原形』を取り上げた第4章の、「ベンヤミンの評価」と題された節(同書, p.85以降)。ヴァリアンテに対する言及は更にその中で、ベンヤミンが1929年に書いた書評「花についての新刊」の内容を紹介する中で、書評の一部を引用するところ。 
藤原辰史『植物考』,生きのびるブックス, 2022, p.87
(…)つまり、植物の拡大写真は、「創造的なものの最も深い、最も究めがたい形のひとつ」に触れる。この場合、「形」というのは、さまざまなものが変形する以前のプロトタイプのようなものだ。ベンヤミンはこんなことを言っている。
この形を、大胆な推測をもって、女性的で植物的な生原理それ自身、と呼ぶことが許されてほしいものだ。この異形は、譲歩であり、賛同であり、しなかやなものであり、終わりを知らぬものであり、利口なものであり、偏在するものである。
 この場合、異形とはVariateで、原形をずらしたり、改変したり、変形したりしたもののことである。自然のものとしてこの世に存在する植物の形に、人間の作ったトーテムポールや、建築物の柱や、踊り子の動きを見ることができるのは、植物の「創造」の原理が、超越者の「発明」ではなく、なんらかの真似や譲歩や賛同を通じて「変化」していくという中心なき移ろいのようなものだからである、とベンヤミンは考えているようだ。
 上記のような『植物考』での指摘を踏まえれば、アドルノがマーラーについてのモノグラフで指摘している作曲技法としてのVarianteの手法は、ベンヤミンのそれと概念的にも明らかな共通点があり、無関係ではないのだろうと思う。私はベンヤミンは不勉強で、自分の興味があるテーマについて書かれた論考を摘まみ食いしているだけで全く疎いで、この点を実証的に裏付けることは手に負えかねるのだが。と同時に、このベンヤミンの「異形=ヴァリアンテ」という捉え方には、『植物考』においても当然参照されているゲーテの「原植物」との発想上のアナロジーを感じずにはいられない。(但し『植物考』でゲーテが参照されるのは、第7章 葉についてであり、これはゲーテが植物の原型を葉であると考えたことに基づいている。)

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 藤原辰史『植物考』の上で参照した部分を読んで、マーラーが、反復の忌避に関連させてゲーテの「原植物」について、シェーンベルクとその弟子達に語っているという証言をどこかで読んだように記憶しているのを思い出した。だが、どこで読んだのかが思い出せないため、マーラーが反復の忌避について語っている箇所、およびゲーテの「原植物」について言及している箇所を手元にある資料の上で跡付けてみることにした。

 当然そこにあるだろうと思って、まず最初にアルマの『回想と手紙』にあたったのが、豈図らんや、回想部分のエピソードにも書簡にもそれらしい記述を見出すことができなかったので、シェーンベルクとその弟子達に語った言葉だという前提なら、それが扱っている時期の点から対象外になるのだが、記憶が混乱している可能性も考慮して、マーラー自身の言葉の記録という点では最も充実し、信頼もおけるものである(それ故に「マーラーのエッカーマン」と言われているというゲーテ繋がりからという訳でもないが)ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想を参照すると、以下のような言葉が記録されている。
ナターリエ・バウアー=レヒナー『グスタフ・マーラーの思い出』(高野茂訳, 音楽之友社, 1988)
p.162 : 純粋な書法
(…)植物の場合に、一人前の木として花を咲かせ、枝を幾重にも伸ばした木が、たった一枚だけの葉からなる原形から成長していくように、また人間の頭がひとつの脊椎骨にほかならないように、声楽の純粋な旋律性を支配している法則は、豊潤なオーケストラ曲の錯綜した声部組織にいたるまで、保持されなくてはならない。(…)
p.350:シューベルトについて 1900年7月13日
(…)あらゆる繰り返しというものは、もうそれだけで嘘なのだ!芸術作品は、生命と同じように、常に発展していかなくてはいけない。そうでないと、そこから虚偽と見せかけがはじまる。(…)
p.431第五交響曲に関するマーラーの話
(…)とくに、一度でも何かを繰り返してはならず、すべてが自発的に発展しなくてはならない、という僕の原理(…)

上記では、最初の「純粋な書法」の節が、ゲーテの「原植物」を最も強く示唆するだろうが(ゲーテの名前こそ明記されていないが、葉を原型であるという考えは、既述の通りまさにゲーテのそれであることに留意されたい)、そこでの話題は反復の忌避ではなく、他方で反復の忌避について語られた部分の方は「原植物」への言及を欠いている。そうは言っても反復の忌避と「原植物」とのいずれもが、後年、シェーンベルクのサークルとの交流があった時期から遥かに遡って、若き日よりマーラーが一貫して抱き続けてきた考え方であることは確認することができるだろう。

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 ついで、ヴァルターの回想をあたってみる。こちらはアリストテレスのエンテレケイアに関しての言及はあっても、或いはマーラーの読書の対象となった科学の哲学的研究の例として、フェヒナーの『ナナー植物の精神生活』への言及はあっても、そしてマーラーの「知的世界に輝いていた太陽」(ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)p.192)としてのゲーテへの言及はあり、「ゲーテから驚くほど広汎な知識を汲みとり、つねに引用し、実に際限なき強健な記憶力を示した」(ibid.)という証言はあっても、「原植物」についての個別的な言及は見いだせないようだが、その替りにヴァリアンテについては以下のような言及が見いだせる。冒頭述べたマーラーの「再現」の持つ力との繋がりに関しては、ヴァルターの証言は、それの結果を「美しさ」としている点に微妙なずれはあるにせよ、その存在を支持するものと言えるだろう。
ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)
p.148
しかし、マーラーの心を強くひいたのは、与えられた主題の変形と拡大、すなわち変奏曲の基底となる「種々の変形(ヴァリアンテ)」が展開の重要な要素であった。そして、この変奏技術は、その後のかれの交響曲にいっそ立派な形式となって表現されて、かれの再現部と終結部とに美しさを加えたのである。

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 上記以外では、マーラーの音楽の思想的な背景を渉猟した研究文献として、フローロスのモノグラフの第1巻、Gustav Mahler I , Die geistige Welt Gustav Mahlers in Systematischer Darstellung, Breitkopf & Härtel, 1977 が真っ先に思い浮かぶ。だが、一瞥した限りでは「原植物」そのものに関する言及には行き当らなかった。また新しい文献にもあたって書かれており、現時点において日本語で書かれたマーラーに関する評伝として最も浩瀚なものであり、膨大な情報量を持つ田代櫂『グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平』(春秋社, 2009)の仔細を極めた索引においても、ゲーテの項目は立っていても、「原植物」を始めとするゲーテの自然科学的・自然哲学的著作そのものについての言及は見当たらない。
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 ということで、ここまでのところマーラーの側からの探索が手詰まりの状況なので、シェーンベルクとその弟子の側からのアプローチに切り替えることにする。とはいうものの、私がシェーンベルクのサークルのメンバーでその作品に網羅的に触れ、かつ多少なりとも文献に当たったことがあるのは唯一ヴェーベルンに限られるので、自ずとヴェーベルン関連の資料を当たることになる。ヴェーベルン自身のゲーテの「原植物」への言及としては、晩年、カンタータ第2番を作曲している時期に、ヴィリ・ライヒに宛てた書簡(1941年8月23日付)が有名だろう。これは竹内豊治編訳『アントン・ウェーベルン その音楽を享受するために』(法政大学出版局, 初版1974, 増補版1986、私が学生時代に入手して架蔵しているのは増補版の方)にも収められており、アドルノのヴェーベルン論やヴェーベルンの講演とともに読むことができるのだが、ここで問題にしているマーラーの言葉に関する限り、そのいずれにも「証言」にあたる記述は見つけることができない。

 結局、私が記憶していたのは、モルデンハウアーのヴェーベルン伝に収録されたヴェーベルンの日記の一部のようである。以下は、岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)に、著者自身による翻訳により引用された、その日記の該当箇所である(Moldenhauer, Anton von Webern: A Chronicle of his Life and Work, London, 1978 のpp.75-76)。見ての通り、第一義的には対位法に関する文脈であり、ヴァリアンテについてではないことに注意すべきだろう。だが、変奏に主題が移り、「展開」の仕方が問題となっているわけなのであるから、結論部分は結局、そういう話になるようにも読める。もっとも、マーラー自身は、「主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには」、旋律そのものの美しさが重要であると言っていて、ヴァリアンテの技法を持ち出しているわけではないが。
岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)
p.67 
シェーンベルクが、対位法の奥義を理解しているのはドイツ人だけだ、と述べたのがきっかけで、話は対位法へと向かった。マーラーは、ラモーなど、フランス・バロックの作曲家の存在を指摘し、一方、ドイツ圏では、バッハ、ブラームス、ヴァーグナーの名前を挙げるに留まった。「この問題に関しては、我々にとっての規範となるのは、自然だ。自然界においては、宇宙全体が、原始的細胞から、植物、動物、人間、そして、超越的な存在である神へと発展して行く。同様に、音楽においても、大きな構造は、これから生まれるべきもの全ての胚芽を包含する単一のモティーフから発展すべきだ。」ベートーヴェンにおいては、ほとんどいつでも、展開部において、新たなモティーフが現れる、と彼は言った。しかしながら、展開部全体は、単一のモティーフにより構成されるべきである。したがって、この点から言えば、ベートーヴェンは対位法の名手とは言い難い。さらに、変奏は、音楽作品において、最も重要な要素であるとも彼は述べた。主題は、シューベルトにおいて見い出されるように、真に特別な美しさを持つものでなければならない。主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには、それが必要なのだ。彼にとっては、モーツァルトの弦楽四重奏曲は、提示部の二重線で終わりだ、という。現代の創造的音楽家の使命は、バッハの対位法の技術とハイドンやモーツァルトの旋律性を一体化させることなのだ。
だが、それよりも重要な点は、ヴェーベルンの証言するマーラーの言葉には、ゲーテの「原植物」についての直接の言及がないことだろう。寧ろそこで語られるのは、マーラーが第3交響曲を構想した時に念頭に置いたことが、その標題のプランから強く示唆される、当時流行した自然哲学的な進化論的なイメージであったようだ。そして上記のマーラーの言葉を、ヴェーベルンの「原植物」(以下の引用文では「根源植物」)と結び付けているのは、実際には著者の岡部さんなのであった。
一方、再度、マーラーについての日記への記述に目を向ける時、今一つ、我々の目を引くのは、この大音楽家の「宇宙は単一の原始的細胞から発展し、構築される」という発言にヴェーベルンが強く魅かれていたと考えられることが。これは、後年、ヴェーベルンが繰り返し言及したゲーテの「根源植物」の概念をも想起させるものではあるまいか。(同書, p.68)
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 ところでマーラーが愛読し、影響を受けたと思われる植物に関する研究や考察としては、ゲーテだけではなく、フェヒナーの名を挙げなければ片手落ちの誹りを免れまい。しかも上で確認できたヴェーベルンが証言するマーラーの言葉に出てくるた自然哲学的な進化論的なイメージは、アルマやヴァルターの証言でマーラーが愛読していたことが知られているフェヒナーの思想に由来する可能性が高いようだ。実は、上では触れなかったが、フローロスのモノグラフの第1巻でもフェヒナーについては大きく取り上げられているし、田代櫂さんの評伝でも、ヴァルターが言及するゲーテの「モナド不滅説」を媒介にして、「指揮台の哲学者」という一節(p.153以降)において、マーラーが愛読した、フェヒナーを始めとする「自然科学的観念論者」についての紹介がある。であってみれば、ここでフェヒナーとマーラーとの関わりについてお浚いをすべきところであろうが、これは質・量ともに別に稿を立てて論じるべきテーマであろうし、今日の植物学の視点からマーラーの「ヴァリアンテ」を捉えなおそうとするならば、『植物考』でも参照されているマンクーゾのような立場の先駆としてフェヒナーを位置づけるといった作業が基礎工事として必要となるだろう。実際、マンクーゾとヴィオラの共著『植物は<知性>をもっている』(久保耕司訳, NHK出版, 2015)では、植物が「一般に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信している科学者」(同書, p.14)の一人として、ダーウィンの名前とともにフェヒナーの名前が挙げられているし、「どんな時代にも天才といわれる人々のなかには、植物に知性があるという説を支持する者がいた」(同書, p.20)例として再びフェヒナーの名前が挙げられているのを確認することができる。一方でマンクーゾが参照する文脈においては「知性」が問題になっているから、形態学的・発生学的なゲーテの「原植物」とは視点が異なり、それゆえゲーテの名前は登場しないのだろう。ここではマーラー自身が言及したゲーテの「原植物」と、ベンヤミンの「ヴァリアント」を介したアドルノの「変形の技法」の繋がりの指摘に留め、マーラーとフェヒナーとの関わりについては後日を期することとして、一旦この稿を閉じたい。

(2024.5.11初稿、12加筆・改題, 13加筆)

2020年4月4日土曜日

1892年、ハンブルクで…:マーラー祝祭オーケストラの公演延期に接して(2020.4.7追記)

 未知のウィルスが原因の伝染病の猛威の前には、深層学習によるAI技術のブレイクスルーがあり、シンギュラリティが論じられるようになっても尚、その実現には程遠い今の時点では、人間の営みの基本は歴史が証言する、これまで繰り返してきたものと大きくは変わらず、そこで一人ひとりが直面せざる得ない剣呑な状況や運命もまた、1世紀前と変わらないように感じられる。

 そういう状況の中でマーラーの伝記を紐解くとすぐに目に入るのは、マーラーがハンブルク市立劇場の指揮者を勤めていた時期にコレラの大流行に直面したという出来事であろう。1891年3月26日にハンブルク市立劇場の指揮者に就任したマーラーは、3月29日から5月末までの公演を指揮した後、1892年にはロンドンでのいわゆる「引っ越し公演」を大成功させている。休暇に入ったマーラーが8月16日から再開される劇場に戻ろうとしたまさにその矢先、ハンブルクはコレラの流行に襲われ、それは10月まで猛威を振るうことになるのだ。
 市立劇場の方は新しいシーズンを開始したものの、マーラーはコレラを避けるために休暇を延長し、流行が収束し始めた後、10月初旬になってようやくハンブルクに戻り、シーズン最初の指揮をしている。コレラの流行を知った時のマーラーの反応とその後の行動は、遺されたフリードリヒ・レーア宛の1892年8月の書簡およびアルノルト・ベルリーナー宛の8月から9月にかけての書簡によって窺い知ることができる。(邦訳のあるヘルタ・プラウコプフ編の1996年版書簡集では115番から118番まで、須永恒雄訳の邦訳では107~109頁を参照。)
 コッホによるコレラ菌の発見が1884年であり、今日当然のこととされる細菌が伝染病の原因であるという認識すら当時は未だその確立の途上にあった。衛生学的にも水道設備の近代化の途上であり、エルベ川から取水していた水道設備においては沈殿処理のみが行われ、緩速濾過処理が行われていなかったことがコレラ流行の原因であったようだ。今も残るハンブルク市庁舎の中庭にある女神ヒュギエイアの噴水は1892年のコレラ流行の犠牲者の追悼のためのものであるが、それは今日まで受け継がれている都市衛生の基本がそれによって確立する、衛生学上の画期をもたらす出来事だったようなのである。ちなみに北里柴三郎によるペスト菌の発見は1894年。北里柴三郎は1886年から1891年にかけてベルリンのコッホ研究所に留学し、そこでジフテリアと破傷風の抗血清を開発し、世界で初めて血清療法を発見するという成果を上げている。
 欧州を襲ったコレラの流行というのは勿論これ一度ではない。マーラーの時代に近いところでは1831年にベルリンを襲ったコレラの流行が思い起こされるだろう。一旦は避難をしたヘーゲルが、新学期の開始に合わせて未だ流行の収束していないベルリンに戻り、講義を再開して程なくコレラに罹患し病没したことは余りに有名であろう。既に弱冠31歳にして主著『意志と表象としての世界』を上梓したものの殆ど反響がなく、ベルリンで私講師として行った講義においても当時名声の絶頂にあったヘーゲルの講義に対抗して同じ時間に行ったこともあり、聴講者を獲得することに失敗したショーペンハウアーは、イタリア旅行を経てミュンヘンで病を得て療養のためにガシュタインに滞在した後、ドレスデンを経て1825年にはベルリンに戻り再び講義を行うが、1831年のコレラの流行に遭うと罹患を警戒してフランクフルトに移り、以後遂にベルリンには戻らなかった。そのショーペンハウアーの愛読者であったマーラーは、或いはショーペンハウアーの行動に倣ったものか、その行動は慎重であったように見える。
 1892年夏のコレラ流行当時のマーラーは今日第2交響曲として知られる作品の作曲の途上にあった。紆余曲折を経た第2交響曲が最終的に現在の姿をとるに至ったきっかけが1894年に療養先のカイロで没したハンス・フォン・ビューローの葬儀―ハンブルクのミヒャエリス教会で同年3月29日に行われれた―に参列した折、クロップシュトックの復活の賛歌が歌われたのに接したことであるのはあまりに有名な話だろうが、そのフォン・ビューローに第1楽章の初期稿である交響詩「葬礼」(Totenfeier)をピアノで聴かせたのは1891年11月のことであった。その時のフォン・ビューローの否定的な反応とコメントもまた人口に膾炙しているのでここでは繰り返すまい。

 コレラの流行がマーラーの創作に直接影響しているということは言えないだろう。だが、我々に遺されたその作品が、どのような状況で生み出されてきたかを知ることはその作品を理解する上で決して些末なことではあるまい。そうした背景の詮索は、えてして文学的・思想的な領域、稍々広くとっても美術や都市計画といった文化的側面を持つ領域に限定されがちだが、マーラーが、まさに上述の書簡の相手であるベルリーナー(彼は物理学者であり、アインシュタインの知己でもあった)のような友人を通じて当時の最先端の自然科学の知見についても豊富な知識を持ち、フェヒナーやヴントといった現代の心理学の先駆者の著作にも親しんでいたことは軽視さるべきではなかろう。
 既述の書簡のうちベルリーナー宛のものを読めば、ここでフォーカスしているコロナ禍への対応についてもマーラーはベルリーナーの助言を仰いで行動していることが確認できるし、一旦9月12日にハンブルクに戻ろうとしながら、ハンブルクでの流行が収まっていないなら、ハンブルクの北東、ウーレンホルストにあったベルリーナーの居宅に留まりたいと伝えている。(ちなみに1892年にコレラが流行したのは旧ハンブルク市街であり、アルスター川の対岸、エルベ川に沿って下流側にあるアルトナ市では水道設備に逸早く緩速濾過処理が導入されたことから流行を免れている。ベルリーナーの居宅のあったウーレンホルストは旧ハンブルク市街からアルスター湖を挟んで北東側、現在の大ハンブルク市では北地区に属しており、1842年のハンブルク大火の結果、アルスター湖の堤防の水位が下げられたことにより居住可能になった新しい街区であり、コレラの流行があった旧市街とは離れた場所にある。)マーラーの音楽の背後にある世界に対する認識は、それが一世紀前のものであることは確かだが、それでも今日我々が想像するよりは遥かに科学的な知性に裏打ちされたものかも知れないのだ。

 だが、それよりも今、新型コロナウィルスとの戦いのさなかにある我々にとって切実な接点は、ジュリアン・ジェインズの言う「二分心」以降、レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」以前の同じ「神なき時代」「隠れたる神」の時代を生きる同時代者としての、有限の寿命に限界づけられ、かつそのことを意識することを宿命づけられた存在としての共感ではなかろうか。
 コレラ禍を免れたマーラーも、後には猩紅熱が最愛の長女の命をあまりに早く断ち切ってしまう運命に直面し、更に自身もまた連鎖球菌による感染性心内膜炎により命を奪われることになる。それを思えば、第6交響曲のハンマーによる「運命の打撃」のうち残された二つは、二度の世界大戦でも二回の原爆投下でもなく、実は細菌との戦いとその敗北を予言したものであるという主張を誰かがしないとも限らないといった冗談はさておき、いずれも当時は不治の病であったものが、マーラーの没後間もない1928年に発見されたペニシリンをはじめとする抗生物質の開発で治癒可能な病気となったことはよく知られている。だが一世紀経って進歩はしたとはいえ、近年の例に限って思い出すままに挙げてもエイズ、新型インフルエンザ、SARS、そして新型コロナウィルスといった未知の病原菌との戦いは相変わらず繰り返されており、マーラールネサンスの時代には「治癒可能」と説明されることの多かった連鎖球菌による感染症についても、却って今日では耐性菌の出現による新たな脅威にさらされていることを思えば、相変わらず状況に変わりはなく、やはり「二分心」以降「シンギュラリティ」以前という同じ時代にマーラーも我々も生きているのだと感じずにはいられない。
 そして、細胞を持たず、自己複製の能力を持たない「生命」以前の存在であるウィルスが、マックス・テグマークの『Life3.0』によれば「自らのハードウェアを設計する能力」を持った結果、進化の軛を逃れた存在であるLife3.0への橋渡し役としての、謂わば「最後の生命」たる「人間」を脅かしているということを踏まえれば、それは「生命」以前と「生命」以後の抗争として捉えることさえできるのではないだろうか。

 日本では、西浦先生の疫学的数理モデルに基づくクラスタ―の早期発見と抑え込みという方策が、これまで素晴らしい成果をあげてきており、私も微力ながら、例えば「新型コロナウィルス感染症に関する専門家有志の会」(https://note.stopcovid19.jp/ )の活動に賛同したり、自分が置かれた条件の下で、医療関係者、医薬品販売などの生活インフラを担う方々の活動(それは仮に非常事態宣言が出ても、―日本では起きないようだが―ロックダウンが起きても止まることはない、否、止めることができないものであることを認識すべきであろう)を支援しているが、時々刻々と深刻さを増す感染者数の増加状況や各種記者会見などでお話を伺う限り、一刻の猶予を許さない状況に見える。
 例えば「新型コロナクラスター対策課専門家」(https://twitter.com/ClusterJapan)のtwitterでの西浦先生の説明によれば、2割が外出自粛するのではなく、8割が外出自粛して、必要最低限の2割だけが外出するようにならないと感染爆発が防げないと数理モデルは語っている。数理に対するフィーリングがあれば、今起きていることではなく、例えば2週間後におきるであろうことに基づいて今の行動を決めないといけないことは感覚で了解されることと思われる。求められているのは、そのことを感じとる知性であり、それに加えて今、自分からは見えないところで起きていることに対する想像力、更には未だ潜在的な状態にあって2週間後に起きることが想定されることに対する想像力なのではなかろうか。

 マーラーの音楽は、そうした我々の同伴者であり、「生命」以後への道行きから途中で落伍し脱落していく者に手を差し伸べてくれる存在のように感じられる。東日本大震災に遭遇した折、私の頭の中で鳴り響いていた音楽が聞こえなくなり、と同時に外界との間に膜ができたかのような無感覚な状態にしばらく陥ったことを思い出す。そこから抜け出すきっかけ、最初に再び私の頭の中に音楽が鳴り響いたのは、「計画停電」のさなか、自分が勤務するオフィスに向かうべく早朝の渋谷の街を歩いていた時だった。その直後に予定されていたジャパン・グスタフマーラー・オーケストラ(現マーラー祝祭オーケストラ)の第9交響曲の公演が、演奏会場として予定されていたミューザ川崎の被災により延期され、場所を変えて行われたことを思い出す。
 だが、今回の災厄における日常と非日常の切れ目というのはその時とは異なるように思われる。頭の中の音楽が絶えることはなく、あの時に沈黙を破って頭の中に突如として鳴り響いた第9交響曲第1楽章、練習番号8番の手前、Noch etwas zögernd, allmählich übergehen zu ... Tempo Iのところ、より正確には更にその5小節前あたり、ホルンのシグナルが途切れて、ヴィオラに導かれてヴァイオリンが入ってくるところ以降の、逍遥するうちに幾度か回帰することになる、あの清々しい水の流れを思い起こさせる楽節は、「生き延びる」ため、「存続する」ために強いられる、時々刻々の変化への対応が引き起こす長時間の緊張から解き放たれたふとした合い間に心の中で密かに響き出す。そしてその時私は、マーラーの音楽が自分のかけがえのない「同伴者」であること、一世紀前の異郷の地から流れ着いた「投壜通信」が、マンデリシュタムが言ったように、それを偶々拾い上げたかつての子供であった私宛のものであることを確認するのだ。

 来たる5月9日に予定されていたマーラー祝祭オーケストラの第3交響曲の演奏会を9月13日に延期することになったと音楽監督の井上喜惟先生からご連絡頂いたのは去る4月1日のことであった。専門家会議の定義する「感染拡大警戒地域」では、10人以上の集まりを控えることが要請されており、「生き延びる」ためにその要請に応じるならば、オーケストラにとっては公演は勿論、プローベも含めた組織としての活動を全面的に停止することを意味する。或る一つのオーケストラの公演中止に留まらず、全世界でこの状況が続く限り、マーラーの交響曲がその本来の姿でコンサートホールで鳴り響くことはないのだということの持つ意味を、マーラーファンは噛み締めなくてはならないのではなかろうか。だがそれはマーラーの音楽の「死」を意味するのではない。井上先生へは、有識者の見解を取り入れ、ますます深刻になりつつある状況の未来を冷静に見極められての決断に対する深い敬意をお返事としてお伝えしたが、ここで改めてその知性と想像力に対して敬意を表明したく思うとともに、来るべき公演が、こちらはあの感動的な震災後の第9交響曲の演奏会と同じく、マーラーの音楽が生き続けていること、そしてマーラーが今、ここで生きる我々の「同伴者」であることを力強く証明することを信じて疑わない。(2020.4.4初稿, 4.5補筆, 4.6加筆)

[追記] 公開後、岡田暁生先生より、農業思想史・農業技術史がご専門の歴史学者である藤原辰史先生の「パンデミックを生きる指針——歴史研究のアプローチ」(https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic)をご教示頂きました。藤原先生は、文中で「クリオの審判」を引き合いに出され、現下の状況で問われているのは「いかに、人間価値の値切りと切り捨てに抗うか」「いかに、感情に曇らされて、フラストレーションを「魔女」狩りや「弱いもの」への攻撃で晴らすような野蛮に打ち勝つか、である」と述べられていますが、これはまさに、藤原先生の文章をご紹介くださった岡田先生が訳された「ウィーン講演」の末尾においてアドルノが「生涯を通じて彼の音楽が味方したのは貧しい鼓手の若者、命を落とした歩哨、死者になってもまだ太鼓を叩かねばならない兵士であった。(…)彼の交響曲と行進曲は、あらゆる個別とあらゆる個人とをその下に跪かせる調教の類ではなく、不自由の最中にあっては亡霊の行列のようにしか響き得ない解放された人々の行列の仲間へと、彼らを次々に引き入れてやろうとするものだ」(アドルノ音楽論集『幻想曲風に』、岡田・藤井訳、128~9頁)と述べていることと呼応しており、マーラーの作品が担い、コミットする価値に通じるものがあると考えます。ご教示くださった岡田先生に感謝するとともに、素晴らしいテキストを発信してくださった藤原先生に、感謝の気持ちと敬意を表したく思います。(2020.4.7)