マーラーの「再現」の恐ろしさは、それが聴き手にもたらす、時としてそれ自体がトラウマになりそうな程強い情緒的なバイアスに由来する。「決定的な瞬間」においては、相転移が生じ、最早、それは単なる繰り返しとしての再現ではないこと、寧ろ、もはや元のようではない、音楽がもう引き返せないところまで来てしまったということを告げているが故にそうした強烈な情緒的な負荷が生じるのではなかろうか。
こうしたメカニズムを支えている技術的な要素として、アドルノが指摘する「ヴァリアンテ(変形)」の技法が挙げられる。変形の技法によって、モティーフ、素材の持つ意味、引用の意義は変わる。それはライトモティーフではないし、同じモティーフの単なる反復でもない。アドルノはヴァリアンテの技法と時間性との関わりについて、以下のように述べている。
「彼のヴァリアンテは、時間を静止させるのではなく、時間によって生成し、さらにまた二度と同じ流れに乗ることはできないということの結果として、時間を生産するのだ。マーラーの持続は力動的である。彼の時間の展開のまったく異質なところは、物まねの同一性に仮面をかぶせるのではなく、伝統的な主観的力動性の中になお一種の物的なもの、つまりは以前に措定されたものとそこから生じたものとの間にある硬化した対照性を感じ取ることによって、時間に内側から身を任せることにある。」(アドルノ『マーラー 音楽観相学』, 龍村あや子訳, 法政大学出版局, 1999, p.128)
彼の「再現」が文字通りの「反復」ではなく、「ヴァリアンテ」がもたらす対照性の効果によって、それが二度と戻ることのない過去に「かつてあった」ことがあり、今やそこから遥かに時間が経過したという決定的な感じを与えることで聴き手を震撼させ、戦慄させ、軽い恐慌状態にすら至らしめるということは言えるのではないか。
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子供の頃の私が生態学の中でも特に植物生態学に惹かれた(住んでいた地方都市の書店で入手することのできた『オダム生態学』(水野寿彦訳, 築地書館)とオダムの『生態学の基礎(上・下)』(三島次郎訳, 培風館)はその頃の私のバイブルだった)原因の一つは、当時の私にとってのアイドルであったマーラーやヴェーベルンに影響を与えたゲーテの植物論だった。特に彼の「原植物」という発想の影響は明瞭で、彼らの作曲技法にもその反映が見られる。
そのことに関連して、藤原辰史『植物考』(生きのびるブックス, 2022)に、ベンヤミンのVarianteへの言及が含まれることを書き留めておくべきだろう。登場するのはブロースフェルトの『芸術の原形』を取り上げた第4章の、「ベンヤミンの評価」と題された節(同書, p.85以降)。ヴァリアンテに対する言及は更にその中で、ベンヤミンが1929年に書いた書評「花についての新刊」の内容を紹介する中で、書評の一部を引用するところ。
藤原辰史『植物考』,生きのびるブックス, 2022, p.87(…)つまり、植物の拡大写真は、「創造的なものの最も深い、最も究めがたい形のひとつ」に触れる。この場合、「形」というのは、さまざまなものが変形する以前のプロトタイプのようなものだ。ベンヤミンはこんなことを言っている。この形を、大胆な推測をもって、女性的で植物的な生原理それ自身、と呼ぶことが許されてほしいものだ。この異形は、譲歩であり、賛同であり、しなかやなものであり、終わりを知らぬものであり、利口なものであり、偏在するものである。この場合、異形とはVariateで、原形をずらしたり、改変したり、変形したりしたもののことである。自然のものとしてこの世に存在する植物の形に、人間の作ったトーテムポールや、建築物の柱や、踊り子の動きを見ることができるのは、植物の「創造」の原理が、超越者の「発明」ではなく、なんらかの真似や譲歩や賛同を通じて「変化」していくという中心なき移ろいのようなものだからである、とベンヤミンは考えているようだ。
上記のような『植物考』での指摘を踏まえれば、アドルノがマーラーについてのモノグラフで指摘している作曲技法としてのVarianteの手法は、ベンヤミンのそれと概念的にも明らかな共通点があり、無関係ではないのだろうと思う。私はベンヤミンは不勉強で、自分の興味があるテーマについて書かれた論考を摘まみ食いしているだけで全く疎いで、この点を実証的に裏付けることは手に負えかねるのだが。と同時に、このベンヤミンの「異形=ヴァリアンテ」という捉え方には、『植物考』においても当然参照されているゲーテの「原植物」との発想上のアナロジーを感じずにはいられない。(但し『植物考』でゲーテが参照されるのは、第7章 葉についてであり、これはゲーテが植物の原型を葉であると考えたことに基づいている。)
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藤原辰史『植物考』の上で参照した部分を読んで、マーラーが、反復の忌避に関連させてゲーテの「原植物」について、シェーンベルクとその弟子達に語っているという証言をどこかで読んだように記憶しているのを思い出した。だが、どこで読んだのかが思い出せないため、マーラーが反復の忌避について語っている箇所、およびゲーテの「原植物」について言及している箇所を手元にある資料の上で跡付けてみることにした。
当然そこにあるだろうと思って、まず最初にアルマの『回想と手紙』にあたったのが、豈図らんや、回想部分のエピソードにも書簡にもそれらしい記述を見出すことができなかったので、シェーンベルクとその弟子達に語った言葉だという前提なら、それが扱っている時期の点から対象外になるのだが、記憶が混乱している可能性も考慮して、マーラー自身の言葉の記録という点では最も充実し、信頼もおけるものである(それ故に「マーラーのエッカーマン」と言われているというゲーテ繋がりからという訳でもないが)ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想を参照すると、以下のような言葉が記録されている。
ナターリエ・バウアー=レヒナー『グスタフ・マーラーの思い出』(高野茂訳, 音楽之友社, 1988)p.162 : 純粋な書法(…)植物の場合に、一人前の木として花を咲かせ、枝を幾重にも伸ばした木が、たった一枚だけの葉からなる原形から成長していくように、また人間の頭がひとつの脊椎骨にほかならないように、声楽の純粋な旋律性を支配している法則は、豊潤なオーケストラ曲の錯綜した声部組織にいたるまで、保持されなくてはならない。(…)
p.350:シューベルトについて 1900年7月13日(…)あらゆる繰り返しというものは、もうそれだけで嘘なのだ!芸術作品は、生命と同じように、常に発展していかなくてはいけない。そうでないと、そこから虚偽と見せかけがはじまる。(…)
p.431:第五交響曲に関するマーラーの話(…)とくに、一度でも何かを繰り返してはならず、すべてが自発的に発展しなくてはならない、という僕の原理(…)
上記では、最初の「純粋な書法」の節が、ゲーテの「原植物」を最も強く示唆するだろうが(ゲーテの名前こそ明記されていないが、葉を原型であるという考えは、既述の通りまさにゲーテのそれであることに留意されたい)、そこでの話題は反復の忌避ではなく、他方で反復の忌避について語られた部分の方は「原植物」への言及を欠いている。そうは言っても反復の忌避と「原植物」とのいずれもが、後年、シェーンベルクのサークルとの交流があった時期から遥かに遡って、若き日よりマーラーが一貫して抱き続けてきた考え方であることは確認することができるだろう。
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ついで、ヴァルターの回想をあたってみる。こちらはアリストテレスのエンテレケイアに関しての言及はあっても、或いはマーラーの読書の対象となった科学の哲学的研究の例として、フェヒナーの『ナナー植物の精神生活』への言及はあっても、そしてマーラーの「知的世界に輝いていた太陽」(ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)p.192)としてのゲーテへの言及はあり、「ゲーテから驚くほど広汎な知識を汲みとり、つねに引用し、実に際限なき強健な記憶力を示した」(ibid.)という証言はあっても、「原植物」についての個別的な言及は見いだせないようだが、その替りにヴァリアンテについては以下のような言及が見いだせる。冒頭述べたマーラーの「再現」の持つ力との繋がりに関しては、ヴァルターの証言は、それの結果を「美しさ」としている点に微妙なずれはあるにせよ、その存在を支持するものと言えるだろう。
ブルーノ・ワルター『マーラー 人と芸術』(村田武雄訳, 音楽之友社, 1960)p.148しかし、マーラーの心を強くひいたのは、与えられた主題の変形と拡大、すなわち変奏曲の基底となる「種々の変形(ヴァリアンテ)」が展開の重要な要素であった。そして、この変奏技術は、その後のかれの交響曲にいっそ立派な形式となって表現されて、かれの再現部と終結部とに美しさを加えたのである。
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上記以外では、マーラーの音楽の思想的な背景を渉猟した研究文献として、フローロスのモノグラフの第1巻、Gustav Mahler I , Die geistige Welt Gustav Mahlers in Systematischer Darstellung, Breitkopf & Härtel, 1977 が真っ先に思い浮かぶ。だが、一瞥した限りでは「原植物」そのものに関する言及には行き当らなかった。また新しい文献にもあたって書かれており、現時点において日本語で書かれたマーラーに関する評伝として最も浩瀚なものであり、膨大な情報量を持つ田代櫂『グスタフ・マーラー 開かれた耳、閉ざされた地平』(春秋社, 2009)の仔細を極めた索引においても、ゲーテの項目は立っていても、「原植物」を始めとするゲーテの自然科学的・自然哲学的著作そのものについての言及は見当たらない。
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ということで、ここまでのところマーラーの側からの探索が手詰まりの状況なので、シェーンベルクとその弟子の側からのアプローチに切り替えることにする。とはいうものの、私がシェーンベルクのサークルのメンバーでその作品に網羅的に触れ、かつ多少なりとも文献に当たったことがあるのは唯一ヴェーベルンに限られるので、自ずとヴェーベルン関連の資料を当たることになる。ヴェーベルン自身のゲーテの「原植物」への言及としては、晩年、カンタータ第2番を作曲している時期に、ヴィリ・ライヒに宛てた書簡(1941年8月23日付)が有名だろう。これは竹内豊治編訳『アントン・ウェーベルン その音楽を享受するために』(法政大学出版局, 初版1974, 増補版1986、私が学生時代に入手して架蔵しているのは増補版の方)にも収められており、アドルノのヴェーベルン論やヴェーベルンの講演とともに読むことができるのだが、ここで問題にしているマーラーの言葉に関する限り、そのいずれにも「証言」にあたる記述は見つけることができない。
結局、私が記憶していたのは、モルデンハウアーのヴェーベルン伝に収録されたヴェーベルンの日記の一部のようである。以下は、岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)に、著者自身による翻訳により引用された、その日記の該当箇所である(Moldenhauer, Anton von Webern: A Chronicle of his Life and Work, London, 1978 のpp.75-76)。見ての通り、第一義的には対位法に関する文脈であり、ヴァリアンテについてではないことに注意すべきだろう。だが、変奏に主題が移り、「展開」の仕方が問題となっているわけなのであるから、結論部分は結局、そういう話になるようにも読める。もっとも、マーラー自身は、「主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには」、旋律そのものの美しさが重要であると言っていて、ヴァリアンテの技法を持ち出しているわけではないが。
岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』(春秋社, 2004)p.67シェーンベルクが、対位法の奥義を理解しているのはドイツ人だけだ、と述べたのがきっかけで、話は対位法へと向かった。マーラーは、ラモーなど、フランス・バロックの作曲家の存在を指摘し、一方、ドイツ圏では、バッハ、ブラームス、ヴァーグナーの名前を挙げるに留まった。「この問題に関しては、我々にとっての規範となるのは、自然だ。自然界においては、宇宙全体が、原始的細胞から、植物、動物、人間、そして、超越的な存在である神へと発展して行く。同様に、音楽においても、大きな構造は、これから生まれるべきもの全ての胚芽を包含する単一のモティーフから発展すべきだ。」ベートーヴェンにおいては、ほとんどいつでも、展開部において、新たなモティーフが現れる、と彼は言った。しかしながら、展開部全体は、単一のモティーフにより構成されるべきである。したがって、この点から言えば、ベートーヴェンは対位法の名手とは言い難い。さらに、変奏は、音楽作品において、最も重要な要素であるとも彼は述べた。主題は、シューベルトにおいて見い出されるように、真に特別な美しさを持つものでなければならない。主題が再現する度に新鮮な美しさを感じさせるためには、それが必要なのだ。彼にとっては、モーツァルトの弦楽四重奏曲は、提示部の二重線で終わりだ、という。現代の創造的音楽家の使命は、バッハの対位法の技術とハイドンやモーツァルトの旋律性を一体化させることなのだ。
だが、それよりも重要な点は、ヴェーベルンの証言するマーラーの言葉には、ゲーテの「原植物」についての直接の言及がないことだろう。寧ろそこで語られるのは、マーラーが第3交響曲を構想した時に念頭に置いたことが、その標題のプランから強く示唆される、当時流行した自然哲学的な進化論的なイメージであったようだ。そして上記のマーラーの言葉を、ヴェーベルンの「原植物」(以下の引用文では「根源植物」)と結び付けているのは、実際には著者の岡部さんなのであった。
一方、再度、マーラーについての日記への記述に目を向ける時、今一つ、我々の目を引くのは、この大音楽家の「宇宙は単一の原始的細胞から発展し、構築される」という発言にヴェーベルンが強く魅かれていたと考えられることが。これは、後年、ヴェーベルンが繰り返し言及したゲーテの「根源植物」の概念をも想起させるものではあるまいか。(同書, p.68)
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ところでマーラーが愛読し、影響を受けたと思われる植物に関する研究や考察としては、ゲーテだけではなく、フェヒナーの名を挙げなければ片手落ちの誹りを免れまい。しかも上で確認できたヴェーベルンが証言するマーラーの言葉に出てくるた自然哲学的な進化論的なイメージは、アルマやヴァルターの証言でマーラーが愛読していたことが知られているフェヒナーの思想に由来する可能性が高いようだ。実は、上では触れなかったが、フローロスのモノグラフの第1巻でもフェヒナーについては大きく取り上げられているし、田代櫂さんの評伝でも、ヴァルターが言及するゲーテの「モナド不滅説」を媒介にして、「指揮台の哲学者」という一節(p.153以降)において、マーラーが愛読した、フェヒナーを始めとする「自然科学的観念論者」についての紹介がある。であってみれば、ここでフェヒナーとマーラーとの関わりについてお浚いをすべきところであろうが、これは質・量ともに別に稿を立てて論じるべきテーマであろうし、今日の植物学の視点からマーラーの「ヴァリアンテ」を捉えなおそうとするならば、『植物考』でも参照されているマンクーゾのような立場の先駆としてフェヒナーを位置づけるといった作業が基礎工事として必要となるだろう。実際、マンクーゾとヴィオラの共著『植物は<知性>をもっている』(久保耕司訳, NHK出版, 2015)では、植物が「一般に考えられているよりも、ずっと優れた能力をもっていると確信している科学者」(同書, p.14)の一人として、ダーウィンの名前とともにフェヒナーの名前が挙げられているし、「どんな時代にも天才といわれる人々のなかには、植物に知性があるという説を支持する者がいた」(同書, p.20)例として再びフェヒナーの名前が挙げられているのを確認することができる。一方でマンクーゾが参照する文脈においては「知性」が問題になっているから、形態学的・発生学的なゲーテの「原植物」とは視点が異なり、それゆえゲーテの名前は登場しないのだろう。ここではマーラー自身が言及したゲーテの「原植物」と、ベンヤミンの「ヴァリアント」を介したアドルノの「変形の技法」の繋がりの指摘に留め、マーラーとフェヒナーとの関わりについては後日を期することとして、一旦この稿を閉じたい。
(2024.5.11初稿、12加筆・改題, 13加筆)
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