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GMW(Gustav Mahler Werke, グスタフ・マーラー作品番号:国際グスタフ・マーラー協会による)を公開しました。(2025.4.20)
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2024年6月24日月曜日

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:第3交響曲についての言葉に含まれるヘルダーリンへの言及

ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録:第3交響曲についての言葉に含まれるヘルダーリンへの言及(1984年版原書p.56, 邦訳(高野茂訳)pp.113-4)
Auch die Einleitung zum ersten Satz der Dritten entwurf er und erzählte mir davon: "Das ist schon beinahe keine Musik mehr, das sind fast nur Naturlaute. Und schaurig ist, wie sich aus der unbeseelten, starren Materie heraus - ich hätte den Satz auch nennen können: 'Was mir das Felsbebirge erzählt' - allmählich das Leben losringt, bis es sich von Stufe zu Stufe in immer höhere Entwicklungsfromen differenziert: Blumen, Tiere, Mensche, bis ins Reich der Geister, zu den 'Engeln'. Über der Einleitung zu diesem Satz liegt wieder jene Stimmung der brütenden Sommermittagsglut, in der kein Hauch sich regt, alles Leben angehalten ist, die sonngetränkten Lüfte zittern und flimmern. Ich hör' es im geistigen Ohr tönen, aber wie die leiblichen Töne dafür finden? Dazwischen jammert, um Erlösung ringend, der Jüngling, das gefesselte Leben, aus dem Abgrund der noch leblos-starren Natur (wie in Hölderlins 'Rhein'), bis er zum Durchburch und Siege kommt - im ersten Satz, der attacca auf die Einleitung folgt."

 彼は《第三交響曲》の第一楽章への導入部の構想もまとめ、それを私に話してくれた。「それは、もはや音楽というものではなく、ただ自然音だけ、と言ってよい。生命のない硬直した物質から――僕はこの楽章を、「岩山が私に語ること」と名付けてもよかろう――生命がしだいに身を振り離し、一段階ごとに、花、動物、人間といったより高度な発展形態に分化していって、最後に精神の領域、つまり「天使たち」にまで達する過程には、人をぞっとさせるものがある。この楽章の導入部には、ふたたびあの夏の熱気、息をつくものもなく、すべての生き物が動きを止め、太陽に酔いしれた空気が震え微動する、じりじりとした夏の真昼の灼熱の気分がみなぎっている。僕には、それが心の耳で鳴っているのが聞こえるけれども、どうやってそれに相応する実際の音を見出したらよいのだろう?そこでは、若者の縛られた生が(ヘルダーリンの『ライン』におけるように)まだ生命のない硬直した自然の底しれぬ深みから、救済を求めて嘆きを声をあげる。そして、導入部にすぐに続く第一楽章になって若者は解放され、勝利を得るのだ。」

マーラーがヘルダーリンを好んでいたのはアドラーの言及(Guido Adler "Gustav Mahler", 1916のp.43)から始まって、ヴァルターの回想 (邦訳第2編「反省」第3章「個性」p.192参照)やアルマの回想と手紙に含まれる書簡(1901年12月16日)でも証言されているが、 彼自身の証言として具体的な作品に言及しているのは、上に掲げた1896年夏のアッター湖畔シュタインバッハでの第3交響曲についての言葉と、 同じくバウアー=レヒナーの回想にある1893年7,8月のアッター湖畔シュタインバッハでの 「ワグナーの偉大さ」についての言葉のようである。言及されている作品はいずれも讃歌「ライン」で、「ワグナーの偉大さ」の方は第4節の'Das meiste nämlich vermag die Geburt, und der Lichtstrahl, der dem Neugeborenen begegnet'「つまり、生まれと生まれたばかりのときに出会った光線が、大部分を決めてしまうのである」が実際に 引用されている(1984年版原書p.33, 邦訳p.57)。
実を言えば、上に掲げた箇所は1923年版においては(wie in Hölderlins 'Rhein')という括弧に括られた補足の部分が欠けていることがわかる(1923年版原書p.40)。 この欠落の理由は定かではない。一方Dike Newlinによる英訳版の注ではマルトナーがここの部分で参照されているのは第2節の「冷気みなぎる淵より、 /救いを請い求める声を聞く。/大声でわめき、母なる大地に訴えるは、/ひとりの若者、、、」'Im kältesten Abgrund hört / Ich um Erlösung jammern / Den Jüngling, ... ' であることを述べている。ヴァルターの証言によれば、「ライン」は「パトモス」と並んでマーラーが特に好んだとのことだから、バウアー=レヒナーの回想で2度までも「ライン」に 言及するのはヴァルターの証言を裏づけていることになろう。特に上掲の部分は自作の第3交響曲第1楽章にちなんでの言及であるだけに、非常に興味深い。 第3交響曲におけるニーチェの影響は、第4楽章においてツァラトゥストラに含まれる詩が用いられていることもあって頻繁に言及されるが、ヘルダーリンの圏の中に それを置くことは、一層興味深いように感じられる。第3交響曲の音調が全体としてヘルダーリン的であるかどうかはおくとして、アルニム・ブレンターノとニーチェを、 デュオニソスとキリストを結ぶ不可視の結び目としてヘルダーリンを考えるのはそれほど突飛なこととは思われない。なお、フローロスのマーラー論第1巻では マーラーの精神世界を体系的に提示することが目論まれていて、ヘルダーリンについても手際よくまとめられている(II.Bildung のpp.58-9)。
 
ちなみにマーラーのヘルダーリンへの傾倒、とりわけ後期讃歌に対する評価が、ディルタイの「体験と詩作」(1905)やいわゆるゲオルゲ派による「再発見」、 更にはヘリングラート版の刊行(1913~1923)に先立つことは注目されて良いだろう。勿論「子供の魔法の角笛」の編者でもあるブレンターノやアルニムをはじめとする ロマン派の作家によるヘルダーリンの評価は 既になされていたし、シュヴァープ等による詩集の刊行は1826年(第2版は1842年)であるから、そうした流れの中でマーラーがヘルダーリンを発見したとしても 不思議はないのだろうが。実際、ド・ラ・グランジュのマーラー伝の1894-1895年の項(フランス語版第1巻p.495, 英語版第1巻p.303)には、フリッツ・レーアに対して、 アルニムとブレンターノの全集とともにヘルダーリンの作品集を送るよう依頼したという記述があるし、アルマの遺品の蔵書には1895年9月30日付けの序文を持つ 2巻本のヘルダーリン全詩集(コッタ社刊)が含まれている。(Perspective on Gustav Mahler 所収のJeremy Barham, "Mahler the Thinker : The Book of the Alma Mahler-Werfel Collection", p.85参照。ただし後者は序文の年月日からみて、前者とは別にアルマ自身が持っていて、マーラーがアルマへの書簡で言及したものと 考えるのが妥当だろう。)マーラーのヘルダーリンとの出会いがどこまで遡るかは最早はっきりしないのであろうが、少なくとも第2交響曲を完成させ、第3交響曲を 手がける時期にはマーラーはヘルダーリンに親しんでいたようだ。ド・ラ・グランジュの記述によれば、上記のレーアへの依頼は丁度第2交響曲のフィナーレに取り組んで いた時期にあたる。なおアルマ宛の書簡ではもう1回、1907年7月18日付け書簡でヘルダーリンの名前が、 今度はモムゼン、ベートーヴェンの書簡、ゲーテやリュッケルトとともに現れる("Ein Glück ohne Ruh'", Nr.212, p.325)。
 
ところで第2交響曲のフィナーレの歌詞がクロップシュトックの詩にマーラーが大幅な追補をしたものであることは良く知られているし、マーラー自身、それを「自作」のものであると 作品を仕上げている最中のベルリナー宛書簡(1894年7月10日)で述べているほどだが、その中の有名な一節"sterben werd'ich um zu leben"に関してヘルダーリンに ちなんで些か気になることがあるので書きとめておくことにする。マーラーは第2交響曲について後に1897年2月17日付けのアルトゥール・ザイドル宛の書簡において、 聖書を含むあらゆる文学書を渉猟しつくした挙句、ビューロウの葬儀で歌われたクロップシュトックに霊感を受けて終楽章を書き上げたと語っている。これだけ 読めば、その渉猟はビューロウの葬儀でクロップシュトックの詩に触れる以前となりそうだが、「自作」の詩が、つまりクロップシュトックの詩への追補が行われたのは、 まさに上に触れたレーアへのヘルダーリン作品集の送付依頼があった時期と考えるのが妥当であろう。以下の指摘において、マーラーがヘルダーリンを無意識的に 引用したとまで主張するつもりはないのだが、それにしても時期的な一致もあり、ザイドルの書簡における「渉猟」、ただしここではクロップシュトックの詩にいわば 導かれて「自作」の詩を書き上げる過程における読書の対象のうちにヘルダーリンが含まれていた可能性を示唆するように思われるのである。
 
「ヒュペーリオン」第2巻第2部のあの「運命の歌」を含むベラルミンに宛てた長大な書簡にはディオティーマからヒュペーリオンに宛てられた最後の手紙の長大な 引用が含まれるが、その中に「わたしたちは生きるために死ぬのです」(Wir sterben, um zu leben.)という言葉がある。続けて神々の世界では「すべてが平等」で 「主人も奴隷もいない」と語られ、その少し後にはヨハネの黙示録への暗示もあるこのくだりは、第2交響曲のフィナーレとぴったりと重なるわけではないが、 マーラーが色々な人に対して語ったと伝えられるプログラムの内容と呼応するところが少なくないように思われる。この程度の類似は他にもあるかも知れないし、 いわゆる実証的な裏づけはないわけで、これらをもってヘルダーリンのマーラーに対する影響を云々しようとは思わないが、マーラーにおける「復活」「再生」に ついての考え方、のちにはゲーテの「ファウスト」第2部を用いて再び展開される考え方の、控えめに言っても地平を形成しているとは言えるだろう。否、ヒュペーリオンの 結末、更にはそれが遠くまだ幽かに予見する1806年以降の、スカルダネリの署名を持つものを含んだヘルダーリンの後期詩篇の風景は、こちらもまた 第8交響曲を超えたマーラーの後期を、とりわけシェーンベルクが(フローロスの指摘によれば、マーラーがヘルダーリンに対して用いた言い回し"Ganz-Großen"を シェーンベルクが今度はマーラーに対して用いている)プラハ講演で「われわれがまだ知ってはならないような、われわれがまだそれを受けとめるところまでには 熟していないようななにごとかがわれわれに語られているかにみえる」(酒田健一訳、「マーラー頌」p.124)と述べた第10交響曲の世界を寧ろ示唆しているとさえ 言えるかも知れないと私には感じられるのだ。(2010.11.23)

2023年11月20日月曜日

フリッツ・レーア宛1885年1月1日付けカッセル発の書簡にある「ゼッキンゲンのラッパ手」についての言葉(2023.11.20更新)

フリッツ・レーア宛1885年1月1日付けカッセル発の書簡にある「ゼッキンゲンのラッパ手」についての言葉(1924年版書簡集原書23番, p.33。1979年版のマルトナーによる英語版では29番, p.81, 1996年版に基づく法政大学出版局版・須永恒雄邦訳では32番, p.37)
(...)
Meine "Trompetermusik" ist in Mannheim aufgeführt worden und wird demnächst in Wiesbaden und Karlsruhe aufgeführt werden. Alles natürlich ohne das geringste Zutun von meiner Seite. Denn Du weißt, wie wenig mich gerade dieses Werk in Anspruch nimmt.(...)

(…)僕の≪トランペット吹きの音楽≫はマンハイムで演奏されたが、続いてヴィースバーデンとカールスルーエでも演奏されることになっている。万事がもちろん、一切僕の関与なしにだ。だって、君もご存じのとおり、この作品はまったく僕にとっては物の数には入らないのだ。(…) 

この手紙をここに引いたのは「ゼッキンゲンのラッパ手」の再演に関する言葉が含まれるためだが、実はこの新年に書かれた手紙は「さすらう若者の歌」の 創作に関連して引用されることの方が遙かに多い。実際、この手紙の主題はそちらにあって、引用した部分はまるで「ついで」のように触れられているに 過ぎないのだ。というわけで、上記の引用の前後に記述されている「さすらう若者の歌」に関係する部分は、別の機会に是非紹介したい。
ここでは半年前には「大変に満足」していた筈の「ゼッキンゲンのラッパ手」に対する冷めた態度が印象的だが、それが「さすらう若者の歌」創作にまつわる 状況と心境の変化とともに語られていることが私には興味深く感じられる。それでもマーラーはこの後交響詩「巨人」において一旦は、その両者を「引用」する。 最終的には第1交響曲に改訂する際に「花の章」を削除することで、「ゼッキンゲンのラッパ手」を抹殺してしまうのであるが。
なお、言及されているマンハイム、ヴィースバーデン、カールスルーエのうち再演が確認されているのは、ラ・グランジュによればカールスルーエのみとのことである。 ちなみに英語版書簡集には、カールスルーエでの演奏の予告が収録されている。それによれば日付は1885年6月5日なのだが、これはラ・グランジュの1973年の 英語版の記述(6月6日)とも、フランス語版第1巻の記述(6月16日)とも一致しない。後者は恐らく誤植だろうが、前者もまた、その可能性がある。 ラ・グランジュが上演を確認した資料がマルトナーが書簡集で紹介した演奏予告とは別のものなのかどうか確認する術がないので、誤植なのか 予告より遅れて上演されたのかは判断できない。ラ・グランジュの著作は大部なせいか、この類の誤植は少なくなく、資料として使おうとすると 他の文献との矛盾が見つかることがしばしばで厄介である。(2007.12.26, 2023.11.20邦訳の情報を追加)

2007年12月26日水曜日

フリッツ・レーア宛1884年6月22日付けカッセル発の書簡にある「ゼッキンゲンのラッパ手」についての言葉

フリッツ・レーア宛1884年6月22日付けカッセル発の書簡にある「ゼッキンゲンのラッパ手」についての言葉(1924年版書簡集原書18番, p.27。1979年版のマルトナーによる英語版では24番, p.77,  1996年版に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編, 『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では27番, p.32)
(...)
Ich habe in den lezten Tagen über Hals und Kopf eine Musik zum "Trompeter von Säkkingen" schreiben müssen, welche morgen mit lebenden Bildern im Theater aufgeführt wird. Binnen 2 Tagen war das Opus fertig und ich muß gestehen, daß ich eine große Freude daran habe. Wir Du Dir denken kannst, hat es nicht viel mit Scheffelscher Affektiertheit gemein, sondern geht eben weit über den Dichter hinaus. Deinen Brief erhielt ich eben, als ich die letzte Note in dir Partitur schrieb; wie Du wohl fühlen wirst, schien er mir mehr eine himmlische als irdische Stimme.(...)

(…)ここ何日か大急ぎで、「ゼッキンゲンのラッパ吹き」のための音楽をやっつけなければならなかった。そいつは明日、劇場で舞台をつけて上演される。二日以内で仕上げたが、正直言っておおいに楽しんだ。君も察するとおり、その曲はシェッフェル流の気取りを必ずしも受け継がずに、まさしく詩人をはるかに凌駕するものだ。総譜に最後の音符を書き付けている折も折、君の手紙を落手。君もきっと感じているだろうが、この手紙は僕にはこの世のものというより天上の声のように思われたよ。(…) 

マーラーの第1交響曲が、その初期の形態では2部5楽章からなる交響詩「巨人」として構想され、その第2楽章には現在では削除された「花の章」が 含まれていることは、今や良く知られていることだろう。第1交響曲の成立の経過の詳細はここでは割愛するが、その更に前史にあたる過程として、「花の章」が 「ゼッキンゲンのラッパ手」という劇付随音楽に由来することにちなんで小文をまとめたので、それにちなんで、ここではその「ゼッキンゲンのラッパ手」の作曲に まつわる書簡を紹介する。早くも半年後には否定的に眺められ、最終的にはマーラー自身により見放される作品だが、それにも関わらずここでのマーラーは、 作曲を終えたばかりの亢奮と高揚の裡にいるように見受けられる。(2007.12.26 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)

2007年5月16日水曜日

フリードリヒ(フリッツ)・レーア宛1894年の書簡にある読書に関するマーラーの言葉

フリードリヒ(フリッツ)・レーア宛1894年の書簡にある読書に関するマーラーの言葉(1924年版書簡集原書89番, p.103。1979年版のマルトナーによる英語版では119番, p.153,  1996年版に基づく邦訳:ヘルタ・ブラウコップフ編, 『マーラー書簡集』, 須永恒雄訳, 法政大学出版局, 2008 では135番, p.124)
... Bücher "fresse" ich immer mehr und mehr! Sie sind ja doch die einzigen Freunde, die ich mit mir führe! Und was für Freunde! Gott, wenn ich die nicht hätte! Alles vergesse ich um mich herum, wenn so eine Stimme von "unsere Leut" zu mir tönt! Sie werden mir immer vertrauter und tröstender, meine wahren Brüder und Väter und Gliebten.

(…)書物を僕はますます「貪る」!書物こそ、歩みをともにする唯一の友だ!それはまた、なんという友だろう!神よ、もし僕にこれらの友がなかったとしたら!僕は周囲の一切を忘れ去る!書物は僕にはますます親しい、慰めをもたらすものとなる、兄弟、親、恋人、といってもいいくらいだ。 

マーラーの読書への熱中を告げる友人フリッツ・レーア宛書簡の一部。これはハンブルク時代に書かれたもので、時期としては丁度第2交響曲の作曲が―ビューローの葬儀をきっかけに―一気に進展する時期にあたる。(書簡の日付がわからないので正確なことはわからない。)
マーラーの読書への熱中は、その晩年まで続き、死の直前まで病床で哲学書―アルマが伝えるところによると、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの「生の問題」だった―を読んでいたという。
マーラーがどんな本を読んでいたかについては、別項に「本棚」としてまとめることにしたので、 そちらをご覧いただければ幸いである。(2007.5.16 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)