2007年5月31日木曜日

人物像:本棚

マーラーは読書家であったといっていいようだ。友人宛てへの書簡には、書物への愛情を語ったものもある。その読書の音楽への反映は、まずもって、声楽曲の歌詞として用いることだろう。更には、後に撤回されたとはいえ、 初期の交響曲、とりわけ最初は交響詩「巨人」であった第1交響曲の標題にも、その読書の反映が見られるだろう。ただしマーラーの読書傾向は、私見ではいわゆる「文学的」なものであったとは言い難いように思える。

一つには哲学的著作への好みがはっきりしていること。悪阻に苦しむアルマに純粋理性批判を読み聞かせたエピソードや、 死の直前に読んでいたのが(今日ではすっかり忘れられてしまっているが)エドゥアルト・フォン・ハルトマンの著作であったことは有名だが、 彼の狭義での文学作品へのアプローチもまた、哲学的な傾向が強いように思える。

もう一つは、当時勃興しつつあった近代的な自然科学への強い関心。彼はいわゆる「理系」の人間ではなかったようだし、 当時の自然科学は、いまだ哲学と分離し切れていない、ややもすると実証性よりは思弁が前に出てしまうような状況で あったようだが、それでもなお、彼の関心の方向性が(少なくとも当時の)文学固有の領域の外に及んでいたことは明らかだと 思われる。たとえ唯物論に対するマーラーの批判的な言葉が見出されたとしても、少なくともそれは、議論の対象ではあったし、 無視できるようなものではなかったように見受けられる。不滅性に関する考え方にしても、それは寧ろ現代人に近い折り合いの 付け方であって、理解を絶する信念のようなものではなく、絶えず懐疑に曝され、それ故常にそれなりに納得できる説明が 必要なものだったのではなかろうか。

三つ目は、同時代の文学潮流に対する留保。勿論、読んでいなかったわけではないだろうし、とりわけアルマと結婚して後は、 同時代の作家と直接知り合いになる機会も増えている。(何しろ彼は、今やウィーンの名士の一人なのだ。)それにしても、 マーラーの嗜好はその音楽同様、奇妙にアナクロニックで、そうした知り合いの詩作や劇作が己の創作に関わることはなかった ように見える。明らかに彼の関心は、過去の古典文学やロマン主義文学にあったのだが、それは恐らく、彼の生まれた場所や 階層、そして生い立ち(つまり、ボヘミア・モラヴィアの境界近いドイツ語の言語島である地方都市での同化ユダヤ人)に制約されて いるのだろう。名士になる前の彼にとっては、それなりに経済的にも成功し、教養への志向が強かった父親の書庫の影響が 大きく、都会の「洗練された趣味」は疎遠なものであったように思われるし、名士になった後も、基本的な志向は変化しなかった のではなかろうか。

こうした傾向は、多くの人にとっては鬱陶しいものかも知れないし、文学的なものに価値を置く人にとっては、洗練されない、 あるいはそれ以上に、文学的なものの固有の価値に無頓着な赦し難いものであると感じられるかも知れない。私個人に ついては、自分もまた文学的な人間では全くないので、こうしたマーラーの傾向は寧ろ親しみが持てるものだけれども。

以下は、様々なマーラーに関する文献に出現するマーラーの読書対象を並べたものである。出典等の情報は追って追加して いくつもりだが、主としてアルマによるマーラーの回想、ヴァルターによるマーラーの回想、そしてジルバーマンの「マーラー事典」を 典拠としている。より詳細にあたろうとすれば、Jeremy Barham (ed.), Perspectives on Gustav Mahler, Ashgate, 2005 所収のJeremy Barham, Mahler the thinker : The books of the Alma Mahler-Werfel Collectionを参照すべきだろう。 この論文は、アルマが遺した蔵書に基づき、マーラーの「本棚」を憶測するといった趣向のもので、ある本がどのマーラー文献で 言及されているかの追跡や、蔵書に残された書き込みの調査の結果まで記載されており、管見ではこの章の趣旨に照らした時に 最も網羅的で徹底的なものである。ただし、これはあくまでもアルマの蔵書だし、仮にマーラーの本棚にあったとしても、そのことが そのまま愛読書であったことを意味するわけではない。読んだ結果、否定的な評価を下す場合もあっただろう。(実際、書簡集には そうした否定的に言及されている同時代作家の例は少なくない。)献本の類は、別の意味で(例えばマーラーの交友の広がりを 知る上で)役に立つのだろうが、マーラーの嗜好を知る直接の手がかりにはなりえない。有名なところでは、第8交響曲の初演後、 トーマス・マンはマーラーに自著を送ったようだが、マーラーがそれを読んだかどうかは確認できない。一方で、マーラーがもっと 若かった時代から付き合いのあったヴァルターの回想には現われるが、アルマの蔵書には含まれないものも少なくない。というわけで 結局のところ、実証的な跡付けによりマーラーの嗜好がどこまで歪みなく再現できるかについては自ずと限界があるというべきだろう。 (2007.5作成, 2008.10加筆)

ジャン・パウル「巨人」「花と果実と茨の画(ジーベンケース)」「生意気盛り」他
ブレンターノ/アルニム「子供の魔法の角笛」
ニーチェ「ツァラトゥストラ」
リュッケルト
ゲーテ「ファウスト」他
ハンス・ベトゥゲ「中国の笛」
エッカーマン「ゲーテとの対話」
ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」
カント「純粋理性批判」
プラトン「饗宴」
フェヒナー「ゼンド・アヴェスタ」「ナナ―植物の精神生活」
ロッツェ「小宇宙」
エドゥアルド・フォン・ハルトマン「生の問題」
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」他
ヘルダーリン「パトモス」「ライン川」他
スターン「トリストラム・シャンディ」
ヴァーグナー/ヴェーゼンドンク往復書簡集
トルストイ「わが懺悔」
ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」
エッシェンバッハ「パルチヴァール」
ゴットフリート・フォン・シュトラスブルク「トリスタン」
ジョルダーノ・ブルーノ「灰の水曜日の宴」「勝ち誇る野獣の追放」
ランゲ「唯物主義の歴史」
セルバンテス「ドン・キホーテ」
デーメル「二人の男」
アンジェルス・シレジウス
シェークスピア
ラインケ
ガリレオ・ガリレイ
ヘルムホルツ
ダーウィン
ヘッケル
E.T.A.ホフマン
シラー
アリストテレス
グリルパルツァー
キーツ
ショッパー
イプセン
ハウプトマン
ヴェーデキント
アンリ・ベルクソン
ウィリアム・ジェームズ

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