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2024年5月27日月曜日

音楽の鳴り響く「場所」を求めて――第10交響曲クック版の再演に寄せて(2024.5.26 マーラー祝祭オーケストラ第23回定期演奏会によせて)

 マーラーの早すぎる逝去の後、未完成で遺された第10交響曲の受容の歴史は、ドラフトを演奏可能な形態にまで補筆する企ての歴史でもあった点で他の作品とは一線を画する。モノグラフ第二版へのあとがき(1963)、更には「グラフィックとしてのフラグメント」(1969)において表明された補作に否定的なアドルノの姿勢は、ブルノ・ヴァルター、エルヴィン・ラッツといった有力なマーラー擁護者とも共有され、国際マーラー協会の全集版では第1楽章のアダージョのみが出版され、演奏や録音においてもアダージョのみが取り上げられることが多かった一方で、ドラフトの一部のファクシミリの出版(1924)以降、様々な補作の試みが為されてきたことは、永らく実演においても録音においても頻繁に取り上げられてきたデリック・クックによる全五楽章からなる演奏用版に加え、新旧を問わず様々な補作版が演奏、録音されるようになった今日では最早人口に膾炙した事柄に属するだろう。更には近年のAIブームの最中にあって、2019年にはメディア・アートの分野で著名なArs ElectronicaにおいてAIによる補作が発表されたかと思えば、かつては特定の限られた人にしかアクセスできない、謂わば「秘教的存在」であったドラフトもパブリック・ドメインとなり、ネットワークを介して誰もがアクセス可能であることを思えば、第10交響曲の全貌は今や我々にとって明らかなものであるかの如くに感じられても不思議はなかろう。

一方で第10交響曲を巡っては、未完成作品であることも手伝って、他の作品にも増して多くのことが作品の周囲で語られてきた。その多くはドラフトに書き込まれた言葉や作曲当時の伝記的出来事を手掛かりにした標題に関する問いであったり、自伝的側面が強調されるマーラーの作品の中でもその度合いが著しいこの作品の成立と伝記的事実との関係の詮索であるが、それらは遂に作品そのものに辿り着かない感が拭えず、この曲が聴き手に与える印象の破格の強さ、その質の特異性を証言するものとしては、強い情動を伴う音楽の聴取経験に関する心理学実験における、この曲についての聴き手の証言の方が寧ろ勝っているようにさえ見える。

かつて私は第10交響曲のクック版を聴いて、ヘルダーリンの最後期の断片(Wenn aus der Ferne...「遠くから…」)を思い浮かべつつ、そうした「遠く」、人間が生きたまま到達できるとは到底思えない、辛うじて垣間見ることしかできない「場所」で鳴り響く音楽であると感じたのだったが、その感覚は数十年の後の今も変わることはない。シェーンベルクのプラハ講演(1912)の末尾は第10交響曲への言及で結ばれるが、そこではこの曲について「未だにわれわれが知る由もなく、未だに迎える覚悟もできていない何かがわれわれに授けられでもしそう」(アーノルド・シェーンベルク「グスタフ・マーラー」,『シェーンベルク音楽論選 様式と思想』, 上田昭訳, ちくま学芸文庫, 2019 所収, p.160)だと述べられている。そのシェーンベルクの顰に倣えば、 私は自分がまだそれを受け止めるところまでに熟しておらず、それを知ってはならないような気持ちに捉われてならない。そしてこの信じられない程の強度を持つフィナーレに圧倒されながら、自分が一体何を受け取っているのかをきちんと語ることが未だにできない。それが第9交響曲の先にあり、この作品によって第9交響曲や「大地の歌」に関する或る種の捉え方が否定されるのは確実だと思うのだが、さりとて音楽の鳴り響く場所がどこなのかを私はきちんと言えないのである。だがそういう場所があることを指し示す音楽の力は物凄いものだし、それを産み出すことが出来た人間が確かに居たということは、本当に感動的な、 それを思うだけでも胸が一杯になるようなことだし、音楽が示す風景を、所詮は音楽が終われば消え去る仮象として片付けてしまうことが、 この音楽について私は出来ない。どんなに大袈裟に響こうとも、知ってしまえば生き方が変わってしまう類の音楽であるという言い方はこの第10交響曲に関して、私個人に限って言えば誇張でも比喩でもない端的な事実なのである。

そうした例外的な音調をもたらすのに嬰へ長調という調性が寄与していることは疑いないだろう。それはオーケストラの楽器にとっては「鳴らない」調性であり、実現される音響にどこか朧気な雰囲気を与えているに違いない。一時は第1楽章のアダージョと対を為すフィナーレとして企図されたこともあったらしい第2楽章のスケルツォは決然とした嬰へ長調で終わるが、最終構想ではそこ迄を第1部とし、その後に「この世の営み」を示唆する変ロ短調の短い「プルガトリオ」によって開始され、スケルツォとフィナーレが続く第2部が置かれ、全体で二部五楽章制をとることによってマーラー固有のポリフォニックな多層性が実現することになる。フィナーレ末尾には調性の異なる二種の構想が存在するようだが、クックが選択したのは嬰へ長調の方であり、是非は措くとして、それによって音楽が持つことになる意味は決定的である。それはその帰結として生じる、この作品におけるニ長調の風景の特異性(フィナーレの30小節目から始まる、あの忘れ難いフルートソロの箇所を思い起こして頂きたい)からも明らかであろう。そしてその意味は第1楽章のアダージョのみではなく、全五楽章を聴きとおすことによって初めて確認可能となるのであって、このことを以てしてクックの補筆の意義は明らかなことと私には思われるのである。

客観的に見ればシェーンベルクの言葉は当時の状況に依存したものとして相対化してしまえるのかも知れないが、第10交響曲の全貌が明らかになったというのは思い上がりに過ぎず、未だそれが啓示されていないという認識は、一世紀後の今日も尚、有効であると私には思えてならない。シュトックハウゼンはド・ラグランジュのマーラー伝第1巻に寄せた文章において、宇宙人が人間を理解するという仮定におけるマーラーの音楽の卓越性を述べたが、二分心崩壊以後・シンギュラリティ以前の同じ「神の不在」のエポックの終端にあって、AIが補作を行うのを目の当たりにするようになった我々にとって、「人間の解体」の後に一歩踏み出しかかりつつも未完に終わった第10交響曲こそ、シンギュラリティの向こう側におけるポスト・ヒューマンにとっての音楽に関する重要な予感を告げる預言的な存在なのではなかろうか? 

かつて私は、第10交響曲は、第5交響曲にも比せられる転換を告げる作品なのではないかという仮説を提示したことがある。偶々この作品の生成の最中でマーラーの生涯が断ち切られたことによる行き止まり、終着点の印象とは裏腹に、それは次のエポックの開始を告げる音楽ではなかったか。その無調への接近に伴う和音の拡張に関して言えば、MIDIファイルを入力とした和音に関するデータ分析の結果もまた、マーラーが「発展的」な作曲家であることを裏付け、第10交響曲が未来に向かっての発展の途上にあることを証言している。この曲をある種の行き止まり、乗り越え不可能な限界とし、そこに西洋音楽の終焉を見る立場にも歴史的な正当性があるのだろうが、かつての「人間」の解体の後、シンギュラリティが現実味を帯び、機械が有機体と区別がつかなくなるポスト・ヒューマンの予感の最中、『再帰性と必然性』(原島大輔訳,青土社,2022)においてユク・ホイが試みるように、「非人間のなごり」を見出し、ありうべき「宇宙技芸」を思い描くことに共感する私は寧ろ、第10交響曲を通過点として第11交響曲がどのようなものになりえたかを問うマイケル・ケネディの姿勢に与したいように思うのである。第10交響曲を完成させ、更にその先にあるものを確認すること――それは過去のデータに基づく近似と汎化に基づき、例外的な「新しさ」をどうすることもできない現在のAI技術によっては到達困難であろうし、そもそも第10交響曲が垣間見せてくれる「遠く」の「場所」は遂にAIには無縁のものであろう――は、同じエポックの終焉を生きる「人間」ならぬ我々の責務なのではなかろうかと思えてならないのである。

演奏され、再演されることが音楽作品の成立に不可欠の条件であり、アドルノが傲慢にも言い放ったようにドラフトをファイルに入れて一人眺めることは、作品を奇妙な幽霊的な状態のまま辺土に幽閉するが如き仕打ちであることを思えば、演奏用バージョンを作成し、解説付きの放送により聴き手に届けようと企てた(一度きりの筈のその記録もまた、今やCD化されて我々の手元に届くようになっている)クックの功績の大きさは測り知れないし、その企てに接し、それまでの態度を翻して支援を行ったアルマの判断に我々は感謝すべきであろう。

そして第10交響曲が、同じ演奏者によって10年越しに再演されることの意義もまた明らかであろう。演奏の一回性に留まらず、指揮者が年を経るに応じて解釈は異なったものとなり、演奏もまた更新される。完成作と同様の資格では存在していない第10交響曲にとって、そうした地道な作業の繰り返しの積み重ねこそが、そもそもこの世に存在するための条件に他ならず、その行為によってのみ作品は都度新たに生を享け、未来に向けて新しい姿を浮かび上がらせ、それを受け止める準備が出来ているかを聴き手に問うのだということを、再演に接する一人一人が身を以て経験することになるだろう。そしてそれはプラハ講演の末尾のシェーンベルクの以下の言葉に対して、我々一人一人が応答することに他ならない。

「しかしながら、『第十』がまだわれわれに啓示されていない以上、われわれは闘いつづけなければならない。」 (2024.3.4初稿, 2024.5.27本ブログにて公開)


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