お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2007年7月15日日曜日

第8交響曲に関するヴェーベルンのことば

第8交響曲に関するヴェーベルンのことば(Kühn & Quander (hrsg.), Gustav Mahler : ein Lesebuch mit Bildern, 1982, p.171, 邦訳p.375)
Diese Stelle bei » accende lumen sensibus « -- da geht dir Brücke hinüber zum Schluß des » Faust«. Diese Stelle ist der Angelpunkt des ganzen Werkes.
第8交響曲というのは私にとっては最も大きな躓きの石である。その音楽の持つ力の否定し難さと、その力に対する懐疑が拮抗する。 しかもこの後に続くのは「大地の歌」、第9交響曲、第10交響曲といった後期作品なのだ。その力の大きさに応じて、懐疑もまた深いものにならざるを得ないかの ようだ。
第8交響曲に対してアドルノが批判的なのは良く知られているが、実はそのアドルノの文章にも微妙なニュアンスが感じ取れる。そしてそのアドルノがヴェーベルンが 指揮した演奏のaccende lumen sensibusの部分に特に言及していることを知っていると、ヴェーベルン自身が上のような発言をしていることは一層興味深く 感じられる。(アドルノが、この発言を知っていた、ということは大いにありそうなことだが、事実関係の確認はできていない。ご存知の方がいらっしゃれば、お知らせ いただけるようお願いしたい。)ヴェーベルンにはヴァルターが指揮したウィーン初演に際して、シェーンベルクに宛てた書簡(1912年3月16日付け)も残っていて、 そこではヴァルターの解釈に対してかなり否定的なコメントをしているのだが、ではヴェーベルンその人の解釈は一体どんなものであったか、勿論今となっては 知る術もない。だが、私が実演に接した経験からも、この曲に凄まじい力をもった表現が存在するのは否定し難く、恐らくアドルノもまた、実演を聴いた 印象を頭で考えた理屈で否定することができなかったのだろうと思う。(良し悪しはおくとして、こういう点ではアドルノは「率直」で、自己の経験に忠実な人で あったように思える)。 それは丁度、初期作品における些かなナイーブな「突破」Durchburchの契機を、けれどもこれまた否定しさることができないのと通じるところがあると思う。 私見では第8交響曲とは、全曲がその「突破」の一瞬そのものであるような、例外的な音楽なのだ。
今の私にはこの曲について、何ら断定的なことをいうことはできない。マーラーを熱心に聴かれている方の中には改めてこの曲を肯定的に捉えようとする論調も あるようだが、私は残念ながら説得的には感じられないし、少なくとも今のところそれには同意できない。今の私には晩年の(例えば第14交響曲の) ショスタコーヴィチの姿勢の方がよほど説得力があるように感じられ、従って後期の、「大地の歌」、第9交響曲、第10交響曲のマーラーには共感できても、 第8交響曲には距離を感じずにはいられないのだ。だが謎がなくなったわけではないし、この曲を「なかったことにする」わけにはいかない。 そして、引用したヴェーベルンの言葉はきっと謎に対する大きなヒントになるに違いない、という確かな「感じ」があるのも事実である。 マーラーが生涯において一度きり、一曲の音楽全体を「突破」として形作ったその中でも、accende lumen sensibusの箇所こそ、 まさに「突破」の契機が剥きだしになって聴き手を圧倒する一瞬なのは確かなことだし。
第8交響曲が「客観的に」ユーゲントシュティル的な装飾なのか、マイヤーの言う簒奪の最たるものかどうかすら、実はどうでもいいのかも知れない。 かく言うマイヤーもそう認めているようにここにも少なくとも誠実さはある。それが都合の悪い部分だとしても、それに目を瞑って素通りをして済ませるわけには いかない。少なくとも私個人は。 多分、私にとっては、個別の音楽よりもマーラーその人の方が問題なのだろう。お前は結局音楽を聴いているんではない、という批判があれば、恐らく 甘受せざるを得ないのだろう。そう、私もまた、マイヤーがマーラーについて言った「ディレッタント」として、マーラーの音楽に接してきたし、今でもそうしているし、 今後もそうし続けるに違いない。私はそのようにしかマーラーに接することはできないのだ。別に開き直るわけではないが、もしマイヤーの言うことが 正しいのであれば、マーラーに私のように接することもまた、それなりにマーラーに相応しいと言えるのではないかと言いたいようには感じている。(2007.7.15)

ハンス・マイヤー「音楽と文学」より

ハンス・マイヤー「音楽と文学」より(Gustav Mahler, Wunderlich, 1966, pp.145--146, 邦訳:酒田健一編「マーラー頌」p.356)
(...)
Gustav Mahler ist ein (großartiger) Usuroator : auch in der literarischen Sphäre, wie in seinem Verhältnis zur Natur, wie in der Auseinandersetzung mit den religiösen Bereichen. Mahlers Kunst ist in einem so exzessiven Maße dazu bestimmt, der Selbstaussage zu dienen, sie ist in ihren tiefsten Impulsen so ausschließlich Autobiographie, daß alles andere daneben nur als Vorwand zu dienen vermag. Dieser große Künstler verhält sich zur Literatur zunächst wie ein naiver Dilettant, der beim Lesen von Gedichten oder Romanen alles verschlingt, was der Identifikation zu dienen scheint, so daß er alle Aussagen der Dichter danach prüft, ob sie ein Wiedererleben eigener Zustände gestatten, all jene Seiten jedoch überschlägt, die dafür nicht zu taugen scheinen.
(...)
この言葉を含むハンス・マイヤーの論文は大変に面白いもので、その内容が刺激的な点では最右翼に位置づけられると思う。私見では必ずしも全面的に 賛成というわけではないが、その指摘には鋭いものがあって、とりわけ引用した文章は、マーラーの音楽のある側面を非常に的確に言い当てていると思う。 歌詞に対する態度など、それを裏付ける事実にも事欠かない。
ただし、私はそうしたマーラーの態度をあまり否定的には捉えていない。それどころかかつての私は「それがどうした、他にどういう立場があり得るんだ」とさえ 思っていたほどで、さすがに現時点ではそこまで一方的に言うつもりはないものの、やはりマーラーの「簒奪者」的な性格を決して否定的には考えられない。 一つには、私もそうした「ディレッタント」的な姿勢で、文学にも―そして同様に音楽に対しても―接しているからに違いないが、もう一つには、―ここでは 私はマイヤーに同意できないのだが―、マーラーが時代の趨勢からも、その身振りからもその嫌疑は十分にあるにも関わらず、最後のところで「芸術至上 主義者」であったとは私には思えないからでもある。(それは彼が第一義的に「音楽家」であったし、そう感じていたということと矛盾しない。)
一般にはここで問題になっているのは「音楽と文学」の力関係であると読むのが妥当なようだが、私個人としては少なくともマーラーの場合、その平面に 問題が留まることはないと感じている。あるいはまた、マーラーが亜流、終止符なのか、それとも新たな始まりなのかは、 異邦の別時代の人間であり、音楽研究者でも文学研究者でもない私には大した問題ではない。けれども、マイヤーの以下のような指摘―そこでは、 もはや「音楽と文学」の力関係など問題になっていないようだが―は(シャガールとカフカについては判断は控えたいが、少なくともマーラーに関しては) 的確だと思うし、矛盾に満ちて、些か強引ではあるが疑いも無く誠実であり、自分の立っている基盤の脆さについて意識していて、それが作品にも 映りこんでいるという、私にとってのマーラーの音楽の魅力と謎の源泉を言い当てているように感じられるのである。(2007.7.15)
(...) sie (= Mahler, Kafka, Chagall) sind auf der Suche nach einer neuen Naivität, der sie im Grunde mißtrauen. Aber diese Brüchigkeit eben haben sie in ihren besten Werken nach Kräften gestalten wollen. So entstand eine wahrhaftige Kunst, denn die bequeme Harmonie war ausgespart worden. (...)
同上(Gustav Mahler, Wunderlich, 1966, p.155, 邦訳:酒田健一編「マーラー頌」p.364)

2007年7月7日土曜日

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)第1章(p.9)より

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)第1章(p.9)より
Il n'avait pas cinq ans lorsqu'on lui demanda ce qu'il rêvait de devenir plus tard. La réponse de Gustav Mahler fut aussi surprenante que la question avait été banale : « Je veux être un martyr ! »
Sans doute Arnold Schoenberg ne connaissait-il pas cette anecdote et pourtant il allait s'exclamer, après la mort de Mahler : « Ce martyr, ce saint ... peut-être était-il écrit qu'il nous quittât? ... » Certes, l'histoire de sa vie suffit à détruire la légende aussi absurde que tenace d'un Mahler crucifié par les tragédies personnelles, les deuils, les drames et toutes les catastrophes qui forgent l'âme romantique. Quoi qu'il en soit, Mahler fut réellement un martyr et cela au sens littéral du mot, c'est-à-dire un homme qui met sa vie, toute sa vie en jeu pour sa croyance, un homme pour qui le sacrifice est accomplissement. Sa religion de la musique, son douloureux idéal de la perfection devaient en faire la victime désignée des philistins de la tradition, de la routine et de la facilité. Pour lui, l'acte de musique passait par la contrainte de soi-même, par la souffrance. Il sera donc un martyr de la musique au même titre que Flaubert un martyr des lettres.
同じくアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュのマーラー伝の今度は本文の冒頭である。子供の頃何になりたいかと聞かれて、殉教者になりたいと答えた このエピソードもまた有名なものだが、これを冒頭に置き、またしてもシェーンベルクの言葉を引きながら、マーラーが結局、音楽の殉教者であったという 規定をするところから、この長大な伝記が始まるのである。
個人的なことになるが、もう20年ちかく前に、このアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュの伝記ではなく、ドナルド・ミッチェルの研究の最初の巻を読んだ時に、 膨大な伝記的情報が、音楽を聴くことで自分の中に勝手に作り上げていたマーラーのイメージと一致せず、身勝手な親近感に冷水を浴びせかけ、 距離感をもたらすことになった経験がある。だから伝記には楽聖伝説の類を破壊する効果があるという言葉には頷けるものがある。否、楽聖伝説の 類には興味がなくても同じことだ。同じ中部ヨーロッパに住んでいるならまだしも、それは自己の想像力を遙かに超えた距離の向こう、時空の彼方にあるのだ。 評伝を幾つかと、とりわけアルマの回想録を、その内容をそらんじられるほど読んで、すっかりマーラーを「わかった」気になっている愚かな若造に対して、 自分の知らぬ人、自分の知らぬ土地やものをこれでもかとばかりに延々と提示することで、自分がわかったと思ったのがどんなに浅はかな思い込みに 過ぎないかを思い知らせる効果が、このような伝記には確かにあるのだ。量はここでは質的な効果を持っていて、結局、ある人の生の厚みを そのまま追体験することなど勿論出来はしない、そのわかりきったことを、ともすれば忘れてしまう浅慮を粉砕する強度は、まさにその量に由来するのだろう。
それでは、音楽の殉教者という規定の方はどうか?それは間違いではないのだろうと思うが、こちらもまた、私にとってはマーラーという人の「理解しがたさ」を 象徴するようにさえ感じられる。そうした人間の書いた音楽が自分を惹きつけるのは何故なのだろうか、あるいはまた、自分は本当にその音楽を 理解しているのだろうか、という問いは恐らくなくなることはないのだろうと思う。マーラーのような「時代の寵児」の伝記であれば、恐らく別の読み方― 時代を知るためのコーパスとして用いるような―もまた可能なのだろうが、残念ながら私にはそうした視点の移動はできそうにない。 私にとっては、マーラーの音楽の特異性がまずもって問題なのだから。それゆえ私にとって、伝記というのは直接謎に答えてくれる情報を提供してくれるものではない。 そもそも伝記もまた、「客観的な事実」を伝えるものではなく、ある人物の生の軌跡を浮び上がらせるために、できるだけ多くの視点を提供することに あるのだし。それゆえ必要に応じて伝記を参照することは、寧ろ、過度の熱中による思い込みを防ぎ、適当な距離感を持つために必要なものと 感じている。(2007.7.7マーラーの誕生日に)

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)序文(p.5)より

アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ「マーラー」第1巻(フランス語版, 1979)序文(p.5)より
« Si l'on savait comment Mahler nouait sa cravate, on apprendrait plus qu'en trois années de contrepoint au Conservatoire » : cette boutade d'Arnold Schoenberg suffira, nous l'espérons, à justifier aux yeux du lecteur la démesure de notre entreprise biographique.
マーラーの伝記的研究の金字塔とされるアンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュの「マーラー」はまず第1巻のみ英語で1973年に出版されたが、続巻が 刊行されること無く、増補改訂版第1巻が今度はフランス語で1979年に出版される。上記はこのフランス語版の第1巻の序文の最初の一文である。
フランス語版は結局3巻本、総ページ数で3000ページを超える大著となるが1984年に一旦完結する。しかし、その後更に増補・改訂の作業が 行われ、再び英語版で全4巻のうち第3巻までが現在刊行済み、最後の1冊もすでに刊行予告はされていて、その完結が待たれている状態にある。 永らく参照されてきたフランス語版も新しい英語版の完結によりその使命を終えることになるのだろう。その膨大な分量から、マーラー文献として 必ず言及されはしても、これまで日本語訳が刊行されたことはなかったが、そうこうしているうちに結局翻訳はなされずじまいになりそうである。
この大著の冒頭、このような大部な伝記を書くことの意義を述べるために、いきなりシェーンベルクのことばが引用されるのは非常に印象深い。 今日的な冷静な視点からは、この言葉はマーラーの「神格化」の証拠扱いされるのであろうし、アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ自身の時折あまりにも素朴な 伝記主義に留保がつくのもわからなくもないが、いずれにせよ、ある個人についてこれだけのドキュメントが書かれたという事実に対する驚きがそれに よって減殺されることはないだろうし、マーラーの音楽の魅力が、その生き様との密接な、そして(時として、あまりに)「誠実な」関係にあることも 否定することはできないだろう。(2007.7.7マーラーの誕生日に)

リヒャルト・バトカ宛1896年11月18日付けハンブルク発の書簡にあるマーラーの来歴についての言葉

リヒャルト・バトカ宛1896年11月18日付けハンブルク発の書簡にあるマーラーの来歴についての言葉(1924年版書簡集原書197番, p.213。1979年版のマルトナーによる英語版では185番, p.197)
(...)
Ich bin 1860 in Böhmen geboren, habe den größen Teil mainer reiferen Jugend in Wien verlebt. Seit meinem 20. Lebensjahre gehöre ich meiner äußeren Tätigkeit nach, dem Theater an. Ein Jahr hindurch (85--86) war ich auch als Kapellmeister in Prag tätig, wie Sie sich vielleicht noch erinnern werden. Als schaffender Künstler trat ich zum ersten Male mit der Ausarbeitung und Vollendung der "drei Pintos" von Weber vor die Öffentlichkeit; ein Werk, das seinerzeit auch in Prag unter meiner Leitung in Szene ging.
Komponiert habe ich seit meiner frühesten Jugend alles, was man nur komponieren kann. -- Als meine Hauptwerke bezeiche ich meine drei großen Symphonien, von denen die beiden ersten schon zu verschiedenen Malen, die letze (III.) nur mit einem Bruchstück -- eben dieses "in Schwung gekommen" (Blumenstück) -- zu Gehör gekommen sind. (...)
この書簡はマーラー自身による簡単な自伝的紹介とともに、当時の自己認識が伺える貴重な資料である。 Willi Reich編の1958年のアンソロジーGustav Mahler : Im eigenen Wort -- Im Worte der Freunde (Die Arche)では2月18日付けとされている。どうやら ローマ数字なのか、アラビア数字なのかの解釈の違いで2月説と11月説があるようだが、ここでは第3交響曲の完成時期(同年の夏)や第2楽章の部分演奏の 時期(同年11月9日、ニキシュ指揮ベルリン・フィル)などを考慮して、マルトナー版に従う。
宛先のリヒャルト・バトカはプラハのPrager Neue Musikalische Rundshauの編集者で、マーラーについての紹介記事を書くことを企画してマーラーに問い合わせを してきたものに応じたのが上記引用を含むこの書簡である。 すでにブダペスト、ハンブルクとキャリアを重ね、前年末には第2交響曲の全曲初演を成功させたマーラーが、すでに10年近く前のにヴェーバーのオペラの補作と 自分自身による上演について書いているのは、この書簡の背景を考慮すべきであろう。
マーラー自身がこの時点で自分を交響曲作家として認識していることはその後に続く文章より明らかであり、第3交響曲をその夏に完成させ、 第2楽章の部分上演がつい10日前に行われたばかりの時期であることを考え合わせるとマーラーの意気込みが伝わってくるように感じられる。
この書簡では、この後に第3交響曲の全曲演奏への期待とともに、有名な「ディオニュソスの神、偉大な牧神を誰も知らない」という言葉を含む解説が 続くのであるが、それはまた別の機会に紹介することとしたい。(2007.7.7 マーラーの誕生日に)