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2024年8月12日月曜日

ハンス・マイヤー「音楽と文学」より

ハンス・マイヤー「音楽と文学」より(Gustav Mahler, Wunderlich, 1966, pp.145--146, 邦訳:酒田健一編「マーラー頌」p.356)
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Gustav Mahler ist ein (großartiger) Usuroator : auch in der literarischen Sphäre, wie in seinem Verhältnis zur Natur, wie in der Auseinandersetzung mit den religiösen Bereichen. Mahlers Kunst ist in einem so exzessiven Maße dazu bestimmt, der Selbstaussage zu dienen, sie ist in ihren tiefsten Impulsen so ausschließlich Autobiographie, daß alles andere daneben nur als Vorwand zu dienen vermag. Dieser große Künstler verhält sich zur Literatur zunächst wie ein naiver Dilettant, der beim Lesen von Gedichten oder Romanen alles verschlingt, was der Identifikation zu dienen scheint, so daß er alle Aussagen der Dichter danach prüft, ob sie ein Wiedererleben eigener Zustände gestatten, all jene Seiten jedoch überschlägt, die dafür nicht zu taugen scheinen.
(...)

(…)
グスタフ・マーラーは一個の(壮大な)強奪者である。文学の世界においてもそうであり、自然との関係においてもそうであり、宗教的な領域との対決においてもそうである。マーラーの芸術は、はなはだしく自己陳述的な性格をもち、そのもっとも深い衝動においてまさに自伝以外のなにものでもなく、したがってそのほかの要素はすべてそのための口実として役立ちうるにすぎない。この偉大な芸術家は文学にたいしてなによりもまず素朴なディレッタントとしてかかわってゆく。つまり、詩や小説を読むさいに自己との一体化に役立つと思われるものだけをむさぼり食らい、それゆえ詩人たちのどんな言葉も、それらが自己の状態の再体験をもたらすものであるかどうかによって吟味し、それに役立ちそうにないページはすべて読みとばしてしまうのである。
(…) 

この言葉を含むハンス・マイヤーの論文は大変に面白いもので、その内容が刺激的な点では最右翼に位置づけられると思う。私見では必ずしも全面的に 賛成というわけではないが、その指摘には鋭いものがあって、とりわけ引用した文章は、マーラーの音楽のある側面を非常に的確に言い当てていると思う。 歌詞に対する態度など、それを裏付ける事実にも事欠かない。
ただし、私はそうしたマーラーの態度をあまり否定的には捉えていない。それどころかかつての私は「それがどうした、他にどういう立場があり得るんだ」とさえ 思っていたほどで、さすがに現時点ではそこまで一方的に言うつもりはないものの、やはりマーラーの「簒奪者」的な性格を決して否定的には考えられない。 一つには、私もそうした「ディレッタント」的な姿勢で、文学にも―そして同様に音楽に対しても―接しているからに違いないが、もう一つには、―ここでは 私はマイヤーに同意できないのだが―、マーラーが時代の趨勢からも、その身振りからもその嫌疑は十分にあるにも関わらず、最後のところで「芸術至上 主義者」であったとは私には思えないからでもある。(それは彼が第一義的に「音楽家」であったし、そう感じていたということと矛盾しない。)
一般にはここで問題になっているのは「音楽と文学」の力関係であると読むのが妥当なようだが、私個人としては少なくともマーラーの場合、その平面に 問題が留まることはないと感じている。あるいはまた、マーラーが亜流、終止符なのか、それとも新たな始まりなのかは、 異邦の別時代の人間であり、音楽研究者でも文学研究者でもない私には大した問題ではない。けれども、マイヤーの以下のような指摘―そこでは、 もはや「音楽と文学」の力関係など問題になっていないようだが―は(シャガールとカフカについては判断は控えたいが、少なくともマーラーに関しては) 的確だと思うし、矛盾に満ちて、些か強引ではあるが疑いも無く誠実であり、自分の立っている基盤の脆さについて意識していて、それが作品にも 映りこんでいるという、私にとってのマーラーの音楽の魅力と謎の源泉を言い当てているように感じられるのである。(2007.7.15 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)
(...) sie (= Mahler, Kafka, Chagall) sind auf der Suche nach einer neuen Naivität, der sie im Grunde mißtrauen. Aber diese Brüchigkeit eben haben sie in ihren besten Werken nach Kräften gestalten wollen. So entstand eine wahrhaftige Kunst, denn die bequeme Harmonie war ausgespart worden. (...)

(…)彼ら(=マーラー、カフカ、シャガール:引用者注)はあらゆるあらたな素朴さを求めつづけているが、この素朴さを彼らは根本的には信じていない。しかし彼らがそのもっともすぐれた作品において全力を尽くしてかたちづくろうとしたものこそ、まさにこのような脆さだったのである。こうして嘘のない芸術が成立した。なぜなら安易な調和は空白として残されたからである。 

同上(Gustav Mahler, Wunderlich, 1966, p.155, 邦訳:酒田健一編「マーラー頌」p.364)

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