Als in seiner Gegenwart einmal davon die Rede war, daß aus einem durchschnittenen Regenwurm zwei würden, indem die hintere Hälfte sich einen neuen Kopf zulege und selbständig weiterexistiere, rief Mahler sofort aus: »Dies wäre ein Beweis gegen die Entelechien-Lehre des Aristoteles.« Er war viel zu einsichtig und siener mangelhaften sachlichen Ausrüstung bewußt, um der wissenschaftlichen Bedeutung solcher Bemerkungen sicher zu sein; doch interessierten ihn Gedanken dieser Art zu heftig, als daß er sich mit der einfachen Aufnahme des Wissensstoffes beruhigt hätte; seine Denkenergie konnte nicht anders, als durch fachlich fundierte Widerlegungen zu tieferer Einsicht zu gelangen. Immer aber erregte die großartige Intuition, die aus seinen Bemerkungen in der Diskussion sprach, die Bewunderung seiner Freunde aus dem Gebiet der Wissenschaft.
又誰かがかれの面前でみみずを二つに裂き、二つの標本をつくって、後部が新しい頭を生やし、独立に生存しつづけるのを明示したとき、かれはたちまち、それはアリストテレスの質料の円現(エンテレケイア)の学理に対する証拠であると叫んだことがある。かれはかれの科学的準備の欠陥に対してよく気がつき又感づいていたので独断に走ることはなかったが、この種の科学的な問題について単に正確な知識だけで満足することはできなかった。かれの旺盛な思考活動は、かれをして問題に深く没頭せしめた。それだけに、これらの学理の基底を究明発見して、より進んだ理解力を得たとかれが確信したときの幸福さは、まったく説明のしようがなかった。論争中に、かれの所説に示されるすばらしい直観力は、かれの科学の友だちを感服せしめずにはおかなかった。
マーラーの自然哲学・自然科学への関心については別のところでも触れているが、このヴァルターの証言は、極めて具体的な例を挙げているという点で 鮮明な印象を残すものであろう。引用された部分の直前には、物理学における例も挙げられているが、ここでは生物学史における「生気論」と「機械論」の 対立の一齣の証言でもある、アリストテレスのエンテレケイアの理論についてのマーラーのアイデアに注目することにする。エンテレケイアの理論がアリストテレスに 端を発するということは言うまでもないことだが、マーラーの同時代においては、何といってもドリーシュのウニの胚の分割の実験結果に基づくいわゆる「新生気論」に おける胚発生の等結果性に対する説明原理としてのエンテレキーのことであったと思われる。もっとも、エンテレケイアについてはゲーテも述べており、ゲーテの 文学作品や対話記録のみならず、自然科学的な著作にも通じていたらしいマーラーはゲーテの説を思い浮かべていたのかも知れない。
マーラーが指摘している事象の方についていえば、これがミミズの中でも一部の種に見られる分裂による生殖を指すのか、トカゲの尻尾と同様の再生のことを 指すのか、両方の可能性もあるだろう。ワルターの記述をその通りに読めば前者であろう(なぜなら後者の場合には、プラナリアのような場合とは異なって、 分断された2つの部分のうち頭部の方には尾部が再生するが、尾部の方には再生が見られないからである)が、いずれにしても、最終の典型的生物体を 目的として予想しつつ現象を補正していく要因としてのエンテレキーの考え方を踏まえたコメントをマーラーはしていると思われる。
ところで私のドリーシュの主張に対する知識は、ドリーシュの著作そのものに拠るのではなく、フォン・ベルタランフィの"Das biologische Weltbild I , Die Stellung des Lebens in Natur und Wissenschaft", 1949、邦訳:「生命 有機体論の考察」, 長野敬・飯島衛共訳, みすす書房, 1954によるのだが、 フォン・ベルタランフィは1901年にウィーンの近郊に生まれているから、勿論直接的な関係はないにせよ接点のようなものはあるわけで、何より、「生命」という 著作が、ドリーシュのエンテレキーの理論から始まり、ゲーテの「ファウスト」の一節でしめくくられるということからも同じ文化的な世界に属しているというように 私には感じられる。
フォン・ベルタランフィも明確に述べているように、ドリーシュの「新生気論」そのものには(そうしたことを企てる動きもあるだろうが)今日に おいては最早過去の遺物、理論的には(フロギストンやエーテルがそうであったように)端的に「誤り」であるというのが適当だろうが、フォン・ベルタランフィ自身が 述べるように、その発想は有機体論に受け継がれているというように考えることもできるだろう。「誤り」という点においては当時の機械論もまた同様に誤りで あったと言うべきだろうし、今日では「情報」と呼ばれているものを極めて不正確ではあれ、予感していたのだという見方もできるかも知れないのである。 ただしそれはあくまでも「予感」に過ぎず、説明としては全く不充分なものであった。例えばゲーテの形態論には、ジョフロワ・サンティレールとともに、 「器官の平衡」のような考えがあるが、それはフォン・ベルタランフィが見出したような動的な平衡ないし定常状態として、開放系動力学に基づいた 定量的な法則を備えた形態形成理論によってようやく十全な説明が行われるものの現象論的な観察に過ぎない。科学史的な関心は別の意義が あるだろうが、今日においてそうした過去の理論をそのままなぞることは不毛な結果、いわゆる「知の欺瞞」にしかならない。これまたフォン・ベルタランフィが言うとおり、 単なる「相似性」による許しがたい偽りの類比やそこから生じる誤った判断は、論理的な相同性に基づくシステム論的な方法論により締め出されるべきなのである。
翻ってマーラーの音楽について述べられていることを顧みれば、ここでは生命ではなく、文化的な創造の産物が対象なのではあるが、機械論と生気論の 対立にも似た状況があるように思われる(これ自体が偽りの類比ではないということを証明することはここではできないが、そうではないと私は考えている。) マーラーの音楽のような複雑な対象の説明のための語彙は未だに十分には整備されていない一方で、粗雑で検証に耐えないような比喩や類比、 音楽そのものに辿り着かない別の平面をなぞるだけに終始している標題に関する議論が跋扈している。実際にマーラーの音楽を演奏し、聴取する時に 起きていること、演奏する主体の、聴取する主体の行為を説明するための理論が欠けていて、とりわけても優れた演奏が掴んでいる何か、そこで生じている 出来事の構造の記述があまりに不完全な仕方でしかできていないというように私には感じられる。
勿論、作曲家の側がそれを「神秘」と見做し、説明を拒絶する場合もあるだろう。マーラー自身、自作の分析や解説の類に懐疑的であったという証言が 多数あるのだが、私見ではマーラーの場合には、その説明の手段の貧困と、その直接的な帰結である結果の貧困、許しがたい歪みや誤りを拒絶したのだ。 そして、今日マーラーの音楽を受け止める時に、そうしたマーラーの態度を楯にとってマーラーと同時代と同じレベルの記述・説明に終始するのは、 マーラー自身の志向に反しているのではというように私には思われてならない。勿論、その一方で、既に半世紀以上も前に書かれたフォン・ベルタランフィの 著作を梃子に、せいぜいが四半世紀前までに提唱された理論(一般システム理論、情報理論、サイバネティクス、人工知能、脳神経科学、精神の生態学、 オートポイエーシス、いわゆる「複雑性」についての様々な理論はどれも皆、全てそうである)の中に未だにいて、なおかつ何よりも一世紀前のマーラーの音楽への 拘りを捨てられない私のあり方自体のアナクロニズムについては認めざるを得ないのだが、、、(2013.1.20 執筆・公開, 2024.8.12 邦訳を追加。)
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