お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2023年12月30日土曜日

マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会を聴いて(2023年12月24日 ミューザ川崎シンフォニーホール)

マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会
2023年12月24日 ミューザ川崎シンフォニーホール

ヤナーチェク シンフォニエッタ

マーラー カンタータ「嘆きの歌」(第1部:初期稿、第2部,第3部:最終稿)

井上喜惟(指揮)
日野祐希(ソプラノ)
蔵野蘭子(アルト)
西山詩苑(テノール)
原田光(バリトン)
東京オラトリオ研究会(合唱指揮:郡司博)
マーラー祝祭オーケストラ(ゲストコンサートマスター:岩切雅彦)

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この公演は私個人にとって特別な意味を持っていました。今回の公演のプログラムには、マーラーの作品の中でも滅多に上演されることのないカンタータ「嘆きの歌」が含まれており、私はその企図に賛同するとともに、その意義について公演プログラムへの寄稿文に自分の思うところを書かせて頂きましたので、公演を見届けることが自分にとって或る種の義務の如きものに感じられていたというのがまず最初にあります。それ故、これまでも基本的にはそうであったとはいえ、とりわけても今回は、中立的、客観的な立場で公演に接することはできませんでした。第三者的には大げさで滑稽ですらあるように映るかも知れなくとも(それは仕方ないこととして受容する他ありません)、演奏会場を訪れること自体が自分のコミットメントの確認であり、公演の最中に会場で私が経験したことの意味は、そうした文脈に強く条件づけられつつ構成されるものでしかありえません。自分の思いを述べた寄稿文は公演後、別途本ブログにて公開しています(「歌う骨」が私に語ること―「嘆きの歌」上演によせて―(2023.12.24 マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会によせて))ので、その中で述べたことを繰り返すことはせず、以下では基本的に公演会場を訪れて感じたことのみについて記録しておきたいと思います。

とはいうものの今回の公演が2020年の新型コロナウィルス感染症の流行以降、初めてコンサートホールに足を運ぶ機会であったことについてはやはり触れておくべきかと思います。既に今年(2023年)のゴールデンウィークを境に(正確には5月8日以降)、新型コロナウィルス感染症の感染症法(正式には「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」)上の分類は5類に変更され、コンサートの開催についても既に制限がなくなって久しいとはいえ、そのことは新型コロナウィルス感染症の流行が収束したことを意味せず、実際その後も職場や教育の現場では少なからぬ、否、時として感染対策に万全を期していた時期と比べて寧ろ多くの感染が確認されましたし、少なくとも私が知る限り、医療や介護の現場では分類変更以前と変わらない対応を継続したところも少なくありませんでした。そのうちにインフルエンザ等の新型コロナウィルス感染症以外の感染症が流行の中心となり、結果として今回の公演は様々な感染症の流行に対する警戒が続く中での開催となりました。そうした状況を踏まえるならば、これまでであれば慎重を期して訪問を控えることを検討するところで、実際過去には、新型コロナウィルス感染症の流行によって幾度か公演が延期された後、ようやく流行の合間での公演が実現した2021年5月8日の第18回定期演奏会における第3交響曲の演奏だけではなく、既にポスト・コロナ禍の状況下での、いわば再出発の公演となった2022年9月11日の第20回定期演奏会での第2交響曲の演奏についても再び、直前まで訪問を予定していながら、間際になって避け難い事情により演奏会場に赴くことを断念せざるを得なくなったりということもありました。これら両公演についても企画に賛同し、公演プログラムに寄稿させて頂いた点は同じで、公演に立ち会うことを或る種の義務の如きものと感じていた点も変わらず、それ故に已む無く欠席せざるを得なかったことは少なからぬショックでした。幸いにして、避けがたい用件に割り込まれ、またしても公演に立ち会うことができなくなるのではという懸念は今回について杞憂に終わり、結果として、もしかしたら今後二度と経験することができないかも知れない「嘆きの歌」の実演という稀有な機会に立ち会うことができたことの幸運を噛みしめています。寄稿文の末尾で記したように「マーラー自身の行為を、場所を変え、時を変えて記憶し、反復し、継承することによってマーラーその人に応答すること」が、このように実現されたのを目の当たりにして深く感動するとともに、演奏したことのない作品、一般に演奏頻度の低い作品を取り上げられることに伴う苦労は、いわゆる定番の作品を演奏する場合と比較にならず、様々な困難を伴うことを思えば、公演に接した感想を記すにあたってまず最初に、この日の公演での達成に対して、公演に携わった全ての方に対して敬意を表したく思います。

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今回の定期公演のプログラムはヤナーチェクのシンフォニエッタとマーラーの「嘆きの歌」で構成されています。既によく知られているように「嘆きの歌」にはマーラーが20歳の時に完成した3部からなる初期稿と、それから20年以上の歳月を経てマーラー自身が初演を行った際の形態で、初演に先立って出版もされた改訂稿があり、大まかには改訂稿が初期稿の第1部をカットして第2部・第3部を残したという関係にあることから、20世紀も終わり近くになって初期稿の全貌が明らかになるまでは初期稿の第1部と改訂稿を組み合わせる形態での演奏が普通でした。現時点では1880年版もマーラー協会全集の補巻として出版されていることから、上演する形態の選択がまず問題になるところですが、今回の公演で最終的に採用された形態は初期稿の第1部と改訂稿を組み合わせたものでした。

一方ヤナーチェクとマーラーの組み合わせについて言えば、一般的にマーラーはオーストリアの交響曲創作の伝統の中に位置づけられるが故に等閑視されがちではありますが、生誕の地はボヘミアであり、生後間もなく移住した街はドイツ語の「言語島」である一方でボヘミアとモラヴィアの境にあったことから、少年期のマーラーはモラヴィアの民謡を日常的に耳にしていたであろうことを思い起こすならば、そうした作品が生まれる土壌の如きものに関して自然なものに感じられます。実際マーラーの音楽の特徴の一つとして、拍節が自在で所謂変拍子が頻出することが挙げられるのではないかと思いますが、それはボヘミア系の音楽よりも寧ろモラヴィア系の音楽の特徴に通じるものと考えられますし、実際「嘆きの歌」にもモラヴィア風のメリスマを伴った変拍子の旋律が要所で登場し、その抑揚は聴き手に鮮烈な印象を与えずには置きません。

更にそうした音楽の基層にあたる部分での繋がりに関連して言えば、指揮者・音楽監督の井上喜惟さんの正式デビューがモラヴィアの中心都市であるブルノでの1992年のチェコ国立ブルノ・フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会だったことも思い起こされます。以前、第10交響曲のクック版の演奏に接した際に、特に第2楽章に現れる変拍子の扱いが非常に自然なものに感じられたことを記したことがありますし、マーラーを離れれば、アルメニアのオーケストラとの共同作業に長きに亘って取り組まれていることも思い浮かびますが、今回の演奏においても、そうした拍節の自在さが、ヤナーチェクとマーラーの両方に共通して、何よりもまず身体的な感覚のような水準で自然に達成されているように私には感じられたことを述べておきたいと思います。(勿論、シンフォニエッタも「嘆きの歌」も編成上、バンダが用いられ、それぞれ重要や役割を果たすという共通点があることで、プログラム構成上合理性があるという現場の事情も当然考慮されている訳ですが。)

ちなみに1934年に「嘆きの歌」の初稿第1部の初演が行われたのがまさにブルノであり、しかもそれはチェコ語で行われたこと、更にその初演の翌年のウィーンでの放送のための「全曲演奏」が今回同様の初期稿第1部+改訂稿という形態で行われたことも指摘しておくに値することかも知れません。勿論、今回の稿態の選択にあたっては、とりわけこの極東の地での演奏の伝統がほとんどない作品を取り上げることに伴う様々な技術的な困難をクリアするといった側面が第一義的であったかも知れませんが、理由はどうであれ、結果的にそうしたこの作品の持つ来歴に今回の公演が関連づけられることは興味深く、既に述べたように、実際の演奏において、ヤナーチェクにしてもマーラーにしても、その自在な拍節感が、エッジの効いたスリリングでアクロバティックな名人芸の如きものとしてではなく、ごく自然な間合いと抑揚をもってリアライズされたことは決して偶然ではないと思われます。とはいうものの、私はヤナーチェクの作品については、その演奏について語ることができる程には知識も経験もないため、シンフォニエッタの演奏に関してはその資格をお持ちの方々に委ねることとして、以下では専ら「嘆きの歌」の演奏に限定して述べさせて頂きます。

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録音によってでさえ「嘆きの歌」を聴いて驚かされるのは、若書きのナイーブさの応酬としての表現のストレートさとその雰囲気の濃密さですが、演奏が始まって直ちに「森のメルヒェン」に相応しく、まずホルンが呼び交わし、弦のトレモロが高潮するとともにハープが煌めくと、会場があっという間に物語の世界の神秘的な森の中に変貌してしまうとともに、今から繰り広げられる物語が恐怖と戦慄にいろどられた悲劇であることが直ちに明らかになります。オーケストラの響きはいつものマーラー祝祭オーケストラの中身の詰まったしっかりとした手応えのある響きで、その響きに数年の空白を経て接してなお、記憶していたものが思い起こされるような思いがします。その一方で、今回の演奏は全体として、いつもの「既に手の内に入った」他の有名なマーラーの交響曲作品の場合とは稍々異なって、じっくりと音の立ち上がりを確かめるようなゆったりとした経過よりも寧ろ推進力に勝った、それだけに一層切迫して緊張感の高い演奏で、特に他の作品にも増して直接的な効果を備えた頂点の盛り上がりでは、常になく会場の聴き手を興奮させ、圧倒する力に満ちたものであったように思います。

勿論、演奏に傷があったことは否定できませんし、特に木管楽器にはっきりとわかる事故があって聴いている私もひやっとした瞬間があったことは事実で、結果として奏者にとって、もう一度演奏することができればというような心残りの部分があったとすれば、それは残念なことではありますが、マーラーの管弦楽作品の中で最も上演機会に恵まれないこの作品を取り上げ、並外れた集中力をもって強い緊張感を備えた演奏が行われ、聴き手を圧倒したことの価値は測り知れず、実現された音楽の持つ比類のない充実感からすれば、多少の傷は大きな問題ではないと感じられました。また特に今回の形態では第3部で重要な役割を果たすオフステージのバンダ(今回の上演では舞台裏の楽屋で演奏され、楽屋に通じる扉の開閉を調節してホールに聴こえてくるようにリアライズされました)も素晴らしく、意図された通りのものであったと感じました。

上演に会場で接して特に強く感じたのは、オーケストラは勿論なのですが、マーラーの他の声楽を伴う作品にも増して、「嘆きの歌」は合唱、独唱の声楽パートが重要であるということで、独唱、合唱のいずれも素晴らしく、感動的な歌唱であったと思います。特に合唱の効果は素晴らしく、合唱が歌い始めた瞬間に忽ちのうちに緊張感が高まって聴き手を物語の世界に引きずり込む場面に事欠かず、一再ならず感極まるものがあり、その印象は、名手を地頭とする能の地謡を思わせるものがあったように感じます。独唱も皆さん好調で、集中力に富んだ雄弁な歌唱であったと思いますが、特に個別に印象深かったところとなると、どうしても作品の核心の部分を担うアルトの深い感情に満ちた声がまず印象に残ります。特に「歌う骨」の声を代理する、変拍子で歌われる箇所には鬼気迫るものさえ感じました。ソプラノは何といっても特に第3部の最後のクライマックスの殺された弟の告発の語りの部分、マーラーにおいて「嘆き」の形象そのものであるメリスマの節回しが深く印象に残っています。一方でいわば物語の地の語りの役割を果たすことの多いテノールは、能楽でのワキの位置づけに相当すると感じられたのですが、まさにワキの名手の謡が場の雰囲気を見事に設定するのを目の当たりにするような印象を受けました。バリトンは第1部だけの登場で、これまた能楽ではワキツレのような役割を担いますが、テノールとの重唱も素晴らしく第1部の濃密な雰囲気を醸成していたと感じました。

能楽を引き合いに出すことは聊か突飛なものに思われるかも知れませんが、「嘆きの歌」は内容的にも、古作の能に見られるような、素朴ではあるけれど激しくて深い悲しみに貫かれた作品に内容・雰囲気ともども通じるものがあり、その上演は娯楽や教養としてのコンサートのレパートリーであるよりも、寧ろ祭祀における追悼や鎮魂のための奉納に近いものがあると私には感じられます。西洋の伝統に則せば、寧ろギリシア悲劇を先に思い浮かべるべきなのでしょうが(実際、後で参照するナターリエ・バウアー=レヒナーの回想における「嘆きの歌」の初演に関する節ではギリシア悲劇への言及がなされます)、私の乏しい経験の中で近い印象のものを探した時に真っ先に思い浮かぶのは外ならぬ能楽なのです。更に言えば、「嘆きの歌」の歌唱パートの配分は通常のより演劇的な作品(例えば受難曲やオラトリオを思い浮かべて頂ければと思います)で良くあるような、各独唱者に原則として固定的に登場人物を割り当て、合唱が集団の声を代弁するように劇の進行を注釈したり、場面を補足説明したりするといった形態からはかなり外れており、こちらも能楽において、ワキの謡やシテの謡を地謡が途中から引き継いだり、シテが主人公の役割を逸脱して、第三者的な描写をしたかと思えば、ひととき他の登場人物になりかわるといったことが起きるのに近い印象が私にはあります。「嘆き」のルフランもまた、合唱が場面を注釈するように歌うだけではなく、独唱や重唱が担うこともあれば、独唱から合唱へと受け渡されることもあったりしますし、常に固定的な旋律で歌われるわけでもなくて融通無碍なところがあるのは寄稿文でも指摘したところですが、それだけに独唱と合唱が一体となった今回の上演は、作品のそうした特質に適い、その効果を遺憾なく発揮したものと感じられました。

この曲は、特に改訂稿の部分は実演で目覚ましい効果をもたらすべく、巧みにデザインされた部分もあるとはいえ、全般としては20歳になるかならないかのマーラーの、ナイーブと言っても良いようなストレートな感情に満たされていて(質的に近いのは、やはり「さすらう若者の歌」と第1交響曲)、そのまどろみの中で夢見るような箇所(実際それは「さすらう若者の歌」の終曲の中間部、第1交響曲のあの「森の葬式」のカノンに挟まれた中間部で聴かれるものと同じです)と、身を切るような強烈な感情に満たされた悲劇的な箇所との強烈なコントラストは、聴き手の心を掻き乱し心の底から聴き手を揺さぶる、鬼気迫るような側面がありますが、そうした点についてこの公演での演奏は申し分ないどころか、あまり数の多いとはいえない他の演奏に勝る、この作品の本質を闡明する「真正な」という形容が相応しい質を湛えていたと感じられました。

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「嘆きの歌」の上演を巡っては、ナターリエ・バウアー=レヒナーの回想録の「音楽シーズン 1900年ー1901年」の章の「≪嘆きの歌≫ 1901年2月17日の演奏」と題された節があり、そこでは上演に纏わる紆余曲折が記録されています(高野茂訳・音楽之友社刊の邦訳『グスタフ・マーラーの思い出』ではpp.406~8)。それを読むと、作品に対する献身という点で今回の上演が如何に恵まれた理想的なものであったかが却って確認できるわけですが、作品そのものについてのバウアー=レヒナーの印象は書き留められても、マーラー自身の作品に対する思いというのは直接には記録されていないようです。一方でマーラーはその早すぎる晩年に(だが、まさに晩年と呼ぶに相応しい状況下にあって)、ニューヨークからのワルター宛の書簡(1996年版書簡集では429番、1909年12月18日ないし19日に書かれたと推測される日付のない書簡、以下に引用させて頂く、須永恒雄訳・法政大学出版局刊の邦訳『マーラー書簡集』ではpp.389~392)で、自分の第1交響曲を演奏したときに感じたことを以下のように記しています。

「(…)おとといはここで私の≪第一≫をやりました。みたところ、さしたる反応なし、それにひきかえ私はこの若書きに心から満足しました。こうした作品はどれも、指揮するといつでも、妙な気分になる。燃えるような痛切な感情を結晶化している。すなわち、こんな響きと形姿を鏡像として投げかけるとは、これはいったいなんという世界なのか。葬送行進曲とそれにつづいて勃発する嵐のようなものが、私には、あたかも造物主への嘆願のように立ち現れるのです。そして私が新作を作るたびごとに(少なくともある時期までは)この嘆願の叫びが毎回湧き起こるのです――「汝は彼らの父に非ず、汝は彼らの暴君なり!」――(…)」

勿論これはあくまでも第一交響曲についての言及であって、「嘆きの歌」についてのものではありません。ではありますが、同時により広く自分の若書きの作品について述べたものでもあって、私には、それに先立って作曲され、だが上演の方は遥かに遅れて、そのキャリアの絶頂にあってようやく実現に漕ぎ着けた「嘆きの歌」についても、マーラーは同じようなことを感じたのでは、それが故にマーラーは「嘆きの歌」を「作品1」としたのでは、というようなことを、今回の演奏に接することで思わずにはいられませんでした。要するにそれは今回の上演が、「マーラーは、これを音にしたかったのだ」というかけがえのない「何か」が伝わって来る演奏であったということなのだと思います。それはあまりに強烈で、特にその頂点では感情の強烈な波が次々と押し寄せてくるので、少なくとも私に関しては、聴き手としてそれを充分に受け止められたかどうかについては、甚だ心許無いのですが。

そしてそれは単に演奏会場で演奏された作品を、その場で聴取するという条件では尽くせない、ライブ・パフォーマンスの可能性を明らかにするような経験であったと確かに言えると思います。かつてジャパン・グスタフマーラー・オーケストラと名乗っていたオーケストラは現在はその名称に「祝祭」という語を冠していますが、この語はまさに今回のような公演にこそ相応しいと感じられます。このような静謐で悲しみに満たされた、悲劇的で陰惨でさえある作品が祝祭とは、という反応は祝祭という言葉の意味を取り違えているのであって、それならば古代ギリシアの悲劇の上演はどうであったか、否、地球の反対側のことを持ち出さずとも、我々自身の伝統の中にあって、やはり静謐でありながら強い悲劇的な感情に満たされた数多くの作品を持つ能楽の上演はどうなのかに思いを致せば、それこそが「ライブ」の可能性そのものとまでは言わないまでも、その可能性の中心にあるものだということが得心されるのでは、と思います。マーラーの作品であれば、第6交響曲や第9交響曲、「大地の歌」や第10交響曲、更には連作歌曲集といったものも、その上演は単なる娯楽・教養のための消費の場ではなく、まさに「祝祭」の場で上演されるべきものではないかと考えます。

そうした、まさに「ライブ」ならではの経験をさせて頂いたことに対して、演奏者全てに重ねて御礼申し上げたく思います。そしてさまざまな制約から、もう一度というのは大きな困難を伴うことは重々承知しているものの、今回のような機会が再度繰り返して実現し、奏者が十全と感じられる演奏が行われたら、ということを思わずにはいられません。少なくとも今回の上演がそうした「伝統」を形作る、後世に向けての一歩であればということを願わずにはいられません。

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冒頭述べたように、新型コロナウィルス感染症の影響が終息しつつあり、コンサートも含めて世の中が「正常化」する一方で、私は相変わらず自分の身の回りの卑近なことで手一杯な状況ですが、それ故にか「ポスト・コロナ」の世の中が、旧に復するどころか、寧ろ一層、どこか逼塞している雰囲気が強まっていることは否応なく感じ取れるように思います。そうした中、マーラー祝祭オーケストラの活動に接して、不十分な仕方でしかなくとも微力ながらお手伝いできたことは、そうした状況を何とかやり過ごすための心の拠り所のように感じられます。とりわけでも今回、その実現に大きな困難が伴う「嘆きの歌」の上演に身近に接することで、私個人の感慨としては自分の卑小な存在を超えて、世の中に働きかけられたという実感のようなものがあります。このような経験をさせて頂けたことに対して、井上喜惟さんを始めとする公演に携わられた全ての方に改めて御礼申し上げて、この拙い感想の結びとさせて頂きます。(2023.12.30初稿公開)

2023年12月17日日曜日

[お知らせ] マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第22回定期演奏会(2023年12月24日)

マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・井上喜惟)第22回定期演奏会が2023年12月24日にミューザ川崎 シンフォニーホールにて開催されます。詳細は以下の、マーラー祝祭オーケストラの公式ページをご覧ください。

Mahler Festival Orchestra Offcial Site (https://www.mahlerfestivalorchestra.com/)




プログラムには、マーラーのカンタータ『嘆きの歌』がヤナーチェクのシンフォニエッタとともに含まれます。『嘆きの歌』は、マーラーが自ら作品1と位置付けた作品ですが、洋の東西、プロ・アマ問わず上演機会に恵まれているとは言い難く、特に日本でその上演に接する機会は限られており、今回の演奏会は貴重な機会だと思います。

本ブログの管理人も、その企図に賛同し、当日会場で配布されるプログラムノートに寄稿させて頂いております。是非ともご一読頂ければ幸いです。また、本ブログでは『嘆きの歌』に関連して以下のような記事を執筆・公開していますので、併せてご覧頂ければ幸いです。

[追記] マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会は無事終演しました。稀曲である「嘆きの歌」の上演にあたっては多くのご苦労があったことと推察致します。井上喜惟先生をはじめとする、公演に携わって来られた全ての方々に敬意と感謝の意を表します。公演プログラムノートへの寄稿文と、公演に接した感想は別途記事として公開の予定です。

(2023.12.17 公開, 12.18 公演のフライヤー画像を追加, 2023.12.28 追記)

2023年12月6日水曜日

マイケル・ケネディの「マーラー」の結尾近くの文章より

マイケル・ケネディの「マーラー」の結尾近くの文章より:(原書2000年版, p.179; 中河原理訳、芸術現代社、1978年、pp.235~6)
It is true that there is an element of the actor in Mahler, that he strikes attitudes not from conviction but as a spritual experiment. But the result is never insincere. To some temperaments he will always be anathema because it is felt that he did not subject his musical thought-processes to enough refining self-criticism, that he was too much the suffering human and not sufficiently the detached artist. There is something in this, though study of his scores reveals a musical headwork, as Shaw would have described it, of a peculiarly intricate nature.

マーラーに演技者の要素があること、つまり確信からではなく、精神的な実験として態度を構えたことは確かである。しかし結果は偽善的なものではなかった。ある気質のひとにとってマーラーは常に禁物だろう。なぜならマーラーは自分の音楽の思考過程を、対象を充分に練磨する自己批判に従わせることがなく、またあまりにも悩める人間であり、充分に客観的芸術家ではなかったと感じられるからである。マーラーのスコアを調べると、際立って複雑な性格の(とショウならいったと思われる)音楽的な頭脳作業があるにしても、この感じ方は無視できない。

私事になるが、私が最初に接したマーラーの評伝はこのケネディのものだった。それは単なる偶然によるものだったと思うが、参考書籍のところにも書いたように、 この本はその慎ましい体裁にも関わらず、とても優れた視点と、数多くの興味深い情報を備えた書籍であり、最初にこの本に接することができたことをとても 幸運なことだったと思っている。
引用したのは、1976年版では最後から2つ目のパラグラフである。(その後の改訂で、この後にAfterthoughtsの章が追加されたので、現在では第15章の 末尾ということになる。)この文章は、マーラーの音楽の持っている特質を的確に言い当てていると私には感じられる。批判的なわけではなく、 決してマーラーを偶像視しない冷静な視点を持っていて、寧ろ、そこにマーラーに対する深い愛情を感じずにはいられない。実際、マーラーの音楽を 一人の人間の営みとして聴いたときに、その軌跡の技術的な展開の一貫性と速度に驚嘆する(わずか30年でここまで進むことができるのだ!)一方で、 その内容上の振幅の激しさにたじろがざるを得ないように思われる。多くの人がそうしているように、思わず「矛盾」と呼びたくなるような、 そしてついつい伝記的事実を持ち出してその説明をしたくなるような亀裂が確かに、そこかしこにあるのだ。マーラーの音楽に関心がない人間なら、そもそも そうした問いの前提自体が疑わしいことだろうし、それゆえ、上記のケネディの文章もまた、なぜそんなことを問題にしないといけないのか理解しがたい だろうが、まさにそれが「問題」になるのがマーラーの特殊性なのだ。それゆえ、そうした「矛盾」をあたかもなかったかの如くに、マーラーがそこから出発した素材を 一部をあたかもマーラーの音楽を理解する統一的な視座であるかのように語ったり、あるいはどんなに控えめに考えてもマーラーの音楽そのものに対しては 外的な基準に基づいて、そのうちのあるものを否定してしまうことなくして、マーラーの作品全体をどのように考えるかは、その音楽に魅せられた人間が、 それぞれ自分なりの答えを探さなければならない課題であるように感じられる。(2007.5.26公開、2023.12.6参照箇所の邦訳を追記)

「パルジファル」から「子午線」へと過ぎ越す「応答」

パルジファルの音楽は、それが現実に場を持たない感じがしない。 第1幕の前奏曲からして、それは既にあまりに現実的な空間を浮かび上がらせる。 それは具体的な現実の歴史の中の出来事ではなく、その中に場所も時点も 持たない。それは過去に起きた歴史的出来事の再現を企図しているのではない。 にも関わらずそれはひどく現実的で、まるである可能世界で「現実に」生じた、 あるいは生じつつある出来事のようだ。これは「ありえたかもしれない」出来事 なのだろうか。

劇場での上演という制約のためなのだろうか?音楽だけを聴いても その音楽は、ひどく現実的なものに聞こえる。神話的な空間での 出来事にも関わらず、登場人物は現実の身体を持つ「生身の人間」であり、 アムフォルタスにせよ、クンドリーにせよ、その苦悩はひどく人間的なもの、 あまりに人間的なものであり、その感情はいわゆる「この世ならぬもの」の 息吹からは遠い。神話的で、或る意味で図式的でありながら、少しも 現実的な感情を逸脱しようとしない。寧ろ、現実的な筋書きを持つ オペラが、そらぞらしくわざとらしく感じられる(ごく単純に、人は普段そのように 歌ったり、振舞ったりしないものだという白々しさの感覚に囚われる)のに対し、 ここでは演劇的なもののもつ空々しさは、或る意味で巧みに帳消しに されているという見方もできるだろう。(パルジファルの筋書きだけを取り出して 映画をとったときのことを考えてみればよい。むしろそちらの方が現実離れ した感じを与えるのではないだろうか。)科白が歌われること、音楽が 常に物語の背景に流れ続けていることは、ここではまるで当たり前であるかの ようだ。逆に、音楽を介して、ある可能世界の現実が成立しており、 音楽を介してしか、その世界の出来事を理解可能なかたちに翻訳することが できないかのようだ。

それに対応するように、「聖金曜日の奇跡」は少しも奇跡のようでない。 それは寧ろ、ごく普通の四季の循環のプロセスにおける出来事に対する 価値付け、解釈の結果のようであって、劇場の舞台の上で如何なる 奇跡も現実には起きないように、音楽もまた如何なる奇跡をももたらさない。 それはごく普通に或る瞬間に、この世において生身の人間が見るであろう 風景のようだ。

時間論的に未来完了的な構造を備えていることとの関連について言えば、 ここでは前奏曲で予示されてしまった「音楽的出来事」が展開されるだけであって、 新たな何かが到来することはない。「再現」はここではベクトル性の深みを欠き、 どこか遠くに来てしまって、後戻りが利かないという感覚は希薄だ。 全ては起こるべくして起こった。仕組まれており、偶然やゆらぎのもたらす、本当の 意味での「新しさ」がここには欠けているのではないか? 寧ろそれは、かつて起きたことの反復、これからも永遠に繰り返される出来事の 提示のように感じられる。 物語のプロットは非可逆的性を備えているようであるにも関わらず、それは 反復されうるように感じられる。同じものがそっくりそのまま繰り返されるのだ。

色々な演出での色々な時点と場所におけるパルジファルの上演は、演出家が 如何に差異を意図し、オリジナリティに取り憑かれていたとしても、結局は同じものの 繰り返しにしかならないよう予め定められているかのようだ。しかしそれはある意味では 当然で、演出を替え、衣装を、舞台装置を替え、歌手を、オーケストラを、指揮者を 変えても、音楽そのものは変わらない。ここでは音楽が全てを生じさせる根拠なので、 所詮はそうした変化は、或る種の展望の相違、視点の相違に過ぎない。 ある春の日が、別の一日と気温も湿度も、光の調子も、何一つとして全く同一と いうことはないのに、結局は同じ春の一日に過ぎないと感じられるのに近い感覚がそこにはある。

こうしたあり方を指して「神話的」と呼ぶのであれば、これはまさしく「神話的」であり、 神話そのものと言っても良いようにすら思われる。 この作品が成功しているのか、失敗しているのかは、そこに何を求めているかによるだろう。 しかし、どちらにしてもこの作品が極めて完成度の高い、優れた作品であることは間違いがない。 ある見方をすれば、これは恐るべき力を持った、あまりにうまくできた、完璧な成功作であろう。 この作品を、或る種の頂点、極限と見做すことは不当なこととは思えない。

「舞台神聖祝典劇」というジャンルの創出企図にも関わらず、舞台の上で、あるいは 音楽の裡で起きる出来事は、あまりに強い実在感を備えすぎているし、想像される意図 からすれば意外なことかも知れないし、人が期待するものからしてもそうかも知れないが、 超越的な契機を欠いているようなのだ。一言で言えば、その音楽は聴き手を 「どこか別の場所」に連れ去らない。勿論、パルジファルの物語の空間は、虚構であり、 現実ではない。そしてこの音楽が聴き手を、物語の空間に、虚構の中に誘う仕方が 如何に完璧で、如何にその力が強力かについては既に述べた通りである。 だが、それは「どこか別の場所」が備えているべき「他性」を欠いているように思われる。 彼方から到来するものの息吹に欠けている。

恐らくはベクトルの向きが逆なのだ。予め虚構の時空の中で繰り広げられる 物語は、現実が彼方からの息吹によってこの世ならぬものに変容する一瞬を 持ち得ない。変容する瞬間のもつ「突破」のベクトル性の深みもまた持ち得ない。 どこかに裂け目があって、そこから何かが到来するという構造がここにはそもそもないからだ。 皮肉なことに、ある意味でこの音楽が完璧なだけ、もしかしたら作者の企図の実現の 度合いに関して、例外的な程までに成功しているがゆえに、その出来の良さの分だけ、 「他性」を、「超越」のもつ受動的な構造を、作品自体は決定的に欠いているのだ。 作品の内側においては、ある仕方では「超越」のもつ受動性が示されているという見方も 可能だろうが、それは皮肉にも逆の意味を帯びてしまいかねない。このような仕方で 受動性が提示されてしまうと、それはそれで一面的なものとなり、本来はその背後に 働いている契機が、恰も否定されてしまうかの如き誤解を生じかねない。もっとも ワーグナー自身にしてからが、もともと本当にそう考えていたのであり、だからここには 「誤解」などなく、寧ろ私の側に「誤読」があるか、控えめに言っても、無い物ねだりを しているだけなのだという意見はあるだろうし、それにも一理あることは認めざるを得ない。

だが音楽はそもそもすべからくそうしたものではないのか、という問いに対しては、 そうかも知れないが、必ずしもそうとは限らない場合もあるように思える、と言うほかない。

私が経験した限りにおける「パルジファル」において生じていると私に感じられた上のような事態を ベイトソンが「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」で導入した「一次過程」について、 「冗長性とコード化」の夢の中のコミュニケーションに関するくだりを補いつつ照合してみると、 「パルジファル」に関して、それが現実に場を持たない感じがしない、というひどく回りくどい言い方を 私がしたのは、ベイトソンが夢の特性として指摘している性質故ではないだろうかというように思える。 それは直説法的ではない。まさに「ありえたかもしれない」ものの提示であり、ある「パターン」の提示、 ホワイトヘッド的な永遠的客体の無時間性を備えた、括弧入れされた提示なのではないか。 だからそれは、何度でも、変形されつつも、同じ「パターン」として提示されうる。 「パターン」の不変性を担うのが、ここでは「音楽」であるというように私には思える。

更にベイトソンはフロイトが夢を「夢の作業」による加工・変形を経た二次的なものであるという考えを、 或る種の転倒と見做している。 だが、「芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」と いうベイトソンの定義に忠実にあろうとしたとき、既に意識を備えた有機体である人間の、その意識が己の 構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとしたとき、そうした転倒は避けて 通ることのできない経路なのではないか。あえて自分の背後を覗こうとした意識が受け取るものは、 自分自身を含む精神の「幽霊」なのだということに気づくことはないのか。 そしてそういった意識と無意識の関係が原理的に抱える問題に気づいた意識は、 ベイトソンの言う「魂の部分間の統合 - とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を 「無意識」とする精神の多重レベル間の統合」を企図したとして その企図が破綻を運命づけられている場合もまたあるのではないか。

ベイトソン自身、「目的意識対自然」においてその統合の困難について語っている。 単に意識を融解させて無意識的なものを噴出させるのではなく、統合を企図したとき、 既に予め分裂している状態で生じるのは、ポリフォニーであり、幽霊との「対話」による 超越の試みではなかろうか。「世界を構築すること」としての交響曲創作は、そうした統合の 試みであり、マーラーは生態学的心理学的な意味合いでの拡張された「心」のあちらこちら (それは自分の内部の無意識かもしれないし、外部の環境かもしれない) からの声に耳を澄ませ、それに形式を与えようとしたのではないか。

それゆえ破綻を宿命づけられた超越の試み自体を定着させた作品があってもいいし、 それは見方によっては壮大な「失敗作」と断定されもするのだろうが、そうした作品に よってしか聴き取ることのできない音調というものがあるだろう。 未来完了的な音楽の構成法という点では表面上は共通しているにも関わらず、 「どこか別の場所」の端的な非在を告げつつ、そうすることで「どこか別の場所」を 浮かび上がらせるような作品というものがある。それはツェランがある詩篇で戦慄すべき 簡潔さで言い当てたように、どこにもない傷をもここから取り去らねばならないといった 現実から発して、時間を通って、だが、誰に届くかもわからず壜に詰めて投じられると いった作品のあり方に、こちらはこちらで正確に対応した内実を備えている。 それは作品の中で「対話」を志向し、作品そのものもまた「対話」を志向する。 「虚構」を「虚構」と指し示し、裂け目から垣間見たものが幻影に過ぎなかったのでは ないかという懐疑にさいなまれつつ、そうした裂け目の彼方を目がけてなおも発せられる 予め挫折を運命づけられたかのような作品によってしか告げられない超越の様態がある。

アドルノはマーラーの第8交響曲における否定的な契機の欠如を批難する。 だが、マーラーが「パルジファル」であれば第2幕に対応するような場面を第8交響曲に含めなかったのは、1曲全体が「突破」の瞬間を押し拡げたものであるかの如きこの 作品にとっては当然のことであり、そうすることで得られたであろう芸術的な成功は、 そうしなかったことで得られた「応答」としての切迫、「探しあてらるべき場所の光に 照らされての―どこにもない場所=ユートピアの光に照らされての」「みじめな生き物」としての 「人間」の「場所(トポス)の探索」のぎりぎりの試みの持つこれ一度きりの切迫を 損なってしまったであろうことを思えば、どちらの側に私が与するかは明白である。 聴く者は、自分がどこにいるのかが一瞬わからなくなって恐慌に陥るかも知れない。 「ありえたかもしれない」世界を克明に、あたかも現実のように示す芸術の傍らに、 「ありえない」場所を浮かび上がらせる営みがある。

それを思えば、マーラーが1883年に聴いた「パルジファル」への「応答」が、 第9交響曲であるということは、一見すると矛盾しているかにさえ見えるマーラーの 内的な一貫性を示していると考えることができるだろう。全く異なる色彩と音調を備えた 風景の中で聴き手は逍遥し、未来完了的な主題構成法も、移行の機能も、 鐘の響きも全く異なるものに変容させられていることに気づく。否、それが「パルジファル」の エコーであることにそもそも気づかないということだっておおいに有り得るし、それで構わないのだ。 モンサルヴァートの春の野辺での聖金曜日の奇跡の代わりに訪れるのは、ドロミテの地で "Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、 菫色などの色彩に変化する現象であり、太陽が沈んでいくある夕べの対話の一刻である。 そうであってみれば、そうした「山中の対話」を語ったもう一人の小さなユダヤ人のことばが、 そこでの消息をこの上もない正確さで告げていたとしても、何の不思議もない。私如きが 付け加える言葉は最早ない。だから私はここで沈黙し、もう一人の小さなユダヤ人に 語らせることにしよう。

(...) Erst im Raum dieses Gesprächs konstituiert sich das Angesprochene, versammelt es sich um das es ansprechende und nennende Ich. Aber in diese Gegewart bringt das Angesprochene und durch Nennung gleichsam zum Du Gewordene auch sein Anderssein mit. Noch im Hier und Jetzt des Gedichts - das Gedicht selbst hat ja immer nur diese eine, einmalige, punktuelle Gegenwart - , noch in dieser Unmittelbarkeit und Nähe läßt es das ihm, dem Anderen, Eigenste mitsprechen : dessen Zeit.

Wir sind, wenn wir so mit den Dingen sprechen, immer auch bei der Frage nach ihrem Woher und Wohin : bei einer »offenbleibenden « , » zu keinem Ende kommenden «, ins Offene und Leere und Freie weisenden Frage - wir sind weit draußen. Das Gedicht sucht, glaube ich, auch diesen Ort. (...) (Paul Celan, "Der Meridian")

(…)この対話の空間の中で、はじめて、語りかけられるものがかたちづくられます、語りかけられるものが、語りかけ名ざす「わたし」のまわりに集まってきます。しかもこの語りかけられたもの、名ざされることによっていわば「あなた」となったものは、この現前の中へおのれの別のありようをも持ちこむのです。詩の「ここ」と「いま」においてなお――たしかに詩自身はつねにこのただ一つの、一度かぎりの、そのたびごとの現前しかもたないのですが――このような直接性と身近さの中においてなお、このものはみずからの、つまりわたしたちにとっては「別のもの」の、ひたすら固有なるものをともに語らしめます――すなわちその時間を。

 このようにして、わたしたちが物事について語るとき、わたしたちはつねにそのものたちの「どこから」と「どこへ」をも問いかけているわけです――これは、「未解決にとどまる」「決して終わることのない」問いかけ、そして、ひらかれたもの、うつろなもの、ひろびろとしたものを指向する問いかけです――わたしたちははるか外へ出てしまっています。詩もまた、この場所を求めるのだ、と思います。(…)(パウル・ツェラン、「子午線」、飯吉光夫編・訳、『パウル・ツェラン詩文集』、白水社、124~5頁 )

(2012.12.15公開,17加筆. 2023.12.6 ツェラン「子午線」の引用部分の邦訳を追記。)

2023年12月4日月曜日

MIDIファイルを入力とした分析:状態遷移パターンの出現確率分布の比較(3)マーラーの交響曲間の比較(続報)

 1.はじめに

 記事:MIDIファイルを入力とした分析:状態遷移パターンの出現確率分布の比較において、マーラーの交響曲全体の状態遷移パターンの出現確率分布と、各作品の状態遷移パターンの出現確率分布との比較を行った結果を報告しました。2つの確率分布の比較の方法としては、カルバック・ライブラー・ダイバージェンスと相互情報量の2つを用い、更に参考として、状態遷移パターンの出現確率のエントロピーについて全体と各作品とを比較した結果も報告した他、カルバック・ライブラー・ダイバージェンスと相互情報量を計算するために用意した状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトル自体を特徴量としてクラスタリングを行った結果を併せて報告しました。ここでは上記記事の続報として、上記記事では深さ0および1(つまり和音(ピッチクラスの集合)単独の出願確率および和音の遷移(和音(ピッチクラスの集合)の単純な前・後の2つ組)の出現確率)のみを報告したのに対して、深さ2~5までを含めた全体を報告します。本記事でこれまで一連の記事で報告してきた和音の状態遷移パターンについての集計・分析の報告は一区切りとなるため、参考として、既に報告済の内容の再掲になりますが、状態遷移確率分布のエントロピー、マルコフ過程としてみた場合のエントロピーの計算結果、前回記事で報告した内容も含めて再掲し、本記事のみで一覧できるようにします。一方、計算結果に対するコメントはこれまでの報告同様行わずに、集計・分析条件の説明と結果の報告のみを行うこととし、別にこれまでの一連の集計・分析を通じてわかったことや、やってみて気づいたこと、感じたことに関する記事を起こす予定です。

2.集計・分析の条件

2.1. カルバック・ライブラー・ダイバージェンスおよび相互情報量の計算(追加あり)

 上掲記事におけるのと同様、単音・重音は対象外(cdnz3)/移置・転回を区別しない(pcl)条件で、今回は各拍(A)毎に抽出した和音パターンの系列のみを対象としました。計算対象となる状態は、既報の深さ0(和音=ピッチクラスの集合のパターン)と深さ1(和音=ピッチクラスの集合の状態遷移パターン、単純マルコフ過程の状態遷移パターンに相当)に加え、深さ2~5も含めました。

 計算にあたっては上掲記事におけるのと同様、従来から用いてきたR言語にあるエントロピー計算用のライブラリ(entropy)をRstudio上で使用しました。R言語のバージョンは4.3.1です。entropyライブラリにはカルバック・ライブラー・ダイバージェンスと相互情報量を計算するプラグインが用意されています(それぞれKL.pluginとmi.plugin)ので、それを利用して計算を行いました。既述の通り、特にカルバック・ライブラー・ダイバージェンスは、所謂「距離」の公理を満たしておらず非可換ですが、ここでは個別の作品における確率分布を分子側、交響曲全体における確率分布を分母側として計算を行っています。つまりKLD(P||Q)とした時、P:各曲、Q:全体です。(交響曲全体で出現するパターン(Q側)が個別の作品(P側)で出現しない、つまり確率0であることはありえるが、その逆はないため。逆向きの計算では分母が0になり、値が無限大になってしまいます。)なお、交差エントロピーは今回の報告内容では割愛しましたが、これは各曲のエントロピーとカルバック・ライブラー・ダイバージェンスから求めることができます。(即ち、H(P, Q) = H(P) + KLD(P||Q))

2.2. 各交響曲の状態パターンの出現確率のエントロピー・交響曲全体の状態パターンの出現確率のエントロピーとの差分・マルコフ過程としてのエントロピー(再掲)

 冒頭述べたように、前回の記事で報告済の個別の作品における状態パターンの出現確率のエントロピーと交響曲全体の状態パターンの出現確率のエントロピーとの差分の計算結果(深さ0~5)を再掲します。交響曲全体の状態パターンの出現確率のエントロピーが各交響曲の状態パターンの出現確率のエントロピーよりも大きければプラス、小さければマイナスの値を取るように計算しています。今回の報告では差分だけではなく、元データである状態パターンの出現確率のエントロピーの計算結果(各交響曲と交響曲全体)も参考までに示します。同様にマルコフ過程としてのエントロピーの計算結果も再掲しますが、これは既に過去の記事で報告済の通り、状態遷移マトリクスから計算される定常状態が、深さが大きくなると収束してしまう傾向が見うけられたことから、単純マルコフ過程(深さ1に相当)、二重マルコフ過程(深さ2に相当)のみの計算結果です。

2.3. 状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトルによるクラスタリング(追加あり)

 従来から用いてきたR言語を用い、R言語の階層クラスタリング関数hclustで、complete法により計算を行いました。今回の分析の特徴として、各作品の状態遷移パターンの出現確率分布のベクトル(m1~m10)に加えて、交響曲全体の状態遷移パターンの出現確率分布のベクトル(all)も含めてクラスタリングを行うことで、全体と各作品の距離が視覚的に確認できるようにしてみました。既報の深さ0と深さに加え、深さ2~5も含めました。


3.集計・分析結果

3.1.カルバック・ライブラー・ダイバージェンスおよび相互情報量の計算結果(KLD(P||Q)とした時、P:各曲、Q:全体)

(A)カルバック・ライブラー・ダイバージェンス(各交響曲、対・交響曲全体)


(B)相互情報量(各交響曲、対・交響曲全体)

(参考1)出現確率エントロピー(各交響曲および交響曲全体)

(参考2)出現確率エントロピーの差分(Q-P、但しP:各交響曲、Q:交響曲全体)
※後期作品の深さ0の差分がマイナスになっている点に注意。第8交響曲はわずかにプラスだがほぼ0でした。

(参考3)マルコフ過程としてのエントロピー(各交響曲および交響曲全体、深さ=0:単純マルコフ過程、深さ=1:二重マルコフ過程のみ)
※交響曲全体(all)の二重マルコフ過程の状態遷移マトリクスから定常状態を計算すると収束するため、交響曲全体(all)の二重マルコフ過程エントロピーは1になっています。


3.2. 状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトルによるクラスタリング結果(各交響曲および交響曲全体)

(A)深さ=0

(B)深さ=1

(C)深さ=2

(D)深さ=3

(E)深さ=4

(F)深さ=5


[付録]ダウンロード可能なアーカイブファイルgm_sym_A_KLD_MI_cdnz3_pcl_v2.zipの中には以下のファイルが含まれます。

  • 入力ファイル(各交響曲および交響曲全体について)
    • gm_A_prob_all.csv:和音パターン出現確率(深さ0):値のみ
    • gm_A_prob2_all.csv:状態遷移パターン出現確率(深さ1):値のみ
    • gm_A_prob3_all.csv:状態遷移パターン出現確率(深さ2):値のみ
    • gm_A_prob4_all.csv:状態遷移パターン出現確率(深さ3):値のみ
    • gm_A_prob5_all.csv:状態遷移パターン出現確率(深さ4):値のみ
    • gm_A_prob6_all.csv:状態遷移パターン出現確率(深さ5):値のみ
    • gm_A_frq_all.csv:和音パターン出現頻度(深さ0):パターンラベル付き
    • gm_A_frq2_all.csv:状態遷移パターン出現頻度(深さ1):パターンラベル付き
    • gm_A_frq3_all.csv:状態遷移パターン出現頻度(深さ2):パターンラベル付き
    • gm_A_frq4_all.csv:状態遷移パターン出現頻度(深さ3):パターンラベル付き
    • gm_A_frq5_all.csv:状態遷移パターン出現頻度(深さ4):パターンラベル付き
    • gm_A_frq6_all.csv:状態遷移パターン出現頻度(深さ5):パターンラベル付き
  • 結果ファイル(各交響曲および交響曲全体について)
    • hist.txt:R言語の実行ログ
    • 画像ファイル
      • KLD.jpg:カルバック・ライブラー・ダイバージェンス(対・全体)
      • MI.jpg:相互情報量(対・全体)
      • pattern-entropy.jpg:状態遷移確率のエントロピー
      • pattern-entropy_diff.jpg:状態遷移確率のエントロピーの差分(対・全体)
      • hclust_complete_prob_all.jpg:状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトルによるクラスタリング結果(深さ=0)
      • hclust_complete_prob2_all.jpg:状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトルによるクラスタリング結果(深さ=1)
      • hclust_complete_prob3_all.jpg:状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトルによるクラスタリング結果(深さ=2)
      • hclust_complete_prob4_all.jpg:状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトルによるクラスタリング結果(深さ=3)
      • hclust_complete_prob5_all.jpg:状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトルによるクラスタリング結果(深さ=4)
      • hclust_complete_prob6_all.jpg:状態遷移パターンの出現確率分布を表すベクトルによるクラスタリング結果(深さ=5)
    • gm_A_pcl_KL_MI_summary.xlsx
      • 状態(パターン)の出現確率(深さ0~5)
      • 対全交響曲の出現確率エントロピー差分(深さ0~5):(Q-P、但しP:各曲、Q:全体)
      • 単純マルコフ過程、二重マルコフ過程としてのエントロピー
      • 対全交響曲のカルバック・ライブラー・ダイバージェンス(深さ0~5):(KLD(P||Q)とした時、P:各曲、Q:全体)
      • 対全交響曲の相互情報量(深さ0~5)

(2023.12.4)

[ご利用にあたっての注意] 公開するデータは自由に利用頂いて構いません。あくまでも実験的な試みを公開するものであり、作成者は結果の正しさは保証しません。このデータを用いることによって発生する如何なるトラブルに対しても、作成者は責任を負いません。入力として利用させて頂いたMIDIファイルに起因する間違い、分析プログラムの不具合に起因する間違いなど、各種の間違いが含まれる可能性があることをご了承の上、ご利用ください。