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2026年7月14日火曜日

「意識の音楽」としてのマーラーの交響曲を再考する──「共感指差し」から落伍者に手を差し伸べる「絶対的な小説交響曲」へ

 これまで「意識の音楽」という概念を用いてマーラーの音楽を考えてきたが、その意味するところは必ずしも十分に明確ではなかった。「意識の音楽」がマーラー固有の概念なのか、それとも近代音楽一般のある傾向を指す概念なのかについても、なお整理の余地が残されていた。

しかし近年取り組んできた交響曲的主体論、とりわけ自由エネルギー原理(FEP)を参照した主体類型の検討を経ることによって、この問題に対して一つの明確な見通しが得られたように思われる。

重要なのは、「意識の音楽」とは単に近代主体を表現した音楽ではないということである。近代以降の多くの作曲家は、程度の差こそあれ、自律的主体を音楽の中に実現している。しかし、そのことだけではマーラーを特徴づけることはできない。

ここでいう「意識」とは、ダマシオの意味での延長意識、すなわち自伝的自己を備えた自己意識である。それは身体感覚や情動に基づく現在の自己だけではなく、保持された過去と予期される未来とを統合し、一つの物語として自己を構成する主体である。このような理解は、これまで検討してきた意識の階層モデル、亡霊性と情動に関する議論、「二分心崩壊以後、シンギュラリティ以前の〈意識の時代〉」論などによって既に理論的基盤が整えられている。

したがって、本稿において改めてジェインズ、フッサール、ダマシオ、スティグレール、FEPを個別に積み上げ直す必要はない。むしろ、それらを統合した意識論を前提として、「そのような意識はいかなる音楽形式として実現されるのか」という問いから出発することが適切である。

そのとき、「意識の音楽」とは、「自伝的自己を形式化した音楽」と定義することができる。しかし、この定義もなお十分ではない。自伝的自己とは本質的に物語的自己であり、物語とは他者に向かって語られることによって初めて成立するからである。

この点でアドルノのマーラー論における「ねえ、よく聞いて」という指摘は、単なる比喩ではなく、マーラーの主体形式そのものを言い当てているように思われる。マーラーの交響曲には、聴き手に対して世界を「説明する」のではなく、「ともに経験しよう」と呼びかける語りの衝動がある。

このことは、やまだようこの発達心理学における「共感指差し」の概念と深い構造的類似を示している。共感指差しとは、「これが何であるか」を教える行為ではなく、「ねえ、見て」と他者と世界を共有しようとする行為である。それは共同注意の成立であり、自伝的自己や物語主体の発生以前に存在する、他者との世界共有の原初的形式である。アドルノのいう「ねえ、よく聞いて」は、まさに音楽における共感指差しなのである。

この視点から見れば、「絶対的な小説交響曲」というアドルノの規定も、新しい意味を帯びる。小説的であるとは、単に物語的な展開を持つということではない。そこには語る主体が存在している。そしてその主体は、出来上がった内容を語るのではなく、「語りながら次を語ろうとする衝動」の中で生成し続ける主体である。

アドルノが詩は対話であるという詩論を展開したパウル・ツェランのほぼ唯一の散文「山中の対話」への返礼として書き送った書簡で自己引用した、上記の「絶対的な小説交響曲」に関連した、第九交響曲第一楽章終結部についての「主題労作と物語性の統合」に関する記述、或いは「あたかも音楽が語りながら先へと語る衝動をはじめて受け取るように主題が湧き出てくる」というルジツカが自作のヴィオラ協奏曲の銘として引用する記述も、この観点から理解されるべきであろう。ここでは主題が変形するから物語が生じるのではなく、語ろうとする衝動そのものが主題を生成し続けている。

その意味で、マーラーに頻出する expressivo という指示も、単なる奏法上の「表情豊かに」という意味を超えている。それは旋律が、あたかも誰かに向かって語りかけようとする衝動を帯びているかのように演奏されるべきことを意味しているのではないか。

このように考えると、マーラーにおける「表現」の概念そのものも変化する。従来の表現概念は、主体の内面を音楽によって外化するものとして理解されてきた。しかしマーラーでは、表現とは世界を他者と共有する行為であり、共有可能な世界そのものを音楽の中で生成することである。

マーラー自身が「交響曲とは世界のようでなければならない」と述べたとされる言葉も、百科事典的な世界像の提示ではなく、自伝的自己が生きる世界を他者と共有可能なものとして構築するという意味に理解し直すことができる。それは世界の描写ではなく、「世界の共有」である。このような共有への志向は、アドルノがマーラー論の結びで述べる、「落伍者に向かって手を差し伸べる音楽」という特徴とも深く結びついている。それは倫理的付加価値ではなく、主体形式そのものから導かれる帰結である。マーラーの主体は、本質的に他者へ向かって開かれている。作品は自己完結した表現ではなく、他者を自己の世界へ招き入れる行為として成立している。

このような「世界の共有」という契機は、交響曲的主体の類型論から見ても重要な意味を持つ。マーラー的主体は、自由エネルギー原理(FEP)の観点から見れば、世界を予測し、その予測誤差を不断に更新し続ける主体の典型である。しかし同時に、それは動物型FEP主体が最も徹底したかたちで展開され、その内部に潜む限界が露呈する地点でもある。

従来、この主体の「裂開」は、主体内部における予測誤差の累積や自己更新の危機として理解されてきた。しかし、本稿の立場からすれば、その裂開は主体内部の出来事ではない。主体が裂開しているように見えるのは、その主体が本質的に他者との世界共有を志向しているにもかかわらず、その共有の条件そのものが近代において危機に瀕しているからである。したがって、裂開しているのは主体というよりも、主体と他者とを媒介してきた共同世界そのものである。

このことは、「ねえ、よく聞いて」というアドルノの指摘や、「絶対的な小説交響曲」という規定とも一致する。マーラーの語りの衝動は、安定した共同世界の内部で語る衝動ではなく、共有可能な世界そのものが失われつつある時代において、それでもなお他者と世界を共有しようとする衝動なのである。この意味で、マーラーの音楽における「語る」という契機は、単なる自己表現ではない。それは共同世界を再び成立させようとする実践であり、世界共有の再構築へ向けた行為なのである。

このことは、自由エネルギー原理そのものの理解にも修正を迫る。

自由エネルギー原理はしばしば、外界との境界を維持しながら自己保存を図る閉鎖的主体の理論として理解される。しかし、人間の自己は、そのような閉鎖系として理解することはできない。人間の自己は、他者との相互作用を通じて予測誤差を共有し、共生成的に自由エネルギーを最小化する方向へと開かれている。

したがって、マルコフ境界とは、自己を世界から隔てる壁ではなく、他者との触発と共鳴を可能にする膜として理解されなければならない。マーラーの交響曲が聴き手を世界へと招き入れようとする形式をもつのは、このような開かれた主体構造が音楽形式として実現されているからである。

このような主体理解は、主体の存在様式だけでなく、その主体がいかに世界を語るかという表現様式にも帰結する。 結果としてこのことは、交響曲という形式そのものの意味をも変化させる。

ここで問題となっているのは、主体はいかに成立するかという発生論でも、主体はいかなる存在様式をとるかという存在論でもない。そのような主体が、いかに世界について他者へ語るのかという表現論である。 

ロマン派音楽一般にも自己表現や世界表現は存在する。しかし、多くの場合、音楽は主体が表現する内容を担うのであって、主体の語り方そのものを形式化しているわけではない。 マーラーにおいて特異なのは、主体がいかなる存在様式において世界と関わるか、その語り方そのものが交響曲の時間構造へと転化している点である。

交響曲は、主体が世界について語るための器ではない。マーラーにおいて交響曲とは、主体の語り方そのものが音楽形式として実現したものである。作品は主体の思想や感情を表現する媒体ではなく、主体が保持・予持・回想・予測を繰り返しながら世界を他者へ語る、その時間構造そのものを形式化している。

したがって、マーラーにとって交響曲とは選択されたジャンルではない。世界を他者と共有しようとするマーラー的主体の存在様式は、必然的に交響曲という時間形式を要求したのである。

マーラーの交響曲は、自伝的自己が世界について語る音楽ではない。自伝的自己が世界と関わり、他者へ向かって世界を共有しようとする、その〈語り方=生き方〉そのものが交響曲形式として実現した音楽なのである。 

私は以前から、マーラーの音楽には、聴き手の背中をそっと押し、一歩前へ踏み出せるよう支えてくれるような性格があると感じていた。その感覚も、この主体論によって説明できるように思われる。マーラーの音楽は、単に世界を共有するだけではない。そこには、生きることそのものへの「いざない」がある。

このように考えるならば、マーラーは単に近代主体を音楽化した作曲家ではない。むしろ彼は、「意識の時代」において形成された主体が、その極限において自己の条件を問い返し始めた地点を代表している。主体は世界を予測し続ける。しかし、その予測が成立するためには、他者との共同世界が維持されていなければならない。

ところが近代において、その共同世界そのものが揺らぎ始める。マーラーの交響曲は、この危機を描写する音楽ではない。むしろ、失われつつある共同世界をなお他者と共有しようとする音楽である。アドルノのいう「ねえ、よく聞いて」という呼びかけ、「絶対的な小説交響曲」という規定、「落伍者に向かって手を差し伸べる音楽」という評価は、いずれもこの構造を異なる角度から捉えたものと理解することができる。その意味で、「意識の音楽」とは、自伝的自己を形式化した音楽であるだけではない。それは、自伝的自己が他者と共同世界を生成しようとして語る、その語りの行為そのものを音楽形式として実現した音楽である。

マーラーは、「意識の時代」が到達した最も自己反省的な主体を代表する作曲家である。マーラーの主体は、共同世界の危機のなかでなお他者へ向かって語り続けるという存在様式をもち、その語り方そのものが交響曲という時間形式のうちに最も明瞭に実現されている。 この意味において、マーラーは「意識の時代」の極限を代表する作曲家なのであり、「意識の音楽」のプロトタイプなのである。

(2026.7.14 公開)

2024年6月17日月曜日

「パルジファル」から「子午線」へと過ぎ越す「応答」としての第9交響曲(2024.6.17更新)

パルジファルの音楽は、それが現実に場を持たない感じがしない。 第1幕の前奏曲からして、それは既にあまりに現実的な空間を浮かび上がらせる。 それは具体的な現実の歴史の中の出来事ではなく、その中に場所も時点も 持たない。それは過去に起きた歴史的出来事の再現を企図しているのではない。 にも関わらずそれはひどく現実的で、まるである可能世界で「現実に」生じた、 あるいは生じつつある出来事のようだ。これは「ありえたかもしれない」出来事 なのだろうか。

劇場での上演という制約のためなのだろうか?音楽だけを聴いても その音楽は、ひどく現実的なものに聞こえる。神話的な空間での 出来事にも関わらず、登場人物は現実の身体を持つ「生身の人間」であり、 アムフォルタスにせよ、クンドリーにせよ、その苦悩はひどく人間的なもの、 あまりに人間的なものであり、その感情はいわゆる「この世ならぬもの」の 息吹からは遠い。神話的で、或る意味で図式的でありながら、少しも 現実的な感情を逸脱しようとしない。寧ろ、現実的な筋書きを持つ オペラが、そらぞらしくわざとらしく感じられる(ごく単純に、人は普段そのように 歌ったり、振舞ったりしないものだという白々しさの感覚に囚われる)のに対し、 ここでは演劇的なもののもつ空々しさは、或る意味で巧みに帳消しに されているという見方もできるだろう。(パルジファルの筋書きだけを取り出して 映画をとったときのことを考えてみればよい。むしろそちらの方が現実離れ した感じを与えるのではないだろうか。)科白が歌われること、音楽が 常に物語の背景に流れ続けていることは、ここではまるで当たり前であるかの ようだ。逆に、音楽を介して、ある可能世界の現実が成立しており、 音楽を介してしか、その世界の出来事を理解可能なかたちに翻訳することが できないかのようだ。

それに対応するように、「聖金曜日の奇跡」は少しも奇跡のようでない。 それは寧ろ、ごく普通の四季の循環のプロセスにおける出来事に対する 価値付け、解釈の結果のようであって、劇場の舞台の上で如何なる 奇跡も現実には起きないように、音楽もまた如何なる奇跡をももたらさない。 それはごく普通に或る瞬間に、この世において生身の人間が見るであろう 風景のようだ。

時間論的に未来完了的な構造を備えていることとの関連について言えば、 ここでは前奏曲で予示されてしまった「音楽的出来事」が展開されるだけであって、 新たな何かが到来することはない。「再現」はここではベクトル性の深みを欠き、 どこか遠くに来てしまって、後戻りが利かないという感覚は希薄だ。 全ては起こるべくして起こった。仕組まれており、偶然やゆらぎのもたらす、本当の 意味での「新しさ」がここには欠けているのではないか? 寧ろそれは、かつて起きたことの反復、これからも永遠に繰り返される出来事の 提示のように感じられる。 物語のプロットは非可逆的性を備えているようであるにも関わらず、それは 反復されうるように感じられる。同じものがそっくりそのまま繰り返されるのだ。

色々な演出での色々な時点と場所におけるパルジファルの上演は、演出家が 如何に差異を意図し、オリジナリティに取り憑かれていたとしても、結局は同じものの 繰り返しにしかならないよう予め定められているかのようだ。しかしそれはある意味では 当然で、演出を替え、衣装を、舞台装置を替え、歌手を、オーケストラを、指揮者を 変えても、音楽そのものは変わらない。ここでは音楽が全てを生じさせる根拠なので、 所詮はそうした変化は、或る種の展望の相違、視点の相違に過ぎない。 ある春の日が、別の一日と気温も湿度も、光の調子も、何一つとして全く同一と いうことはないのに、結局は同じ春の一日に過ぎないと感じられるのに近い感覚がそこにはある。

こうしたあり方を指して「神話的」と呼ぶのであれば、これはまさしく「神話的」であり、 神話そのものと言っても良いようにすら思われる。 この作品が成功しているのか、失敗しているのかは、そこに何を求めているかによるだろう。 しかし、どちらにしてもこの作品が極めて完成度の高い、優れた作品であることは間違いがない。 ある見方をすれば、これは恐るべき力を持った、あまりにうまくできた、完璧な成功作であろう。 この作品を、或る種の頂点、極限と見做すことは不当なこととは思えない。

「舞台神聖祝典劇」というジャンルの創出企図にも関わらず、舞台の上で、あるいは 音楽の裡で起きる出来事は、あまりに強い実在感を備えすぎているし、想像される意図 からすれば意外なことかも知れないし、人が期待するものからしてもそうかも知れないが、 超越的な契機を欠いているようなのだ。一言で言えば、その音楽は聴き手を 「どこか別の場所」に連れ去らない。勿論、パルジファルの物語の空間は、虚構であり、 現実ではない。そしてこの音楽が聴き手を、物語の空間に、虚構の中に誘う仕方が 如何に完璧で、如何にその力が強力かについては既に述べた通りである。 だが、それは「どこか別の場所」が備えているべき「他性」を欠いているように思われる。 彼方から到来するものの息吹に欠けている。

恐らくはベクトルの向きが逆なのだ。予め虚構の時空の中で繰り広げられる 物語は、現実が彼方からの息吹によってこの世ならぬものに変容する一瞬を 持ち得ない。変容する瞬間のもつ「突破」のベクトル性の深みもまた持ち得ない。 どこかに裂け目があって、そこから何かが到来するという構造がここにはそもそもないからだ。 皮肉なことに、ある意味でこの音楽が完璧なだけ、もしかしたら作者の企図の実現の 度合いに関して、例外的な程までに成功しているがゆえに、その出来の良さの分だけ、 「他性」を、「超越」のもつ受動的な構造を、作品自体は決定的に欠いているのだ。 作品の内側においては、ある仕方では「超越」のもつ受動性が示されているという見方も 可能だろうが、それは皮肉にも逆の意味を帯びてしまいかねない。このような仕方で 受動性が提示されてしまうと、それはそれで一面的なものとなり、本来はその背後に 働いている契機が、恰も否定されてしまうかの如き誤解を生じかねない。もっとも ワーグナー自身にしてからが、もともと本当にそう考えていたのであり、だからここには 「誤解」などなく、寧ろ私の側に「誤読」があるか、控えめに言っても、無い物ねだりを しているだけなのだという意見はあるだろうし、それにも一理あることは認めざるを得ない。

だが音楽はそもそもすべからくそうしたものではないのか、という問いに対しては、 そうかも知れないが、必ずしもそうとは限らない場合もあるように思える、と言うほかない。

私が経験した限りにおける「パルジファル」において生じていると私に感じられた上のような事態を ベイトソンが「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」で導入した「一次過程」について、 「冗長性とコード化」の夢の中のコミュニケーションに関するくだりを補いつつ照合してみると、 「パルジファル」に関して、それが現実に場を持たない感じがしない、というひどく回りくどい言い方を 私がしたのは、ベイトソンが夢の特性として指摘している性質故ではないだろうかというように思える。 それは直説法的ではない。まさに「ありえたかもしれない」ものの提示であり、ある「パターン」の提示、 ホワイトヘッド的な永遠的客体の無時間性を備えた、括弧入れされた提示なのではないか。 だからそれは、何度でも、変形されつつも、同じ「パターン」として提示されうる。 「パターン」の不変性を担うのが、ここでは「音楽」であるというように私には思える。

更にベイトソンはフロイトが夢を「夢の作業」による加工・変形を経た二次的なものであるという考えを、 或る種の転倒と見做している。 だが、「芸術とは、われわれの無意識の層を伝え合うエクササイズである」と いうベイトソンの定義に忠実にあろうとしたとき、既に意識を備えた有機体である人間の、その意識が己の 構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとしたとき、そうした転倒は避けて 通ることのできない経路なのではないか。あえて自分の背後を覗こうとした意識が受け取るものは、 自分自身を含む精神の「幽霊」なのだということに気づくことはないのか。 そしてそういった意識と無意識の関係が原理的に抱える問題に気づいた意識は、 ベイトソンの言う「魂の部分間の統合 - とりわけ、一方の極を「意識」、もう一方の極を 「無意識」とする精神の多重レベル間の統合」を企図したとして その企図が破綻を運命づけられている場合もまたあるのではないか。

ベイトソン自身、「目的意識対自然」においてその統合の困難について語っている。 単に意識を融解させて無意識的なものを噴出させるのではなく、統合を企図したとき、 既に予め分裂している状態で生じるのは、ポリフォニーであり、幽霊との「対話」による 超越の試みではなかろうか。「世界を構築すること」としての交響曲創作は、そうした統合の 試みであり、マーラーは生態学的心理学的な意味合いでの拡張された「心」のあちらこちら (それは自分の内部の無意識かもしれないし、外部の環境かもしれない) からの声に耳を澄ませ、それに形式を与えようとしたのではないか。

それゆえ破綻を宿命づけられた超越の試み自体を定着させた作品があってもいいし、 それは見方によっては壮大な「失敗作」と断定されもするのだろうが、そうした作品に よってしか聴き取ることのできない音調というものがあるだろう。 未来完了的な音楽の構成法という点では表面上は共通しているにも関わらず、 「どこか別の場所」の端的な非在を告げつつ、そうすることで「どこか別の場所」を 浮かび上がらせるような作品というものがある。それはツェランがある詩篇で戦慄すべき 簡潔さで言い当てたように、どこにもない傷をもここから取り去らねばならないといった 現実から発して、時間を通って、だが、誰に届くかもわからず壜に詰めて投じられると いった作品のあり方に、こちらはこちらで正確に対応した内実を備えている。 それは作品の中で「対話」を志向し、作品そのものもまた「対話」を志向する。 「虚構」を「虚構」と指し示し、裂け目から垣間見たものが幻影に過ぎなかったのでは ないかという懐疑にさいなまれつつ、そうした裂け目の彼方を目がけてなおも発せられる 予め挫折を運命づけられたかのような作品によってしか告げられない超越の様態がある。

アドルノはマーラーの第8交響曲における否定的な契機の欠如を批難する。 だが、マーラーが「パルジファル」であれば第2幕に対応するような場面を第8交響曲に含めなかったのは、1曲全体が「突破」の瞬間を押し拡げたものであるかの如きこの 作品にとっては当然のことであり、そうすることで得られたであろう芸術的な成功は、 そうしなかったことで得られた「応答」としての切迫、パウル・ツェランが「子午線」で語ったような、「探しあてらるべき場所の光に 照らされての―どこにもない場所=ユートピアの光に照らされての」「みじめな生き物」としての 「人間」の「場所(トポス)の探索」のぎりぎりの試みの持つこれ一度きりの切迫を 損なってしまったであろうことを思えば、どちらの側に私が与するかは明白である。 聴く者は、自分がどこにいるのかが一瞬わからなくなって恐慌に陥るかも知れない。 「ありえたかもしれない」世界を克明に、あたかも現実のように示す芸術の傍らに、 「ありえない」場所を浮かび上がらせる営みがある。

それを思えば、マーラーが1883年に聴いた「パルジファル」への「応答」が、 第9交響曲であるということ(この点はアドルノが「『パルジファル』の総譜に寄せて」で指摘している。本ブログの記事「アドルノの「パルジファルの総譜によせて」中のマーラーへの言及」を参照)は、一見すると矛盾しているかにさえ見えるマーラーの 内的な一貫性を示していると考えることができるだろう(アドルノの側についてもまた、本ブログの別の記事「アドルノがパウル・ツェラン宛書簡で自己引用した「マーラー」における第9交響曲についての言及」で触れているように、ツェランに宛てた書簡の中で、よりによってマーラー・モノグラフの第9交響曲に関する箇所を自己引用していることを指摘していることを以て、ここでの「子午線」への過ぎ越しへの企てが筆者の恣意ではないかという疑念に対して答えておくことにしよう)。全く異なる色彩と音調を備えた 風景の中で聴き手は逍遥し、未来完了的な主題構成法も、移行の機能も、 鐘の響きも全く異なるものに変容させられていることに気づく。否、それが「パルジファル」の エコーであることにそもそも気づかないということだっておおいに有り得るし、それで構わないのだ。 モンサルヴァートの春の野辺での聖金曜日の奇跡の代わりに訪れるのは、ドロミテの地で "Enrosadira"と呼ばれる現象、日の出や夕暮れの陽の光に照らされて、赤色、薔薇色、 菫色などの色彩に変化する現象であり、太陽が沈んでいくある夕べの対話の一刻である。 そうであってみれば、そうした「山中の対話」(ただしこちらはエンガディンにおいてだが)を語ったもう一人の小さなユダヤ人のことばが、 そこでの消息をこの上もない正確さで告げていたとしても、何の不思議もない。私如きが 付け加える言葉は最早ない。だから私はここで沈黙し、もう一人の小さなユダヤ人に 語らせることにしよう。

(...) Erst im Raum dieses Gesprächs konstituiert sich das Angesprochene, versammelt es sich um das es ansprechende und nennende Ich. Aber in diese Gegewart bringt das Angesprochene und durch Nennung gleichsam zum Du Gewordene auch sein Anderssein mit. Noch im Hier und Jetzt des Gedichts - das Gedicht selbst hat ja immer nur diese eine, einmalige, punktuelle Gegenwart - , noch in dieser Unmittelbarkeit und Nähe läßt es das ihm, dem Anderen, Eigenste mitsprechen : dessen Zeit.

Wir sind, wenn wir so mit den Dingen sprechen, immer auch bei der Frage nach ihrem Woher und Wohin : bei einer »offenbleibenden « , » zu keinem Ende kommenden «, ins Offene und Leere und Freie weisenden Frage - wir sind weit draußen. Das Gedicht sucht, glaube ich, auch diesen Ort. (...) (Paul Celan, "Der Meridian")

(…)この対話の空間の中で、はじめて、語りかけられるものがかたちづくられます、語りかけられるものが、語りかけ名ざす「わたし」のまわりに集まってきます。しかもこの語りかけられたもの、名ざされることによっていわば「あなた」となったものは、この現前の中へおのれの別のありようをも持ちこむのです。詩の「ここ」と「いま」においてなお――たしかに詩自身はつねにこのただ一つの、一度かぎりの、そのたびごとの現前しかもたないのですが――このような直接性と身近さの中においてなお、このものはみずからの、つまりわたしたちにとっては「別のもの」の、ひたすら固有なるものをともに語らしめます――すなわちその時間を。

 このようにして、わたしたちが物事について語るとき、わたしたちはつねにそのものたちの「どこから」と「どこへ」をも問いかけているわけです――これは、「未解決にとどまる」「決して終わることのない」問いかけ、そして、ひらかれたもの、うつろなもの、ひろびろとしたものを指向する問いかけです――わたしたちははるか外へ出てしまっています。詩もまた、この場所を求めるのだ、と思います。(…)(パウル・ツェラン、「子午線」、飯吉光夫編・訳、『パウル・ツェラン詩文集』、白水社、124~5頁 )

(2012.12.15公開,17加筆. 2023.12.6 ツェラン「子午線」の引用部分の邦訳を追記。2024.6.17改題の上、自他の文献の参照を追記)

2022年12月7日水曜日

備忘:意識の音楽、自我の音楽:アンリ・ルイ・ド・ラ・グランジュ『グスタフ・マーラー:失われた無限を求めて』を参照しつつ(2022.12.7更新)


* * *

意識の問題を優先させるのだ。これこそが解くべき問題。
だが、意識の「何を」解けばよい。
音楽は無力。だが、信仰もまた。
それは「私」しか救えない。

音楽が他人を楽しませるのなら、他人を癒すなら、それは役に立っている。
作ること、演じることは、役に立つ。
だが、聴取は他人には働きかけない。
それはせいぜいアフォーダンス、可能態に過ぎない。

信仰は私の一人称の問題を主観的には解決するかもしれない。
だが、二人称の問題に対しては無力だ。
無力さを意識し、何かに委ねることは、制度としての信仰がなくても可能だ。
委ねる何かに何らかの超越性を認めるかどうか、人格性を認めるかどうかの 違いに過ぎない。勿論、だから行為へのいざないをもつ「教義」というのが あるのかもしれない。だが、それとて、ここで扱わなくてはならない意識の 問題の系の一部なのだ。行為へのいざないは、そうした外在的な制度が なくても、存在するし、意識することができる。

意識の問題とは、だから、一人称に限定されない。
二人称の、あるいは三人称の、相互主観性の問題を扱わなくてはならない。
ただし、認識のレベルではなく、役に立つかの、行為の、実践の、インタラクションのレベルで 扱わなくてはならない。

* * *

ベクトル場としての音楽。
運動(行為)が新たな場を引き起こす。

意識の音楽、自我の音楽を定式化すること。
マーラーの場合、多くの場合には常に自意識が働いている、目覚めている。だが、いつもではない。
単なる気分や情緒でなない、メタレベルの自己言及性が表現されている。
皮肉、韜晦、二重言語、パロディが成立するレベルがある。これは文化的な方向付けの上での 解釈とは別次元で保証されている。そういったレベルは実在する。
可能世界意味論。あるいは世界制作。

* * *

音と主体
主体とは、結局(自)意識のこと。自覚的システムのこと。
実験音楽が音を問題にするとき、そこでは(自)意識は問題になっていない。
ある抽象的な状態が問題。抽象的形式的な枠のみ与える。
そこから自意識への作用は聴き手にまかされている。表現の断念、拒否。

ある構えの呼び起こし―知覚
を考えたとき、その呼び起こしの中に、自己言及的なレベルを含むか
記憶の問題?
ある相互作用自体の呼び起こし?

津田一郎「複雑系脳理論」p.84のスマリヤンによる推論者の階層的定義に従って、意識の現われるレベルを位置づける。
0.命題なりパターンなりの呼び起こし
1.命題だけでなく、命題に対する志向的態度も呼び起こされること
/1a..志向的態度のみが呼び起こされること
2.命題に対する志向的態度に関する認識も呼び起こされること
2a.志向的態度に対する認知が呼び起こされること
シミュレーション能力:自覚的システム=自意識。
時間の感受のシミュレータとしての音楽。

* * *

意識と音楽、結局アドルノ風の観相学は有効。
ただしその社会批判的な側面は制限してよい。
観相学においても、作品にあらわれたものとしての(つまり結果としての)意識の現われについて語り得る音楽は 限定される。(ex. マーラー/ショスタコーヴィチ)
それは世界に対する反応の、しかも反省を含めた(高度な推論者を含めた)記述でなくてはならない。

単なる情動、反応でないような認識の構え
屈折か、外性の意識が必要。
外と主体との「調停」ができていない方が関係の様相ははっきりする。
破綻の瞬間―アフォーダンス、存在の開け
倫理的次元の彼方…。
死についての意識。老いについての意識。別れについての意識…。

外性の大きさ、主観の強さをモデル化できないか。
そのように思われるのは、何によるのか?
統一性、素材の節約の度合い。
コヒーレンスのようなもの
世界のあらわれの度合い?
主観の受動性?

* * *

可能世界。夢や空想、幻想、神秘的で非日常的な経験。
こうだった、こうでありえたかも知れない、という記憶や予期に彩られた現在。
そして、音自体ではなく、音を触媒に音以外の事象についての地平を、 フレームを浮かび上がらせる音楽は、やはりかけがえのない豊かさを持っている。
音楽が役に立つか、を問うならば、それもまた効果の一つであり、豊かな方が良い。
もちろん抽象的な音の運動を浮かび上がらせる姿勢も一つの態度ではある。
だが、役に立つかを問題にしたとき、それは、結局のところ認知実験ではないのだから、 文字通り「世界が限られている」。

Sartreの自我の超越―構成するものでなく、されるものとしてのEgo
物理学的描像―自我の構成についての説明というのは、まああり得るかもしれないのだが、 自我の構成する働きが消える訳ではない。
自我は構成されるものであり、かつ構成する機能を持っている。その間には二者択一はない。
そもそも矛盾などないからだ。
自我をinertなもの、クオリアの様なものとして還元するのは、自我を専ら機能的なものと考え、 自己感というクオリアを消去するのと同じにように間違っている。

幻想の否定もそれが主観の展望なり信念である限りは幻想に過ぎない。
救いもその否定も、主観の思いなしに過ぎない。志向的スタンスの問題に過ぎない。
ショスタコーヴィチが間違っているのではないが、より正しいという訳でもない。
だが、ミームの存続は?作品は?主体と異なる他者としての作品の存続は?

幻想ということは結局は物語、fictionであるということ
1.どういう物語なのか?他者との関係は?物語の共有?交換?作品としての物語の存続、ミームとしての伝承
2.経験の質、クオリアによる計測、迫「真」性という測度の導入?

* * *

意味や価値を見出せない、という状態も、主体の状態の一つに過ぎない
それは何か特定の価値を信じる盲目を嗤うかも知れないが、だが特権的な位置に居るわけではない。
自分の背中を見ることができない、という点では同じなのだ。
何事も相対化してしまい、肯定的な価値を置いていたものの裏面に否定的な契機を嗅ぎ付ける態度は 批判的といえば聞こえはいいが破壊的だ。
そうした傾向は、主体が覗き込めない主体を支える無意識の、下意識のメカニズムに由来するのだろう。

一方で、生物学的な、神経科学的な「事実」というのは、目を背ける訳にはいかない。
有限性、儚さは事実だ。
否、多分、それはもう問題ではない。価値の多様性と相対性、価値の領域におけるダーウィニズムが問題なのだろう。

多元性に何故傷つくのか?
「自分」の眺望の意味は担保するものの、根拠薄弱は仕方ない。
それがどうして己の行為の価値への疑いになるのか?
自然も、音楽も、思想も、己の価値の体系の中にあったものが、かつて程は自分をひきつけなくなっている。
それらの限界を、制限を無視できない。
「夢中に」なれなくなっている。
対象を信じられないのは、自分を信じられないのに対応している。
だが、それを知ったところでどうすればいいというのか?

* * *

表象(物語のイメージ「も」含む)―KleinのObject、表象についての論争にとって、どういう意味合いを持つのか?
世界認識のスキーマの有無?
「表象なしの知性」etc.の文脈―フロイトの動力学的な解釈は可能か?
記憶と表象の問題
客観的、現実的な対象、というときも実際にはあるスキーマを通しての認識だ。
経験によって獲得される後成的なネットワークがあるのは確かだが、―クラインならPositionと呼ぶのだろう。
生物学的に―遺伝的に、先天的に与えれる条件があるのも確か
タブラ・ラサは虚構だ。

* * *

どこまでさかのぼる事ができるのか、という問題なのだ。
Adornoの方向とHusserlの方向には大きな隔たりはない。
強いて言えば、遡及の途上を根源と見做して、基礎付けを宣言するのは誤りだ。
そして己の背中を見ることはできないから、内観主義的な方法は限界を持つ。
(それは説明されるべき経験の可能性自体であって、説明の道具にはならないのだ。)
だが、それに替わる方法に唯一正解があるわけではない。
Adornoの「その先」が、どんなに恣意的な物語であるかは、実際の適用―音楽に対する―を見れば明らかだ。
オリジナリティ、独創性と工学的な方法論(追試可能で、検証可能な)の緊張もあるだろう。
Husserlの還元もそう。
大言壮語は不要だが、すべてを否定することはない。

de La Grangeの「自分の魂の状態を表現する以上のことを求めた」(アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジュ『グスタフ・マーラー:失われた無限を求めて』, 船山隆・井上さつき訳, 草思社, 1993, p.13)というのは全く正しい。
マーラーの音楽は、意識の音楽だが、それは内部状態の記述に終始しない。「超越」についての報告たり得ている点で それはもはや主観的とはいえないのだ。
またマーラーは、自分を限定され、己の有限性の中に閉じ込められた存在とは考えない。まさに作曲を通じて 無限なるものへと通じていると感じていた(それが思い込みであったにしても―その疑いは、R. Straussが H. Pfiznerが皮肉交じりにすでに指摘していた)

「失われた無限を求めて」というde La Grangeの著作の題名は、だから両価的だ。一方でそれは無限を問題に する限りで正しく、他方でそれはそれを「失われた」―かつてあったものと捉える点で間違っている。
だが、無限なものとのつながりの予感は、唯物論的に、またミームの進化論の観点からも正しかった。
まさに彼は、作品を通じて「永遠」へと(ただし、非形而上学化された進化論的に限定つきでだが) 通じている。
(de La Grangeが後期様式について語った「永遠」観念的な、甘美なものとここでの永遠は何の関係もない。)

※では「大地の歌」のEwigはどうなのだ?de La Grangeではなく、マーラー自身とも無関係だというのか?

心理・音楽学(同書, p.110)は興味深い。が、これが精神分析を方法論とする必然性はない。勿論、言われるところの 無意識を否定することはないが、まずもって必要なのは創作の謎ではなく、創作されたものの謎だ。
だからそれはまずは認知的なレヴェルにとどまらなくては。
創作されたものから創作への性急な遡行は Adornoにも見られる(彼は精神分析にも否定的ではない)。
だが、まずもって謎があるとすれば作品だ。

精神分析の自然主義化が必要なのだ。無意識、エス、超自我、いずれにしても、それは脳内に後成的に 形成されたネットワークの構造に過ぎない。

* * *

マーラーの「反復」についての考えに留意すること(同書, p.129)
「反復や再現や後戻りは「偽り」(マーラーの言葉)であり、またまったく単純に作曲者の 脆弱さとその役割の放棄のしるしであった。」
「二人ともAdornoが「非可逆行性」と呼んだもの、つまり同一の足跡に戻ることは不可能だと いう考えをやはり確信を持って表明している」
勿論、これはAdornoの言うヴァリアンテの技法に関係している。(古典的な意味での変奏ではない。) 
「やはりアドルノの創案した用語を使って言えば、マーラーの「小説風交響曲」の起源は まさにこのような点にあるのであり、そこではいくつかのエピソードが物語りのなかでのようにあらかじめ定められたプランに従わずに自由に連続し、登場人物たち(諸主題)は discoursにそって動き回る。」
と同時にこのことはマーラーの音楽を「心理的に」意識の流れとして読むことを保証している筈だ。

一方で、本物の劇的展開―つまりオペラや劇音楽のうち、統合性の高いもの―との比較に 注意すべきだ。つまり―例えばマーラーの内部に例を求めれば、「嘆きの歌」や第8交響曲第2部の様な部分は、まさにプロットが 音楽の流れを直接支配するが、これと上の意味合いでの心理的展開、小説としての流れとは 一致しないのだ。ソナタやロンド、変奏曲形式、なかんずく二主題の変奏曲形式のあるタイプが むしろここではモデルになる。
その展開の力学は「物語」に由来するものではない。そうではなくてある意味では自律的な 法則を持っている。第3交響曲第6楽章や第4交響曲第1,3楽章、第6交響曲第4楽章、第9交響曲第1,4楽章、第10交響曲第1楽章といった器楽の音楽が、その法則の具体化なのである。
音楽の持つ「効果」による「例証」。連続性、断続、充足、終結、あるいはAdornoのDurchbruch/Suspensionも含めて 心理的(フロイト派でも何でも)ではなく、せめて認知心理のレベルで意識の様相の記述と対応付ける。

音楽自体を記述の媒体として捉えること。
表現と記述。クオリアの再現が可能なある記述の体系なのだ。 (少なくともマーラーの音楽は)意識現象は様々なレベルと手段で記述できる、そのうちの1つとして位置づける。 ―音楽は意識の流れ自体ではない。感情そのものではない。
それを「ひき起こす」側面のみが(表現の側面のみが)強調されるが、音楽もある仕方で、そうした流れや 感情の記述になっている。ロマンと対比される程のマーラーの音楽は特にそうだ。
それは外部事象の模倣(描写音楽)ではなく、内部事象の記述なのだ。

* * *

標題に、歌詞にひきずられずに音が記述するものを読み取る。
それを標題や歌詞とつき合わせてイロニーが判定できる。
アドルノ的な歴史のスキーマは一旦捨てるべき。勿論創作の極の「文化史」なり意識のありよう、 社会のありようがしかじかであったという事実はある。
だが、読み取るのは音楽が記述することなら、何が隠れているのかを事前に決めなくても良い。
西欧の社会の歴史を読み取らなくてもよい。
観相学は別の枠組みで機能させることも可能ではないか?
文化史は結構(フローロス)だが、アドルノはそれ自体を「素材」と見做しつつも結局、「文脈」に 戻ってゆく。創作の文脈の外にあるものは音楽からは聴き取れない。
だが音楽作品は別の文脈でも機能しうる。
相互作用も起きる。そうした文脈形成を、つまりはミームとしての存続を保証するのは作品そのものだ。
アドルノ的な文脈から離れて作品の認知的なスキームを記述すること。
所詮は文化依存のものとはいえ、「意識」レベルでの共時的な記述を試みること。

認知のレベルは一般的だが、「意識の音楽」という定式には限界がある。
マーラーならOKだが、他の作曲家がどうかは個別に検討すべき。
マーラーが中心、出発点の展望は自明でない。それに留意すれば、だが、その展望ならではのものがあるだろう。 しかもここではさしあたりマーラーの場合で十分なのだが。

* * *

自分の例えばバルビローリのマーラー演奏に関する評言を練り直すこと。
意識の音楽、主観の、世界に対する反応の音楽というのが、如何にして正当化されうるのか、の議論が必要だ。
形式的には、バルビローリについて演奏スタイルについてのコメント―聴くことをめぐる幾つかの視点を 書いたのが参考になるだろう。
あるいはショスタコーヴィチについて書いたときの論点をマーラーにapplyすることによって少なからず明らかになるだろう。

テンポの設定の問題も、意識の様態として考える際の重要なパラメタになりうる。遠近法(空間性)図と地、特に地の、 地平の存在はマーラーの場合これまた重要だろう。

過度に主観的に受け取ることについての異論が存在するだろう。それは歌曲の側から来る。
主観的な抒情詩の世界からはマーラーは遠い、ムソルグスキー、ヤナーチェクというAdornoの連想は多分正しいのだ。
一旦中期のRueckertの時期に主観性に辿り着いたという見方もあるだろう。
だが、多分中期においてすら、少なくとも交響曲では、いわゆる抒情詩的な主観性と異なるものがある。 要するに、意識の音楽は、主観の音楽は「主観的な」音楽ではないのだ。この点を強調する必要がある。

そもそも交響曲の構成原理は、主観的な叙情からはでてこない。よくマーラーの交響曲の形式は借り物だ、 と言われるが、だが、交響曲が「既存の」形式であった以上、同時代の誰にとってもそれは借り物なのだ。 要するに、交響曲の構成を支える要素は、世界の側に存する。マーラーにとっては既存の交響曲という形式そのものが「世の成行き」なのだ。

* * *

シェーンベルクの「メガホン」。書きとらされているというマーラーの証言。

Sibeliusの孤独、何と遠いことか。
あの主観と風景のあり様は、やはり例外的なものだろう。
単に人との交わりを絶って、ひとりになることはではない。
例えばマーラーの第3交響曲が書かれた環境や、Ich bin der Welt abhanden gekommenを考えればよい。
それは主体の享受の相で捉えることができる。

第3交響曲は一見、客観の力をほとんど制御せずに(第9交響曲でそうであったように)主体はほぼ媒体として機能しているように見えて、その主体の「形式」の 「形式化する」力はきわめて強い。要するに、ここでの立場の違いは、世界を表現することと音の自律的な運動に身を委ねることの違いなのだ。「メガホン」であることは、非人称性は、作品の無個性、汎個性を意味しない。(事実は全く逆だ。)

Selbstgefuehlという標題は興味深い
確かにこれを「うぬぼれ」と訳すのは妥当でなさそうだ。
しかも、この歌詞はマーラーの音楽の持つ「批判的態度」の典型的な例証となっている―ただし、自分の気持ちが 「わからない」というアイロニーの形をとってだが。

* * *

(2022.12.7:2002~2008の間に書き留めた備忘を整形・校正・編集)

2021年5月9日日曜日

第3交響曲が私に語ること(2021.5.9 マーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会によせて:初期稿)

第3交響曲はマーラーの音楽の特徴が様々な側面で最も顕著に表れた作品であるといって良いだろう。この作品に限れば後付けの説明ではなく、複雑な変遷を経て1902年のクレーフェルトでの初演のプログラムにその最終形が掲載された標題のみならず、マーラー自身の書簡、ナターリエ・バウアー=レヒナーやブルノ・ワルターの回想等に残された証言も豊富であるが故に、この作品は、マーラーの作品を巡ってしばしば生じる、音楽の実質から遊離した言説の最大の被害者であると同時に、音響外の要素を一切捨象して最終的な音響態のみを自律的、自足的なものとして取り出そうとする姿勢の抽象性を暴き立てるという点で最も雄弁な証言者でもあろう。更にマーラーの交響曲の形式的な面での伝統的な交響曲形式からの逸脱の具体的な様相として思い浮かぶ、作品の長大化、楽章数の拡大、「部」(Teil)という階層の導入、楽章間の長さのコントラストの拡大、管弦楽編成の拡大、特殊楽器の使用や声楽の導入、そして空間的な次元の導入(舞台裏や「高いところから」といった指示)といった特徴の悉くが当て嵌まるこの作品は、それが生まれた時代にほぼ今日の姿になった巨大なコンサートホールでの演奏会という制度の中で、その可能性を極限まで追求した試みという見方もできるだろう。2部6楽章からなる重層的な全体構想における楽章間の調的な配置、そして各楽章の構造、中でも巨大で複雑な第1楽章の構造については、規範からの逸脱という見方ではその独創性を汲み尽くし難く、安易な分析を受け付けない。

調的な構想について見ると、「夏の朝の夢」という標題とともにヘ長調という調性を記された草稿が遺されているかと思えば、ニ短調としているオスカー・フリート宛書簡もあり、全体の調性がニ短調かヘ長調に関して諸家の意見は分かれるようだ。実際、第1楽章はニ短調で始まりヘ長調で終わり、イ長調の第2楽章の後、第3楽章はハ短調だがポストホルンの長大なエピソードはヘ長調、続く第4楽章はニ長調、第5楽章はニ短調のエピソードを持つヘ長調であり、第6楽章に至ってニ長調となるのであり、ヘ長調とニ長調の葛藤・対立があって、フィナーレではニ長調が主調として確証されるという構想が読み取れる。そこから逆算するように第1楽章は提示部末尾で一旦ニ長調に到達しながら、末尾のみならず楽章全体としてもヘ長調が優位であり、最初にトニックとして確立されたかに見える調性が実はドミナントであったというサブドミナント方向への三度関係の動力学が読み取れよう。

作品の成立過程については、構想上の紆余曲折を経て、フィナーレとして、アドルノの言う「充足」カテゴリのアダージョを持ってくることにより、いわゆる「フィナーレ問題」に回答を与える見通しがついた地点に至って、それまでに書かれていた楽章すべてを第2部とし、第1部として、それと釣り合う破格の規模を持ち、当初は2つの別々の部分として構想された序奏とソナタ楽章本体を一つに融合した第1楽章を持ってくるという構想が定まったと考えることができるようだ。そして「フィナーレ問題」の解決とともに、当初の構想の要石であった歌曲「天上の生活」がはみだしてしまい、そちらは第4交響曲として別に作品化されることになる。マーラー自身が弄り回した挙句、昇ったら不要になった梯子のように 最後には放棄してしまったとはいえ、様々なバージョンが遺されている標題の変遷過程は、完成した狭義での第3交響曲についてのそれではなく、こうした動的で流動的な創作過程の軌道の痕跡であり、最終的な2部6楽章の形態を、結果として第4交響曲のフィナーレに収まった歌曲をフィナーレとする構想のような幾つかの疑似的なアトラクタを経て辿り着いた不動点と捉えることを要求しているようだ。

第1楽章はその調的プロセスから、序奏が埋め込まれ、行進曲を主部とするソナタと捉えることができるが、それは、やはり第1部としてこちらは強い素材連関を持つ独立の2つの楽章を擁する第5交響曲、序奏が埋め込まれ、行進曲を主部とするソナタという構想をフィナーレに適用した第6交響曲を経て、序奏が回帰しつつ2つの対比的な主要主題が変形を繰り返す側面がソナタ形式を内側から圧倒してしまう第7交響曲の第1楽章を通って、第10交響曲のあの無比の構造を持つアダージョに至るマーラーの絶えざる試行の最初の一里塚ともいうべき成果であり、創作の巨大な過程の一部として捉えることができるであろう。

更に書簡や回想等に遺された言葉から窺えるのは、マーラーが音楽によって「ひとつの世界を構築」しようとしたことと同時に、何物かに命じられて書きとらされるかのような姿勢をもっていたことである。ここで注意すべきはベクトルの向きで、 稚拙な標題にしてからが「~が私に語ること」であり、作曲する「私」が聴き手の立場になっていることである。 マーラーの音楽を単純に主観的な独白と見做すのは、それを世界観なり思想なりの表明と見做すのと同様、実質を損なう捉え方で、作曲する主体と作品との関係についてロマン主義的な単純化した見方をしている点では共犯関係にある。際立って意識的な人間だったマーラーは、そうした点に自覚的だったようだし、作品が常に 自分をはみ出していくことについても充分に意識的であったようだ。であってみれば、大言壮語の類として片付けられがちな「君はもう何も見る必要はないのだ。僕が音楽に皆、使い尽くし、又、描き尽くしてしまったのだから」というワルターに向けた言葉についても、そこに自然に対する芸術の優位を主張する芸術至上主義的な傲慢さよりも、音楽作品の在り方の不思議さこそを見るべきなのではないか。作曲はマーラーにとって「神の衣を織ること」であったが、だとしたら音楽作品は「神の衣」であり、「ひとつの世界」は閉じた自足的な全体ではなく多世界の中の「ひとつ」であり、複数の可能世界の中の一つのバージョンと考えるべきだろう。

マーラーの作品群はしばしば連作として捉えられるが、第3交響曲は、それ自身には含まれない集積点の如きものとして、自らの外部に第4交響曲のフィナーレである歌曲「天上の生活」を持っている。独立した作品でありながら単純な作品の内側と外側という図式に収まらない内部構造を持ち、かつそれが作品の外部にも繋がっているというクラインの壺のようなトポロジーによって、「作品」を箱庭の如きものとして外部から眺めるのではなく、「世界」に対してそうであるように「作品」の中に棲み、内側から眺めることを求めているかのようだ。第3交響曲のような多元的・重層的な作品はそれ自体多重の時間の流れを含み持っているが、聴く「私」もまた別の時間の流れの一つであり、聴取によって複数の層の間の干渉・同調・引き込みが起きる。「作品」は仮想現実であり、「世界」のシミュレータなのである。聴取の行為は「世界」の経験のシミュレーションに他ならず、そうすることにより我々もまた、マーラーがそうしたように「世界=作品」の「語ること」に耳を傾けるのである。そしてそれは、マーラーがそう意図したように、世界の構築に、「神の衣を織る」ことに通じるのである。演奏者も聴き手も、交響曲という「世界」の多元性を、事後的な結果としてではなく、まさに今・ここで生じている「出来事」として経験すべきなのだ。作品は、それが生み出された時代の文脈から逃れられないけれど、時代を通じて継承されることにより存続する。そのためには新たな聴き方を可能にする新たな文脈を聴き手が用意する必要があるのではなかろうか?

だとしたら、今、第3交響曲が我々に語ることは何だろうか?

それを考える上で、マックス・テグマークが汎用人工知能について語るフレームとして提示したLife3.0を取り上げてみよう。するとマーラーの時代は、まずもってLife1.0に関する今日的な認識の基本が形成された時代であることに気づく。例えば伝染病の流行が珍しいことではなかったことはマーラーの伝記を紐解けばすぐにわかることだ。コッホによるコレラ菌の発見は1884年であり、今日当然のこととされる、細菌が伝染病の原因であるという認識すらまだその確立の途上にあった。その一方でLife2.0は生物学的な「ヒト」ではなく、ジュリアン・ジェインズのいう「二分心」の崩壊以降、レイ・カーツワイルの言う「シンギュラリティ」以前のエポックの存在様態を指していると解釈するならば、それは「ニーチェ」が「神の死」という形で言い当てた「隠れたる神」の時代に生きる存在ということになろう。

勿論そのことがマーラーの創作に直接影を落としているわけではないが、第3交響曲のフィナーレが「私の傷を見てください」というモットーを持つことを思えば関連は明らかだし、のちに長女を亡くす原因やマーラー本人の死因にしても今日ならペニシリンで治療可能であることも含め、一世紀経って進歩はしたとはいえ、今まさに新型コロナウィルスの猛威に晒されていることを思えば、相変わらず状況には変わりなく、二分心以降・シンギュラリティ以前という同時代にマーラーも我々も生きていることを再認させられずにはいられない。

してみれば第3交響曲はLife1.0の誕生からLife2.0の先までの展望―そこではLife3.0は、Life2.0の人間に続くものとして天使や神として形象化され、子供や超人もまた含まれている―を示したものであり、今ならLife2.0が産み出したシミュレーション・ソフトウェアの設計図と見做すことができるだろう。それを思えば、マーラーの作品の中でも優れて第3交響曲は、自分の生きる世界にどう向き合うか、どのように認識し、感じ、行動し、変わっていくのかについて示唆を与えてくれる存在ではなかろうか。

新型コロナウィルス禍において、ウィルスというLife1.0の手前にある存在が、Life3.0への越境へと向かいつつあるLife2.0たる人間の持つ基本的な性向である社会性、模倣し共感し協力する性向に襲いかかり、集い、役割分担することで新たな「現実」を生み出し、今・ここで生じている「出来事」として共有することを妨げ、未来を目がけて構築したもう一つの現実としての「作品」の上演と継承を困難にしてしまった。とりわけてもこの第3交響曲の上演には、巨大なコンサートホールの舞台に溢れんばかりの大編成の管弦楽に加え、独唱と児童合唱、女声合唱が必要であり、更にまた客席を満たす聴き手が必要であることを思えば、公演の度重なる延期は、まさに我々が置かれた状況を最も雄弁に証言するものであり、無作為ではなく、存続に向けての抵抗の一つのかたちであろう。であればこそ、今、ここで第3交響曲が上演されることの意義は大きい。第3交響曲は、このような状況の下で聴き手の一人ひとりがそれぞれ「~が私に語ること」に耳を傾け、自分が受け止めたものを語り、行動することへと私たちを誘っているように私には思われるのである。(2021.3.17)

[後記]上掲の文章は 2021年5月9日のマーラー祝祭オーケストラ第18回定期演奏会のプログラムに寄稿させて頂いた文章の初期稿です。諸般の事情により公演に立ち会うことが叶わず大変に残念でしたが、そのことのお詫びとともに、初期稿の掲載を以て、書き記すことができなかった演奏会の記録のせめてもの替わりとし、今回の公演が目下の困難な状況の下で実施されたことに対する敬意の表明とさせて頂きたく思います。(2021.5.9)

2013年4月28日日曜日

マーラーの音楽が私に語ること:「時の逆流」について

マーラーの音楽を聴く時、一体何が起きているのだろうか。マーラーの音楽が私に語ることは何か。

現前している楽音の内に、先行する楽音が留置されることをフッサールは第一次過去把持と呼ぶ。 かくして保持された先行する楽音の直接的記憶は次の楽音への期待を産み出す。 こちらはフッサールの内的時間意識の現象学の枠組みでは未来把持と呼ばれる。 第一次過去把持が知覚の現在の内部構造であるのに対し、想像力に属し、過去を(再)構成 するのが第二次過去把持である。第二次過去把持により所謂「記憶」の「想起」が可能になる。 ブレンターノが第一次過去把持もまた想像力によるものであるとし、第二次過去把持との区別を しなかった点にこうしてフッサールは異議申し立てをするわけだが、では本当に第一次過去把持は 想像力の産物ではないのかといえば、それはそれで単純化のしすぎであろう。実際には第二次 過去把持は第一次過去把持と「ともに」しか成立しえないし、第一次過去把持は第二次 過去把持の影響なしには成立し得ない。

そこでフッサールにおける第一次過去把持と第二次過去把持の関係を考えてみよう。 実際には程度の差はあれ、第二次過去把持は、第一次過去把持の中に常に埋め込まれた 状態でしか成立しないことに注目しよう。すなわち、過去における事象の想起において、 まずはかつて第一次的に把持された意識の現在における想起が含まれており、 把持の想起自体がかつての把持の生々しさを帯びることもありえる。その一方で、第二次 過去把持は知覚に由来するものではなく、想像力に由来するものであるが故に、 知覚に由来する現在における地平の様々な意味付与の動機付けから全く自由というわけには いかない。記憶を第一次的に把持しなおすことは原理的にできないのだ。それゆえ想起には 現在の把持に由来する変様が伴う。 一方で、第二次過去把持なくしては、睡眠や失神による意識の中断を乗り越えた流れの 同一性を確保することができないから、結局「私」を成り立たしめているのは、第二次過去把持の 働きに他ならない。

音楽を聴くというとき、直接的には第一次過去把持のレベルで音楽対象の時間の流れが 形作られる。では第二次過去把持が音楽にどのように影響するだろうか。 音楽作品の巨視的な構造、流れの脈絡の把握やこれから起きる音楽的事象への期待の 地平の構築には第二次過去把持が不可欠である。つまり今聴いている部分の受容に 極限せずに、作品の全体像を把握しながら聴こうと思えば、第二次過去把持は欠かせない。 とりわけマーラーの交響曲のような長大な作品、単一の楽章が長大であるのみならず、 複数の楽章から構成される作品、更には作品間に主題的・動機的連関のネットワークが 張り巡らされているような作品群を対象としたとき、第二次過去把持の蓄積の豊かさが 第一次過去把持における聴取の豊かさを可能にするという傾向は著しいものになる。

録音技術の登場により、全く同じ演奏を繰り返し聴くことが可能となった時、その都度の聴取の方は 同一なものではありえない。この同一物の差異の由来は先行する聴取の経験の記憶への沈殿物 (一般に「知識」と呼ばれるもの)の作用であり、あるいは都度の聴取の際の周辺の文脈の違いである。 ここでいう周辺の文脈には、自己の身体内事象や心理状態から始まって、自己を取り巻く環境の ありとあらゆる側面における差異が含まれる。ところが周囲の文脈もまたそれぞれ、過去の来歴に よって用意されたものである。(ただし、その全てが「私」にとって遡及可能なものであるわけではない。 相対性の原理により、同時に生起した事象の直接的経験が不可能であるのに対応して、 私の経験していない過去が私が属する「世界」には沈殿しており、私は私の知らない過去からの 影響を間接的なかたちであれ受けているのである。) 第二次過去把持は、第一次過去把持を選択するための基準、音楽の場合なら、音楽的対象を 構築していく条件を規定する「期待」の「地平」としての役割を果たす。だがそうした第二次過去把持の 背後にある録音技術による同一演奏の反復の可能性は、まずは事実問題として第二次過去把持の あり方に無視できない影響を及ぼしている。その点に注目したのが、スティグレールの第三次過去把持である。

スティグレールの第三次過去把持は、レコードやCDのような録音・再生技術の発達によって可能になった ものであり、意識とともに無意識をも構成する。そして同一対象の権利上無限の反復の可能性を、 単一の私に対してのみならず、我々に対して可能にする点にポイントがある。 第三次過去把持は、私的なものを超えた、私の遡行できない過去から到来したものであり、同時にそれは 「我々」を規定し、もう一度、今度は未来に向けて私的なものを超えた、私の到達できない未来への 地平を構成する。それが可能になるのは技術を媒介にしてであり、私が自分の個体としての限界を超えて 理念的なものに到達するためには技術の媒介が必要なのだ。マーラーの音楽であれば、まずは「楽譜」が そうした(スティグレールならオルトテティックな記憶技術と呼ぶであろう)媒介であり、録音された演奏の記録も また、それらの集積の結果として理念的対象としてのマーラーの音楽「そのもの」を仮構する契機となる。 更にレコードやCDのような録音・再生技術の発達により、知覚は映画的なものでしかなくなる。 メディアが可能にする時間的対象の同一の反復の経験によって、カント的主体の意識の流れ、 超越論的な枠組みへの踏みとどまりは最早不可能となり、カントにおいては超越論的枠組みで 考えられていた想像力=構想力の働きは外在化され、物象化されたとスティグレールは述べる。 それは意識の個別性を毀損する可能性を秘めている。

そもそも想像力=構想力は、カントの「純粋理性批判」の第1版において純粋悟性概念の超越論的演繹の 部分における3段階の「綜合」をになう能力(生産的構想力)として、超越論的統覚に先行する 「すべての認識、特に経験の可能性の根拠」(A118)として提示されながら、ハイデガーが「カントと形而上学の 問題」で指摘するように第2版における当該箇所の全面的な書換えによりその役割を制限され、「悟性の一つの機能」 として位置づけられることになった。

既にイエナ期の若きヘーゲルがカントの「綜合」における想像力=構想力の役割に注目し、 これを「信仰と知」において直感的知性と同一視することにより、カント自身は人間の認識の限界として、 いわば極限として無限の彼方に設定したものをあっさり踏み越えてしまう。そして このヘーゲルとカントの立ち位置のずれは「判断力批判」における「崇高」の問題でもそのまま 繰り返されることになる。

カントは「崇高」(das Erhabene)について「超感覚的」であると語っている。カントにおいては「美と崇高」が 対比され、美が感覚的なものに、崇高が超感覚的なものに対応づけられる。 カントにおいて超感覚的なものは理性の理念であり、ふさわしい表現はないが、 ふさわしい表現がないことの感覚的な表現は可能なので、心情にはたらきかけることが できると述べる(「判断力批判」第23節)。ヘーゲルは「美学講義」の「崇高の象徴論」において このカントの「崇高」論の批判的展開を試みており、そこでヘーゲルは、「崇高の表現」とは 表現に相応しい対象を見出しえぬまま無限なるものを表現する試みと言っている。 ヘーゲルの批判のポイント自体は、カントが主観の側からしか崇高を見ていないことだが、ここでも カントはもともと主観の限界を見極める「批判」を企図しており、ヘーゲルが前提にしてしまっているものは カントにとっては「人間」には到達できないものなのだ。

想像力=構想力を巡るカントの逡巡に対するハイデガーの「カントと形而上学の問題」に おける批判を、フッサールの時間論のプロセス哲学的な解釈によって引き受けることによって、 一般には「現実」として了解されている、「意味」として「現象」する「世界」の虚構性が明らかにされ、 そこにおいて想像力=構想力の役割は適切な位置づけを見出すことになる。即ちそれが既に述べたような、 「現在」としての把持を背後から規定し、意味づける「想起」を可能にするものとしての想像力= 構想力の役割である。

想像力=構想力による「想起」が「現実」をいわば仮構するものであるとして、更にそれを根拠 づける「外部」、私からは絶対的に到達できない過去があり、私が決して到達することのできない未来が あることもまた、上述の分析は明らかにしている。それはカントがそこで踏みとどまったように権利問題と しては問うことのできない領域であり、地平の更に彼方を、無限を思惟することに他ならない。それは カントが超越論的弁証論において論じた超越論的仮象、「純粋理性批判」第1版序文冒頭で 「人間的理性」の「特異な運命」と述べた問い、「現象」の手前ないし彼方についての問いである。 それはいわば起源への問いが停止した更に手前を問うことなのだが、そうした個体としての「人間」の 在り方を、個体を超えて、いわば背後から規定しているのが、世代を超えて継承される文化的なものであり、 それを支える媒体として生物学的な身体を補綴する「道具」であり、その基盤としての「技術」なのである。 「技術」は個体にとって生成の根拠である一方で、常にその個体の特異性を脅かすといった構造もまた、 「人間的理性」の「特異な運命」なのであり、マーラーの音楽はそうした運命の中で創造され、 演奏され、記録され、聴取されているのである。

マーラーをCDで繰り返し聴くことをもう一度考えてみよう。誰かのいつぞやのマーラー演奏記録 (それは一回性の出来事であるとしよう)を繰り返し聴くことは、 だが、ライブ録音と呼ばれているものも、しばしば同一プログラムの複数回の演奏を編集 することがあるし、セッション録音の場合はそもそも「演奏の一回性」自体が虚構となってしまっている。 だが、ここで問題にしたいのは演奏の地平ではなく、マーラーの作品というもう一つ手前のレベルなのだ。 CDによる記録だけでなく、コンサートホールでの実演の聴取の記憶、或いはピアノでトランスクリプションの 一部や歌曲のピアノ伴奏を弾いてみる経験といったもの、更には様々な楽曲分析や背景についての 研究等も含めたマーラーの作品にまつわる「私」の経験の総体が投影されるスクリーンに映し出される 或る種理念的な対象としてのマーラーの作品のレベルを問題にしたいのである。

マーラーの創作過程を知る者は、記譜法のシステムというのが単に出来上がった作品を記録する といった保存の水準のみならず、創作の方法自体に本質的に組み込まれていることに気づかざるを 得ない。マーラーの作曲の仕方は記譜法のシステムに根本的に依存していて、それはあらゆる 場面で登場する。記録された楽譜もまた決して完全に安定した状態にはならない。作曲家=指揮者 であったマーラーは、自分で演奏をするたびに管弦楽法に手を入れたとは良く知られているし、 後世の指揮者にも改変の権利を与えたという証言が伝わっているが、そうであれば一体どれが 「本物」なのかという問いを立てることにはあまり意味がなくなることになろう。 寧ろ、作品が享受される限りにおいて準安定状態にありつつも絶えず微少な調整を行いながらの 利用は常に行われているばかりか、そうした調整作業の継続こそが作品の受容を促進し、 絶えさせないための条件とすら言いうるのではなかろうか。

そしてそうした準安定状態の中での常に更新される受容が、私を成立させる。それは私の生成 そのものなのだ。 人間の個体的・集団的時間性(シモンドン的な意味合いにおいての)は、人間が後成的系統発生的な 存在であるが故に可能となる「幽霊性=再来性」と反復によって構成される時間性である。 全く孤立した「我」がまず発生し、その後で他者と出会うことで「我々」になるのではない。 フッサールが「デカルト的省察」の第5省察以来、膨大な間主観性についての草稿群で分析したように、 間主観性的な構造の発生の方が個体の 発生を規定するのであって、実際には我と我々は同時に一気に生成すると考えるべきなのだ。

であるとしたならば、デリダのいかんともし難い「運命」としていわば構造的に宿命づけられた「反復可能性」と コミットメントへの倫理的要請としての「反復」への誘いの「差異」を、マーラーを聴くという場面に適用してみたら どういうことになるだろうか?

他者への応答は、応答の内容が如何に否定的なものであったとしても、コミュニケーションが成立する以上、 最初に根源的な他者に対する肯定があって成立する。このいわば先行する肯定もまた、第二の肯定によって 確証され、反復されることなしには成立しえない。第二の肯定による確証の要請は、反復可能性が 構造的なものであるとするならば、それは確証を伴わない機械的な反復の可能性が常に存在するからだ。 寧ろ記号によってそうした機械的な反復が可能になるのであり、それを支えるのが技術である。 想像力に由来する第二次過去把持である想起によって、かつてあった/今は不在の対象が仮構され、 そうした仮構された想像的な媒介物がそれ自体自律した対象として予め存在していたかの如く 措定されたとき、理念的な同一性が確保される。ここまでは第二次過去把持による記憶が抽象化され、 個別性を喪失し、反復可能な「存在」として沈殿することで、ホワイトヘッド的には客体的不滅性を帯びる 過程を記述しているのだが、その沈殿物を生物学的な人間が備えている記憶媒体たる脳の中ではなく、 自分の身体の外側に、いわばそれを補綴するものとして物質的な媒体に記録したとき、第三次過去把持の 領域が開かれる。第三次過去把持によって「私」なしの反復可能性はいわば完成する。

その一方でデリダが要請する「反復」、確証を伴った第二の肯定としてのそれを先の第二次過去把持が 常に第一次過去把持の中に埋め込まれているという事態に照らして考えてみると、こちらもまた、必ずしも 能動的で主体的な選択としてではなく、現在の地平にいわば誘われるようにして変様が起きてしまうという 傾向を認めなくてはならない。反復の方が自動化される一方で、反復を損なう契機が常にあって、 積極的に反復しなければ、自動化された反復はいわば毀損したものとなってしまうということなのであろう。 だが逆に積極的な反復は、新たな地平における都度新たな「歓待」であり、そこに創造の可能性もまた 存しているのだ。理念的なものはアプリオリに与えられるものではない。それは第三次過去把持により、 私に先行して事前に存在しているかの如き現れ方をするが、理念的なものは未来に向けて、常に未完了の 状態で開かれたまま、繰り返し投射されることで準安定的な状態を維持できるのだ。創造は一回性の出来事だが、 再創造が行われなければ創造の結果は維持し得ない。

そしてそうした再創造の可能性はどこにあるのかと言えば、身体的できごとを外部の記号に 変えてしまう意識ではなく、意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きに注目すべきであろう。 主体の不在においても反復可能でなければ、それが記号として意味を持つことも、理解することも 使用することもできないという事態は、上述の意識の時間論的構造と関連しており、 意識は身体的なできごとを記号として解釈してしまう。しかし記号は現実を抽象した結果であり、その一部を 為すに過ぎないものであって、無意識のレベルでは意識が捨象してしまう様々な因果的な効果が働いている。 そして意識主体の選択には、そうした背後で働いている効果が影響せざるを得ない。第二次過去把持まで ではなく、更に第三次過去把持を考える必要があるのは、そうした意識の領野外で意識に影響を及ぼしている 対象の機能を解明するためである。それは技術的なものと無関係ではありえないが、技術的なものに 全く従属的というわけでもない。否、技術的なものによって可能になりつつ、技術的なものが含み持つ 共時化による意識の個体性の消滅に抵抗する契機として、ベイトソンが「われわれの無意識の層を伝え合う エクササイズである」という芸術の存在意義がある。芸術が、意識を持ってしまった有機体の、その意識が 己の構造上の制約の中で、それでも精神の全体を垣間見ようとする営みであるという規定を考えたとき、 「世界を構築しなければならない」と作者自らが規定するマーラーの交響曲こそが、この定義に最も相応しい ものの一つであるように私には思われる。

人間の意識の構造は可塑的なものであり、ジュリアン・ジェインズが示したように、数千年という 文明的な時間スケールにおいては、意識の様態は変化しうるし、意識が発生したり、 消滅したりということも起きえる。 理性的存在者の存在と、その同型性、構造的な一意性をア・プリオリに主張することはできない。 一方でフッサールが分析したような内的時間意識の構造もまた、少なくとも現在に至るまでの 「この」場、即ちマーラーの音楽が演奏され、聴かれるような場においては、準安定状態にあると 言って良いだろう。長大な持続を結するだけでなく、多様な時間性を内包するマーラーの音楽は まさにそうした意識構造が可能にするものであり、同時に、そうした意識構造により可能になる 世界に対する態度(認識のみならず、行動の面でも)の様態の或る種の「結晶」の如きものとして 考えられる。「世界を構築すること」というマーラーの自分の創作(直接には第3交響曲)に 対する良く知られたテーゼは、自分が作曲するのではなく、背後に居る何者かに書き取らされて いるような感覚の証言とともに、マーラーの音楽が優れてある時代と場所における意識構造と 不可分の関係にあることを告げている。

そしてそれは同時に、そうした意識固有の想像力の場、ヴァーチャリティの時空間を内包している。 そればかりではなく、第三次過去把持としての記憶技術によって、遺伝子の複製・交差によって 世代交替が起きるせいで、個体の経験が継承されることがないという制限を超えた理念的なもの へと関与することを可能にしている。そうした音楽にとって、ファウスト第2部の終幕の場はまさに 自己言及的な内容であるだろう。そこではファウストの甦生が語られ、比喩的な仕方で語られた 理念的なものの客体的不滅性が意識を超越を経て、新たな甦生に誘うという機制が 表現されている。マーラーの音楽の単なる文字通りの反復を嫌い、だが、 主題を再現させるときに、紛れもなくそれがかつて提示されたものの再現でありながら、 かつてとは最早同じではなく、非可逆的な過程を過ぎ越してしまい、もう元には戻れないと いう印象を強くもたらし、更にそのことによって、再現されることによって初めて主題が確保されたかの ような印象を与えるとともに、未だに生成の途上にあるといった様相を呈するという時間的な 構造はそうした「作り=為す」ことの衝動に見合っている。

創造は一回性の出来事であるが、反復し、常に動き続けることにより安定状態は維持されるので あり、目的論的図式から出発して錯覚されるように安定状態において動きが停止するわけではない。 エントロピーの極大の状態をではなく、エントロピーを減少させることによって準安定状態を維持し続けるためには、 系は閉鎖系ではなく開放系でなくてはならず、常に外部からエネルギーの供給を受ける必要がある。 そして系に新しさをもたらすのは、系を破壊する可能性のある偶然的なもの(ノイズ)であり、ノイズを いわば「消化する」ことによって自己組織化システムは維持されるのである。このときシステムは外部を持ち、 内部には多層的な部分構造を備え、安定化機構としての記憶を保持する必要がある。 そこでは偶然やノイズや死のプロセスが、組織化や学習の中で創造の契機となっているのである。 そしてマーラーの音楽はそうした高度な自己組織化システムである意識の構造を反映した意識の音楽なのだ。

その軌道は複雑で、簡単に記述することを拒むけれど、一例を挙げれば第3交響曲の終楽章の 練習番号26番におけるような、あるいは第8交響曲第2部の練習番号156番におけるような マーラーの音楽のあの強烈な「再現」に匹敵するものを私は他の音楽に見つけることができない。 それは単純な反復ではないのだ。

例えば第8交響曲第2部の練習番号165番の第1部の第2主題(Imple superna gratia)の再現。 主題が再現するということの持つ圧倒的な力をここまで徹底的に感じさせる瞬間というのは、なかなかない。 最早これは日常的な時間意識の裡にない、というのは確かなように思える。仮に第1部を聴かずにいた 場合であっても、私はこの作品を(楽譜によって、あるいはCDのような記録媒体の助けをかりて、何度も 繰り返し聴くことにより)記憶してしまっているので、記憶と知識によって、それを補うことができるのが、 この部分は、マーラーの決定的な主題再現がいつもそうであるように、それが単純な反復ではない 「再現」であるという徴を帯びている。或る種の時間的な感覚を呼び起す何かがあるのだ。 「かつてあった」という感覚、そこから遙かに遠くに至ったという感覚。目も眩むような 距離感が「再現」には含まれている。 マーラー自身、ここの箇所にetwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilと記しているのだ。 歌詞もまた、Er ahnet kaum das frische Leben,...と、ファウストの再生を歌う。)

あるいはまたマーラーの音楽においては枚挙に暇がない、「後戻りができないポイント」の存在。またしても第8交響曲 第2部から例示すれば、まずは練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)の入りが挙げられる。 アドルノとは異なって、私が一瞬何が起きたかと思い、ぞっとするのはここだ。このあたりから音楽は少なくとも 私にとって未知の、未聞の領域に入っていくのを感じる。何度聴いてもそうなのだ。何か、人間が、この儚い、 有限の生命しか持たない生物が、そしてその生物に進化の悪戯によって備わった、さらに取る足らない意識が 到達することのできない場所に、自分がそのままでは見てはいけない何かに近づいている気がする。同様に、 練習番号176のマリア博士の歌唱の部分には「到達した」という非常に強い感覚を呼び起すものがある。 またしてもずっと遠くに来てしまった、そしてもう引き返すことなく、決して戻れないのだという感覚。 ちょっとした戦慄、軽い恐慌状態。

更にはアドルノがマーラーの第9交響曲について述べた未来完了的な主題提示の問題、再現と提示の問題を 考えて見ることもできるだろう。第9交響曲に限らず、マーラーが主題の再現を強調する時、実は再現こそが 真の提示であり、最初の提示はその予告に過ぎないという見方はできないだろうか。 再現の聴取において何が生じているのか。それは単なる再認ではなく、その間に横たわる時間の厚みを 通した再認の持つベクトル性の深みを感受しつつ、そこに単なる反復ではなく、冗長性という意味での 秩序に収まらない新しさを経験するという事態が生じているのではないだろうか。この事態こそまさに、 既に述べたあの、フッサールの時間論のプロセス哲学的な解釈によって引き受けることによって、 一般には「現実」として了解されている、「意味」として「現象」する「世界」の虚構性が明らかにされ、 そこにおいて想像力=構想力の役割は適切な位置づけを見出すことになる場面そのもの、 「現在」としての把持を背後から規定し、意味づける「想起」を可能にするものとしての想像力=構想力の 役割が確認できるような場面、高度な有機体における(再)創造の過程を定着させたものではなかろうか。

そしてプロセス哲学における「時の逆流」はそうした高度な有機体における(再)創造の過程の時間性を 捉えたものなのである。 プロセス哲学的な超越は創造性の否定であり、2つの生成の間を越えるだけではなく、可能的世界を事実 性によって限定することを通じて現実性から可能性への永遠的客体へと超えることでもあるとされる。 そして時の逆流とは、 「意識の生成の中で配景を形成している諸事象―当然のことながら、この中にたったいま過ぎ去った 根源的現在が含まれる―の死としての自己疎外を体験しつつ、その意味でそれらの事象の心性の滅した 未来を体験しつつ全体としては永遠の客体との関わりが不確定から確定への進む、心性の甦生への歩みである。」 (遠藤「時の逆流について」pp.39-40)

勿論、上述のプロセス哲学的な「時の逆流」は、事象連鎖を通じての対象の生成のレヴェルではなく、 実体体属性という永遠的対象に関わるレヴェルでの一事象の生成の時間を捉えようとしたものであることに 留意すべきだろう。具体的な聴経験について考えるとき、確定的な部分事象の連鎖の中での事象の生成に 基づく対象の生成を考えるならば、これは「時の逆流」が問題にしているレヴェルから見れば、いわば二次的で 派生的なレヴェルを扱っていることになる。だがその一方で、そのような二次的なレヴェルで時が恰も 逆流しているように感じられるとするならば、それはいわば幻想であって、実際には時の逆流自体を経験している わけではないにせよ、その感じの根拠を問うことはできるだろう。或る種の目的論的な発想は、それ自体が 意識がそれと気づかずに構成してしまうフィクションであるにしても、それを可能にするメカニズムが存在し、 まさにそれが意識を生じさせているのであれば、そうしたメカニズムの働きが「時の逆流」の「感じ」のいわば 原因となっているのだ。いわば自分自身を支える背後の機制を垣間見るようにして、二次的に「感じ」としての 「時の逆流」の経験が生じるのであろう。

あたかも生成する事象が、先行する過去の事象よりも、これから起きるであろう未来の事象によって 決定されるかのように思われるとき、現在の生成の創造性の源泉は過去ではなく未来にあると考えられる。 これはいわゆる目的性に従った行動の連鎖において、あたかも意図に添って事象が生じるかのような 幻想(というのは実際の出来事の系列は因果決定論を覆すものではなく、そうした意図そのものが 過去の出来事の結果に過ぎないからである)が生じるケースとは区別される。勿論、この場合でも そうした幻想が生じるのは何故かをなおも問うことはできるだろう。音楽作品のようないわゆる人工の 産物においても、結末に向かうようにいわば「仕組まれて」いる場合にそのような感覚が生じることが あるだろう。

だがそれとは異なったケースがある、それは予示されていたものが今これから実現する瞬間、 しかもその瞬間になってはじめてそれが予め可能性として示されていたことが、いわば事後的に 判明するような場合、つまるところ「新しい秩序」がもたらされたように感じられるような瞬間、 後成説的に潜在的であったものが成長して発現したかのような、不可逆的な過程が生じた ことがわかり、その時点から過去を回想したときに、その過去は最早遡及不可能なもの、 あたかも前生での出来事であるかに感じられる瞬間において感じられる「時の逆流」もある。

そうした瞬間はどんな音楽にも生じるというわけではない。それは或る種の時間的構造の下で しか生じないし、そうした時間的構造が生じるために作品が備えていなくてはならない構造的な 条件があるだろう。すなわちそれは、秩序に傾斜したあからさまな人工物ではなく、だが 自然現象の中でも物質的、無機的な構造(結晶構造のような秩序を思い浮かべれば良い)に 似たものではなく、さりとて無秩序でもない、エントロピーや情報量という尺度では単純に測れない 秩序と無秩序の中間領域にある「複雑性」の領域にある作品の場合、言い換えれば、 有機的な生命現象の模倣に近い、層的で内部構造を持ち、固有の時間を持つ複数の部分よりなる、 複雑さを備えた後成説的発達が可能な、自己組織化に類比できるような作品において感じられる場合である。

「時の逆流」が感じられるのは、そうした作品の中のある瞬間においてなのだ。明確な目的に 向かって進んでいくべく、隅々まで意識的に作曲しつくされた作品ではなく、寧ろ作曲する主体の 背後にあって主体の志向を定めている無意識的なものの声に従い、夢に見られるようなプロセス、 つまるところ内的時間意識を備えた主体のものではあるけれど、寧ろそれを支える背後の 自己組織化の過程によって形式そのものがその都度形作られる作品において感じ取ることができる 「時の逆流」があり、マーラーの音楽におけるそれはこちらの方なのだ。意識が決して見ることのできない 自己の起源を覗き込む瞬間、それは現在の延長としての未来把持ではない、これまた意識がそのまま 自己を滅することなく到達することが不可能かも知れない未来への超越の瞬間である。

そうした瞬間は構造的に定められるものなので、構造的な聴取を行っている限りは、それが起きることを 知っていたとして印象が薄れることはない。逆に「時の逆流」を感じ取るためには、その作品の膨大な 脈絡を記憶し、何が潜在的に用意され、何が実現可能かを(無意識的にであれ)押さえている 必要があるのだ。まさに音楽としての経過を知覚するために最低限必要な第一次過去把持の レヴェルではなく、それを背後から規定する第二次過去把持は勿論、第三次過去把持のレヴェルに 及ぶ広範な綜合作用を行うスティグレール的な意味での想像力、ベンヤミン=アドルノ風には 想起ではなく追憶、即ち想起する主観に先立つ客観についての回想が必要とされるのである。

具体的な経験のレベルに移せば、マーラーのような長大で複雑な作品を想起するための手段として 複製技術による記憶媒体による録音は有効であり、同じ録音を何度も反復する可能性、しかも 「私」だけではなく、誰に対しても同一の音楽を提示することの可能性が獲得されるが、その一方で、 常に聴取はその都度毎に一回性のものであることから逃れることはできないのである。そしてその都度の 聴取の態度は様々でありうる。ベンジャミン・リベットの実験が明らかにしたとおり、受動的な経験であると 意識が思いなす楽曲の聴取のプロセスは、実際には意識の背後における前意識的・無意識的な 活動により編集されたものであり、同一の演奏の繰り返しの聴取は、そうした編集の地平を形成し、 その地形を変化させるだろう。変化に富んだマーラーの音楽の脈絡は、一回性の受動的な聴取においても 聴き手を厭きさせることはないだろうが、その巨視的な設計や、マーラー自身の創作のプロセスにおいて 既に「書き取らされた」ものである精緻を極める動機の相互連関のネットワークや変形の技法を 把握するためには、演奏の次元においても指揮者による緻密な事前の総譜研究が欠かせないように、 聴き手も総譜を参照しつつ、繰り返して聴くことにより、自分自身にとってのマーラーの個別の作品の像を 構築していかなくてはならない。

しばしば議論の的になる、長大な経過における巨視的なシェマの知覚の 問題、例えば発展的調性の知覚の問題も、そうした反復に支えられた聴取の前では、問題設定そのものの 抽象性を露呈することになる。しかるべき事前条件下での心理学実験ならぬ現実の聴取においては、 総譜研究を通した知識すら、楽曲の把握の地平として動員されて当然であるし、絶対音感の有無は おくとしても(調性と色彩の共感覚とともに、あった方がより容易なのは明らかなことと思われるし、逆に事実としてそれがある場合にはその効果は本人にとっては明らかなのだが)、相対的な音高を想起できるほどに楽曲を自分の中に定着させた聴き手にしてみれば、巨視的なシェマもまた、都度の聴取にとって単なる知識としての地平であるのみならず、身体的できごとを外部の記号に変えてしまう意識のレベルではなく、 意識下の無意識のレベルでも機能している心的機能の働きに関わるものとなるであろう。かくしてマーラーの 作品が産み出す(比喩的な意味での)「風景」は、聴き手自身の(現象学的存在論的な意味合いでの) 「世界」のそれとなり、聴き手の意識を含めた「心」の構造そのものを構成する素材となるのだ。

それゆえ常に聴き手は新たな聴き方をすることによって、理念的で 無時間的に凝固した作品を都度新たに(再)賦活しつつ、応答しなくてはならないという要請が生じる。 ここで注意すべきは、そうして再創造されるのは作品だけではなく、そのようにして「私」の側もまた 再創造されるのだということである。私が事前に存在して、作品を待ち受けるのではない。作品を 受け取りつつ、同時に私もまた都度生成するのである。そしてそうした記憶媒体の助けをかりることに よって、マーラーの音楽は私固有の身体そのものになる。私の頭の中でそれは物質的な音響を経ずに鳴り響く までに至る。それは私の経験しなかった過去の風景であり、私の中に住まう他者、私をも「作り=為す」 ことにいざなうべく語りかけるのである。(2013.4.28, 29, 5.1,3,12,21)