マーラーの音楽について語るとき、「晩年に向かうにつれて調性が崩れていく」「初期と後期では音の世界が大きく変わる」といった印象はよく語られる。以前の分析では、こうした印象を五度圏上の「重心」の動きから調べた。その結果、マーラーの作品は年代とともに、調的な中心に強く引き留められる状態から、より大きく、速く動く状態へと移っていくことが見えてきた。ただし、その変化は単純な一直線ではなかった。中期に向かって音の空間が大きく広がった後、第8番や《大地の歌》では一度それまでとは異なる領域へ移り、第9番・第10番で再び大きな運動性が現れる。では、こうした変化は、マーラーの音楽の「構造そのもの」が崩れていくことを意味するのだろうか。
今回、五度圏重心の動き方をさらに細かく調べ、そこにピッチクラス集合の周期的な構造を調べる分析を加えた。その結果、むしろ意外な姿が見えてきた。マーラーでは、基本的な音の構造は最後まで持続している。変化しているのは、その構造の使われ方なのである。
音楽の中に残り続ける「骨格」
今回の分析では、12の音がどのような周期的なまとまりを作っているかにも注目した。詳しい数学的な説明はここでは省くが、この分析によって、音の組み合わせに含まれるいくつかの基本的なパターンを取り出すことができる。その結果、マーラーの第1番から第10番まで、そして《大地の歌》を含む11作品では、同じ基本的なパターンが一貫して最も強く現れていた。第9番、第10番といった後期作品でも、この特徴は失われていない。
これは、後期マーラーを考えるうえで重要な結果である。もし後期マーラーが、音楽を支えていた構造そのものを次第に失っていくのであれば、こうした基本的なパターンも後期になるにつれて弱くなっていくはずである。しかし、そうはならなかった。マーラーは後期になっても、音楽の内部に一定の骨格を保ち続けている。
したがって、後期マーラーについて考えるときには、「何が崩壊したのか」だけではなく、「残っている構造の上で、何が変化したのか」という問いが必要になる。
同じ骨格の上で、音楽の動きは激しくなる
では、何が変化したのだろうか。
以前の分析では、作品が進むにつれて、五度圏上の重心が大きく動くようになり、一つの調的中心に留まり続ける性格が弱くなっていくことが示されていた。特に第9番、第10番ではその傾向が強い。
今回の分析でも、この特徴は別の角度から確認された。後期になるほど、音楽の重心は一つの場所に静かに留まるのではなく、大きな幅をもって動くようになる。また、音の組み合わせそのものが時間の中で変化する度合いも強くなっていく。第10番では、その傾向が特に極端な形で現れる。
ところが、ここには一つ重要な特徴がある。重心が大きく動くようになったからといって、音楽がどこへ向かっているのか分からなくなり、活動する領域そのものが無限に広がっているわけではない。むしろマーラーの作品には、いくつかの比較的限られた活動領域があり、その間を行き来する構造が残っている。第10番でさえ、活動する領域が消えてしまうわけではない。一定の場所に何度も現れながら、その内部で音楽が激しく動いているのである。
つまり、中心がなくなるのではない。いくつかの中心的な領域を保ちながら、その間を動く音楽になる。ここが、今回の新しい分析から見えてきた重要な点である。
「三和音が減る」ことだけでは説明できない
もう一つ興味深い変化がある。後期になるにつれて、通常の三和音にまとまる音の組み合わせは、全体として少なくなっていく。これは、「後期になるほど従来の調性的な和音から離れていく」という聴感上の印象ともよく対応している。
しかし、ここでも単純な「調性崩壊」という説明では足りない。三和音が減ったからといって、音が無秩序になるわけではないからである。五度圏上で見ると、重心が中心近くに集まりやすい、対称的な音の組み合わせも現れる。ただし、その現れ方は三和音の減少と同じ軌跡を描いてはいない。つまり、三和音から離れることと、別の対称的な音の組み合わせへ移ることは、同じ一つの現象ではない。
これは重要である。マーラーは単純に、
「三和音的な調性」→「別の和音体系」
と移行しているわけではない。
- 「三和音への集中が弱くなること」
- 「五度圏上の中心性が弱くなること」
- 「対称的な音の組み合わせが現れること」
は、それぞれ関係しながらも、別々に変化している。
そのため、後期マーラーを「調性が弱くなった」という一つの尺度だけで説明することはできない。
中期に現れる、もう一つの音の構造
このことが特にはっきりするのが、第5番第2楽章と第7番第1楽章である。この二つの楽章では、作品全体に広く見られる基本的な構造とは異なる音のまとまりが、一時的に前面へ出てくる。つまり、マーラーの音楽では、作品全体を通して維持されている骨格がありながら、その内部の一部では、別の組織原理が強く現れることがある。
ここで大切なのは、この現象をそのまま「後期無調化」の始まりと見なさないことである。この二つの楽章では確かに特徴的な構造が前景化するが、第5番・第7番という作品全体を見ると、基本的な構造はなお維持されている。つまり、局所的には大きな変化が起こる。しかし、作品全体の骨格まで一挙に置き換わるわけではない。
この「局所的な変化」と「作品全体の持続」の両立は、マーラーの音楽を理解するうえで重要な特徴である。
第8番と《大地の歌》――「戻る」のではなく、別の場所を通る
以前の分析でもう一つ印象的だったのが、第8番と《大地の歌》である。作品を年代順に並べてみると、初期から中期にかけて、マーラーの音楽は大きく動く方向へ進んでいった。しかし第8番と《大地の歌》では、それまでとは異なる領域へ一度移るような動きが見られた。その後、第9番、第10番になると、再び大きな運動性が前面に出てくる。
今回の分析を重ねると、この「折り返し」の意味も少し違って見えてくる。第8番や《大地の歌》で五度圏上の位置が変化しても、PC集合の基本的な構造そのものが別のものへ置き換わったわけではない。両作品とも、作品全体では基本的な構造を保っている。したがって、ここを単純な「過去への回帰」と呼ぶのは適切ではない。むしろ、それまでとは違う状態を経由しながら、後期の新しい状態へ向かっていく。と考えた方がよい。
マーラーの音楽の時間は、単純な「前進」でも「後退」でもない。過去に近い場所へ近づくことがあっても、そこにそのまま戻るわけではない。
第9番・第10番――「崩壊」ではなく、極端な運用
そして第9番、第10番で、この特徴が極端な形になる。この二作品では、五度圏上の重心が大きく動き、音の変化も激しくなる。一方で、通常の三和音に依存する度合いは弱くなる。第10番では、この組み合わせが特に強く現れる。それでも、作品全体を見れば、基本的なPC集合構造は残っている。
ここに今回の分析の最も重要な発見がある。後期マーラーでは、音楽の骨格そのものが崩壊しているのではない。むしろ、残っている骨格を、ますます激しい運動の中で使うようになっている。第10番は、その極限に近い。一見すると音楽を支えていた秩序が崩れていくように聞こえる。しかし数値的に見ると、その内部にはなお一定の構造が残っている。
だからこそ、後期マーラーを単純な「無調化」や「崩壊」として説明することには限界がある。
では「自己反省」はどこから来るのか
ここで、これまでマーラーについて考えてきた「自己反省」という問題が出てくる。まず明確にしておきたいのは、自己反省そのものが今回の数値分析によって測定されたわけではないということである。重心が大きく動くから自己反省している、あるいは第8番や《大地の歌》が以前の作品に近づくから過去を振り返っている、と直接結論することはできない。「自己反省」という考えは、これまで検討してきたAdornoによるマーラー論や、そこから発展させてきた「意識」「自己との関係」「世界との共有」という理論的な問題から生まれたものである。
しかし今回の分析は、その考えを考えるための音楽的な根拠を、以前より具体的にしてくれる。
マーラーでは、
基本的な構造が残る
その上で音楽の運動が激しくなる
活動する領域そのものは複数残る
三和音性は弱くなるが、それだけで別の体系へ移るわけではない
局所的には別の音の構造が前面に出る
ときには以前の作品に近い状態を経由する
それでも最後には同じ場所へ戻らない
ということが起きている。このような音楽を、「自分自身について考え続ける音楽」として読むことには意味がある。
ここでいう自己反省とは、単に過去を振り返ることではない。自分を支えているものを保ちながら、その自分自身との関係を変化させ続けることと考えることができる。
繰り返しになるが、ここでいう自己反省については、その構造がデータ分析の結果から直接浮かび上がってきたものではない。分析結果から浮かび上がって来た構造の背後にそのような構造に支えられたプロセスの存在を考えることができるというに過ぎず、現時点ではようやく単なる比喩を脱して、直感的漠然としたものではあるが類比に訴えることが辛うじて可能になったに過ぎない。従って、まだそこに到達する目処が立ったとは言えないのだが、FEP的解釈の枠組みを用意したことで、データ分析から浮かび上がって来た構造が、自己反省が可能になる主体の構造と何らかの共通性を持つことを数理的に示すことが将来的には目指されるべきであると考える。その意味において、「自己反省する主体」がマーラーの音楽に見出せるというのは、現時点では仮説の域を出るものではないことを強調しておきたい。
「崩壊」ではなく、「持続しながら変わる」
こうして旧分析と今回の新しい分析を重ねると、マーラーの音楽について、以前とは少し違った言い方ができるようになる。
旧分析が示したのは、年代とともに調的な中心への集中が弱まり、重心の運動が大きくなる一方で、音の空間の使われ方は単純には変化せず、中期から後期にかけて非単調な変化を示すということであった。今回の分析では、その背景にある構造がさらに見えてきた。基本的な骨格は、最後まで残る。その一方で、その骨格の上で音楽が動く仕方は、次第に激しくなる。そして、三和音性、中心性、対称的な音の組み合わせは、それぞれ異なる仕方で変化する。
したがってマーラーの後期化は、「秩序が崩れて無秩序になる」という単純な過程ではない。むしろ、持続する構造の上で、音楽の動き方が次第に極端になっていく。そう捉える方が、旧分析と今回の新しい分析をともに説明できる。
マーラーの音楽的主体
このことは、これまで考えてきた「交響曲的主体」という問題にもつながってくる。マーラーの音楽には、確かに強い自己意識を感じさせるところがある。しかし、その「自己」は、一つの中心に閉じこもっているわけではない。自分を支える構造を持ちながら、その構造を絶えず揺さぶり、複数の状態の間を移動し、ときには過去に近い場所を通りながら、それでも同じ場所には戻らない。その意味でマーラーの主体は、自分自身を維持しながら、自分自身との関係を変え続ける主体として捉えることができる。
これは、数値分析そのものが「マーラーは自己反省的な主体である」と証明した、という意味ではない。数値分析が示したのは、あくまで、構造は持続しているのに、その内部の力学が変化し続けるという音楽的事実である。しかし、その事実こそが、マーラーの音楽を「自己について考える音楽」として理解するための、一つの具体的な足場になる。
そしてここに、マーラーの時間性の特徴がある。変わり続ける。しかし、完全には失われない。過去に近づく。しかし、単純には戻らない。自分を維持する。しかし、その自分自身を変化させ続ける。
今回の分析から見えてくるマーラーとは、まさにそのような音楽なのである。
(2026.10.12)
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