これまで「意識の音楽」という概念を用いてマーラーの音楽を考えてきたが、その意味するところは必ずしも十分に明確ではなかった。「意識の音楽」がマーラー固有の概念なのか、それとも近代音楽一般のある傾向を指す概念なのかについても、なお整理の余地が残されていた。
しかし近年取り組んできた交響曲的主体論、とりわけ自由エネルギー原理(FEP)を参照した主体類型の検討を経ることによって、この問題に対して一つの明確な見通しが得られたように思われる。
重要なのは、「意識の音楽」とは単に近代主体を表現した音楽ではないということである。近代以降の多くの作曲家は、程度の差こそあれ、自律的主体を音楽の中に実現している。しかし、そのことだけではマーラーを特徴づけることはできない。
ここでいう「意識」とは、ダマシオの意味での延長意識、すなわち自伝的自己を備えた自己意識である。それは身体感覚や情動に基づく現在の自己だけではなく、保持された過去と予期される未来とを統合し、一つの物語として自己を構成する主体である。このような理解は、これまで検討してきた意識の階層モデル、亡霊性と情動に関する議論、「二分心崩壊以後、シンギュラリティ以前の〈意識の時代〉」論などによって既に理論的基盤が整えられている。
したがって、本稿において改めてジェインズ、フッサール、ダマシオ、スティグレール、FEPを個別に積み上げ直す必要はない。むしろ、それらを統合した意識論を前提として、「そのような意識はいかなる音楽形式として実現されるのか」という問いから出発することが適切である。
そのとき、「意識の音楽」とは、「自伝的自己を形式化した音楽」と定義することができる。しかし、この定義もなお十分ではない。自伝的自己とは本質的に物語的自己であり、物語とは他者に向かって語られることによって初めて成立するからである。
この点でアドルノのマーラー論における「ねえ、よく聞いて」という指摘は、単なる比喩ではなく、マーラーの主体形式そのものを言い当てているように思われる。マーラーの交響曲には、聴き手に対して世界を「説明する」のではなく、「ともに経験しよう」と呼びかける語りの衝動がある。
このことは、やまだようこの発達心理学における「共感指差し」の概念と深い構造的類似を示している。共感指差しとは、「これが何であるか」を教える行為ではなく、「ねえ、見て」と他者と世界を共有しようとする行為である。それは共同注意の成立であり、自伝的自己や物語主体の発生以前に存在する、他者との世界共有の原初的形式である。アドルノのいう「ねえ、よく聞いて」は、まさに音楽における共感指差しなのである。
この視点から見れば、「絶対的な小説交響曲」というアドルノの規定も、新しい意味を帯びる。小説的であるとは、単に物語的な展開を持つということではない。そこには語る主体が存在している。そしてその主体は、出来上がった内容を語るのではなく、「語りながら次を語ろうとする衝動」の中で生成し続ける主体である。
アドルノが詩は対話であるという詩論を展開したパウル・ツェランのほぼ唯一の散文「山中の対話」への返礼として書き送った書簡で自己引用した、上記の「絶対的な小説交響曲」に関連した、第九交響曲第一楽章終結部についての「主題労作と物語性の統合」に関する記述、或いは「あたかも音楽が語りながら先へと語る衝動をはじめて受け取るように主題が湧き出てくる」というルジツカが自作のヴィオラ協奏曲の銘として引用する記述も、この観点から理解されるべきであろう。ここでは主題が変形するから物語が生じるのではなく、語ろうとする衝動そのものが主題を生成し続けている。
その意味で、マーラーに頻出する expressivo という指示も、単なる奏法上の「表情豊かに」という意味を超えている。それは旋律が、あたかも誰かに向かって語りかけようとする衝動を帯びているかのように演奏されるべきことを意味しているのではないか。
このように考えると、マーラーにおける「表現」の概念そのものも変化する。従来の表現概念は、主体の内面を音楽によって外化するものとして理解されてきた。しかしマーラーでは、表現とは世界を他者と共有する行為であり、共有可能な世界そのものを音楽の中で生成することである。
マーラー自身が「交響曲とは世界のようでなければならない」と述べたとされる言葉も、百科事典的な世界像の提示ではなく、自伝的自己が生きる世界を他者と共有可能なものとして構築するという意味に理解し直すことができる。それは世界の描写ではなく、「世界の共有」である。このような共有への志向は、アドルノがマーラー論の結びで述べる、「落伍者に向かって手を差し伸べる音楽」という特徴とも深く結びついている。それは倫理的付加価値ではなく、主体形式そのものから導かれる帰結である。マーラーの主体は、本質的に他者へ向かって開かれている。作品は自己完結した表現ではなく、他者を自己の世界へ招き入れる行為として成立している。
このような「世界の共有」という契機は、交響曲的主体の類型論から見ても重要な意味を持つ。マーラー的主体は、自由エネルギー原理(FEP)の観点から見れば、世界を予測し、その予測誤差を不断に更新し続ける主体の典型である。しかし同時に、それは動物型FEP主体が最も徹底したかたちで展開され、その内部に潜む限界が露呈する地点でもある。
従来、この主体の「裂開」は、主体内部における予測誤差の累積や自己更新の危機として理解されてきた。しかし、本稿の立場からすれば、その裂開は主体内部の出来事ではない。主体が裂開しているように見えるのは、その主体が本質的に他者との世界共有を志向しているにもかかわらず、その共有の条件そのものが近代において危機に瀕しているからである。したがって、裂開しているのは主体というよりも、主体と他者とを媒介してきた共同世界そのものである。
このことは、「ねえ、よく聞いて」というアドルノの指摘や、「絶対的な小説交響曲」という規定とも一致する。マーラーの語りの衝動は、安定した共同世界の内部で語る衝動ではなく、共有可能な世界そのものが失われつつある時代において、それでもなお他者と世界を共有しようとする衝動なのである。この意味で、マーラーの音楽における「語る」という契機は、単なる自己表現ではない。それは共同世界を再び成立させようとする実践であり、世界共有の再構築へ向けた行為なのである。
このことは、自由エネルギー原理そのものの理解にも修正を迫る。
自由エネルギー原理はしばしば、外界との境界を維持しながら自己保存を図る閉鎖的主体の理論として理解される。しかし、人間の自己は、そのような閉鎖系として理解することはできない。人間の自己は、他者との相互作用を通じて予測誤差を共有し、共生成的に自由エネルギーを最小化する方向へと開かれている。
したがって、マルコフ境界とは、自己を世界から隔てる壁ではなく、他者との触発と共鳴を可能にする膜として理解されなければならない。マーラーの交響曲が聴き手を世界へと招き入れようとする形式をもつのは、このような開かれた主体構造が音楽形式として実現されているからである。
このような主体理解は、主体の存在様式だけでなく、その主体がいかに世界を語るかという表現様式にも帰結する。 結果としてこのことは、交響曲という形式そのものの意味をも変化させる。
ここで問題となっているのは、主体はいかに成立するかという発生論でも、主体はいかなる存在様式をとるかという存在論でもない。そのような主体が、いかに世界について他者へ語るのかという表現論である。
ロマン派音楽一般にも自己表現や世界表現は存在する。しかし、多くの場合、音楽は主体が表現する内容を担うのであって、主体の語り方そのものを形式化しているわけではない。 マーラーにおいて特異なのは、主体がいかなる存在様式において世界と関わるか、その語り方そのものが交響曲の時間構造へと転化している点である。
交響曲は、主体が世界について語るための器ではない。マーラーにおいて交響曲とは、主体の語り方そのものが音楽形式として実現したものである。作品は主体の思想や感情を表現する媒体ではなく、主体が保持・予持・回想・予測を繰り返しながら世界を他者へ語る、その時間構造そのものを形式化している。
したがって、マーラーにとって交響曲とは選択されたジャンルではない。世界を他者と共有しようとするマーラー的主体の存在様式は、必然的に交響曲という時間形式を要求したのである。
マーラーの交響曲は、自伝的自己が世界について語る音楽ではない。自伝的自己が世界と関わり、他者へ向かって世界を共有しようとする、その〈語り方=生き方〉そのものが交響曲形式として実現した音楽なのである。
私は以前から、マーラーの音楽には、聴き手の背中をそっと押し、一歩前へ踏み出せるよう支えてくれるような性格があると感じていた。その感覚も、この主体論によって説明できるように思われる。マーラーの音楽は、単に世界を共有するだけではない。そこには、生きることそのものへの「いざない」がある。
このように考えるならば、マーラーは単に近代主体を音楽化した作曲家ではない。むしろ彼は、「意識の時代」において形成された主体が、その極限において自己の条件を問い返し始めた地点を代表している。主体は世界を予測し続ける。しかし、その予測が成立するためには、他者との共同世界が維持されていなければならない。
ところが近代において、その共同世界そのものが揺らぎ始める。マーラーの交響曲は、この危機を描写する音楽ではない。むしろ、失われつつある共同世界をなお他者と共有しようとする音楽である。アドルノのいう「ねえ、よく聞いて」という呼びかけ、「絶対的な小説交響曲」という規定、「落伍者に向かって手を差し伸べる音楽」という評価は、いずれもこの構造を異なる角度から捉えたものと理解することができる。その意味で、「意識の音楽」とは、自伝的自己を形式化した音楽であるだけではない。それは、自伝的自己が他者と共同世界を生成しようとして語る、その語りの行為そのものを音楽形式として実現した音楽である。
マーラーは、「意識の時代」が到達した最も自己反省的な主体を代表する作曲家である。マーラーの主体は、共同世界の危機のなかでなお他者へ向かって語り続けるという存在様式をもち、その語り方そのものが交響曲という時間形式のうちに最も明瞭に実現されている。 この意味において、マーラーは「意識の時代」の極限を代表する作曲家なのであり、「意識の音楽」のプロトタイプなのである。
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