2023年7月31日月曜日

私のマーラー受容:「嘆きの歌」(2023.7.31更新)

 「嘆きの歌」は聴く機会がずっとなかったし、あまり印象にも残っていなかった。 この曲の素晴らしさに気づいたのは最近(ここの部分の執筆当時で、改稿している2023年現在では近年とすべきだろうが)になってからで、恐らくナガノ・ハレ管弦楽団の初期稿全曲の CDを聴いたことが大きい。これは単に初稿の初めての録音だというにとどまらず、際立って優れた演奏だと思う。

 だがしかし、「嘆きの歌」の受容史一般からすれば、私の上記のような受容の経緯は、マーラー演奏の中心から隔たった極東の、更に地方都市に住んで、最新の情報に接することができなかったという情報格差の結果であるというべきなのだろう。今日ではよく知られていることだが、「嘆きの歌」は20歳になるかならないかの若きマーラーの野心作であり、マーラー自ら「作品1」と呼んでその上演に拘りを持ち続けたにも関わらず、その実現は、マーラーが功成り名遂げたウィーン宮廷歌劇場監督の時代になってからようやくであるのみならず、上演にあたっては第1部をカットして、初期稿では第2部、第3部にあたる部分のみとし、更に声楽や管弦楽の配置にも大幅に手を入れ、上演に纏わるさまざまな困難に関して大幅に軽減されるような改訂を加えた上での上演であり、程なくして出版され、永らく流布したのもこの改訂稿であった。それに対しオリジナルの形態は、まずカットされた第1部のみが1934年11月28日にブルノで放送初演(アルフレート・ロゼ指揮、チェコ語歌唱)されたが、その後は専ら改訂版での演奏が行われ、再び初期稿が陽の目を見るのは、生誕100年を経てマーラー・ルネサンスが到来して、主要な交響曲や歌曲が人口に膾炙するようになった後の1970年近くになってからのことであった。恐らくその先駆けとなったのが、イギリスで指揮活動を活発化させていたブーレーズであり、1969年に初稿第1部を、続けて1970年に改訂稿を用いて第2部・第3部を録音したレコードをリリースし、これがその後しばらく続いた、初稿第1部+改訂稿という折衷形態での上演が一般的になる契機となったものと想像される。なお、私がマーラーに出会った時期の私のリファレンスであったマイケル・ケネディの評伝の本文(邦訳p.138)および資料編(邦訳資料編p.6)では、初稿第1部のブルノでの放送初演に引き続き、初稿全曲(本文では「オリジナル版」)の演奏が翌年の1935年4月8日にウィーンで同じ指揮者により、やはり放送初演の形態で行われたとの記載があるが、その後のブーレーズの録音について、やはり「オリジナル版」と記述していることから、初稿第1部+改訂稿での全曲演奏を指して「オリジナル版=初稿全曲」としたもののように思われる。従ってこれは、初稿第1部+改訂稿という折衷形態での上演の嚆矢となるものだった一方で、編成もオーケストレーションも大きく異なる初稿第2部・第3部と併せた文字通りの初稿全曲の初演は、冒頭で言及したナガノとハレ管弦楽団のそれまで待たねばならなかった。ポスト・セリエルの前衛作曲家であったブーレーズが、指揮者としての活動を活発化させると、新ウィーン楽派やストラヴィンスキー、バルトークあるいはドビュッシーやラヴェルといったレパートリーのみならず、セリエリズムの原点であるベルクやシェーンベルクのオペラはともかくも、バイロイトでワグナーの楽劇を指揮するようになるとともに、マーラーについても再評価の文章を執筆したかと思えば、次々と交響曲を演奏していくことになるのだが、そのブーレーズのいわば「名刺代わり」となったのは「嘆きの歌」であったということができるのではなかろうか。

 のみならず日本でも、戦前のプリングスハイム、近衛秀麿、ローゼンシュトックといったパイオニアによるマーラー紹介からの中断を経て、1970年の大阪万博あたりを転機として、遅れてマーラー・ルネサンスが始まったのであるが、「嘆きの歌」はその最中の1970年に、まず改訂稿の日本初演が、その後も日本における「嘆きの歌」の受容を牽引する、秋山和慶指揮東京交響楽団のコンピにより実現しており、私がマーラーを聴くようになった1970年代の後半において未知の作品であったわけではない。山田一雄、渡邉暁雄、若杉弘といった、その後日本国内でのマーラー演奏を牽引する指揮者が次々とマーラーの交響曲をコンサートのプログラムに載せていくのもこの時期のことであり、地方都市に住み、特段音楽的でもなければ、そうした先端の情報に接する環境にあったわけでもない、平凡な子供であった私は、そうしたトレンドの先端を知ることなく、取り残されていたい過ぎないというのが客観的な展望の中での位置づけということになるだろう。

 だが客観的にどうであれ、私のマーラー受容において、最初に作品に接したのがいつで、どの演奏であったのかの記憶が曖昧な点に関して「嘆きの歌」は残念ながら唯一の例外的な作品であることは認めざるを得ない。ドナルド・ミッチェルの『さすらう若者の時代』の邦訳刊行は少し先のことになるから未読であったとはいえ、上掲のマイケル・ケネディの評伝では、作品篇第2章「歌曲と交響曲第一番」で、かなり詳細に「嘆きの歌」を取り上げられており、初期稿・改訂稿の問題から、演奏や出版の経緯といった事実関係もさることながら、作品自体についても要を得た説明がなされていて、最初期の歌曲「春に」との連関にまで言及されており、情報としては申し分ないものが手元にあった筈である。だが、そこでもきちんと触れられているブーレーズの演奏の録音に接したのは、遥かに後年、それがCD化されて以降であるのは確実である一方で、それでは当時、マーラーの音楽に接する最も手近な手段であったFM放送で接したことがあっただろうかと自問してみても、当時の番組表でも見ることができれば、或いはこれに違いないというのを思い出すかも知れないが、そもそも放送で接したという記憶がないのだ。とはいえ初期稿第1部+改訂稿の形態での演奏には確かに接していて、冒頭で触れたナガノ・ハレ管弦楽団による初期稿全曲の演奏が初めてでなかったのは(思い込みでなければ)間違いないと思うのだが…

 とはいうものの、マーラーの交響曲がコンサートのレパートリーとしてすっかり当たり前になった現時点においても、この作品は依然として稀曲の類と言って良く、実演に接する機会が限られているのもまた事実であろう。日本初演こそ1970年に行われたとはいえ(1970年9月16日、秋山和慶指揮・東京交響楽団、大川隆子、石光佐千子、砂川稔、東京アカデミー合唱団、改訂稿)、その後上演は途絶え、ようやく1980年代になって再演の機会に恵まれ、今後は初稿第1部と改訂稿による第2部、第3部という、この作品の上演史において永らく採用されてきた形態による演奏(1982年4月7日、小林研一郎指揮・東京交響楽団)が行われることになる。シノポリが残した「嘆きの歌」の録音は、フィルハーモニア管弦楽団とともに来日してのマーラー・チクルスの一環として取り上げた折のものだが、稀曲の日本初演を数多く手がけている若杉さんが同時期にサントリーホールで行っていたマーラー・ツィクルスでは「嘆きの歌」はついに取り上げられることがなかった。(ツィクルス完結の翌年(1992年11月19日)に落穂拾いのように東京都交響楽団と取り上げているが。)なお初稿版全3部の日本初演は1998年5月の秋山和慶指揮・東京交響楽団による演奏で、秋山さんはその後2013年3月24日にも東京交響楽団と初稿版を取り上げており、「嘆きの歌」のスペシャリストの面目躍如といった感がある。

 近年、交響曲の演奏についてはプロよりも寧ろ頻度が高いかも知れないアマチュアのオーケストラによる演奏も、「嘆きの歌」となるとその上演記録は極めて稀なものになってしまう。本ブログでも利用させて頂いているクラシックの演奏会情報サイト「i-amabile(アマービレ)」の記録によれば、何と2回だけ。改訂稿ですら、長田雅人指揮・東京アカデミッシェカペレの第32回演奏会(2006年11月19日)で取り上げられたのが唯一なのだが、何と初期稿全曲の演奏は既に行われていて、三澤洋史指揮・愛知祝祭管弦楽団 が「嘆きの歌」特別演奏会を2015年7月26日に愛知県芸術劇場コンサートホールで開催している。

 そうした事情もあって、交響曲ですらやっと全曲の演奏に接したというレベルの私のコンサートでの聴取の経験に「嘆きの歌」が含まれていないのは寧ろ当然というべきだろうが、願ってもないことに、マーラー祝祭オーケストラ(音楽監督・指揮:井上喜惟)が来る2023年12月24日の第22回定期演奏会で、ヤナーチェクのシンフォニエッタとともに「嘆きの歌」を取り上げるという情報に接した。初期稿第1部+改訂稿という形態の演奏のようだが、印象深いモラヴィア風の変拍子の旋律を含む「嘆きの歌」とヤナーチェクの組み合わせも興味深く(初稿第1部の初演が、ブルノで、しかもチェコ語で行われたこと、更に翌年のウィーンでの放送のための「全曲演奏」が初期稿第1部+改訂稿という形態で行われ、長らくこの形態で「嘆きの歌」が受容されてきたことを改めて思い起こすべきだろうか?)、是非ともこの貴重な機会に足を運ぼうと思っている次第である。(2023.7.31大幅加筆して再公開)

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