お詫びとお断り

2020年春以降、2024年3月現在、新型コロナウィルス感染症等の各種感染症の流行下での遠隔介護のため、マーラー祝祭オーケストラ第22回定期演奏会への訪問を例外として、公演への訪問を控えさせて頂いています。長期間に亘りご迷惑をおかけしていることにお詫びするとともに、何卒ご了承の程、宜しくお願い申し上げます。

2008年4月26日土曜日

ある日、第8交響曲第2部を聴いて

ふとしたきっかけで第8交響曲の第2部を聴く。
途中で止めるつもりが、一気に聴きとおしてしまう。否、途中で止めることができなくなってしまい、 あっという間にMater Gloriosaの登場に至ってしまう。この曲もまた、マーラーの他の作品同様、音楽の脈絡が 自分の中にそれなりの正確さで保たれていることに気付く。それゆえ聴取は受動的な経験になりえない。 自分の中で展開される出来事を、聞こえてくる音によって確認していく行為にそれは近くなる。 第2部は1時間近くもあるのに、何と短く感じられることか。

この作品が持つ力はやはり圧倒的だった。 この作品の決定的な瞬間の持つ威力は、例外的なものだと私には感じられる。 その力は多分、最初に聴いた30年前から、衰えていない。
練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)の入り。アドルノとは異なって、私が一瞬何が起きたかと思い、ぞっとするのはここだ。 このあたりから音楽は少なくとも私にとって未知の、未聞の領域に入っていくのを感じる。 何度聴いてもそうなのだ。何か、人間が、この儚い、有限の生命しか持たない生物が、 そしてその生物に進化の悪戯によって備わった、さらに取る足らない意識が到達することのできない場所に、 自分がそのままでは見てはいけない何かに近づいている気がする。
そして練習番号165番の第1部の第2主題(Imple superna gratia)の再現。 主題が再現するということの持つ圧倒的な力をここまで徹底的に感じさせる瞬間というのは、 なかなかない。最早これは日常的な時間意識の裡にない、というのは確かなように思える。 (実際には私は、今日は第1部を聴いていないけれど、そして勿論、記憶と知識が それを補っているのだけれど、この部分は、マーラーの決定的な主題再現がいつもそうであるように、 それが「再現」であるという徴を帯びている。或る種の時間的な感覚を呼び起す何かがあるのだ。 「かつてあった」という感覚、そこから遙かに遠くに至ったという感覚。目も眩むような距離感が 再現には含まれている。マーラー自身、ここの箇所にetwas frischer als die betreffende Stelle im 1. Teilと 記しているのだ。歌詞もまた、Er ahnet kaum das frische Leben,...と、ファウストの再生を歌う。)

練習番号176のマリア博士の歌唱もまた、聴くたびに心を揺さぶられる。「到達した」という 非常に強い感覚。またしてもずっと遠くに来てしまった、そしてもう引き返すことなく、 決して戻れないのだという感覚。ちょっとした戦慄、軽い恐慌状態。

神秘の合唱が始まる瞬間、「時の逆流」という言葉がいつも思い浮かぶ。 もともとそれはホワイトヘッド的なプロセス哲学における時間論のある解釈の文脈で用いられた 術語なのだが、私にはそれが比喩には思えない。かつても思えなかった。勿論、文字通りの意味で もともとの「時の逆流」をこの音楽に対応付けることはできない。 だが、この音楽から受ける印象は、まさに「時の逆流」と呼ぶに相応しい。
別のところで、第8交響曲を全曲がアドルノのいう「突破」(Durchbruch)として形作られたかの ような、という言い方をしたが、「突破」をホワイトヘッドの時間論によって読めば、まさにそれは 「時の逆流」が起きる相だし、しかもマーラーはここで「創造性」を、新しさを問題にしているのだ。
それはお前の思い込みだ、お前という個体の経験、脳に築かれた回路網に固有のものだという 反論があり、その一方でこの作品は所詮は、ある時代のある文化の産物に過ぎないし、 その作品のイディオムもまた、その時代にあってはありふれたものだという反論がある。 人によっては、そもそもこのような詞章に音楽をつけることそのものを暴挙と見做すかも知れない。 それらは正しく、私はその正しさの前に無力だ。だが、それでもなお私にとってそうした反論は虚しい。 私はこの曲を客観的にみて低く評価する意見に反論するつもりはない一方で、 にも関わらずこの音楽が少なくとも自分にとって例外的な意味を持つのも確かなことだ。 作品の出来など私には結局のところわからないし、最後の部分で私にはどうでも良いことなのだ。 マーラーは多分何かを見た。それは彼の天才によってこの音楽にきちんと刻印されている。 そして私はそれを確かに感じることができる。充分に受け止められるとは言えないにせよ。

音楽は人間のものだ。それは人間の限界を超えることはできない。だが、このようなものを (それがマーラーという天才であったとしても)人間が創りだしたということは、 何か奇妙なことにさえ感じられる。
私にはマーラーがこれを天体の運行に喩えた気持ちがよく分かる気がする。書きとらされたという 印象を文字通りの非常に正確な言い方として受け止めることができる。

この音楽には、「私」はもういない。創る私も、聴く私も。 だが、誰かが演奏しなければならない。しかも数百人の人間が演奏する必要があるのだ。 もう一度、音楽は人間のものなのだ。だが実演に接したことがあるにも関わらず、 それすらもまた、奇妙なことに思える。寧ろこれはピタゴラス派の天球の音楽にこそ相応しいのでは、 生物学的な制約からは自由であるべきではないのかという、冷静に考えればナンセンスな 考えを振り切ることができない。

突然、第2部をこの前聴いたのが何時なのかが思い出せないことに気づく。 少なくとも数年前、もしかしたら10年以上前?実演は1度きり、もう20年以上前のことだが、 録音ですらこの音楽から何と長く遠ざかっていたことか。
この曲を演奏会場で聴くことはもう無いだろう。恐らく、自分の感情を制御できないだろうから。

しばしばマーラーの音楽の決定的な瞬間に、私は死別した人や動物のことを思い出す。 否、思い出すというより、彼らが今いる場所の近くにいるような印象を覚える。 今日、よりによってこの第8交響曲の第2部を聴いていて、それが起こった。 20日ほど前に「こんな嵐の中で」喪われた生命。
そう、マーラー自身もまた、この音楽の裡に死別した兄弟や友人、親の姿を 見出したのではないか。この音楽には―少なくとも第2部には―実は死の影が覆っている ように感じられる。もう一度、あの練習番号155番の少年合唱(Selige Knaben)に 立ち戻ってみれば良い。彼らはファウストについて語りながら、自分たちについても Wir wurden früh entfernt / Von Lebechörenと述べているのだ。Imple superna gratiaの 主題の再現で、ファウストの再生を歌うのはかのグレートヒェンである。
ここではこの世では起きようのないこと、寧ろ起きては「ならない」と言うべきかも知れないことが 起きているのだ。(例えば、ゲーテのファウスト同様、これまたマーラーの愛読書の一つであった「カラマーゾフの兄弟」 第5編「プロとコントラ」の「4.反逆」の章におけるイヴァン・カラマーゾフの言葉を思い起こせば良い。 私にはゲーテのファウストのこの結末を噴飯物として受け付けない人の気持ちもわかるような気がする。)
30年前にこの曲のこれらの箇所を聴いてぞっとした私は、総譜ももっていなかったし、 歌詞がきちんと頭に入っていたわけではないけれど、マーラーの音楽は、 出来事の異常さをそれ自体ではっきりと告げていたのだろうし、今なお、そうした印象は 揺るがない。「かくあれかし」は、実際には起きてはいないことを起きたと称する詐術ではない。 私には、ここでは音楽による簒奪は起きていないように思える。

見かけは逆説に、矛盾に見えるけれど、第8交響曲は、大地の歌や第9交響曲と どこかで繋がっているのだろう。
神秘の合唱は成就を歌うけれど、聴いている私はその劈頭の言葉、移り行くものに留まる。 私は成就した何かに与れない。私は模像に過ぎない。そしてまた、死んでいった彼等も また模像に過ぎないのだろうか?多分そうなのだろう。
私がこの曲を聴かないのは、嫌いだからでも、評価していないからでもない。 聴くのがこわいだけなのだ。聴いてはならないような気がしてならないだけなのだ。

今日の私にはこの曲の終結は「大地の歌」の終結と同様、涙無しで聴けないものであった。 もしかしたら、私が消え去ったのちにどこかで彼等と再び遭うことがあるのだろうか。 私の知らない未来、この曲がそこから到来し、そして同時に指し示す未来、永劫に、決して私には訪れない瞬間に、 (今さっきそうしたように)彼らを追憶し、想起するのではなく、再び彼等とともにあるのだろうか。
この音楽はそれ自体が、人間が人間のままでは起こりえないこと、経験することのない 瞬間から到来したものであるかのようだ。
アドルノも似たようなことを述べているが、この曲において何が実際に成就したのかを 見極めることは不可能だ。否、音楽はそもそもそれ自体仮象に過ぎない。 現実には何も成就していないのだ。お前が自宅のPCで夜遅くに音楽を聴く一瞬だけ 起きる何かなど、何だと言うのか。けれども、それは全くの無ではない。突破の契機は 色褪せ、結局のところ無力だけれども、それでも突破が起きなかったとは言えないのだ。 それがある生物の個体のちっぽけな脳内で起きた事象に過ぎなくても。

今や私には、「大地の歌」がこの音楽と矛盾するものなどではなく、当然の帰結であるように感じられる。 「こんな嵐に」の終曲と、第2部はほとんど同じ(非)場所(=ユートピア)を指していないだろうか。 多くの人にとってこの音楽の持つ意味とどんなに懸け離れたものであったとしても、 私にはそのようにしか受け止められない。(2008.4.26/27)