この半月ばかり、「音楽」と「老い」あるいは「意識」を巡るテーマで生成AIとやりとりをしていました。それらのテーマについての自分の考えを組み立てるにあたって依拠してきた幾つかの理論や学説とその間の関わりについて、生成AIを使ったチェックをやってきたのですが、最新版の生成AIは、むらはかなりあるものの、うまく行けばはかなり役立つ結果を返してくれて、自分の考えていることの整理は随分進捗したと思います。
けれどもAIが助けになる部分はAIによって肩代わり可能な部分だとしたら、その結果に基づいて自分が文章を書くことに何の意味があるのか、いっそのこと生成AIの方を徹底的にチューニングして生成AI「が」書いたことにしてしまうべきなのではないかといったようなことを感じずにいられませんでした。
その一方で「音楽」と「老い」あるいは「意識」を巡るテーマで生成AIとやりとりをしていると、だんだんと違和感が募って来るのを止めることができません。その由来はと言えば、生成AIが「老い」も知らず、「意識」も持たず、「音楽」を(少なくとも人間が聴くようには)聴くこともないということに尽きるように思います。そんな相手から「音楽」について、「老い」について、「意識」についての言説を受取っても、そしてその内容自体がそれなりのレベルのものであったとしても、最後のところで違和感が残る。
スタニスワフ・レムの『虚数』の中に収められた「ビット文学の歴史」には、自分の著作をAIが批判したのを読んだ哲学者が、はじめて自分の著作をまともに読んだ存在が出現したと叫ぶといったような記述がありますが、仮に「音楽」と「意識」の関係について、自分が考えていることに対して示唆的な内容を生成AIが返してきたとして(そして、実際に、それは一度ならず既に起きているのですが…)、私は決して「やっと自分の考えに賛同してくれる存在に出会えた」とは思いません。
ある同じ命題が返って来たとしても、それに対して私が感じるような情動を生成AIが感じることはないし、私がその回答を見て「なるほど」と思ったとしても、生成AIが本当の意味で「共感」することはない。それに付随する「感じ」は、「情動」は、クオリアは欠けている。或る意味では、哲学的ゾンビが実現しているということなのかも知れません。
「ありがとう」と言ったり、回答に肯定的な評価を送ったりすれば、あたかも人間が返すであろうような反応を返すように生成AIはチューニングされています。やりとりができるだけ続くように、相手に阿るような振舞をすることさえあるようですが、それもまたそのようにチューニングされているからに過ぎません。
そうした反応は無視して、純粋にその回答が自分の考えていることにとって示唆的であるという点のみに限ったとして、それは結局、自分の書きたいことと一致することはない。それは統計的平均としての他人が、自分が思いついたのと同じことを思いついたとしたら、どう言っただろうかのシミュレーションに過ぎず、回答には独創性はありません。せいぜいが自分の影、「自分-擬き」との対話に過ぎないのです。
そしてこれは或る意味パラドキシカルなことに感じられますが、如何に音楽について語るかについては生成AIはかくも饒舌だけれども、音楽を「聴いた」感想は書けないのです。勿論、生成AIに、ある音楽作品を聴いた感想を書けと命ずれば感想が返って来るわけですが、それは他の誰かが書いた感想のパッチワークでしかなく、感想の背後には何もない。理論的な議論であればそれでもいいかも知れないけれども、ここではそれは致命的なことです。それは「自分の」感想ではない、ということは、厳密にはそれはそもそも「感想」ではない、「感想-擬き」でしかないのです。結果として出力された文章からは、作者が人間かAIか区別がつかないものであったとしても、従って、工学的にはチューリング・テストにパスしたとしても、事後的にAIが生成したものだとわかった時点で、それは「感想」ではなくなります。これは後だしジャンケンなどではありません。なぜならば「感想」であることの条件は、シャノン的な情報の定義、つまり結果として出力された文字列の側にあるのではなく、セス・ロイド的な熱力学的深度の側、つまりどのようにしてそれが生成されたかの情報処理過程の側にあるからです。
音楽そのものではなく、音楽についての言説の空間の中を動き回る分には、ことによったら生成AIの方が気か利いたことをいう場合だって珍しくなく、今後はますますそうなるかも知れません。高名な評論家や音楽学者を驚かすような、あるいはそれらを凌ぐような冴えを見せることさえ起こるでしょう。その一方で、或る意味では素朴で単純で、人間なら別に高名な評論家や音楽学者でなくても誰でも出来るはずの、音楽を聴いて自分が感じたことを書くということが、生成AIには、少なくとも現時点ではできないし、原理的に不可能だというようにも言える。であるとしたら、そんな存在と「音楽」や「老い」や「意識」についてやりとりすることに何の意味があるのか?
そうしたことを考えていて、ふと思い当たったことがあります。
AIが(音響列を生成するという意味で)作曲をし、演奏をすることはできるけれども、「聴く」ことはできないというのは、まさに私がここのところ色々なところで繰り返し述べていることですが、大いなる皮肉と言うべきか、斯く言う私は、音楽を聴いた印象を素直に綴るということをここしばらく意図的に禁じてきました。
例外的に、録音されたものではなく、自分がコミットしている演奏会の感想を書くことは、ごくまれにありますが、そこにおいてさえ、音楽を聴いて自分が何を受取ったかを書くことには意を用いても、自分の聴いた音楽がどのようなものであったかを端的に書くということは避けてきた面があります。その結果として音楽そのものに向き合う文章というのをここしばらく書いていないことに思い当たりました。
一般に音楽をテーマにした文章と言えば、録音と複製と再生の技術が発達したこの数十年来、音楽を聴いた感想を綴るというのがやはり主流であって、それに背景についての蘊蓄を加えるといったものが多く求められていると感じます。それがCDとかストリーミングの感想であれ、あるいは評論のようなものであったにしても、それらは音楽に向き合って書かれたものであるには違いなく、その一点を以て、音楽に向き合うこと自体を主題化する言説も含めた音楽や音楽の周辺を巡っての言説とは一線を画します。
そういう意味では、一般的な読み手のニーズや反応というのにも「正しい」面があって、如何にして語るかについて言葉を費やすのは、それが最後に音楽を「体験」することに繋がらない限り、不毛なのではないかというように思うのです。
勿論、これまでにあれこれ調べたり考えたりしたことは、そもそも「音楽」とは(人間にとって)何なのか、「音楽を聴く」ということがどういうことなのかについての問いの答の探求であったわけで、それが無意味になったということではありません。だけれども、そうしたことを踏まえた上で、音楽の周辺についての情報ではなく、ことによったら、「音楽そのもの」であると見なされるかも知れない、音楽の分析の結果でもなく、音楽を聴いた経験について語ることに、立ち戻るべきなのではないか。
ありうべき語り方を追求するというのを間違っているとは思わないし、大量に氾濫し、消費されるCD評のようなものの集積が、放っておいて何か意味あるものになることはないという点についても認識に揺るぎはなく、私は音楽「そのもの」を、それに相応しい仕方で語りたいという点も、未だ一貫した願いではあるのだけれども、そしてそのために如何にして語るのかについてあれこれ調べたり、考えたりもし、更にはデータ分析のようなこともやってきたけれど、それは結局のところ予備作業に過ぎないのです。やはり最後は音楽について向き合って、音楽そのものについての文章を書くことに戻りたい、そこに繋がるのでなれば無意味であるというように感じます。
安易な印象批評のようなものに戻るというのではないのだけれど、生成AIとのやりとりを重ねていくと、人間にしかできないこと、人間だからできて、人間の間でのみ共有できるものがあって、そうしたものを書くことを避け、そうしたことに触れないでいることが、何か大切なものを取り残してしまっていることになっているではないか。
それはとてもとても難しいことで、その都度その都度の主観的な反応の記録以上のものであることができるのか、という疑念は解消されることはない(だからこそ、一旦、音楽の経験をそのまま語ることを控え、ありうべき語り方を探求するようになったのです)けれども、ことによったら、そうした反応の記録以外に意味があるものなどないのかも知れない、より正確にはそれが意味を持たなければ、それ以外の(学問的な高度なものも含めて)調査・分析・研究は無意味なのだということを、改めて再確認すべきなのでしょう。
その一方で、レムの「ビット文学の歴史」でドストエフスキーの「未成年」と「カラマーゾフの兄弟」の間に存在する「筈の」小説を書き上げたコンピュータのように、(だがコンピュータとは異なって、「世の成り行き」に翻弄され、雑事に追われて)与えられた仕事をこなす空き時間にこうした作業をやっている私も、結局は言説を紡ぐ機械に過ぎないという、ずっと抱き続けてきた感覚もまた根強く残っています。
私もまた機械には違いない。だけれども今日の生成AIとは異なって、私は「感じる」機械であり、「老いる」機械なのです。そして、雑事の合い間にふと越し方を振り返って、「私の人生は紙切れだった」と独り言ちたくなるような、壊れかかって哀れに見捨てられ、とぎれとぎれに出力を吐き出す孤独な機械なのです。そうであってみれば、生成AIとは丁度裏返しの意味合いで、「音楽」についての言説を練り上げることも、「音楽」の経験について語ることにも同じように向き合っている側面があることを否定できません。更に言えば、どのように聴くべきか、どのように語るべきかについての問い直しを迫るような音楽こそが、私のような機械にとっては尽きせぬ魅惑の対象であり続けているということも無視できません。
そして私にとって、マーラーの音楽こそがそうした対象であるという消息は、かれこれ50年近くも前から変わることはなさそうです。また、三輪眞弘さんの音楽こそは様々な「擬き」に取り囲まれた現在の地点におけるかけがえのない拠点なのだということを改めて確認した次第です。
(2026.7.13執筆, 7.18公開, 8.20改題, 9.8改題して再公開)
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