2007年12月31日月曜日

備忘:時間性


マーラーの音楽は、何も未聞の宗教的経験の音楽化などではない。確かに音楽の持つ時間の構造は独特だが、 それはマーラーの場合について言えば、寧ろ現象学的な時間に近い。ただし日常生きられる時間性という意味合いで。 (例えば死の受容といったイベントも、ここではあえて「日常」の側に含める。それだけを特権化する理由がないので。)
音楽の研究者が「日常の時間」というとき、あまりに物象化されすぎた時間表象にとらわれすぎている。 ―これは現象学が見出した領域をまるまる無視してしまっている。日常の時間「表象」と日常生きられる時間性との 区別は必要で、後者は自明でない。少なくともSein und Zeitが持つインパクトはそれを明らかにしたことに あるのだから。例えば椎名の分析もそうだ。還元を持ち出す必要などない。音楽的経験の時間は日常的なそれと 異なるには違いない。だが、まずはそれは経験の素材の特殊性によるので、それ以外については―Greeneの transfigured同様―慎重であるべきだ。
勿論音楽が非日常的な経験への通路たりうることを否定するのではないが、それがどう可能かを説明するのに― こちらでは真木悠介、木村敏、九鬼そして道元だ―様々な説をその相互関係に留意せずに並べることが実質的に 貢献するとは思えない。
Greeneにせよ、椎名にせよ、「日常性」という言葉を自分の立場のオリジナリティを強調するために 利用しているのでは、という疑いを否定することは困難だ。
日常という言葉で一体どういう時間性を含意しているのか、例えばHeideggerが分析した豊かな領域は 一体どういった扱いを受けるのか、日常性の豊かさこそが音楽的経験を可能にする前提のはずなのに、ただちに 特異な、特殊な経験を持ち出し、それを可能にすることがあたかも「価値」であるかの様な主張はどこか転倒している。 もっとも、こうした「日常的時間」の用法は、それなりに一般的ではある。 そして計測可能な、量化された時間というのがある事自体は否定しがたい。 ポイントは、それらがいわゆる本当の意味での日常的な時間意識とはまた異なった、それなりにelaborateされた 表象であることだ。
だから、日常性を批判するなら相手が違うし、そうした表象の批判は日常性の批判にならない。 もう一つは時間性に「限定」してしまうことで、体験の質を逃してしまう危険。これは「時間性」を扱うといったときに 用意される道具立ての貧しさに由来する。例えばGreeneの分析を見よ。
一方で椎名の方は、―彼が顕揚したい実験音楽の時間性についてはおくとして―これほど複雑な構造を持っている ロマン主義の音楽、例えばマーラーの音楽の複雑さを目的論的という言葉で片付けてしまうのは、些か不当に 感じられる。意地悪な見方をすれば、実験音楽の時間性の方が、(時として、それ自体が作者の問題意識でもあるゆえ) より単純で分析しやすい、それについて語ることが容易であるに過ぎないのでは、という疑いを払いのけるのは難しい。 実際のところどうなのかはわからない。なぜなら椎名の議論は両者を具体的に分析してみせた結論ではないから。 Greeneの分析の結果の貧しさは、マーラーの音楽の時間性の貧しさではない。それは分析の手段の貧しさに過ぎない。 椎名の近代音楽の時間性についての議論がそうでないといいのだが、私はあまり納得できていない。 音楽記号学が(少なくとも、私が関心を持っているタイプの音楽に限って言えば)どうやら不毛らしいことについては あまり異論はないのだが、では音楽的時間論の方はどうなのかといえば、こちらもまた、私が関心を持っているタイプの音楽 についてどうなのだろうか。些か腑に落ちないものがある。
あるいは、近代音楽の時間性を日常的時間と切り離された閉じたものとして捉え、一方でその裏返しとして日常的時間の 貧困と無意味を指摘し、それらの両方に対峙するものとして実験音楽的な時間性を置くという図式は、今ここで マーラーという近代音楽の典型のことを思い浮かべている私には、全く現実離れしたものに感じられる。 実験音楽が切り開く時間性が、日常の豊かさを回復させるとは、日常生活の如何なる瞬間においてなのか? 一方で、マーラーの音楽の時間性が、ある時には「世の成り行き」の時間性であるとしたら、それは控えめに言っても、 「日常的時間と切り離された閉じたもの」ではない。寧ろ、日常の「貧困と無意味」を逃れえるとされる実験音楽の 方が日常的な時間性に対して閉じていると言えないのはどうしてなのか、、、
否、ひとがみなCageのように生きることができるのであれば、話は違うだろう。だが、一瞬だけ実験音楽を聴いて、 その場限り体験できる日常の豊かさとは何なのか?所詮は、コンサートホールで演奏され、CDに収められて 流通している点で何ら変わるところはないというのに。著者はCageのような生き方を実践されているかも知れないが、 残念ながら、日常的時間の貧困と無意味から逃れられない私には実験音楽のありがたみはわかることはなさそうだ。 まあ、今頃マーラーみたいな音楽を聴いている人間のことなど、どうでもいいのかも知れないが、だったら、 「実験音楽における」という制限をつけて欲しい気もする。そうすればはじめから期待せずに済むわけなのだから。
日常性を本当に問題にして、それに対する音楽の機能を考えるなら、作品の内部構造のみを問題にするのは 不十分だろう。演奏の次元は、作品に最もよりかかった部分であり、それよりはせめて創作の次元や受容の次元の 議論をしなければ片手落ちだと思うし、音楽を聴いている瞬間だけを問題にするのは、この議論の枠組みを 考えれば不十分なはずだ。(風呂敷を広げたのは論者の方であって、読み手の私ではないので、読み手の 私はすっかり戸惑うことになる。)否、そもそも、こうした話をしだしたら、最後までそれは音楽の時間論で あり続けることができるだろうか。

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音楽的時間論というのは一見したところ魅力的な領域に見えるが、そこでの議論のいい加減さにはうんざりする。 フッサールを、ベルクソンを持ち出して、音楽の時間はそれとは違います、というのが一体何の説明になっているのか? 音楽的時間論を具体的な音楽に適用して成功した例というのがあるのだろうか?(Greeneのような、その実何の時間論 にもなっていないような空疎なものは除外する。)いい加減な2項対立をでっち上げて、一方を非本来的だ、と批判して、 果ては、色々な哲学者の時間についての議論の摘み食い、というのがお定まりのコースのようだ。
これでは時間を直接扱わない心理学的な議論の方がまだしもだ。恐らくそうなのだろう。時間そのものを扱うのが 恐ろしく難しいのは、専門的な哲学的な訓練を受けた人間なら、身に沁みてわかっていることだろう。 結局、具体的な何かを手がかりにせずに時間を論じることはできない。にも関わらず、音楽学者というのは、自分だけは 特権的にそれができると思っているらしい。だったら、哲学者の分析を摘み食いせずに、自前でやればいいのに。 個別の音楽という具体的な検証対象を持っているのに、そのくせ具体的な分析はやらない。(いわゆる楽曲分析ではなく、 時間論的な音楽の個別分析というのが問題なのだ。もし普通の楽曲分析で済むなら、わざわざ哲学者を連れ出す 必要も、ことさら音楽の時間論をぶつ必要もないだろう。―Greeneの場合がまさにそうなってしまっているように見受けられるが) だからたいていの場合には気の利いた比喩程度にしかなっていない。
そもそも哲学的な時間論は、私が多少はそれに関わった経験からすれば、具体的な適用において検証されない限り、 信用してはならない、とさえ考えるべきだと思われる。それを思えば、哲学的な時間論を、その時間論が論じられた 本来の狙いや意図もお構いなしに音楽という対象に引き込んで、しかも自分でも哲学者に劣らないほど抽象的なレベルでの 時間論を展開してしまう音楽学者の態度には全くもって感心してしまう。
(一部の哲学者がその思想との連関が全く明らかでない数学(もどき)を濫用した廉で、「知の欺瞞」という著作で 批難されたことは記憶に新しいが、音楽学者が時間論を展開する上で哲学に対してとっている態度の方は、批難されることは無いようだ。 連関は全く明らかではないし、哲学もどきである可能性だってあるような気がするのだが、、、まあ外部から見れば、 どちらも怪しげな学問(もどき)に過ぎず、とりわけ哲学者は自業自得だということにされてしまうのだろうが、とりわけ いわば「踏み台」にされた一部の個別の哲学者にとってみれば、気の毒な話ではある。)
しかも、音楽的時間論においては作品の価値というのがどのように考えられているのかもわからない。時間論的に興味深い 構造を持つ音楽が「優れた」音楽なのか(だとしたらこれは美学と共犯関係にある)、あるいは無関係なのか(こちらは心理学に 接近するだろうか)、あるタイプの音楽を取り出すとき、その音楽の価値と、そこで議論されている時間性との関係は 全く明らかではないはずだ(少なくともベルクソンやフッサールにおいては、それは音楽の価値とは無関係だったはずだし、 そもそも彼らは「音楽的」時間を解明するために音楽の時間的な分析をしたわけではないだろう)。 だが、私にとって自明でないこうした溝は音楽学者にとっては自明のことらしい。あるいは断りも無く、いつの間にか、 ある時間性を体現している音楽が顕揚されてみたりして、読み手はあっけにとられることになるのである。
勿論、こうしたことはすべて、具体的な楽曲についての時間論的分析(とやら)を提示してもらえば済むのである。 実験音楽でもロマン主義の音楽でも何でもいいが、それらにおける凡庸な作品と優れた作品の違いは何か。それが 時間論的な議論とどう関係する(あるいは無関係なの)か。そうしてみれば貴重な筈のGreeneの分析は、しかし、 この観点からはほとんど何も得るものがない。結局のところ、それは分析ではなく、自分の貧困な(自称)時間論的図式の マーラーの音楽への押し付けに過ぎないから。具体的な分析と、時間論的な議論は結局噛み合っていないようにしか見えない。

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にも関わらず、具体的な場面についていえば音楽は時間論的な装置の適用可能性を試すための格好の材料になっているのは 確かなことのように思われる。(向きが逆になっていることに注意。寧ろ哲学的な概念装置の方が検証される仮説なのだ。)

例えばマーラーの作品における「決定的な瞬間」について考えてみること。
恐らくAdornoの聴取の類型論からすれば、こうした瞬間に拘泥する聴き方は軽蔑の対象になるのだろう。 だけれども、そうした瞬間があることは、Adornoですら否定できなかったに違いない。 勿論その瞬間の「質」を決定するのは、全体の脈絡であり、作品の構造的な全体の形態なのだ。 そもそもAdornoその人の「突破」もまた、そうした特異点を言い当てようとする類概念に違いない。 あるいはまた、XIIIの児童合唱の「ぞっとする」瞬間、、、

例えばIV-3のあの中間部分。
IX-4の弦による歌のフレーズの閉じる部分(その後はいわゆる「充足」にあたる後楽節だ。)
III-6の最後の変奏の回帰部分(コルネットで主題を弱音で吹かせる部分。)
「決定的な瞬間」を決定的たらしめている要因は何なのかを考えることは意味のないことではないだろう。

あるいは「時間の逆流」(ここではホワイトヘッドのエポック時間論のある解釈で見られるそれのこと。)
時間の逆流が見られるのはMahlerの際立った特徴である。他にはちょっと思いつかない。
II-5, III-6 LE-6 IX-1,4 否VIII-2すらそうした「恐るべき」瞬間を持つゆえにかけがえがない。

「構築する」「編む」というメタファー。
音楽的時間の流れ、経過は、その目的論的性格(とその否定)は、少なくとも、メタファーとして機能しうる。
IX-4のおける死、解体、停止。
Adorno的なDurchbruch / Suspension / Eefuellungは時間論的であると同時にほとんど心理学的な図式だ。
「心理的」音楽外事象とのアナロジー。

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