ヘルシンキでシベリウスとの会話で「交響曲」が話題になったとき、マーラーがシベリウスに対して語ったこと。
Nein, die Symphonie muss sein wie die Welt.
Sie muss alles umfassen.
世界であろうとする―すると「世界」の縁が現れる?
すべてを含もうとする―すると外部が浮かび上がる?
楽曲の長さ。マーラーの場合は、しばしばコンサートを1曲で占有する長さ。
これは実は大変に重要だ。他の曲を聴かなくていい。
長さを可能にするもの。
長大な―30分を超える持続を可能にするのは?―「大形式」への志向。
繰り返し、だが全く同じではない。
反復すること、しないこと、絶えざる変奏。
ロマン(小説)は、心理学的な展開は型どおりの反復を嫌う。
ソナタの提示部反復、そして「再現」、ロンドにおける「回帰」
同じ音型が別の意味を持つ(「変形の技法」も参照のこと)。
意味が変容することが発展、展開。
変化を支えるものと同一性を支えるもの―何が変わったから意味が変わるのか?
ソナタの提示部反復、そして「再現」、ロンドにおける「回帰」
同じ音型が別の意味を持つ(「変形の技法」も参照のこと)。
意味が変容することが発展、展開。
変化を支えるものと同一性を支えるもの―何が変わったから意味が変わるのか?
パラメータを区別すること?
新しい要素の導入?多元論?それとも「外部」の存在を示唆?
多くの音楽は、理由は様々だが「一面的」だ。
それがある理想を目指せば、音楽から現実が抜け落ちる。
世界のようにすべてを包含するというマーラーの理念は、見かけほど単純ではない。
それは対立物も中に含み、世界のとの素朴な関わりを括弧入れすることを要求する。
要するに、媒介性が露わになるのだ。
純粋な客観も純粋な主観も虚偽であるということを告げている。
交響曲は世界のようでなくてはならない。
この発言は、決して、自明でも、普通でもない。ある時代、ある場所のある文化的・社会的背景で可能になった。
だが、いずれにせよ交響曲が世界である、というのはどういうことなのか、 世界という言葉で何が言われているのか。そのとき、主体の地位はどういったものであるのか。
そうしたことを問い直す必要はある。
世界認識について、確かに解釈学的循環はある。
だがそれよりも、音楽を聴くこと、ある世界認識を知ることが、自分の世界認識の様態に及ぼす影響を軽視すべきでない。
ミームとしての伝播。
認知心理学的な視点は、原子的・部分的すぎて具体的な体験に辿り着けない。
ある体験の連想etc...
世界に対する態度、気分、情動etc.
「私的な交響曲」というのは、考えてみればおかしな現象だ。 だが、マーラーあたりを基準にしていると、おかしさの感覚が麻痺してしまう。 むしろ社会主義リアリズムにおける「公的な」交響曲のあり方の方が、そのありようにふさわしい。 もっとも、交響曲の前身たるシンフォニアは、そうした機能とはまた異なった 機能を持っていた。それでも、いわゆる「私性」というのが無縁であったのは 同じだと言える。それはいわゆる公共の場で上演される劇に関係するもので、 従って、基本的に「私性」とは関係がない。
考えてみれば、ロマン派の交響曲は、そういった矛盾を(ベートーヴェン以来、 ベートーヴェンのせいで)抱え込むことになったのだ。(いや、ベートーヴェンは むしろ社会主義リアリズム的な「公的」な交響曲のあり方を予告したと言えるかも知れない。 私的な側面ということであれば、むしろベルリオーズの方が適切かも知れない。 ただし、ベルリオーズの物語は、もとは私的なものであっても、充分劇化されて いるともいえ、そういう意味ではベートーヴェンの第5交響曲のような類型の方が 「私性」はまさっているといえるかも知れない。この曲と、この曲と一見したところ 対照的な第6交響曲こそ、ロマン派交響曲の規範なのだ。)
絶対音楽という理念の成立は、それと対となる標題音楽、プログラムを持つ音楽という 考え方と不可分である。だが、絶対音楽にしてからが、結局、なんらかの情緒なり 気分なりを引き起こすものである、というレベルは否定されたとは言いがたい。 純粋に音の関係や運動に関心が行くのは、もっと後のこと、西欧音楽の伝統を 否定するいわゆる実験音楽まで待たなくてはならない。トータル・セリエリスムすら、 音楽の経過においては伝統的な音楽の枠組みを踏襲している。(そういう意味では 一面では伝統的な音楽への根本的な批判である実験音楽は、純粋音楽の 極限という点では、伝統の終端に位置づけられるのかもしれない。それは 或る種の臨界点なのだ。だが、いずれにせよマーラーの場所はそこではない。)
いや、古典派の音楽だって、情緒や気分の表現だとは考えられていたし、 それも、バロック期以前のクラングレーデが縮退したものである。この点でいけば、 実験音楽のような発想と絶対音楽の理念とは根本的に異質で、音楽が何かを 表現するものである、という点自体は、絶対音楽においても否定されているわけでは ない。少なくともある種の残滓として、絶対性の剰余としての表現というのはあった。 十二音音楽を準備する無調期が、いわゆる純粋な表現性というのを獲得しようと した時期であったのは興味深い。
私的な音楽といっても、それがプログラムとして与えられればベルリオーズのような 標題交響曲になるし、プログラムがなければ、あれほど主観的な表出性を持つ マーラーの交響曲だって、絶対音楽なのである。否、純粋な表現性という点では、 絶対音楽的な度合いが強い第6交響曲のような作品こそ、最も優れているという 見方さえ成り立つだろう。
マーラーが交響曲は世界のようでなくてはならない、と言ったとき、それは完結して調和のとれた閉じた時空として 思い浮かべられていた、ということはなさそうだ。アドルノのいう全体性に回収できない仕方、というのは、 多分正しいが、だがそれは世界が私にとっての世界であること、その結果それは事実上汲み尽くし得ないこと、 私は世界に対して単純に受身でも、能動的でもないことに由来するのではないか?
新しい要素の導入?多元論?それとも「外部」の存在を示唆?
多くの音楽は、理由は様々だが「一面的」だ。
それがある理想を目指せば、音楽から現実が抜け落ちる。
世界のようにすべてを包含するというマーラーの理念は、見かけほど単純ではない。
それは対立物も中に含み、世界のとの素朴な関わりを括弧入れすることを要求する。
要するに、媒介性が露わになるのだ。
純粋な客観も純粋な主観も虚偽であるということを告げている。
交響曲は世界のようでなくてはならない。
この発言は、決して、自明でも、普通でもない。ある時代、ある場所のある文化的・社会的背景で可能になった。
だが、いずれにせよ交響曲が世界である、というのはどういうことなのか、 世界という言葉で何が言われているのか。そのとき、主体の地位はどういったものであるのか。
そうしたことを問い直す必要はある。
世界認識について、確かに解釈学的循環はある。
だがそれよりも、音楽を聴くこと、ある世界認識を知ることが、自分の世界認識の様態に及ぼす影響を軽視すべきでない。
ミームとしての伝播。
認知心理学的な視点は、原子的・部分的すぎて具体的な体験に辿り着けない。
ある体験の連想etc...
世界に対する態度、気分、情動etc.
「私的な交響曲」というのは、考えてみればおかしな現象だ。 だが、マーラーあたりを基準にしていると、おかしさの感覚が麻痺してしまう。 むしろ社会主義リアリズムにおける「公的な」交響曲のあり方の方が、そのありようにふさわしい。 もっとも、交響曲の前身たるシンフォニアは、そうした機能とはまた異なった 機能を持っていた。それでも、いわゆる「私性」というのが無縁であったのは 同じだと言える。それはいわゆる公共の場で上演される劇に関係するもので、 従って、基本的に「私性」とは関係がない。
考えてみれば、ロマン派の交響曲は、そういった矛盾を(ベートーヴェン以来、 ベートーヴェンのせいで)抱え込むことになったのだ。(いや、ベートーヴェンは むしろ社会主義リアリズム的な「公的」な交響曲のあり方を予告したと言えるかも知れない。 私的な側面ということであれば、むしろベルリオーズの方が適切かも知れない。 ただし、ベルリオーズの物語は、もとは私的なものであっても、充分劇化されて いるともいえ、そういう意味ではベートーヴェンの第5交響曲のような類型の方が 「私性」はまさっているといえるかも知れない。この曲と、この曲と一見したところ 対照的な第6交響曲こそ、ロマン派交響曲の規範なのだ。)
絶対音楽という理念の成立は、それと対となる標題音楽、プログラムを持つ音楽という 考え方と不可分である。だが、絶対音楽にしてからが、結局、なんらかの情緒なり 気分なりを引き起こすものである、というレベルは否定されたとは言いがたい。 純粋に音の関係や運動に関心が行くのは、もっと後のこと、西欧音楽の伝統を 否定するいわゆる実験音楽まで待たなくてはならない。トータル・セリエリスムすら、 音楽の経過においては伝統的な音楽の枠組みを踏襲している。(そういう意味では 一面では伝統的な音楽への根本的な批判である実験音楽は、純粋音楽の 極限という点では、伝統の終端に位置づけられるのかもしれない。それは 或る種の臨界点なのだ。だが、いずれにせよマーラーの場所はそこではない。)
いや、古典派の音楽だって、情緒や気分の表現だとは考えられていたし、 それも、バロック期以前のクラングレーデが縮退したものである。この点でいけば、 実験音楽のような発想と絶対音楽の理念とは根本的に異質で、音楽が何かを 表現するものである、という点自体は、絶対音楽においても否定されているわけでは ない。少なくともある種の残滓として、絶対性の剰余としての表現というのはあった。 十二音音楽を準備する無調期が、いわゆる純粋な表現性というのを獲得しようと した時期であったのは興味深い。
私的な音楽といっても、それがプログラムとして与えられればベルリオーズのような 標題交響曲になるし、プログラムがなければ、あれほど主観的な表出性を持つ マーラーの交響曲だって、絶対音楽なのである。否、純粋な表現性という点では、 絶対音楽的な度合いが強い第6交響曲のような作品こそ、最も優れているという 見方さえ成り立つだろう。
マーラーが交響曲は世界のようでなくてはならない、と言ったとき、それは完結して調和のとれた閉じた時空として 思い浮かべられていた、ということはなさそうだ。アドルノのいう全体性に回収できない仕方、というのは、 多分正しいが、だがそれは世界が私にとっての世界であること、その結果それは事実上汲み尽くし得ないこと、 私は世界に対して単純に受身でも、能動的でもないことに由来するのではないか?
第3交響曲のような、特に第3交響曲第1楽章や第2楽章のような「無機物」や「植物」を「表現した」と言われる部分も、それは描写である、 とは言い切れない。マーラーの陳腐なプログラムを大切にする必要はないけれど、「XXが私に語ること」のうち 大切なのはXXが何であるかよりは、それらがすべて「私に語ること」として感じられ、企図されていることに違いない。
まるで万華鏡のように第3交響曲は各楽章毎に異なる時間性を持つが、その時間性―聴取によって聴き手に語られること ―を聴き取ることが必要なのであって、それをプログラムに還元するのは見当違いも甚だしい。
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