2007年12月31日月曜日

マーラーの「矛盾」とマーラーへの「距離」

マーラーの「遠さ」:引用、文化的文脈、民族性、社会的背景、地位(成功者)―引用も文化史もアドルノの観相学の本来の企図も、すべて遠い異邦の出来事には違いない。
作曲活動の不滅性(Blaukopf p.106)
進化論、汎神論と唯物論
ゲーテのファウストと唐詩の間の距離

作曲者でもなく、演奏家でもない、楽曲分析―伝統的な音楽学での―も遠い。
影響と再生産、単なる享受者、受容者にとどまって何が可能か?

内在主義、それどころか認知心理学的な水準まで戻っても良い。
(形式的な分析は「聴取」の論理からすれば―そして音楽は現象する音が全てだとすれば―逆立ちしている。伝統的な楽式論からの出発を保障するのは、せいぜい作曲主体の知識との共通性だ。―つまり、同じ教育を 受けたという。)

世界観の問題は残る。 マーラーの場合は、まずそれは「意図された」ものであった。 意図されたものはどうでもよくて、実現されたものが問題であったとして、だがそこで問題になるのはやはり世界観 ―というか認識のあり様、意識の様態といったものだ。 ところで、認知心理学的な水準に戻ることは、実験室の環境に聴取を還元することではない。マーラーの場合はそれは無謀な企てだ。 だから、結局はもう一度文脈というのは入って来ざるを得ない。 少なくとも歌詞は無しで済ますことは出来ない。 (標題は、それが撤回された、という事実を無視しなければ、やはりそれなりの手がかりにはなる。但し、標題音楽的な 解釈が是とされることには全くならない。標題は結局、歌詞そのものでもないのだ。) だからニーチェと第3交響曲は問題にして良い、すべきなのだ。

―マーラーの「矛盾」はだが、ずっと前から言い古されてきた事だ。 指揮者と作曲家、交響曲と歌曲、しかし世界観ともなれば別だ。意識の様態の多様性自体は問題ではない。 けれどもコヒーレンスはやはり想定されねばならない。 Kennedyは「実験的」「演技者」と呼んだ。 仮説とその検証がより近いのか? 否、そうでもないだろう。 作品を形成する作業と、そこに盛り込まれる実質の問題はだから分裂もするし、緊張関係にもある。

マーラーの音楽は、その世界観はもはや過去のものであって、疎遠なものだ。何と言っても前世紀の価値観の 産物なのだ。だが、マーラーの音楽は、同時代にあっても、アナクロニックなものであった。アナクロニズムには、だから注意を払う必要がある。

(もっとも、生活世界レベルでの世界観や思想、信仰については、彼が懐疑主義的でしばしば「実験的」で あったとはいえ、それなりに「誠実に」表明されていると思うが、、、)
それが「実験」であったことが戸惑いの原因ともなり、逆に時代の違いを乗り越える契機にも なりうるということなのだろう。それでも、違いは無心に音楽を聴いていたころには想像もしなかった程大きいように感じられる。それとも、これは私が変わったのか?かつての私はむしろマーラーの音楽の同時代人だったのか?

進化論と第3交響曲(Vignal):だがマーラーはショスタコーヴィチと違って、唯物論者ではなかったろう。主観的な闘争―勝利ではなく、漸次的な推移 banalな素材。

進化論的思潮との距離。唯物論への抵抗(手紙より)

例えば進化論に対する立場。あるいは唯物論に対する立場:19世紀の西欧の音楽では、この点で展望を共有することを期待するのは難しい。ただし日本にいれば、微妙に風景のピントの合い方はずれてみえる。マーラーの進化論に対する立場は微妙だ。彼は自然科学に対する豊富な意識を持っていた。ニーチェに対してはアンビヴァレントな感情を持っていた。ショーペンハウアーに対する共感を考えれば、実際には進化論を受け入れる素地はあったろう。だが、恐らく進化論に対しては留保をしたに違いない。彼の神がどのようなものであったかはわからないが、神がいたのは確かだろう。神秘主義があったに違いない。
彼は(処世のために改宗はしても)カトリックではなかった。とはいうものの、時代の空気を考えれば、現在の日本に生きる人間の意識と単純に同一視するのは 困難だろう。

こうした立場の違いを理由に、音楽そのものを拒絶することは一般には 「筋違い」と見做される。だが、そうだろうか?実際にはそうした態度はしばしば 密輸されているのではないか。教会で典礼に用いられる音楽を、そうした文脈を切り離して聴くのは 実際には困難だ。現実にはやってしまっている人は多いだろうが。

人と音楽の解離?かつての伝記主義的な解釈は、寧ろ音楽から人への投影に基づくもの?

出世主義者マーラー:Mahlerの音楽は、Adornoのいうほど、弱者の、引かれ者の歌なのか? 出世主義者であり、かつ成功者、今風にはセレブリティでもあったMahler

Mahlerの微妙さは、その多面性にある。あったのは自己への信頼ではなく、媒体としての宿命の認識だったかも知れない。醜い星座、調和しないモナドのイメージを定着させる?何のために?それに何の意義がある?

醜さや悪を観念的に考えることも、何か巨大な怪物としてイメージする必要もない。それは目前に、ごく日常的に存在する。エイハブのように鯨に向かうのは、ある種の投射の結果だ。

作曲者の意図と作品と、いずれに忠実であるかは明らかだ。だが、問題は主体の意図ではなく、作品がどうであるかということだ。もし、そうだとしたら「作曲者」はどうなる?天才の神話は?あるいは「個性」と言うものは?

マーラーへの疑念はむしろ第8交響曲を書いてかつ第9交響曲を、「大地の歌」を書くことができる点、あるいは第6交響曲のあとで第8交響曲を書ける点だ。両立しうるのか疑わしくなるほどの振幅。本当にどちらも信じられたのか?気分的なもの以上のものを読み取ろうとしたとき、そうした世界観や死生観のちょっと考え付かないほどの 相違はとまどわせるものになる。勿論、どちらかが本当で、どちらかが偽りでということはないのだろうが、だから、Greeneの第9交響曲についての最後のコメントは正しいだろう。第10交響曲があればまだ「一貫」するかも知れない。第9交響曲では問いへの答は出ていない。宙に吊られたままなのだ、と。

またKennedyの「演技者の要素があること、つまり確信からでなく、精神的な実験として態度を構えた」 というコメントは正しいのだろう。(ところで、かつての私は、一体ここに何を読み取っていたのだろう?こうした世界観の矛盾をどう思っていたのか?もう思い出せない。)

Mahlerの謎。なぜあのような音楽を、私は「内容」を問題にしているのだ。彼が疎外を感じていたとして、それを強調するのはおかしい。公的な成功と内面を混同することと同じくらい、両方を分離することも間違っている。平和な戦争の無い時代に、頂点にまで登りつめた人間の書いた音楽、私はそれを本当に理解しているのだろうか?100年前の異邦の音楽、しかも全く異なる生活。寧ろ作品そのものに向かい合う、自分なりに向かい合うことのみが可能か? 例えば、第3交響曲第6楽章、この音楽がどんなに並外れたものか、今ならわかる (かつては「当たり前」のように聴いていたのだ!何ということ!)

*かつての私のマーラー観が、恐らく、その当時まだ残っていたマーラー観の影響を受けて、ひどくエキセントリックで内面的なものであったのは 確かだ。何しろ、彼を成功者だとは思っていなかった。文字通り、殉教者だと思っていたのだ。第3交響曲第6楽章についての記述は、作品自体から受ける印象のことではない。そういう点では、かつての私も「当たり前」のように聴いていたわけではない。この作品の持つ時間性は、全く独特の、稀有のものだ。ここでいう並外れたもの、というのは、寧ろ、音楽史上をみても破格である、人間が創造したものとして、云々といった、比較対照をした上での 卓越性を言っている。確かに、かつてはもっと直接に音楽を聴いていたので、そうした他との比較の上での偉大さというのは「考えたことがなかった。」

しかしどちらが作品に端的に向き合っているか、判断は困難だ。言えるのは、かつての方が無媒介に接していたこと、今は距離感が存在すること、 その事実だけだ。(それでもその音楽は、その距離を乗り越えて、私の心を打つ。そういう意味でも、これは例外的で卓越した音楽だ。もっとも、 この感動には、しまいこまれた印象の想起、といった側面もあるのかも知れないが)。そして自分がかつて受け取ったもの、否、今でも受け取れると感じられるものと、そうして反省的に捉えられた人間が一致しない。だから自分にはきちんと聴けていないのではないかという懸念が生じる。もう少し一致してもいいはずだ。MozartやBrucknerの様な音楽では「ない」のだから、尚更だ。(従って、今一度、伝記的な像の確認もまた、必要だろう。La Grangeを入手する手配をしたのは、そうした理由による。欲しいのは、作品の解釈ではなく、 生涯の事実。人間像の方なのだ。この場合には。作品像は私の裡にあるのだから。)

偉人伝のシリーズに収まった大作曲家の生涯は子供を欺く。ラ・グランジュが、モルデンハウアーが、オールリジが、へーントヴァや ファーイが明らかにする作曲家の生は、ちかよればちかよるほど、子供が心に 描いた理想像から離れてゆく。伝記を読み事実を知ることでわかるのは、自分が音楽の向こうに見出していた主体は、 多少とも自分勝手な投影に過ぎないということだ。

社会的環境、選択された生き方、性格、思想を理解することは、自分が親しんでいる 音楽が産み出された環境が、実は自分とはどれだけかけ離れているのかという認識だ。(だからといって別に同時代性や、日本の作曲家であることが、距離感を塞ぐことは ありえない。)

コミットメントの重視。主体性。倫理。ここでは命題的とはいえないかも知れないが、 音楽を通じて表現された態度の帰属が問題になっているといえる。デイヴィドソンの根源的解釈だ。勿論こうした考え方は、作品を表現の媒体として捉える立場を前提としている。
そして作品には意味がある、という立場を。だが、マーラーの場合には、そうした立場をとることが問題になることはないだろう。

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