2007年12月31日月曜日

備忘:アドルノの「聴取の類型論」(音楽社会学序説)をめぐって

1.エキスパート:
 完全に対象に適応した聴取を行う
   なに一つ聴き逃すことはないし、また同時にどんな瞬間でも聴き取ったものを確認している。
 例えばヴェーベルンの弦楽三重奏曲の第二楽章のように、しっかりした構成の支えをもたぬ自由な曲にはじめて出くわしても、その形式の各部を言うことができる人
 構造的聴取
 互いに連累しあっている部分部分(過去・現在・未来の各瞬間)を聴覚と通じて綜合し、そこから一つのまとまりをもった意味を析出させる。
 同時的なもの(複雑な和声・多声の錯綜)も明確に把握する。
 今日このタイプはある程度まで職業音楽家の範囲の中に限られる。
 自分の仕事が完全に理解できるのは自分の同類だけしかないと主張しがち。
2.良き聴取者:
 音楽全体のまとまりを自発的に理解し、承認し、その判断には確とした根拠があり、評判とか気ままな趣味だけに頼ることはしない
 作品中の技術的、構造的連累はその意識には上ってこないか、少なくとも完全には上って来ない
 勘のよい直接的な聴取の能力
3.教養消費者:
 このタイプの人は音楽を多量に聴く。状況が許せば飽くことなく貪り聴き、いろいろな知識・情報に詳しく、レコードの収集家でもある
 音楽を文化財として、自己の社会での評判のために知らねばならぬものとして彼は聴く。
 伝記と演奏家たちの長所に関した知識を集め、長時間それについて無駄話をして飽くことがない。
 作品の展開には冷淡で、聴取の構造もこま切れ的
 自分で美しいと思い込んでいるメロディとか圧倒的な瞬間とかを待ち受けている
 フェティッシュなものがある
 とにかく評価の好きな人間
 彼を感嘆させるのは自己目的と化した手段、つまりテクニックである
 論敵の対象の現代音楽に対しては大抵は敵対の立場をとる
 音楽文化財が彼らの管理の手にかかると次第に商略的消費財に姿を変える
4.情緒的聴取者:
 聴取の対象の本質からはさらに遠ざかっている
 自分の本能を解き放ってくれるのが音楽
 音楽の形態そのものへは大抵は無関心
 チャイコフスキーのようにはっきりと情緒的な音楽を実際はことのほか強く求める
 彼らに涙を流させることは困難ではない
 自分の生活とは無縁な領域に、ふだんは諦めざるをえない何かの代償を捜している
 構造的聴取に近づけようとする試みにはすべて激しく反撥する
 音楽は行動の節約のための手段にすぎない。
5.復讐型聴取者:
 感情禁止、身振りのタブーを避けて音楽に逃げ込むかわりに、そうした禁圧こそ自分たちの専有物だと宣言し、音楽上の構造の規範として学び取る
 古き時代への逃避
 秩序や集団自体が目的
 「作品への忠実性」
 自分たちが過去の時代の実地の演奏法―かなり怪しい!―だと思っている代物を杓子定規に守って行こうと励むことに重点をおく。
 誤った厳格さ
6.音楽を娯楽としてしか聴かない型:
 音楽は意味とまとまりのある全体ではなく、刺激の源泉であり、さらには情緒的要素、またスポーツ的要素の混入して一役かっているが、それらすべては音楽は快適な慰安の手段として要求されるため、平板化している
 喫煙との類似。
 ラジオをかけたまま仕事をする人間。集中力の欠如。
 自覚したロー・ブロウであり、自分が平均的な人間であることを徳と考えている。
 マスメディアとの関係。  奇妙な自我の弱さ。自己の評価に従い、商品の顧客としての立場で他者と連帯する覚悟はできている。
 現実のあらゆる支配機構に順応して生きて行くし、音楽に対しても同じような態度をとる。
7.無関心な者、非音楽的な者、音楽嫌いな者:
 幼児時代の過程が問題。
 粗暴な権威が色々な欠陥をもたらす?
 厳格な父親の子はしばしば楽譜の読み方が覚えられない

私は基本的に4.情緒的な聴き手だろうか。アドルノ的には随分と「情けない」聴取者のようだが、仕方あるまい。

あわせて、マーラーの通俗性について。 あるフランス人の問い。現実が悲しみに満ちているのに、なぜその上に悲しい音楽を聴くのか?
(今なら答える事ができる。「慰めを得るために。」)
品のなさ。安っぽい音楽。フランツ・シュミットの両価感情に満ちた発言。指揮者としての卓越と、音楽の「安っぽさ」。
あるいはアーノンクールの、チェリビダッケの拒絶。コンサートホールの様な「公共の場」で、はしたない…
日本人は能や文楽を観て涙することに抵抗がない。彼の地のことは、実は私には分からない。だが私にはマーラーの音楽はあまり抵抗がないのだろう、結局…
バルビローリの証言。ポルタメントをイギリスの楽団員に弾かせることの難しさ。 「別に不道徳なわけじゃない。」「それにどっちみち心配することなんかないんだ。どうせ批判を浴びるのは私なんだから!」

*

聴き手がおかしな劣等感に悩まされることはない。
聴き手は「聴き方」を産み出すのだ。
勿論、それは恣意的であってはならないが、かといって唯一の規範があるわけでもない。
少なくとも頭の良過ぎたAdornoが自信たっぶりに自分の好みを、それが規範であるかのように 正当化してみせ、それによって自分の好みに合わないものを断罪してしまったような愚は犯すべきではない。

理論は見方を変える。新しい聴き方を可能にするという点に価値がある。
逆にそのような聴き方を提案できるとき、ようやく聴き手は作り手と―あるいは優れた演奏者と―肩を並べることになる。
一方で、ここで理論と呼んでいるものが、例えば楽譜を参照しながら他人の分析を参照しながら聴くといったような聴き方の延長線上にあるという認識も必要だ。結局のところ現実の聴取は様々なレヴェルでの文脈に規定されていて、 雑種的でしかない。実験室でしか可能でないような理想的で単純な聴取はあり得ない。
(実験室の中にさえ、被験者は自分の経験を背景を持ち込んでしまう。だからむしろ意図されたとおりの実験をやる事の方が困難なのだ。)

同じように、伝記的背景、生成史的な研究は、作曲の現場を、ではないにしても作曲の環境を、経過を辿ろうとする試みだ。 それを知っているのと知らないのとではやはり聴き方が異なるだろう。
Adornoのような作曲の現場の重視―これは形を変えて高橋悠治などの、演奏者=作曲家にも見られる―は、或る意味では 正しい―「作者の意図」に少なくともより確実に寄り添うことができる。ただしそれは己も作者たることによって、 ということになるだろう―のだが、実際には、歴史的な文脈に強く拘束される。同時代に生きて問題意識を共有していない場合には、そのようなアプローチは著しく困難になる。(高橋はそれで構わない。過去の作曲家の「使用価値」を 過大評価しないと考えているらしい点で、少なくとも一貫はしている)Adornoのどうしようもない偏狭さは、よく言えばその拘束性を意識していた証だが、他人に押し付けるのは筋違いだ。

Adornoの評言を、その批判的な意図を除いて適用すること。
Minskyの立場は、実はAdornoのエキスパートか良き聴取者である。
大きな構造連関の発見が問題になっている。
Meyerはもう少し柔軟で、エキスパートの立場―彼はそれを形式主義的な立場と結びつける―に一方的に価値をおきはしない。寧ろ情動的なものに価値をおいているのは明らかで、「相補性」を強調している。 勿論、Meyerが想定しているのも、伝統的なヨーロッパ音楽だから、音の関係が重視され、音の内部に 入り込むような聴き方はここでは考慮の外だ。
マーラーは例えば、音色、しかも打楽器的、雑音的な音響の利用によって音の質の次元への配慮を占めし、 かつシェンカー分析の予断する図式が全く意味を為さないような調的配置を行うことで、こうした分析の裏をかく。Meyerの分析では「予想に反すること」が情動を引き起こす、という立場だが、これは標準的な図式とそこからの逸脱で情動を説明しようとしている。これはマーラーの場合には―丁度、異化の考え方が (Adornoがそう考えたように)伝統的図式の再利用という形で機能していると考えることが可能であると同じだけは―有効性を持つかも知れない。
だが、「予想に反すること」=情動は多分間違っている。
純粋に示差的に情動の由来を考えるべきではなく、それが「基準」だろうが「伝統」だろうが、そうでなかろうが、 或る音型の持つ力というのを考える必要はある。差異では説明できない強度の次元があるのだ。
だが、音楽を聴くことが、何重にも社会的・文化的に規定され、個体のレヴェルでは学習と訓練によって 条件づけられていることをMeyerが強調することは全く正しい。

それでも尚、心理学的な一定の基盤を考えることは対象を限定すれば―つまりマーラーの場合とかにしてしまえば― 有効な筈だ。そうでなければ無条件で、規範としての音楽理論が幅を利かし、個別の経験の質は救い出せない。

もしNichlas Cockeの言っている事が正しいとするば―そしてそれは正しいように思われる―音楽を分析することは 新しい聴き方の創造であると言って良い。
様々な聴き方があり、場合によってはそれらに対して規範を持ち込むこともありえる。
(どの聴き方が「正しい」のか、という論争は、規範の導入によって生じる。)
もし、「作曲家の意図したこと」の再現であろうとするならば、その作曲家がどのような理論―これは伝統的な 「理論」である必要はない。むしろ個人的な文法と言うべきかも知れない。―を持っていたかを考えることは 意味があることだろう。
だが、ここで「意図したこと」には曖昧さが残る。つまり、彼が意識的に行った操作が作品のすべてなのか、 作曲者の明示的な意図がすべてなのかという問題が別にあるのだ。
個人的な文法というのは、意識的なものではないかも知れない。
そうした本人が気づかなかった規則性を抽出することは、それでは無意味な越権行為なのか?そんなことはあるまい。
作品の価値は作者の意図は超え出ている。「天才」ということが言えるとしたら彼は自分で思っているよりは偉大なのだ。
(勿論、技術的に「うまく書けた」と思うことがあっても良いが、それが全てではない、ということだ。)

Meyerの参照的表現主義と絶対的表現主義者の対比は事態の整理には役立つであろう。要するにマーラーの場合、 特に前者が幅を利かせるのに対し、後者の立場を強調したいというのが私の意図だ。そして私は形式主義者ではない。
形式主義的に音楽を聴いていないのだ。
勿論聴き方は色々あって良い。単に私はそのように聴かないと言うだけの事だ。

Adornoの聴取の類型について、理論―心理学(規範的―現象記述的)及び(参照的/絶対的)表現主義的/形式主義的という 観点からながめること。彼は結局のところ情緒的に音楽を聴く聴き手を貶めることによって彼がとっておきたかった 美的なものの「複合性」を犠牲にしていないだろうか?

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