2007年12月31日月曜日

備忘:標題について

もし本人の意図が音楽のプログラムを傍証するならば、大地の歌やショスタコーヴィチのXIVは誤解の余地はないことになる。でも多分、それは単純にすぎる。ショスタコーヴィチのXVやMahlerのIXがそれを物語る。

実証的な検証:1896、標題性の放棄という観点からの転回点?(桜井3 p.141-2)第3、第1のベルリンでの演奏~その他は?嘆きの歌の改訂?確認のこと。

文字通りに受け取る必要はないものの、標題性についても(何とマーラー自身は)それが素材なのではなく、 結論、出来上がったものが結果的にそう解釈できるという意味合いでの<説明>に過ぎないことを認めている。 従って、マーラーの場合はいわゆる素材としての標題の音による実現ではない限りにおいて、それを標題音楽と呼ぶのは 誤りである。(第2交響曲や第3交響曲、第4の生成史はそれを裏付けるだろう。) 実験ということであれば、何が表現されるかも、最後まで決まらない。表現されるべき内容があって、 その仕方の巧拙が問われるのではない。もし、成功/失敗があるとするならば、内容もひっくるめてである。 (Adornoが批判的にひいた「高貴なことを志したが、無慚にも失敗した」という評言は、Adornoの言うとおり やはり適当でないだろう。) つまりkennedy言うところの「実験」そのものについて成功/失敗が言いうるのだ。

IX-4:音楽図像学上の「昇天」?物理的、身体的死の象徴化?私には、どちらとも思えない。己の死は一度しか経験できない。そのときには正誤の判断を残すことはできないだろう。否、Mahlerはこの曲をいつもの夏に書いたのだ。死についての省察が含まれているとは思うが、 如何なる意味でも、死の描写(象徴的であれ)ではないだろう。「について」という標題の陳腐さにも関わらず、そうした距離は存在する。異なるのはその距離の「間」で生じていることだ。

記号論はたいていの場合(楽曲分析と同じで)既成の図式に経験を整序することしかしない。図式を作り上げる手助けをするよりは多く、単にそうした出来合いの図式を用意するに過ぎない。だからつまらないのだ。Xについて音楽が語る、というのはどういう事か?マーラーの音楽はプログラムを持っている。本人も認めているし、それは否定できない。だが、マーラーが与えた標題は「説明」に過ぎず、素材ですらないのだ。

何故ある曲がXについて語っている、と言えるか?マーラーがそういう標題をつけたから、というのは答としてはナンセンスだ。もし、そうだとしたら、それはマーラーの意図の説明で、音楽が語っていることではない。それで良ければ、どんな凡庸な音楽ですら、いくらでも高尚な事を語りうることになる。

結局、音楽の構造から、形式から、そうした内容が「効果」として生じる、というで なければならない。生産の極に偏した研究が逃すのは、そうした聴体験のクオリアだ。だが、マーラー自身が「直観」と呼ぶもの、クオリア以外に救い出すべきものはない。

マーラーのそれは「説明」に過ぎない、素材ですらないのだ。だから、やはりFlorosの立場は(Straussになら正当化できても)正当化できない。それは例えばScoreへの書き込みの類と同じように読まれるべきなのだ。例えばVI交響曲のカウベルについての注記は、標題を示して、その後で撤回するという手つきと同じだ。イメージを示して、でも標題音楽的に解釈するな、という。

IIIは意識の点でも(標題を密輸することで)意識の進化論、発展を論じる口実が与えられている。だが、標題と音楽は一致するとは限らない。「音楽が語ること」は何か?そもそも「意識のレヴェル」を表現することと、音楽が認知的にある意識の機能を使うこととは (とりあえずは)同一視できない。より低次の意識、前意識etc.を「表現する」と言われるとき、その「表現」は描写音楽や 標題音楽に帰せられる記号論的な機能とは異なるだろう。

Greeneの論は意識を時間性と読み替えることで、調的配置やフレーズのclosureの様態といった 楽曲の形態論を意識の様態と対応付けることに成功している様だ。勿論この手続きは間違っていない―否、寧ろこの手続きこそが正解なのだと思う。だが、Greeneの叙述も時折、予定調和的にマーラーが仄めかして消した(だが消したことがわかっている のだから、それを知ってしまえば何もなかったのとは同じではない)標題に合致するように 楽曲の構造を読んではいないか?という疑いを一度は持つべきだろう。果たして、その楽曲は標題が示すような階梯をなして(「表現して」ではない!)いるだろうか?

だが、例えばフレーズの開閉や連結、対位法の層の様相、音楽事象の密度、そしてマーラーの場合は 第10交響曲におけるまで一貫した調的配置の機能は、楽曲の認知的内容を形成するゆえに 信頼のおける根拠になりうる。プログラム的な連想は排除できない―歌詞がまずもって侵入している。マーラーの内部に限っても 歌曲と交響曲の相互引用がある―文化的背景、巨大な引用元たる西欧の音楽の伝統を意識せずとも 「抽象的に音を聴く」のはマーラーの場合は(作曲者の意図はべつにしたとしても尚)不可能だ。だが、印象批評を止めたければ、楽曲の構造に拠るしかないのは明らかだ。

標題といい、歌詞との関係といい、複雑な様相を示す現実を、 既成の概念と用語とで語ろうとすると、どうしても単純化がおきる。媒体の肌理の粗さのせいで、現実をうまく捉えきれないのだ。たいていの論争は、媒体となる用語の周囲を巡っていて、対象自体には届いていない。だから、作曲者は分析されることを嫌うのだろう。

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