2007年12月31日月曜日
備忘:意識
意識のようなちっぽけで不完全なものに、祈り、語りかける相手、見守り、道を示す 存在があるだろうか?
ヴォルテールが主張した必要性ではない。(必要などうかでいけば、それは 「主観的には」必要なのだ。だが、視点を替えて、それだけのことをする価値が 意識の側にあるのかを問えば、その必要性は途端に怪しくなる。) 統計的な蓋然性でも多分ない。(その線ではかなり絶望的だろう。) だが、そうした存在を否定することもできない。実際に意識は時に祈り、語りかける。
だから、それは存在しているのだ。少なくとも「主観的」には。
そして、主観的に慎ましく存在するそうした領域を否定することはできないだろう。
Shostakovichに、Xenakisに、彼らの姿勢に全く共感しながら、けれども、 FranckやMahler, Webernにある何かに対して否定しきれないのは、そのためだ。 それを非合理だとか、弱さのゆえに否定することは多分できない。 なぜなら、それは存在しているからだ。それが思いなしであり、客観的には無で あったとしても。
意識というのはそうしたものなのだ。厄介な存在。
有限性の意識というのが存在する。
超越の拒否、天上的なものの拒否もまた。
アドルノの「地球」としての大地、天文学的な相対化、地動説、郊外としての地球すら不徹底?
永遠に回帰するもの、より大きな秩序としての大地もある(cf. ヘルダリンの後期断片)が、 有限性の意識は、そうした秩序に対する絶望でもある(cf. ショスタコーヴィチ)。
ショーペンハウアーの盲目の意志の現代版としての利己的な遺伝子?
大地の歌=irdische Leben?
それゆえMahlerは両義的だが、でも喪失の同調のみではないだろう。
甘美さはしばしばそれに近づくが、Mahlerは夢見ることによってであれ、抵抗のあり方を示している。
~例えばVIにしてもIXにしても、力に満ちた「前向き」の音楽であって、それは敗北主義的ではない。
喪というのも生の一部だ。けれども生きている以上は立ち止まり続けることは出来ない。
だとすれば、、、
マーラーのIIを本当に久しぶりに聴く。
この曲が或る種の「憧れ」をもった音楽であることは良く分かる。
たとえ多くの場合に最早ついて行けなくとも、この曲の持つ「真実」を否定することはできない。
よみがえりも、文字通りには私は信じていない。
信じていないものに感動できるという事こそ、音楽の持つ危うさではないか?
ただし、よみがえりを信じていなくても、全くの無だとは思っていない部分がどこかにあって、マーラーの音楽はその「再会」のtoposの音楽であるように感じられる。
IIもそう、III-6, IXもそう、Xもそう、大地の歌の6もそうだ。Kindertotenliederの終曲もまた。
いつかまた、会うこともあるのでは、という、あてのない、根拠の無い空想に、マーラーの音楽は響きあう。
それは不滅性とも違うかも知れない。本当に「子供達はちょっと出かけただけだ」
自己の経験に照らしても?
マーラーの音楽の不思議さ。マーラーも懐疑に苦しんだに違いない。なのにどうしてこのような音調を持つ曲が書けるのか? あるいは懐疑に苦しんでいるからこそ、なのか?
Shostakovichでなくとも、Sibeliusでさえ、もっと無神論的で理性的だ。
あるいはXenakisのあの不思議なためらい。彼の言っていることは矛盾している。パルメニデス的存在を肯定し、同時に不滅性を否定する。 それは人間の有限性と「存在」―あのためらいはこの2つの間に調停できないものがあることにXenakisが気付いたからではないか?
いずれにせよ、II-5を聴いた、あの不思議な印象は、これまでにない様なものだった。
大地の歌やXならともかく、IIでこのような印象を抱くとは思っていなかったのだろう。マーラーの一貫性の証でもあるだろう。
私の中にはマーラーと異なる気質がある。それでいて私は、私の一部はマーラーの音楽でできている。だからなのか?
おお信じよ、と音楽が語りかける、その音楽に感動し、信じてしまうのであれば、これは自己中毒的な悪循環ではないのか?
無駄に苦しんだのではない?生きるために死ぬ?
記憶も、物質も、喪われる。
だが、しかし、、、
マーラーは何かを見たのではないか?
まだ私は全否定できないでいる。
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