2007年12月31日月曜日

備忘:病跡学・社会学・教育・文学

病跡学

例えば、福島章1978「グスタフマーラーの想像と強迫反復」in「天才の精神分析」pp.61-74 新曜社,
阪上正巳1988「グスタフマーラーの病跡―強迫的衝動性とパラノイア性」病跡誌35 pp.39-51,
高江州義英1979「グスタフマーラー」病跡誌17,
福島章1983「マーラー初期作品の分析」病跡誌25,
福島章1989「マーラーファンの精神分析」in「マーラー」サントリー音楽文化展'89

社会学・教育・文学

全面的に首肯できる訳ではない。総論反対・各論賛成に近い。
細部の分析は見事だが、アドルノの社会批判的立場はいただけない。
その評価は時としてあまりに恣意的だ。

美しくないモナド、星座
マーラーにおけるアドルノ的な視点。西欧的な視点の排去。ごく自然に100年後の日本に生きる人間の距離で。
伝記主義の中央突破(他の対象ではできない。)

サン・ヴィクトルのフーゴーの教育論における類型。
全世界を異土とする、というのは、マーラーの有名なことばを響きあうものがある。

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ハンス・マイヤーのディレッタンティズムへの反論 それではディレッタンティズムでない読み方に何の価値がある?
勿論、「文学史」なり「文学理論」があっても良い。
だが、あいにく文学は―意図から言っても、結果から言ってもそうした学者仕事のためにあるのではない。
マーラーの音楽もまた然り。
音楽は少なくともここでは分析される「ために」あるのではない。

*アドルノ
音楽形式を管理社会の比喩としてとらえ、一応既存の形式枠の存在を容認した上で、 それを打ち破るところにマーラーの音楽の脱近代社会的特質を見出そうとする 否定弁証法的見方(高野 事典p.271)

(ジルバーマン p.429)「~で虚しく試みているように、この作曲家を預言者的な社会批判者 に仕立て上げようと...」

(Hopkins/Meyer)Snyder p.203 で言及されているパラメータ及びクロージャ

*

多楽章の場合
(1)生成史的な視点(実証的に):どこから始めるか。e.g. 「大地の歌」は第2楽章から、第5交響曲は第3楽章から、第7交響曲は第2,4楽章からetc.
(2)静態的な「作品」の動力学。どこが形式的な出発点か?(これは音楽の時間的な継起の順序とは別である。cf.小説における叙述の順序)

ex. 「大地の歌」作品の順序(大谷説)と作曲の時間的順序(Hefling IIから開始)
どうせ人生と芸術の乖離を言うなら、実証的な論拠を示せるこちらの方がいいのでは?(cf.村井の議論)

美学において「普遍性」はまやかしだ。少なくとも種の限界を超えることはできない。
GMの素朴さ、純真さ。何故屈折一方の解釈が我が物顔でまかり通るのか。自然児。常にメタレベルではない。マルチレベルであり、より包括的であると言える。

affect 涙を流すこと、cf. 能、文楽 「上品さ」「慎み」という規範からの逸脱。いつも「ひとひねり」ではない。
音楽外経験の連想によるのか? (Xenakisのprotestを思い浮かべよ。)

客観性/主観性の極の逆転?
歌曲の場合 Wunderhornliederの客観性/fallenden Gesellen, Kindertotenliederの主観性?
Symphonieは客観的な筈?
だが、マーラーではそうではないのではないか。主観的・個人的・私的な独白としての交響曲
個人と世界との関係(そのいずれの項でもなく、関係性)
Heimat 社会や社会集団、他の「人」の介在/自然・孤独

外/内、ベクトル
超越の運動。
外に向かってはみだす。
外からやってくる。cf. ブルックナー,ヴェーベルン,シベリウス。マーラーでは第8交響曲。別の仕方で第3交響曲も。
天から降ってくる。←自分が昇ることはない。だが、マーラーでも第3交響曲は?
内面を降りてゆく。記憶の窓の外側に降りる。ブルックナーなら第8交響曲, シベリウスなら第4交響曲, マーラーでは第9交響曲、第10交響曲
両方ある。後者のみは?
フランクは?だがそれは求心的でもない。内面に「空間的な」拡がりがある。三輪眞弘も一緒に考えることができる。

toposの問題。世界と主体のどこで鳴っているのか。世界の側から?向こうから音楽がやってくる。
主体はどこにいるのか―「自分の」場所ではない。cf.第9交響曲第1楽章のコーダ。ヘルダリン後期の詩篇。神話?―信仰?
作曲家とは? cf.シェーンベルクがIXについて言ったこと。

仮象性:宗教性に対する距離
素材としての形而上学的問題。不滅性etc.を超えることができるか?
「神経美学」的な基盤の下で、如何にして音楽が、快/不快や「効果」以上のものを持ちうると主張できるか

作品の不滅性の否定。
作品それ自体(個人の声ではなく)。だがGMの場合はどうか。アウトサイダー・アート的なもの
あるいは精神分析的な「体験」の語り。作る側も聞く側も。
聴くことの儀式性、聴体験を語ることの儀式性。

ホルブルックの解釈(p.79)をVarianteの技法のSemanticsとしてみてみること。cf. idee fixのtransfiguration

意識の音楽
流派ではない
歴史的な分類や概念ではない
作者の意図とも別
主観性でも「描写」音楽でもない
或る種の捉え方
技法とのある向き合い方。一定レベルの「ゆとり」か距離が必要。或る種の熟達も必要条件(十分条件ではない)。
具体的に何が言えるのか?
何か特定の「意味」、具体的な説明はできない。歌詞は素材で音楽の「意味」ではない。
「意識」の様態―描写というより映されたもの、聴取による「感受の伝達」
意識とは言うが、常に意識が関与している必要は無い。
だが、意識の関与が見られる、その痕跡があるような音楽。
人により、曲により意図するかは別だが、勿論影響はある。意図せずにも勿論ありえる。

風景の問題。自我の音楽/世界の音楽のうち、前者には風景はない。内部の系の記述。 後者は風景、主体の動きはない。意識の音楽には両方の極が存在する。外界に対する反応の、界面の記述。 素材と内容のどちらに創作の極の関心の中心があるかが表現主義の問題だとすれば、これはそもそもここではナンセンスではないか?

印象主義のパラドクス。対象から認識様態への視点の変更はあるが、だがだからといって、それ以前に「風景」があったわけではない。 寧ろそうした視点の変更が「風景」としての対象というあり方を可能にしたのだ。 工房の、アトリエの中で描写は修辞学の体系の内側にしかなく、生の現実はなかった。生の現実なるものは、対象の「手前」の 発見とともに発見されたのだ。そしてこれは音楽についても同じだ。標題音楽や描写音楽には寧ろ、現実の端的な反映はない、 というべきなのだ。絶対音楽そのものではなく、それを借用して意識の流れ、無意識の、夢の作業を定着させる枠組みに 換骨奪胎することがマーラーの作業だった。既存の音楽はそれ自体、素材として用いられる。マーラーは、「見えたものを 見えたように」、「感じたものを感じたままに」定着できると思い込むにはあまりに哲学的な発想の持ち主だったので、結果は いわゆる狭義の印象主義を逸脱し、寧ろ「意識の音楽」とでも呼ぶしかないような多層的で内側に自己言及性を孕んだ構造を 作り上げたのだ。それは世界の描写でも世界を垣間見た印象の定着でもなく、むしろ、マーラー自身、ある時にそういったように 世界そのものの構築に近い。マーラーの音楽を哲学的と呼ぶべきなのはこうした点においてであって、決して素材として ニーチェを使用しているとか、ゲーテを用いているとかというのは何の根拠にもなっていない。

絶対性に関していえば、マーラーには或る種の逆転がある。歌詞があるときの方が、分裂していて客観的であり、 絶対音楽的な中期交響曲の方が主観的でさえある。cf.新ウィーン楽派特にヴェーベルン初期の表現主義
歌曲が主観的であるわけではない。交響曲もpolyphonieであるからには、単独で孤立した主観の内側ではない。
だがクオリアは残る。クオリアを他性と隔たったナルシスティックなものと捉えるのは、クオリア自体の持つ「外性」、力を見落とすことになる。
そもそもなぜ「印象」として刻印されるのか、クオリアは外部からの力の痕跡なのだ。そういう意味では、クオリアは私的かも知れないが独我論的ではありえない。

マーラーの音楽は力学系としてみたとき、非自律系ではないか?
再現・変形の問題、外部が映り込む。

Absoluteness (Knapp)
metaphoricalだが作品自体の「自己」 -- 系としてならmetaphorではない(成立条件としてどのような構造を有している必要があるのか)
⇔Schopenhauer的Wille / Weltlauf ⇔アドルノ的モナドに投影される社会・制度などとの関係
⇔Himmelの多義性少なくとも多価性
Durchburch(「突破」):相転移として定義しなおす。
要件:複雑さ(感受しうるにはある程度の複雑さが必要):次元の数、パラメタの数のどちらか?
マーラーに起きえて例えばヴェーベルンには起きないと言えるのはどのような根拠によるのか。

意識の音楽を支える根拠:
・外界の音に対する反応→音楽
・雷鳴・風の音etc. cf. クセナキス/シベリウス/マーラー
・身体性、踊り ワルツ・レントラー・行進曲
・共感覚?:色・光の調子、湿度、明るさ、空間性

Reverse Flow of Time(「時の逆流」)
III-6, VIII-2 etc.
(1)現象論的特徴
(2)マーラーのみ(何故? Romanのモデルから?)ブルックナー,ヴェーベルン,ショスタコーヴィチ,シベリウスのいずれにもない。
(3)回想にあらず。経験された過去、記憶の想起でない、確かに類似はあるが。ノスタルジーとの関連。夢。
 夢は確かにマーラーの特性かも知れない。

マーラーは、だがいつもlevel4の推論者ではない。
眠りへの接近
動物や植物
level間の往還がある。
だが、楽曲のある箇所が眠りのパートであるというのは何を根拠に言えるのか?
cf. suspensionは多分取り出すことができる。定義ができる。
levelの違いが楽曲のどこに現象しているのかを明確にする必要がある。

フランクルが現象対決的なのに対して、森田は現象受容的(大谷)。
現象に対する態度が含まれることに注意。実は常に・既に含まれていると考えるべき。価値論的な世界の方が具体で 認識モデルは抽象に過ぎない。
更に態度が認識されている現象に映りこんでいる(従って態度によって風景は異なる)ことにも注意。

マーラーをアドルノから引き離す。日本では寧ろ自然なことのはず。アドルノは多分誤読されるほかない。異なった読み方しかできないのではないか。
多分アドルノの受容そのものが日本では特異なのだ。弁証法の持つ重みの違い。 日本人は否定弁証法的にマーラーを聴けているだろうか。 美の問題もそう。醜さ、グロテスクにしてもそう。Weltlaufを、現象を「受容」してしまう志向姿勢を持つ文化圏において、同じように聴けるはずはない。
だが、それはマーラーを誤解している、ということではない。マーラーであれば、そうした聴き方も可能なのだ。他の作曲家の受容では災いであるものが マーラーの受容の場合には福と転じる可能性がある。

デリック・クックの言う「音楽の言語」
文化依存だが、それでOK
歌詞の問題:マーラーの場合は寧ろわかりやすい。
受容についてあるレベルの誤差で論じることは可能。

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