2007年12月31日月曜日

備忘:感情・表現について

1.表現の問題
i)Adorno邦訳p.29―ミメーシスの問題もあり。
p.169 Ihm zu begegnen erheischt Beesinnung auf den Ausdruck in Musik.
ii)門脇p.101 技能の「表現」、技能の形で含まれているものの明示的な確定
iii)Levinasの「表現」論?志向性理論


感情は「内面的な感じ」なのか、それとも「外」を指示する記号なのか?
後者の観点は興味深い。外というよりは―それは自己の把握も含んでいる、引数として自分の状態を含んでいるはずだ― Heidegger風には世界内存在、つまり世界と主体の関り方のあり様そのものを示している、と言った方が良い。
そして、ここに「客観性」への「世界」への出口がある。
マーラーの音楽の「客観性」は劇伴の、あるいは描写音楽の客観性とは向きがまるで異なっている。
一方、マーラーの音楽を主観主義的に、心の、魂の動き表現として捉えるロマン派的見方も正確ではない。
叙情ではなく、叙事に近づくその仕方は、しかし、神話や童話に取材したオペラやカンタータ―マーラーも嘆きの歌で は少なくとも表向きはそうした流れに属し、従っているようにみえる―とは異なって、マーラーの音楽は「外」から、 劇の展開される空間を覗き込んだりはしない。それはいつも―自分にとっては外的な事象を表現しているように 思われるところでも一旦自分の眼を通しているという意識を忘れることはない。

cf.劇音楽:シュトラウスやツェムリンスキーの様に、~を表現するというのが技術的な次元で捉えられる場合、~は「私」とは関係ない。
一方で、主観的、心理的な音楽というのが(多分、極限においてのみ、理念としてのみであろうが)考えられるだろう。
これらの問題は多分、上記の隠れた作者の問題と関連するが、同一ではない。
フランス革命以前の音楽を考えればよい。その修辞学を。マーラーの客観性は劇的/演劇的という軸で考えられるものとは、少し違う。
そういった観点では明らかに主観的であっても、それは自我の音楽ではない。だが、だからといって、「無意識」を簡単に持ち出せば済むわけでもない。
結局、作曲における作者とは誰か、の問題なのだ。

~を表現することに「私」を代入可能であること。これがロマン主義の定義ではあるまい。「私」を特権化する事にあった筈だ。ベートーヴェン以来、 マーラー,シューベルトはその様であろうとする。私でないXについての音楽であっても、そこには私がある、という仕方。
音楽が私を表現するのではなく、私の中で音楽が鳴る?
うまい言い方だが、レトリック以上のものがあるだろうか?

結局「表現」という関係の定義にかかっている。それはやはり私を表現していることにならないのか?(個性の発現とは異なる位相で) 集団的無意識、社会、個人の反映?痕跡?

インガルデンの言うところの「志向的対象」、志向性と意識、私性、クオリアの問題。
勿論、現象学(とりわけフッサール)では理念的なものをも、志向的対象と考える。
だから解釈の「正しさ」というのは、そうした志向の可能性が前提となって成立しているということになる。

Adornoのレトリックを翻訳して、定着させること。手探りは手探りに過ぎない。明晰でないことを顕揚すべきではない。
何とはなしに、掴めていると感じられているものの表現方法の問題でもある。

確かに「Expressivo」が「何かの」表現ではない、という指摘は興味深い。
一般に音楽が何かを表現する、と言われるのとは異なった意味合いで、「表現」というのが考えられる。
その二重性と、門脇の指摘する、前述定的領野と述定的領野の二重性が、どう関係するか?

Levinasの言語論、作品論を、志向性理論と関係づけて読むきっかけになるだろう。
要するに、マーラーの音楽は、「信念」や志向性のレベルに相当するものを持っている、という事があるのだろう。
或る種の身体性(行進曲、舞曲)についての注意。マーラーにおいては、逆方向を向いている。
芸術的に洗練されるのではなく、もう一度、身体性を呼び起すために導入されるのだ。
そこに「表現」が生じる。単なる異化作用の如きものではうまく説明できないだろう。
寧ろ、2つの層の間の関係の再考を音楽的に行っていると見るべきなのだ。

行進曲(Lea)
スケルツォ―レントラー
古典派において芸術として洗練されたもの
起源を再び想起する?
HaydnへのMitchellの言及―だが多分起きている事柄の向きは逆ではないか?
この点は吟味の必要がある―にも留意すること。

行進曲については、Krenekが16退場のところで言及していることにも注意。行進曲、葬送行進曲もまた。

マーラーVI-1
行進曲を「そのまま」持ち込むこと、特にソナタ形式の第1主題部において。
もともとそうであったものを、時間が経ってから、もう一度そのまま持ち込むことにより、形式を(少なくとも)批判する。行進曲も歌もそう。素材としてかつて備給であったものを、そのままの形でもう一度取り込むこと。形式の純化により背景(というより基層)にしまい込まれてしまった契機をもう一度取り出すこと。それはいわゆる普通の擬古主義とは反対だ。擬古主義は形成された上部構造のみを、いわば借りてくる。内容にあたる部分は、実質的で「あってはならない」。
ここでは逆のことが起きている。形式のほうが吟味されるのだ。実質のほうは?
だが、形式が形成されていたときの実質はそんなに立派なものだったのか?Adornoのあのノスタルジーはある意味では不可解だ。Beethovenの音楽だって、ああいった攻撃性と執拗さを、ある意味では強いられ、社会的に条件付けられて持つようになったのだ。

"純音楽的解釈"⇔ミメーシス的契機
マテリアルという捉え方は肌理が粗すぎる。
既成の形式が問題であれば、ミメーシスと純音楽的解釈の関係が「ない」とは言えない。
音楽「外」の素材?を区別する必要がある?

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