2007年12月31日月曜日

備忘:歌曲について

うたの問題。認知の問題として考えること。旋律なり動機なりが存在すること。旋律を分解せずに ひとつの単位として扱うこと。(分割が可能なのはいわゆるフレーズ、動機のレベルまで) 旋律を変奏し、動機を展開すること。変化させ、場所を移し、あるいは組み合わせる。
マーラーの音楽を聴けば、そうした方法がどんなに豊かであるかがわかる。
戦略的にそれを否定することはあってもいいが、だからといって、そうした方法の豊かさは否定できない。
むしろそれが、合理的で強力で、ある程度の一般性があって、わかりやすいから、あえて否定するのだ。
それを利用することに伴う、危険を理由に。

テキストは素材、勿論、選択はある。
だがテキストがよければテキス自体を検討すれば良い。
結局、音楽がすべてだ。テキストのみでも音楽のみでもない。
(テキストの選択が好みに合わない場合を考えよ。)

*

マーラーの歌曲の「場所」。
「子供の魔法の角笛歌曲集」の客観性。眼差しが眺めているその場所はどこか?
「リュッケルト歌曲集」の場所。「ここ」はどこか?

場所の感覚が、はっきりと聴き取れる。
マーラーは、どうしようもなく過去の人だ。
時代も場所も異なる。
けれども、何なら生物としての、といっても良い、マーラーが 感受したクオリアが、そっくり作品の中に封じ込められているように思える。

作品は独自の世界を持つ、と言われるが、それと対比される現実だって、 作品と同じように、ある認識のモードに従って読み取られたものなのだ。
そしてマーラーの場合については、作品の世界と、個体としてのマーラーの 感受のモードの間に、そんなに大きな距離があるとも思えない。

曲を書くこともまた、世界の感受の一様式なのではないか?
少なくともそれは生の営みの一部で、抽象はできない。

ある種の懐かしさ?
かつて自分が訪れたことがある場所を再び訪れる感じ?
つまり、それは自分にとって「他所」なのだ。
マーラーは他者なのだ。

歌曲の良いところは、それが断面を切り出すことができることだ。
横の流れ、小説的な脈絡はここでは省略できる。
勿論、連作歌曲というのがあるが、それは、そうした断片を並べることで、 全体を予感させるようになっている。

「真夜中に」のような歌曲は、その内部に時間の、経験の流れがあるが、 だがそれは、一まとまりのものだ。
横の流れ、小説的な脈絡とは、異なった場所、異なった主体、異なった時間を 結びつけて、多元的な「世界」を組織する仕方なのだ。
つまり、そこには視点の多元性が含意されている。
マーラーの「世界のようでなくてはならない」という理念は、そうした多元性への 志向であって、誇大妄想的なものではない。

多分だからこそ交響曲の中に歌曲が埋め込まれるのは自然なのだ。

マーラーの作品は些かぎこちない仕方で「Xが私に語ること」と表現されたように、 複数の声の交響する時空間を組織することが志向されている。
語るのは私ではない。これは独我論ではない。世界は私の心の、観念の裡に しかないなどどは見做されていない。私には見通せないほど複雑な脈絡が 世界に存在することを、語りかけられている私は感じている。

「Xが私に語ること」という言い回しは、作品についてはほとんど何も 語らないが、世界と「私」の関係の証言にはなっている。

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