異化の微妙さ、異化の効果は文脈を前提にする。もう一つ、表現主義の方向性は民族主義―コスモポリタニズムの軸とはとりあえずは関係しない。文脈を知らずに文脈から身を引き離したことがわかるだろうか?多分わかると思うのだが、、、(ある種の抽象性と具体性の混合として)
イロニーでも何でも、メタファーならメタファーで音楽の具体的な部分に、構造に帰着できなければ不可。印象は不可。メタファーならば指示されるものと媒体が少なくとも存在する。だから、急いでイロニーやグロテスク、パロディに飛びつくべきでない。(もっともパロディはオリジナルが明らかならば、それを認めること自体は構わない)だが、そのパロディの「意味」については慎重であるべきだ。(ショスタコーヴィチでも同じ。マーラーだけではない。)具体的な音楽に即して記述すべきなのだ。
ドン・キホーテもまた、パロディーであった。だが、ドン・キホーテを読むのに、パロディー元であった騎士道小説を読む必要がある、と言えるだろうか?そうした文脈と、そうした文脈に即した受容、同時代における受容が、より本来的といえるだろうか?否、決してそうではあるまい。いわゆるアイロニーなら、歴史的文脈を知らなくても、その文体によって
感じ取ることができるし、ドン・キホーテの感動的な部分は、そうした歴史的文脈を超えている。
マーラーに対しては、まだ充分に距離が取れない時代なのだろうが、マーラーについても全く同じだろう。旋律が同時代の何かの引用であったり、パロディーであることを知り、そのように聴くことがマーラーを
聴く本来的なあり方であるはずがない。文脈に対して無意識な子供が虚心に耳を傾ける時に響く音楽の方が、その作品の価値の核を
正しく聴き取っているのだ。
パロディ度数のようなものも興味深い。-もっともこれは演奏と受容の動的過程を考慮しないとだめかも知れない。つまり、パロディには解釈者がいつも必要なのだ。だからパロディは原理的に不安定だ。(そうは受け取られない場合が常に存在する。-作品としては「不確定」である、と言っても良い。せいぜいが確率が与えられるくらいだろう。-特にマーラーの場合は、全てについて、そうした確率を付与して良い。パロディである可能性が原理的に存在しない作品はマーラーの場合にはない。
誤解・誤読?IVやVII-5の聴取、parody性について。多分Kennedyの著作により可能性は認識した上で、Kennedyの意見に従って、(といっても必ずしもそれを絶対的な権威と見做したわけではなく、寧ろ、自らの聴取に照らして)それをparodyなしで受け取ったのだ。II-3はどうだったか?VIのスケルツォは?VII-3は?IX-3,X-3,4は?その鋭さを「そのまま」受け止めたと思う。だが、VII-5やIVの陽気さもまた、「そのまま」受け止めた。II-5(多分4も、というより寧ろ4こそ!)やVIIIはどうなるのだ?*宗教が装飾と化しているいるのでは、というあの嫌疑、Adornoの留保が適用されるのだろう。VIII-1とVII-5―柴田1984のようだ―を連関させるとしたら、やはりVII-5はparodyでないか。それともVIII-1がparodyかのいずれかになる。勿論、作曲家の意識の上では、VIII-1はparodyではありえない。
作曲家の意図についての解読(例えばショスタコーヴィチにおいて行われている様な)が、ここでも問題なのか?「彼」がparodyを意図したことが問題なのか?それともここで、Adorno的に、隠れた作者を、主観でも世界でもない、表現されたものの主体でない作者を考えるべきなのか?
二重言語性について。
再び、文脈を全く共有しない子供が始めてマーラーの音楽を無心に聴いて受け取るもの。
多分、マーラーの場合とショスタコーヴィチの場合とでは異なるかも知れない。
もっともマーラーの音楽とて一様ではなく、程度は色々だ。つまるところ、こうしたことは
過度に一般化して語るべきではない。
二重言語性ではなくて、皮肉っぽい気分や諧謔は文脈なしでも感じられる。
皮肉や諧謔は音楽的語法として存在するから。別にmit Humorと書かれていなくても、
わざと調子を外した旋律線、奇矯なアクセントなどから、そうした気分は感じ取ることができる。
要するに、この水準であれば、音名象徴などとは異なって、あるいは発達した形態に
おけるクラングレーデとは異なって、「通のみがわかっている」コード表なしでも、何某かは伝わる。
一方で、極端なケースでは二重言語であることを隠蔽するような在り方というのもあって、
この場合にはさすがに文脈なしではわからないだろう。
しかしこうしたことであれば、別にマーラーだけが問題ではない。寧ろこうしたことはバロック期に
おいてはごく普通だったろうし、もっと洗練され手の込んだ仕方で行われた例もあっただろう。
秘められたメッセージとその解読は、それが音楽の享受のすべてではないにせよ、あちこちで
行われてきたことだ。(音楽だけではない。絵画もそうだし、言語を使ったジャンルでもそうだ。)
もう一つ。マーラーとショスタコーヴィチの語法は他人の空似ではなく、ユダヤ音楽の語法を用いている
という点で共通しているようだ。だが、多分、こうしたことは件の子供の聴取にはあまり
関係がないだろう。勿論、ユダヤ音楽の語法に含まれる、或る種のアイロニカルな悲しい
調子や、鋭さは伝わる。だかそれが何に由来するかは、少なくとも彼にとっては副次的な
ことだ。
悪を醜さとして、音楽の中で表現すること。
人間的な音楽。思想や感情を音を使って表現するというロマン主義的姿勢。一見、悪を表現する、醜を表現する、というのも普通に行われてきたように感じられる。だが、例えばそれは、演劇的空間の中で、記号としての悪を表す修辞学が、
クラングレーデがあったということではないか。一方で二元論はソナタ形式を支える論理であり、ソナタ形式のアレグロ楽章のその動性の根拠だ。
だとしたら、ここで善と悪との葛藤が表現されてはいないのか?
運命との葛藤、困難や苦難との闘争が、ベートーヴェン以来の英雄的なソナタ形式が
表現しているものだ。運命も、困難も、苦難も、原因は皆、外にある。
表現されているのは、悪との戦いであり、悪そのものではない。
そしてまた、ロマン派の音楽は美をその規範とする。それがフランス革命以降の、
前古典期の音楽に要求された「快適さ」を起源としているのではないのかという問いは
おくとして、絶対音楽は美を依拠する唯一の価値とする。だから醜いものを持ち込む
ことは、その規範からの逸脱だ。描写音楽なら、標題音楽という名目の下、限定つきで
認められていたに過ぎない。だが、それが社会的な要因であるかどうかはともかく、
それは常に忍び込み、その都度指弾を受けながら、時代を追う毎にますます
幅を利かすようになったように見える。調的言語の拡大は、不安や恐怖を
表現するために為されたかのようだ。だがマーラーの場合には、悪そのものよりも、悪との闘争が前面に出ている。ショスタコーヴィチの場合とは異なるのだ。勿論、もはやそれは英雄的なものではなく、ごく私的な悲鳴に過ぎないかも知れないが。マーラーは悪に対して、ナイーヴであったのではないか?自分の中にあるそれに対しても、無頓着で無反省であったのではないか?人間はそんなに立派な存在ではない。として、そうした醜さ、不完全さを告発することに意味があるだろうか?例えばオペラやある種の演劇の様に人間を描く、それに意義があるか?個別の人間の不完全さを書くことに
意味などないのではないか。―マーラーはそれをしなかったとも言えるし、交響曲という形式を簒奪してやってしまった
という観方をする人もいるだろう。
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