偉大な作品について書き、それを公表することは困難だ。
それは大変な勇気を要する。私が何を加えることが出来るのか?
「~について語る」ことが出来るほどに、ある対象について知悉しうるのは決して簡単なことではない。
結局、そのためには充分な時間とコストが必要なのだ。
時間をかけずに、何かを産み出すことはできない。
全ての作品を知らねばならない、というつもりはないにせよ、ほとんどの作品を憶えているくらいでなければ、語ることは難しい、、、
知らずに書くことは恐ろしい。またわからずに書くことも。
何とたくさんの間違いが蔓延って、大きな顔をしていることか。
私もまた、その愚を犯そうというのか?
自分の聴き方に対して反省してみる余裕ができれば、書くことは難しくなる。一通り聴いて全体を捉ええたと
思われるくらいが丁度良い。
文献を読むのは、第一印象が薄れるからではなく、視点の多様性を自分の立つ位置の相対性を認識することで、
そうした反省を生じさせる故に危険なのだ。
独断的な潔さをもって熱中の対象を描き出すのは悪いことではない。
だが、多分、その先に進まなければ、本当に何かを論じることはできない。
音楽一般「について」考えを纏める事はやらないほうがいいだろう。
それだけの時間がない。
音楽そのものについて語るには素養が無さ過ぎる。
だが何と多くの誤解と事実の無視が、基本的な考え違いが音楽の周囲にあることか。
それらに対しては「否」を言わなくては、と思う。
「現象から身を離しつつも」、そこでは赦し難いものを感じる。
音そのものに対する興味、関心というのは、共有しない。
勿論音楽家は興味を持ってよいのだろう。
私が聴き取りたいのは音の構造の水準ではなく、それを支える「何か」の方だ。
そうでなければ音楽家でもない私が何かを言う意義はない。
とりあえずマーラーの音楽は「古典」である。それは同時代性の限界を乗り越えて、文化の違いを乗り越えて、今日の極東の地で聴かれ続けている。
そうであるとすれば、それは「古典」に接するときに生じる問題―その作品が生まれた文脈は既に喪われてしまっていて、間接的な知識というかたちでしか
それを理解する手段がないという限界を持っている。マーラーが生きた時代についての、マーラーが己の作品を産み出す素材とした思想的背景についての
知識が増すことは、マーラーの音楽の理解にとって無意味ではないだろうが、一方で、それを幾ら知ったところで、自分が生きている時代がそれとは
全く異なる時代なのだということを忘れてはなるまい。知識の量が経験の質を担保することは、結局ありえないのだ。特にそうした知識を豊富に持つ
人たちは、我が事のようにマーラーに向き合う聴き手の素朴さを嘲笑うが、そのくせマーラーの音楽が世代を超えて生き続ける理由について、
そうした素朴な聴き手以上に多くのことを掴んでいるようには見えない。要するにそういう人達は、マーラーの音楽を過去に閉じた、完結したものとして
扱っているのだ。その姿勢の骨董品の来歴について得々と語るのとなんと似ていることか。(2007.12.31)
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