Adornoが示唆し、Leaが検証したような、脱民族性を「外」から覗き込む立場を考えてみよ。批判的機能を専ら問題にするというのなら、外側に居るのと内部にいるのとではその意義は異なるだろう。少なくとも脱民族性についてのコメントを「文字通り」に受け取るのは知的怠慢だろう。それは我々には関係ない、とは言えなくとも、全く異なった関わり方を招来するに違いないからだ。
「~について」という形式は(渡辺の指摘通り)看過できない。「~」の部分のバナリテより「~について」という形式が主観的抒情詩からの背馳を示していることの方が
重要だ。客観性というのはそういう事だ。それは「私」のことではない。けれども演劇のような志向を持つ
音楽がそうであるような客観性と、ここでの客観性は似て非なるものである。(大地の歌をZemlinksyの
Lyrische Symphonieと比較すれば良い。)
主観/客観でいけば、、、
初期の歌曲(ただし3つの歌曲や若者時代の歌の1巻は除外する)の「客観性」、グリム童話やWunderhornのアルカイズム、
少なくとも素材として主観的な抒情詩を取り上げていない。
むしろ民俗的なもの、叙事的なものへの傾斜が強い。このことと、「自我」の音楽、「意識の音楽」との表面上の矛盾は説明されなくてはならない。
一方で、Rueckertはどうか(これは素朴ではあるが、とりあえず主観的なものといってよい。「民謡」ではない。ただし、Rueckertは過去の詩人であるということに留意する必要はある。マーラーは決して同時代のものに詩をつけようとは
しなかったということは記憶されていい。)それではベトゥゲを通してみた中国はどうなのか?中間点としてのfahrenden Gesellen―全体として民謡調だが、自伝的(ただしフィクションでも可!)性格のために
主観的な色合いも強い。
・「バラード」という形式に注意。こうした歌曲の素材の選択は並行した時期の交響曲の「スタンス」とどのように関係しているか?
実際にはWunderhornは民謡ではない。Bethgeが中国の詩でないように。それらはどちらも「まがいもの」なのだ。それから、非合理性。
集団的社会的なエトスと捉える必要があるのか?それはAdorno的な観相学とある面では近いものになる。むしろ「主観的」たり得ない点が問題だ。この点についてはAdornoは正しい。批判的な意識こそがそこに見出されるべきなのだ。客観性は、マーラーのあちこちに見られる。というか、それは「世界」であるのであれば、主観的なものではありえない。
主観は自らの媒介性を意識している。目覚めているのだ。眠りにつこうとする意識に対する起床合図は外からやってくる。注意すべきはその程度に変動があることだ。マーラーの音楽を全体として捉えるのが必要なのは、それが一貫しているからではなく、それが一見して矛盾しているのでは
と思わせる程度に多様だからだ。そして、その多様性もまた、「客観」の割合の多さと関係しているだろう。いずれにせよ、マーラーの場合、世界と主体の間の関係は一様でない。WunderhornとKindertotenliederでは、第3交響曲と「大地の歌」では、様相は大きく異なる。だから、ある一部分だけを取り出して、全体を評価しようというのは、少なくともここでは適切でないだろう。
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