「自然の音」と「対位法」が、私がマーラーに強く惹きつけられた要因であることは疑いない。最初に聴いた第1交響曲には「巨人」という標題がついていることや、それにまつわる様々な議論を知るのは後のことで、
私はその音楽が「自然の音」を含んでいること、それから何よりその対位法的な書法に強く惹きつけられたのを
はっきりと記憶している。私はもともと非常に強い線的な発想や嗜好を持っているようで、小学生の時分に
見よう見まねで試みた作曲も、対位法の規則を知る以前に、自由な拍節感で複数の旋律線が絡むような類の
ものだった。そうした私にとって、マーラーは最初にまず「対位法」の作曲家だったのである。
単に線的というのではなく、常に複数の旋律が独立性を持って響いていることが重要で、モノディ的な線の展開や
オルナメントには関心は無かったし、旋法上、和声法上の新奇さにも関心がなかった。管弦楽法の巧みさにも
魅了されただろうが、それもそうした線をくっきりと浮び上がらせる方向性あってのもので、純粋に音響的な効果にも
関心がなかったし、色彩の合成によって得られる多彩さにもほとんど関心がなかった。それよりは複数の線の
表情の交代や対照の鋭さのようなものに強く魅せられたように思う。
マーラーと「映画」。「ヴェニスに死す」は映画も原作もだめ。ケン・ラッセルの映画は日本で公開された時に映画館で
見たが、これもだめ。強い反撥と拒否反応。むしろ、流れていた音楽、ハイティンクがコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮したものだったと思うが、
こちらの方が強く印象に残った。従って、その後、マーラーにちなむ映像作品、バレーなどは見ないことにしている。
映画といえば、会社勤めを始めてからしばらくして、寮生活をしていた時分に、休日の昼間の誰も居ない寮の食堂のテレビを
何気なくつけたときに偶々やっていた映画で、マーラーの第9交響曲の第1楽章が使われていたので、しばらく観ていた記憶が
ある。モノクロの映画なのか、それともカラーなのかもわからない。雪に閉ざされた山小屋が舞台で、何かの抗争が行われていたのだが、
映画自体は私にとっては全く興味をひかないものであったので、プロットは全く記憶にない。雪に閉ざされた山小屋を外から
映したショットと、山小屋の内部のショット、そしてSibeliusのIV-1とMahlerのIX-1が交互に流れていたということしか覚えていない。
マーラーについての「私の場合」。旋律や主題だけでなく構造におけるまで記憶されている点が特殊。
実はソナタ形式の様な動的な発展を含む形式の方が、構造や音楽の経過を覚えやすい。
マーラーの場合なら、スケルツォ、レントラーといった静的な形式の方が楽章全体の流れを追いにくい。
(時間論的にはDa Capoのある音楽は、静止していると言える。)
心理的にDa Capoの持つ意味は面白い、それはトリオで切り替わった文脈の流れの再中断、元の文脈の復帰だ。
(もっともこうした捉え方は、古典派の作品に対しては―ロマン派的な遡及読みをするのでなければ―
困難だろう。それが可能なのがマーラーの特質なのだとも言える。)
ソナタにおける再現部はマーラーの場合、展開の論理の優越により、文字通りの再現ではない。
いずれにせよ、すべての曲のすべての楽章を思い出せること、各楽章内の構造の記憶があること、
これは他の場合には当て嵌まらない。
Mahlerの音楽は実際には私にとって他者だ。
XenakisもTakemitsuもしかり。でも他者というのも必要なのだ。外に向かって歩みだすには。
私にとって、Mahlerは夏の音楽かも知れない
かつてそうだった様に
けれどもMahlerその人にとっても、自分の音楽は夏のものだったのだ、、、
だからそれは決して無意味ではない。
たとえ気候や風土がこれほど違ったとしても。
Mahlerの音楽ほど自分自身の経験上のリファレントが少ない音楽は珍しい。
まるで外界に対する反応としてではなく、あくまで内側の感情の動きの側にあるようだ。
大地の歌の告別、第1交響曲の冒頭(これが日本の盛夏の連想になっているのが奇妙だ)第6交響曲のアンダンテ(ただしこれはあまり強くない)
第10交響曲の5(これもそう)等、どちらかというと、ある個別の、時点と場所の座標が特定される経験に連想付けられたものであって、経験や
認知の、感受の様式となっているとは言い難い。
(例えばSibeliusや、Takemitsuの方が、それに相応しい)
*これは本当か?五十歩百歩ではないか、、、
Mahlerの音楽は奇妙に場所を持たない。(これは、現実の風景でない、仮想の光景への連想を持たないといった程度の意味だ。)
それはMahlerが生きた環境と無縁の場所と時に生きているからかも知れない。
(否、むしろSibeliusの方が特殊なのかも知れない。Takemitsuは同時代の日本の作曲家だから、こちらはある意味では自然だ。)
寧ろこう言うべきか?
ある風景、ある光景と連想付けられる様なことは、ある年齢までにしか起きない。事故が形成途上で、可塑性の高い時期にしか。
実際、ある時期以降、同じ音楽を聴いても、恐らくその音楽がつくられたであろう文脈の気配や雰囲気を強く感じるようになっていて、
それ故、それらは自分にとって他者性を帯びたものになっている。
自己の経験の、自己の一部として同化してしまうということが無い様だ。
それでもMahlerのある音楽(子供の死の歌、大地の歌、第10交響曲)は、そうした経験と、別の種類の結びつきを持っている。
それはそれで稀有なことではある。
自己の一部として同化するということは、誤解、強引な読みを伴うだろう。
第1交響曲の序奏が日本の盛夏と結びつくなどどいうのはそれの最たるものだろう。
けれどもそうした我有化は、実際には例外的な出来事で、簡単には起きない。
MahlerとSibelius(交響曲のみ)、Webern、実際には最初にはFranck、そしてずっと遅れてショスタコーヴィチ。
Mahlerは、ある個別の時点での経験への固着が強い。
Mahlerは寧ろ、Franckのような、外部を持たない内面の音楽として受け止めている部分もある。
音楽ではなく、音楽外のものとの情緒的な結びつきが、人を感動させるとしたら、それは音楽を聴いているのではない。
Mahlerについて、ある部分それがいえる。
逆にMahlerをそうでない様に聴く、新鮮な耳で聴くことは困難だった。(今でもその困難さはなくなった訳ではないが。)
けれども、今やそうした連想から離れて聴く事も不可能ではない、と。
しかしそれにしても、音楽外的なものを(己の私的な経験は除外しても)完全に無にするのは困難だろう。
(ジュリーニの演奏のあの―自分では見たことの無い―風景の生々しさを考えよ。)
Mahler、生きる意志、少なくとも糧にはなる。IX、そして大地の歌、否V-2やVIも。
今朝、夢の中でII-5の最後の部分が流れた。
テンポは自分がコントロールしていた。とても速いテンポで最後まで到達する。
II は、意識のレベルでは、ずっとずっと疎遠だ。なのに何故?途を歩いている。緑の鳩が横切る。その羽は
杉のような針葉樹の木の葉のようだ。
かつて、私は無人の沈黙する自然のうちにいた。そこには他者はいなかった。
かつてマーラーを聴いた私は、何を聴いていたのか?
今、私は他者がいる世界にいる。他者がいる世界では、自分の行為は(無作為も含めて)
他者への働きかけ(やその欠如)として測られる。すでに倫理的な空間。(cf.Levinas)
今、マーラーを聴く私はかつての私ではない。マーラーは世の成り行きには出会っていたが、
他者に出会っていたのだろうか?
かつての私のほうが、寧ろマーラーに相応しい聴き手ではなかったかという疑問は残る。
ただし、自意識がなければ、常に行為は無償で、結果は偶然だ。
(自)意識がなければ、倫理はない。倫理はメタレベルの推論を要求する。
スマリヤン-津田のレベル4の推論者。逆に、レベル4の推論者は、すでにあらかじめ倫理的な
存在なのではないか?
だが、それもまた、他者が世界に存在してのことだ。
確かに、レベル4の推論者でなければ、その世界には「痛みを感じる」他者はいない。
だが、無人の沈黙する世界に、「美しい」自然のうちにいるときは?
そのときは、実はレベル4の推論者は「消滅」しているのだろうか?
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