2007年12月31日月曜日

備忘:聴取について

聴くことの中に行為を持ち込める。単なる受動ではない。娯楽でも気晴らしでも、知的な遊びでもない。

音楽のうちですら、行為論と認知論との間には溝があるように思える。享受の極の議論と、制作(作曲および演奏)の極はやはり別れる。そして認知自体を論じるのか、認知される内容(音楽に表現されているもの)を 論じるのかの分裂もある。もともとは後者がやりたかったのだ。だが、前者の比重も大きくなっている。前者の方が、寧ろAIやプログラミングの問題と結び付けやすくなっている。後者の内容の問題は、要するにクオリアの問題だが、これはなかなか結びついてこない。

さまざまな音楽。ある個体の受容についていうのであれば、いつその音楽に出会ったのか?音楽には言語における母語と第2言語の習得のような差異はないのだろうか?新しい音楽、異なるタイプの音楽に出会い、その仕組みを理解し、そこから何かを学ぶことはできる。だが、それを表現の媒体とすることについてはどうだろうか?あるいは表現されたものを受容するという過程については?

一方で、可塑性を信頼する立場もある。何歳になったら言語の習得が困難になるのか、 母語・第2言語の差異というのは結局、一般には程度の問題ではないか(私の場合はそうではないが) 母語以外を表現の媒体とすることだって可能ではないか、と考えることもできる。

その一方で、あるシステムが他のシステムよりも合理的で強力だ、ということはないだろうか。そうだとしたら、これはどちらを先に受容して、内部のネットワークを形成したか、という問題ではない。今度は可塑性が力を発揮する。そして、あるシステムはその可塑性をより発揮させやすいシステムを持っている、etc.

あるいは、作品を作る仕組みとして強力であるがゆえに、より力を持つ作品が作られやすい。ある文脈、ある目的のためでない音楽、というのが可能なこと自体、そのシステムの強力さを表していないか?

勿論、ある個体がそうした強力なシステムを受け容れるか、拒絶するかは別の問題だ。

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悲しみを、怒りを、感情や気分を読み取るというとき、実際に悲しんでいるのか。だが確かに悲しみの構え、枠のようなものは構成される。悲しみが表現されている、というのはどういうことか?志向的対象は明らかでない。悲しみを引き起こす原因は不定のまま。
悲しみの志向的な構えはある。が充実されるべき対象はない。ある意味では逆向きの流れ、「型から入る」―文脈に応じて対象が見つかるかも知れない。ある旋律を聴いてしかじかの感情や気分になる、というのは、タブララサではなくて、文化的伝統の枠組みの中で起きている。幾分かは生理的基盤を持つが、概ね文化的なもの。幾分かは記号なのだ。慣習的なコード。共有されている場が存在する。例えばショスタコーヴィチと私の間にそれは実在する。それの如何にして、の部分はある種の模倣に基づいている。喚起される感情と、表現されているとされる感情、ここでは専ら前者が問題。形式や構造の把握―完全に知的なもの。だが、期待―充足のような図式がある。期待―充足は行為に関わる構えのことクオリアは機能主義的に考えると、随伴的なものと言っても良い。運動感覚、時間意識も結局そこで生じる構えのある側面に過ぎない。感情や気分、情動の側面を抑制すると浮かび上がる。要するに構えのどの側面を強調するかの問題。

背景を知ることによって音楽的イベントとそれにより生じる構えについて、ある解釈を することができ、それは作者の側で意図されたり、あるいは実際に生じていたものの モデルとなりうる。だがそれは副次的で二次的な構成に過ぎない。

悲しみの原因が(対象が)認知主体の側にあれば、悲しみの枠を用意する音楽が 本当の悲しみを惹き起こすかもしれない。だがこのとき悲しみの原因は曲ではない、曲は対象ではない。表現された怒りは怒りの指向のみが結晶して残っていて、対象は落ちている。音楽とは空虚な志向、感情の抜け殻なのだ。

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何度も聴くことは、一度しか聴かないこととは異なる。ある「部分」を再度聴くことは、そこを「部分」として、全体の脈絡の中で聴くことなのだ。更には他の曲の中に位置付けて、勿論、他の作曲家の作品の中に位置付けてという延長も可能だ。聴き手の聴取時の文脈もあるだろう。かつて聴いた時の文脈の想起もあるだろう。これが中心になってしまえば、音楽を聴くのではなく、過去の経験を想起するトリガーとして(検索のキーとして) 利用されることになる。尤も、その場合にキーと内容の関係は様々であるだろう―ある情緒、感情の喚起という形を とるかも知れないから。

だが、作品の内部に文脈を限定しても、その部分はまさにその「場所」に位置付けられる。一度そうした経過のうちで聴いてしまえば、その部分のみを取り出して聴いたらどうなるのかを考えるのは少なくとも 困難を伴う。音楽自身が、再現するとき、過去を想起するのだ。再現は同じものではありえない。Da Capoは時間の静止を、中断された継起の再開を告げる。それは時間の経過を「変わっていない」という形で告げ、ついで帳消しにする。発展変奏の類における、あるいはソナタ形式の再現はDa Capoではなく、同じものではない。それは非可逆の変化を告げる。Da Capoは主体にとって外在的だ。それは主観的な時間の経過と「外側」の出来事の経過の不一致を告げる。

だがレントラーの三部形式をそのように捉えるのは、既にある立場を、それを単なる舞曲として、踊るための音楽として 考えないことを意味する。舞曲は一旦、直接的に身体的なものから、心理的なものに抽象され、更に、主体と外部との あり様を記述する現象学的な音楽になる。だからこうした見方は、どこにでも適用できる訳ではないし、適用できてもそれはある種の誤読、少なくとももともとの 機能からかけ離れた読みだ。

ところで「もともとの機能」というのにこだわる必要は「作曲者」を記述する系の中に取り込むのでなければ、 全く無いことになる。「作曲者」を記述する系の内部に取り込むケースはほとんどない。だが、現象学的な音楽の場合、この場合については「作曲者」を内部に取り込まねばそうした記述が困難であるかの ようだ。音楽の内容における「主体」は、勿論、作曲家自身ではない(寧ろ、聴き手であるといった方が良い)劇音楽と異なって、叙事的な広がりを有するとは言っても、それは描写的な客観性からは遠い。パースペクティブは主観の意識のそれで、観客のそれではない―そうしたパースペクティブが現象学的という 所以なのだ。

例えば、気づかれずに聴かれている動機の連関を意識すること、明らかにすることはどうなのか?それは引用を知っている/知らないとは些か異なると言えるかも知れない。少なくとも、それは無意識には聴かれていて、作品のコヒーレンスの認知にどこかで寄与している可能性が高い。勿論、それを意識しなくても作品を聴くことはできる。(演奏の場合も多分同じだ。)だが、作品が「何故」「如何にして」あるプログラムを表現していると言い得るかを説明しようと思えば、 どうしてもこうした連関を明らかにしていく他に方法はなかろう。それが、作曲者自身に気づかれていたかどうかすら 問題ではない。

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